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jijidarumaさんのクチコミ(4ページ)全662件

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  • ヴィリニュス:3つの十字架の丘はゲディミナス塔より遠望するにとどめた。

    投稿日 2024年10月14日

    3つの十字架の丘 ビリニュス

    総合評価:3.0

    ≪ヴィリニュス:3つの十字架の丘はゲディミナス塔より遠望するにとどめた。≫

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>

    ゲディミナス城跡の丘にケーブルカーで登り、ゲディミナス塔より街のすばらしいパノラマを楽しむ。

    ゲディミナス城跡の丘から、そして75段の階段を上がり、ゲディミナス塔より眺めた旧市街や3つの十字架の丘のパノラマは美しいものでした。

    3つの十字架の丘はゲディミナス城跡の丘の裏手に位置し、Kalnuカルヌ公園の山頂にあるのだが、少々行くには遠い様子だ。遠望するに留めて、その歴史を調べた。

    14世紀、キリスト教の布教にきたフランシスコ修道会7名の僧が、この地の異教徒に切り殺され、残りの人々は十字架に縛られヴィルニア川に流されたと云う(うち4人は川に流され、3人が磔にされたとも云うが・・・)。

    その死を悼む真っ白い追悼碑が、17世紀に3つの十字架としてこの山頂に建てられた。
    旧ソ連時代に破壊されたが、後に復元された。


    ・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    3.0

  • 美しきリトアニア、ネリス川は≪父なる川≫ネムナス川に合流し、バルト海に注ぐ。

    投稿日 2024年10月08日

    ネリス川 ビリニュス

    総合評価:4.0

    ≪美しきリトアニア、ネリス川は≪父なる川≫ネムナス川に合流し、バルト海に注ぐ。≫

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>

    Holiday Inn ホリデイ イン:
    Seimyniskiu str.1 Vilnius、2600 Lithuania
    この旅最初のホテルはホリデイ イン、部屋は606号室(7F)
    2002年オープンの新しいホテルの1つ。Nerisネリス川の北岸にあり、旧市街からも近い。4星・全134室のCity Hotelである。

    *時差の関係でいつもながら、3時に目覚める。また、寝たが、結局5時に起床した。6時半にホテルの朝食がスタートするとのことで、その時刻に1Fのレストランに。やはり、バルト三国もドイツの様な豊かな朝食で嬉しい。

    朝食後、まだ時間もあったので寒々しい外気にあたって、Raduškevičius Palace(リトアニア大公が1897年に建てた)宮殿前をネリス川の北岸まで歩いてみた。緑の橋(Zaliasis Tiltas)と呼ぶ橋は、通勤時間でもあり、労働者が通勤で忙しそうに歩く、バスや車の数も多く、首都の顔を見せていた。あたり一面の霜景色に朝日が輝いて、川べりの景色は美しい。

    “リトアニアの国名の由来”は国の中央を流れるLietauka リェタウカ川(距離11kmと短い川でネリス川の支流)からきたとされている。天気が変わりやすく、雨が多いリトアニアは『雨の降る国』の意味が有るとか!
    尚、この旅で唯一、この日は快晴で、しかも素晴らしい景観に恵まれたのだ。

    リトアニアの首都・ヴィリニュスは地図で見ると地理的に偏った南東部にある。ちょうどドイツ語でDie Nerisネリス川とDie Vilniaヴィルナ川の合流地点にあり、首都ヴィリニュスという名は、このヴィルナ川に由来すると云われている。
    北のバルト海へは312kmの内陸部で、ベラルーシの国境にも近接するので、不思議な感じがするが、過去数世紀の間に国境の形が変わってしまったことに因るものだ。かつてリトアニア大公国の時代にヴィリニュスは国土の中央にあったのだが・・・。 1994年にヴィリニュス旧市街は世界文化遺産に登録された。

    リトアニア人口は 350万人(リトアニア人84%、ロシア人6%の比率はラトヴィア、エストニアと比して、自国民比率がたいへん高い。)とバルト三国では最大、国土面積も同様。ヴィリニュスの人口は550千人と大都市だ。
    ポーランドとの関係が強かった事もあって、ローマカトリック教徒が多い。

    ホテルからネリス川の北岸まで歩いたこともあって、リトアニアの河川について前述のように書いて見たが、
    更に言えば、「ネリス川」は白ロシア(現ベラルーシ)に源泉をもち、そこから白ロシアとリトアニアの大地を流れ、リトアニアの主たる都市Vilnius、Jonava、Kaunasを経由し、Kaunasで「メーメル川」に注ぐ。長さは510 km。
    ヴィルナ川はリトアニア国内を79 km流れるネリス川の支流。

    ドイツ的には気になる「Die Memelメーメル川」(リトアニア語でNemunas ネムナス)はベラルーシに源を発して、リトアニアとロシア連邦 Kaliningradカリーニングラード(かつてのKönigsbergケーニヒスベルクと称したバルト海の港町)州を流れ、 Ostsee バルト海の一部であるKurisch クルシュ海に注いでいる。長さは937kmとヨーロッパで14番目に長い川である。
    リトアニア人はネムナス川(ドイツ語ではメーメル川)を≪父なる川≫とも呼ぶ。そして、リトアニア人であれば誰もが暗唱すると云う、ヨーナス・マイローニスの詩は次のような詩だ。

    『Scheschup(p)eシェシュペ川が走り、Nemunasネムナス川が流れる。我らが故郷、美しきリトアニア 』
    そして、詩と言えば、以前のドイツ国歌の1番の歌詞で歌われる地名には、上記のメーメル川が出てくる。 
    『Von der Maas bis an die Memel, von der Etsch bis an den Belt.
     マース川からメーメル川まで、エッチュ川からベルト海峡まで。』

    そのドイツ関連の歴史を辿ると、1252年、ドイツ騎士団はクルシュ海の出口近く、Klaipe’daクライペダに城砦を建設し、その拠点の都市をMemelburgメーメルブルク、ネムナス川をメーメル川と称した。

    しかし、領土問題はややこしく、ドイツにいまだ、こうした歌が残る。
    『Memellandメーメルラントの歌詞の一部:
    Deutsch ist das Memelland, Ist ewig, ewig, ewig deutsches Land!!
    メーメルの地はドイツ、未来永劫、永久に、永遠に ドイツの領邦! 』

    尚、ドイツ国歌;現在、ドイツ連邦共和国の正式な国歌は3番のみである。

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0

  • 首都ヴィリニュスの旧市街・レストランAulaアウラでリトアニア名物の水餃子を食べた。

    投稿日 2024年10月06日

    Aula ビリニュス

    総合評価:4.0

    ≪首都ヴィリニュスの旧市街・レストランAulaアウラでリトアニア名物の水餃子を食べた≫

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月20日(火)快晴、マイナス0.3~10℃。>
    ヴィリニュス旧市街観光とトラカイ観光

    トラカイの比較的紅葉した森をバックに怖い顔のヴィタウタス大公の像を撮って、帰途に就く。ヴィリニュスまでは約25km、所要約40分とバスの旅。そろそろ昼食時間だ。


    【昼食:レストランAulaアウラ】
    12:15~13:15

    レストランは旧市街の中心にある、最も古い通りのPilies(城を意味)ピリエス通り11番地にあった。
    ミックスサラダ、リトアニア風水餃子(当地の名物、koldūnai/コルドゥナイ或いはコルドゥーナ)、木の実のケーキにイチゴジャム載せ。白ワインを飲む。
    メインの水餃子はひき肉やキノコ類、野菜などが具として中に入っている。ディルとサワークリームが添えられて、サワークリームを味付けて食べる。
    リトアニア風水餃子と称しているが、やはりかつて支配下にあったロシアやポーランド料理の影響があるのだろう。

    無愛想なご主人とちょこまか気遣う奥さんの席で、一緒に食事をする事になり、いささか、気疲れした一時間でした。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    3.5
    雰囲気:
    4.0
    料理・味:
    3.5

  • ウィーン:古城ホテル ヴィルヘルミネンベルク城でのキャンドルライト ディナーを楽しむ。

    投稿日 2024年09月27日

    オーストリア トレンド ホテル シュロス ヴィルヘルミネンベルグ ウィーン

    総合評価:5.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇后 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    4月25日(日)晴、夕方より曇り 242km

    *朝食8:00、グラーツ9:15スタート、Eisenstadt 11:00 = 160km 、アイゼンシュタッド観光:Schloss Esterhazy 宮殿12:00-12:50、ハイドン博物館、昼食“Café Esterhazy“13:30-14:30、Wien15:30 = 50km、シェーンブルン宮殿見学:Imperial Tour・庭園 16:00-17:30、古城ホテル ヴィルヘルミネンベルク城に到着18:00、=32km

    2004年4/25(日) &4/26(月):2泊
    Hotel Schloss Wilhelminenberg古城ホテル ヴィルヘルミネンベルク城
    (4星) 119x2 Euro= 238 注:パッケ-ジ料金169―50=Euro 119     
    A-1160 Wien 、Savoyenstrasse 2 、   

