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jijidarumaさんのクチコミ(5ページ)全662件

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  • リトアニアは別名「十字架の国」と称する。そのシンボルがシャウレイの十字架の丘だ。

    投稿日 2024年07月20日

    観光案内所 (シャウレイ) シャウレイ

    総合評価:4.5

    リトアニアは別名「十字架の国」と称する。そのシンボルがシャウレイの十字架の丘だ。

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月21日(水)朝の内、日中時々小雨。~5℃。>

    リトアニアのSiauliaiシャウレイの町は、日本人には馴染み深い、かつてのリトアニアの首都Kaunasカウナスから、ラトヴィアの首都リガに向かう道の丁度中間にある。

    シャウレイの町から北東12kmにこの国のシンボル「十字架の丘」がある。
    A12の高速道路を下り、一般道路No.4033を行くと、「十字架の丘 インフォメーション センター」(Piliakalnio g. 7, Domantų k., Meškuičių sen., Šiaulių r. :The Hill of crosses)があり、その先におよそ300m歩くと、リトアニアの象徴でもある十字架の丘(Kryžių Kalnas)があった。

    尚、この口コミの場所はVilniaus 213, Siauliaiとあるが、住所はシャウレイの町の観光案内所を指していて、本来の住所は上記の「十字架の丘 インフォメーション センター」のアドレスが正しい。

    【Kryžių Kalnas十字架の丘】
    住所:Domantai, LT-81439 Siauliai,
    15:40~16:10 寒く、暗くなってきた。

    十字架の丘は2001年世界無形文化遺産に登録された。
    リトアニアは別名「十字架の国」とも呼ばれている。この国では十字架は人々の生活と密着しているそうだ。
    たまたま、帰国したその晩にNHKでリトアニアの番組を放送していた。結婚式を済ませたカップルが必ずSiauliaiシャウレイの十字架の丘に十字架を納めに来る慣例になったと云う。画面でも嬉しそうな新婚さんが十字架を収めるシーンを映した。新しい家族を守る事、子供の誕生・成長を祈るのは日本の神社のようなものである。

    平原にほんの少し高くなった丘には1m以上の十字架が26万本、小さなのを入れると優に100万本を超えるものが置かれていると云う。
    誰かが数えたとは思えないが、ともかく多い。リトアニアの人口350万人よりも、十字架の数は多いかもしれないと云われる。

    尚、Wiki参考:ここに書かれた十字架の数はその数の推移の様子がよく分からないものの、1800年代に9000本を超えていたとある。
    1900年130本、1922年50本、1938年400本以上、1961年5000本が破壊される、1975年1200本が破壊される、1990年約55000本を数えると書かれていた。さらに2006年には100000本になったと云う。

    信者ではない私には「十字架の丘」は異様にも見える空間であったが、ローマカトリックの信仰熱い人たちにはここの持つ意味は大きいのでしょう。
    しかも、ロシアからの独立を目指した、抑圧された民族の象徴として歴史的な意味も大きいのだ。

    十字架の丘は元々、1831年のロシアに対する蜂起(反乱)の後、処刑された人々を悼んで建てられたとされている。その後も抑圧された民族の象徴として大事にされてきた。
    ソ連支配下では、この丘をブルドーザーで崩したとか、周囲に鉄条網を設置して、立ち入り禁止地域にし、十字架は何度も焼き払われた事もあったといいます。
    リトアニアの人々はその度に夜陰に新しい十字架を備えたと云う。
    手前の少し離れた所にローマ法王パウロ2世が訪れた記念の十字架と碑が立っていた。 

    十字架の東西南北を指す十字や、その間に付けられた矢印の様な木は自然崇拝の・・・太陽を表しているのだと云う。十字架は木製が多く、その十字架を作った手工芸が「無形文化遺産」に登録された。


    ラトヴィアの首都リガへ向かう。約132km、所要約2時間である。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    景観:
    4.5

  • ラトヴィア・スィグルダ:悲恋の伝説“トゥライダのバラ”が残るトゥライダ城

    投稿日 2017年10月29日

    トゥライダ城 スィグルダ

    総合評価:3.5

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月22日(木)ラトヴィアのスィグルダ:トゥライダ城を訪ねる>

    ≪トゥライダ城観光≫
    14:30~15:50

    “ラトヴィアのスイス”と称する、42ヘクタールの広い地域に古城城址があり、博物館になっている。あいにくの小雨模様で、少し霧も出ているようだ。赤レンガが周囲の緑に映える美しい古城(1214~1566年)見学に入口から10分ほど歩きます。
    かつて、Gaujaガウヤ川をはさんだトゥライダ、スィグルダ両地方には、リーブ人が 居住し、Turaidaトゥライダとはリーブ語で“神の庭”、或いは“悲しい庭”の意味だそうだ。

    この城はリガのアルベルト大司教により、1214年に築城された。Siguldaスィグルダにあった、リヴォニア帯剣騎士団の城の安定にも寄与した。1776年に塔を除き、トゥライダ城は火災で消失している。
    35m・5層の塔の上まで、何段あるのか、途中で数え忘れたが、息をぜいぜいして上った。塔の最上階からの素晴らしい黄葉の景色、ガウヤ川Gauja(ラトヴィアで最も長い川。全長452km。)の蛇行の様を楽しんだ。

    1953年から城の復元が行われて、本丸の一部は博物館にしている。ここでは13世紀以降のスィグルダの歴史を見る事が出来たが、あまり充実したものではない。
    又、公園内に18、9世紀の農家を復元したものや、彫像作品を見る事が出来ると説明にあるが、見物は城址のみとなった。

    ここには“トゥライダのバラ”と呼ばれた美しい人の悲しい話(後述)が残る。
    その人の名はMaja (1601–1620)と言います。
    トゥライダ城の公園に墓があり、小さな木の礼拝堂が立っていると云う。
    その墓を詣でる人は多く、しきたり通りに墓の上に結婚の花を捧げると聞きます。


    伝説:ラトヴィア・トゥライダのバラ
    Die Rose von Turaida (auch Rose von Sigulda)
    https://4travel.jp/travelogue/10924747

    ・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    2.5
    コストパフォーマンス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    展示内容:
    3.5

  • ラトヴィアの国はかつて先住民リーヴ人の居住地であった証しの大石(顔)

    投稿日 2024年07月16日

    リーヴ広場 リガ

    総合評価:4.0

    【ラトヴィアの国はかつて先住民リーヴ人の居住地であった証しの大石(顔)】

    先住民リーヴ人の居住地であったことから、Livonia リヴォニアとも称したラトヴィアの国は、人口約230万(ラトヴィア人60%、ロシア人28%など。宗教はプロテスタント・ルーテル派)、首都リガが人口約72万と凡そ三分の一がこの都市に住んでいる事になる。それだけ豊かでもあり、リガは大きく、バルト最大の町だ。

    歴史的にはリガは13世紀にハンザ同盟に加盟し、帝政ロシア時代は『ヨーロッパの窓』として、帝政下で繁栄を享受していたペトログラード、モスクワに次ぐ、当時、“バルトのパリ”と呼ばれほどの都市に成長した。
    時代がソ連支配下になると、“零落した貴婦人”とも称され、暗い時代を過ごした。バルト三国の独立後は経済的にも豊かな大都市に変貌している。
    住民はラトヴィア人が凡そ50%で、バルト三国の中でも特に多い比率のロシア人は減少傾向だそうだ。それも国籍の取得条件のハードルを高くしている由だ。

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月22日(木)ラトヴィアの首都リガは朝から小雨、時々止む。4~6℃。>

    旧市街を巡る。

    スウェーデン門:
    リガに唯一残るかつての城門。1698年に城壁を利用した住宅が建てられた際に、この城門が建てられた。当時この地を支配し、駐屯していたスウェーデン兵がよくこの門を出入りした事から、この名前が付けられた。
    当時はスウェーデン兵300名が駐屯していたそうだ。

