旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル

jijidarumaさんのトラベラーページ

jijidarumaさんのクチコミ(7ページ)全659件

条件をクリア
エリア
カテゴリ
並び順

  • ホテル
  • ショッピング
  • グルメ・レストラン
  • 交通機関
  • 観光スポット
  • 基本情報
  • 文豪ゲーテ・シラーの町ワイマールの旧市街には立派な市庁舎がある。

    投稿日 2024年02月12日

    市庁舎 (ワイマール) ワイマール

    総合評価:4.0

    【ドイツ16年ぶりの再訪:文豪ゲーテ・シラーの町ワイマールの旧市街には立派な市庁舎がある】

    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    この旅で私共の『ドイツ感傷旅行の第一回』がスタートする事となった。

    <2001年5月6日(日) 雨 101km>

    12:35、Erfurtエアフルトから一路Weimarワイマールを目指して、B7の道を33km走る。

    ワイマール(世界遺産・1998年登録)に13:00の到着だ。
    早速、人口6万人の小都市の市内観光をスタートする。
    (13:00~17:00)

    かつてのワイマール公国の古都Weimarワイマールには文豪ゲーテ・シラーの足跡が残る。

    ワイマール公国の首都では、ドイツ・クラシック文化が花開き、文化の発信地として、世界に冠たるものがある。さらには1919年、ドイツ最初の共和国が設立され、“ワイマール憲法”という民主的な憲法が制定されたことでも、世界史上に特筆されている。 

    古都にはゲーテ、シラー、リスト、バッハ、クラナハ、ニーチェ、ヘルダー、フィヒテなどのドイツの文人・芸術家が住み、活躍した事跡がそこかしこに残っている。
    ゲーテが時の領主カール・アウグスト公に招かれて、この地に来たのは1775年であり、26歳の青年期から、82歳で亡くなるまで、文人・政治家として、その生涯の大半をここで過ごしたわけだ。

    市内観光は旧市街の中心・マルクト広場傍の今夜のHotel Elephantホテル エレファント横にある駐車場に停めて、徒歩で回ることにした。 
    市庁舎、クラナハハウス、Stadtschlossシュタットシュロス城(クラナハなどの美術館)と外観のみを見て、イルム公園の奥まった所に白い壁の小さな、木組みの二階建てであるゲーテ山荘、シュヴァイツアー博士記念碑、シラーハウス、国民劇場と文豪ゲーテ・シラー像、ゲーテハウスなどを順に見て回った。

    <お茶:Ratskellerラーツケラーで>
    Weimar Markt 10  
    15:00~15:30  DM17(約1,000円、現金払い)

    雨にたたられた市内観光は疲れるもので、ツイ、休憩したくなる。
    それで、市庁舎内のレストランでお茶をした。
    杏のケーキ、林檎のトルテ、二人とも紅茶を頼む。

    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • ワイマールのイルム公園にあるゲーテ山荘は恋のお相手との逢瀬を楽しんだ所だとか。

    投稿日 2024年02月09日

    ゲーテのガーデンハウス ワイマール

    総合評価:5.0

    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    この旅で『ドイツ感傷旅行の第一回』がスタートする事となった。

    <2001年5月6日(日) 雨 101km>
    かつてのワイマール公国の古都Weimarワイマールに至る。
    この町は文豪ゲーテ・シラーの足跡が残る。

    ワイマールの町はワイマール公国の首都であり、ドイツ・クラシック文化が花開き、文化の発信地として、世界に冠たるものがある。
    ここにはゲーテ、シラー、リスト、バッハ、クラナハ、ニーチェ、ヘルダー、フィヒテなどの文人・芸術家が住み、活躍した事跡がそこかしこに残っている。従い、見所も多い。
    ゲーテが時の領主カール・アウグスト公に招かれて、この地に来たのは1775年であり、26歳の青年期から、82歳で亡くなるまで、文人・政治家として、その生涯の大半をここで過ごしたわけだ。

    川幅10mほどの小さなIlmイルム川が公園の中を流れている。
    緑濃いイルム公園内を散策する。(因みにワイマールのワイは清い;マルは水を意味するそうである)

    イルム公園の奥まった所に白い壁の小さな、木組みの二階建てであるGoethes Gartenhausゲーテ山荘がある。ワイマール公から贈られたもので、ゲーテの恋のお相手との逢瀬を楽しんだ所だとか。
    中は博物館にしてあり、思っていた以上にほんとに小さな、質素な部屋ばかりだった。(入場料DM10)

    イルム川は全長128.7kmとやや長い。
    こちらはIlmenauイルメナウ、Weimarワイマールの町を流れる。


    写真は
    ①ワイマール:左上から時計回りにStadtschlossシュタットシュロス城(ワーマール公の居城。現在はクラナハなどの美術館がある)、イルム公園内・ゲーテ山荘、Ilmイルム川の清流
    ②写真参考:地球の歩きからWeimarワイマール Map
    ③写真参考:ゲーテ街道を行く(表紙):ワイマール・・・右上にゲーテ山荘

    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    3.0

  • ワイマールの国民劇場前には文豪ゲーテとシラーの立派な銅像が仲良く立っている。

    投稿日 2024年02月07日

    国民劇場 ワイマール

    総合評価:4.0

    【ドイツ16年ぶりの再訪:文豪ゲーテ・シラーの町、ワイマール一番のホテル エレファント(象)に泊まる】
    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    この旅で『ドイツ感傷旅行の第一回』がスタートする事となった。

    <2001年5月6日(日) 雨 101km>
    かつてのワイマール公国の古都Weimarワイマールに至る。
    この町は文豪ゲーテ・シラーの足跡が残る。

    ワイマールの町はワイマール公国の首都であり、ドイツ・クラシック文化が花開き、文化の発信地として、世界に冠たるものがある。
    さらには1919年、ドイツ最初の共和国が設立され、“ワイマール憲法”という民主的な憲法が制定されたことでも、世界史上に特筆されている。 

    ここにはゲーテ、シラー、リスト、バッハ、クラナハ、ニーチェ、ヘルダー、フィヒテなどの文人・芸術家が住み、活躍した事跡がそこかしこに残っている。従い、見所も多い。
    ゲーテが時の領主カール・アウグスト公に招かれて、この地に来たのは1775年であり、26歳の青年期から、82歳で亡くなるまで、文人・政治家として、その生涯の大半をここで過ごしたわけだ。

    Nationaltheater国民劇場は“ウイリアム・テル”、“ファウスト”、“ローエングリン”の初演が行われ、楽長としてリスト、リヒャルト・シュトラウスが活躍した劇場であり、記念すべき“ワイマール憲法”が1919年に採択された場所である。

    その国民劇場前には文豪ゲーテとシラーの立派な銅像が仲良く立っている。
    ドイツ古典主義文化が隆盛を誇り、文化の発信地として、世界に冠たるものがあった事跡がこの町にはある。
    劇場前の通りには薄紫のライラックの花が満開である。

    写真は
    ①ワイマール:左上から時計回りにゲーテ街道図、国民劇場と文豪ゲーテ・シラー像、この旅のレンタカーVolvo S80 2400CC Diesel Automatic、ライラックの花が咲く季節
    ②ワイマール:左上から時計回りにホテル エレファント正面、レストラン アンナ・アマーリアでの夕食、ライラックの花、国立劇場と文豪ゲーテとシラーの銅像、ホテル エレファントのレストラン アンナ・アマーリア前で撮って頂いた。
    ③ワイマール:右上から時計回りにシュヴァイツアー博士記念碑、シラーハウス、国民劇場と文豪ゲーテ・シラー像、ゲーテハウス

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • 文豪ゲーテ・シラーの町ワイマール、1542創業、町一番の5星ホテル エレファント(象)は格式も高い。

    投稿日 2024年02月05日

    ホテル エレファント ワイマール オートグラフ コレクション ワイマール

    総合評価:5.0

    【ドイツ16年ぶりの再訪:文豪ゲーテ・シラーの町、ワイマール一番のホテル エレファント(象)に泊まる】

    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    明日からゲーテ街道を走る。“ドイツ人の心の故郷”と旅行会社の宣伝文句にある、この街道はFrankfurtフランクフルトから東に走り、Hanauハーナウ、宗教都市Fuldaフルダを通り、EisenachアイゼナハやErfurtエアフルトといった“ドイツの緑の心臓”と呼ばれる、深い森が続く森林地帯Thueringenテューリンゲン地方を過ぎ、かつてのワイマール公国の古都Weimarワイマールに至る。
    更に東に足を伸ばすとJenaイエナ、その近郊にあるDornburgドルンブルクの古城群、そして最終地Leipzigライプチッヒまで400kmの街道である。

    <2001年5月6日(日) 雨 101km>
    この旅で『ドイツ感傷旅行の第一回』がスタートする事となった。

    (1泊)Hotel Elephantホテル エレファント(象)
    D-99423 Weimar 、Markt 19
    TEL:49(0)3643-8020 
    5星・全99室。201号室=DM295(16,815円) (Park代は別途徴収 DM22(1,245円) 

    町の中心であるマルクト広場に面して建つ4階建てのホテルは1542創業の町一番のホテルだと云う。Elephantエレファント(象)はその当時、その巨大な姿が珍しく、敬意の対象になっていたようで、こうした名がつけられたとか。

    由緒あるホテルの歴史に彩りを与える顧客には、名だたる作家、音楽家たち、即ちゲーテ、シラー、バッハ、リスト、メンデルスゾーン、ワーグナー、トルストイ、トーマス・マンなどの名が残る。
    1993年にホテルを大改装し、2000年にはStarwoodグループ入りした。
    2024年現在は「ホテル エレファント ワイマール オートグラフ コレクション」という。

    部屋の値段も高いだけに、さすがにアールデコ調のシックで落ち着いた、立派な部屋でした。

    【夕食:ホテル エレファントのレストラン ・Anna Amaliaアンナ・アマーリア】
    19:00~21:00 
    この旅一番のお値段となった夕食代はDM263.59 (15,000円)

