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jijidarumaさんのクチコミ(4ページ)全659件

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  • ウィーン:グリンツィングのホイリゲ酒場、3時間半の飲み会を“Zum Martin Seppツム・マルティン・ゼップ“で

    投稿日 2015年08月25日

    ツム マーティン セップ ウィーン

    総合評価:4.5

    南ドイツとオーストリア周遊の旅       
    ( 2004年4月21日~5月4日 :2週間 )
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世  と 
     オーストリア皇后 エリザベート ----愛称 “シシィ” を 巡る旅* 

    4月26日(月)

    今夜はグリンツィングのホイリゲ酒場にご案内です。できたてのワインを飲ます酒場をホイリゲ---今年のという意---と呼んでいます。実際は毎年11月11日に解禁ですので、季節的には外れていますが、行って見ると、バスで来た観光客でそこらの酒場は一杯です。

    Grinzingグリンツィング---Heurigeホイリゲ“Zum Martin Sepp・ツム・マルティン・ゼップ“は以前にも来た店で、子供ずれでも、あまり違和感もありません。

    入ってみると庭には人がいっぱいで、楽人がシュランメルという19世紀にウィーンで広まった、大衆音楽をやって賑やかです。少し寒かったこともあって、我々は建物の中で食事を摂ることにしました。

    スピリッツのシュナップス、ビール、ワインをやりながら、居酒屋にぴったりのハム、ソーセージ等の料理やビュッフェカウンターでチーズ、豆、ポテト等の好みのものを取ってきて食べ、3時間半の飲み会は話も弾み、みなさんとてもご機嫌でした。
    店内を見るともう人が居なくなりつつある時刻でした。Euro100の宴も終り、それからが、又大変です。

    一方通行の道を出ざるをえなくなり、出たら道に迷い、丘の上の古城ホテル ヴィルヘルミネンベルク城に帰るのに苦労しました。私は酔った訳ではありませんが?!----最初のシュナップス、40度位の蒸留酒ですが---効いたようですね。 (18:30~22:00)

    ほんのちょっとの近さであったはずでしたのに?!!!  

    (更新:20240904)

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    一人当たり予算
    5,000円未満
    利用形態
    ディナー
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    4.0
    雰囲気:
    4.5
    料理・味:
    4.0

  • グラーツのシュロスベルク(城山)=要塞はオスマントルコ軍の来襲に備えて築城され、難攻不落を誇った。

    投稿日 2024年08月30日

    シュロスベルク グラーツ

    総合評価:4.5

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇妃 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    <2004年4月24日(土)朝は小雨、曇り後晴、時々シャワー、246km>
    Graz 13:30、グラーツ午後市内観光:エレベーターで城山へ。時計塔、
    昼食“Aiola”14:40-15:40、武器博物館、州庁舎、市庁舎、ハウプト広場、
    ヨハン大公像、劇場、王宮、Cafe17:20-17:50、グロッケンシュピール
    (仕掛け時計)18:00。 

    Grazグラーツは日本人観光客にはあまり知られていない町だが、22万人程(我が故郷青梅市と同じぐらい)の人口をもち、ウィーンに次ぐ、この国第二の都市なのです。
    手元の昭文社オーストリア・ハンガリー2003年版でもオーストリアはウィーン、ザルツブルク、インスブルックといった有名所に比して、リンツ共々グラーツは扱いも少ない、たった9頁の観光案内になっていた。 
    州都であり、大学都市とも言われ、俳優アーノルド・シュヴァルツェネッガーや指揮者のカール・ベームの出身地とのことで、なかなかの都市なのだ。

    茶色の屋根の波が続いている町並みは大変きれいなもので、町中を流れるMurムーア川(全長464km)で新・旧市街が分かれている。
    そのムーア川の中州に妙なドームのような建物があった。一見して、シュヴァルツェネッガーが“寄進”したものかと思った。
    「ムーア川に浮かぶ貝」という名のMurinselムーアインゼル(ムーア島)だ。2003年、この年の「欧州文化首都」にグラーツが選ばれたことを記念して建造されたそうだが、昨年の完工だけにまだ新しいが、奇妙な形がこの町にそぐわないようにも思えた。
    ムーアインゼル(ムーア島)は長さ約50m、幅約20mで、人工の中洲に2本の桟橋でもって、両岸とつながっている。建物の中にはカフェとシアターがあるそうだ。
    この時はただフーンと思って、写真に撮っただけだ。

    さて、旧市街にある古城ホテルSchlossberg Hotelにチェックインし、車もパークハウスに入れてもらい、早速、市内観光に出かける。ホテル近くの岩盤をくりぬいたリフトで、城山に上る。グラーツのシンボルである時計塔をみて、市内の眺望を楽しんだ。

    <Schlossbergシュロスベルク(城山)とUhrturm時計塔>
    シュロスベルク(城山)は旧市街の北部、海抜473mの高さにあり、かつて欧州を悩ませたオスマントルコ軍の来襲に備えて、皇帝Ferdinand Iフェルディナント1世(1503~1564年)によって築かれた城塞は、全時代を通じもっとも堅固な城塞とされている。
    19世紀初頭、皇帝ナポレオン1世(1769~1821年)でさえも、この城塞を陥落させることができなかった。1809年、ナポレオン軍がウィーンを占領したため、グラーツも降伏せざるを得なかったと云う。降伏時、要塞の施設は今に残る鐘楼と時計塔を除いて全て破壊された。
    28mの塔に掲げられた時計は、1712年来、正確に時刻を刻み続けていると云う。
    (オーストリア観光局の資料参考)

    ・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.5

  • グラーツで見たかったのは州立武器庫、見事な彫り物がある銀製の甲冑が気に入った。

    投稿日 2024年08月28日

    武器博物館 グラーツ

    総合評価:4.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇妃 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    <2004年4月24日(土)朝は小雨、曇り後晴、時々シャワー、246km>
    Graz 13:30、グラーツ午後市内観光:エレベーターで城山へ。時計塔、
    昼食“Aiola”14:40-15:40、武器博物館、州庁舎、市庁舎、ハウプト広場、
    ヨハン大公像、劇場、王宮、Cafe17:20-17:50、グロッケンシュピール
    (仕掛け時計)18:00。 

    *Grazグラーツに向かう。Radstadt を経由し、時折の雨シャワーの中、エンスタール渓谷をぬけ、山間の村々も目覚めだした春を感じさせて、快い運転が続く。途中、Groemingと言う小さな村落で、コーヒータイムを取る。渓谷中流の城、Trautenfelsトラウテンフェルス城を---ちょっと、寄り道をしたい城でしたが----横目に、ひたすらグラーツに向けて走る。国道から、さらに高速道路にのり、延々と続く、滑り台のような、下りの高速道路を一路、グラーツへ走る。凡そ250kmを走り、13時半、ホテルに到着する。

    Grazグラーツは22万人程の人口をもち、ウイーンに次ぐこの国第二の都市です。
    州都であり、大学都市とも言われ、俳優アーノルド・シュヴァルツェネッガーや指揮者のカール・ベームの出身地とのことだ。
    茶色の屋根の波が続いている町並みは大変きれいなもので、町中を流れるムーア川で新・旧市街が分かれています。

    旧市街にあるホテルにチェックインし、車もパークハウスに入れてもらい、早速、市内観光に出かける。ホテル近くの岩盤をくりぬいたリフトで、城山に上る。グラーツのシンボルである、時計塔をみて、市内の眺望を楽しむ。

    リフト傍のレストランで簡単な食事をすませ、町中の州立武器庫(武器博物館)をさがす。
    地図を見誤ったか?通り過ごしてしまった。

    【グラーツで見たかったのは州立武器庫(武器博物館)】

    15世紀オスマントルコへの東の砦として、グラーツは重要な位置を占めていた為、この5階建ての建物一杯に、世界最大(3万点以上の展示)と云われる武器が集められた。
    甲冑、槍、銃、刀が各階に一杯である。
    見事な彫り物がある銀製の甲冑など、私には大変興味深いものであったが、女性陣には面白みが無かったか?


