ソフィさんのクチコミ(2ページ)全45件
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投稿日 2005年05月15日
インターラーケンからユングフラウ行の電車に乗り、ミューレン行が分かれる駅がカンデルシュテーク。
小さなホテルばかりで、眺望も良くないが、駅の間近で電車の便利が良い。
初めて泊ってみたが、落着いていて、まずまずのサービスだった。- 旅行時期
- 2001年08月
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投稿日 2005年05月11日
シンガポールで一番感動したのは、自転車サイドカーでのインド人街散歩。
夕方の涼風を受け、低い視点から街を眺めると、夢が涌いてくる。
視点の高さが変ったり、視点の動く早さが変ったりすると、今まで見えなかった世の中が見えてくる。
その実感がはっきり掴めた。- 旅行時期
- 2000年01月
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投稿日 2005年05月11日
モナコのコインを一度見たい。
私は街のキオスクを狙う。
やさしそうなおじさんを見計らい、
「モナコのコインを見つけたいのだが・・・」
やや戸惑ったおじさんは、やがてコイン箱を机上にザラザラッとあける。
おじさんは目を瞑り、胸に十字を切って、「大仕事」に取り掛かる。
うまく見つけたときの、おじさんの勝ち誇った顔。
私は大切に紙に包み、胸の奥底にしまい込んだ。- 旅行時期
- 1987年09月
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投稿日 2005年05月10日
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投稿日 2005年05月07日
ワーテルローからブラッセル空港まで、鉄道利用のアプローチに挑戦する。
しかし30キロ近いトランクは還暦を過ぎた私にはさすがに重く、特に階段ではほとんど絶望を感じた。
そこに現われたのは、黒人の若者。
ニコニコと重いトランクを持ってくれ、ブラッセル・ミディ駅の乗換えも手伝ってくれたおかげで、空港駅まで無事たどり着いた。
この若者は、旧ベルギー植民地のザイール(現在今後民主主義共和国)出身。
私がザイールに暮らしたとき、たくさんの子供たちにソフトテニスを教え、仲良くなった。
ひょっとすれば私の名前を知っているのではと訊いてみたが、黙ってニコニコ笑うだけだった。
旅先ではたくさんの親切に接するが、これほど親切な人と接するのは稀である。- 旅行時期
- 1993年05月
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投稿日 2005年05月05日
キエフからワルシャワに飛ぶ。
キエフの空港で親切なポーランド人が、
「ポーランドには実勢レート両替(ヤミドル買)が盛んだが、人によってレートに大差があるから注意なさい」
と忠告してくれる。
ホテルの玄関で、早速両替屋さんにつかまった。
トイレに連れて行かれ、交渉。
相手の提示に25%ほど吹きかけてみたが、簡単にOKだった。
その後町に出て、ショーウィンドウを見るたびに両替屋さんの来襲。
結局ホテルで最初に出されたレートより、50%ほど高いレートで両替をした。- 旅行時期
- 1970年05月
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投稿日 2005年05月05日
大成功とされるストラスブール市電(LRT)を見て、カールスルーエに足を伸ばしました。
ここの市電はもともと発達していたのですが、ドイツ国鉄の郊外電車と線路を結び、お互いに乗り入れることで、町が俄然元気になりました。
その実情を見たいと思ったからでした。
日本でも、新幹線が出来て、あちこちの在来線にゆとりが生まれます。
「そのゆとりを活用して、もっと便利な電車が出来ないものか」
が、私の課題です。
この問題は、いずれ別の機会にご報告しますが、駐車場で驚いたことがありました。
「入口で渋滞の場合、エンジンを止めて下さい」
の表示です。
日本ではお目にかからないもので、なるほどドイツの環境保護は徹底しているなと、感心しました。- 旅行時期
