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jijidarumaさんのクチコミ(5ページ)全659件

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  • エストニア・タリン:ソコスホテル ヴィルは旧市街とショッピングセンターが徒歩圏という立地で大変便利でした。

    投稿日 2014年11月29日

    Original Sokos Hotel Viru タリン

    総合評価:4.5

    ≪バルト三国 世界遺産紀行8日間の旅・美しき中世の街並み≫
    2009年10月19日(月)~26日(月)
    ツーリズムのツアー第五日;10月23日(金) タルトゥは曇り。~9℃。
    バスにて、タルトゥ市内観光 => プルッツアマー =>タリン着

    ≪Sokos Hotel Viruソコスホテル ヴィル≫
    部屋番号;1002号室(10F)・2連泊
    4 Viru Square 、 Tallinn 200001 、Estonia

    ホテルチェーンの Sokos Hotels.の一つ。タリンの旧市街の近くにあるホテルの最上階の部屋22Fからは、バルト海を一望することができると言うが、今回は10Fだった。
    とはいえ、広く、大変立派な部屋で、眺望も港に向いていて、悪くはない。

    バスローブ・スリッパ付き、浴室は床暖房、アイロン・アイロン台もあるといったKaunasのホテルと同じであった。更に嬉しい事にお水を毎日2本(合計1L)無料でサービスされたので大変ありがたかった。

    ホテル内には、レストラン2軒、バー2軒、ナイトクラブがあり、規模としては、全客室数
    が 516と最大。4星。

    ホテルは旧市街とショッピングセンターが徒歩圏という立地で大変便利でした。
    又、エストニア人・相撲の把瑠都はこのホテルのカジノ?の用心棒だったとか。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (2024年6月7日、更改)

    旅行時期
    2009年10月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    5.0
    バスルーム:
    5.0
    ロケーション:
    5.0
    客室:
    5.0

  • エストニア・タリン:タリン<=>ヘルシンキ間を飛ぶFinn.comは珍しいプロペラ機だった。

    投稿日 2024年06月08日

    タリン ウレミステ空港 (TLL) タリン

    総合評価:4.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン


    <2009年10月25日(日)タリンは曇り、 ~8℃。>

    タリンLV 14:40 AY3926(Fimm.com・・フィンランド航空の子会社) 
    ヘルシンキAR 15:05 経由 ヘルシンキLV 17:20 AY0073(フィンランド航空)
    成田AR 17:35
    タリン=>ヘルシンキ ;約35分  ヘルシンキ=>成田 ;約9時間40分

    *7時にホテルのいつものレストランで頂く。ゆで卵、ハム、コーヒー、リンゴジュース等の朝食。12月・ドイツのクリスマスの旅まで、美味しい朝食はお預けだ。
    今日から冬時間に変わるとのことで、また時差を一時間戻した。

    <お土産>
    9時からHotelに隣接したショッピングセンターViru Keskusに行って、孫たちのお土産に衣類を購入する。どんどん大きくなるので、家内はサイズ選びに苦労している。なんとか納得の品物を見つけて、一安心(4品1576Kr=14,120円)。地階のスーパーに降りて、更にチョコレートを物色する。当地の様々なチョコレート、ドイツのグミなど(27点872.01Kr=7,812円)、昼食用に菓子パン(3品38Kr=342円)もついでに購入し、部屋に戻った。(9:00~11:00)
    早目の昼食を室内で食べて、最後の帰国準備にかかる。

    11:40チェックアウト。12:40バスでタリン空港に向かう。サッカースタディアムのような紺色の建物が見えてくる。
    短い飛行時間とあって、タリン=>ヘルシンキ間を飛ぶAY3926(Finn.com)はプロペラ機である。ATR72-500 70人ほどの乗客定員と少ない。小さな空港だけに定刻の離陸。
    25分で早目のヘルシンキ着、トランジットは2時間もあり、時間まではDuty-Free でお買い物時間になった。

    Aalborg Jubiloeums Akvavitはオールボー・ジュビリウムス・アクアヴィット 1L瓶を2本購入した。(Euro19.8X2=39.6は5,544円。)

    AY0073(フィンランド航空)はヘルシンキを定刻の17:20に離陸し、成田に。

    <Akvavit アクアヴィットについて>
    狙い目はデンマーク産AALBORG JUBILÆUMS Akvavit 1Lアルコール度数42度のSpirit蒸留酒(火酒)だ。Aalborg Jubiloeums Akvavitはオールボー・ジュビリウムス・アクアヴィットと言い、ジャガイモを原料として蒸留し、Dillディル・Corianderコリアンダーといったハーブで香り付けし、辛口、淡い琥珀色、独特の味わいが好ましい。
    ジュビリウムスは“祝典”の意味で、AALBORG TAFFEL Akvavitオールボー・タッフェル・アクアヴィット(香りの主体はキャラウェイ香、アルコール度数 45%)の発売100年周年を祝って、1946年、新たに発売されたものである。
    デンマークでのアクアヴィットの代表的ブランドとして、世界中に輸出されているが、日本ではあまり見かけない。
    アクアヴィットの語源はラテン語のAquavitaeアクアヴィテ(命の水)であり、元来はスペインで創られたと云われている。その後、フランス、北欧などに伝わったとされ、北欧では15世紀頃から飲まれてきた穀類を主原料とする蒸溜酒である。
    デンマーク語、スウェーデン語でAkvavit、ノルウェー語はAkevitt、ドイツ語ではAquavitと称し、ジャガイモを主原料とした蒸留酒である。デンマーク・スウェーデン・ノルウェー・ドイツで製造されている。
    AALBORGオールボーはデンマークのダニスコ社生産のアクアヴィットで、1845年に設立された蒸溜所のある地名に由来している。デンマーク産の代表的ブランドであり、王室御用達として、王冠の印が付いている。

    私のやり方は冷蔵庫で冷やしておき、これまた冷やしたグラスにそれを注いで、一気に飲むのが良い。また、ちびちびと香りを楽しみながらもまた楽しい。ビールを飲む前に胃の洗浄とばかりに、アクアヴィットを流し込むのは邪道?!かもしれないが、ドイツ駐在時の若い頃は良くやっていた。今は食欲増進と・・・グラス一杯をちびちびやっている。
    因みにアクアヴィットは、ドイツではSchnapsシュナップスと呼ばれている。基本的には食後の消化を助ける為に飲むとされている。レストランでビールを飲む間、シュナップスを一気飲みして、ビールで冷えたお腹を暖めることもよく見かける。
    あるバーで、アクアヴィットをベースにと言って、カクテルを注文したところ、レッド・バイキング(Red Viking)というカクテルが出てきました。
    (アクアヴィット 30ml 、マラスキーノ、 30ml ライム・ジュース 30ml と・・ものの本にはあります。) 

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    アクセス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    施設の充実度:
    3.5

  • エストニア・タリン:旧市街の中心であるヴィル通りをぶらぶら歩きながらお土産を買う。

    投稿日 2024年06月01日

    ヴィル通り タリン

    総合評価:4.5

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月24日(土)エストニアの首都タリンは曇り、 ~8℃。>

    ヴィル門(Viru vaeravad)とヴィル通り :

    旧市街東側にある1345-1355年にかけて築かれた城壁の門である。
    現在、この門のあるヴィル通りには、お洒落な店やレストランが立ち並び、人通りも多い。門の前で客引きの小父さんも帽子・中世風のマントを着ている。
    家内と一緒に撮ってよいかと、聞いてみるとにこやかにOKしてくれた。