    ・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    5.0

  • シュタルンベルク湖畔のBergベルクはルートヴィヒ2世の終焉の地である。

    投稿日 2024年08月26日

    ヴォティーフ礼拝堂と記念十字架 バイエルン州

    総合評価:5.0

    【シュタルンベルク湖畔のBergベルクはルートヴィヒ2世の終焉の地である】

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *バイエルン国王 ルートヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇妃 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    (2004年4月21日-5月4日)

    5月02日 (日) 曇り、後晴 78km

    朝食8:30、ホテル・カイザリンエリザベートをスタート9:30、行程は昨日と同じ= 60km予定、ミュンヘン市内観光:アルテピナコテーク美術館・昼食“アルテピナコテーク・カフェ”・ノイエピナコテーク美術館、=>Bergベルク:ルートヴィヒ2世終焉の地、礼拝堂、Hotel Schloss Berg のカフェ16:10-16:40、ホテル・カイザリンエリザベート17:00。 

    *ミュンヘンには心残りもあるが、これを残してはいけないと、シュタルンベルクゼー・フェルダフィングの対岸にあるBergベルク・・・*Ludwig II.ルートヴィヒ2世の終焉の地・・・に車を走らせる。

    Hotel Schloss Berg 古城ホテル シュロス ベルクの駐車場に車をおき、徒歩で水辺にあるという最後の地に向かう。登り降りの村の道を通り、森の中の道を行くと、目の前にルートヴィヒ2世のVotivkapelle(奉納された)礼拝堂が出てきた。
    礼拝堂の正面玄関下の湖畔に、水際から数メートルの位置に、十字架が立っている。
    折から急に雨模様の暗い天気になり、水面は暗い。

    1886年6月12日、ルートヴィヒ2世は*精神的障害ありとして、40歳の王は逮捕され廃位されたのち、ベルク城に幽閉された。
    翌13日朝、ルートヴィヒ2世は医師のBernhard von Guddenベルンハルト・フォン・グッデンと共に散歩に出たまま帰らず、雨も激しく、暗い湖上に其の遺体が発見される。いまだに、二人の死は自殺か、他殺なのか、不明で、謎の死となっている。
    公式発表に従うところによると、1886年6月13日にベルク城から遠くないシュタルンベルク湖にて溺死したという。
    その後、亡骸が発見されたシュタルンベルク湖畔にはルートヴィヒ2世を偲ぶVotivkapelle(奉納された)礼拝堂が建てられ、岸に近い湖面に木製の十字架が建てられている。

    *Ludwig II.ルートヴィヒ2世(1845年8月25日 - 1886年6月13日)は、第4代バイエルン国王(在位:1864年 - 1886年)。戯曲・オペラに魅了され、長じては建築と音楽に破滅的浪費を繰り返した「狂王」の異名で知られる。ノイシュヴァンシュタイン城やバイロイト祝祭劇場を残し、後者には文字通り世界中より音楽愛好家が集まっている。若い頃は美貌に恵まれ、多くの画家らによって描かれた。

    シュタルンベルク湖の観光船の船着場もある、*古城ホテル シュロス ベルクのテラスでコーヒー、カプチーノ、アイスコーヒーを飲み(EURO 20)、近くを気持ち良さそうに、ボートを漕ぐカップルを眺めて、ゆったりとした時間を過ごす。

    終焉地にいた時は暗い、ぽつぽつと雨が降り出した天気でしたが、不思議な事に、ここは青空に、明るい陽の光です。もうテラスは客でいっぱいです。

    *Hotel Schloss Berg 古城ホテル シュロス ベルク
    D-82335 Berg、Am Oelschlag 9、
    TEL:49(0)8151-9630

    4年後、2008年4月18日(金)~20日(日)に2泊した。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    * Luitpold von Bayernルイトポルト・フォン・バイエルン(1821~1912年)はノイシュヴァンシュタイン城(新白鳥城)で知られるバイエルン王ルートヴィヒ2世の叔父にあたり、1886年6月10日、ルートヴィヒ2世は精神病であると宣言された際に、王国の摂政(Prinzregentプリンツレゲント)となった。国民に人気もあって、各地にその名を付けた場所も多い。
    但し、ルイトポルトは1912年に91歳で死去するまで摂政の地位にあった。摂政の地位は長男ルートヴィヒが嗣いだ。
    摂政ルートヴィヒは翌1913年にルートヴィヒ2世の弟でバイエルン王だったOtto Iオットー1世(1848~1916年)を廃位し、自らルートヴィヒ3世(第6代バイエルン王:在位は1913~1918年)として即位した。

    =>ルートヴィヒ2世の死は破滅的浪費を繰り返した「狂王」の一面も影響したのだろうが、叔父一族との闇に隠れた政治的争いがあったように思える。

    ・・・・・

    【Schloss Berg シュロス ベルク】
    Bergベルク、 Landkreis Starnbergラントクライスシュタルンベルク、Oberbayernオーバーバイエルン、 Bayernバイエルン、
    Wittelsbacherstraße 29ヴィッテルスバッハーシュトラーセ29、
    Nähe Parkwegネヘ パークヴェーク

    Schloss Bergベルク城は、南ドイツのバイエルン州にあるシュタルンベルク湖の東岸に建つ城である。
    (前述したHotel Schloss Berg 古城ホテル シュロス ベルクとは違っている)

    バイエルン選帝侯Ferdinand Maria von Bayernフェルディナント・マリアが1676年にFamilie Hörwartホルヴァルト家から土地を買い取り、城を建てたのが始まりである。豪華なパーティや狩猟大会などでこの城がもっとも栄華を極めたのはMaximilian II. Emanuel (Bayern)マクシミリアン2世エマヌエルと Kaiser Karl VII.神聖ローマ皇帝カール7世の時代であった。

    1849年から1851年にかけて、バイエルン王マクシミリアン2世は新たに土地を買い足し、王室建設官Eduard von Riedelリーデルによって大規模な増改築を行った。

    ルートヴィヒ2世はこの城を夏の離宮として利用した。毎年5月11日になると王は居城をベルク城に移し、ここから国政を取り仕切った。このため、ベルクとミュンヘン王宮のあいだには専用の電信回線まで引かれていた。
    1868年、ロシア皇后 Marija Alexandrownaマリア・アレクサンドロヴナ(Marie von Hessen-Darmstadtヘッセン・ダルムシュタット大公女の出)がルートヴィヒ2世の招待を受けてベルクを訪れた。ルートヴィヒ2世はロシア皇后マリアの滞在中、豪勢に準備させたこの城を居城として明け渡したが、その時以外、王自身の生活のためにはむしろ簡素にされていた。
    ルートヴィヒ2世の死後、ベルク城は博物館となった。王の死後よりまったく手を加えられておらず、歴史的価値が高いとして、1939年には記念館に認定された。
    第二次世界大戦直後の一時期、城はアメリカ軍に使用されていた。第二次世界大戦によって特に被害を受け、崩壊した各塔は、1949年から1951年にかけて取り除かれ、城の根本的な改装がなされることとなった。これによって城は塔を失ったが、礼拝堂は手付かずのまま残された。 (Wiki参考:抜粋)

    (2024年8月25日Wiki・HP参考、訳・編集追記)

    旅行時期
    2004年05月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    2.5
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    3.0

  • ハイドンゆかりのアイゼンシュタットには美しいエステルハージ宮殿がある。

    投稿日 2024年08月22日

    エスターハージー宮殿 アイゼンシュタット

    総合評価:5.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇妃 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    2004年4月25日(日)晴、夕方より曇り、242km

    朝食8:00、グラーツ9:15スタート、ATB A2-(Wr.Neustadt) S4-Eisenstadt 11:00 = 160km 、アイゼンシュタット観光:Schloss Esterhazyエステルハージ宮殿12:00-12:50、ハイドン博物館、昼食“Café Esterhazy“13:30-14:30、A3/A2―Wien15:30 = 50km、シェーンブルン宮殿見学:Imperial Tour・庭園 16:00-17:30、古城ホテルHotel Schloss Wilhelminenbergヴィルヘルミネンベルク(4星・2泊)18:00、

         
    *ハイドンゆかりのハンガリー風な町であるEisenstadtアイゼンシュタットはブルゲンラント州の州都です。といっても人口は13千人というもので、わが故郷青梅市よりもずっと少ない(人口比で十分の一)町です。
    オーストリア東部からハンガリーに広がるPannoniaパンノニア地方の平野の中に、この魅力的な町はあります。周辺にはブドウ畑が広がり、温暖な気候にも恵まれて、良質なワインが生産されるとの事です。
    あの Wolfgangseeヴォルフガングゼーにあるホテル白馬亭で飲んだ赤ワインも州は違いますが、大雑把には地域的にここに近いものと言えましょう。
    町には予定時刻に着きましたが、道を間違い、更に悪いことに市民マラソンの眞最中です。一方通行道路を待たされて、何とか宮殿の地下駐車場に車を入れる事になりました。

    【ハイドンゆかりのアイゼンシュタットには美しいエステルハージ宮殿がある。】

    エステルハージ宮殿は1672年にバロック方式で建てられたエステルハージ侯爵の城です。富を背景とした侯爵家のコレクションは見事なものでした。
    又、宮廷文化の担い手として、ハイドンはここの宮廷の楽長を務め、ハイドン廟、ハイドン博物館、ハイドン音楽祭と、今、この町はハイドン抜きでは語れません。

    宮殿内のハイドン広間では地元中学生のオーケストラが熱心に練習をやっていました。
    しばしの音楽鑑賞です。

    <エステルハージ家の歴史>
    Haus Esterházyエステルハージ家 は、中世から続くハンガリーの貴族である。いくつもの分家がある。
    17世紀からハプスブルク帝国、オーストリア・ハンガリー帝国末まで、ハンガリー王国最大の大地主であり、事業家であった
    元はハンガリー王国の北にあるガランタ(現在のスロヴァキア南西部にある一都市)にあるジェントリであった。一族は、エステルハージ・ニコラウス伯爵(1583–1645)と息子のエステルハージ・パール(1635–1713)侯爵の代で台頭する。
    ハンガリーでは姓名の順で名を表す慣習があるため、それに倣った。
    1626年にニコラウスは伯爵の地位を授けられ、1712年にエステルハージ本家は侯爵の地位を与えられた。エステルハージ家の成功は、着実な土地の蓄積と、カトリック教会とハプスブルク家への忠誠に起因する。