    ”Anna Amalia”アンナ・アマーリアの名はゲーテの時代にワイマールの啓蒙的公妃であったアンナ・アマーリアに因んだものである。
    シェフはイタリア人・Marcello Fabbriが勤める。

    オーダーした飲物は食前酒にFino del Puerto Sherryシェリー酒を、ワインはザクセンの辛口の白Schloss Proschwitz・Kabinett(DM95・5400円)、食後にコーヒーを頼みました。

    スープはシュパーゲル(白アスパラ)のスープ。

    メインに私はFilet von Dorade(鯛)”Royal”、
    家内はKalbsfilet(子牛のフィレ肉)を。
    これにアスパラのリソットを一皿、別につけたのですが、イタリア人シェフだけに気に入った味でした。

    料理・ワインは美味しく、十分に私は堪能したのですが、家内が体調不良で、折角の夕食も半分も食べられずに終わってしまったのは残念なものでした。

    ・・・・・


    写真は
    ①ワイマールの市内観光:右上から時計回りにマルクト広場、市庁舎、Wittumspalais
    ヴィトゥムス宮殿、ホテル エレファントの駐車場入口とホテル正面
    ②左上から時計回りにゲーテ街道図、国民劇場と文豪ゲーテ・シラー像、この旅のレンタカーVolvo S80 2400CC Diesel Automatic、ライラックの花が咲く季節
    ③ワイマール:左上から時計回りにホテル エレファント正面、レストラン アンナ・アマーリアでの夕食、ライラックの花、国立劇場と文豪ゲーテとシラーの銅像、ホテル エレファントのレストラン アンナ・アマーリア前で撮って頂いた。


    旅行時期
    2001年05月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    10,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    5.0
    バスルーム:
    5.0
    ロケーション:
    5.0
    客室:
    5.0

  • ランツフート:1906年開業のロマンチックホテル フュルステンホフにはミシュラン1星のグルメレストランがある。

    投稿日 2024年01月14日

    Romantikhotel Fuerstenhof その他の都市

    総合評価:5.0

    <ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊>                   
    :アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:
    期間:2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間の旅
    目的地:今春の旅はドイツ南部、バイエルン州のOberbayern高地バイエルンと呼ばれるアルプス地方とOstbayern東バイエルン地方を巡る旅である。
    Freistaat Bayernバイエルン州は面積(7千万㎢)がドイツ最大、人口(12百万人・カトリック教徒が凡そ67%、新教徒が24%と数えられている)も二番手となる有力州であり、それぞれが個性的な四つの地方からなる。
    州都ミュンヘンを中心とするOberbayern高地バイエルン地方、
    レーゲンスブルクを中心としたOstbayern東バイエルン地方、
    ニュルンベルクを中心としたフランケン地方、
    アウクスブルクが中心都市となるアルゴイ・バイエリッシャー-シュヴァーベン地方である。

    2008年4月29日 (火)

    二度にわたるドイツ駐在生活にも拘らず、この古都Landshutランツフートの町を訪れるのは始めてである。

    第一日目の4月17日(木)、Landshutランツフートの町で泊まったのは古城ホテルSchloss Schoenbrunn シュロス-シェーンブルン”美しき泉の城“である。この旅の最終日も、同じ町にある別の古城ホテルRomantik Hotel Fuerstenhof ロマンチックホテル フュルステンホフに泊まった。
    旅の最後の夕食をグルメレストランで食事を楽しむ事にしたのだ。
    この春の旅で3店目のグルメレストランだ。


    この町は1839年以来、ニーダーバイエルン地方政府の政庁所在地であり、800年の歴史ある町でもある。中世の面影は今も色濃く残り、ドイツでも有数の美しい町と云われてきた。又、神聖ローマ帝国・伯爵LudwigIX.,ルートヴィヒ9世とザクセン選帝侯フリードリヒ2世の娘*Amalia von Sachsenアマリアの息子Georgゲオルク公爵が1475年に美しい花嫁ヤドヴィガ・ヤギェロンカ ポーランド王女と「夢のような結婚式」を催した事で広く知られている。

    ランツフートのロマンチックホテル フュルステンホフにはいつもより遅い、18:20に到着となった。
    レセプションにいた陽気なオーナー夫人Simoneシモーネさんに夕食時間を30分ずらしてもらう。

    <(1泊) ⑬泊目、Romantik Hotel Fuerstenhofロマンチックホテル フュルステンホフ>    
    D-84034 Landshut 、Stethaimerstr.3
    Romantik Hotel全24室・3S星 、203号室(3階)=Euro 110(@165.13=18,200円) 。
    TEL:49(0)871-92550  http://www.fuerstenhof.la

    ミュンヘン空港まで30分・42kmとホテルのパンフレットにあったが、バイエルン王国の首都であったミュンヘンには70kmの距離だから、空港は手前にあり、ホテルからは近くて便利だ。
    バイエルンで最も美しいゴシックの町ランツフートにあるロマンチックホテル(1906年開業)にはミシュラン1星のレストラン”Fuerstenzimmerフュルステンツィマー(領主の間)”(Jugendstil ユーゲントシュティール様式が見られる)があり、旅の最後の日に相応しいホテルである。
    レストランは日曜と、月曜日の昼が休みなので、火曜日に宿泊・食事ができるように行程をわざわざ調整した。それに応えるだけのホテルです。
    若く、才能あるオーナーシェフ夫妻がこのホテルにかける意気込みと美意識が隅々まで感じられたホテルだった。

    【Jugendstilユーゲントシュティールとは;青年派様式若しくは青春様式とも訳している。1897~1910におけるドイツの芸術思潮である。その19世紀末の芸術は一種退廃的とも云われる芸術で、曖昧且つ曲線的表現を駆使している。
    フランス語で言うアール・ヌーヴォーもそれに近い。
    Passauガラス博物館でもその作品群を見ることができたが、ウイーンで名高いクリムトの絵画がその代表であり、建築でも独特の色彩とデザインを持った建物がウイーンの町に見られる】

    宿泊した203号室は3階の右手奥まった部屋で、ユーゲントシュティールと思われる装いが見える。
    室内の設備、家具なども室料金に比して、大変立派だ。

    ・・・・・

    【1475年「メルヘンのような婚礼」で知られた古都ランツフートにミシュラン1星レストラン「領主の間」がある。】

    Romantik Hotel Fuerstenhofロマンチックホテル フュルステンホフのRestaurant「Fuerstenzimmerフュルステンツィマー(領主の間)」
    領主の間はJugendstilユーゲントシュティールの部屋で、ホテル自慢のレストランである。
    ;ミシュラン1星・Gault Millau 13点 、(全独217位)
    ;65席、従業員14名(日曜日休み)、
    ;コースEuro46~80。ワイン190銘柄。
    ;オーナーシェフAndre'Greuアンドレ・グレウ(グレイ) ・・現代風ドイツ料理

    ユーゲントシュティール様式のレストランだけに独特な色合いと飾りだ。
    椅子の布地の柄、電燈の笠、暖炉、硝子戸のガラスの絵に様式美を感じる。

    もう一つのレストラン“Herzogstueberlヘルツォークシュテーベル(公爵の小間)を見てみたが、こちらはバイエルン風の伝統的なレストランだった。殆どのドイツ人(バイエルン人)のお客さんはむしろ、こちらの方が好みらしい。

    【Romantik Hotel:Romantik 2007年版のHotel&Restaurant案内書】
    2004年の南ドイツ、オーストリア周遊で泊まったBad AiblingのRomantik Hotel Lindner や食事に訪れたSt.Wolfgangの白馬亭が、そして2005年の旅でも利用したハルツのQuedlinburgのRomantik Hotel Theophanoもこれに掲載されている。2007年には黒い森のHotel Sackmannでミシュラン1星の料理を堪能しました。
    私は泊まったホテルで出来るだけ、情報を入手するようにしているが、この案内書はヨーロッパを中心にしたもので、歴史ある、大変雰囲気の良いホテルばかりが載っている。料理も美味しく、シテイホテルとは違った魅力が一杯である。
    私のホテルの選択は、①古城ホテル、②ロマンチック掲載のホテル、③インターネットで見つける・・・という順序にしている。
    尚、①は町から離れているケースが多く、レンタカーが必須です。
    参考にHPを書いておきます。:http://www.romantikhotels.com
          
    ・・・・・

    旅行時期
    2008年04月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    10,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    5.0
    ロケーション:
    4.0
    客室:
    5.0

  • ランツフート:トラウスニッツ城はドイツでもたいへん美しく、力強い、見事な姿をもった城である。

    投稿日 2024年01月13日

    トラウスニッツ城 バイエルン州

    総合評価:4.5

    <ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊>                   
    :アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:
    期間:2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間の旅
    目的地:今春の旅はドイツ南部、バイエルン州のOberbayern高地バイエルンと呼ばれるアルプス地方とOstbayern東バイエルン地方を巡る旅である。
    Freistaat Bayernバイエルン州は面積(7千万㎢)がドイツ最大、人口(12百万人・カトリック教徒が凡そ67%、新教徒が24%と数えられている)も二番手となる有力州であり、それぞれが個性的な四つの地方からなる。
    州都ミュンヘンを中心とするOberbayern高地バイエルン地方、
    レーゲンスブルクを中心としたOstbayern東バイエルン地方、
    ニュルンベルクを中心としたフランケン地方、
    アウクスブルクが中心都市となるアルゴイ・バイエリッシャー-シュヴァーベン地方である。

    <4.18(金) 快晴 16℃、 137km>

    8:30城の周辺を散策し、シェーンブルン城、9:10スタート。Landshutランツフート(人口62千人)市内観光 =>6km 9:30~11:00 Trausnitzラウスニッツ城の見学。