    ≪最後の町での買い物≫
    自由行動の時は落ち着いて、買物ができる。旧市街のメイン通りViruヴィル通りを見て歩く。
    Viru通りに面した Viru-Horveit で家内のリネンの上着Euro37.2=5,225円。一割値引きしたが、とても安い買い物に思えた。・・・良い品は長持ちするから、いまだ現役で先日の傘寿の祝にも家内は着ていった・・・(~14:15)
    ぶらぶら歩いてくると、ラエコヤ広場の旧市庁舎傍に出る。OLDE HANSA傍の店 Mykola Pervakでは絵蝋燭を20個、お土産に購入する。20X45=900Kr値引き50Kr差引850Kr=7615円・・・Tartuの市庁舎傍の店で買い損ねた絵蝋燭をここで見つけた。
    Tartuでは1個50Krでしたので、結果オーライと言えるかな!ロシア的美人のお嬢さんたちが嬉しそうに一つ一つを包装してくれた。 (~15:00)

    レストランPeppersackという英語のPepper胡椒とドイツ語のSack袋を一つにした・・胡椒袋という名前でしょうか。ヴィル通り2番地にある。
    14世紀に倉庫であったという建物がレストランになっている。Olde Hansaと同じように中世のコスチュームを着た人たちが給仕をするという事で有名なようだ。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    景観:
    4.5
    人混みの少なさ:
    3.0

  • エストニア・タリン:ロシアのピョートル大帝が建てたカドリオルク宮殿と公園は秋より春の時期の方が美しいかもしれない。

    投稿日 2024年06月02日

    カドリオルク公園 タリン

    総合評価:3.5

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月24日(土)エストニアの首都タリンは曇り、 ~8℃。>

    午前中の最初の目的地はタリン近郊4kmにある黄葉のカドリオルク公園である。
    徒歩で白鳥の池を見ながら、カドリオルク宮殿の方に歩く。
    途中、エストニア独立の英雄の一人であるJaan Poskaヤーン・ポスカの座像(タリンの各所にその名を残し、カドリオルグ地区にポスカが住んでいた家があり、その通りが「ヤーン・ポスカ通り」となっている。この通りに彼の銅像が建っており、また路面電車の「ヤーン・ポスカ電停」が存在するというから、彼の銅像なのだろう)がたっていた。。

    【カドリオルク宮殿と公園(1723年)】
    A. Weizenbergi 26, 10127 Tallinn Estonia
    (9:15~9:50)

    現在、カドリオルク宮殿は美術館になっているのだが、この日は入館しなかった。

    大北方戦争(1700~21年、ロシアを主にした北方同盟・・デンマーク、ノルウェー、ドイツ諸侯が参戦・・と当時大国であったスウェーデン・・英国、オスマン帝国など連合・・の戦いで、ロシア側が勝利した)後、バルト地域を手に入れた、ロシアのピョートル大帝(1672年~1725年)が妻エカテリーナⅠ世(リヴォニアの農民の娘で、後に大帝の跡を継ぎロシア史上最初の女帝となった)の為に作った離宮である。小さな離宮はロシア支配下の地に建てられたわけだが、離宮は当時の文化先進国フランスのヴェルサイユ宮殿を模したと云われていて、フランスの影響はバルト地域(後のバルト三国)にも及んでいた。
    この事もあってちょっと立ち寄ってみたのだが、宮殿の屋根の緑、ピンク色の壁の配色も美しく、離宮前の花壇があった。花が咲く季節はまた一段と見栄えがあるでしょう。

    (どこそこのヴェルサイユ宮殿という呼び方は欧州には多い。それはドイツでもあり、「北方の小さなヴェルサイユ宮殿」というメクレンブルク地方にあるルートヴィヒスルスト宮殿を訪れた事がある)


    この後、これも直ぐ近くの【歌の原(Lauluvaljak)】・・・エストニア・タリン:バルト三国の歌と踊りの祭典は世界無形遺産だが、エストニアがもっとも古く、“歌う革命”として知られる場所・・・に向かう。

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    景観:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0

  • エストニア・タリン:長い足通りがあれば、短い足通りもある。気に入ったのはシナモン・砂糖つきの焼きクルミ。

    投稿日 2024年05月29日

    ピック ヤルク通り タリン

    総合評価:4.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月24日(土)エストニアの首都タリンは曇り、 ~8℃。>

    アレクサンドル・ネフスキー聖堂前に珍しく、数人の年取った女の物乞いが居た。
    それを眺めながら進むと、当地では有名な演劇の先生Voldermar Panso(1920~77)の面白い、彫像が家の壁に飾られていた。
    検索してみると、同国の芸術(演劇。劇作家の)学校の創立者だそうだ。
    この建物は音楽・演劇芸術アカデミーらしい。先生の顕彰を兼ねたもののようだ。
            
    トームペア展望台に向かう道で、珍しいシナモン・砂糖つきの焼きクルミ、100Kr=900円を、中世風のコスチュームを着た販売のお嬢さんが愛想も良かったし、試食もできたのでツイツイ買ってしまう。

    トームペア地区は支配者たちの居住区で、市民の住む下町とは長い足通りと呼ばれる路でつながり、その通りには長靴の形をした樋が飾りとして軒先にあった。
    長い足通り:ピック・ヤルグ通り (Pikk jalg)はその名の通り、トームペアから続く、長い石畳の坂道で、かつてはギルド会館が並び、裕福なハンザ商人の住む界隈だったと云う。

    そして、長い足Pikk jalgがあれば、短い足通り(ルヒケ・ヤルグ通りLuehike jalg)もある。両方ともトームペアの丘から旧市街に降りていく坂道にある。
    短い足通りと長い足通りの境に、城壁の門があり、門を抜けると、短い足通りの両脇には芸術家たちの作品を展示販売している店がある。

    下町に下がった中心に中央広場があり、旧市庁舎が大きな姿をみせる。

    ・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.0

  • バルト三国の歌と踊りの祭典は世界無形遺産だが、エストニアがもっとも古く、“歌う革命”として知られる。

    投稿日 2024年05月26日

    歌の原 (歌の広場) タリン

    総合評価:4.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月24日(土)エストニアの首都タリンは曇り、 ~8℃。>

    【歌の原(Lauluvaljak)】
    (9:50~10:05)

    歌と踊りの祭典の行われる場所を歌の原と呼んでいる。なだらかなスロープをした会場は大変広い。スロープ底部にお椀を伏せたような形をした祭典の舞台がある。

    Maestro Ausammas Puestitatiの大きな銅像があり、被写体がない場所だけに誰もが銅像と一緒に写真を撮る。  

    バルト三国の歌と踊りの祭典:
    2003年11月、世界無形遺産にリトアニア、ラトヴィア、エストニア三国が同時に登録。

    リトアニア;100年の歴史をもつこの世界リトアニア歌の祭典はヴィリニュスの旧市街で4年に一回開催される。この歌の祭典は2007年7月3日~8日に5000人の合唱団が行った。

    ラトヴィア;1873年6月に1003名の合唱団と30名の演奏家によって始まったラトヴィアの合唱祭は通常5年に一回開催される。現在では2万人を超える人々が歌い1万人以上の人々が民族舞踊を披露します。次回は2013年。

    *エストニア;バルト三国の中でも古い歴史を持つ。
    合唱祭はタリン市郊外の野外ステージ“歌の原”で、民族舞踊は広い競技場で5年ごとに催される。
    ソ連支配下にあった1989年の「歌の祭典」では、1941年のソ連支配以来、初めてエストニア語で歌い、民族独立へ大きな一歩を踏み出した。
    これが“歌う革命”と呼ばれ、その後、ラトヴィア、リトアニアと広がり、 1991年の三国の再独立に繋がっていった。
    25回目となる祭典は2009年7月4日に開催された。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • エストニア・タリン:高々とした聖オレフ教会には巨人が建てたという伝説が残る。

    投稿日 2024年05月22日

    聖オラフ教会 タリン

    総合評価:4.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月24日(土)エストニアの首都タリンは曇り、 ~8℃。>

    旧市街を歩く。
    石畳が続く、カタリーナの小道、カタリーナ通り(Katariuena kaeik)を行く。
    カタリーナ通りは中世の雰囲気を保って、1995年に再建された。15世紀~17世紀頃に建てられた建物が続き、ガラスや皮細工、陶器など、伝統工芸職人の工房が集まっている。
    時間が有れば、覗いてみたい地域だ。

    更にPikk通りにでて、太っちょマルガレータの方向に歩く。
    ここにもユーゲントシュティールの建物が二、三見受けられた。

    【Oleviste kirik聖オレフ教会(又はSt Olaf's church聖オラフ教会 )】

    トームペア展望台から、旧市街全体を見渡すことができる。
    緑の尖塔を持つ教会は一際目立つ存在だ。
    かつてヨーロッパで最高の高さを誇った124mの高い塔に登ると旧市街が360度一望できるそうだ。
    1267年にノルウェー王Olav Havaldsson に因んで建てられた教会である。

    ここにはこんな話が残っている。
    『13世紀のある時、見知らぬ巨人がやって来て、航海中の船から、よりよく見えるようにと高い塔を建て始めた。塔を造り上げる前に、自分の名前が分かったら、建築費はタダで良いと言ったそうだ。塔が出来上がる直前に巨人は「おーい、オレフ~!」と名前を呼ばれ、そのまま下に落ちて石になったと云う。
    石になったオレフの亡骸が教会の裏のPikk通り側に祭られている』
    ・・見ていないが!