    この古城ホテルは昨年の旅で頂いた“ウィーンのホテル案内”で見つけ、インタ-ネットでのやり取りで、予約した。
    歴史的にはこの古城ホテルは伯爵家の城として、1781年に建てられ、その後、何度かの改築があり、今の新帝国スタイルになったのは1904年です。
    現在は50もの会議等に使用される部屋と33の客室、4つのジュニア・スイ-トを持ち、ウィ-ンの西の高台にあって、30エ-カ-の広さの公園、ブドウ畑に囲まれ、ウィ-ン市を眺望できる絶好の位置にあります。

    アレンジメントのパッケ-ジ料金(Schloss Romantikシュロス ロマンティーク)で依頼した3階のジュニア・スイ-トは二つの部屋が一緒になった大きな部屋 でした。
    部屋にSektゼクト(シャンパン;“Goldeck Privat Brut”というウィーンの南、Badenバーデンの近く、Bad Vöslau バート・フェスラウのシャンパン)が一本、冷やされていて、果物籠が置かれ、さらには“びっくり箱”(石鹸や、シャンプ-、香水の類の入った)で歓迎されました。

    【ヴィルヘルミネンベルク城のキャンドルライト ディナー】
    アレンジメントのパッケ-ジの夕食は4品のキャンドルライト ディナーと称したものでした。レストランには我々の席が用意されていました。

    まず、アペリティーフは当ホテルの名が付いたSektゼクト(シャンパン)をグラスで頂き、赤ワインは給仕長に薦められた同じく当ホテル名のものを一本(Euro27.00)いただきました。

    4品料理:
    前菜として粒胡椒をかけた、鮭のスライス、
    スープはフランス風オニオンスープ、
    メインは肉料理か魚料理のどちらかを選択しました。
    写真を見ると、私が肉料理のMastochsen子牛のステーキを選び、魚料理は女性陣がPetersfischマトウダイ(的鯛)のニンニク油のソテーを選んだようです。
    デザートは柔らかく煮たりんごを磨り潰し、ビッターチョコレートのムースをかけたものでした。

    3時間(19~22)があっという間に過ぎ、さすがにウィーンは料理も美味しく、優雅なディナーを楽しめました。

    ワイン代を含め、パッケージの調整分を加え、4人分を合計するとEuro254(35千円)となり、たいへんリーズナブルなものでした。

    XXX

    部屋に戻って、またパッケージに含まれたSektゼクト(シャンパン)で乾杯ということになりました。良く冷えたシャンパンは泡立ちもきれいに上り、実に美味しいものでした。オーストリア、ニーダーエーステライヒ州を巡るワイン探訪コース494kmにでてくるBad Vöslau バート・フェスラウの産です。

    旅行時期
    2004年04月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    友人
    1人1泊予算
    10,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    5.0
    サービス:
    4.5
    バスルーム:
    5.0
    ロケーション:
    4.0
    客室:
    5.0

  • デュルンシュタインの小さな御土産屋でメルヘンチックな壁飾りを買った。

    投稿日 2024年09月21日

    ハウプト通り (デュルンシュタイン) デュルンシュタイン

    総合評価:4.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇后 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    4/28(水) 快晴 230km

    朝食8:30、買物、古城ホテル デュルンシュタインを10:00スタート

    *王様の如く、眠った翌日は、朝食も進みます。朝食にはもったいないレストランで、多様なハム、果物類、卵、蜂蜜、ジャム、そして、新鮮なジュース等、こたえられない美味しい朝食です。日本ではまず無理な、パン、ハム、ジャム、蜂蜜の味です。

    ホテルをスタートする前、昨日同様に小さな町の中心街を散策する。石畳の通りを歩き、この地域は白ワインで有名と聞いていたので、ワインやジャムのお店を覗く。
    昨日、小さな御土産屋の閉まっていた窓越しにZinn(錫)のメルヘンチックな壁掛け等が見えました。明日は是非、訪ねて、中を見てみたいものと思っていたので、その店に行ってみた。
    気にいっていたZinn(錫)の壁飾り、特に良かったのはメルヘン話に登場する人物がお城ふう建物の各階に形作られたものです。
    値段はEURO136と高いものでしたが、思い切って購入しました。
    白雪姫、靴を履いた猫、ブレーメンの音楽隊、いばら姫、カエルの王様等が見られて、面白いものです。
    Iさんはボートに乗るサンタクロースといったものを見つけて購入していました。この形はその後の旅行中、一度も見たことが無く、お買い得品でした。 

    お店の女主人とも、会話が弾み、“オーストリアのEURO加入後のインフレ、経済の悪化、旅行者の減少といった事や、そして、日本人はどうしてそんなに肌がきれいで、若々しいのか?!私などはもう、40代なのに。えー!貴方達は60代、年金生活者なの?これは驚きだ!!“とか・・・。

    最後は”おまけ“にシシィのチョコレートを頂きました。


    ・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • グムンデンで最初に訪れたのは「グムンデン焼きの陶器」の工房だった。

    投稿日 2024年09月15日

    グムンデン陶器工場 グムンデン

    総合評価:4.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇后 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    4/28(水) 快晴 230km

    朝食8:30、買物、デュルンシュタイン10:00スタート、BST33-Kremsクレムス、ドナウ川右岸:Schloss Schönbühelシェーンビュール城、―(Melkメルク)ATB A1/A7-Linzリンツ 13:00  = 140km 予定、昼食“Wienerwald”13:10-14:00、リンツ市内観光:リンツ城、市庁舎、州庁舎等、15:20スタート、ATB A7/A1―(Steyrermühl)-BST144-Gmunden 16:00、グムンデン陶器工場16:10-16:40、オルト城16:50-17:20、ホテル17:30= 70km 
    合計 210km予定。 

    *16時、Gmundenグムンデンに到着した。
    初めに、【Gmundner Keramik Manufakturグムンデン陶器製作所】を訪ねた。

    <グムンデン陶器工場>(16:10-16:40)
    グムンデンはオーストリアの人々にも愛用されている「グムンデン焼きの陶器」の生産地であり、早速、工場に行ってみる。
    工場見学は時間的に無理であったので、販売所に行き、土産物を探した。
    グムンデン焼きは独特の色合いだが、記念の土産にと“Teewärmerテーバーマー”(紅茶やコーヒーを温めておくもの)を一つ購入し、紙ナプキン数セットもついでに買った。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    以下はオーストリア観光局HPの説明に追記した。

    【Gmundner Keramik Manufakturグムンデン陶器製作所】
    A-4810 Gmunden 、Keramikstraße 24

    Gmundner Keramikグムンデン工房の代表的なデザインであり、熱狂的なファンに支持されているのが、「Grüngeflammtグリーンのゲフラムテ」です。
    この白地を背景に楽しげに渦を巻く太いグリーンの線は、17世紀以来、皿やカップ、花瓶、オーブンのタイルなどを、優雅に飾ってきました。

    このデザインによってグムンデン陶器工房は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇室全体の御用達陶器工房としての地位を獲得しました。それ以来、陶器工房は、オーバーエステライヒ州ザルツカンマーグート地方ののどかな湖畔の町、Gmunden amTraunグムンデン・アム・トラウンに確固たる会社として根付いています。

    オーストリアの家庭のほとんどが、グムンデン陶器の製品を持っています。そして、この中央ヨーロッパ最大の陶器製造会社の製品で、未だに最も人気が高いのが、古典的なデザインの「geflammtゲフラムテ」です。
    その次に人気があるのが、花々のデザインの「Streublumenシュトロイブルーメン」(可愛い小花)と、牡鹿の絵柄の「Hirschenヒルシェン」(牡鹿)です。この牡鹿デザインの色彩設計を、緑でも赤でもなく、エレガントなグレーに変えるだけで、皿に繊細に描かれた牡鹿の絵柄に、新たな活き活きとした命が吹き込まれ、その表情に変化を与えます。この色彩の陶器デザインは、モダンな都会生活にマッチします。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    4.0

  • グムンデン:トラウン湖上のSeeschloss Ortオルト城は大変古い可愛い城で、TV撮影でも人気だと云う。

    投稿日 2015年09月24日

    オルト城 グムンデン

    総合評価:5.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇后 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    4/28(水) 快晴 230km

    朝食8:30、買物、デュルンシュタイン10:00スタート、BST33-Kremsクレムス、ドナウ川右岸:Schloss Schönbühelシェーンビュール城、―(Melkメルク)ATB A1/A7-Linzリンツ 13:00  = 140km 予定、昼食“Wienerwald”13:10-14:00、リンツ市内観光:リンツ城、市庁舎、州庁舎等、15:20スタート、ATB A7/A1―(Steyrermühl)-BST144-Gmunden 16:00、グムンデン陶器工場16:10-16:40、オルト城16:50-17:20、ホテル17:30= 70km 合計 210km予定。 

    *16時、Gmundenに到着した。グムンデンはザルツカンマーグート地域で第二の湖であるTraunseeトラウン湖---南北12km、最深部は200m---の北端にあり、岩塩の交易で栄えたケルト人の町として、古い歴史に登場する。
    今はヨーゼフ皇帝の保養地としての方が有名である。先日、訪問したBad Ischlバート・イシュル は33kmの距離です。
    昔から、芸術家が訪れて、シューベルトは1825年から2年間、ブラームスは1890年から6年もこの地に暮らしたそうです。 


    今日で8日目、もう半分を過ぎてしまった!!!   