    <ハイドンの事>
    Franz Joseph Haydnフランツ・ヨーゼフ・ハイドン( 1732年~1809年)は交響曲の父と呼ばれる。ハイドンはエステルハージ家に楽長として仕えた。
    現在のオーストリア出身の音楽家であり、古典派を代表する作曲家で、数多くの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。

    特筆すべきは弦楽四重奏曲第77番(第62番)の第2楽章にも用いられた皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』の旋律は、現在ドイツ国歌に用いられている。

    <エステルハージートルテの事>
    Eszterházy Torteエステルハージートルテはハンガリーのケーキの一種。
    オーストリア帝国の外交官であったPaul Anton、Fürst Esterházy de Galantha パウル・アントン・エステルハージ・ガランタに因んで名付けられた。
    19世紀後半にブダペストの菓子職人によって考案され、すぐにオーストリア・ハンガリー帝国で最も有名なケーキの一つとなった。


    見物後、宮殿前の“Café Esterhazyカフェ・エステルハージで昼食(EURO 42・・・13:30~14:30)し、その後は一気にウィーンに向かった。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.0

  • カイザーヴィラは皇帝ヨーゼフ1世とエリザベート皇妃の結婚記念に皇帝の両親から贈られた別荘です。

    投稿日 2024年08月15日

    カイザーヴィラ バート・イシュル

    総合評価:4.5

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇妃 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    4月23日(金)オーストリア・Bad Ischlバート・イシュル:
    Kurhausクーアハウス、Trinkhalleトリンクハレ(飲泉場)、Kaiser Thermeカイザー・テルメ(皇帝浴場)、昼食“Sisi Café”、Kaiservillaカイザーヴィラ(皇帝の別荘)、大理石の小城---写真博物館等。

    *スタート時間をゆっくりとしたので、ドイツのケーニヒス湖、Salzkammergutザルツカンマーグートのハルシュタット、ゴーザウ湖を割愛し、ヴォルフガングゼー、バート・イシュルでの時間を多めにした。

    バート・イシュルはオーストリア有数の保養地として知られている。
    Kurhausクーアハウス(レストラン、コンサートホール、カジノが揃う宮殿風建物)の前に駐車し、町中の見物に出かける。
    温泉水を飲む風習が健康法の一つでもあった当時からのTrinkhalleトリンクハレ(飲泉場)であるが、今は夏季のみの営業で、普段は家具屋さんになっている。家内はここで、カーテンを購入する。
    Kaiser Thermeカイザー・テルメ(皇帝浴場)は温泉プールで温泉療養の人たちが通っている。ちょっと、ホールだけをのぞく。

    その後、其の名も“Sisi Caféシシィ・カフェ”にて、遅い昼食となりました。
    Tさんがスイス・ベルン風ソーセージ、私と家内は牛肉のシチュー(Rindsgulaschリンドグーラッシュ)を、Iさんはシシィの串焼きなる物を注文。ビールなどを飲みながら、結構な量の昼食を頂きました。お値段、EURO34と一人1150円也。

    それから車にちょっと乗って、Kaiservillaカイザーヴィラ(皇帝の別荘)へ。

    オーストリア皇帝Franz Joseph I.フランツ・ヨーゼフ1世 (1830年~1916年)は、このヴィラで毎夏を過ごしたそうです。
    1854年エリザベート皇妃(愛称シシィ:バイエルン王家出身)との結婚記念に皇帝の両親に贈られた別荘です。
    このヴィラはエリザベートのEの形に上から見るとなっている(参考写真参照)。
    残念ながら、5月からの開館でした。この為、丘の上にある、皇妃のティーハウスとして建てられた「大理石の小城」と言われる、現在のPhotomuseum写真博物館を見学する。

    折から、女流写真家の特別展があり、昔の写真やら、写真機の陳列を見て回る。
    最上階の映写室ではエリザベート皇妃の愛したギリシャと其の航海、ギリシャの別荘での生活ぶりの映画が上映されていた。大変、興味深い映像でしたが、ドイツ語のナレーションは私には難しいものでした。
    丘の上から、カイザーヴィラは新緑の中、黄色の館が鮮明に見えました。
    エリザベートも丘の上から、こうして見ていたのでしょうか!!!

    (肝心な事を忘れていました。明日がヨーゼフ皇帝とエリザベート皇妃の結婚150年にあたります。1854年4月24日にウイーンで婚儀が行われた事を忘れていましたが、たまたまTさんのエアーメールの為に寄った郵便局で、親切な局員さんに薦められて、買った切手が結婚150年記念切手でした。
    局の裏手で、其の記念切手にスタンプを押すサービスを受けたまま受け取り、エリザベート皇妃に関係した物とはその時は思わずに日本に持ち帰り、改めて見て、シシィの旅に相応しいものを買ってきたのだと思った次第です)

    ・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.0

  • ヴァッハウ渓谷:念願の5星の古城ホテル デュルンシュタインに泊まり、夕食を楽しんだ。 

    投稿日 2024年08月09日

    ホテル シュロス デュルンシュタイン (レストラン) デュルンシュタイン

    総合評価:5.0

    【ヴァッハウ渓谷では念願の古城ホテル  デュルンシュタインに泊まり、夕食を楽しむべきだろう。】

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    4月27日(火)オーストリア・ヴァッハウ渓谷:ヴィレンドルフのヴィーナス像、古城ホテル デュルンシュタイン

    Melkメルクからドナウ橋を渡るのを地場の方に先導してもらい、ドナウ川の中でも、“銀色に輝く帯”と呼ばれる、ヴァッハウ渓谷の左岸くだりをスタートする。
    ゆったりと、豊かな水の流れ、岸辺に咲く、林檎の白い花、ライラック、タンポポ、菜の花の黄色の絨毯を見ながら、車は進む。

    中世の要塞教会のある、“リースリング”という白ワインの発祥地・Weissenkirchenヴァイセンキルヒェンにいき、村内で食事をしようと、狭い道を車でまわる。村内は休業が多く、適当な所も無いため、船着場前にもどって、カフェ・レストランに入った。

    軽食後、さらにドナウ川沿いをウィーンに向かって走る。ゆっくりと風をうけながら道を走り、ドナウ川に張り出したように立つ、20年ぶりともなる、念願の古城ホテル シュロス・デュルンシュタインの城門を入る。17時に到着。
    私達のレンタカー・メルセデスの後に入ってきた、ミュンヘン・ナンバーのメルセデスの高級車も駐車場に停まり、裕福そうな二組の男女が降りてきました。

    “ヴァッハウ渓谷の珠玉”と云われるDürnsteinデュルンシュタインは真にロマンチックな小さな町です。

    念願の5星の古城ホテル、Schloss Dürnsteinデュルンシュタイン(40室)では、嬉しい事にプレシ-ズンということで、予約した部屋より格上げされた、ドナウ川を眺望できる部屋に変更して頂けました。また、ホテル側の配慮で、レストランもハルブペンジヨン方式(朝、夕食付の部屋料)にしてくれて、この旅で一番高い部屋料でしたが、結果的に安くして頂いた。

    3階でエレベーターを降りると、目の前の空間は、書斎やら、応接の間のような場であり、花や絵画、本、古めかしいピアノ、家具で優雅さを演出しています。
    各部屋はこれを囲むようになっていて、我々の部屋は天井も高く、アンチーク家具が備えられて、落ち着いた良い部屋でした。
    ともかく、窓から見るドナウの眺望は素晴らしく、折からの観光船が到着し、その2隻が相互に向き合っているのが、直ぐ下に見えた。また、テラスレストランとその上に咲き誇っている桜の花、なにやら席に座って歓談している観光客達の姿が見える。後で是非テラスに行ってみたくなりました。
    370年前に侯爵の城としてルネサンス様式で建てられ、ドナウ川に面した、絶好の位置にホテルとして、生まれ変わり、美しいドナウの流れを見下ろすテラスレストランや見事なアンチーク調度品が備わったメインレストランは大変、魅力的でした。
    “王様のように眠り、貴族のように食事をし”と、5星ホテルのパンフレットにありましたが、1泊だけでは残念に思ったものです。

    【Dürnstein :(1泊) 古城ホテルSchloss  Dürnstein (5星・全40室)】 
    A-3601 Dürnstein /Wachau 2
    注:ハルブペンジョン方式を適用された。Euro186。 
    TEL:43(0)―2711―212  、FAX:43(0)―2711―212-30 
    *メインレストランはゴー・ミヨーでは13点。

    <夕食:メインレストランで(予約済み)>
    19:30~22:00  EURO219

    まだ、夕陽も落ちず、用意された窓際の席で、その光を浴びながら、夕食になりました。さすがに、プレシーズンということで、お客さんも多くなく、我々の部屋は我々だけのゆったりした空間です。

    アペリティーフはシェリーを。
    夕食はハルブペンジョン方式でしたが、私とIさんの娘さんは一人EURO22を余分に支払うグルメコースを選び、家内とIさん達はア-ラ-カルト料理を。
    前菜、ス-プ、魚、シャーベット、メイン---また、シュパーゲル料理----そしてデザートが付くコースがグルメコースです。