- 1997年06月
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投稿日 2005年05月04日
スフィンクスは、子供をさらうと言う話を聞いたことがある。
ところが、まさかスフィンクスの前で、自分の子供がさらわれるとは。
ギザで起こった出来事。
車から降りたとたん、疾風のように現われた男が、子供を抱きかかえて、走り去って行く。
私は血相を変え、夢中になって追っかけるが、男の方が早くて追いつけない。
この男は、観光ラクダ乗りの、客引きだった。
ようやく追いついたとき、子供はラクダに乗せられ、ニコニコ笑っていた。- 旅行時期
- 1970年04月
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投稿日 2005年05月04日
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投稿日 2005年05月03日
コペンハーゲンの家庭宿
コペンハーゲンの名物に、家庭宿がある。
一般市民が、自宅の空き室をホテル代わりに開放し、客を泊める。
朝食しか付かないが、一種のペンションと見ても良いだろう。
安い上、家庭の様子も知ることが出来る。
これを利用しない手はない。
中央駅の案内所で、家庭宿を訊ねて見たら、早速手配してくれた。
ホテルの予約とまったく同じ感触である。
市電に乗って番地を頼りに訪ねたら、住宅街の中にある、普通のアパートだった。
ベルを鳴らし、出てきたのは、主婦とおぼしき女主人。
客に慣れたホテルと違い、少し緊張気味だ。
この家は、夏休み中子供がいないので、その一室を客用に利用している様子。
私はただ一人の客である。
通された部屋は、子供の勉強机とベッドがいつもの通り置かれ、改まった気配はない。
ふと机上を見ると、一冊の教科書らしい本が開かれている。
それは地理の本で、日本の記事が開かれていた。
ところが驚くことに、日本の光景として、ちょんまげの車夫が人力車を引き、高島田の女性が乗っている。
翌朝朝食時に、この驚きを話したら、たいへん参考になると喜ばれた。- 旅行時期
- 1970年08月
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投稿日 2005年05月01日
EU憲法批准をめぐるフランス国民投票−若者との対話その後
シラク大統領の、テレビ生放送での若者との対話との結果はどうなったのか。
ル・フィガロ紙によれば、批准支持がさらに2%下がって、45%にまで低下した。
フランス政府も、さぞ頭が痛いことだろう。
しかも、支持者の78%。反対者の82%が、これからも考えを変えないと言っている。
投票結果は、52%が否決、24%が可決と予測。
EUの将来について、不信41%、希望的34%、信頼15%、恐怖的9%。
同じ世論調査で、批准投票が可決された結果としては、
より暮らし難くなる55%、暮らしが良くなる27%。
EU内におけるフランスの立場は、より強くなる38%、より弱くなる43%。
と予測されている。
国民がそれぞれが異なった個性を持ち、それを評価しあうフランスを、相変わらず尊敬し続けたいが、この国民投票がどのような結果をもたらすかに注目したい- 旅行時期
- 2005年04月
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投稿日 2005年05月01日
シラク大統領と若者の対話−EU憲法批准をめぐって
4月14日(13日?)夜。シラク大統領が80余名の若者を大統領官邸(エリゼ宮)に招き、テレビ実況放送対話会を開いた。
EU憲法批准の可否を問う国民投票は、6週間後に迫っている。
その一方、国民投票を決めた時に50数%だった批准支持率がその後減り始め、50%を割り込んだと驚いているうちに、ついに47%にまで低下した。
この傾向に強い危機感を抱いた大統領が、先日の日本滞在中に、フランス国民に向けテレビメッセージを発している。
外国訪問中のトップが、記者会見以外に滞在先から自国民に向けてメッセージを発するのは異例と感じられ、私は内心驚いた。
そもそも憲法の批准方法は各国の判断に任されていて、議会通過を選んだ国が多いはずだ。