    町の南西にトラウン湖に突き出すように立っている“Seeschloss Ort・湖上の城オルト”は909年に史料に出てくるという、大変古い島上の可愛い城です。
    現在は一泊予定の古城ホテル ライトト城の経営となっていて、人気のカフェ・レストランが城内にある。
    又、素晴らしい景観をバック、この地を舞台にして、オーストリアのTV人気番組が撮影されているとのことだ。

    駐車場からの道は、自然保護地域になっていて、木々や芦が育って、鳥類等には、恵まれた場所である。

    橋を渡って、中庭に入る。城内は小さな狭い空間である。時間的に人も少なく、レストランにも人が見えない。

    橋の上から見た対岸には今夜の古城ホテル・フライジット・ライト城らしき建物も見え、周辺の緑の中、湖を囲むようにきれいな建物が並んでいる。

    青い湖には小さなボートや、ヨットが何隻か浮かんで、ゆったり、のんびりした保養地らしい眺めである。  
    この風景を見ると、イギリスやスイスの湖水地方に勝ると言われるのも納得です。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    (更新:2024年9月14日)

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    3.5

  • グムンデン:トラウン湖の眺望を楽しめる古城ホテル フライジット ロイト

    投稿日 2015年09月24日

    シュロスホテル フレイシッツ ロイス グムンデン

    総合評価:4.5

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇后 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)


    4/28(水) 快晴 230km

    *ヴァッハウ渓谷を昨日とは逆に右岸を走り、ドナウ川を遡り、古城の跡を遠望しながら、メルクに至り、更にリンツ観光をして、17時半、Gmundenグムンデンに到着しました。先日、訪問したBad Ischlバート・イシュルは33kmの距離です。
    当地はザルツカンマーグート地域で第二の湖であるトラウン湖の北端に位置して、グムンデン陶器の産地で知られています。
    昔から、芸術家が訪れて、シューベルトは1825年から2年間、ブラームスは1890年から6年もこの地に暮らしたそうです。

    【Schlosshotel Freisitz Roith古城ホテル フライジット ロイト】
    (4星・全23室) Euro124    
    A-4810 Gmunden、Traunsteinerstr. 87             
    TEL:43(0)―7612―64905、FAX:43(0)―7612―64905―17  
    http://www.freisitzroith.at/
     

    古城ホテルは湖の東側の小高い丘の上にありました。
    昔からこの湖とその周辺を領する者の城として建てられ、16世紀の中頃に騎士の城となり、そして何回かの変遷の後、1964年、現在のようなホテルに模様替えし、1996年、現在の経営者によって、テラスレストランをふくむ、古城ホテルに生まれ変わったとのこと。19の部屋と4つのスィートをもつ、プチホテルといえます。
    部屋にも果物と共に歓迎のカードがあって、気遣いは良く感じられました。

    3階の部屋からの、トラウン湖の眺望が素晴らしく、落ち着いた色合いの部屋に大満足です。湖の周辺の高い山々はまだ一部に雪を残し、湖や湖畔の木々の青さとのコントラストは美しく、芸術家達がこの地に足を留めたのも、無理からぬものでしょう。

    丁度、窓から見る真正面に、先程まで見てきたSeeschloss Ort湖上のオルト城 ----町の南西、湖岸から湖に突き出たように立っていて、909年に史料に出てくるという、大変古い島上の城です。城までは橋が掛かっていて、現在はこの古城ホテルの経営となっていて、カフェ-レストランは人気があるようです。又、この地を舞台にオーストリアのTV人気番組が撮影されているとの事です----が見える。
    この風景を見ると、イギリスやスイスの湖水地方に勝ると言われるのも納得です。

    このホテルには“Wintergarten-Terrasseヴィンターガルテン-テラス mit seeblick湖への眺望の良いテラス付の温室の意”と称するメインレストランがあり、ARAL評価で13点。レストランは湖に向かって、ホテルの本館に併設されている。
    現代風のレストランだが、評判は良いようで、水曜日にも拘らず、19時の予約にネクタイ、背広姿で席についてみると、殆ど満席でした。
    町の会合と思われる団体客もあって、大変賑やかです。
    さすがに肌寒く、窓の外のテラス席には一組だけでしたが。              

    さて夕食は
    アペリティーフは女性陣三人がシャンパン、私がシェリーを注文。

    シェフの御挨拶が出て、次の前菜は三人がシュパーゲル(白アスパラ)のスープ、娘さん一人がジャガイモとマッシュルームのテリーヌ、カニのタルタルソース付きを。
    メインは家内はトラウン湖の川魚にベネチアン風野菜とパリ風のジャガイモ添えと、
    私は新鮮なシュパーゲルにオランダ風ソースをかけた、ジャガイモと子牛の肉を添えた料理です。これはIさん親子の二人も魚とシュパーゲルに分かれて注文した。
    デザートはアイスクリームとチーズの盛り合わせ。
    尚、食事に合わせたワイン(ヴァッハウ渓谷地域のものを中心に、メニュー参照)が用意されていて、こちらもまた十分楽しみました。

    私はアスパラずくめでしたが、全て美味しく頂きました。
    2時間半の夕食は皆さんも大変満足していました。

    19:00-21:35 Euro269.10(4人分) 

    XXX
    (更新:20240905)

    旅行時期
    2004年04月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    友人
    1人1泊予算
    15,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    4.0
    バスルーム:
    5.0
    ロケーション:
    5.0
    客室:
    5.0

  • グラーツ:ハウプト広場にある貴賤結婚したヨハン大公の像、近くの楽しいカラクリ時計は見ものだ。

    投稿日 2024年09月03日

    グラーツ市歴史地区 グラーツ

    総合評価:5.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇后 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    <2004年4月24日(土)朝は小雨、曇り後晴、時々シャワー、246km>
    Graz 13:30、グラーツ午後市内観光:エレベーターで城山へ。時計塔、
    昼食“Aiola”14:40-15:40、武器博物館、州庁舎、市庁舎、ハウプト広場、
    ヨハン大公像、劇場、王宮、Cafe17:20-17:50、グロッケンシュピール
    (仕掛け時計)18:00。 

    *旧市街にある武器博物館、州庁舎を見て、ハウプト広場にあるヨハン大公像や
    すこし離れたグロッケンシュピール広場の仕掛け時計を見る。

    <シュタイアーマルクのプリンス、Erzherzog Johannヨハン大公の像>

    ヨハン大公の像は旧市街の中心Hauptplatzハウプト広場の真ん中に立っている。
    銅像の南側には市庁舎があり、文字通りの中心地である。
    ヨハン大公が1859年に亡くなった後、1878年に銅像と噴水が一体となった形で造られた。ヨハン大公像が四人の女性を配した大きな噴水の中央にたてられている。

    Erzherzog Johann Baptist von Österreichヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ大公(1782~1859年)は、ハプスブルク家出身のオーストリア帝国の軍人、皇族であり、1848年革命期のReichsverweserドイツ帝国摂政であった。

    ヨハン大公として知られ、山登り好きで、スイスの山岳を愛したことから「アルプス王」と称され、グラーツの様々な改革をしたことで慕われ、民衆からも親しみをもって「Steiermarkシュタイアーマルクのプリンス」とも呼ばれた。
    驚くことに、平民の娘Anna Maria アンナ・プロッフル(1804~1885年:後に「ブラントホーフ男爵夫人」及び「メラン伯爵夫人」の称号を得る)と1829年2月、皇帝からの正式な許可が下り、社会的な身分差と22歳の年齢差を越えて「貴賤結婚」をした。

    尚、有名な「ヨハン大公のヨーデル」に歌われている。
    ヨハン大公のヨーデル(オーストリア民謡) Angela Wiedl - Erzherzog Johann Jodler
    https://youtu.be/YvGATm_CbMU

    <Glockenspielカラクリ時計とGlockenspielplatzグロッケンシュピール広場 >

    Glockenspielhaus: Abraham-a-Santa Clara-Gasse 4

    カラクリ時計を見るのは好きで、この町でもぜひ見たいとやって来た。
    からくり時計はグラーツの旧市街、大聖堂と市庁舎の中間くらいにある。
    このカラクリ時計は、1903年から1905年にかけて、メーカーのGottfried Simon Maurerゴットフリート・サイモン・マウラーから市への贈り物として作られた。すぐに町の人達の人気のアトラクションになり、1908年以来、その場所はグロッケンシュピール広場と呼ばれている。
    からくり時計が動くのは1日3回、午前11時、15時、18時ですが、私共は最後の機会である18時に仕掛け時計を見に来ました。

    定刻に時計のチャイムが鳴り、ドアが開き、民族衣装をつけた男女が24個の鐘の音に合わせて、踊りだす。くるくると回る単純な仕掛けですが、思っていた以上に長い15分間の踊りでした。曲目はシーズンによって変わるそうだが。
    ミュンヘン市庁舎ほどの大きな仕掛けではないものの、100年も前からきちんと動いているから、ビックリです。 

    ・・・・・

    (オーストリア観光局、およびWiki参考)