    *二度にわたるドイツ駐在生活にも拘らず、この古都Landshutランツフートの町を訪れるのは始めてである。
    徐々に朝日も強くなり、今日は嬉しいことに、快晴になりそうだ。古城ホテル シェーンブルン城を9:10スタートした。メルセデスA-150はさすがに小さく感じる。
    今日の観光はランツフート である。高台のTrausnitzラウスニッツ城を初めに見学した。

    この町は1839年以来、ニーダーバイエルン地方政府の政庁所在地であり、800年の歴史ある町でもある。中世の面影は今も色濃く残り、ドイツでも有数の美しい町と云われてきた。又、神聖ローマ帝国・伯爵LudwigIX.,ルートヴィヒ9世とザクセン選帝侯フリードリヒ2世の娘*Amalia von Sachsenアマリアの息子Georgゲオルク公爵が1475年に美しい花嫁ヤドヴィガ・ヤギェロンカ ポーランド王女と「夢のような結婚式」を催した事で広く知られている。

    【Burg Trausnitzトラウスニッツ城の見学】
    Landshutランツフート(人口62千人)市内観光は先ず町を見下ろす高台に立つTrausnitzトラウスニッツ城の見学である(9:30~11:00)。
    シェーンブルン城のレセプションで教えて頂いた道に沿って6kmほど登る。
    城の後背地に小さな無料駐車場が設けられていた。
    今年の芽吹きは遅いなと思いながら、森の中を数分歩くと、城門があり、この門を入り、外構えの長い城壁に沿って歩くと、所謂、一の丸の城門に至る。

    その先には見事なトラウスニッツ城が青空の中に浮かんで見えた。
    橋を渡って本丸内に入る。
    ドイツでもたいへん立派な、力強い、見事な姿をもった城である。

    トラウスニッツ城は1204年Kelheimケルハイム侯Ludwigルートヴィヒにより築城された。更にWilhelmヴィルヘルムⅤ世が1600年代に現在の力強い城郭を完成させた。残念なことに1961年の大火災により、殆どを消失している。消失後、直ちに再建に着手し、1975年に現在の形に復元された。
    城下町から見上げた古城の姿もまたたいへん美しい。

    <“Kunst und Wunderkammer芸術と自然の驚異の部屋”という展示室を見学>
    ガイド案内は10時からだ。20分もあったので併設されている“Kunst und Wunderkammer芸術と自然の驚異の部屋”という展示室を見学する。
    小学生のグループが先生に引率されて、説明を聞きながら様々な展示を熱心に見ている。こちらはガイド付ではないので、気楽に一巡できた。ここはWittelsbachヴィッテルスバッハ家のAlbrecht世公爵が16世紀の頃蒐集した作品だという。象牙、金銀や宝石のちりばめた宝石箱、家具、絵画、彫刻、仏像、貝、動物の剥製などなど、世界各地の多様な、一種脈絡の無い蒐集品であったように思えたが----。 (9:40~10:00)

    <城内見学>
    男性のガイドさんに導かれて、中庭の正面建物中央の一階入口から城内に入る。本日は“私共二人だけ”のガイドツアー(Euro10)で恐縮である。大火災の被害を受けただけに中身は少なく、ガイドさん曰く、“火災後、様々なアンチーク家具類を新たに収集し、展示している。”とのことだ。順路に沿って行くと、

    ①Duerniz騎士の広間:Ludwigルートヴィヒ侯のストーブ、15世紀の壁画の名残が入口の上に見られる。
    ②Italian Annexイタリアの間:天井の16世紀のフレスコ画は1965年に発見されたそうだ。ヴィルヘルム世とその妻Renataレナタ(仏・アルザス‐ロートリンゲンの出)の其々の肖像画。
    ③道化師の階段:16世紀にイタリアの芸術家によって古い喜劇が描かれたフレスコ画。火災から消失を免れたが、ススで汚れていた。
    ④Georgskapelleゲオルクの礼拝堂:13世紀にその大部分が建設され、後に二階建てになった。領主は二階で、他の人々は一階で祈りをささげたと云う。
    ⑤旧デュルニッツ従者の間:神聖ローマ帝国の7人の選帝侯の絵が掛けられている。
    ⑥二階の回廊から中庭を見下ろす。アーケードの階段下に泉が見え、右手の黄色い塔はWittelsbacher Turmヴィッテルスバッハの塔がある。塔は円筒形で最後の防御の砦だと云う。
    ⑦各部屋:緑のタイル張りのストーブ、音楽家や宮廷の道化師を描いた絵。
    ⑧イタリアの間:1578年製素焼きの天井は花や果物模様が描かれている。
    ⑨黒タイルのストーブ:17世紀のもので、ライオンの足と称する脚が付いたもの。
    ⑩地と水の壁画:本来は水、地、火、風の四要素を描いた壁画であったが、大火災の後、残った二要素のみを移したもの。
    ⑪領主の小部屋:二階には公爵の祈りの間が設けられていた。聖歌隊の席とも云う。
    ⑫三階の展示室:城の改築時に発見されたものが展示されている。
    ⑬タペストリーの間:17世紀のフランダースの職人により製作された壁掛けの絨毯には11匹の怪獣(聖ゲオルクが退治した)と12世紀のバイエルンで勢力を伸張したヴィッテルスバッハ家のオットー・フォン・ヴィッテルスバッハ公爵の生涯が表されているそうだ。皇帝・赤ひげ王がオットーに公爵を授ける図とか様々な壁掛けがかかっている。
    ⑭テラス:夏の間はここで宴が催された。テラスからの旧・新市街の眺望は素晴らしい。山上の城の裾野からIsar川までびっしりと赤い屋根の建物が続き、左手にはSt.Martinskirche聖マルティン教会が高々とした尖塔を見せている。
    ⑮控えの間:テラスに続く部屋にはJadwigaヤドヴィガ・ポーランド王女の美しい肖像画が見られる。市民が熱狂して迎えた意味が良く分かる。  (10:00~11:00)

    親切にも日本語の説明書をコピーして頂いたガイドさんにはチップEuro3を手渡して、お別れです。
    城門脇にあった120mの深い井戸を見下ろしてから、駐車場に急いだ。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2008年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    3.5

  • バイエルンのブルクハウゼン城は対岸のオーストリア側から見ると、長大で難攻不落の堅城なのが分かる

    投稿日 2024年01月12日

    ブルクハウゼン城 その他の都市

    総合評価:4.5

    【ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊】   
    :アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:

    期間 :2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間の旅
    目的地: 今春の旅はドイツ南部、バイエルン州のOberbayern高地バイエルンと呼ばれるアルプス地方とOstbayern東バイエルン地方を巡る旅である。

    バイエルン州は見所も多く、魅力的な町々が散在するので、今回の旅は“古来のバイエルン王国”を周遊した。
    中でも、“ザルザッハ川(長さ250km)”流域にあるBurghausenブルクハウゼンの1km程の長い城は難攻不落の堅城として知られ、一度は見てみたい城だ。

    4.27(日) 大快晴 23℃、 217km

    【1km程の長い城は難攻不落の堅城・南ドイツのBurghausenブルクハウゼン城を訪ねる】

    まず見るべきはBurgブルク(城)である。
    ヨーロッパで最も長い城で距離は1030m(観光案内では1000m、或いは1043mとあるが、中を取った)、防衛上、実に恵まれた川と湖に城の周辺が囲まれている。
    中世の城はザルザッハ川とWoehrseeヴォール湖(川の流れが変わって、取り残された湖と思われる)に挟まれた、せまい小高い丘の背に建っている。
    丘の城を望むザルザッハ川畔に沿って発展した旧市街も整然と中世の面影を残す美しい街である。

    このブルクハウゼンにも子供達がまだ小学生の頃に、訪れた記憶がある。
    夏の盛りで、子供達が冷たいジュースを飲みたいと駄々をこねられたことがあった。
    その日のように上天気で、長い城郭の右端っこにあった城の駐車場から城内に向かって歩くと汗が出てきた。

    ブルク(城)は右手の駐車場がある外郭を6Hofホフと称し、順次、左に向かって1HofのHauptburgハウプトブルク(本丸)まで、合計6区画はそれぞれが独立した区域になっている。
    昔は跳ね橋であった木橋や深い空堀が其々を遮断し、独立した城郭が出丸、一の丸、二の丸といったように、配置されている。城壁はがっちりとしたものであり、傾斜のある自然の山塊は難攻不落の要害となっている。
    実際、この城は一度として、敵に侵攻されたことがないと云う。

    この城の歴史は1180年バイエルン公・Wittelsbachヴィッテルスバッハ家の居城として築城された事に始まる。
    Landshutランズフートに居城を持つNiederbayernニーダーバイエルン公の第二の宮殿として、1255年から1503年の間に現在の大きさにまで拡張された。 
    1475年、Georgゲオルク公爵(*「夢のようなランズフート結婚式」で知られる)は命を発し、国内随一の強固な城を完成させた。
    16世紀にはオスマントルコの襲来に備え、更に城壁が強固(堅城鉄壁)にされた。それは4000人が10年をかけてようやく完成したと云う。
    現在もなお、この城は中世の建築・城郭の最も大きな記念碑であり、支配者・バイエルン公の強大な権力と意志を示した存在となっている。


    <6Hofホフ>には中央にUhrturm時計台があり、その昔は醸造所で、今は”Burg Cafeブルクカフェ“となっている軽食用のレストラン、ホフのKastenamt管理事務所などがある。
    <5Hof>は市民用のBurgkapelleブルク礼拝堂、Spinnhausl織物小屋
    <4Hof>には目の前にHexenturm魔女の塔と称する牢獄が立ちはだかるように立っている。中には左手にHaberkastenハーバーカステン(ハーバーの学校?にはテアターアカデミーが附属)の建物がある。
    <3Hof>には右手に大きなKornkasten穀倉の建物とZeughaus兵器庫があった。
    また、ここにはヴォール湖を下に見る景観の場所がある。
    今は自然の市民プールが出来ていて、暑いころは市民で賑わう。
    本丸から左手奥の湖畔にそって、城壁が向い側の外廓まで伸びているのが見て取れた。