    ア-ラ-カルト料理はスープの後は川魚を家内が、骨付きの子牛肉をIママが選びました。予想していましたが、やはり量が多くて、お互いに料理を分けて食べるなどと、他の客を気にしなくて良いので、気軽にやりました。
    残念ながら、普段お願いするのを忘れたため、持ち帰る保存用の料理メニューがなく、記憶が酒の為か、不鮮明になってしまいました。

    そのお酒ですが、ワインはまず白を、当ホテルのお奨めのRG V.Schlossbergを注文する。オーストリアの白は定評あるとの事ですが、さっぱりとした辛口で、見直しました。

    赤はこれもお奨めのヴァッハウ渓谷、Kremstal産‘02年Pinot Noir Malat で辛口。言われた程には、渋み、重さは中程度でしたが、料理にはよくあっていました。
    其々の地場産を飲めることは旅行だからこその楽しみですが、お値段も安く、其々が22(3千円)、EURO33(4.5千円)でした。

    エチケット---ワインラベルのことですが、記念にと二本のエチケットを外して欲しいとお願いしたところ、担当のスタッフ嬢は白のラベル外しに失敗し、気の毒なくらいに赤くなって詫びていました。
    赤は見事にとれて、スタッフ嬢は満面の笑みを浮かべて、持ってきました。
    お食事代はワイン代を入れて、EURO219でした。この辺は予算通り。
     

    こうして、2時間半のお食事は貴族をちょっと真似た程度で終わり、その後は酒の酔いと共に王様の如く眠りました。


    XXXXX

    王様の如く、眠った翌日は、朝食も進みます。
    朝食にはもったいないレストランで、多様なハム、果物類、卵、蜂蜜、ジャム、そして、新鮮なジュース等、こたえられない美味しい朝食です。日本ではまず無理な、パン、ハム、ジャム、蜂蜜の味です。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    利用形態
    ディナー
    アクセス:
    3.5
    サービス:
    4.5
    雰囲気:
    5.0
    料理・味:
    4.5

  • ヴァッハウ渓谷ではアッグシュタイン城址よりもヴィレンドルフのヴィーナス像が興味深い。

    投稿日 2024年08月07日

    アックシュタイン城 ヴァッハウ渓谷周辺

    総合評価:5.0

    【ヴァッハウ渓谷ではアッグシュタイン城址よりもヴィレンドルフのヴィーナス像が興味深い。】

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    4月27日(火)オーストリア・ヴァッハウ渓谷:ヴィレンドルフのヴィーナス像、古城ホテル デュルンシュタイン

    Melkメルクからドナウ橋を渡るのを地場の方に先導してもらい、ドナウ川の中でも、“銀色に輝く帯”と呼ばれる、ヴァッハウ渓谷の左岸くだりをスタートする。
    ゆったりと、豊かな水の流れ、岸辺に咲く、林檎の白い花、ライラック、タンポポ、菜の花の黄色の絨毯を見ながら、車は進む。

    東山魁夷の本(1971年に発行された高名な日本画家である東山魁夷・・・画家には珍しく、フランスではなく、ドイツに留学した“ドイツ学派”・・・のドイツ・オーストリア紀行文、【馬車よ、ゆっくり走れ】)で知ったWillendorfヴィレンドルフの村の事、思い出して、是非訪れてみたいと思っていた。
    この場所のことは、意外なことに当時の日本の観光案内書には何も書かれていなかった。
    小さな村、Willendorfヴィレンドルフに入る道を行き過ぎてしまい、ユータンして、村内へ。村はずれの、ドナウ川を見下す小高い丘の上に、旧石器時代のVenus von Willendorf ヴィレンドルフのヴィーナス像・・・本物はウィーン自然史博物館の蒐集品になっている・・・が見事な形で立っています。駐在中の夏季休暇で、もう20年前に訪れた時よりも、ちょっときれいに整備された丘があった。
    実際のヴィーナス像は女性の姿をかたどった高さ 11.1cm の小像である。1908年に、ヴィレンドルフ近くの旧石器時代の遺跡で、同国出身の考古学者ヨーゼフ・ソンバティが発見した。
    豊穣と多産を意味した姿にみなさん、ついつい笑みが浮かびます。

    ちょうど、丘から15世の盗賊騎士で知られる“Burg Aggsteinアッグシュタイン城址”が遠望できます。

    ・・・・・

    そして、中世の要塞教会のある、“リースリング”という白ワインの発祥地・Weissenkirchenヴァイセンキルヒェンにいき、村内で食事をしようと、狭い道を車でまわる。村内は休業が多く、適当な所も無いため、船着場前にもどって、カフェ・レストランに入った。

    軽食後、さらにドナウ川沿いをウィーンに向かって走る。ゆっくりと風をうけながら道を走り、ドナウ川に張り出したように立つ、20年ぶりともなる、念願の古城ホテル シュロス・デュルンシュタインの城門を入る。17時に到着。

    XXXXX

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0

  • リトアニア・青い湖に赤レンガが映えて絵のように美しいトラカイ城が浮かぶ。

    投稿日 2024年07月28日

    トラカイ城 ビリニュス

    総合評価:5.0

    ≪リトアニア・青い湖に赤レンガが映えて絵のように美しいトラカイ城が浮かぶ。≫

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>

     “リトアニアの国名の由来”は国の中央を流れるLietauka リェタウカ川(距離11kmと短い川でネリス川の支流)からきたとされている。天気が変わりやすく、雨が多いリトアニアは『雨の降る国』の意味が有るとか!一般には国名は雨(Lietus)に因んだものと言うが、どうも誤りらしい。
    尚、この旅で唯一、この日は快晴で、しかも素晴らしい景観に恵まれたのだ。

    首都ヴィリニュスを9:40に出発し、森と湖からなるリトアニア有数の観光地、トラカイへ向かう。距離約25km 所要約40分だった。
    リトアニアの国土は殆どが平原・森・湖沼だそうで、300mの丘が一番高い山?!だ。
    その地に至ると、青い湖に赤レンガが映えて絵のように美しいトラカイ城が見えた。

    ≪Trakaiトラカイ城観光≫
    (10:15~11:40)

    ヴィリニュスに首都を移る以前に、この国の首都が置かれていた町Trakaiトラカイは赤レンガの古城が水面に映え、絵のような美しい観光地だった。
    黄葉の時期の訪問という事もあったか、自然公園の湖と森に囲まれ、静かな所でした。

    14世紀後半にチュートン騎士団の侵略を防ぐため、ヴィタウタス大公により築城された。
    ドイツ騎士団・・独語で Deutscher Ordenのことだが、英語では Teutonic Knightsと言い、1226年、バルト海南岸のクルムラントを異教徒から防衛する為に、キリスト教徒であったポーランド貴族に要請され、後のプロイセン王国の建国に繋がる東方植民の先駆けとなった騎士団の事だ。
    築城者のヴィタウタス大公の死後、城は荒れ果て、廃墟となったが、1961年から30年以上かけ、15世紀の時代風に復元された。

    10月中旬を過ぎ、霜が降りて真っ白になっている桟橋を小島に向かう。

    トラカイ城に入ると、城壁内の広い中庭、城への跳ね橋、緊急時の避難路、掘割、大広間、城内博物館にはコイン、宝物、歴代城主像、*タンネンベルクの戦い(独語:Schlacht bei Tannenberg)の図などを見る事が出来た。

    景色のよい場所にある古城・・・残念ながら展示された中身は少ない。

    ・・・・・

    さて、*タンネンベルクの戦い又はグルンヴァルトの戦いは、1410年7月15日、ポーランド・リトアニア連合軍とドイツ騎士団の間で戦われた戦闘である。現在のポーランド領、グルンヴァルト村・ステンバルク(タンネンベルク)村とウォドヴィゴヴォ村の間にある平原で戦われた。 
    ポーランド王兼リトアニア大公の率いる、ポーランド・リトアニア連合軍39,000人、対するドイツ騎士団軍は27,000人の規模であったと云う。戦いはリトアニアの軽騎兵・重騎兵が騎士団の隊列を打ち破り、連合軍の勝利に終わった。

    もう一つのタンネンベルクの戦いは第一次世界大戦が勃発した1914年に、ドイツ帝国が東部戦線に於いて、ロシア帝国を破った戦いである。
    1914年8月17日から9月2日にかけ、ロシアの第1軍と第2軍、ドイツの第8軍によって戦われ、大勝利したのはドイツでした。
    実際の戦闘の場所はタンネンベルクではなかったようですが、勝ったドイツ帝国が、1410年の雪辱を果たしたとして、この戦いもタンネンベルクの戦いと呼んだ。
    この辺りがドイツ人の性格を示して面白いのだが。

    毎年7月になると、この中世の戦いを記念して、ヨーロッパから何千人もの騎士たちが参集して、タンネンベルク(Grunwaldグルンヴァルト)古戦場跡で戦いを再現している。

    ・・・・・

    比較的紅葉した森をバックに怖い顔のヴィタウタス大公の像を撮って、ヴィリニュスに向かい帰途に就く。

    XXX

    (2024年7月28日改定)