    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • ウィーン:グリンツィングのホイリゲ酒場、3時間半の飲み会を“Zum Martin Seppツム・マルティン・ゼップ“で

    投稿日 2015年08月25日

    ツム マーティン セップ ウィーン

    総合評価:4.5

    南ドイツとオーストリア周遊の旅       
    ( 2004年4月21日~5月4日 :2週間 )
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世  と 
     オーストリア皇后 エリザベート ----愛称 “シシィ” を 巡る旅* 

    4月26日(月)

    今夜はグリンツィングのホイリゲ酒場にご案内です。できたてのワインを飲ます酒場をホイリゲ---今年のという意---と呼んでいます。実際は毎年11月11日に解禁ですので、季節的には外れていますが、行って見ると、バスで来た観光客でそこらの酒場は一杯です。

    Grinzingグリンツィング---Heurigeホイリゲ“Zum Martin Sepp・ツム・マルティン・ゼップ“は以前にも来た店で、子供ずれでも、あまり違和感もありません。

    入ってみると庭には人がいっぱいで、楽人がシュランメルという19世紀にウィーンで広まった、大衆音楽をやって賑やかです。少し寒かったこともあって、我々は建物の中で食事を摂ることにしました。

    スピリッツのシュナップス、ビール、ワインをやりながら、居酒屋にぴったりのハム、ソーセージ等の料理やビュッフェカウンターでチーズ、豆、ポテト等の好みのものを取ってきて食べ、3時間半の飲み会は話も弾み、みなさんとてもご機嫌でした。
    店内を見るともう人が居なくなりつつある時刻でした。Euro100の宴も終り、それからが、又大変です。

    一方通行の道を出ざるをえなくなり、出たら道に迷い、丘の上の古城ホテル ヴィルヘルミネンベルク城に帰るのに苦労しました。私は酔った訳ではありませんが?!----最初のシュナップス、40度位の蒸留酒ですが---効いたようですね。 (18:30~22:00)

    ほんのちょっとの近さであったはずでしたのに?!!!  

    (更新:20240904)

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    一人当たり予算
    5,000円未満
    利用形態
    ディナー
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    4.0
    雰囲気:
    4.5
    料理・味:
    4.0

  • グラーツのシュロスベルク(城山)=要塞はオスマントルコ軍の来襲に備えて築城され、難攻不落を誇った。

    投稿日 2024年08月30日

    シュロスベルク グラーツ

    総合評価:4.5

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇妃 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    <2004年4月24日(土)朝は小雨、曇り後晴、時々シャワー、246km>
    Graz 13:30、グラーツ午後市内観光:エレベーターで城山へ。時計塔、
    昼食“Aiola”14:40-15:40、武器博物館、州庁舎、市庁舎、ハウプト広場、
    ヨハン大公像、劇場、王宮、Cafe17:20-17:50、グロッケンシュピール
    (仕掛け時計)18:00。 

    Grazグラーツは日本人観光客にはあまり知られていない町だが、22万人程(我が故郷青梅市と同じぐらい)の人口をもち、ウィーンに次ぐ、この国第二の都市なのです。
    手元の昭文社オーストリア・ハンガリー2003年版でもオーストリアはウィーン、ザルツブルク、インスブルックといった有名所に比して、リンツ共々グラーツは扱いも少ない、たった9頁の観光案内になっていた。 
    州都であり、大学都市とも言われ、俳優アーノルド・シュヴァルツェネッガーや指揮者のカール・ベームの出身地とのことで、なかなかの都市なのだ。

    茶色の屋根の波が続いている町並みは大変きれいなもので、町中を流れるMurムーア川(全長464km)で新・旧市街が分かれている。
    そのムーア川の中州に妙なドームのような建物があった。一見して、シュヴァルツェネッガーが“寄進”したものかと思った。
    「ムーア川に浮かぶ貝」という名のMurinselムーアインゼル(ムーア島)だ。2003年、この年の「欧州文化首都」にグラーツが選ばれたことを記念して建造されたそうだが、昨年の完工だけにまだ新しいが、奇妙な形がこの町にそぐわないようにも思えた。
    ムーアインゼル(ムーア島)は長さ約50m、幅約20mで、人工の中洲に2本の桟橋でもって、両岸とつながっている。建物の中にはカフェとシアターがあるそうだ。
    この時はただフーンと思って、写真に撮っただけだ。

    さて、旧市街にある古城ホテルSchlossberg Hotelにチェックインし、車もパークハウスに入れてもらい、早速、市内観光に出かける。ホテル近くの岩盤をくりぬいたリフトで、城山に上る。グラーツのシンボルである時計塔をみて、市内の眺望を楽しんだ。

    <Schlossbergシュロスベルク(城山)とUhrturm時計塔>
    シュロスベルク(城山)は旧市街の北部、海抜473mの高さにあり、かつて欧州を悩ませたオスマントルコ軍の来襲に備えて、皇帝Ferdinand Iフェルディナント1世(1503~1564年)によって築かれた城塞は、全時代を通じもっとも堅固な城塞とされている。
    19世紀初頭、皇帝ナポレオン1世(1769~1821年)でさえも、この城塞を陥落させることができなかった。1809年、ナポレオン軍がウィーンを占領したため、グラーツも降伏せざるを得なかったと云う。降伏時、要塞の施設は今に残る鐘楼と時計塔を除いて全て破壊された。
    28mの塔に掲げられた時計は、1712年来、正確に時刻を刻み続けていると云う。
    (オーストリア観光局の資料参考)

    ・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.5

  • グラーツで見たかったのは州立武器庫、見事な彫り物がある銀製の甲冑が気に入った。

    投稿日 2024年08月28日

    武器博物館 グラーツ

    総合評価:4.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇妃 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    <2004年4月24日(土)朝は小雨、曇り後晴、時々シャワー、246km>
    Graz 13:30、グラーツ午後市内観光:エレベーターで城山へ。時計塔、
    昼食“Aiola”14:40-15:40、武器博物館、州庁舎、市庁舎、ハウプト広場、
    ヨハン大公像、劇場、王宮、Cafe17:20-17:50、グロッケンシュピール
    (仕掛け時計)18:00。 

    *Grazグラーツに向かう。Radstadt を経由し、時折の雨シャワーの中、エンスタール渓谷をぬけ、山間の村々も目覚めだした春を感じさせて、快い運転が続く。途中、Groemingと言う小さな村落で、コーヒータイムを取る。渓谷中流の城、Trautenfelsトラウテンフェルス城を---ちょっと、寄り道をしたい城でしたが----横目に、ひたすらグラーツに向けて走る。国道から、さらに高速道路にのり、延々と続く、滑り台のような、下りの高速道路を一路、グラーツへ走る。凡そ250kmを走り、13時半、ホテルに到着する。

    Grazグラーツは22万人程の人口をもち、ウイーンに次ぐこの国第二の都市です。
    州都であり、大学都市とも言われ、俳優アーノルド・シュヴァルツェネッガーや指揮者のカール・ベームの出身地とのことだ。
    茶色の屋根の波が続いている町並みは大変きれいなもので、町中を流れるムーア川で新・旧市街が分かれています。

    旧市街にあるホテルにチェックインし、車もパークハウスに入れてもらい、早速、市内観光に出かける。ホテル近くの岩盤をくりぬいたリフトで、城山に上る。グラーツのシンボルである、時計塔をみて、市内の眺望を楽しむ。

    リフト傍のレストランで簡単な食事をすませ、町中の州立武器庫(武器博物館)をさがす。
    地図を見誤ったか?通り過ごしてしまった。

    【グラーツで見たかったのは州立武器庫(武器博物館)】

    15世紀オスマントルコへの東の砦として、グラーツは重要な位置を占めていた為、この5階建ての建物一杯に、世界最大(3万点以上の展示)と云われる武器が集められた。
    甲冑、槍、銃、刀が各階に一杯である。
    見事な彫り物がある銀製の甲冑など、私には大変興味深いものであったが、女性陣には面白みが無かったか?