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0

  • エストニア:かつて裕福なハンザ商人の家であったレストラン オルデ ハンザは実に魅力的だった。

    投稿日 2024年05月20日

    オルデ ハンザ タリン

    総合評価:4.5

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン


    <2009年10月24日(土)エストニアの首都タリンは曇り、 ~8℃。>

    【お茶:Restaurant Olde Hansaオルデ ハンザ】

    シナモン入りのリンゴ酒・・シードル酒  Warm up drink 70KrX2=140 、ローストアーモンドと蜂蜜のクリームソースがかかったアップルパイHoney Apple-Pie 76Kr  
    合計216Kr=1,935円と内容から見たら、とても安いものでした。 Tipを5Kr。

    *実に美味しいお茶の時間を過ごせた。元々はコーヒーにケーキと考えて入ったが、この
    時間でもレストラン内の皆さんは食事を頼んでいた。
    内部は中世そのままに、蝋燭の光!目が慣れるまで暗闇に居る思いがする。
    典型的な?バルト美人の給仕さんが勧めてくれたのは上記した品です。

    これは大正解でした。香りも好ましく、味も美味しく、体も温まり、お腹も満足となった。

    かつて、裕福なハンザ商人の家でしたので、当時の雰囲気を楽しめるように、給仕人たちは中世のコスチュームを着て、忙しく、3階までのレストラン内を立ち働いている。
    時には黒い僧服の様なものを着た人物がスーッと横切っていく。幽霊!?
    3階にある中世風のトイレも現役で、拝見にわざわざ行ってみた。なかなかのもの・・。

    味良し、中世の雰囲気たっぷりで、とても楽しめました。
    一番のオススメのレストランです。
    レストランに併設された隣の店には、あれもこれも欲しいと思わせる商品が一杯あって、観光客が楽しそうに品を選んでいた。

    ・・・・・・・・・・・・・

    (もう15年近くが経ってしまったが、バルト三国は時にドイツ的な部分も感じさせて、たいへん興味深い町が多かった。尚、バルト三国の旅は旅行記を稿していない)

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    一人当たり予算
    1,000円未満
    利用形態
    その他
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    4.5
    雰囲気:
    5.0
    料理・味:
    5.0

  • 富里市に「末廣農場(旧岩崎久彌三菱財閥3代目総帥の別邸)」がある。

    投稿日 2024年05月18日

    末廣農場 八街・富里

    総合評価:4.0

    【富里市にはかつてこの地に存在した「末廣(すえひろ)農場(旧岩崎久彌(ひさや):三菱財閥3代目総帥の末廣農場別邸)」がある。】

    「Stadすたっと」という北総エリアのタウン誌に「旧岩崎久彌末廣農場別邸公園」の「百年ツツジ」の事が掲載されていた。
    「百年ツツジ」はともかくも、三菱財閥3代目総帥であった岩崎久彌氏の旧別邸とか農場に興味を感じた。

    <末廣農場の誕生:牧から森、そして農場へ>
    明治3年(1870年)、かつて徳川幕府の直轄牧(まき:飼育や繁殖のため牛や馬を放牧しておくための区域)であった富里の地は、明治政府によって開墾地として利用されることとなる。

    明治8年(1875年)、時の内務卿大久保利通の主導の下、「下総牧羊場(のちの下総御料牧場)」が開設されたことから、開墾地は政府に買い戻され、「獅子穴区(ししあなく)」と称されるようになり、経営の合理化から再び払下げの対象地となった。
    様々な経緯の後、三菱の岩崎彌之助氏に依頼して、購入してもらった。
    これによって343町歩(およそ340ヘクタール)という広大な土地が、牧畜を目的として岩崎家の所有となった。

    末廣農場の門内に入ると、右手にあるのが満開の「百年ツツジ」で、奥に見えているのが東屋だろう。
    樹木も結構伐採して切り株も多い、暗かった森も明るくしたようだ。
    数寄屋造りの東屋は建坪が約15坪だそうだ。近くで作業中の方もいて、遠慮して東屋の中は拝見していない。

    【富里市:末廣農場と旧岩崎家末廣別邸】
    末廣農場 | 富里市観光・交流拠点施設 (suehiro-gs.com)

    住所:千葉県富里市七栄650番地206
    Tel:0476-93-1200
    休館日:毎週月曜日(ただし、祝祭日は開館)・5月22日~6月26日までの月曜日は臨時営業いたします。年末年始(12月30日~1月2日)
    営業時間:午前9時~午後6時  カフェレストラン営業時間 午前9時~午後5時30分 (お食事時間 午前11時~午後3時)

    <旧岩崎久彌末廣農場別邸公園>
    10時00分から16時00分(最終入園15時30分)


    末廣農場別邸公園:「百年ツツジ」

    末廣(すえひろ)別邸は岩崎久彌(ひさや)氏が末廣農場の経営のため滞在用に建てた、主屋・東屋・石蔵、その他の付属屋からなる近代和風の「農場別荘」であり、昭和初期における上流階級の別邸としての貴重な遺構として高い歴史的価値を持っている。

    「末廣農場」は、三菱の3代目の社長であった「岩崎久彌」氏が自ら経営を行った牧場でしたが、第二次世界大戦後にGHQによる財閥解体、農地改革もあってか、末廣牧場はなくなっていく結果となった。

    広大な農場の敷地のうち119ヘクタールを、当時の富里村に譲渡(現富里市役所、富里中学校敷地など)し、198ヘクタールについては農場従業員の帰農者に払下げが行われた。養鶏と養豚の施設部分約40ヘクタールについては千葉県に譲渡され、千葉県畜産試験場となった。
    ところが、昭和30年代後半に至って計画された成田空港建設のためとして、千葉県は空港用地買い上げ農家の代替地として千葉県畜産試験場の土地を提供することとなった。
    この為、末廣農場関係の施設は別邸とその周辺の土地だけになった。

    こうして岩崎久彌氏が愛情を注いだ末廣農場は歴史の表舞台から姿を消し、その業績は跡形もなく消え去った。
    久彌氏は東京の本邸を物納し、昭和24年(1949年)6月21日に末廣農場別邸に移り住んだ。
    当時を偲ばせる岩崎家末廣別邸は幸いにも、壊されることなく現在まで大切に保全されてきた。

    公園入口から散策路が出来ていた。公園南側、奥の方には農場が広がり、数人の男女が農作業中である。

    岩崎家別邸の母屋前に来ると、旧別邸の看板が立っていて、そこに平面図があり、見てみると、中庭をもつ広大な規模の木造平屋の建物である。
    岩崎別邸は大正時代末から昭和初期にかけて「末廣(すえひろ)農場」の中に建てられた。別邸と呼んでいるのは、富里市で初の国登録有形文化財になった「旧岩崎家末廣(すえひろ)別邸」の母屋(おもや)=主屋(しゅおく)・東屋(あずまや)・石蔵(いしぐら)などを指している。