    『スウェーデン門の悲恋伝説:
    リガの娘たちはスウェーデン兵と会うことを禁じられていたのですが、一人の娘がスウェーデン兵と恋に落ち、この門で密かに会うようになりました。
    ある日、スウェーデン兵を待っていた娘は捕らえられて、罰として門の内側に塗り込められてしまったと云う事です。以来、真夜中にこの門を通ると、娘のすすり泣きが聞こえるようになったと云う。』

    ヤコブの長屋Jakobskasernen:
    スウェーデン門をくぐると城壁外になり、広い石畳の通りになった。旧市街側に再建された城壁やスウェーデン塔が見られ、その城壁の向かいに18世紀の頃、長屋が建てられた。今に残る、この建物はレンガ屋根、長々とした黄色の建物である。

    火薬塔:
    14世紀に建てられ、1650年に再建され、火薬の保管庫に使われた塔。高さ25.5m、外壁の厚さは3mで、頑丈な作り。この横の道を渡ると、猫の家がある。

    猫の家:
    屋根の上に背を丸めた猫が見える。昔、ここの住人が隣の家に住むギルド商人とトラブリ、ワザと猫の尻尾(お尻!)をその家に向けさせた。途中で裁判沙汰になったと云えられている、曰くつきの猫だが、今は顔の方を向けている。

    リーヴ広場とリーヴ人の顔:
    猫の家から直ぐ近くに広いLivu laukumsリーヴ広場がある。リガの旧市街中心部に位置する広場周辺に18世紀の大小のギルドハウスが立つ。
    リーヴ広場に置かれた奇妙な、大きな石が気になった。これは先住民Livuリーヴ人の顔だと云う。ちょっと見には愛嬌もある、素朴な顔している。

    リーヴ人は北シベリアから移住してきたとされるラトヴィアの先住民である。Finno-Ugricフィン・ウゴル民族(ウラル山脈地方)のリーヴ人はバルト民族のラトガレ人、フィンランドのフィン人やエストニア人と同系だと言う。
    13世紀、ドイツ・リヴォニア騎士団が自然崇拝の異教徒リーヴをキリスト教に改宗させる目的で、酷薄な行動をしたので、可哀そうなことにリーヴ人は減少の一途を辿った。

    19世紀末には3000人、第二次大戦前夜には1000人、1959年の国勢調査では約200人という数字が公表されている。この旅の当時、リーヴ語を話す人は20人以下とあるから既に絶えてしまったかもしれない。

    三人兄弟の家:
    右から日本的に言えば、太郎、次郎、三郎と、三兄弟は肩を寄せ合って立っている。
    リガ最古の中世の住宅である。外見は建てられた当時の姿をほぼ保ち、時代の変遷を良く示すものになっている。
    右端の太郎の家は15世紀の住宅で、窓の大きさで税金が決められていたので、窓が小さい。次郎の時代はそうした決まりがなく、窓は広くなり、見た目も美しい。
    三郎の家は貧弱、家幅が狭く、見た目もかなり窮屈なものになっている。しかも、時代と共に土地の値段が高くなって、三郎の建物全体が前に出てきている。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5

  • ラトヴィアの首都リガ:新市街のアルベルト・エリザベート通りは見事なユーゲントシュティール様式の建物が並ぶ。

    投稿日 2024年07月08日

    アルベルタ通り リガ

    総合評価:5.0

    ラトヴィアの首都リガ:ラトヴィアの首都リガ:新市街のAlberta&Elizabetesアルベルト・エリザベート通りはリガの事実上の中心地であり、
    ここには見事なJugendstilユーゲントシュティール様式(Art Nouveauアール・ヌーヴォー)の建物が並ぶ一角があった。

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月22日(木)ラトヴィアの首都リガは朝から小雨、時々止む。4~6℃。>

    『ドイツよりもドイツらしい』と言われる街並みの中でも、ブラックヘッドのギルド会館も目立つが、リガでは更に見事な*Jugendstilユーゲントシュティール様式(Art Nouveauアール・ヌーヴォー)の建物が並ぶ一角が素晴らしい。

    新市街のAlberta&Elizabetesアルベルト・エリザベート通りで金融・官庁街・各国大使館も見られる通りである。リガの事実上の中心地だ。

    19世紀に建てられた、ユーゲントシュティール様式の数階建ての建物が軒を競って、その美しい様式で表現されていた。
    女性がモチーフになって、壁面に表現されたのは、その地位の向上を示すとか!これほどの数がこの町に残っていたとは考えもしないものでした。

    当時、ユーゲントシュティール様式における、ヨーロッパの中心がこのリガであったとか。町の中心の凡そ三分の一がユーゲントシュティール様式の建物であったと言われている事から、その凄さが理解できる。
    この町の素晴らしさは、これが体現しているといえよう。

    *Jugendstilユーゲントシュティール:アール・ヌーヴォー:
    青年派様式若しくは青春様式とも訳している。1897~1910におけるドイツの芸術思潮である。その19世紀末の芸術は一種退廃的とも云われる芸術で、曖昧且つ曲線的表現を駆使している。仏語で言うアール・ヌーヴォーもそれに近い。ウイーンで名高いクリムトの絵画がその代表であり、建築でも独特の色彩とデザインを持った建物がウイーンの町に見られる。

    因みにハンガリー大使館の建物はMichail Eisensteinの設計によるものである。(彼の父は1925年に製作・公開された“戦艦ポチョムキンの反乱”で知られるセルゲイ・アイゼンシュテイン監督だ。)

    赤の横線が壁にひかれた、ひときわ立派なロシア大使館近くの公園には樹齢200年を超える柏の木、楓の大木など、220種の木々、植物が植えられている。
    きれいに黄葉した落ち葉が積み重なって、絨毯のようになっていた。

    ・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0

  • ラトヴィアの首都リガ:『ドイツよりもドイツらしい』と言われる街並みの中でも、まずはハンザ商人のギルド会館を見たい。

    投稿日 2024年07月01日

    ブラックヘッドの会館 リガ

    総合評価:5.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月22日(木)ラトヴィアの首都リガは朝から小雨、時々止む。4~6℃。>

    ラトヴィアの国は人口約230万(ラトヴィア人60%、ロシア人28%など。宗教はプロテスタント・ルーテル派)、首都リガが人口約72万と凡そ三分の一がこの都市に住んでいる事になる。それだけ豊かでもあり、リガは大きく、バルト最大の町だ。昨夜は町に入ると、町に明るい光が有った。住民はラトヴィア人が凡そ50%で、バルト三国の中でも特に多い比率のロシア人は減少傾向だそうだ。それも国籍の取得条件のハードルを高くしている由だ。
    バルト3国の中で最も開かれた、ラトヴィアの首都、世界遺産リガ市内観光。

    『ドイツよりもドイツらしい』と言われる街並みは、中世ドイツの商業都市を良く残している。細い複雑に入り組んだ道は当時と変わっていないと云う。

    ・・・・・・・・・・

    【再建されたブラックヘッドのギルド会館】
    14世紀のドイツ騎士団時代、未婚のハンザ商人の組合(ギルド)に依って建てられたもの。
    二つのギルドハウスが並んで立つが、右が主である。左はSchwabhausシュワブハウスという。
    第二次大戦で完全に壊れたが、リガ創設800年を記念して、2000年にオリジナル通りに再建された。オランダのルネッサンスファザード(正面)や、大変魅力的で美しく飾られた壁面を持った建物である。

    大時計の下には4つのハンザ都市の紋章、Rigaリガ、Hamburgハンブルグ、Luebeckリューベック、Bremenブレーメンが浮き彫りになっているのが見える。その下にギリシャ神話の神々の像があり、入口の左右に聖母マリア像、黒人であった聖モーリアス像が立つ。この聖モーリアスに因んで、ブラックヘッドのギルドと呼ばれたらしい。