    ・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    5.0

  • シュタルンベルク湖畔のBergベルクはルートヴィヒ2世の終焉の地である。

    投稿日 2024年08月26日

    ヴォティーフ礼拝堂と記念十字架 バイエルン州

    総合評価:5.0

    【シュタルンベルク湖畔のBergベルクはルートヴィヒ2世の終焉の地である】

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *バイエルン国王 ルートヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇妃 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    (2004年4月21日-5月4日)

    5月02日 (日) 曇り、後晴 78km

    朝食8:30、ホテル・カイザリンエリザベートをスタート9:30、行程は昨日と同じ= 60km予定、ミュンヘン市内観光:アルテピナコテーク美術館・昼食“アルテピナコテーク・カフェ”・ノイエピナコテーク美術館、=>Bergベルク:ルートヴィヒ2世終焉の地、礼拝堂、Hotel Schloss Berg のカフェ16:10-16:40、ホテル・カイザリンエリザベート17:00。 

    *ミュンヘンには心残りもあるが、これを残してはいけないと、シュタルンベルクゼー・フェルダフィングの対岸にあるBergベルク・・・*Ludwig II.ルートヴィヒ2世の終焉の地・・・に車を走らせる。

    Hotel Schloss Berg 古城ホテル シュロス ベルクの駐車場に車をおき、徒歩で水辺にあるという最後の地に向かう。登り降りの村の道を通り、森の中の道を行くと、目の前にルートヴィヒ2世のVotivkapelle(奉納された)礼拝堂が出てきた。
    礼拝堂の正面玄関下の湖畔に、水際から数メートルの位置に、十字架が立っている。
    折から急に雨模様の暗い天気になり、水面は暗い。

    1886年6月12日、ルートヴィヒ2世は*精神的障害ありとして、40歳の王は逮捕され廃位されたのち、ベルク城に幽閉された。
    翌13日朝、ルートヴィヒ2世は医師のBernhard von Guddenベルンハルト・フォン・グッデンと共に散歩に出たまま帰らず、雨も激しく、暗い湖上に其の遺体が発見される。いまだに、二人の死は自殺か、他殺なのか、不明で、謎の死となっている。
    公式発表に従うところによると、1886年6月13日にベルク城から遠くないシュタルンベルク湖にて溺死したという。
    その後、亡骸が発見されたシュタルンベルク湖畔にはルートヴィヒ2世を偲ぶVotivkapelle(奉納された)礼拝堂が建てられ、岸に近い湖面に木製の十字架が建てられている。

    *Ludwig II.ルートヴィヒ2世(1845年8月25日 - 1886年6月13日)は、第4代バイエルン国王(在位:1864年 - 1886年)。戯曲・オペラに魅了され、長じては建築と音楽に破滅的浪費を繰り返した「狂王」の異名で知られる。ノイシュヴァンシュタイン城やバイロイト祝祭劇場を残し、後者には文字通り世界中より音楽愛好家が集まっている。若い頃は美貌に恵まれ、多くの画家らによって描かれた。

    シュタルンベルク湖の観光船の船着場もある、*古城ホテル シュロス ベルクのテラスでコーヒー、カプチーノ、アイスコーヒーを飲み(EURO 20)、近くを気持ち良さそうに、ボートを漕ぐカップルを眺めて、ゆったりとした時間を過ごす。

    終焉地にいた時は暗い、ぽつぽつと雨が降り出した天気でしたが、不思議な事に、ここは青空に、明るい陽の光です。もうテラスは客でいっぱいです。

    *Hotel Schloss Berg 古城ホテル シュロス ベルク
    D-82335 Berg、Am Oelschlag 9、
    TEL:49(0)8151-9630

    4年後、2008年4月18日(金)~20日(日)に2泊した。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    * Luitpold von Bayernルイトポルト・フォン・バイエルン(1821~1912年)はノイシュヴァンシュタイン城(新白鳥城)で知られるバイエルン王ルートヴィヒ2世の叔父にあたり、1886年6月10日、ルートヴィヒ2世は精神病であると宣言された際に、王国の摂政(Prinzregentプリンツレゲント)となった。国民に人気もあって、各地にその名を付けた場所も多い。
    但し、ルイトポルトは1912年に91歳で死去するまで摂政の地位にあった。摂政の地位は長男ルートヴィヒが嗣いだ。
    摂政ルートヴィヒは翌1913年にルートヴィヒ2世の弟でバイエルン王だったOtto Iオットー1世(1848~1916年)を廃位し、自らルートヴィヒ3世(第6代バイエルン王:在位は1913~1918年)として即位した。

    =>ルートヴィヒ2世の死は破滅的浪費を繰り返した「狂王」の一面も影響したのだろうが、叔父一族との闇に隠れた政治的争いがあったように思える。

    ・・・・・

    【Schloss Berg シュロス ベルク】
    Bergベルク、 Landkreis Starnbergラントクライスシュタルンベルク、Oberbayernオーバーバイエルン、 Bayernバイエルン、
    Wittelsbacherstraße 29ヴィッテルスバッハーシュトラーセ29、
    Nähe Parkwegネヘ パークヴェーク

    Schloss Bergベルク城は、南ドイツのバイエルン州にあるシュタルンベルク湖の東岸に建つ城である。
    (前述したHotel Schloss Berg 古城ホテル シュロス ベルクとは違っている)

    バイエルン選帝侯Ferdinand Maria von Bayernフェルディナント・マリアが1676年にFamilie Hörwartホルヴァルト家から土地を買い取り、城を建てたのが始まりである。豪華なパーティや狩猟大会などでこの城がもっとも栄華を極めたのはMaximilian II. Emanuel (Bayern)マクシミリアン2世エマヌエルと Kaiser Karl VII.神聖ローマ皇帝カール7世の時代であった。

    1849年から1851年にかけて、バイエルン王マクシミリアン2世は新たに土地を買い足し、王室建設官Eduard von Riedelリーデルによって大規模な増改築を行った。

    ルートヴィヒ2世はこの城を夏の離宮として利用した。毎年5月11日になると王は居城をベルク城に移し、ここから国政を取り仕切った。このため、ベルクとミュンヘン王宮のあいだには専用の電信回線まで引かれていた。
    1868年、ロシア皇后 Marija Alexandrownaマリア・アレクサンドロヴナ(Marie von Hessen-Darmstadtヘッセン・ダルムシュタット大公女の出)がルートヴィヒ2世の招待を受けてベルクを訪れた。ルートヴィヒ2世はロシア皇后マリアの滞在中、豪勢に準備させたこの城を居城として明け渡したが、その時以外、王自身の生活のためにはむしろ簡素にされていた。
    ルートヴィヒ2世の死後、ベルク城は博物館となった。王の死後よりまったく手を加えられておらず、歴史的価値が高いとして、1939年には記念館に認定された。
    第二次世界大戦直後の一時期、城はアメリカ軍に使用されていた。第二次世界大戦によって特に被害を受け、崩壊した各塔は、1949年から1951年にかけて取り除かれ、城の根本的な改装がなされることとなった。これによって城は塔を失ったが、礼拝堂は手付かずのまま残された。 (Wiki参考:抜粋)

    (2024年8月25日Wiki・HP参考、訳・編集追記)

    旅行時期
    2004年05月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    2.5
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    3.0

  • ハイドンゆかりのアイゼンシュタットには美しいエステルハージ宮殿がある。

    投稿日 2024年08月22日

    エスターハージー宮殿 アイゼンシュタット

    総合評価:5.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇妃 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    2004年4月25日(日)晴、夕方より曇り、242km

    朝食8:00、グラーツ9:15スタート、ATB A2-(Wr.Neustadt) S4-Eisenstadt 11:00 = 160km 、アイゼンシュタット観光:Schloss Esterhazyエステルハージ宮殿12:00-12:50、ハイドン博物館、昼食“Café Esterhazy“13:30-14:30、A3/A2―Wien15:30 = 50km、シェーンブルン宮殿見学:Imperial Tour・庭園 16:00-17:30、古城ホテルHotel Schloss Wilhelminenbergヴィルヘルミネンベルク(4星・2泊)18:00、

         
    *ハイドンゆかりのハンガリー風な町であるEisenstadtアイゼンシュタットはブルゲンラント州の州都です。といっても人口は13千人というもので、わが故郷青梅市よりもずっと少ない(人口比で十分の一)町です。
    オーストリア東部からハンガリーに広がるPannoniaパンノニア地方の平野の中に、この魅力的な町はあります。周辺にはブドウ畑が広がり、温暖な気候にも恵まれて、良質なワインが生産されるとの事です。
    あの Wolfgangseeヴォルフガングゼーにあるホテル白馬亭で飲んだ赤ワインも州は違いますが、大雑把には地域的にここに近いものと言えましょう。
    町には予定時刻に着きましたが、道を間違い、更に悪いことに市民マラソンの眞最中です。一方通行道路を待たされて、何とか宮殿の地下駐車場に車を入れる事になりました。

    【ハイドンゆかりのアイゼンシュタットには美しいエステルハージ宮殿がある。】

    エステルハージ宮殿は1672年にバロック方式で建てられたエステルハージ侯爵の城です。富を背景とした侯爵家のコレクションは見事なものでした。
    又、宮廷文化の担い手として、ハイドンはここの宮廷の楽長を務め、ハイドン廟、ハイドン博物館、ハイドン音楽祭と、今、この町はハイドン抜きでは語れません。

    宮殿内のハイドン広間では地元中学生のオーケストラが熱心に練習をやっていました。
    しばしの音楽鑑賞です。

    <エステルハージ家の歴史>
    Haus Esterházyエステルハージ家 は、中世から続くハンガリーの貴族である。いくつもの分家がある。
    17世紀からハプスブルク帝国、オーストリア・ハンガリー帝国末まで、ハンガリー王国最大の大地主であり、事業家であった
    元はハンガリー王国の北にあるガランタ(現在のスロヴァキア南西部にある一都市)にあるジェントリであった。一族は、エステルハージ・ニコラウス伯爵(1583–1645)と息子のエステルハージ・パール(1635–1713)侯爵の代で台頭する。
    ハンガリーでは姓名の順で名を表す慣習があるため、それに倣った。
    1626年にニコラウスは伯爵の地位を授けられ、1712年にエステルハージ本家は侯爵の地位を与えられた。エステルハージ家の成功は、着実な土地の蓄積と、カトリック教会とハプスブルク家への忠誠に起因する。