    岩崎別邸は平成24年(2012年)、これまで維持管理をしてきた三菱地所株式会社より、末永く大切にして欲しいとの申し出があり、富里市に寄附された。
    富里市は寄附後直ちに、歴史的価値が非常に高いことから、国登録文化財への申請を行い、平成25年(2013年)12月24日に正式に国登録有形文化財となった。

    ・・・・

    公園駐車場の出入り口から、道路を渡り、向かいの末廣農場の観光・交流拠点施設に行く。各地の「道の駅」の様な形式の末廣農場は、観光・交流拠点施設になっているので、観光情報コーナー、軽食レストランや岩崎家ゆかり(小岩井農場)お土産、地元農産物の直売所があり、当然のように末廣農場のオーナーだった岩崎久彌氏の看板もある。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    日本で最も強力だった三菱財閥の3代目が、農業に勤しみ、当時は富里という「辺地」に農場まで持ったと云う事にたいへん驚いたものだ。
    それにしても、戦後から現在までの管理者、所有者であった(多分)三菱地所が、長い歴史と経緯のある「旧岩崎家末廣農場別邸」の地を、富里市に寄附された事は嬉しく、良い話である。

    さて、末廣農場で購入したベコニアの苗は大変質が良く、元気に育っている。
    又買い出しに行きたいと思っている。

    (2023年5月20日Wiki・HP参考、編集・追記)


    旅行時期
    2023年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    3.0

  • 東京・京橋にある湖南料理の名店・雪園(せつえん)で傘寿(80歳)を祝った。

    投稿日 2024年05月14日

    雪園 京橋店 日本橋

    総合評価:5.0

    ≪東京・京橋の湖南料理・雪園にて、私共の傘寿(80歳)を娘家族と共に祝う。≫

    長女から祝いの事について尋ねられた時、受験のないお正月に我が家に全員11名が集まってくれたので、今回は世田谷の長女たちと、千葉の私共・近所に住む次女たちの間をとって、東京で食事会(昼食)をしようと持ち掛けた。
    勿論、京橋にある湖南料理・雪園が頭にあって、娘たちに勧めたわけだ。
    長女が幹事役で雪園を早速予約をしてくれた。

    さて、中国には「八大料理(八大菜系)」という呼び方がある。  
    四川(しせん)料理、湖南(こなん)料理、広東(かんとん)料理、福建(ふっけん)料理、江蘇(こうそ)料理、浙江(せっこう)料理、安徽(あんき)料理、山東(さんんとう)料理がそれである。
    中国の各地方の名をとって、地域の代表的な料理を称したものだ。
    また、4大料理という言い方があり、日本では北京・上海・四川・広東の4つの地方の料理称し、8大料理よりもポピュラーであると云う。

    かつて、会社関係、高校野球部の同期会、大学格闘技の部の同期会、親しい知人・友人との集まりで、2階の個室や3階の少人数用個室、平場のテーブルで何度も利用してきたが、コロナ禍以来、都内に出る機会が少なくなって、このところ長くご無沙汰していた。

    この日の御祝はメニューの中から「百合コース」を選んでくれた。
    湖南料理のお気に入りの竹筒入り鶏肉マッシュ入りスープ(このメニューではふかひれ入りと贅沢になっていたが)、富貴火腿・・・湖南ハムの蜜煮をパンに挟んだものを是非食べたいし、娘たち、孫たちに食べさせたいと思っていた。

    湖南料理(こなんりょうり)は中国語で「湖南菜」(フーナンツァイ Húnán cài)若しくは湘菜(シャンツァイXiāng cài)と言い、中国湖南省の郷土料理である。

    この日は2階の三つある個室のうち、中央の個室に招じられた。
    総数11名は丁度良い感じだった。

    この日注文したのは以下である。

    「百合コース」
    旬の前菜盛り合わせ、
    お気に入りの竹筒入りフカヒレ入りスープ
    お気に入りの富貴火腿・・・湖南ハムの蜜煮をパンに挟んだもの。
    黄ニラと帆立て貝のあっさり塩炒め
    鶏に特製湖南ソース
    本日のお食事(湖南伝統醤油炒飯)
    デザート(クコの実入り杏仁豆腐とゴマ餡まんじゅう、イチゴ)

    飲み物はビール、ジュース、紹興酒

    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2024年04月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    一人当たり予算
    7,500円未満
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.5
    雰囲気:
    4.0
    料理・味:
    5.0

  • 船形・麻賀多神社(奥宮)には公津原古墳群の方墳の一つ、伝・伊都許利命墳墓がある。

    投稿日 2024年05月04日

    船形麻賀多神社 (麻賀多神社奥宮) 成田

    総合評価:4.5

    【船形・麻賀多神社(まかたじんじゃ)】
    千葉県成田市船形834 

    千葉県成田市ニュータウンにあり、印旛沼の東1kmほどの船形にある神社である。総本社、ご本家である台方・麻賀多神社から北方1kmのところに船形・麻賀多神社(澳津宮(おきつみや)があり、社殿を造営した印旛国造(いんばのくにのみやつこ:当時の大和朝廷の地方長官)・伊都許利命(いつこりのみこと)の噴墓(後述)が神域に残っている。

    延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真(まかたま)」が三種の神器の1つと同名であるとして、1字取って「真賀多神社(まかたじんじゃ)」に改称した。
    後に、一帯が麻の産地であることから麻賀多神社に社名を改めた。
    尚、船形にある澳津宮(おきつみや)=奥宮(おくのみや)と、成田市台方1番地にある台方の大宮殿(おおみやでん)=大宮(おおみや)の2社があり、船形及び台方・麻賀多神社(だいかた・まかたじんじゃ)と総称されている。

    全国的に見ても、他所に見られない珍しい名前の神社は、印旛沼の東側から南にかけてにのみ存在する神社である。
    印旛郡市である成田市に台方、船形の2社、佐倉市に11社と多く、富里市に2社、八代市に1社、酒々井町には2社あり、総計18社である。

    船形・麻賀多神社には、写真の様な伝・伊都許利命墳墓・古墳出土石(箱式石棺の蓋となった石材)が見られる。

    伊都許利命の方形の古墳は公津原古墳群(こうづはらこふんぐん:39号墳 方墳)と、現在は号数で称されている。
    成田市の公津(こうづ)は神津(こうづ=神の港)の転語と思われ、船形の地名もその辺から称したと思われる。
    従って、昔は印旛沼がもっと近かったのだろう。

    成田市ニュータウン内には公津原古墳群(こうづはらこふんぐん)のように古墳も多く、住宅開発時に貝塚も出たそうで、当時の人々が住むには適した地域だったのでしょう。

    神社の初詣をして、境内の参道を戻ると、左手に古墳(伝・伊都許利命の墳墓)案内がある。そこには岩屋らしき穴(広さ約5㎡)があり、直刀、金環、鎧片等を納めてあった石棺がある。

    伝・伊都許利命(いつこりのみこと)墳墓は東西辺約35m、南北辺約36m、高さ約5mの方墳である。
    南辺の中央部に凝灰質軟砂岩製の横穴式石室が開口している。また、2段築成された西辺のテラス状部分に箱式石棺が1基発見され、一部が露出している。石材は絹雲母片岩である。つまり、2基の遺跡があった。
    文久4年(1864年)に大木の根元から発見された鏡と玉は、麻賀多神社に伝えられている。7世紀代に築造された古墳と考えられる。(麻賀多神社)

    この時は墳墓の左手から古墳(周囲120m、高さ7m)方形墳上に登ったが、実際は道路際に表示板や石段があり、そこから参詣する形になっていた。

    <公津ヶ原39号墳 方墳について>

    ◆7世紀
    ◆所在地 成田市船形手黒麻賀多神社内
    ◆墳長東西35m、南北36m、高さ5m
    ◆埋葬施設 横穴式石室(南側中央)半地下式、玄室長さ3.8m 玄室幅1.5m 玄室高さ2.4m(いずれも推定値)凝灰質砂岩切石積
    ◆出土品 大刀2、挂甲小札数片、鉄鏃1、※滑石製模造品、金環2、土玉2(麻賀多神社保管)
    ◆備考 ※大形円板1、有孔円板12、勾玉型模造品2、剣型品1