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    3.0

  • 駆け足で巡ったカウナス旧市街:威容ある聖ミカエル大聖堂、美しい旧市庁舎など見所も多い。

    投稿日 2024年07月27日

    ミカエル教会 カウナス

    総合評価:4.0

    ≪駆け足で巡ったカウナス旧市街:威容ある聖ミカエル大聖堂、美しい旧市庁舎など見所も多い≫

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月21日(水)朝の内、日中時々小雨。~5℃。>

    「カウナス旧市街観光」

    8:40にホテル近くの散策に出た。カウナス旧市街の東、小雨がぱらつく、寒い朝でしたが、重々しい聖ミカエル大聖堂傍の樫の木広場を通り、大聖堂から一直線に伸びる菩提樹の並木道をしばし歩いた。黄葉した落ち葉が小雨に濡れて、冬の到来を暗示していた。(~9:10)

    聖ミカエル大聖堂Die Kirche des Heiligen Erzengels Michael:
    元々はロシア正教会の教会で、主にカウナス城に駐屯するロシア兵士の祈りの場として1893年に建設された。それほど古い建物ではないが、菩提樹の並木道の先に堂々たる威容を見せている。
    第一次世界大戦中はドイツ当局によって閉鎖され、大戦中はカトリック教会として使われた。1944年から1990年のソビエト連邦による占領下においては美術館として利用され、リトアニアが再独立を果たすとともにカトリック教会に戻された。

    カウナス城:
    13世紀にドイツ騎士団の侵略を防ぐために造られた城で、当時の首都トラカイ城への防御拠点となっていた。この為、リトアニアで唯一の二重の城壁を備え、他の城と違って、幅2m、高さ13mにも及ぶ石造りの城壁を備え、頑強さを誇ったらしい。
    Vilniusから流れ下ったネリス川はこのKaunasでネムナス川に合流するが、合流点あたりに城がある。このネムナス川は当時、騎士団領とリトアニアとの国境でもあり、何度もこの辺りは戦場となったようだ。
    1363年には騎士団に占領され、破壊されたが、15世紀にヴィタウタス大公時代に再建された。現在は美術博物館として利用されている。
    この日は修理中でしたので、外観だけの見学。
    近くにヴィタウタス大公でしょうか、大きな石像が立って、笑っているように見えた。

    聖ペテロ&パウロ大聖堂:
    赤いレンガの美しい教会には見事な祭壇が見られる。それは大理石の柱、壁一面のフレスコ画と彫刻で飾られている。礼拝堂には見事なマリア昇天図もなかなかのものだ。
    現在リトアニアのカトリックの枢機卿がここを本拠にしている。国民の80%をカトリックが占めているが、以前いた司祭は27人から2人になったと云う。

    通称”白鳥”と呼ばれる美しい旧市庁舎:
    広い市庁舎広場に建つ旧市庁舎は美しいバロック様式の建物である。
    尚、庁舎内に観光案内所がある。
    1542年に最初の基石が置かれ、18世紀の半ばに現在の姿に立て直されている。その間、軍需品倉庫、政治犯の牢獄、宮殿、ロシアの劇場などに利用されてきた。
    今は市民の結婚式場や陶磁器博物館になっているようだ。
    外観だけであった聖ミカエル大聖堂、カウナス城、そしてここ旧市庁舎も外観だけの写真になったが、いずれに記憶に残る建物だった。

    聖ベルナルディン修道院:
    フランシスコ ザビエル教会 (イエズス教会)のことである。
    市庁舎広場の一方に建つ、二つの尖塔を持つ、長方形の建物がその修道院である。
    1666年に完成したイエズス会修道院はその後、聖フランシス教会、ロシア正教の所有と変遷し、第一次大戦後のリトアニアでは教会、学校となり、また、ソ連支配下なると修道院は工科大学、教会部分は体育館として使われたと云う。
    現在は漸く元に戻り、イエズス会修道院になったそうだ。塔の高さは48m。

    雷神ベルクーナスの家:
    広場から少し歩くと、15世紀に建てられたゴシック様式の建物が見える。
    赤レンガの建物はハンザ商人の住居のように見えたが、言い伝えでは、ここには、雷神ベルクーナスを祀る神殿があったそうだ。現在は図書館。

    ヴィタウタス大公教会:
    ベルクーナスの家の前の通りから数十メートル先のナムネス川の畔に15世紀前半に建てられたゴシック様式の教会である。
    タタール征伐に出陣したヴィタウタス大公(1352年~1430年)が、戦場で奇跡的に命拾いした感謝の印に建てたと云われる。
    教会横に1946年3月24日、洪水の為、水嵩が2.9mにもなったと云う白い線が見えた。

    ・・・・・・・・・・・・・

    昼食後、13:10、これからリトアニアの象徴・十字架の丘(Kryžių Kalnas)に立寄り、第二の国ラトヴィアの首都リガへ向かう。

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    4.0

  • リトアニア・かつての首都カウナスでまず行くべき所は杉原記念館であろう。

    投稿日 2024年07月25日

    杉原記念館 カウナス

    総合評価:5.0

    ≪リトアニア・かつての首都カウナスでまず行くべき所は杉原記念館であろう。≫

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月21日(水)朝の内、日中時々小雨。~5℃。>

    Lithuaniaリトアニア・かつての首都Kaunasカウナス:

    中世の面影を残した、リトアニア第二の都市(人口38万人)で、14世紀の記録に登場する古い町です。15世紀半ばにハンザ同盟の代表部が設けられ、商業活動の中心地として繁栄した。ヴィリニュスがポーランドに占領されていた20年間はリトアニアの首都でした。
    1919年、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約でバルト三国の独立が認められた。リトアニアのドイツ軍が撤退した際、新興ポーランドが新たな国境線を主張し、リトアニアの首都ヴィリニュスを含む地域を自領に取り込んだ。小国の悲劇である。
    ポーランドに首都ヴィリニュスを占領されたままの間、首都は国土の中央部にあるカウナスに移転せざるを得なかった。
    1940年、ソ連のバルト三国占領で国境線は回復され、首都ヴィリニュスがリトアニアに戻ったものの、ソ連支配は1990年の真の独立まで続く事になる。

    ≪杉原千畝(ちうね)記念館≫
    最初に訪れたのは、山の手の高級住宅街にある杉原記念館である。
    8年前に開館した、杉原千畝(ちうね)氏ゆかりの旧日本領事館では各種の展示を拝見し、最後に出身地の岐阜県八百津町が制作した20分程のビデオを観た。杉原千畝氏の事績(後述参照:命のビザの発行)を皆さんが知っていたのかは、定かではありません。しかし、館内で上映された20分程のビデオには皆さん涙をぬぐっておられました。

    世界の歴史に名を残した杉原氏を日本人として忘れえぬ人と認識された事でしょう。
    杉原氏が、その時どのように判断し、決断し、実行したのか、その事を想像するに、すごい事です。

    また、顕彰碑(早稲田大学が2001年に建立し、60本の桜を植樹した)が建つ桜の丘もあるそうだが、残念ながら、ヴィリニュスの川畔にある為、訪問していない。
    碑には「早稲田大学の校友として世界に誇るべき氏の功績を称えて碑を建立すると共に、リトアニア共和国と学術交流による友好関係がさらに深まり花開くことを祈念して桜の木を植樹するものである。2001年10月2日 早稲田大学」とあるそうだ。

    更に2011年10月、母校内(早稲田キャンパス14号館脇)に顕彰碑が建立されているそうだが、母校や郷里岐阜県八百津町はありがたいものだ。

    ・・・・・・・・・・

    この機会に以下の事を書いておきたい。

    *Oskar Schindlerオスカー・シンドラーと杉原 千畝について*

    ユダヤ人ホロコーストに関する映画の代表的作品である『シンドラーのリスト』(1993年米映画)の主人公Oskar Schindlerオスカー・シンドラーはナチ政権下のドイツでユダヤ人1200人を救ったとして知られているが、1974年、ドイツのHildesheimヒルデスハイムで亡くなった。
    但し、彼の墓は彼自身の希望により、エルサレムのローマ・カトリックの教会墓地にある。

    日本の外交官・杉原 千畝(すぎはら ちうね:リトアニアのカウナス領事館勤務)は1940年7月から8月にかけて、避難民だったユダヤ人たち6,000人の通過ビザ『命のビザ』を自ら決断して発行した。
    このビザが彼等ユダヤ人たちを救うこととなった。戦後、日本の外務省から<本省訓令の無視>として不当な扱いをされた杉原であったが、彼を命の恩人であるとしてユダヤ人協会により紆余曲折(うよきょくせつ)のすえ、探し出され、ユダヤ人により杉原は1985年「諸国民の中の正義の人」として顕彰された。

    Wikiによれば、全世界で27,362人が顕彰されているが、日本人では杉原、ただ一人である。

    その後、杉原を“日本、或いは東洋のシンドラー”と呼ぶようになっているが、その事績を思えば、ドイツ人シンドラーの名をつけて呼ぶのはおかしいだろう。

    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    3.0

  • リトアニアは別名「十字架の国」と称する。そのシンボルがシャウレイの十字架の丘だ。

    投稿日 2024年07月20日

    観光案内所 (シャウレイ) シャウレイ

    総合評価:4.5

    リトアニアは別名「十字架の国」と称する。そのシンボルがシャウレイの十字架の丘だ。

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月21日(水)朝の内、日中時々小雨。~5℃。>

    リトアニアのSiauliaiシャウレイの町は、日本人には馴染み深い、かつてのリトアニアの首都Kaunasカウナスから、ラトヴィアの首都リガに向かう道の丁度中間にある。