    彫金細工と彫刻で飾られた大時計は、月、日、時間、月齢を刻み、伝承では、かつてこの時計を作った職人は二度と同じものが造れないように、目をくり抜かれたとか・・。

    ギルド前のマルクト広場には、リガの守護神である聖ローランドの像が立ち、中世には市が立ち、魔女の火あぶりの刑なども行われた中心地だったが、第二次大戦で市庁舎、聖ローランドの像、ブラックヘッドのギルドなど一帯が壊滅している。

    ・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • エストニア・タルトゥ:ホテルの名「Dorpatドルパット」はTartuタルトゥのドイツ語、ポーランド語の呼び名である。

    投稿日 2024年06月27日

    Dorpat Hotel タルトゥ

    総合評価:4.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月22日(木) リガは朝から小雨、時々止む。4~6℃。>

    ラトヴィアからエストニアに入る。
    この国は人口約135万人(エストニア人68%、ロシア人26%)、バルト三国の一番北に位置し、一番小さな国(北海道の6割の国土面積)である。

    エストニア・TartuタルトゥのホテルDorpatドルパットには19:30頃に到着した。

    ホテルの名「Dorpatドルパット」はTartuタルトゥのドイツ語、ポーランド語の呼び名である。
    この言葉を使用している事に違和感はないのだろうか?!
    この町はエストニアで2番目に人口の多い(タリンが40万人、タルトゥ10万人)町だが、首都のタリンが政治・商業の中心であるのに対して、エストニア最古の大学があるタルトゥは学問・文化の中心と言える。
    タリンの南180km、南エストニアの中心都市でもある。

    【ホテルDorpatドルパット】    
    Soola 6 51014 Tartu 、Estonia
    部屋番号;307号室(3F)
    エストニアの第二の都市の中心にある最大のホテル。3星・全205室。
    ベッドも寝心地良く、トイレは床暖房。但し、この旅で唯一のシャワーのみの部屋である。
    ホテル前はEmajogiエマユギ川(エストニア語で“母なる川”の意味で、全長101km)沿いにあって、たいへん見栄えの良いホテルだ。


    <2009年10月23日(金) タルトゥは曇り。~9℃。>

    今日の行程はホテルDorpatドルパットを10時にスタートし、タルトゥ市内観光・・・ラエコヤ広場、 悪魔の橋・天使の橋、大聖堂、タルトゥ大学、ヨハネ教会・・・14:05タルトゥを出発し、タリンへ 向かう。途中、Põltsamaa プルツァマーに立ち寄る。=>エストニアの首都タリンに向かう。
    (約190km、所要約4時間)

    途中立ち寄ったのは、いわゆる古都である。
    プルツァマーは、かつての*リヴォニア王国の首都で、王城プルツァマー城はマグヌス王(デンマーク王子のホルシュタイン公)の王宮として使われていたことや、100年前からワインを製造しており、「エストニアのワインの首都」と呼ばれている。

    *リヴォニア王国は16世紀後半に現在のエストニアおよびラトビアにあたる地域を領土として主張した名目上の国家である。リヴォニア戦争(1558年~83年:ロシア帝国<=>リヴォニア騎士団及びポーランド・リトアニア共和国、デンマーク=ノルウェー、スウェーデン王国)中の1570年に、ロシアのツァーリであるイヴァン4世(雷帝)が傀儡国として建国を宣言したが、国家としての実態を持つことはなかったと云う。

    <Põltsamaaプルツァマーの古城でエストニアワインの試飲>
    (15:00~15:45)
    バルト三国は北過ぎて葡萄の生産は出来ないから、通常のワインは輸入品である。
    この掘割に囲まれた古城にはエストニアワインの醸造所は見ていないが、ワインの試飲と販売所などがある。サクランボ、木イチゴ、リンゴやスグリ、黒スグリの果実でワインを作ると言う。サービスされた美味しいチーズを頂き、二、三種類のワインを飲んでみた結果、黒スグリ一本(41Kr=370円)を購入した。

    Põltsamaa プルツァマー城:
    【1272年築城。これはプルツァマー川の水を引き込んだ堀をもった水城である。城壁が両側104.5と109mのほぼ真四角に囲み、壁の高さ11m。14世紀の3階建ての修道院、18世紀に建設されたレンガ造りの修道院の塔を持つ。】

    ・・・・・

    16:00タリンに向かう。Sokos Hotel Viruソコスホテル ヴィルには17:30の到着。予想より早い到着の様だ。

    旅行時期
    2009年10月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.0
    バスルーム:
    3.0
    ロケーション:
    4.0
    客室:
    4.0

  • エストニア・タルトゥ:タルトゥ大学があるおかげで、この町は “頭”の町と言われているそうである。

    投稿日 2024年06月18日

    タルトゥ大学 タルトゥ

    総合評価:4.5

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月23日(金) タルトゥは曇り。~9℃。>

    エストニア第2の大学都市Tartu・文化都市タルトゥ観光
    タルトゥ大学があるおかげで、この町は “頭”の町と言われているそうである。

    丘を下り、大学通りに入ると、面白いものが目に入った。
    建物の壁全体を使って、3階までの窓を描き、その窓から大学の教授たち・・・多分ご本人が顔を覗かせている図だ。

    1)タルトゥ大学: (11:15~11:50)

    エストニアでもっとも有名なこの大学は1632年にスウェーデン王グスタフ2世Gustavus Ⅱによって創立された。後のリヴォニア戦争などで、約100年閉校する期間もあったが、1802年に再開されている。
    Ulikooli大学通りにある大学本部はギリシャ風の6本の円柱が正面を飾り、美しい。

    本部の中にはMuseum of Classical Art古典美術博物館がある。
    特に大学講堂は18世紀の古典主義様式を顕著に表したもので、円柱が立ち並び、羊の頭の模様などで飾られた、講堂はコンサートホールにも利用されている。
    学生数12,000人との事だが、日本人留学生はただ一人。
    (因みにエストニア全土で日本人在留者は30人。)

    ・・・・・

    20分ほど自由時間。思い思いに旧市街のお店やRueuetli通りを歩く。

    ギムナジウム中学の前で革袋と思しき小さな球を数人の生徒が、蹴り玉をして遊んでいる。日本の蹴鞠を小さくしたようなものか・・・見ていると難しいらしく、なかなか続かない。金曜日の昼時だが、人通りは少ない。
    自宅で昔のように食事する習慣があるのか・・・。


    2)聖ヨハネ教会(Jaani Kirik・St. John's Lutheran Church): (12:20~35)

    Rueuetli通りを行くと左手にこの教会がある。14世紀にバジリカ様式で、リューベックの職人が造った。16世紀に戦争で破壊された。1944年のソ連軍の攻撃でも破壊されている。ヨーロッパでもあまり例を見ない、1000枚ほどの素焼きの塑像装飾で知られていた。
    教会は現在再建中、内部に入ることができるので、解らない説教を聞いてから、パイプオルガンの演奏を聞かせて頂いた。5Krを寄進。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • エストニア・大学都市タルトゥ:ラエコヤ広場には美しい市庁舎、市民に愛される「キスする学生の噴水」が立つ。

    投稿日 2024年06月17日

    ラエコヤ広場 タルトゥ

    総合評価:5.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月23日(金) タルトゥは曇り。~9℃。>

    エストニア第2の大学都市Tartu・文化都市タルトゥ観光
    大学があるおかげで、この町は “頭”の町と言われているそうである。

    ホテル前の*Emajogiエマユギ川沿いをちょっぴり散歩した。昨日の雨は上がり、日差しは望めないが、なんとか天気はもちそうだ。

    *Emajogiエマユギ川(エストニア語で“母なる川”の意味で、全長101km)沿いに国民的な作家・劇作家Oskar Lutsの像がある。その作品の内容は不詳。
    ここから少し先に町の中心がある。