    <ハイドンの事>
    Franz Joseph Haydnフランツ・ヨーゼフ・ハイドン( 1732年~1809年)は交響曲の父と呼ばれる。ハイドンはエステルハージ家に楽長として仕えた。
    現在のオーストリア出身の音楽家であり、古典派を代表する作曲家で、数多くの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。

    特筆すべきは弦楽四重奏曲第77番(第62番)の第2楽章にも用いられた皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』の旋律は、現在ドイツ国歌に用いられている。

    <エステルハージートルテの事>
    Eszterházy Torteエステルハージートルテはハンガリーのケーキの一種。
    オーストリア帝国の外交官であったPaul Anton、Fürst Esterházy de Galantha パウル・アントン・エステルハージ・ガランタに因んで名付けられた。
    19世紀後半にブダペストの菓子職人によって考案され、すぐにオーストリア・ハンガリー帝国で最も有名なケーキの一つとなった。


    見物後、宮殿前の“Café Esterhazyカフェ・エステルハージで昼食(EURO 42・・・13:30~14:30)し、その後は一気にウィーンに向かった。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.0

  • カイザーヴィラは皇帝ヨーゼフ1世とエリザベート皇妃の結婚記念に皇帝の両親から贈られた別荘です。

    投稿日 2024年08月15日

    カイザーヴィラ バート・イシュル

    総合評価:4.5

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇妃 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    4月23日(金)オーストリア・Bad Ischlバート・イシュル:
    Kurhausクーアハウス、Trinkhalleトリンクハレ(飲泉場)、Kaiser Thermeカイザー・テルメ(皇帝浴場)、昼食“Sisi Café”、Kaiservillaカイザーヴィラ(皇帝の別荘)、大理石の小城---写真博物館等。

    *スタート時間をゆっくりとしたので、ドイツのケーニヒス湖、Salzkammergutザルツカンマーグートのハルシュタット、ゴーザウ湖を割愛し、ヴォルフガングゼー、バート・イシュルでの時間を多めにした。

    バート・イシュルはオーストリア有数の保養地として知られている。
    Kurhausクーアハウス(レストラン、コンサートホール、カジノが揃う宮殿風建物)の前に駐車し、町中の見物に出かける。
    温泉水を飲む風習が健康法の一つでもあった当時からのTrinkhalleトリンクハレ(飲泉場)であるが、今は夏季のみの営業で、普段は家具屋さんになっている。家内はここで、カーテンを購入する。
    Kaiser Thermeカイザー・テルメ(皇帝浴場)は温泉プールで温泉療養の人たちが通っている。ちょっと、ホールだけをのぞく。

    その後、其の名も“Sisi Caféシシィ・カフェ”にて、遅い昼食となりました。
    Tさんがスイス・ベルン風ソーセージ、私と家内は牛肉のシチュー(Rindsgulaschリンドグーラッシュ)を、Iさんはシシィの串焼きなる物を注文。ビールなどを飲みながら、結構な量の昼食を頂きました。お値段、EURO34と一人1150円也。

    それから車にちょっと乗って、Kaiservillaカイザーヴィラ(皇帝の別荘)へ。

    オーストリア皇帝Franz Joseph I.フランツ・ヨーゼフ1世 (1830年~1916年)は、このヴィラで毎夏を過ごしたそうです。
    1854年エリザベート皇妃(愛称シシィ:バイエルン王家出身)との結婚記念に皇帝の両親に贈られた別荘です。
    このヴィラはエリザベートのEの形に上から見るとなっている(参考写真参照)。
    残念ながら、5月からの開館でした。この為、丘の上にある、皇妃のティーハウスとして建てられた「大理石の小城」と言われる、現在のPhotomuseum写真博物館を見学する。

    折から、女流写真家の特別展があり、昔の写真やら、写真機の陳列を見て回る。
    最上階の映写室ではエリザベート皇妃の愛したギリシャと其の航海、ギリシャの別荘での生活ぶりの映画が上映されていた。大変、興味深い映像でしたが、ドイツ語のナレーションは私には難しいものでした。
    丘の上から、カイザーヴィラは新緑の中、黄色の館が鮮明に見えました。
    エリザベートも丘の上から、こうして見ていたのでしょうか!!!

    (肝心な事を忘れていました。明日がヨーゼフ皇帝とエリザベート皇妃の結婚150年にあたります。1854年4月24日にウイーンで婚儀が行われた事を忘れていましたが、たまたまTさんのエアーメールの為に寄った郵便局で、親切な局員さんに薦められて、買った切手が結婚150年記念切手でした。
    局の裏手で、其の記念切手にスタンプを押すサービスを受けたまま受け取り、エリザベート皇妃に関係した物とはその時は思わずに日本に持ち帰り、改めて見て、シシィの旅に相応しいものを買ってきたのだと思った次第です)

    ・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.0

  • ヴァッハウ渓谷:念願の5星の古城ホテル デュルンシュタインに泊まり、夕食を楽しんだ。 

    投稿日 2024年08月09日

    ホテル シュロス デュルンシュタイン (レストラン) デュルンシュタイン

    総合評価:5.0

    【ヴァッハウ渓谷では念願の古城ホテル  デュルンシュタインに泊まり、夕食を楽しむべきだろう。】

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    4月27日(火)オーストリア・ヴァッハウ渓谷:ヴィレンドルフのヴィーナス像、古城ホテル デュルンシュタイン

    Melkメルクからドナウ橋を渡るのを地場の方に先導してもらい、ドナウ川の中でも、“銀色に輝く帯”と呼ばれる、ヴァッハウ渓谷の左岸くだりをスタートする。
    ゆったりと、豊かな水の流れ、岸辺に咲く、林檎の白い花、ライラック、タンポポ、菜の花の黄色の絨毯を見ながら、車は進む。

    中世の要塞教会のある、“リースリング”という白ワインの発祥地・Weissenkirchenヴァイセンキルヒェンにいき、村内で食事をしようと、狭い道を車でまわる。村内は休業が多く、適当な所も無いため、船着場前にもどって、カフェ・レストランに入った。

    軽食後、さらにドナウ川沿いをウィーンに向かって走る。ゆっくりと風をうけながら道を走り、ドナウ川に張り出したように立つ、20年ぶりともなる、念願の古城ホテル シュロス・デュルンシュタインの城門を入る。17時に到着。
    私達のレンタカー・メルセデスの後に入ってきた、ミュンヘン・ナンバーのメルセデスの高級車も駐車場に停まり、裕福そうな二組の男女が降りてきました。

    “ヴァッハウ渓谷の珠玉”と云われるDürnsteinデュルンシュタインは真にロマンチックな小さな町です。

    念願の5星の古城ホテル、Schloss Dürnsteinデュルンシュタイン(40室)では、嬉しい事にプレシ-ズンということで、予約した部屋より格上げされた、ドナウ川を眺望できる部屋に変更して頂けました。また、ホテル側の配慮で、レストランもハルブペンジヨン方式(朝、夕食付の部屋料)にしてくれて、この旅で一番高い部屋料でしたが、結果的に安くして頂いた。

    3階でエレベーターを降りると、目の前の空間は、書斎やら、応接の間のような場であり、花や絵画、本、古めかしいピアノ、家具で優雅さを演出しています。
    各部屋はこれを囲むようになっていて、我々の部屋は天井も高く、アンチーク家具が備えられて、落ち着いた良い部屋でした。
    ともかく、窓から見るドナウの眺望は素晴らしく、折からの観光船が到着し、その2隻が相互に向き合っているのが、直ぐ下に見えた。また、テラスレストランとその上に咲き誇っている桜の花、なにやら席に座って歓談している観光客達の姿が見える。後で是非テラスに行ってみたくなりました。
    370年前に侯爵の城としてルネサンス様式で建てられ、ドナウ川に面した、絶好の位置にホテルとして、生まれ変わり、美しいドナウの流れを見下ろすテラスレストランや見事なアンチーク調度品が備わったメインレストランは大変、魅力的でした。
    “王様のように眠り、貴族のように食事をし”と、5星ホテルのパンフレットにありましたが、1泊だけでは残念に思ったものです。

    【Dürnstein :(1泊) 古城ホテルSchloss  Dürnstein (5星・全40室)】 
    A-3601 Dürnstein /Wachau 2
    注:ハルブペンジョン方式を適用された。Euro186。 
    TEL:43(0)―2711―212  、FAX:43(0)―2711―212-30 
    *メインレストランはゴー・ミヨーでは13点。

    <夕食:メインレストランで(予約済み)>
    19:30~22:00  EURO219

    まだ、夕陽も落ちず、用意された窓際の席で、その光を浴びながら、夕食になりました。さすがに、プレシーズンということで、お客さんも多くなく、我々の部屋は我々だけのゆったりした空間です。

    アペリティーフはシェリーを。
    夕食はハルブペンジョン方式でしたが、私とIさんの娘さんは一人EURO22を余分に支払うグルメコースを選び、家内とIさん達はア-ラ-カルト料理を。
    前菜、ス-プ、魚、シャーベット、メイン---また、シュパーゲル料理----そしてデザートが付くコースがグルメコースです。