    成田市内の公津原古墳群(こうづはらこふんぐん)は広範囲にわたっていて、ニュータウン開発により消滅してしまったものが多いが、現存しているものは公園・学校・神社などに比較的きちんとした形で保存されているそうだ。

    伝・伊都許利命墳墓、つまり公津ヶ原39号墳(方墳)は、くすのき幼稚園(太田学園)の脇にある麻賀多神社内にある。
    【公津原古墳群(こうづはらこふんぐん)】
    県指定史跡の指定日:平成2年3月16日
    所在地(所有者):成田市加良部ほか(成田市ほか)

    概要:
    千葉県の北部に位置する手賀沼・印旛沼周辺には多くの古墳が分布し、なかでも方墳として東日本最大級を誇る古墳を含む「龍角寺古墳群・岩屋古墳」とともに、公津原古墳群は千葉県を代表する古墳群として知られている。

    公津原古墳群はすでに江戸時代からその存在が知られていたが、本格的な研究は戦後になってからのことである。
    その後、昭和44年(1969)10月から昭和46年(1971)8月にかけて、成田ニュータウンの建設に伴って64基の古墳が発掘調査されて以来、多くの古墳が発掘調査され、公津原古墳群の内容が明らかになった。

    公津原古墳群は、総数120基を超える古墳群で、分布から3つの支群に分けられる。南から、瓢塚(ひさごづか)古墳群(前方後円墳1基、方墳19基、円墳30基)、天王・船塚(てんのう・ふなつか)古墳群(前方後円墳3基、方墳9基、長方墳1基、円墳33基)、八代台(やつしろだい)古墳群(前方後円墳3基、方墳6基、円墳25基)の3支群がある。

    これらのうち、ニュータウン開発により消滅した古墳も多いが、現在、38基の古墳が史跡に指定されて保護されている。造営開始年代は早く、4世紀の前半から7世紀の後半まで長期間古墳は造られている。
    とくに天王・船塚古墳群には、6世紀代と推定される大型古墳が所在する。
    しかし、7世紀に入ると大型古墳が造られなくなり、岩屋古墳やみそ岩屋古墳が造られる龍角寺古墳群と対照的となる。 

    (更新日:令和2(2020)年4月11日  千葉県教育委員会)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     

             (2023年1月8日Wiki/Hp参考、編集・追記)

    旅行時期
    2024年04月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    4.5

  • 酒々井・「甲子(きのえね)酒蔵・「きのえねまがり家」の2階には陶磁器などのギャラリーがある。

    投稿日 2024年05月01日

    酒々井まがり家まがり家ギャラリー 佐倉・四街道

    総合評価:3.0

    ≪七十二候・菜虫化蝶(なむしちょうとなる):酒々井町の「甲子(きのえね)酒蔵・飯沼本家」を再訪す。≫

    2024年3月17日、ちょっとドライブにと、酒々井(しすい)町の「甲子(きのえね)酒蔵・飯沼本家」の酒蔵カフェ目当てにやって来た。
    今年初めてで、2度目の訪問になる。

    【千葉県酒々井町:甲子(きのえね)酒蔵・飯沼本家】

    〒285-0914千葉県印旛郡酒々井町馬橋106
    Tel:043-496-1111

    酒々井町の飯沼本家の創業は江戸・元禄年間(1688年~1703年)で、創業当時から300年の歴史を誇る酒蔵である。
    銘酒「甲子正宗(きのえね まさむね)」の醸造元である飯沼本家は、酒に因んだ縁起の良い町、酒々井の地で酒造りに適した、豊富な水源に恵まれ自然環境、閑静な森に囲まれている。  

    <飯沼本家の「きのえねまがり家」:酒蔵カフェ、直売所、2階ギャラリー>
    新潟県東蒲原郡上川村で代々村の肝いり役を務めてきた旧清野(せいの)邸を移築したものだと云う。移築して以来、もう30年近くになる。

    営業時間:10時00分~17時00分まで
    定休日:毎週月曜日(月曜日が休日の場合翌日が定休日)、年末・年始
    駐車場:普通車台数30台、大型車台数2台が可で、トイレ設備ある。
    右手にかつての石炭小屋(現在はビジターセンター)、左手に移築した曲がりや(カフェや直売所)、正面に屋敷門・母屋(おもや)、工場など入口。

    2階にはギャラリーを併設し、年4回~5回の企画展を開催している。
    昨年は2階への階段は閉じていたが、今日はギャラリーが開いていた。
    展示品はどんなものか?と、階段を上がってのぞいて見た。
    この日は陶磁器やガラスの作品が展示されていた。


    旅行時期
    2024年03月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    3.0
    サービス:
    3.0

  • ゲーテはハウプトヴァッヘのことを町一番の美しさを持っていると評した。

    投稿日 2024年04月17日

    カフェ ハウプトバッヘ フランクフルト

    総合評価:4.5

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:⑪この旅はゲーテ街道の出発点であるフランクフルトに戻って終わる。≫

    <2001年5月13日(日) 快晴 176km>
    Obrigheimオプリヒハイム 9:30に出発。 B37・A5・6 150km =>Frankfurtフランクフルト 市内観光 :レーマー広場・旧市庁舎レーマー、ゲーテ博物館、Hauptwacheハウプトヴァッヘ、Alte Operアルテオパーなど。B3・L? 26km =>Frankfurt Airportフランクフルト国際空港 :ハーツ車の返却、チェックイン、お土産購入。

    *レーマー広場そばの地下駐車場に車を停めて、市内に出る。
    (2012年にはParkhaus Hauptwacheハウプトヴァッヘの駐車場を利用した)


    【Hauptwacheハウプトヴァッヘ警衛所(監獄と市警察所)】
    旧市街のAn der Hauptwache 15

    1730年のバロック様式の建物は1944年、戦災で焼失したが、1954年に再建された。
    町の中心にあり、ゲーテはハウプトヴァッヘのことを町一番の美しさを持っていると評した。
    魅力的なRoter Mainsandstein赤色のマイン砂岩を利用して建てられた警衛所は、1905年以来、魅力的なカフェになっている。

    Hauptwacheハウプトヴァッヘ周辺はショッピングの中心で、日曜日なのでお店は全てお休みだったが・・・散策してみた。
    徒歩圏内で行けるAlte Operアルテ オパー(旧オペラ座)までの道は高級店が並ぶ。

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    4.0

  • ドイツを16年ぶりに再訪した旅は、ゲーテ街道の出発点、ゲーテハウスのあるフランクフルトで終わる。

    投稿日 2024年04月16日

    ゲーテハウス フランクフルト

    総合評価:4.0

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:⑪この旅はゲーテ街道の出発点であるフランクフルトに戻って終わる。≫

    <2001年5月13日(日) 快晴 176km>
    *ドイツ最終日、古城街道Obrigheimオプリヒハイムの古城ホテル ノイブルク城を9:30に出発。B37・A5・6を走る。
    Frankfurtフランクフルト(人口65万人の大都市)は150kmの距離である。
    レーマー広場そばの地下駐車場に車を停めて、市内に出る。

    【Goethehaus und Goethe Museumゲーテハウスとゲーテ博物館】

    公私ともに何度も来たフランクフルトだが、不思議なことに、このゲーテの生家と博物館はまだ見たことが無かった。
    レーマー広場の北西に200m行った所、マイン川からは北に300mの所に、ゲーテの顔が家の壁に見えた。
    本来、ゲーテ街道の出発点であるが、旅の最後に訪れることとなった。

    Johann Wolfgang Von Goetheヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832年)は1749年8月28日ここで生まれた。
    父は皇帝顧問官、母はフランクフルト市長の娘という恵まれた環境に育った。