    ブルクハウゼン城は次の写真が分かりやすいが、ザルザッハ川とWoehrseeヴォール湖(川の流れが変わって、取り残された湖と思われる)に挟まれた、せまい小高い丘の背に、中世の城は建っている。

    <2Hof>にゲオルク公爵の建てたGeorgstorゲオルクの城門があり、右手にPfistereiパン屋・醸造所などがある。左手に行くとStephansturmシュテファンの塔などがある。

    <1Hof>そして自然の山塊の一番奥に1HofのHauptburgハウプトブルク(本丸)の城郭が出て来る。本丸の城郭に橋が架かり、空堀も深い。橋の向こうに「1HofのHauptburgハウプトブルク(本丸)」が立つ。
    左に高くBergfried天守閣、Palasパラス(宮殿)、Schlosskapelle城内礼拝堂(聖女エリザベート礼拝堂)が並び、右にStadtmuseum郷土博物館がある。

    城郭から外のWoehrseeヴォール湖に向かって手を伸ばすように城壁があり、途中にWoehrtorヴォールの門、Pulverturm火薬庫(塔)が立っている。

    尚、4と3、3と2、2と1の間には防衛上の橋が架かり、深い空堀が見られた。

    ・・・・・

    丘の城から眼下に望む、ザルザッハ川畔に沿って発展した旧市街も整然と中世の面影を残す美しい街である。
    今日のザルザッハ川はちょっと濁っていた。上流で降った雨が影響しているのだろう。眼下の旧市街は赤屋根が周辺の緑に映えて大変美しい。
    歴史あるこの街はゴシックから様々な様式の建物が軒を連ね、とりわけStadtplatzシュタットプラッツ(町の広場)周辺はパステルカラーのInn-Salzachイン・ザルザッハ様式の典型的な家並みである。

    Alte Brueckeアルテ・ブリュッケが独墺両国の岸に掛かる。これから「ホフ6」傍の駐車場に戻って、城郭を降りた。アルテ・ブリュッケを向こう岸に渡ると、高台に展望台があると云うのでそこに行ってみる。オーストリア側の展望台から、欧州一の長いブルクハウゼン城を見てみたいのだ。

    旧市街を車で抜け、ザルザッハ川に架かるアルテ・ブリュッケを渡り、オーストリア側に入った。昔は川の両側に国境守備隊がそれぞれガードしていたが、今は遮るものは何もない。
    狭い急坂を上がると、「Aussichtkanzelアウスジヒトカンツェル展望台」がある。
    ここから見るブルクハウゼンの城や旧市街の眺望は絶景だ。
    この城の長さは実際に歩いた事と、隣の国の展望台からの眺めで良く分かった。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2008年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    4.0

  • Tammタム:由緒あるホテル・オクゼン(雄牛)は文字通り、歴史ある木組み建築だった。

    投稿日 2024年01月11日

    ヒストリックホテル オクスン シュツットガルト

    総合評価:4.0

    “ドイツ 南西部・黒い森とボーデン湖・シュヴァーベン地方の旅”           
    :黒い森・バーデンワイン街道・高-上ライン川とボーデン湖・
    シュヴェービッシュ-アルプ地方・オーデンの森:
    期間 2007年4月19日(木)~5月3日(木)15日間の旅
    目的地:今回の旅の目的地はBaden-Wuerttembergバーデン・ヴュルテンベルク州と呼ばれている、ドイツの南西部の地域が中心の旅になります。

    <三つの世界遺産巡り>
    4.20(金) 快晴 15~20℃、午前中は涼しい風 207km

    フランクフルトから南下すると、Bergstrasse山岳街道がある。街道沿いにあるBensheimベンスハイムの町を7:10にスタートし、三つの世界遺産巡り:Lorschロルシュ・世界遺産Kloster Alten Muenster帝国僧院跡、Speyerシュパイヤー・世界遺産Dom Speyer大聖堂、世界遺産Kloster Maulbronnマウルブロン僧院を訪れてから、
    Mark-Groeningenマルクグレーニンゲン・町役場、木組み建築の家並み 17:11~17:25 =>L? 7km Tammタム ・Hotel Historischer Gasthof Ochsenオクゼン(雄牛)に 17:40着。

    今夜の宿は明日Ludwigsburgルートヴィヒスブルクの陶磁器(ルートヴィヒスブルグ磁器を中心にマイセンなど、高級陶磁器が展示されている)を見るために、できるだけその近くに宿を取った。そして、ついでにミシュランの星付きレストランを探してみた。幸い直ぐ近くの隣町に見つけた。

    L?を7km走ると、Tammタム に至る。

    <Tammタム>
    Hotel Historischer Gasthof Ochsenホテル 由緒あるホテル・オクゼン(雄牛)  は小さな町のメイン道路の真中辺に、歴史を感じる旧町役場の前にあった。
    17:40に到着した。

    Tammタム はバーデン・ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト行政管区のルートヴィヒスブルク郡に属す町で、人口12,700人と地域では大きい町だ。

    旧市街の中心部に歴史的建造物群がある。
    町役場、1450年頃に建設された後期ゴシック様式のバルトロメウス教会、パン焼き小屋、1泊の宿泊を決めた由緒ある(歴史的な)ホテル「オクゼン」などである。

    (1泊) Hotel Historischer Gasthof Ochsen
    ホテル 由緒あるホテル・オクゼン(雄牛) 
    D-71732 Tamm 、Hauptstrasse 40-42
    Euro 77 (週末料金:@169=13,000円) ;3星、全17室、1号室(地上階)
    Tel:49(0)7141-2999555 

    タムの町役場前に立つ建物は14世紀に創業された、歴史ある木組み建築のホテル・オクゼンである。珍しく、部屋は地上階の奥まった所にあり、レセプションから一度2階にあがって、通路をぐるりと回って、階段を下がった所でした。
    部屋の中は広く、贅沢なほど木が使われた部屋で、木組み建築の家であることを誇るだけのことはある。
    ホテルの周辺を見て回ったが、あたりまえだが裏手の様子も木組みの家だ。


    4.21(土) 快晴 25℃ 、 161km

    田舎の町のホテルだけに、朝食時は私共意外に泊り客を見なかった。
    昨日見た駐車場の車は泊り客のものではなかったのか、それとも早い出発だったのかもしれない。まだ観光客が訪れる季節には早いのだが。

    *朝食後、8:50 Tammタム―>L?9km Ludwigsburgルートヴィヒスブルグ・Residenzschloss宮殿の磁器工房ショップ・Bluehendes Barockバロック庭園 9:15~10:25 

    ・・・・・

    旅行時期
    2007年04月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    7,500円 未満
    コストパフォーマンス:
    5.0
    サービス:
    4.0
    バスルーム:
    4.0
    ロケーション:
    4.5
    客室:
    4.0

  • 山の駅にはバスやロープウエイ(ゴンドラ)の発着所、レストラン、お土産所などがある。

    投稿日 2023年11月18日

    志賀高原 山の駅 湯田中渋温泉郷・志賀高原

    総合評価:4.0

    2023年8月22日は志賀高原の旅の最終日。

    この日は昼まで娘と孫娘が志賀高原ゴールデンライン(ゴンドラ)に乗るというので、高所恐怖症の私は辞退して、その間、老夫婦で蓮池傍の山の駅や大蛇神社、志賀高原総合会館98の様々な施設を見学して待つことにしました。


    今は流行りの道の駅、海の駅、そしてここには山の駅がある。
    「志賀高原山の駅】には広い駐車場があり、地域の中心であるのがわかる。
    山の駅にはバスやロープウエイ(ゴンドラ)の発着所、レストラン、お土産所などがある。

    レストランには山ノ内大膳軒がある。
    この日はお休みで、名物のラーメンを食べたかったが当てが外れた。

    <山ノ内大膳軒(ラーメン専門店)>
    〒381-0401長野県下高井郡山ノ内町平穏7148
    営業時間:
    [日・月・水・木]11:00~18:00
    [金・土・祝前日]11:00~21:00
    定休日:火曜日

    山の駅に入ると、新しいロープウエイ(ゴンドラ)ができて、古い方は廃線になった。
    ただ、山の駅でもたいへん眺望が良い場所だから、ちょっとしたテラスと古いゴンドラが左右に置かれて、観光客用の休憩所になっていた。

    テラスから東館山(ひがしだてやま:2,030m)を正面に見る。動かぬ!「やまびこ号」そばで私共、娘達もソフトクリームを楽しむ。

    その後、山の駅の志賀高原ゴールデンライン(ゴンドラ)切符売り場で、往復切符を購入した。なるほど、こんな風にゴンドラの線が繋がって出来ているのか!
    観光客や冬季のスキー客には実に便利なものになっている。

    娘たちが志賀高原ゴールデンライン(ゴンドラ)に乗車するのを見送る。
    娘たち二人だけが一つのゴンドラに乗り、次のゴンドラにも客が乗って、あっという間に谷に向かって前進する。3つのゴンドラが一緒のグループで進むシステムのようだ。
    志賀高原ゴールデンライン(志賀高原リゾートゴンドラ)はブナ平(別のゴンドラの乗り場がある)に向かって怖い下降をする。

    お昼頃に娘たちが帰るまで、近くを散策する事にした。。


    52年前の旅では、ヒュッテ前の「高天が原リフト」に乗って、東館山(ひがしだてやま:2,030m)を目指した。東館山の展望を楽しみ、高山植物園を見学した後、「東館山空中ケーブル」で志賀高原最初の温泉である「発哺(ほっぽ)温泉」に降り、そこでまた「志賀高原ロープウエイ」で、志賀高原の池巡りの起点になっていた蓮池(はすいけ)まで行ったのだった。