    ア-ラ-カルト料理はスープの後は川魚を家内が、骨付きの子牛肉をIママが選びました。予想していましたが、やはり量が多くて、お互いに料理を分けて食べるなどと、他の客を気にしなくて良いので、気軽にやりました。
    残念ながら、普段お願いするのを忘れたため、持ち帰る保存用の料理メニューがなく、記憶が酒の為か、不鮮明になってしまいました。

    そのお酒ですが、ワインはまず白を、当ホテルのお奨めのRG V.Schlossbergを注文する。オーストリアの白は定評あるとの事ですが、さっぱりとした辛口で、見直しました。

    赤はこれもお奨めのヴァッハウ渓谷、Kremstal産‘02年Pinot Noir Malat で辛口。言われた程には、渋み、重さは中程度でしたが、料理にはよくあっていました。
    其々の地場産を飲めることは旅行だからこその楽しみですが、お値段も安く、其々が22(3千円)、EURO33(4.5千円)でした。

    エチケット---ワインラベルのことですが、記念にと二本のエチケットを外して欲しいとお願いしたところ、担当のスタッフ嬢は白のラベル外しに失敗し、気の毒なくらいに赤くなって詫びていました。
    赤は見事にとれて、スタッフ嬢は満面の笑みを浮かべて、持ってきました。
    お食事代はワイン代を入れて、EURO219でした。この辺は予算通り。
     

    こうして、2時間半のお食事は貴族をちょっと真似た程度で終わり、その後は酒の酔いと共に王様の如く眠りました。


    XXXXX

    王様の如く、眠った翌日は、朝食も進みます。
    朝食にはもったいないレストランで、多様なハム、果物類、卵、蜂蜜、ジャム、そして、新鮮なジュース等、こたえられない美味しい朝食です。日本ではまず無理な、パン、ハム、ジャム、蜂蜜の味です。

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    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    利用形態
    ディナー
    アクセス:
    3.5
    サービス:
    4.5
    雰囲気:
    5.0
    料理・味:
    4.5

  • ヴァッハウ渓谷ではアッグシュタイン城址よりもヴィレンドルフのヴィーナス像が興味深い。

    投稿日 2024年08月07日

    アックシュタイン城 ヴァッハウ渓谷周辺

    総合評価:5.0

    【ヴァッハウ渓谷ではアッグシュタイン城址よりもヴィレンドルフのヴィーナス像が興味深い。】

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    4月27日(火)オーストリア・ヴァッハウ渓谷:ヴィレンドルフのヴィーナス像、古城ホテル デュルンシュタイン

    Melkメルクからドナウ橋を渡るのを地場の方に先導してもらい、ドナウ川の中でも、“銀色に輝く帯”と呼ばれる、ヴァッハウ渓谷の左岸くだりをスタートする。
    ゆったりと、豊かな水の流れ、岸辺に咲く、林檎の白い花、ライラック、タンポポ、菜の花の黄色の絨毯を見ながら、車は進む。

    東山魁夷の本(1971年に発行された高名な日本画家である東山魁夷・・・画家には珍しく、フランスではなく、ドイツに留学した“ドイツ学派”・・・のドイツ・オーストリア紀行文、【馬車よ、ゆっくり走れ】)で知ったWillendorfヴィレンドルフの村の事、思い出して、是非訪れてみたいと思っていた。
    この場所のことは、意外なことに当時の日本の観光案内書には何も書かれていなかった。
    小さな村、Willendorfヴィレンドルフに入る道を行き過ぎてしまい、ユータンして、村内へ。村はずれの、ドナウ川を見下す小高い丘の上に、旧石器時代のVenus von Willendorf ヴィレンドルフのヴィーナス像・・・本物はウィーン自然史博物館の蒐集品になっている・・・が見事な形で立っています。駐在中の夏季休暇で、もう20年前に訪れた時よりも、ちょっときれいに整備された丘があった。
    実際のヴィーナス像は女性の姿をかたどった高さ 11.1cm の小像である。1908年に、ヴィレンドルフ近くの旧石器時代の遺跡で、同国出身の考古学者ヨーゼフ・ソンバティが発見した。
    豊穣と多産を意味した姿にみなさん、ついつい笑みが浮かびます。

    ちょうど、丘から15世の盗賊騎士で知られる“Burg Aggsteinアッグシュタイン城址”が遠望できます。

    ・・・・・

    そして、中世の要塞教会のある、“リースリング”という白ワインの発祥地・Weissenkirchenヴァイセンキルヒェンにいき、村内で食事をしようと、狭い道を車でまわる。村内は休業が多く、適当な所も無いため、船着場前にもどって、カフェ・レストランに入った。

    軽食後、さらにドナウ川沿いをウィーンに向かって走る。ゆっくりと風をうけながら道を走り、ドナウ川に張り出したように立つ、20年ぶりともなる、念願の古城ホテル シュロス・デュルンシュタインの城門を入る。17時に到着。

    XXXXX

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0

  • リトアニア・青い湖に赤レンガが映えて絵のように美しいトラカイ城が浮かぶ。

    投稿日 2024年07月28日

    トラカイ城 ビリニュス

    総合評価:5.0

    ≪リトアニア・青い湖に赤レンガが映えて絵のように美しいトラカイ城が浮かぶ。≫

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>

     “リトアニアの国名の由来”は国の中央を流れるLietauka リェタウカ川(距離11kmと短い川でネリス川の支流)からきたとされている。天気が変わりやすく、雨が多いリトアニアは『雨の降る国』の意味が有るとか!一般には国名は雨(Lietus)に因んだものと言うが、どうも誤りらしい。
    尚、この旅で唯一、この日は快晴で、しかも素晴らしい景観に恵まれたのだ。

    首都ヴィリニュスを9:40に出発し、森と湖からなるリトアニア有数の観光地、トラカイへ向かう。距離約25km 所要約40分だった。
    リトアニアの国土は殆どが平原・森・湖沼だそうで、300mの丘が一番高い山?!だ。
    その地に至ると、青い湖に赤レンガが映えて絵のように美しいトラカイ城が見えた。

    ≪Trakaiトラカイ城観光≫
    (10:15~11:40)

    ヴィリニュスに首都を移る以前に、この国の首都が置かれていた町Trakaiトラカイは赤レンガの古城が水面に映え、絵のような美しい観光地だった。
    黄葉の時期の訪問という事もあったか、自然公園の湖と森に囲まれ、静かな所でした。

    14世紀後半にチュートン騎士団の侵略を防ぐため、ヴィタウタス大公により築城された。
    ドイツ騎士団・・独語で Deutscher Ordenのことだが、英語では Teutonic Knightsと言い、1226年、バルト海南岸のクルムラントを異教徒から防衛する為に、キリスト教徒であったポーランド貴族に要請され、後のプロイセン王国の建国に繋がる東方植民の先駆けとなった騎士団の事だ。
    築城者のヴィタウタス大公の死後、城は荒れ果て、廃墟となったが、1961年から30年以上かけ、15世紀の時代風に復元された。

    10月中旬を過ぎ、霜が降りて真っ白になっている桟橋を小島に向かう。

    トラカイ城に入ると、城壁内の広い中庭、城への跳ね橋、緊急時の避難路、掘割、大広間、城内博物館にはコイン、宝物、歴代城主像、*タンネンベルクの戦い(独語:Schlacht bei Tannenberg)の図などを見る事が出来た。

    景色のよい場所にある古城・・・残念ながら展示された中身は少ない。

    ・・・・・

    さて、*タンネンベルクの戦い又はグルンヴァルトの戦いは、1410年7月15日、ポーランド・リトアニア連合軍とドイツ騎士団の間で戦われた戦闘である。現在のポーランド領、グルンヴァルト村・ステンバルク(タンネンベルク)村とウォドヴィゴヴォ村の間にある平原で戦われた。 
    ポーランド王兼リトアニア大公の率いる、ポーランド・リトアニア連合軍39,000人、対するドイツ騎士団軍は27,000人の規模であったと云う。戦いはリトアニアの軽騎兵・重騎兵が騎士団の隊列を打ち破り、連合軍の勝利に終わった。

    もう一つのタンネンベルクの戦いは第一次世界大戦が勃発した1914年に、ドイツ帝国が東部戦線に於いて、ロシア帝国を破った戦いである。
    1914年8月17日から9月2日にかけ、ロシアの第1軍と第2軍、ドイツの第8軍によって戦われ、大勝利したのはドイツでした。
    実際の戦闘の場所はタンネンベルクではなかったようですが、勝ったドイツ帝国が、1410年の雪辱を果たしたとして、この戦いもタンネンベルクの戦いと呼んだ。
    この辺りがドイツ人の性格を示して面白いのだが。

    毎年7月になると、この中世の戦いを記念して、ヨーロッパから何千人もの騎士たちが参集して、タンネンベルク(Grunwaldグルンヴァルト)古戦場跡で戦いを再現している。

    ・・・・・

    比較的紅葉した森をバックに怖い顔のヴィタウタス大公の像を撮って、ヴィリニュスに向かい帰途に就く。

    XXX

    (2024年7月28日改定)