    5階建てのゲーテハウスはもちろん第二次大戦後に再建されたものだが、調度品は元々のものだと云う。
    中庭のある1階には玄関の間、食堂、台所がある。
    2階はロココ調の中央の間、南・北の間、音楽室が其々ある。
    3階には父の書斎、母の部屋、妹の部屋、ゲーテ誕生の間、絵画の間と私的な階と言える。
    4階は“若きウエルテルの悩み”の初稿を書いた部屋・詩人の間があり、ゲーテ愛用の立ち机があった。隣の部屋には祖母から贈られた人形芝居の舞台があり、幼い兄・妹が楽しんだと云う。

    ゲーテ博物館は1997年にリニューアルされた際に隣接されたもので、ゲーテ時代の絵画やゲーテの資料が展示されている。
    当時としては大変な長寿である82歳で亡くなったゲーテの原点がここにある。

    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    3.5

  • フランケン・コーブルクに近い森の中にグルメレストランのシェフが経営する古城ホテル ホーエンシュタインがある。

    投稿日 2024年04月02日

    Rehbergers im Schloss Hohenstein-ein RomantikHotel その他の都市

    総合評価:5.0

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:⑧フランケンの王冠と呼ばれたコーブルク大城塞は美しい姿で高台に立っている≫

    <2001年5月10日(木) 快晴 >
    Coburgコーブルク市内観光:Veste Coburgコーブルク大要塞・武器博物館など、市庁舎、Schloss Ehrenburgエーレンブルク宮殿・公園、人形博物館。 
    B289・L?=>Ahornアホルン・古城ホテルHotel Schloss Hohensteinホーエンシュタイン 17:20到着。

    コーブルクの近郊なのにB289・L?を行き過ぎたりして、森に囲まれた古城ホテルを見つけるのに時間がかかった。戻り道でこんもりとした森と城らしき建物に気がついて、山裾を回ってみた。森の中を進むと目的の古城ホテルが現れた。

    コーブルクからここまで27kmも走ったが、ナビがあれば半分で済んだろう。
    アホルン・古城ホテル ホーエンシュタインには17:20到着。

    <(1泊)Hotel Schloss Hohenstein古城ホテル ホーエンシュタイン>      
    D-96482 Ahorn 、Hohenstein 1
    全13室・?星、Park-Suite庭園側のスイート 、DM200(@56=11,200円)    

    コーブルクの近郊にあるこんもりとした森の中にこの城はある。
    1306年、Otto von Brandenburg, Markgrafオットー・ブランデンブルク辺境伯の妻であったJutta von Hennebergユッタ・ヘンネベルク, Gräfin von Coburg und Schmalkaldenコーブルク・シュマルカルデン伯爵夫人(1247年~1327年)の居城として建設された。
    1525年農民戦争で被災するも、1573年には再建された。
    1763年、時のコーブルク領主Ernstエルンストにより、今日ある城郭や庭園の姿に改築された。
    1941年にはドイツ帝国郵便に売却され、老人ホームなどに使用されることとなった。
    1989~96年に高級ホテル・グルメレストランに改装され、現在は二人のオーナーシェフにより営業されている。

    城の周辺には森が広がり、城門の前面にはロココ風SchlossPark城内庭園がある。庭園傍には礼拝堂があり、結婚式に利用されているそうだ。
    古城ホテルは天守閣を中心にして長方形の城郭が築かれている。城門をくぐると中庭があり、これを囲んでレセプション、レストラン、ホテル宿泊棟、会議室が設けられていた。
    今夜の部屋は1階のどっしりした、ドアーを開けた暗い廊下の先にあった。
    広いサロン付のスイート(28㎡)が用意されていた。
    スイートは3室あり、二つは2階にある。希望したバス付のダブルルームは無いため、ちょっと格上げのスイートにしてくれたようだ。

    尚、現在は<Romantik Hotel Schloss Hohenstein>と称している。

    ・・・・・

    地域の古城ホテルとして、かつて小さな古城ホテルに泊まった事があった。

    帰国辞令を受けて、受験期の長女の為に、家族を早めに帰国させていた。
    それで、1985年4月6日、この時は一人でフランケン地方を訪れ、一泊した。
    (当時はHotel Schloss Hohensteinはまだ開業していなかったのだ)

    古城ホテルSchloss Neuhofノイホフ城(Wohnheim Schloss Neuhofと称する)
    D-96450 Coburg 、Neuhofer Str. 20

    ノイホフ城はコーブルクの町から北に2kmと近く、ホテルとレストラン、野鳥公園を備えていたので、利用しやすかったのだ。

    1973年、Schwanstecherシュヴァンシュテヒャー夫妻が魅力的な、かつての水城を購入し、ホテルとレストランを経営した。だがその後経営不振で倒産してしまい、
    現在はWohnheim Schloss Neuhofと称した地域の福祉治療施設となっている。
    古城ホテルも中々経営は難しいようであるが、古城街道で2泊したノイブルク城のように経営を再開することもあるかもしれない。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    7,500円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    5.0
    バスルーム:
    5.0
    ロケーション:
    5.0
    客室:
    5.0

  • ツヴィンゲンベルグ城はネッカー川畔から眺めるのが一番だ。

    投稿日 2020年10月23日

    ツヴィンゲンベルク城 古城街道周辺

    総合評価:4.0

    ≪Burgenstrasseブルゲンシュトラッセ・古城街道≫ 

    ドイツの観光街道の一つ、古城街道は創設以来の58周年が過ぎた。
    中世からの歴史あふれる城は、それぞれの古城・館がその魅力的な風景を現在も保っている。ネッカー渓谷には多くの中世からの魅力的な城や館がある。
    ハイデルベルクの城、ホルンベルク城やグッテンベルク城がとりわけネッカー川沿いの城として知られている。其の他にもエーベルバッハ城、ヒルシュホルン城、ツヴィンゲンブルク城、エスリンガー城、シュトルツェネック城、ミンネブルク城、レムゼック城、ヴァイラー城、ディルスベルク城、ノイブルク城、ハインスハイム城、ホークハイム城、リーベンシュタイン城と数々の城が流域にはあり、興趣ある古城街道が整備されている。

    ①ドイツ16年ぶりの再訪:ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る
    期間 :2001年5月3日~5月14日 :12日間
    使用レンタカー:Volvo S80 2400CC  Diesel  Automatic
    5月12日(土)   快晴  214km

    ②2012年のドイツの旅:ロマンチック街道、シュヴェービッシュ・アルプ街道、古城街道の旅
    期間 :2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間の旅
    使用レンタカー:Renault Scenicルノー・セニック・2000cc・ ガソリン車・黒 5T 
    5月26日(土); 快晴で気持ち良い一日、26℃、140km 

    5月は“麗わしの春”の季節。
    今日のように真っ青な青空を言うのでしょう。本日も快晴。
    このネッカー川沿いにはライン川流域に負けないほど古城が多い。
    Mosbachモースバッハを経由して、B37を行く。Minneburgミンネブルク城址が山中に見える。

    <Burg Zwingenbergツヴィンゲンベルグ城>
    この旅43番目の城  17:00
    D-69439 Zwingenberg 、Schlossstrtasse 1
    http://www.schloss-zwingenberg.de

    ツヴィンゲンベルグ城は14世紀初期の城郭。緑濃い山腹に中世風の塔(40m)が高々と立っていて、ネッカー川畔から見る城全体が最も良い景観である。古城街道の名城と言われるだけの素晴しさがある。
    現在もバーデン大公の個人所有で、一般公開は行っていない。
    但し、作曲家ウエバーがこの地に来て、“魔弾の射手”を作曲したことから、毎年8月、城内でコンサートが開かれると云う。
    宿泊も可能とか。川に沿った横長の村民は680人。

    尚、「ツヴァイ~城ではないと思います」と口コミを書かれたはなはなさんのトップに出ている写真はヒルシュホルン城(古城ホテル)でしょう。

    ツヴィンゲンベルグ城から距離19kmにあるのはSchloss Hirschhorn ヒルシュホルン城(古城ホテル)D-69434 Hirschhorn am Neckarである。