    待ち合わせていた山の駅の「山ノ内大膳軒」はこの日お休みで、名物ラーメンを食べられなかったが、その代わり「山のキッチン」の美味いカツサンドが食べられた。

    <志賀高原 山の駅 レストラン「山のキッチン」>
    〒381-0401長野県下高井郡山ノ内町平穏7148
    10:00~16:00
    日曜営業

    ・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2023年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • 昭和初期の長野県に建設された「国策ホテル」に、 上高地帝国ホテル・野尻湖ホテル・志賀高原ホテルの三ホテルがあった。

    投稿日 2023年11月10日

    志賀高原歴史記念館 湯田中渋温泉郷・志賀高原

    総合評価:5.0

    <2023年8月20日(日)~22日(火)、志賀高原の旅>
    宿泊先:ホテル白樺荘(2泊)
    長野県下高井郡山ノ内町志賀高原蓮池(平穏7148)
    Tel:0269-34-3311

    8月21日、旅の2日目は宿泊先の白樺荘からも徒歩で行ける「志賀高原歴史記念館(旧志賀高原ホテル)」を訪れた。蓮池巡りをして、志賀高原山の駅まで行き、11:30に山の駅から志賀高原歴史記念館に向かって歩き出した。
    12:05、歴史記念館に到着した。徒歩で下り坂を凡そ30分、私の様な、日頃歩かない老人には、結構きつい道だった。

    時計塔辺りから赤い屋根の館を撮ってみた。こちらが目的地の歴史館(エントランス棟)である。旧志賀高原ホテルの写真(後掲)に比べると、左右の宿泊棟がなくなってしまった格好である。

    【志賀高原歴史記念館(旧志賀高原ホテル)】
    住所:〒381-0401長野県下高井郡山ノ内町平穏7148-35
    電話番号:0269-33-2597(財団法人和合会) 
    公開期間:5月1日~10月31日
    開館時間:9:00~17:00
    休館日:木曜日 ※冬季休業(11月1日から4月31日)

    (アクセス)
    長野電鉄長野線「湯田中」駅から長電バス白根火山線・奥志賀高原線にて33分の「丸池」停留所から徒歩3分。バス停(蓮池ひろば/長電バス)徒歩約20分。
    上信越自動車道「信州中野」ICからR292で志賀高原へ、23.6km(約30分)。

    4階建てのスキー用本格的ホテルとして、志賀高原ホテルは山小屋風外観を持つ建物、さすがにドイツ人の指導によって作られた建築物である。「ドイツ党」の私としては、久方ぶりにちょっと喜ばしい訪問になる。

    赤い屋根と大きな切り妻のファザード(玄関正面)、石積の柱に支えられたエントランスポーチの立派さに驚く。車寄せ、玄関、多目的ホールと続く建物は当時、冬季シーズンの社交場として、華やかなリゾート感あふれたものだったことでしょう。

    旧志賀高原ホテルの規模が立派だったのは、開業当時のこの写真でよく分かる。
    1937年(昭和12年)6月20日の数字が、左下に読み取れた。

    *昭和初期に外国人観光客を誘致するため各地に建設された「国策ホテル」は、
    長野県には「上高地帝国ホテル・野尻湖ホテル・志賀高原ホテル」の三ホテルが造られました。
    ドイツ人の指導のもとで造られた「志賀高原ホテル」は意識して建物の随所に日本文化と西洋文化を上手く混合させたと云う。「志賀高原ホテル」は当時の社交界の場になっていたそうだ。
    近年「上高地帝国ホテル」は建て替えられ、「野尻湖ホテル」は解体された。
    従って、部分的ながらも開業当初の建物が残されているのは「志賀高原ホテル」のみとなっている。

    志賀高原歴史記念館には、志賀高原のスノーリゾートの歴史を感じさせる展示物が見られたが、とりわけ、御当地出身の五輪選手で、銀メダリストである猪谷千春氏に関する資料が多く見られたのも当然であろう。

    エントランスホール(1階多目的ホール)に入れば、高々と吹き抜けとなっているロビーがあり、真正面に大きな石暖炉がこれまたすごい存在感を示し、各階には当時の手作りによる、色とりどりで美しい模様のステンドグラス、3階には展望室があり、会議室を飾る壁画・春夏秋冬が見られた。
    中庭に高山植物の花コマクサが栽培され、秩父宮ゆかりのドイツトウヒの大木もあった。

    なかなか興味深い歴史記念館でしたが、広い駐車場に車が一台もない!のは、残念。
    私共の見学中、1組の中年夫妻が訪れたが、好みが合わなかったのか、早々といなくなっていた。

    ・・・・・

    旅行時期
    2023年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    5.0

  • 志賀の丸池ホテルは馬の親子2頭を飼っていて、母馬が時々脱走するらしい。

    投稿日 2023年11月11日

    丸池ホテル 湯田中渋温泉郷・志賀高原

    総合評価:4.0

    <2023年8月20日(日)~22日(火)、志賀高原の旅>
    宿泊先:ホテル白樺荘(2泊)
    長野県下高井郡山ノ内町志賀高原蓮池(平穏7148)
    Tel:0269-34-3311

    8月21日、旅の2日目は宿泊先の白樺荘からも徒歩で行ける「志賀高原歴史記念館(旧志賀高原ホテル)」を訪れた。

    志賀高原歴史記念館はなかなか興味深い歴史記念館でした。

    13時も過ぎて、お腹もすいた。途中でみた丸池ホテルも近く、レストランがあるようなので、こちらで昼食にすることにした。

    <丸池ホテル>
    〒381-0401長野県下高井郡山ノ内町大字平穏7148
    Tel:0269-34-2721

    ホテルは志賀高原・丸池スキー場に隣接し、冬季シーズンは多くのスキーヤー・スノーボーダーが訪れる。
    ホテル周辺には丸池、琵琶池、一沼、蓮池などの美しい 風景がみられ、春~秋も志賀高原の自然を満喫できる。
    2階の広いレストランはモンテ・モアである。

    丸池ホテルのモンテ・モア:
    私はカレーライスにチーズが載ったもので、今まで食べたことが無いものでしたが、満足した。家内はチーズケーキと紅茶、孫娘はおうどんが好きだという。
    娘のピザを含めた軽食のお値段は4,150円也。予想していた以上に美味かった。

    さっきまでレストランの窓から時々目に入っていた親子の馬2頭の内、母馬が292号線を越えて、向こうの野原に脱走!してしまったようだ。
    レストランの厨房役の様な小父さんが現れて、脱走した馬を探しに行った。
    高原には大きなアブがいて、馬を刺すらしい。
    こんなカバーをしているからとても目立つので、馬も隠れられない。
    脱走!?は度々あるのだろう、慣れた小父さんは馬の轡を掴み、連れ戻す。
    脱走した馬は道路を越えて、無事に元の場所に戻って行きました。
    左手に白い仔馬(2頭は親子だと云う)がのんびりと草を食んでいます。

    この辺りは、冬は丸池スキー場になるようだ。

    馬の脱走騒ぎで、バタバタしていたご主人だったが、ご親切にホテル前で集合写真を撮ってくれた。

    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2023年08月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    接客対応:
    4.0
    食事・ドリンク:
    4.0

  • 志賀高原の蓮池は、今(2023年)昔(1971年)を比べるとビックリするほど変わっていた。

    投稿日 2023年11月01日

    蓮池(長野県山ノ内町) 湯田中渋温泉郷・志賀高原

    総合評価:4.5

    <2023年(令和5年) 8月20日~22日、娘と孫娘にさそわれた志賀高原の旅>
    <1971年(昭和46年)7月22日~24日、1歳半の娘と共に家族旅行した志賀高原>


    今から20万年前ごろ、志賀山などの火山活動により周囲の川が堰き止められ、志賀湖と呼ばれる湖(堰き止め湖・・・志賀高原最大の湖だったと思われるが、現在は消失湖)ができた。火山活動はなおも続き、湖がほぼ埋め尽くされた結果、現在の志賀高原の大部分が湿地帯になり、埋め残った所に沼や池がある。この一帯には1000種類以上の動物や植物が存在していると云う。(Wiki引用・追記)

    娘と共に手漕ぎボートに乗った蓮池(はすいけ:標高1,480m)は志賀高原の中央に位置し、周辺の景観に恵まれ、たいへん人気があるスポットになっている。
    左に一の瀬・高天が原・奥志賀方面と右の木戸池・横手山方面の道が分岐する所にある。池の形は南北に細長く、南端にホテル、北端にロープウエイやバスの発着所の建物(今で言うと山の駅)がある。

    当時も今も、蓮池を一周できる遊歩道(今年の冊子には15分で周回できるとMapにあったが、もっと長いように思えた)があり、当時の蓮池には行楽客用の手漕ぎボートがあった。

    52年後の今は勿論ボートは無く、池は蓮やスイレンの小さな花や蒲(がま)の穂、水生植物などで覆われていた。トンボも飛んでいた。

    今昔の蓮池を写真で比べてみた。

    旅行時期
    2023年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.5
    景観:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.5

  • 志賀高原に出かけたら見るべきは総合会館98の志賀高原自然保護センターと長野オリンピック記念館でしょう。

    投稿日 2023年10月28日

    志賀高原総合会館98 湯田中渋温泉郷・志賀高原

    総合評価:4.5

    <2023年8月20日(日)~22日(火)、志賀高原の旅>

    2泊3日の小旅行に我が家の長女、孫娘(次女・高2年)たちと、長野県志賀高原に行ってきました。
    長女宅の孫娘(長女)が、2023年春より大学に入学し、同時に某吹奏楽団のファゴット奏者(高校時代も同じ)で入団しました。
    その吹奏楽団の夏合宿が志賀高原のホテルで行われ、合宿中に催される「志賀高原カレッジコンサート(*志賀高原総合会館98にて)」に出演するから是非聴きに行こうと誘われて、出かけたのです。