    シャウレイの町から北東12kmにこの国のシンボル「十字架の丘」がある。
    A12の高速道路を下り、一般道路No.4033を行くと、「十字架の丘 インフォメーション センター」(Piliakalnio g. 7, Domantų k., Meškuičių sen., Šiaulių r. :The Hill of crosses)があり、その先におよそ300m歩くと、リトアニアの象徴でもある十字架の丘(Kryžių Kalnas)があった。

    尚、この口コミの場所はVilniaus 213, Siauliaiとあるが、住所はシャウレイの町の観光案内所を指していて、本来の住所は上記の「十字架の丘 インフォメーション センター」のアドレスが正しい。

    【Kryžių Kalnas十字架の丘】
    住所:Domantai, LT-81439 Siauliai,
    15:40~16:10 寒く、暗くなってきた。

    十字架の丘は2001年世界無形文化遺産に登録された。
    リトアニアは別名「十字架の国」とも呼ばれている。この国では十字架は人々の生活と密着しているそうだ。
    たまたま、帰国したその晩にNHKでリトアニアの番組を放送していた。結婚式を済ませたカップルが必ずSiauliaiシャウレイの十字架の丘に十字架を納めに来る慣例になったと云う。画面でも嬉しそうな新婚さんが十字架を収めるシーンを映した。新しい家族を守る事、子供の誕生・成長を祈るのは日本の神社のようなものである。

    平原にほんの少し高くなった丘には1m以上の十字架が26万本、小さなのを入れると優に100万本を超えるものが置かれていると云う。
    誰かが数えたとは思えないが、ともかく多い。リトアニアの人口350万人よりも、十字架の数は多いかもしれないと云われる。

    尚、Wiki参考:ここに書かれた十字架の数はその数の推移の様子がよく分からないものの、1800年代に9000本を超えていたとある。
    1900年130本、1922年50本、1938年400本以上、1961年5000本が破壊される、1975年1200本が破壊される、1990年約55000本を数えると書かれていた。さらに2006年には100000本になったと云う。

    信者ではない私には「十字架の丘」は異様にも見える空間であったが、ローマカトリックの信仰熱い人たちにはここの持つ意味は大きいのでしょう。
    しかも、ロシアからの独立を目指した、抑圧された民族の象徴として歴史的な意味も大きいのだ。

    十字架の丘は元々、1831年のロシアに対する蜂起(反乱)の後、処刑された人々を悼んで建てられたとされている。その後も抑圧された民族の象徴として大事にされてきた。
    ソ連支配下では、この丘をブルドーザーで崩したとか、周囲に鉄条網を設置して、立ち入り禁止地域にし、十字架は何度も焼き払われた事もあったといいます。
    リトアニアの人々はその度に夜陰に新しい十字架を備えたと云う。
    手前の少し離れた所にローマ法王パウロ2世が訪れた記念の十字架と碑が立っていた。 

    十字架の東西南北を指す十字や、その間に付けられた矢印の様な木は自然崇拝の・・・太陽を表しているのだと云う。十字架は木製が多く、その十字架を作った手工芸が「無形文化遺産」に登録された。


    ラトヴィアの首都リガへ向かう。約132km、所要約2時間である。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    景観:
    4.5

  • ラトヴィア・スィグルダ:悲恋の伝説“トゥライダのバラ”が残るトゥライダ城

    投稿日 2017年10月29日

    トゥライダ城 スィグルダ

    総合評価:3.5

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月22日(木)ラトヴィアのスィグルダ:トゥライダ城を訪ねる>

    ≪トゥライダ城観光≫
    14:30~15:50

    “ラトヴィアのスイス”と称する、42ヘクタールの広い地域に古城城址があり、博物館になっている。あいにくの小雨模様で、少し霧も出ているようだ。赤レンガが周囲の緑に映える美しい古城(1214~1566年)見学に入口から10分ほど歩きます。
    かつて、Gaujaガウヤ川をはさんだトゥライダ、スィグルダ両地方には、リーブ人が 居住し、Turaidaトゥライダとはリーブ語で“神の庭”、或いは“悲しい庭”の意味だそうだ。

    この城はリガのアルベルト大司教により、1214年に築城された。Siguldaスィグルダにあった、リヴォニア帯剣騎士団の城の安定にも寄与した。1776年に塔を除き、トゥライダ城は火災で消失している。
    35m・5層の塔の上まで、何段あるのか、途中で数え忘れたが、息をぜいぜいして上った。塔の最上階からの素晴らしい黄葉の景色、ガウヤ川Gauja(ラトヴィアで最も長い川。全長452km。)の蛇行の様を楽しんだ。

    1953年から城の復元が行われて、本丸の一部は博物館にしている。ここでは13世紀以降のスィグルダの歴史を見る事が出来たが、あまり充実したものではない。
    又、公園内に18、9世紀の農家を復元したものや、彫像作品を見る事が出来ると説明にあるが、見物は城址のみとなった。

    ここには“トゥライダのバラ”と呼ばれた美しい人の悲しい話(後述)が残る。
    その人の名はMaja (1601–1620)と言います。
    トゥライダ城の公園に墓があり、小さな木の礼拝堂が立っていると云う。
    その墓を詣でる人は多く、しきたり通りに墓の上に結婚の花を捧げると聞きます。


    伝説:ラトヴィア・トゥライダのバラ
    Die Rose von Turaida (auch Rose von Sigulda)
    https://4travel.jp/travelogue/10924747

    ・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    2.5
    コストパフォーマンス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    展示内容:
    3.5

  • ラトヴィアの国はかつて先住民リーヴ人の居住地であった証しの大石(顔)

    投稿日 2024年07月16日

    リーヴ広場 リガ

    総合評価:4.0

    【ラトヴィアの国はかつて先住民リーヴ人の居住地であった証しの大石(顔)】

    先住民リーヴ人の居住地であったことから、Livonia リヴォニアとも称したラトヴィアの国は、人口約230万(ラトヴィア人60%、ロシア人28%など。宗教はプロテスタント・ルーテル派)、首都リガが人口約72万と凡そ三分の一がこの都市に住んでいる事になる。それだけ豊かでもあり、リガは大きく、バルト最大の町だ。

    歴史的にはリガは13世紀にハンザ同盟に加盟し、帝政ロシア時代は『ヨーロッパの窓』として、帝政下で繁栄を享受していたペトログラード、モスクワに次ぐ、当時、“バルトのパリ”と呼ばれほどの都市に成長した。
    時代がソ連支配下になると、“零落した貴婦人”とも称され、暗い時代を過ごした。バルト三国の独立後は経済的にも豊かな大都市に変貌している。
    住民はラトヴィア人が凡そ50%で、バルト三国の中でも特に多い比率のロシア人は減少傾向だそうだ。それも国籍の取得条件のハードルを高くしている由だ。

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月22日(木)ラトヴィアの首都リガは朝から小雨、時々止む。4~6℃。>

    旧市街を巡る。

    スウェーデン門:
    リガに唯一残るかつての城門。1698年に城壁を利用した住宅が建てられた際に、この城門が建てられた。当時この地を支配し、駐屯していたスウェーデン兵がよくこの門を出入りした事から、この名前が付けられた。
    当時はスウェーデン兵300名が駐屯していたそうだ。

    『スウェーデン門の悲恋伝説:
    リガの娘たちはスウェーデン兵と会うことを禁じられていたのですが、一人の娘がスウェーデン兵と恋に落ち、この門で密かに会うようになりました。
    ある日、スウェーデン兵を待っていた娘は捕らえられて、罰として門の内側に塗り込められてしまったと云う事です。以来、真夜中にこの門を通ると、娘のすすり泣きが聞こえるようになったと云う。』

    ヤコブの長屋Jakobskasernen:
    スウェーデン門をくぐると城壁外になり、広い石畳の通りになった。旧市街側に再建された城壁やスウェーデン塔が見られ、その城壁の向かいに18世紀の頃、長屋が建てられた。今に残る、この建物はレンガ屋根、長々とした黄色の建物である。

    火薬塔:
    14世紀に建てられ、1650年に再建され、火薬の保管庫に使われた塔。高さ25.5m、外壁の厚さは3mで、頑丈な作り。この横の道を渡ると、猫の家がある。

    猫の家:
    屋根の上に背を丸めた猫が見える。昔、ここの住人が隣の家に住むギルド商人とトラブリ、ワザと猫の尻尾(お尻!)をその家に向けさせた。途中で裁判沙汰になったと云えられている、曰くつきの猫だが、今は顔の方を向けている。

    リーヴ広場とリーヴ人の顔:
    猫の家から直ぐ近くに広いLivu laukumsリーヴ広場がある。リガの旧市街中心部に位置する広場周辺に18世紀の大小のギルドハウスが立つ。
    リーヴ広場に置かれた奇妙な、大きな石が気になった。これは先住民Livuリーヴ人の顔だと云う。ちょっと見には愛嬌もある、素朴な顔している。