    ・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0

  • コーブルク公爵のエーレンブルク宮殿には美しい見栄えだけでない、思いがけない歴史の背景がある。

    投稿日 2024年03月24日

    エーレンブルク城 その他の都市

    総合評価:4.5

    バイロイトの次に訪れたのは、距離120kmのCoburgコーブルクの町である。

    ここコーブルク公爵領はバイエルン州の北部・フランケン地方である。
    北はテューリンゲンの森、東をフランケンの森、南にマイン・フランケン平野に囲まれた地域で、ドイツの中央部にあたります。
    コーブルクはマインの支流Itzイッツ川(全長80km、Rattelsdorfラッテルスドルフを過ぎたところでMainマイン川に合流する)に沿って発展している。

    *英国王室(ハノファー王朝)、つまり Victoriaヴィクトリア女王の王配(おうはい:女王の夫のこと)Albrecht von Sachsen-Coburg-Gothaアルブレヒト・フォン・ザクセン・コーブルク・ゴータ(英語読みはアルバート、1840年-1861年)はCoburgコーブルクの出身であった。

    コーブルクの町はHerzog von Sachsen-Coburg und Gothaザクセン・コーブルク・ゴータ公家の宮廷があり、英王室との深い結びつきがあった町である。
    この事があった所為か?!第二次大戦下、英空軍はこの町を空襲しなかったと云う。
    また、コーブルクの町は連合軍の米軍により占領されたこともあって、大戦後東西ドイツに分離された際、幸いにも西ドイツ領になっている。つまり東西ドイツ国境線はコーブルクに沿って引かれ、コーブルクは国境沿いの町となった。
    (これも英国王室との関係の深さを物語るのかもしれない)

    14:35にコーブルク大要塞の駐車場を出て、コーブルク市内に戻る。
    要塞地区とは少々違って、優雅なSchloss Ehrenburgエーレンブルク宮殿前に来た。
    エーレンブルク宮殿は1547~1918年の間、コーブルグ公爵の居城であったので内部は見る価値があるそうだ。

    コーブルク:観光冊子の説明・・・エーレンブルク宮殿にはVorsaal控えの間、Familliensaalファミリールーム、Riesensaal巨大な間(バロック様式の宴会場)、Grosse Bildergalerie大ギャラリー、Rotes Empfangszimmer赤の応接室、Cobelinzimmerコブラン降りの部屋、Audienzzimmer接見室、Arbeistzzimmer書斎、Schlafzimmer寝室(ヴィクトリア女王の住居)、Thronsaal王座の間、プロテスタント教会などがあるらしい。


    だが、時間の割り振りで、結局好みの人形博物館を選び、宮殿、公園、州立劇場(旧宮廷劇場・1840年)などを外から見て回っただけになった。

    ・・・・・・・・・・・・・・

    尚、*ヴィクトリア女王と、王配(おうはい:女王の夫のこと)Albrecht von Sachsen-Coburg-Gothaアルブレヒト・フォン・ザクセン・コーブルク・ゴータ(英語読みはアルバート)の結婚式については、以下の事が参考になる。

    【ヴィクトリアは1836年にアルバートと会ったことがあり、その時の日記の中でアルバートを「髪は私と同じ褐色、目は綺麗な碧眼、美しい鼻と口。顔の表情は魅力的だ。同時に善良さと甘美さと知的さを持っている」と絶賛していた。

    もっとも1839年4月にヴィクトリアはメルバーン子爵に対して「私は当面いかなる結婚もしたくない」と語っている。アルバートのことは嫌いではなかったが、周囲が勝手にアルバートとのお見合いを進めているのが気に入らなかったという。
    だが結局周囲に流される形で同年10月10日にウィンザーを訪れたアルバートを引見することになった。この頃アルバートは身長こそ167センチと低めだが、顔は一層美男になっており、また高い教養をもっていた。ヴィクトリアはすっかり彼に一目ぼれした。引見の翌日に彼女はメルバーン子爵に対して「結婚に対する意見を変えた」と述べ、さらに翌々日には「アルバートと結婚する意志を固めた」と述べた。

    後日再びアルバートを召し、君主である彼女の方からプロポーズを行なった。「貴方が私の(結婚の)望みを叶えてくれたらどんなに幸せでしょう」と言ってプロポーズしたという。

    ヴィクトリアとアルバートは1840年2月10日にセント・ジェームズ宮殿で結婚式を挙行した。その翌日のレオポルド1世への手紙でヴィクトリアは「世界で私ほど幸せな人間はいないと思います。彼は天使のようです。昨日の披露宴は楽しくて熱気にあふれていました。ロンドン市内では群衆が果てしなく沿道に続いていました」と書いている。】
    (Wiki参考)

    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • ”フランケンの王冠と”称されるコーブルグ大要塞

    投稿日 2017年04月03日

    コーブルク要塞 その他の都市

    総合評価:5.0

    ここコーブルグ公爵領はバイエルン州の北部・フランケン地方である。北はテューリンゲンの森、東をフランケンの森、南にマイン・フランケン平野に囲まれた地域で、ドイツの中央部にあたります。町はマインの支流Itz(80km)イッツ川に沿って発展している。

    要塞はコーブルグの157mの小高い丘にその雄姿を見せている。Vesteにはエーレンブルグ城・公園から登ることもできるようだが、きつそうなので、車で町の裏手を迂回して要塞に近づいた。真っ青な青空と緑の森に映える赤レンガの屋根の要塞が見えてくる。手前に広い駐車場があって、2.8DMを管理人に支払い、歩いて向かう。徒歩10分で要塞だ。

    ≪Veste Coburgフェステ・コーブルグ大要塞・美術館≫
    2001年5月10日(木) 快晴  12:00~13:35 12DM
    http://www.kunstsammlungen-coburg.de 

    俯瞰図で見るVeste Coburgは楕円形の要塞で二重の城壁が周囲を取り巻いている。楕円形の真ん中に城門があり、これをくぐって城内に入ると、正面にはFuerstenbau領主の建物が見える。その右手にルターの礼拝堂があり、その横の階段を上がるとテラス上に素晴らしい眺望が開ける。5月の景色、真黄色の菜の花畑が緑の中に黄色い帯となって横たわっていた。城内には大きな菩提樹があって、その木陰が好ましい。

    更に向かって左手に古めかしいSteinere Kemenate石造の部屋の建物が建ち、順にCarl-Eduard-Bauカール・エドワードの建物(Carl-Eduardはコーブルグの最後の公爵・1945年に退位)、Herzoginbau公爵夫人の建物、Roter Turm赤の塔、 Blauer Turm青の塔、Hohes Hausがある。二つの塔のとんがり屋根の色が其々の色をしているのが分かる。

    “Die Fraenkische Kroneフランケンの王冠”と謳われるVeste Coburgは面積25000㎡の台上にある。歴史文書に名が出てくるのは1056年のことで、945年の歴史を誇る、ドイツ屈指の大要塞である。
    その歴史の断片は1248年Henneberg伯爵家が居城として、100年の間、VesteとCoburgを支配した。1353年から1918年の565年もの間はザクセンとテューリンゲンを支配した領主Wettinヴェティン家の支配になり、遺産相続によってErnst 1世公爵の家系が連綿として続くこととなる。(マイセンのアルブレヒト城の所を参照)。1782~86年は牢獄・収容所として使用されることもあったが、第二次大戦後の1946年、早々とバイエルン州の所有となった。

    17世紀にVeste の防衛機能が強化されたが、30年戦争の1632年、旧教の立場である皇帝側の名将Wallensteinヴァレンシュタイン将軍がこのVesteを攻城し、その守りの堅さにわずか一週間で攻めるのを諦めたという話は有名である。