    宿泊先:ホテル白樺荘(2泊)
    長野県下高井郡山ノ内町志賀高原蓮池(平穏7148)  
    Tel:0269-34-3311    

    志賀高原総合会館98は宿泊先のホテル白樺荘からは徒歩圏内にある。

    8月22日(火)は旅の最終日。この日は娘達がロープウェイ(ゴンドラ)に乗るというので、高所恐怖症の私は辞退して、その間、蓮池傍の山の駅や大蛇神社、志賀高原総合会館98の様々な施設を見学して待つことにした。


    *志賀高原総合会館98は1998年長野冬季オリンピックの年にオープンした。
    志賀高原総合会館98;長野県下高井郡山ノ内町平穏7148 志賀高原蓮池
    電話:0269-34-3098、自然保護センターなどの各種施設の入口。


    志賀高原総合会館98・・・コンサートホールなど
    志賀高原自然保護センター、
    長野オリンピックパラリンピック記念館、
    志賀高原観光協会、
    志賀高原索道協会、
    志賀高原ガイド組合、
    岳南広域消防本部志賀高原分遣所からなる複合施設です。

    志賀高原総合会館98は世界的音楽指揮者「小澤征爾」氏監修のもと完成された音楽ホールは各種音楽コンサート等に幅広く活用されています。
    1200名収容可能な98ホールは、音楽コンサートやレセプションパーティー会場、ロールバック客席を収納すればスポーツ合宿等にご利用いただけます。
     (上信越高原国立公園 志賀高原の公式サイト引用)

    中でも興味深い展示は志賀高原自然保護センターと長野オリンピックパラリンピック記念館でしょう。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2023年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    4.0

  • オーバープファルツ北部の森に囲まれた、素晴らしい古城ホテル ブルク ヴェルンベルクはグルメレストランを持つ

    投稿日 2017年04月14日

    ホテル ブルク ヴェルンベルク その他の都市

    総合評価:5.0

    ≪北バイエルン;フランケン地方とオーバープファルツ地方を巡る旅≫ 
             
    フランケンワイン、ボックスボイテル街道、古城街道;フランケン・シュヴァイツの
    古城群、陶磁器・ガラス街道、マイン、ペグニッツ、ナーブ、レグニッツ川を巡る
    期間:2009年4月17日(金)~5月1日(金)15日間の旅

    4月24日(金) 快晴。8.5~17℃。

    <(1泊)⑧Hotel Burg Wernberg古城ホテル ブルク ヴェルンベルク >     
    D-92533 Wernberg-Koeblitz 、Schlossberg 10
    209号室(3階)Landgraf(方伯)のタイプ Euro219 
    全29室・4星S  
    http://www.burg-wernberg.de

    ニュルンベルクの東90km、Oberpfalzオーバープファルツの北、森に囲まれた、静かな場所に、グルメレストランを持つ古城ホテルがある。
    1992年にWernbergの町とConrad電機会社が城を共有し、レストランを併設したホテルを作った。1998年に大改装して、ドイツで最も美しいホテルのトップ100選に選ばれた。
    現在、Conrad家と99年の長期リース契約を結び、ホテル経営を任せているのだそうだ。
    ここは現在、格式が高いホテルが多いRelais&Chateauxルレ・エ・シャトーのメンバーである。

    メインレストランのKastellカステルは歴史を感じさせるロマネスク様式の城の2階にあって、独特の丸天井の下、白を基調としたエレガントな雰囲気だ。
    夕食は19:00~21:50、Special Arrangement利用の5品コースをお願いした。
    夕食代はEuro326(43千円)。
    Kastellカステルはミシュラン1星、Gault Millau 17点、全独ランク52位。
     
    1999年初めて、ミシュラン1星を獲得。2001年にシェフとなったChristian Juergensは2002年に2星を獲得し、これを継続中であった。昨年8月、JuergensがRottach-EgernのSeehotel Ueberfahrtに引き抜かれたので、ここにはBerlinのリッツカールトンで1星を獲得していたKellermann を招聘した。この為、ミシュラン2星から下がったが、1星は確保した。
    (2016年現在は2星)

    この町は人口5800人の小さな町(海抜380~600m)である。古くからニュルンベルクとチェコのプラハを結ぶ街道、レーゲンスブルクとチェコのCheb(ドイツ語ではEger)の通商路が交差する場所にあって、繁栄してきたと云う。その町中から徒歩5分の城はNaabtalナーブ谷に臨む山の背に建ち、北側を谷川で守られている。広い掘割や美しい庭に周囲を囲まれた素晴らしい古城である。

    城の歴史は古く、その昔は“Werdenberg”や“Wernberch“とも呼ばれていたらしい。それは城がWerder直訳では川中島・・・川や湖沼に囲まれた半島の様な地域にあった為と云われている。古い資料は不確かだが、ローマ時代・3世紀の頃、Limes(古代ローマの国境防壁)にあって、監視と国境拠点として、建てられたとされている。1146年Gebhard Ⅰ von Luiginbergが領主となる。1280年Konrad von Paulsdorfの騎士に城を売却。
    1367年皇帝Karl Ⅳにより、ボヘミア領土の備えとされる。1430年に始まる、チェコの有名なフスの宗教改革の騒乱で城はオーバープファルツの他の城同様に大きな被害をうける。30年戦争でも同様に。その間、城の所有者は転々とする。
    1741~45年のオーストリア継承戦争では軍団の拠点となるといった様々な歴史を経て、今は美しい城の姿を見せている。

    XXXXX

    旅行時期
    2009年04月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    15,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    5.0
    バスルーム:
    5.0
    客室:
    5.0

  • 10年ぶりに、ライン川流域で一番の古城ホテル アウフ・シェーンブルクを再訪した

    投稿日 2017年07月26日

    ホテル シェーンブルク城 ライン川流域周辺

    総合評価:4.5

    2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
    2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間

    第4日:10月17日(月)・・・185km、曇り時々晴れ、8~15℃

    10月17日(月)~10月18日(火):1泊 ⑥
    Burghotel Auf Schoenburg古城ホテル アウフ・シェーンブルク*
    D-55430 Oberwesel/Rhein 、Auf Schoenburg
    http://www.burghotel-schoenburg.de/

    4星・全22室。コンフォートDZの4階20号室はRheingoldkemenate ラインゴールドの間(22㎡)・Euro230(朝食込み:26,816円)。

    この旅、3つ目の古城ホテル。ライン川側の部屋を予約したので、相変わらず値段も高く、この旅で一番高い室料になる。
    近年、改装を繰り返し、小さなレストランの部屋数が増えた。ライン流域では一番の人気で、来客増に備え、そうとう金をかけた様子が見て取れる。

    スリッパと浴用ガウンあり、リキュール、リンゴ、冷蔵庫の飲み物(水、ジュース類、ビール)は無料なのは嬉しい。
    駐在中も何度か訪れたが、退職後の旅では2006年5月15日~17日、2泊したので、10年ぶりになる。いろいろと思い出も尽きないホテルだ。

    レストランはRitterstube騎士の間、Gobelinstubeゴブラン織りの間、Knappenstubeクナッペン(小姓)の間、テラスレストランがある。

    この部屋にはシェーンブルクの昔を描いた絵が架けられ、歓迎の印のチョコレートが1個ずつ枕上に、大きなベッドが中央に、左手奥の角に書斎机と椅子があり、その卓上に古めかしい電話・書籍・写真集が置かれていた。

    時計がのるシュランク(中にオーディオ装置、冷蔵庫が内蔵されていた)、中央奥に長椅子、その上の壁に絵画(絵の裏にTVが隠れていたが、できるだけ現代を意識させないようにしている)が掛かり、左の窓際にある卓上にはサービスのリキュールの瓶とグラス、リンゴ3個にナイフとフォークが添えられ、部屋の重い鍵があり、古城らしく、昔の書状のような巻物を開いてみると、歓迎の言葉と共に、部屋の番号、城の案内などが、昔の書体(独・英語)で書かれている。それに裏面に近年古城の裏手の斜面に造作を加えた庭園の図があった。

    入口の扉には騎士の漫画風な掛札(邪魔をしないで!&お掃除OK)がかかり、大きな鏡(その裏は洋服かけ、貸金庫など)、浴室には浴用ガウン、スリッパがおかれ、十分な広さのシャワールーム・洗面所・トイレがあった。勿論設備は現代そのもので、快適である。

    窓の格子柄、窓辺の花、部屋全体の絨毯、壁紙、カーテンの色合いも、私共にはとても好ましいものだった。

    その昔は書状のような巻物のような事はして無かったと思う。ホテルのこの拘り方に古城ホテル好きとしても感心する。
    世界中の観光客が、この古城ホテルに泊まりたがるのも分かる気がします。

    XXX

    旅行時期
    2016年10月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    15,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.0
    バスルーム:
    4.5
    ロケーション:
    4.0
    客室:
    4.5

  • シェーンブルク城:33号室は銃眼のある通路の先にある部屋でした。

    投稿日 2014年12月12日

    ホテル シェーンブルク城 ライン川流域周辺

    総合評価:4.5

    2006.5.:“ドイツ ライン・モーゼル周遊の旅”
    期間 : 2006年5月5日(金)~5月19日(金)15日間

    05.15(月)  ほぼ晴れ 午後になっても、20℃前後。 151km(通算1611km)

    ≪Burghotel Auf Schoenburg  ブルグホテル・アウフ・シェーンブルク城≫
    D-55430 Oberwesel/Rhein
    TEL:49(0)6744-93930 
    http://www.burghotel-schoenburg.de/