    リーヴ人は北シベリアから移住してきたとされるラトヴィアの先住民である。Finno-Ugricフィン・ウゴル民族(ウラル山脈地方)のリーヴ人はバルト民族のラトガレ人、フィンランドのフィン人やエストニア人と同系だと言う。
    13世紀、ドイツ・リヴォニア騎士団が自然崇拝の異教徒リーヴをキリスト教に改宗させる目的で、酷薄な行動をしたので、可哀そうなことにリーヴ人は減少の一途を辿った。

    19世紀末には3000人、第二次大戦前夜には1000人、1959年の国勢調査では約200人という数字が公表されている。この旅の当時、リーヴ語を話す人は20人以下とあるから既に絶えてしまったかもしれない。

    三人兄弟の家:
    右から日本的に言えば、太郎、次郎、三郎と、三兄弟は肩を寄せ合って立っている。
    リガ最古の中世の住宅である。外見は建てられた当時の姿をほぼ保ち、時代の変遷を良く示すものになっている。
    右端の太郎の家は15世紀の住宅で、窓の大きさで税金が決められていたので、窓が小さい。次郎の時代はそうした決まりがなく、窓は広くなり、見た目も美しい。
    三郎の家は貧弱、家幅が狭く、見た目もかなり窮屈なものになっている。しかも、時代と共に土地の値段が高くなって、三郎の建物全体が前に出てきている。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5

  • ラトヴィアの首都リガ:新市街のアルベルト・エリザベート通りは見事なユーゲントシュティール様式の建物が並ぶ。

    投稿日 2024年07月08日

    アルベルタ通り リガ

    総合評価:5.0

    ラトヴィアの首都リガ:ラトヴィアの首都リガ:新市街のAlberta&Elizabetesアルベルト・エリザベート通りはリガの事実上の中心地であり、
    ここには見事なJugendstilユーゲントシュティール様式(Art Nouveauアール・ヌーヴォー)の建物が並ぶ一角があった。

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月22日(木)ラトヴィアの首都リガは朝から小雨、時々止む。4~6℃。>

    『ドイツよりもドイツらしい』と言われる街並みの中でも、ブラックヘッドのギルド会館も目立つが、リガでは更に見事な*Jugendstilユーゲントシュティール様式(Art Nouveauアール・ヌーヴォー)の建物が並ぶ一角が素晴らしい。

    新市街のAlberta&Elizabetesアルベルト・エリザベート通りで金融・官庁街・各国大使館も見られる通りである。リガの事実上の中心地だ。

    19世紀に建てられた、ユーゲントシュティール様式の数階建ての建物が軒を競って、その美しい様式で表現されていた。
    女性がモチーフになって、壁面に表現されたのは、その地位の向上を示すとか!これほどの数がこの町に残っていたとは考えもしないものでした。

    当時、ユーゲントシュティール様式における、ヨーロッパの中心がこのリガであったとか。町の中心の凡そ三分の一がユーゲントシュティール様式の建物であったと言われている事から、その凄さが理解できる。
    この町の素晴らしさは、これが体現しているといえよう。

    *Jugendstilユーゲントシュティール:アール・ヌーヴォー:
    青年派様式若しくは青春様式とも訳している。1897~1910におけるドイツの芸術思潮である。その19世紀末の芸術は一種退廃的とも云われる芸術で、曖昧且つ曲線的表現を駆使している。仏語で言うアール・ヌーヴォーもそれに近い。ウイーンで名高いクリムトの絵画がその代表であり、建築でも独特の色彩とデザインを持った建物がウイーンの町に見られる。

    因みにハンガリー大使館の建物はMichail Eisensteinの設計によるものである。(彼の父は1925年に製作・公開された“戦艦ポチョムキンの反乱”で知られるセルゲイ・アイゼンシュテイン監督だ。)

    赤の横線が壁にひかれた、ひときわ立派なロシア大使館近くの公園には樹齢200年を超える柏の木、楓の大木など、220種の木々、植物が植えられている。
    きれいに黄葉した落ち葉が積み重なって、絨毯のようになっていた。

    ・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0

  • ラトヴィアの首都リガ:『ドイツよりもドイツらしい』と言われる街並みの中でも、まずはハンザ商人のギルド会館を見たい。

    投稿日 2024年07月01日

    ブラックヘッドの会館 リガ

    総合評価:5.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月22日(木)ラトヴィアの首都リガは朝から小雨、時々止む。4~6℃。>

    ラトヴィアの国は人口約230万(ラトヴィア人60%、ロシア人28%など。宗教はプロテスタント・ルーテル派)、首都リガが人口約72万と凡そ三分の一がこの都市に住んでいる事になる。それだけ豊かでもあり、リガは大きく、バルト最大の町だ。昨夜は町に入ると、町に明るい光が有った。住民はラトヴィア人が凡そ50%で、バルト三国の中でも特に多い比率のロシア人は減少傾向だそうだ。それも国籍の取得条件のハードルを高くしている由だ。
    バルト3国の中で最も開かれた、ラトヴィアの首都、世界遺産リガ市内観光。

    『ドイツよりもドイツらしい』と言われる街並みは、中世ドイツの商業都市を良く残している。細い複雑に入り組んだ道は当時と変わっていないと云う。

    ・・・・・・・・・・

    【再建されたブラックヘッドのギルド会館】
    14世紀のドイツ騎士団時代、未婚のハンザ商人の組合(ギルド)に依って建てられたもの。
    二つのギルドハウスが並んで立つが、右が主である。左はSchwabhausシュワブハウスという。
    第二次大戦で完全に壊れたが、リガ創設800年を記念して、2000年にオリジナル通りに再建された。オランダのルネッサンスファザード(正面)や、大変魅力的で美しく飾られた壁面を持った建物である。

    大時計の下には4つのハンザ都市の紋章、Rigaリガ、Hamburgハンブルグ、Luebeckリューベック、Bremenブレーメンが浮き彫りになっているのが見える。その下にギリシャ神話の神々の像があり、入口の左右に聖母マリア像、黒人であった聖モーリアス像が立つ。この聖モーリアスに因んで、ブラックヘッドのギルドと呼ばれたらしい。

    彫金細工と彫刻で飾られた大時計は、月、日、時間、月齢を刻み、伝承では、かつてこの時計を作った職人は二度と同じものが造れないように、目をくり抜かれたとか・・。

    ギルド前のマルクト広場には、リガの守護神である聖ローランドの像が立ち、中世には市が立ち、魔女の火あぶりの刑なども行われた中心地だったが、第二次大戦で市庁舎、聖ローランドの像、ブラックヘッドのギルドなど一帯が壊滅している。

    ・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • エストニア・タルトゥ:ホテルの名「Dorpatドルパット」はTartuタルトゥのドイツ語、ポーランド語の呼び名である。

    投稿日 2024年06月27日

    Dorpat Hotel タルトゥ

    総合評価:4.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月22日(木) リガは朝から小雨、時々止む。4~6℃。>

    ラトヴィアからエストニアに入る。
    この国は人口約135万人(エストニア人68%、ロシア人26%)、バルト三国の一番北に位置し、一番小さな国(北海道の6割の国土面積)である。

    エストニア・TartuタルトゥのホテルDorpatドルパットには19:30頃に到着した。

    ホテルの名「Dorpatドルパット」はTartuタルトゥのドイツ語、ポーランド語の呼び名である。
    この言葉を使用している事に違和感はないのだろうか?!
    この町はエストニアで2番目に人口の多い(タリンが40万人、タルトゥ10万人)町だが、首都のタリンが政治・商業の中心であるのに対して、エストニア最古の大学があるタルトゥは学問・文化の中心と言える。
    タリンの南180km、南エストニアの中心都市でもある。

    【ホテルDorpatドルパット】    
    Soola 6 51014 Tartu 、Estonia
    部屋番号;307号室(3F)
    エストニアの第二の都市の中心にある最大のホテル。3星・全205室。
    ベッドも寝心地良く、トイレは床暖房。但し、この旅で唯一のシャワーのみの部屋である。
    ホテル前はEmajogiエマユギ川(エストニア語で“母なる川”の意味で、全長101km)沿いにあって、たいへん見栄えの良いホテルだ。


    <2009年10月23日(金) タルトゥは曇り。~9℃。>

    今日の行程はホテルDorpatドルパットを10時にスタートし、タルトゥ市内観光・・・ラエコヤ広場、 悪魔の橋・天使の橋、大聖堂、タルトゥ大学、ヨハネ教会・・・14:05タルトゥを出発し、タリンへ 向かう。途中、Põltsamaa プルツァマーに立ち寄る。=>エストニアの首都タリンに向かう。
    (約190km、所要約4時間)

    途中立ち寄ったのは、いわゆる古都である。
    プルツァマーは、かつての*リヴォニア王国の首都で、王城プルツァマー城はマグヌス王(デンマーク王子のホルシュタイン公)の王宮として使われていたことや、100年前からワインを製造しており、「エストニアのワインの首都」と呼ばれている。

    *リヴォニア王国は16世紀後半に現在のエストニアおよびラトビアにあたる地域を領土として主張した名目上の国家である。リヴォニア戦争(1558年~83年:ロシア帝国<=>リヴォニア騎士団及びポーランド・リトアニア共和国、デンマーク=ノルウェー、スウェーデン王国)中の1570年に、ロシアのツァーリであるイヴァン4世(雷帝)が傀儡国として建国を宣言したが、国家としての実態を持つことはなかったと云う。