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    3.0

  • 駆け足で巡ったカウナス旧市街:威容ある聖ミカエル大聖堂、美しい旧市庁舎など見所も多い。

    投稿日 2024年07月27日

    ミカエル教会 カウナス

    総合評価:4.0

    ≪駆け足で巡ったカウナス旧市街:威容ある聖ミカエル大聖堂、美しい旧市庁舎など見所も多い≫

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月21日(水)朝の内、日中時々小雨。~5℃。>

    「カウナス旧市街観光」

    8:40にホテル近くの散策に出た。カウナス旧市街の東、小雨がぱらつく、寒い朝でしたが、重々しい聖ミカエル大聖堂傍の樫の木広場を通り、大聖堂から一直線に伸びる菩提樹の並木道をしばし歩いた。黄葉した落ち葉が小雨に濡れて、冬の到来を暗示していた。(~9:10)

    聖ミカエル大聖堂Die Kirche des Heiligen Erzengels Michael:
    元々はロシア正教会の教会で、主にカウナス城に駐屯するロシア兵士の祈りの場として1893年に建設された。それほど古い建物ではないが、菩提樹の並木道の先に堂々たる威容を見せている。
    第一次世界大戦中はドイツ当局によって閉鎖され、大戦中はカトリック教会として使われた。1944年から1990年のソビエト連邦による占領下においては美術館として利用され、リトアニアが再独立を果たすとともにカトリック教会に戻された。

    カウナス城:
    13世紀にドイツ騎士団の侵略を防ぐために造られた城で、当時の首都トラカイ城への防御拠点となっていた。この為、リトアニアで唯一の二重の城壁を備え、他の城と違って、幅2m、高さ13mにも及ぶ石造りの城壁を備え、頑強さを誇ったらしい。
    Vilniusから流れ下ったネリス川はこのKaunasでネムナス川に合流するが、合流点あたりに城がある。このネムナス川は当時、騎士団領とリトアニアとの国境でもあり、何度もこの辺りは戦場となったようだ。
    1363年には騎士団に占領され、破壊されたが、15世紀にヴィタウタス大公時代に再建された。現在は美術博物館として利用されている。
    この日は修理中でしたので、外観だけの見学。
    近くにヴィタウタス大公でしょうか、大きな石像が立って、笑っているように見えた。

    聖ペテロ&パウロ大聖堂:
    赤いレンガの美しい教会には見事な祭壇が見られる。それは大理石の柱、壁一面のフレスコ画と彫刻で飾られている。礼拝堂には見事なマリア昇天図もなかなかのものだ。
    現在リトアニアのカトリックの枢機卿がここを本拠にしている。国民の80%をカトリックが占めているが、以前いた司祭は27人から2人になったと云う。

    通称”白鳥”と呼ばれる美しい旧市庁舎:
    広い市庁舎広場に建つ旧市庁舎は美しいバロック様式の建物である。
    尚、庁舎内に観光案内所がある。
    1542年に最初の基石が置かれ、18世紀の半ばに現在の姿に立て直されている。その間、軍需品倉庫、政治犯の牢獄、宮殿、ロシアの劇場などに利用されてきた。
    今は市民の結婚式場や陶磁器博物館になっているようだ。
    外観だけであった聖ミカエル大聖堂、カウナス城、そしてここ旧市庁舎も外観だけの写真になったが、いずれに記憶に残る建物だった。

    聖ベルナルディン修道院:
    フランシスコ ザビエル教会 (イエズス教会)のことである。
    市庁舎広場の一方に建つ、二つの尖塔を持つ、長方形の建物がその修道院である。
    1666年に完成したイエズス会修道院はその後、聖フランシス教会、ロシア正教の所有と変遷し、第一次大戦後のリトアニアでは教会、学校となり、また、ソ連支配下なると修道院は工科大学、教会部分は体育館として使われたと云う。
    現在は漸く元に戻り、イエズス会修道院になったそうだ。塔の高さは48m。

    雷神ベルクーナスの家:
    広場から少し歩くと、15世紀に建てられたゴシック様式の建物が見える。
    赤レンガの建物はハンザ商人の住居のように見えたが、言い伝えでは、ここには、雷神ベルクーナスを祀る神殿があったそうだ。現在は図書館。

    ヴィタウタス大公教会:
    ベルクーナスの家の前の通りから数十メートル先のナムネス川の畔に15世紀前半に建てられたゴシック様式の教会である。
    タタール征伐に出陣したヴィタウタス大公(1352年~1430年)が、戦場で奇跡的に命拾いした感謝の印に建てたと云われる。
    教会横に1946年3月24日、洪水の為、水嵩が2.9mにもなったと云う白い線が見えた。

    ・・・・・・・・・・・・・

    昼食後、13:10、これからリトアニアの象徴・十字架の丘(Kryžių Kalnas)に立寄り、第二の国ラトヴィアの首都リガへ向かう。

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    4.0

  • リトアニア・かつての首都カウナスでまず行くべき所は杉原記念館であろう。

    投稿日 2024年07月25日

    杉原記念館 カウナス

    総合評価:5.0

    ≪リトアニア・かつての首都カウナスでまず行くべき所は杉原記念館であろう。≫

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月21日(水)朝の内、日中時々小雨。~5℃。>

    Lithuaniaリトアニア・かつての首都Kaunasカウナス:

    中世の面影を残した、リトアニア第二の都市(人口38万人)で、14世紀の記録に登場する古い町です。15世紀半ばにハンザ同盟の代表部が設けられ、商業活動の中心地として繁栄した。ヴィリニュスがポーランドに占領されていた20年間はリトアニアの首都でした。
    1919年、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約でバルト三国の独立が認められた。リトアニアのドイツ軍が撤退した際、新興ポーランドが新たな国境線を主張し、リトアニアの首都ヴィリニュスを含む地域を自領に取り込んだ。小国の悲劇である。
    ポーランドに首都ヴィリニュスを占領されたままの間、首都は国土の中央部にあるカウナスに移転せざるを得なかった。
    1940年、ソ連のバルト三国占領で国境線は回復され、首都ヴィリニュスがリトアニアに戻ったものの、ソ連支配は1990年の真の独立まで続く事になる。

    ≪杉原千畝(ちうね)記念館≫
    最初に訪れたのは、山の手の高級住宅街にある杉原記念館である。
    8年前に開館した、杉原千畝(ちうね)氏ゆかりの旧日本領事館では各種の展示を拝見し、最後に出身地の岐阜県八百津町が制作した20分程のビデオを観た。杉原千畝氏の事績(後述参照:命のビザの発行)を皆さんが知っていたのかは、定かではありません。しかし、館内で上映された20分程のビデオには皆さん涙をぬぐっておられました。

    世界の歴史に名を残した杉原氏を日本人として忘れえぬ人と認識された事でしょう。
    杉原氏が、その時どのように判断し、決断し、実行したのか、その事を想像するに、すごい事です。

    また、顕彰碑(早稲田大学が2001年に建立し、60本の桜を植樹した)が建つ桜の丘もあるそうだが、残念ながら、ヴィリニュスの川畔にある為、訪問していない。
    碑には「早稲田大学の校友として世界に誇るべき氏の功績を称えて碑を建立すると共に、リトアニア共和国と学術交流による友好関係がさらに深まり花開くことを祈念して桜の木を植樹するものである。2001年10月2日 早稲田大学」とあるそうだ。

    更に2011年10月、母校内(早稲田キャンパス14号館脇)に顕彰碑が建立されているそうだが、母校や郷里岐阜県八百津町はありがたいものだ。

    ・・・・・・・・・・

    この機会に以下の事を書いておきたい。

    *Oskar Schindlerオスカー・シンドラーと杉原 千畝について*

    ユダヤ人ホロコーストに関する映画の代表的作品である『シンドラーのリスト』(1993年米映画)の主人公Oskar Schindlerオスカー・シンドラーはナチ政権下のドイツでユダヤ人1200人を救ったとして知られているが、1974年、ドイツのHildesheimヒルデスハイムで亡くなった。
    但し、彼の墓は彼自身の希望により、エルサレムのローマ・カトリックの教会墓地にある。

    日本の外交官・杉原 千畝(すぎはら ちうね:リトアニアのカウナス領事館勤務)は1940年7月から8月にかけて、避難民だったユダヤ人たち6,000人の通過ビザ『命のビザ』を自ら決断して発行した。
    このビザが彼等ユダヤ人たちを救うこととなった。戦後、日本の外務省から<本省訓令の無視>として不当な扱いをされた杉原であったが、彼を命の恩人であるとしてユダヤ人協会により紆余曲折(うよきょくせつ)のすえ、探し出され、ユダヤ人により杉原は1985年「諸国民の中の正義の人」として顕彰された。

    Wikiによれば、全世界で27,362人が顕彰されているが、日本人では杉原、ただ一人である。

    その後、杉原を“日本、或いは東洋のシンドラー”と呼ぶようになっているが、その事績を思えば、ドイツ人シンドラーの名をつけて呼ぶのはおかしいだろう。

    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    3.0

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎ82歳になりましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

最近はアジアの香港・マカオ、台湾も時に昔を思い出しつつ、また、日本の小旅行と称した旅も
最近投稿しています。
(2026.02.11.)


プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、さらにロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、戦時体制の欧州の旅は見送り続けて、2026年を迎えている。

(2026.02.11.)

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