    この町は常にエストニア民族独立運動の拠点であったことから、民族の魂の故郷と言われている。何故か?町の名は19世紀末まで、ドイツ名(ポーランド語でもあるがいずれも支配者である)のDorpatドルパットが用いられていた。

    旧市街の市庁舎前広場は市庁舎を正面にして、周囲を18世紀後半から19世紀前半の新古典様式や後期バロック様式の建物に囲まれていて、落ちついた雰囲気がある。

    1)ラエコヤ広場(Raekoja Plats):

    町の中心は所謂、市庁舎広場で、この周辺一帯は1775年の大火後に再建設されている。市庁舎がその代表格。

    2)傾いたバークレイの家(Viltune maja Raekoja plats 18):

    市庁舎広場に面した記念建造物にもなっている、18世紀の建物が面白い事に傾いている。傾く原因は左の壁は新しく基礎を造って建てたが、川に面する右側は昔の壁の上に建てたためだそうだ。
    建物は今も現役で美術博物館に利用されているらしい。


    3)徐々に沈んでいると云う市庁舎Town Hall:

    大火後の1775年に建築された市庁舎はオランダの町の市庁舎を参考に、ドイツの建築家が再建した。
    問題なのは市庁舎も、この町にある多くの建物と同様に、ゆっくりと湿った地面に沈んでいるとか?!ここの塔にはドイツ製の18個の鐘があり、毎日、18時と21時に鳴り出すと言う。

    4)キスする学生の噴水(Suudlevad tudengid):

    1998年に造られた彫刻で、市庁舎広場にある大学町のシンボルは洒落たものだ。
    この像は今や“永遠に愛される像”になっていると云う。


    この広場は歴史を知れば、エストニアの大事な場所だとわかる。

    ・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • エストニア・大学都市Tartuタルトゥ:大学の裏山トーメの丘に天使と悪魔の橋があるという。

    投稿日 2024年06月16日

    天使の橋 悪魔の橋 タルトゥ

    総合評価:4.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月23日(金) タルトゥは曇り。~9℃。>

    エストニア第2の大学都市Tartu・文化都市タルトゥ観光
    大学があるおかげで、この町は “頭”の町と言われているそうである。

    Lossiロッスィ通りを登りきると、Toomeトーメの丘(大聖堂の丘の意)である。大学の裏山の様な感じだが、様々な建物、彫像、橋、天文台などが、黄葉した木々の中に散在し、私どもは丘を一巡りする。

    悪魔の橋(The Devil's Bridge):
    ロシアのロマノフ王朝300周年を記念し、1913に造られた橋。皇帝アレクサンダー1世に献呈されたもの。なぜ黒々とした悪魔の橋・・・ロシアだからでしょうか?

    天使の橋(The Angel's Bridge ):
    1813年に造られ、100周年の1913年に架け替えられた。
    ラテン語で「休息は力を甦らせる」と書かれており、こちらはタルトゥ大学の初代学長に捧げる橋だとか・・。

    トーメの丘はイギリス庭園風にデザインされたそうで、English Bridge の響きがエストニア人にはAngel's Bridge天使の橋に聞こえるからだとある。

    そうすると悪魔の橋は単に天使の橋に対した、名前付けかもしれない。

    橋の歴史がエストニアの歴史を語っている。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旧観測所(Tahetorn):世界文化遺産
    エストニア国旗がはためく旧観測所は大学が19世紀から使用していたもの。修理中でした。

    カール エルンスト フォン ベアKarl Ernst Von Baerの彫像(1886年):
    黄葉した林の中で顎に手をやり、考え深げに座る人類学者・自然科学者の像である。
    バルト・ドイツ人の家系に生まれた。タルトゥ大学の卒業生。胎生学(発生学)の創始者として、哺乳動物の卵子を発見したとある。
    親しまれ、尊敬されているのでしょうか!面白い事に、ドイツのハルツ地方にみられる4月30日魔女の夜(Walpurgis Night)、タルトゥ大学の学生連中の儀式として、この先生の頭をシャンパンで洗うのだそうです。

    大聖堂(Toomkirik・ Ruins of Toome Cathedral):  (~11:00)
    13世紀にドイツ騎士団によって建築が始まり、15世紀に完成したバジリカ様式の聖堂。
    リヴォニア戦争で破壊され、1624年の火事で完全に焼け落ちた。ルター派の宗教改革では重視されず、再建されなかった。残った部分は現在、大学の歴史博物館となっている。


    ・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • エストニア・タリン:ソコスホテル ヴィルは旧市街とショッピングセンターが徒歩圏という立地で大変便利でした。

    投稿日 2014年11月29日

    Original Sokos Hotel Viru タリン

    総合評価:4.5

    ≪バルト三国 世界遺産紀行8日間の旅・美しき中世の街並み≫
    2009年10月19日(月)~26日(月)
    ツーリズムのツアー第五日;10月23日(金) タルトゥは曇り。~9℃。
    バスにて、タルトゥ市内観光 => プルッツアマー =>タリン着

    ≪Sokos Hotel Viruソコスホテル ヴィル≫
    部屋番号;1002号室(10F)・2連泊
    4 Viru Square 、 Tallinn 200001 、Estonia

    ホテルチェーンの Sokos Hotels.の一つ。タリンの旧市街の近くにあるホテルの最上階の部屋22Fからは、バルト海を一望することができると言うが、今回は10Fだった。
    とはいえ、広く、大変立派な部屋で、眺望も港に向いていて、悪くはない。

    バスローブ・スリッパ付き、浴室は床暖房、アイロン・アイロン台もあるといったKaunasのホテルと同じであった。更に嬉しい事にお水を毎日2本(合計1L)無料でサービスされたので大変ありがたかった。

    ホテル内には、レストラン2軒、バー2軒、ナイトクラブがあり、規模としては、全客室数
    が 516と最大。4星。

    ホテルは旧市街とショッピングセンターが徒歩圏という立地で大変便利でした。
    又、エストニア人・相撲の把瑠都はこのホテルのカジノ?の用心棒だったとか。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (2024年6月7日、更改)

    旅行時期
    2009年10月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    5.0
    バスルーム:
    5.0
    ロケーション:
    5.0
    客室:
    5.0

  • エストニア・タリン:タリン<=>ヘルシンキ間を飛ぶFinn.comは珍しいプロペラ機だった。

    投稿日 2024年06月08日

    タリン ウレミステ空港 (TLL) タリン

    総合評価:4.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン


    <2009年10月25日(日)タリンは曇り、 ~8℃。>

    タリンLV 14:40 AY3926(Fimm.com・・フィンランド航空の子会社) 
    ヘルシンキAR 15:05 経由 ヘルシンキLV 17:20 AY0073(フィンランド航空)
    成田AR 17:35
    タリン=>ヘルシンキ ;約35分  ヘルシンキ=>成田 ;約9時間40分

    *7時にホテルのいつものレストランで頂く。ゆで卵、ハム、コーヒー、リンゴジュース等の朝食。12月・ドイツのクリスマスの旅まで、美味しい朝食はお預けだ。
    今日から冬時間に変わるとのことで、また時差を一時間戻した。

    <お土産>
    9時からHotelに隣接したショッピングセンターViru Keskusに行って、孫たちのお土産に衣類を購入する。どんどん大きくなるので、家内はサイズ選びに苦労している。なんとか納得の品物を見つけて、一安心(4品1576Kr=14,120円)。地階のスーパーに降りて、更にチョコレートを物色する。当地の様々なチョコレート、ドイツのグミなど(27点872.01Kr=7,812円)、昼食用に菓子パン(3品38Kr=342円)もついでに購入し、部屋に戻った。(9:00~11:00)
    早目の昼食を室内で食べて、最後の帰国準備にかかる。