あえて国民投票を選んだフランスは、それなりの自信があったのだろう。
支持率は昨年の12月57%、今年3月60%だった。
その自信が覆されようとしている現状は、よほどの危機なのだろうと推察する。
シラクさんは、若者に熱く訴える。
「今世界は改革期を迎えている。
第一に、国境の影が次第に薄くなりつつある、いわゆるグローバリゼーション。
もう一つは、アメリカ、ロシア、中国、インド、ブラジル(日本は入っていなかった)などに見る、大国主義の台頭。
いずれにせよ、フランスがこれから生きるには、ヨーロッパと言う基盤が不可欠だ」と。- 旅行時期
- 2005年04月
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投稿日 2005年05月01日
午前零時を過ぎて、夕焼けが真っ赤に西の空を染めている。
その不思議な美しさに見とれていると、思いがけなく列車は停まり、駅名票にナルヴィークと書かれているではないか。
ビックリした私は、慌てて飛び降りるように列車を捨てた。
私の時計は1時なのに、ローカルタイムは午前2時。
国境を越えて、時計を一時間進めることを知らなかったのだ。
西に向かって走っているのに、時計を進めるのは、サマータイムの悪戯らしい。
薄暗いホールに人影はなく、改札の柵に行儀悪く一人の男が腰掛けているだけだ。
腕には錨の刺青。船乗りだろうか。
しかし今夜の宿を確保しなければならない私は、恐る恐る声をかけてみる。
「この町のホテルを教えてもらえないか」
「こんな遅くに、開いているホテルなんてないよ」
そこに今まで乗っていた列車の車掌が通り過ぎ、私は軽く会釈する。
すると刺青の男は幾分表情を和らげ、
「良かったらこの駅に泊るかい」
私は、昨夜は寝台列車だったから、今晩はゆっくりベッドに寝たいと思っていた。
だから、こんな殺風景なホールに寝るとは情けないと、たじろいだ。
しかし、「ちょっと待て」と言った彼が交渉してくれたのは、駅の二階にあるゲストルームだった。
部屋は広く、清潔で、おまけに一泊1ドルを切る安さだ。
私は駅員の親切な言葉に甘え、ここに二泊。
丘に登ったり、街中を歩いたり、北国の町の寒々した風景を、堪能した。- 旅行時期
- 1970年08月
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投稿日 2005年05月01日
スウェーデンの車中にて
フィンランドのヘルシンキを午後出発し、翌々早暁にノルウェーのナルヴィクに到着するスカンジナヴィア特急。
誰も来ないコンパートメントに一人。
窓外には、北国の疎林がどこまでも続いている。
過去や将来を想いながらいる内に、レールの音は次第に日本の軍歌を奏でてきた。
数日前ストックホルムの遊園地で聞いた音楽が、重なっているようだ。
日本の軍歌も日清、日露、第一次大戦、第二次大戦と、時代とともに勇気を鼓舞するものから、哀調を帯びるものに変化したようだ。
夕方食堂車に行くとがらんどうで、客は私以外ただ一人。
車掌が気を利かせ「お二人一緒が良いのでは」と、合い席を薦める。
この人は、スウェーデンを、ということは世界的な、スキーの長距離選手だった。
「日本はどうして長距離に弱いのでしょうか」
「たしかに長距離を学ぶためにこの国にやって来ているM君は、人柄は立派だけれども唯一欠点は、スキーの下手なことですね」
Mさんは、私でさえ名前を知っている、日本の長距離ナンバーワン。
そろそろ北極圏に入る頃だ。
いつまでも明るい窓外を見ながら、アクアヴィットの酔いにまかせ、話はいつまでも尽きない。- 旅行時期
- 1970年08月
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投稿日 2005年05月01日
ローマで一番安い宿をと、案内所に言ったら、二食付きで2ドルを切るホテルが見つかった。
案内書からもらった住所を頼りに、訪ねると、思いのほか立派な構えである。
この建物の六階、七階がホテル。
最初に戸惑ったのは、エレベーターが有料のこと。
5リラのコインを入れないと、動かない。
夕食のパスタを楽しみにしていたが、ニョッキ。
すいとん団子のような食感は、麺類を期待していた私を失望させる。
しかし、安宿の食堂に集まる人たちには、一種独特の味がある。
それぞれ、人生の味が十分に沁み込んだ風貌は、まずい食べ物の味をリカバーして、なお味がある。- 旅行時期