    要塞内には4つの歴史的建造物があり、それらが連携して、膨大な、様々な美術・ガラス工芸品・武器などの博物館となっている。

    A)Steinere Kemenate石造の部屋;ルターの部屋・クラナッハ作のルターの肖像画がある、このCoburg城の小間で(1530年4月から半年間で)旧約聖書のドイツ語訳を完成した。
    工芸美術品では1320年のピエタ像、1360年のバンベルグのマドンナ、そしてデューラー、クラナッハなどの絵画。

    B)Carl-Eduard-Bauカール・エドワードの建物: ヴェネチアングラスなどのガラス工芸品、陶磁器、錫の工芸品など。    

    C)Herzoginbau公爵夫人の建物:中世からの歴史的な武器・甲冑・銃器の陳列があり、甲冑姿で馬上に乗った姿はすごい。狩猟の武器・道具、Jagdintarsienzimmer狩猟の間は見事な木彫りが見られる。刑罰用のマスクなども。16~18世紀の競技用ソリ、花嫁の馬車など多数の馬車・ソリ。現代の陶磁器などなど。

    D)Fuerstenbau領主の建物:Carl-EduardはCoburger Herzog von Sachsen-Coburg und Gohhaザクセン‐コーブルグ‐ゴータの領主でコーブルグの最後の公爵(1884~1954年)であった。公爵は1945年に退位したが、それまで家族と共に長く住んでいた。
    城の中心となる建物で、次ぎの様な部屋がある。ここは見学をしたのか、室内写真がないので、記憶が不鮮明なのだが、参考に記した。
    Vorhalle次の間・Kassenraum金庫の間とも呼ばれて、銭函がある。Wachhalle守衛の間には大砲など武器が陳列されている。

    Lutherkapelleルターの礼拝堂が今日の姿になったのは20世紀の初め。ルターの業績に敬意を示すと共にVeste滞在を記念し、この名を付けた。Jagdgalerie狩猟の間、Salon der Herzogin公爵夫人の間、Lucas-Cranach Zimmerクラナッハの間、Lesezimmer図書室、Speisezimmer食事の間、そしてFahnenzimmer・Rauchsalon軍旗の間・喫煙室には小冊子によると日本の昭和天皇から第二次大戦前に贈られたという、刀剣と日本人形(Die Geisya-Puppeとあるが!)が中央に置かれていた。

    また、1982年10月、スウェーデン王のカール16世が王妃と共に来訪したとある。ザクセン‐コーブルグ‐ゴータ公爵の王女であったSibyllaはカール16世の母であり、その母が最も幸せな時代を過ごしたFuerstenbau der Veste Coburgを懐かしんでの訪問だったという。

    ・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    5.0

  • ドレスデン:ツヴィンガー宮殿見学はアルテ・マイスターというギャラリーに絞った。

    投稿日 2024年03月20日

    ツヴィンガー宮殿 ドレスデン

    総合評価:5.0

    <2001年5月8日(火) 曇り 134km  : 累計913km>
    メルキュール・パークホテル・マイセンを9:15に出発する。DresdenとKönigsteinの見学へ。B6・172 60km =>”ザクセンのスイス” Königstein:Festung Königstein大要塞見学10:30~13:25 B172 40km =>Dresden 14:20~16:30 市内観光:Elbe川畔、Semperoperオペラ劇場、Zwinger宮殿・古典絵画巨匠展 、Residenzschloss、君主の行列、聖十字架教会。 L? 15km =>Jagtschloss Moritzburg :城内庭園・Café 17:10~18:10 。

    【Dresdenドレスデン市内観光】
    14:20~16:30
    ドレスデンで弧を描いて流れるエルベ川畔もまた美しい。
    第二次大戦の末期に米英軍の爆撃を受けて見る影も無いほどに被災したこの町は戦後の復興の中で営々と建物の再建・修復に尽力してきたという。
    とりわけFrauenkirche聖母教会は瓦礫の山から以前の姿に戻すという修復を続けている。驚くべきザクセン人魂である。

    見るところも多いので、残念ながら場所を選ばねばなら無い。

    <Zwingerツヴィンガー宮殿>
    14:50~16:30  DM14 (784円)
    1709年~32年、ザクセン王国の隆盛を体現した選帝侯Friedrich Augustフリードリヒ・アウグスト1世(子供200~360人?を生ませた事から“Der Starkeデアー・シュタルケ(強王)”と呼ばれ、ドイツ人に大変人気の高い王)によって建設された宮殿である。

    この後期バロック様式の離宮に名前の由来となった、高い楼閣・Zwingerツヴィンガーの塔が立ち、広い中庭、四方に噴水、内部には陶磁器コレクション、ギャラリー、武器博物館などがある。
    とても全部は無理で、ギャラリーに絞る。

    Alte Meisterアルテ・マイスターというギャラリーには15~19世紀の名だたる古典絵画巨匠の作品があり、今日はその展示を見に入った。
    ラファエロの“システィーナのマドンナ”は見事な傑作。ジョルジョーネの“眠れるヴィーナス”、フェルメールの“遣り手婆”や“手紙を読む少女”もある。そのほかルーベンス、レンブラント、ヴェラスケス、デューラー、アイク、グレコなどの世界有数の名画が見られた。

    宮殿北にある噴水にも寄ってみた。“妖精の泉”といい、たいへん美しい。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    5.0

  • ドレスデンの郊外に、狩猟館モーリッツ城が美しい姿をみせている。

    投稿日 2024年03月18日

    モーリッツブルク城 (モーリッツブルク) ドレスデン

    総合評価:4.0

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:⑥ドレスデンの守り・ケーニッヒシュタイン大要塞とザクセン王国の首都ドレスデンを巡った。≫

    <2001年5月8日(火) 曇り 134km  : 累計913km>
    メルキュール・パークホテル・マイセンを9:15に出発する。DresdenとKönigsteinの見学へ。B6・172 60km =>”ザクセンのスイス” Königstein:Festung Königstein大要塞見学10:30~13:25 B172 40km =>Dresden 14:20~16:30 市内観光:Elbe川畔、Semperoperオペラ劇場、Zwinger宮殿・古典絵画巨匠展 、Residenzschloss、君主の行列、聖十字架教会。 
    L? 15km =>Jagtschloss Moritzburg :城内庭園・Café 17:10~18:10 

    【Jagtschloss Moritzburg狩猟館モーリッツ城】

    ドレスデン市内の見物をして、L?を15kmほどドレスデンの北西に走った。

    ザクセン侯のバロック建築のJagtschlossヤークトシュロス(狩猟館)であった Moritzburgモーリッツ城が、美しい姿をみせている。この城は自然保護区の中にある。

    16世紀中頃に最初の城が築かれ、1723年アウグスト強王によって、現在の姿に改築された。赤いドームが四方にあり、城の周辺は池になっている。
    湖面に映える水城はもう夕暮も間近い。

    バロック博物館は1947年より開館された。
    館内にはザクセン・仏製の家具、日本・中国・マイセンの磁器、仏・伊・独の絵画などの展示があり、見学する価値もある。
    残念にも、今日は既に時間が遅く、城内のガイドツアー見学は無理だった。しかたなく広い城内庭園を散策した。
    大きなライラックが甘酸っぱい香りを漂わせ、満開であった。 
         
    <お茶: モーリッツ城のCafé;Lederzimmerレダーの間>  
    17:10~30  DM20(1,120円)現金。

    お茶の時間にも遅すぎたかと思ったが、(昼食なしで来てしまったので)給仕さんに聞いてみるとまだOKだという。美味しい林檎のトルテに紅茶・コーヒーを頂く。

    これからマイセンに戻り、旧市街観光を軽くして、夕食を旧市街で済ませる予定だ。

    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0

jijidarumaさん

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33国・地域渡航

12都道府県訪問

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

最近はアジアの香港・マカオ、台湾も時に昔を思い出しつつ、また、日本の小旅行と称した旅も
最近投稿しています。
(2025.06.11.)


プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、さらにロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、戦時体制の欧州の旅は見送り続けて、2025年を迎えている。

(2025.06.11.)

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