    11:40チェックアウト。12:40バスでタリン空港に向かう。サッカースタディアムのような紺色の建物が見えてくる。
    短い飛行時間とあって、タリン=>ヘルシンキ間を飛ぶAY3926(Finn.com)はプロペラ機である。ATR72-500 70人ほどの乗客定員と少ない。小さな空港だけに定刻の離陸。
    25分で早目のヘルシンキ着、トランジットは2時間もあり、時間まではDuty-Free でお買い物時間になった。

    Aalborg Jubiloeums Akvavitはオールボー・ジュビリウムス・アクアヴィット 1L瓶を2本購入した。(Euro19.8X2=39.6は5,544円。)

    AY0073(フィンランド航空)はヘルシンキを定刻の17:20に離陸し、成田に。

    <Akvavit アクアヴィットについて>
    狙い目はデンマーク産AALBORG JUBILÆUMS Akvavit 1Lアルコール度数42度のSpirit蒸留酒(火酒)だ。Aalborg Jubiloeums Akvavitはオールボー・ジュビリウムス・アクアヴィットと言い、ジャガイモを原料として蒸留し、Dillディル・Corianderコリアンダーといったハーブで香り付けし、辛口、淡い琥珀色、独特の味わいが好ましい。
    ジュビリウムスは“祝典”の意味で、AALBORG TAFFEL Akvavitオールボー・タッフェル・アクアヴィット(香りの主体はキャラウェイ香、アルコール度数 45%)の発売100年周年を祝って、1946年、新たに発売されたものである。
    デンマークでのアクアヴィットの代表的ブランドとして、世界中に輸出されているが、日本ではあまり見かけない。
    アクアヴィットの語源はラテン語のAquavitaeアクアヴィテ(命の水)であり、元来はスペインで創られたと云われている。その後、フランス、北欧などに伝わったとされ、北欧では15世紀頃から飲まれてきた穀類を主原料とする蒸溜酒である。
    デンマーク語、スウェーデン語でAkvavit、ノルウェー語はAkevitt、ドイツ語ではAquavitと称し、ジャガイモを主原料とした蒸留酒である。デンマーク・スウェーデン・ノルウェー・ドイツで製造されている。
    AALBORGオールボーはデンマークのダニスコ社生産のアクアヴィットで、1845年に設立された蒸溜所のある地名に由来している。デンマーク産の代表的ブランドであり、王室御用達として、王冠の印が付いている。

    私のやり方は冷蔵庫で冷やしておき、これまた冷やしたグラスにそれを注いで、一気に飲むのが良い。また、ちびちびと香りを楽しみながらもまた楽しい。ビールを飲む前に胃の洗浄とばかりに、アクアヴィットを流し込むのは邪道?!かもしれないが、ドイツ駐在時の若い頃は良くやっていた。今は食欲増進と・・・グラス一杯をちびちびやっている。
    因みにアクアヴィットは、ドイツではSchnapsシュナップスと呼ばれている。基本的には食後の消化を助ける為に飲むとされている。レストランでビールを飲む間、シュナップスを一気飲みして、ビールで冷えたお腹を暖めることもよく見かける。
    あるバーで、アクアヴィットをベースにと言って、カクテルを注文したところ、レッド・バイキング(Red Viking)というカクテルが出てきました。
    (アクアヴィット 30ml 、マラスキーノ、 30ml ライム・ジュース 30ml と・・ものの本にはあります。) 

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    アクセス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    施設の充実度:
    3.5

  • エストニア・タリン:旧市街の中心であるヴィル通りをぶらぶら歩きながらお土産を買う。

    投稿日 2024年06月01日

    ヴィル通り タリン

    総合評価:4.5

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月24日(土)エストニアの首都タリンは曇り、 ~8℃。>

    ヴィル門(Viru vaeravad)とヴィル通り :

    旧市街東側にある1345-1355年にかけて築かれた城壁の門である。
    現在、この門のあるヴィル通りには、お洒落な店やレストランが立ち並び、人通りも多い。門の前で客引きの小父さんも帽子・中世風のマントを着ている。
    家内と一緒に撮ってよいかと、聞いてみるとにこやかにOKしてくれた。

    ≪最後の町での買い物≫
    自由行動の時は落ち着いて、買物ができる。旧市街のメイン通りViruヴィル通りを見て歩く。
    Viru通りに面した Viru-Horveit で家内のリネンの上着Euro37.2=5,225円。一割値引きしたが、とても安い買い物に思えた。・・・良い品は長持ちするから、いまだ現役で先日の傘寿の祝にも家内は着ていった・・・(~14:15)
    ぶらぶら歩いてくると、ラエコヤ広場の旧市庁舎傍に出る。OLDE HANSA傍の店 Mykola Pervakでは絵蝋燭を20個、お土産に購入する。20X45=900Kr値引き50Kr差引850Kr=7615円・・・Tartuの市庁舎傍の店で買い損ねた絵蝋燭をここで見つけた。
    Tartuでは1個50Krでしたので、結果オーライと言えるかな!ロシア的美人のお嬢さんたちが嬉しそうに一つ一つを包装してくれた。 (~15:00)

    レストランPeppersackという英語のPepper胡椒とドイツ語のSack袋を一つにした・・胡椒袋という名前でしょうか。ヴィル通り2番地にある。
    14世紀に倉庫であったという建物がレストランになっている。Olde Hansaと同じように中世のコスチュームを着た人たちが給仕をするという事で有名なようだ。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    景観:
    4.5
    人混みの少なさ:
    3.0

  • エストニア・タリン:ロシアのピョートル大帝が建てたカドリオルク宮殿と公園は秋より春の時期の方が美しいかもしれない。

    投稿日 2024年06月02日

    カドリオルク公園 タリン

    総合評価:3.5

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月24日(土)エストニアの首都タリンは曇り、 ~8℃。>

    午前中の最初の目的地はタリン近郊4kmにある黄葉のカドリオルク公園である。
    徒歩で白鳥の池を見ながら、カドリオルク宮殿の方に歩く。
    途中、エストニア独立の英雄の一人であるJaan Poskaヤーン・ポスカの座像(タリンの各所にその名を残し、カドリオルグ地区にポスカが住んでいた家があり、その通りが「ヤーン・ポスカ通り」となっている。この通りに彼の銅像が建っており、また路面電車の「ヤーン・ポスカ電停」が存在するというから、彼の銅像なのだろう)がたっていた。。

    【カドリオルク宮殿と公園(1723年)】
    A. Weizenbergi 26, 10127 Tallinn Estonia
    (9:15~9:50)

    現在、カドリオルク宮殿は美術館になっているのだが、この日は入館しなかった。

    大北方戦争(1700~21年、ロシアを主にした北方同盟・・デンマーク、ノルウェー、ドイツ諸侯が参戦・・と当時大国であったスウェーデン・・英国、オスマン帝国など連合・・の戦いで、ロシア側が勝利した)後、バルト地域を手に入れた、ロシアのピョートル大帝(1672年~1725年)が妻エカテリーナⅠ世(リヴォニアの農民の娘で、後に大帝の跡を継ぎロシア史上最初の女帝となった)の為に作った離宮である。小さな離宮はロシア支配下の地に建てられたわけだが、離宮は当時の文化先進国フランスのヴェルサイユ宮殿を模したと云われていて、フランスの影響はバルト地域(後のバルト三国)にも及んでいた。
    この事もあってちょっと立ち寄ってみたのだが、宮殿の屋根の緑、ピンク色の壁の配色も美しく、離宮前の花壇があった。花が咲く季節はまた一段と見栄えがあるでしょう。

    (どこそこのヴェルサイユ宮殿という呼び方は欧州には多い。それはドイツでもあり、「北方の小さなヴェルサイユ宮殿」というメクレンブルク地方にあるルートヴィヒスルスト宮殿を訪れた事がある)