    33号室(Wehrgangkemenate銃眼のある通路の先にある部屋)に2泊した。
    全22室、4星 

    ライン川側の部屋を予約したので、値段も高い。レセプション横の階段を上がり、多分、教会部分の上にある城主の部屋--長い食卓が備えられ、歴代の城主と思われる人物画が壁に幾つも架けられた広間--を通り抜け、城の城壁に銃眼がくぐり抜かれ、内庭から数メートルの高さにある、木の通路を20mほど行く。
    途中のコーナーにはテーブルも置かれて、食事も摂れるようになっている。
    右に折れた奥まった所に、“Wehrgangkemenate銃眼のある通路の先にある部屋”の名札がついた、33号室は在りました。

    この離れの静かな部屋は、窓からライン川、対岸の丘陵地帯が見渡せて、鉛で丸や格子に縁取られた窓の外はマロニエの赤い花が咲いているのが良く見える。

    その内庭にライン川の眺望を楽しむ、テーブルが置かれて、数人の方が、ワインのグラスを片手に談笑している。

    部屋の真中には大きな、どっしりとしたベッドがあり、シェーンブルグの昔を描いた絵が架けられ、果物を盛った皿がテーブルの上に置かれて、大変心地よい空間になっている。面白い事にTVや、オーディオが木の棚の中に隠されていて、できるだけ現代を意識させないようにしている。
    左手には昔からかな?と思わせる突き出た場所にトイレがあり、がっしりしたドアが付いている。右手の奥に、シャワールーム・洗面所が設けてあり、勿論設備は現代そのもので、快適である。

    テーブルの上に、昔の書状のような巻物があり、開いてみると、歓迎の言葉と共に、部屋の番号、城の案内などが、昔の書体(ヒゲ文字:独・英語)で書かれている。

    昔はあまりこんな事はして無かったと思うが、ホテルのこの拘り方にはさすが--と感心する。世界中の観光客が、このホテルに泊まりたがるのが、分かる気がします。

    ブルグホテル・アウフ・シェーンブルク城はライン川畔に立つ古城ホテルの中でも最も人気の高いホテルと言われる。
    シェーンブルク城はロマンティシャーライン;世界遺産の中ほどにあたり、Oberweselオーバーヴェーゼルの町の上にある美しい中世の館である。
    中世の黒ずんだ城壁、新しく改築された赤壁の館はその色合いのコントラストが美しい。城の起源は11世紀頃と云われているが、ローマ時代の痕跡も出ているそうである。
    1689年のプファルツ継承戦争で侵入した仏軍にこの城は焼き払われてしまう。
    20世紀の初め、城が漸く再建され、1957年からホテル・レストランが開業された。

    月曜日はレストランが休みだが、宿泊客の為に特別に予約すると、“月曜日メニュー”で食事が出来る。  レストランはゴー・ミョー、アラルとも13点。】

    <夕食:Gaststubeガストシュツーベ;Gobelinstubeゴブラン織りの間>
    (19~20:30、108Euro)

    今夜のレストランは大変シックな部屋である。ギャラリーの様に、小さな野菜などの静物画が部屋の黒光りした壁に架けられ、天井近い上部の白い壁には一角獣(神話上の幻の動物)のゴブラン織りや、城主と思しき人物画が架けられていて、豪華な、落ち着いた空間を創っている。

    徐々に席に着き始めた客も様々で、日本人の母と20代の娘の二人も窓際のテーブルに座っている。私共は角の席で、30席全体を見渡せる、気にならない席だ。
    今日のメニューは既に決っているので、気楽である。

    Schoenburger 3-Gaenge-Menu am Montagシェーンブルグ・月曜日3品メニュー:

    最初はシェフのご挨拶:
    イタリアパルマ産のハムとメロン。ホウズキが添えてありました。

    スープ:葱のクリームスープに燻製の鮭の切り身入れ。

    メイン:豚の腰肉のローストに香辛料入りのソースかけ、緑のアスパラ、炒めたジャガイモを添え。

    デザート:イチゴを荒引きしたものの中に、自家製ラベンダーアイスを置いたもの。

    嬉しい事に、味、質、量のいずれも良く吟味されたもので、大変美味しい料理でした。

    飲み物は自家製の食前酒(15Euro)、2005年ラインガウのリースリングワイン;白辛口のハーフボトル(26Euro)。 

    XXX

    旅行時期
    2006年05月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    12,500円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    4.5
    バスルーム:
    4.5
    ロケーション:
    4.5
    客室:
    5.0

  • セピア色の思い出:1970.08.23.~24.千葉・養老渓谷温泉と弘文洞

    投稿日 2023年09月26日

    弘文洞跡 養老渓谷

    総合評価:4.5

    【セピア色の思い出:1970.08.23.~24.千葉・養老渓谷温泉と弘文洞】

    1970年(昭和45年)8月23日~24日.千葉・養老渓谷に1泊の旅をした。
    長女が生まれて半年ぐらいで、当時小金井市中町の個人住宅(御主人は息子さん家族と一緒に住む予定で、二世帯住宅を建てたが、二階は転勤で空いていた)の二階に間借りしていた頃である。
    子供連れの家族旅行は初めてであった。千葉・養老渓谷温泉(ようろうけいこくおんせん)を何故選んだのか、今ではよく覚えていない。
    後に千葉県民となるとは、当時考えてもいなかった。

    さて、Wikiによれば、養老渓谷温泉は千葉県市原市と夷隅郡大多喜町にかかる温泉郷で、旅館、民宿が養老川沿いに十数軒点在する。付近は千葉県立養老渓谷奥清澄自然公園に指定され、房総の魅力500選に選定されている。
    温泉の源泉温度は20度前後と低めであり、とろみのある焦げ茶色が特徴の黒湯が一般的であると云う。

    多分、何かで読んだ養老渓谷温泉が小さな規模の温泉郷で、温泉が焦げ茶色した黒湯だというのが、興味を持ったのかも知れない。

    千葉県市原市の五井駅から小湊鉄道に乗車し、稲穂の中をゴットンゴットンと揺られ、今でもあまり変わりのない車両に乗って1時間10分、養老渓谷に至りました。
    まだ車の免許も持っていないから、歩き専門でした。
    弘文洞、中瀬遊歩道、粟又の滝など見たが、今のようにデジカメでないから、撮った写真も少ない。
    長女を抱っこしての小旅行はけっこう汗をかき、この旅では折角、新しいミノルタのカメラを購入したのに、川を渡る際にうっかり落として、がっかりした。

    その後、2014年3月28日~29日1泊で養老渓谷”もちの木”に泊まって、ドイツ村を廻って来た事がある。四十年以上たった後の事ゆえ、かつての宿も周辺もさっぱりわからなかった。

    ・・・・・

    弘文洞(こうぶんどう)は、明治初期頃に耕地を開拓するため、養老川水系の支流である夕木川を川廻し(河川曲流短絡工事)して、河川の直線化を行った際に造られた隧道(づいどう:トンネル)である。
    尚、以前は隧道の上部がつながって道が通っていて(古い地形図などで確認できる=>私が1970年8月に撮った写真を参照しても分かる)、景勝地や釣りの名所として紹介されていたが、1979年(昭和54年)5月24日の未明に突如上部が崩落し、現在の姿となった(そのため、弘文洞跡(こうぶんどうあと)と呼ばれるようになった)。
    今も独特の風景を作り出している。

    第39代 天皇 の弘文天皇(こうぶんてんのう:648年~672)と、その后である十市皇女(とおちのひめみこ)にゆかりの深い高塚や*筒森神社(つつもりじんじゃ:千葉県夷隅郡大多喜町筒森446にある神社で十市皇女を祀り、安産の神とされる)の傍を流れ本流にそそぐ合流点にあることから「弘文洞(こうぶんどう)」と命名されたとされている。

    史実では、*壬申の乱(じんしんのらん)に敗れた大友皇子(後に追称されて弘文天皇)はその場で討死したとされるが、そこで死んだのは実は影武者で、大友皇子本人は妻子らと東国へ逃れ、千葉県君津市やいすみ市、夷隅郡大多喜町には、大友皇子とその臣下たちにまつわる史跡・口伝が数多く存在し、伝説がある。
    この伝説のうちの一つによると、大友皇子は后の十市皇女とともに上総に逃れたが、君津市俵田で追っ手によって敗れ、残された十市皇女は山を分け入って筒森郷の「限りの山」にたどりついたものの、妊娠中であった十市皇女はその地で難産(流産)の末亡くなったとされ、地元の里人がこれを哀れに思い、大友皇子と十市皇女の霊を手厚く弔い社を建てたのが*筒森神社とされる。

    *壬申の乱とは、天智天皇の太子・大友皇子)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が672年、兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・
    (2023年9月25日Wiki参考、編集・追記)

    旅行時期
    1970年08月
    利用した際の同行者
    乳幼児連れ家族旅行
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    4.5

  • パッサウ:3つの川の合流を望むVeste Oberhausオーバーハウス要塞からの景観は見事だ。

    投稿日 2023年09月20日

    オーバーハウスミュージアム パッサウ

    総合評価:5.0

    ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊  
    :アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:
    期間:2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間の旅

    4.28(月) 1日中快晴 夜半大雨 21℃、 93km

    Hotel Schloss Neuburg古城ホテル ノイブルク( am Innイン川沿い)は10時、スタート。 -> L? 7km Passau・国境の町観光 (10:15~15:30);->18km Veste Oberhaus 10:40~11:30、お茶を”Burg Café”Veste Oberhaus(10:45~11)。->6km 旧市街・市庁舎(時計台の鐘)、聖シュテファン大聖堂、レジデンス広場、ドナウ川、イン川畔の散策。三つの川の合流点;ドナウ、イン、イルツ川。イン川に面した古城ホテルSchloss Ortを訪ねる(お休み中)。昼食を”Bistro Café La Presso”(13~13:55)で。ガラス博物館(旧市街の市庁舎横にある、Hotel Wilder Mann内にあり、収集作品は3万点。14:25~15:25)。Passauを15:30に出発。 次の宿に向かう