    <Põltsamaaプルツァマーの古城でエストニアワインの試飲>
    (15:00~15:45)
    バルト三国は北過ぎて葡萄の生産は出来ないから、通常のワインは輸入品である。
    この掘割に囲まれた古城にはエストニアワインの醸造所は見ていないが、ワインの試飲と販売所などがある。サクランボ、木イチゴ、リンゴやスグリ、黒スグリの果実でワインを作ると言う。サービスされた美味しいチーズを頂き、二、三種類のワインを飲んでみた結果、黒スグリ一本(41Kr=370円)を購入した。

    Põltsamaa プルツァマー城:
    【1272年築城。これはプルツァマー川の水を引き込んだ堀をもった水城である。城壁が両側104.5と109mのほぼ真四角に囲み、壁の高さ11m。14世紀の3階建ての修道院、18世紀に建設されたレンガ造りの修道院の塔を持つ。】

    ・・・・・

    16:00タリンに向かう。Sokos Hotel Viruソコスホテル ヴィルには17:30の到着。予想より早い到着の様だ。

    旅行時期
    2009年10月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.0
    バスルーム:
    3.0
    ロケーション:
    4.0
    客室:
    4.0

  • エストニア・タルトゥ:タルトゥ大学があるおかげで、この町は “頭”の町と言われているそうである。

    投稿日 2024年06月18日

    タルトゥ大学 タルトゥ

    総合評価:4.5

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月23日(金) タルトゥは曇り。~9℃。>

    エストニア第2の大学都市Tartu・文化都市タルトゥ観光
    タルトゥ大学があるおかげで、この町は “頭”の町と言われているそうである。

    丘を下り、大学通りに入ると、面白いものが目に入った。
    建物の壁全体を使って、3階までの窓を描き、その窓から大学の教授たち・・・多分ご本人が顔を覗かせている図だ。

    1)タルトゥ大学: (11:15~11:50)

    エストニアでもっとも有名なこの大学は1632年にスウェーデン王グスタフ2世Gustavus Ⅱによって創立された。後のリヴォニア戦争などで、約100年閉校する期間もあったが、1802年に再開されている。
    Ulikooli大学通りにある大学本部はギリシャ風の6本の円柱が正面を飾り、美しい。

    本部の中にはMuseum of Classical Art古典美術博物館がある。
    特に大学講堂は18世紀の古典主義様式を顕著に表したもので、円柱が立ち並び、羊の頭の模様などで飾られた、講堂はコンサートホールにも利用されている。
    学生数12,000人との事だが、日本人留学生はただ一人。
    (因みにエストニア全土で日本人在留者は30人。)

    ・・・・・

    20分ほど自由時間。思い思いに旧市街のお店やRueuetli通りを歩く。

    ギムナジウム中学の前で革袋と思しき小さな球を数人の生徒が、蹴り玉をして遊んでいる。日本の蹴鞠を小さくしたようなものか・・・見ていると難しいらしく、なかなか続かない。金曜日の昼時だが、人通りは少ない。
    自宅で昔のように食事する習慣があるのか・・・。


    2)聖ヨハネ教会(Jaani Kirik・St. John's Lutheran Church): (12:20~35)

    Rueuetli通りを行くと左手にこの教会がある。14世紀にバジリカ様式で、リューベックの職人が造った。16世紀に戦争で破壊された。1944年のソ連軍の攻撃でも破壊されている。ヨーロッパでもあまり例を見ない、1000枚ほどの素焼きの塑像装飾で知られていた。
    教会は現在再建中、内部に入ることができるので、解らない説教を聞いてから、パイプオルガンの演奏を聞かせて頂いた。5Krを寄進。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • エストニア・大学都市タルトゥ:ラエコヤ広場には美しい市庁舎、市民に愛される「キスする学生の噴水」が立つ。

    投稿日 2024年06月17日

    ラエコヤ広場 タルトゥ

    総合評価:5.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月23日(金) タルトゥは曇り。~9℃。>

    エストニア第2の大学都市Tartu・文化都市タルトゥ観光
    大学があるおかげで、この町は “頭”の町と言われているそうである。

    ホテル前の*Emajogiエマユギ川沿いをちょっぴり散歩した。昨日の雨は上がり、日差しは望めないが、なんとか天気はもちそうだ。

    *Emajogiエマユギ川(エストニア語で“母なる川”の意味で、全長101km)沿いに国民的な作家・劇作家Oskar Lutsの像がある。その作品の内容は不詳。
    ここから少し先に町の中心がある。

    この町は常にエストニア民族独立運動の拠点であったことから、民族の魂の故郷と言われている。何故か?町の名は19世紀末まで、ドイツ名(ポーランド語でもあるがいずれも支配者である)のDorpatドルパットが用いられていた。

    旧市街の市庁舎前広場は市庁舎を正面にして、周囲を18世紀後半から19世紀前半の新古典様式や後期バロック様式の建物に囲まれていて、落ちついた雰囲気がある。

    1)ラエコヤ広場(Raekoja Plats):

    町の中心は所謂、市庁舎広場で、この周辺一帯は1775年の大火後に再建設されている。市庁舎がその代表格。

    2)傾いたバークレイの家(Viltune maja Raekoja plats 18):

    市庁舎広場に面した記念建造物にもなっている、18世紀の建物が面白い事に傾いている。傾く原因は左の壁は新しく基礎を造って建てたが、川に面する右側は昔の壁の上に建てたためだそうだ。
    建物は今も現役で美術博物館に利用されているらしい。


    3)徐々に沈んでいると云う市庁舎Town Hall:

    大火後の1775年に建築された市庁舎はオランダの町の市庁舎を参考に、ドイツの建築家が再建した。
    問題なのは市庁舎も、この町にある多くの建物と同様に、ゆっくりと湿った地面に沈んでいるとか?!ここの塔にはドイツ製の18個の鐘があり、毎日、18時と21時に鳴り出すと言う。

    4)キスする学生の噴水(Suudlevad tudengid):

    1998年に造られた彫刻で、市庁舎広場にある大学町のシンボルは洒落たものだ。
    この像は今や“永遠に愛される像”になっていると云う。


    この広場は歴史を知れば、エストニアの大事な場所だとわかる。

    ・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • エストニア・大学都市Tartuタルトゥ:大学の裏山トーメの丘に天使と悪魔の橋があるという。

    投稿日 2024年06月16日

    天使の橋 悪魔の橋 タルトゥ

    総合評価:4.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月23日(金) タルトゥは曇り。~9℃。>

    エストニア第2の大学都市Tartu・文化都市タルトゥ観光
    大学があるおかげで、この町は “頭”の町と言われているそうである。

    Lossiロッスィ通りを登りきると、Toomeトーメの丘(大聖堂の丘の意)である。大学の裏山の様な感じだが、様々な建物、彫像、橋、天文台などが、黄葉した木々の中に散在し、私どもは丘を一巡りする。

    悪魔の橋(The Devil's Bridge):
    ロシアのロマノフ王朝300周年を記念し、1913に造られた橋。皇帝アレクサンダー1世に献呈されたもの。なぜ黒々とした悪魔の橋・・・ロシアだからでしょうか?

    天使の橋(The Angel's Bridge ):
    1813年に造られ、100周年の1913年に架け替えられた。
    ラテン語で「休息は力を甦らせる」と書かれており、こちらはタルトゥ大学の初代学長に捧げる橋だとか・・。

    トーメの丘はイギリス庭園風にデザインされたそうで、English Bridge の響きがエストニア人にはAngel's Bridge天使の橋に聞こえるからだとある。

    そうすると悪魔の橋は単に天使の橋に対した、名前付けかもしれない。

    橋の歴史がエストニアの歴史を語っている。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旧観測所(Tahetorn):世界文化遺産
    エストニア国旗がはためく旧観測所は大学が19世紀から使用していたもの。修理中でした。

    カール エルンスト フォン ベアKarl Ernst Von Baerの彫像(1886年):
    黄葉した林の中で顎に手をやり、考え深げに座る人類学者・自然科学者の像である。
    バルト・ドイツ人の家系に生まれた。タルトゥ大学の卒業生。胎生学(発生学)の創始者として、哺乳動物の卵子を発見したとある。
    親しまれ、尊敬されているのでしょうか!面白い事に、ドイツのハルツ地方にみられる4月30日魔女の夜(Walpurgis Night)、タルトゥ大学の学生連中の儀式として、この先生の頭をシャンパンで洗うのだそうです。

    大聖堂(Toomkirik・ Ruins of Toome Cathedral):  (~11:00)
    13世紀にドイツ騎士団によって建築が始まり、15世紀に完成したバジリカ様式の聖堂。
    リヴォニア戦争で破壊され、1624年の火事で完全に焼け落ちた。ルター派の宗教改革では重視されず、再建されなかった。残った部分は現在、大学の歴史博物館となっている。


    ・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

最近はアジアの香港・マカオ、台湾も時に昔を思い出しつつ、また、日本の小旅行と称した旅も
最近投稿しています。
(2025.06.11.)


プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、さらにロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、戦時体制の欧州の旅は見送り続けて、2025年を迎えている。

(2025.06.11.)

行ってみたい場所

ドイツ

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