    この後、これも直ぐ近くの【歌の原(Lauluvaljak)】・・・エストニア・タリン:バルト三国の歌と踊りの祭典は世界無形遺産だが、エストニアがもっとも古く、“歌う革命”として知られる場所・・・に向かう。

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    景観:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0

  • エストニア・タリン:長い足通りがあれば、短い足通りもある。気に入ったのはシナモン・砂糖つきの焼きクルミ。

    投稿日 2024年05月29日

    ピック ヤルク通り タリン

    総合評価:4.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月24日(土)エストニアの首都タリンは曇り、 ~8℃。>

    アレクサンドル・ネフスキー聖堂前に珍しく、数人の年取った女の物乞いが居た。
    それを眺めながら進むと、当地では有名な演劇の先生Voldermar Panso(1920~77)の面白い、彫像が家の壁に飾られていた。
    検索してみると、同国の芸術(演劇。劇作家の)学校の創立者だそうだ。
    この建物は音楽・演劇芸術アカデミーらしい。先生の顕彰を兼ねたもののようだ。
            
    トームペア展望台に向かう道で、珍しいシナモン・砂糖つきの焼きクルミ、100Kr=900円を、中世風のコスチュームを着た販売のお嬢さんが愛想も良かったし、試食もできたのでツイツイ買ってしまう。

    トームペア地区は支配者たちの居住区で、市民の住む下町とは長い足通りと呼ばれる路でつながり、その通りには長靴の形をした樋が飾りとして軒先にあった。
    長い足通り:ピック・ヤルグ通り (Pikk jalg)はその名の通り、トームペアから続く、長い石畳の坂道で、かつてはギルド会館が並び、裕福なハンザ商人の住む界隈だったと云う。

    そして、長い足Pikk jalgがあれば、短い足通り(ルヒケ・ヤルグ通りLuehike jalg)もある。両方ともトームペアの丘から旧市街に降りていく坂道にある。
    短い足通りと長い足通りの境に、城壁の門があり、門を抜けると、短い足通りの両脇には芸術家たちの作品を展示販売している店がある。

    下町に下がった中心に中央広場があり、旧市庁舎が大きな姿をみせる。

    ・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.0

  • バルト三国の歌と踊りの祭典は世界無形遺産だが、エストニアがもっとも古く、“歌う革命”として知られる。

    投稿日 2024年05月26日

    歌の原 (歌の広場) タリン

    総合評価:4.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月24日(土)エストニアの首都タリンは曇り、 ~8℃。>

    【歌の原(Lauluvaljak)】
    (9:50~10:05)

    歌と踊りの祭典の行われる場所を歌の原と呼んでいる。なだらかなスロープをした会場は大変広い。スロープ底部にお椀を伏せたような形をした祭典の舞台がある。

    Maestro Ausammas Puestitatiの大きな銅像があり、被写体がない場所だけに誰もが銅像と一緒に写真を撮る。  

    バルト三国の歌と踊りの祭典:
    2003年11月、世界無形遺産にリトアニア、ラトヴィア、エストニア三国が同時に登録。

    リトアニア;100年の歴史をもつこの世界リトアニア歌の祭典はヴィリニュスの旧市街で4年に一回開催される。この歌の祭典は2007年7月3日~8日に5000人の合唱団が行った。

    ラトヴィア;1873年6月に1003名の合唱団と30名の演奏家によって始まったラトヴィアの合唱祭は通常5年に一回開催される。現在では2万人を超える人々が歌い1万人以上の人々が民族舞踊を披露します。次回は2013年。

    *エストニア;バルト三国の中でも古い歴史を持つ。
    合唱祭はタリン市郊外の野外ステージ“歌の原”で、民族舞踊は広い競技場で5年ごとに催される。
    ソ連支配下にあった1989年の「歌の祭典」では、1941年のソ連支配以来、初めてエストニア語で歌い、民族独立へ大きな一歩を踏み出した。
    これが“歌う革命”と呼ばれ、その後、ラトヴィア、リトアニアと広がり、 1991年の三国の再独立に繋がっていった。
    25回目となる祭典は2009年7月4日に開催された。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • エストニア・タリン:高々とした聖オレフ教会には巨人が建てたという伝説が残る。

    投稿日 2024年05月22日

    聖オラフ教会 タリン

    総合評価:4.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月24日(土)エストニアの首都タリンは曇り、 ~8℃。>

    旧市街を歩く。
    石畳が続く、カタリーナの小道、カタリーナ通り(Katariuena kaeik)を行く。
    カタリーナ通りは中世の雰囲気を保って、1995年に再建された。15世紀~17世紀頃に建てられた建物が続き、ガラスや皮細工、陶器など、伝統工芸職人の工房が集まっている。
    時間が有れば、覗いてみたい地域だ。

    更にPikk通りにでて、太っちょマルガレータの方向に歩く。
    ここにもユーゲントシュティールの建物が二、三見受けられた。

    【Oleviste kirik聖オレフ教会(又はSt Olaf's church聖オラフ教会 )】

    トームペア展望台から、旧市街全体を見渡すことができる。
    緑の尖塔を持つ教会は一際目立つ存在だ。
    かつてヨーロッパで最高の高さを誇った124mの高い塔に登ると旧市街が360度一望できるそうだ。
    1267年にノルウェー王Olav Havaldsson に因んで建てられた教会である。

    ここにはこんな話が残っている。
    『13世紀のある時、見知らぬ巨人がやって来て、航海中の船から、よりよく見えるようにと高い塔を建て始めた。塔を造り上げる前に、自分の名前が分かったら、建築費はタダで良いと言ったそうだ。塔が出来上がる直前に巨人は「おーい、オレフ~!」と名前を呼ばれ、そのまま下に落ちて石になったと云う。
    石になったオレフの亡骸が教会の裏のPikk通り側に祭られている』
    ・・見ていないが!

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0

  • エストニア:かつて裕福なハンザ商人の家であったレストラン オルデ ハンザは実に魅力的だった。

    投稿日 2024年05月20日

    オルデ ハンザ タリン

    総合評価:4.5

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン


    <2009年10月24日(土)エストニアの首都タリンは曇り、 ~8℃。>

    【お茶:Restaurant Olde Hansaオルデ ハンザ】

    シナモン入りのリンゴ酒・・シードル酒  Warm up drink 70KrX2=140 、ローストアーモンドと蜂蜜のクリームソースがかかったアップルパイHoney Apple-Pie 76Kr  
    合計216Kr=1,935円と内容から見たら、とても安いものでした。 Tipを5Kr。

    *実に美味しいお茶の時間を過ごせた。元々はコーヒーにケーキと考えて入ったが、この
    時間でもレストラン内の皆さんは食事を頼んでいた。
    内部は中世そのままに、蝋燭の光!目が慣れるまで暗闇に居る思いがする。
    典型的な?バルト美人の給仕さんが勧めてくれたのは上記した品です。

    これは大正解でした。香りも好ましく、味も美味しく、体も温まり、お腹も満足となった。

    かつて、裕福なハンザ商人の家でしたので、当時の雰囲気を楽しめるように、給仕人たちは中世のコスチュームを着て、忙しく、3階までのレストラン内を立ち働いている。
    時には黒い僧服の様なものを着た人物がスーッと横切っていく。幽霊!?
    3階にある中世風のトイレも現役で、拝見にわざわざ行ってみた。なかなかのもの・・。

    味良し、中世の雰囲気たっぷりで、とても楽しめました。
    一番のオススメのレストランです。
    レストランに併設された隣の店には、あれもこれも欲しいと思わせる商品が一杯あって、観光客が楽しそうに品を選んでいた。

    ・・・・・・・・・・・・・

    (もう15年近くが経ってしまったが、バルト三国は時にドイツ的な部分も感じさせて、たいへん興味深い町が多かった。尚、バルト三国の旅は旅行記を稿していない)

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    一人当たり予算
    1,000円未満
    利用形態
    その他
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    4.5
    雰囲気:
    5.0
    料理・味:
    5.0