    *Hotel Schloss Neuburg古城ホテル ノイブルク( am Innイン川沿い)を10時、ゆっくりしたスタートとなる。 7kmでPassauパッサウに至る。
     
    【Passauパッサウ・国境の町観光】

    パッサウの町は凡そ一日の観光である。(10:15~15:30)
    ドイツの南東に位置し、オーストリア、チェコの国境にも近い。
    三つの川(Donauドナウ、Innイン、Ilzイルツ川)の合流点に発展したこの町はその美しさで世界に名高い町である。
    この美しさを俯瞰する写真で見ることは容易いが、やはり自分の目で見たいものです。その為には高い所に登ることだ。この地も何度か訪れたが、対岸Veste Oberhausオーバーハウス要塞から見たことが無い。

    レンタカーを走らせたが、Veste Oberhausオーバーハウス要塞への道をうまく見つけることができず、迷った。バス停の小母さんに尋ねると、“いったん川沿いまでさがってみなさい”とのこと。
    下がってみたが、いま一つ地図と一致しない。結局また、小父さんに聞いてみた。嬉しいことに途中まで、一緒に走ってくれると言う。さっきは目につかずに走りすぎた、Veste 要塞への道を指さして、“あれだよ!”と・・・18km もぐるぐると回り道したようだが、オーバーハウス要塞の駐車場に停めて、やれやれの気分だ。
    しかし、眼下の眺望はすこぶる良し。 登った甲斐があった。

    Georgbergゲオルクベルクと称する山の上に建てられたVeste Oberhausオーバーハウス要塞はヨーロッパでも最大級の一つだと云う。
    1219年、パッサウ大司教Ulrichウルリッヒ2世により、内外(パッサウ市民もここに入る!?)の敵に備えて、要塞が建設された。中世の時代には5度攻められて、5度ともこれを撃退し、無敵を誇った要塞だと云う。
    ここの建物は1991年より市立博物館になっている。
    博物館はパスして、トイレタイムを兼ねて、早いお茶にした。
    (10:40~11:30)

    お茶:「Burg Caféブルクカフェ」Veste Oberhaus、Passauにて。 
    オレンジジュース、コーヒーを飲む。 (10:45~11:00 Euro 6)

    次には要塞傍のSchoene Aussichtspunkte絶好の景色が見られるという展望台から、快晴に恵まれた景観を楽しんだ。実に素晴らしい景観である。

    オーストリア側の緑濃い丘陵も良く見え、手前正面のMariahilfbergマリアヒルフベルクの丘の上には巡礼教会Mariahilf僧院(1537年クラナハ作の“聖母子像”の写し絵を1622年、礼拝堂に掲げた所、これが評判を呼び、巡礼者が殺到したと云う)が見えた。
    バロック様式の僧院は城郭に見間違うほどの立派な様子だ。僧院のあるInnstadtインシュタットはイン川にかかるイン橋を渡った、向こう岸の町だが、ここはまだドイツ領だ。イン川が国境線と私は考えていたが、色々と入り組んだ地域があるようだ。オーストリア国境までここからまだ1kmあると云う。

    もう一度、パッサウの旧市街の市庁舎や鐘楼、広場、聖シュテファン大聖堂、ドナウ川の船着き場には数隻の観光船が着岸しているのも見た。
    この日、展望台から望む、歌に言う青きドナウも、イン川の二つの流れもどちらもいやに茶色っぽく見えた。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2008年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0

  • ダルムシュタット近郊にあるメッセル-ピット化石地域はドイツ唯一の自然遺産(1995年登録)である。

    投稿日 2023年09月14日

    メッセル ピットの化石地域 ダルムシュタット

    総合評価:4.0

    ドイツ 南西部・黒い森とボーデン湖・シュヴァーベン地方の旅           
    :黒い森・バーデンワイン街道・高-上ライン川とボーデン湖・
    シュヴェービッシュ-アルプ地方・オーデンの森:

    期間 :2007年4月19日(木)~5月3日(木)15日間の旅

    <05.02(水) 快晴 23℃  、  57km 最終日の走り>

    朝食後、10:30 Darmstadt-Kranichsteinダルムシュタットの古城ホテル・クラニッヒシュタイン(Kranichは鶴の意味)の庭園、周辺を散策 9:00~9:30 ―>L? 10km Messel 10:50着(博物館は午後2時から)L? 5km世界遺産Grube-Messel(メッセル・ピット化石地域・1995年登録:ドイツ唯一の自然遺産である。11:10~12:15 ―>L? 11km Darmstadt市内観光:マチルダの丘・Jugendstilユーゲントシュティール建築群 12:35~13:30 ―>L?2km 旧市庁舎、城博物館 (ガイド1時間 15:00~16:00)  
    昼食:竹園酒楼 14:10~14:50 
    フランクフルトを目指す。―>E5 29km Frankfurt飛行場 17:00着;Hertz地下駐車場にてレンタカー 17:07返却。
    18:00 チェクイン・通関。  LH-9790 20:45 フランクフルト LV

    *Restaurant・Landgraf Ludwig VIIIルードヴィッヒ八世方伯での朝食後、Kranichstein鶴城の庭園、周辺の池を散策する。
    遅くまで賑わっていたJagtschloss狩猟の館Schaenkeのテラスレストランはパラソルもたたまれ、誰も居ない。自動散水機が庭園の花々や芝生にたっぷりと水をあげている。
    狩猟博物館を真正面から眺めてみると、館の赤い屋根が深緑の中にあってとても映えている。その狩猟博物館は午後から開館なので見学は出来ず、残念だった。 
    (9:00~9:30)

    古城ホテル・クラニッヒシュタインを10:30、ゆっくりしたスタートになった。
    今日はこの旅の最短距離となるコースを走る。―>L?10km Messelに10:50到着。村の運動場の駐車場に車を停めて、村内に行ってみる。
    見つけた「化石・郷土博物館」は幼稚園も併設されたもので、午後2時から開館とある。小さいし、中身も期待できそうも無い。
    「メッセル・ピット化石地域」は別の所だと通りかかった小母さんが言う。そしてGrube-Messelグルーべ・メッセルへの道を親切にに教えてくれた小母さんはビックリした事に、この小さな村で“公文の教室”を主宰している教師だという。それもブラジル出身で、ドイツに来る前に学んだと話してくれた。日本の“公文”恐るべしである。
    教えて頂いた道はほんの少し先、村道を5km行った場所でした。

    【世界遺産Grube-Messelメッセル-ピット化石地域】
    (11:10~12:15) 

    メッセル-ピット化石地域はドイツ唯一の自然遺産(1995年登録)である。
    メッセル層と呼ぶ地層から5000万年以上前の化石が多数発掘された。5種類の両生類、8種類の魚類、31種類の爬虫類、50種類以上の鳥類、109種類の植物類の化石が出てきたと云う。

    入口にある管理事務所小屋がちょうど開いたばかりだ。
    入口の左手、採掘場は現在も建設資材用の砂礫を掘っていて、様々の色をした土砂が集められている。

    右手は深い谷間が続き、観光台から見ると、現在もその谷間は発掘中で幾つかの作業小屋が建ち、発掘現場では作業中の人が遠望できた。

    世界遺産の登録を機に、この場(最初に訪れたメッセル村でなく)グルーべ・メッセルに公的な観光センター(博物館?)を建設する予定とある。

    ガイド案内(一時間)は土日、祭日若しくは事前予約が必要だと言う。
    今日は木曜日の為、私共は観光台からの参観と事務所での視聴サービス拝見で我慢した。
    家族・学生・児童の学習も兼ねて発掘中の場所を巡るツアー、60mもの深さの坑道におりて地層を見るツアーなど盛りだくさんだ。

    日本人の訪問客がどれほど来るのか不明だが、嬉しいことに事務所で日本語のパンフレットが頂けた。 

    ・・・・・

    旅行時期
    2007年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    2.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    3.5

  • ドイツの町々に宗教改革者ルターの実に大きな銅像が立っているが、いささか大きすぎの感がある。

    投稿日 2023年09月09日

    アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルターの記念建造物群 ヴィッテンベルク

    総合評価:4.5

    【かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅】
    期間 : 2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間

    【世界遺産“Lutherstadt ルターの町“には大きな銅像が立ち、
    宗教改革者ルターの偉大さを示している】

    今回の旅は宗教改革者ルターの足跡をたどります。
    そして、その足跡の広さに驚く。
    “Lutherstadtルターの町“はLutherstadt Eislebenアイスレーベン 、Lutherstadt WittenbergとヴィッテンベルクとMansfeld-Lutherstadtマンスフェルト・ルターシュタットの三つを言う。

    宗教改革者ルター、その改革により引き起こされた新旧キリスト教徒の争いは、長く、凄惨な、残虐な戦いであった。ヨーロッパ中、とりわけドイツの戦い「30年戦争(1618年~48年)」の影響が、如何に広範囲だったこと、長く悪い影響を与えたことを、ドイツの町々を巡るとよくわかります。

    ドイツの町々には他の歴史的人物に比べて、実に大きな銅像が立っている。
    宗教改革者ルターの偉大さを示しているのだが、異教徒にとっては、いささか大きすぎの感がある。

    ・・・・・

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.5

jijidarumaさん

jijidarumaさん 写真

33国・地域渡航

12都道府県訪問

写真 | QA掲示板 | 行ってきます | 掲示板 クリップ

jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

最近はアジアの香港・マカオ、台湾も時に昔を思い出しつつ、また、日本の小旅行と称した旅も
最近投稿しています。
(2025.06.11.)


プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、さらにロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、戦時体制の欧州の旅は見送り続けて、2025年を迎えている。

(2025.06.11.)

行ってみたい場所

ドイツ

現在33の国と地域に訪問しています

拡大ボタンを押すと地図が
動かせます。

現在12都道府県に訪問しています