- 1970年10月
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投稿日 2005年05月01日
せっかくサウナの本場フィンランドに来たのだから、経験してみようと思い立つ。
同じならば、場末が面白いと、ヘルシンキの市電に乗り終点に降りた。
すると、横丁に見つかった「サウナ」の看板。
浴室に入ると、皆さん地元の人ばかりのようだ。
サウナに入って熱くなった全身を、月桂樹の枝に水をつけながら身体を叩いて、冷やしている。
その隣に、人が寝そべっている。
おさんどんの(男サウナなのになぜか)おばさんが、その人に石鹸をいっぱい塗りつけながら、洗っている。
気になるのは、客が全裸体で、大切なものも露出していることだ。
僕も一度経験してみよう。
申し込んでしばらく待つと、順番が来た。
寝転ぶや否や、前を隠していた僕のタオルをパッと剥ぎ取り、おばさんは哄笑する。
もう、されるようにさせて、身を任せるほかはないと、半ばあきらめ目をとじる。
するとおばさんは、やおらへそを洗い始める。
指をへそに入れて、ぐるぐる回し、深くまで洗っている。
「へそは触るな。おなかが痛くなるから」
と、親から教育されている僕にとって、初めてのへそ洗いは不思議な感覚だ。
終わった後、心配していた腹痛は起こらなかった。
だだし、黒いものとばかり思っていたへそのゴマが、白くなっているのに驚いた。
黒いのは、汚れだったらしい。- 旅行時期
- 1970年08月
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投稿日 2005年05月01日
イグアスの滝の帰り、美味しいと聞いていたアルゼンチンのビフテキを求めて、国境を越える。
国境にはたくさんの店が集まり、町が急成長している。
国境を挟む両国間に、物やお金の流れを妨げる何かがあれば、そこに町が生まれるようだ。
お目当てのビフテキは、期待以上に美味しく、分厚く、何よりも安かった。- 旅行時期
- 1996年06月
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投稿日 2005年05月01日
世界一の人口集積が予想されるメキシコシティ。
私は朝の冷気を胸いっぱい吸い込みながら、散歩を楽しいんでいた。
早朝なので人影はない。
そこに現れたのは、靴磨き。
ウォーキングシューズの靴磨きだなんて、どんなことをするのだろう。
場の不自然さに気づきながらも、好奇心で靴磨きを頼む。
やがて、二人、三人と、私の周りに人が集まり始める。
危険を感じた私は、逃げるにしかずと、ホテルを目指して走った。
追っかけてきた彼らに、横胴を蹴られながらも、ホテルに転がり込み、危険を脱した。- 旅行時期
- 1987年06月
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投稿日 2005年05月01日
娘が、インドネシアの最貧地区をと選んだのは、東フローレス郡だった。
「学校に机がなく、前の人の背中にを机代わりにしてるのよ」
この報告に驚き、早速サッカーボールをと、10万円寄贈する。
しかしそれは、現地の希望で、地図と辞書類に変った。
子供たちの嬉しい顔は、「google」で「片瀬貴文」を検索すれば、ご覧いただける。
この話を聞いた大阪北ロータリークラブは、机の寄贈を思い立った。
父兄たち自ら工作するので、机一脚200円と安かった。- 旅行時期
- 1999年06月
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投稿日 2005年05月01日
キエフで驚いたことは、日本語の通訳がいることだった。
しかしこの人は休暇中とて、第二希望のフランス語の美人通訳がついた。
この通訳が素晴らしく、私が希望した「中流家庭訪問」「結婚式視察」を、テキパキと段取りしてくれる。
この通訳のお陰で、たった一日で、私はすっかりウクライナの虜になった。
夜はサーカスを見に行く。
モスコーのサーカスとどんなに違うかが興味。
差は、観客の和やかな雰囲気だった。
翌日共産党支部書記長から、メーデーへの招待状が届く。
「一番良い席を確保していますから、ぜひお越しください」- 旅行時期
- 1970年04月