  • 富里市に「末廣農場(旧岩崎久彌三菱財閥3代目総帥の別邸)」がある。

    投稿日 2024年05月18日

    末廣農場 八街・富里

    総合評価:4.0

    【富里市にはかつてこの地に存在した「末廣(すえひろ)農場(旧岩崎久彌(ひさや):三菱財閥3代目総帥の末廣農場別邸)」がある。】

    「Stadすたっと」という北総エリアのタウン誌に「旧岩崎久彌末廣農場別邸公園」の「百年ツツジ」の事が掲載されていた。
    「百年ツツジ」はともかくも、三菱財閥3代目総帥であった岩崎久彌氏の旧別邸とか農場に興味を感じた。

    <末廣農場の誕生:牧から森、そして農場へ>
    明治3年(1870年)、かつて徳川幕府の直轄牧(まき:飼育や繁殖のため牛や馬を放牧しておくための区域)であった富里の地は、明治政府によって開墾地として利用されることとなる。

    明治8年(1875年)、時の内務卿大久保利通の主導の下、「下総牧羊場(のちの下総御料牧場)」が開設されたことから、開墾地は政府に買い戻され、「獅子穴区(ししあなく)」と称されるようになり、経営の合理化から再び払下げの対象地となった。
    様々な経緯の後、三菱の岩崎彌之助氏に依頼して、購入してもらった。
    これによって343町歩(およそ340ヘクタール)という広大な土地が、牧畜を目的として岩崎家の所有となった。

    末廣農場の門内に入ると、右手にあるのが満開の「百年ツツジ」で、奥に見えているのが東屋だろう。
    樹木も結構伐採して切り株も多い、暗かった森も明るくしたようだ。
    数寄屋造りの東屋は建坪が約15坪だそうだ。近くで作業中の方もいて、遠慮して東屋の中は拝見していない。

    【富里市:末廣農場と旧岩崎家末廣別邸】
    末廣農場 | 富里市観光・交流拠点施設 (suehiro-gs.com)

    住所:千葉県富里市七栄650番地206
    Tel:0476-93-1200
    休館日:毎週月曜日(ただし、祝祭日は開館)・5月22日~6月26日までの月曜日は臨時営業いたします。年末年始(12月30日~1月2日)
    営業時間:午前9時~午後6時  カフェレストラン営業時間 午前9時~午後5時30分 (お食事時間 午前11時~午後3時)

    <旧岩崎久彌末廣農場別邸公園>
    10時00分から16時00分(最終入園15時30分)


    末廣農場別邸公園:「百年ツツジ」

    末廣(すえひろ)別邸は岩崎久彌(ひさや)氏が末廣農場の経営のため滞在用に建てた、主屋・東屋・石蔵、その他の付属屋からなる近代和風の「農場別荘」であり、昭和初期における上流階級の別邸としての貴重な遺構として高い歴史的価値を持っている。

    「末廣農場」は、三菱の3代目の社長であった「岩崎久彌」氏が自ら経営を行った牧場でしたが、第二次世界大戦後にGHQによる財閥解体、農地改革もあってか、末廣牧場はなくなっていく結果となった。

    広大な農場の敷地のうち119ヘクタールを、当時の富里村に譲渡(現富里市役所、富里中学校敷地など)し、198ヘクタールについては農場従業員の帰農者に払下げが行われた。養鶏と養豚の施設部分約40ヘクタールについては千葉県に譲渡され、千葉県畜産試験場となった。
    ところが、昭和30年代後半に至って計画された成田空港建設のためとして、千葉県は空港用地買い上げ農家の代替地として千葉県畜産試験場の土地を提供することとなった。
    この為、末廣農場関係の施設は別邸とその周辺の土地だけになった。

    こうして岩崎久彌氏が愛情を注いだ末廣農場は歴史の表舞台から姿を消し、その業績は跡形もなく消え去った。
    久彌氏は東京の本邸を物納し、昭和24年(1949年)6月21日に末廣農場別邸に移り住んだ。
    当時を偲ばせる岩崎家末廣別邸は幸いにも、壊されることなく現在まで大切に保全されてきた。

    公園入口から散策路が出来ていた。公園南側、奥の方には農場が広がり、数人の男女が農作業中である。

    岩崎家別邸の母屋前に来ると、旧別邸の看板が立っていて、そこに平面図があり、見てみると、中庭をもつ広大な規模の木造平屋の建物である。
    岩崎別邸は大正時代末から昭和初期にかけて「末廣(すえひろ)農場」の中に建てられた。別邸と呼んでいるのは、富里市で初の国登録有形文化財になった「旧岩崎家末廣(すえひろ)別邸」の母屋(おもや)=主屋(しゅおく)・東屋(あずまや)・石蔵(いしぐら)などを指している。

    岩崎別邸は平成24年(2012年)、これまで維持管理をしてきた三菱地所株式会社より、末永く大切にして欲しいとの申し出があり、富里市に寄附された。
    富里市は寄附後直ちに、歴史的価値が非常に高いことから、国登録文化財への申請を行い、平成25年(2013年)12月24日に正式に国登録有形文化財となった。

    ・・・・

    公園駐車場の出入り口から、道路を渡り、向かいの末廣農場の観光・交流拠点施設に行く。各地の「道の駅」の様な形式の末廣農場は、観光・交流拠点施設になっているので、観光情報コーナー、軽食レストランや岩崎家ゆかり(小岩井農場)お土産、地元農産物の直売所があり、当然のように末廣農場のオーナーだった岩崎久彌氏の看板もある。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    日本で最も強力だった三菱財閥の3代目が、農業に勤しみ、当時は富里という「辺地」に農場まで持ったと云う事にたいへん驚いたものだ。
    それにしても、戦後から現在までの管理者、所有者であった(多分)三菱地所が、長い歴史と経緯のある「旧岩崎家末廣農場別邸」の地を、富里市に寄附された事は嬉しく、良い話である。

    さて、末廣農場で購入したベコニアの苗は大変質が良く、元気に育っている。
    又買い出しに行きたいと思っている。

    (2023年5月20日Wiki・HP参考、編集・追記)


    旅行時期
    2023年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    3.0

  • 東京・京橋にある湖南料理の名店・雪園(せつえん)で傘寿(80歳)を祝った。

    投稿日 2024年05月14日

    雪園 京橋店 日本橋

    総合評価:5.0

    ≪東京・京橋の湖南料理・雪園にて、私共の傘寿(80歳)を娘家族と共に祝う。≫

    長女から祝いの事について尋ねられた時、受験のないお正月に我が家に全員11名が集まってくれたので、今回は世田谷の長女たちと、千葉の私共・近所に住む次女たちの間をとって、東京で食事会(昼食)をしようと持ち掛けた。
    勿論、京橋にある湖南料理・雪園が頭にあって、娘たちに勧めたわけだ。
    長女が幹事役で雪園を早速予約をしてくれた。

    さて、中国には「八大料理(八大菜系)」という呼び方がある。  
    四川(しせん)料理、湖南(こなん)料理、広東(かんとん)料理、福建(ふっけん)料理、江蘇(こうそ)料理、浙江(せっこう)料理、安徽(あんき)料理、山東(さんんとう)料理がそれである。
    中国の各地方の名をとって、地域の代表的な料理を称したものだ。
    また、4大料理という言い方があり、日本では北京・上海・四川・広東の4つの地方の料理称し、8大料理よりもポピュラーであると云う。

    かつて、会社関係、高校野球部の同期会、大学格闘技の部の同期会、親しい知人・友人との集まりで、2階の個室や3階の少人数用個室、平場のテーブルで何度も利用してきたが、コロナ禍以来、都内に出る機会が少なくなって、このところ長くご無沙汰していた。

    この日の御祝はメニューの中から「百合コース」を選んでくれた。
    湖南料理のお気に入りの竹筒入り鶏肉マッシュ入りスープ(このメニューではふかひれ入りと贅沢になっていたが)、富貴火腿・・・湖南ハムの蜜煮をパンに挟んだものを是非食べたいし、娘たち、孫たちに食べさせたいと思っていた。

    湖南料理(こなんりょうり)は中国語で「湖南菜」(フーナンツァイ Húnán cài)若しくは湘菜(シャンツァイXiāng cài)と言い、中国湖南省の郷土料理である。

    この日は2階の三つある個室のうち、中央の個室に招じられた。
    総数11名は丁度良い感じだった。

    この日注文したのは以下である。

    「百合コース」
    旬の前菜盛り合わせ、
    お気に入りの竹筒入りフカヒレ入りスープ
    お気に入りの富貴火腿・・・湖南ハムの蜜煮をパンに挟んだもの。
    黄ニラと帆立て貝のあっさり塩炒め
    鶏に特製湖南ソース
    本日のお食事(湖南伝統醤油炒飯)
    デザート(クコの実入り杏仁豆腐とゴマ餡まんじゅう、イチゴ)

    飲み物はビール、ジュース、紹興酒

    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2024年04月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    一人当たり予算
    7,500円未満
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.5
    雰囲気:
    4.0
    料理・味:
    5.0

  • 船形・麻賀多神社(奥宮)には公津原古墳群の方墳の一つ、伝・伊都許利命墳墓がある。

    投稿日 2024年05月04日

    船形麻賀多神社 (麻賀多神社奥宮) 成田

    総合評価:4.5

    【船形・麻賀多神社(まかたじんじゃ)】
    千葉県成田市船形834 

    千葉県成田市ニュータウンにあり、印旛沼の東1kmほどの船形にある神社である。総本社、ご本家である台方・麻賀多神社から北方1kmのところに船形・麻賀多神社(澳津宮(おきつみや)があり、社殿を造営した印旛国造(いんばのくにのみやつこ:当時の大和朝廷の地方長官)・伊都許利命(いつこりのみこと)の噴墓(後述)が神域に残っている。

    延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真(まかたま)」が三種の神器の1つと同名であるとして、1字取って「真賀多神社(まかたじんじゃ)」に改称した。
    後に、一帯が麻の産地であることから麻賀多神社に社名を改めた。
    尚、船形にある澳津宮(おきつみや)=奥宮(おくのみや)と、成田市台方1番地にある台方の大宮殿(おおみやでん)=大宮(おおみや)の2社があり、船形及び台方・麻賀多神社(だいかた・まかたじんじゃ)と総称されている。

    全国的に見ても、他所に見られない珍しい名前の神社は、印旛沼の東側から南にかけてにのみ存在する神社である。
    印旛郡市である成田市に台方、船形の2社、佐倉市に11社と多く、富里市に2社、八代市に1社、酒々井町には2社あり、総計18社である。

    船形・麻賀多神社には、写真の様な伝・伊都許利命墳墓・古墳出土石(箱式石棺の蓋となった石材)が見られる。

    伊都許利命の方形の古墳は公津原古墳群(こうづはらこふんぐん:39号墳 方墳)と、現在は号数で称されている。
    成田市の公津(こうづ)は神津(こうづ=神の港)の転語と思われ、船形の地名もその辺から称したと思われる。
    従って、昔は印旛沼がもっと近かったのだろう。

    成田市ニュータウン内には公津原古墳群(こうづはらこふんぐん)のように古墳も多く、住宅開発時に貝塚も出たそうで、当時の人々が住むには適した地域だったのでしょう。

    神社の初詣をして、境内の参道を戻ると、左手に古墳(伝・伊都許利命の墳墓)案内がある。そこには岩屋らしき穴(広さ約5㎡)があり、直刀、金環、鎧片等を納めてあった石棺がある。

    伝・伊都許利命(いつこりのみこと)墳墓は東西辺約35m、南北辺約36m、高さ約5mの方墳である。
    南辺の中央部に凝灰質軟砂岩製の横穴式石室が開口している。また、2段築成された西辺のテラス状部分に箱式石棺が1基発見され、一部が露出している。石材は絹雲母片岩である。つまり、2基の遺跡があった。
    文久4年(1864年)に大木の根元から発見された鏡と玉は、麻賀多神社に伝えられている。7世紀代に築造された古墳と考えられる。(麻賀多神社)

    この時は墳墓の左手から古墳(周囲120m、高さ7m)方形墳上に登ったが、実際は道路際に表示板や石段があり、そこから参詣する形になっていた。

    <公津ヶ原39号墳 方墳について>

    ◆7世紀
    ◆所在地 成田市船形手黒麻賀多神社内
    ◆墳長東西35m、南北36m、高さ5m
    ◆埋葬施設 横穴式石室(南側中央)半地下式、玄室長さ3.8m 玄室幅1.5m 玄室高さ2.4m(いずれも推定値)凝灰質砂岩切石積
    ◆出土品 大刀2、挂甲小札数片、鉄鏃1、※滑石製模造品、金環2、土玉2(麻賀多神社保管)
    ◆備考 ※大形円板1、有孔円板12、勾玉型模造品2、剣型品1

    成田市内の公津原古墳群(こうづはらこふんぐん)は広範囲にわたっていて、ニュータウン開発により消滅してしまったものが多いが、現存しているものは公園・学校・神社などに比較的きちんとした形で保存されているそうだ。

    伝・伊都許利命墳墓、つまり公津ヶ原39号墳(方墳)は、くすのき幼稚園(太田学園)の脇にある麻賀多神社内にある。
    【公津原古墳群(こうづはらこふんぐん)】
    県指定史跡の指定日:平成2年3月16日
    所在地(所有者):成田市加良部ほか(成田市ほか)

    概要:
    千葉県の北部に位置する手賀沼・印旛沼周辺には多くの古墳が分布し、なかでも方墳として東日本最大級を誇る古墳を含む「龍角寺古墳群・岩屋古墳」とともに、公津原古墳群は千葉県を代表する古墳群として知られている。

    公津原古墳群はすでに江戸時代からその存在が知られていたが、本格的な研究は戦後になってからのことである。
    その後、昭和44年(1969)10月から昭和46年(1971)8月にかけて、成田ニュータウンの建設に伴って64基の古墳が発掘調査されて以来、多くの古墳が発掘調査され、公津原古墳群の内容が明らかになった。

    公津原古墳群は、総数120基を超える古墳群で、分布から3つの支群に分けられる。南から、瓢塚(ひさごづか)古墳群(前方後円墳1基、方墳19基、円墳30基)、天王・船塚(てんのう・ふなつか)古墳群(前方後円墳3基、方墳9基、長方墳1基、円墳33基)、八代台(やつしろだい)古墳群(前方後円墳3基、方墳6基、円墳25基)の3支群がある。

    これらのうち、ニュータウン開発により消滅した古墳も多いが、現在、38基の古墳が史跡に指定されて保護されている。造営開始年代は早く、4世紀の前半から7世紀の後半まで長期間古墳は造られている。
    とくに天王・船塚古墳群には、6世紀代と推定される大型古墳が所在する。
    しかし、7世紀に入ると大型古墳が造られなくなり、岩屋古墳やみそ岩屋古墳が造られる龍角寺古墳群と対照的となる。 

    (更新日:令和2(2020)年4月11日  千葉県教育委員会)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     

             (2023年1月8日Wiki/Hp参考、編集・追記)

    旅行時期
    2024年04月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    4.5

jijidarumaさん

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎ82歳になりましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

最近はアジアの香港・マカオ、台湾も時に昔を思い出しつつ、また、日本の小旅行と称した旅も
最近投稿しています。
(2026.02.11.)


プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、さらにロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、戦時体制の欧州の旅は見送り続けて、2026年を迎えている。

(2026.02.11.)

行ってみたい場所

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