jijidarumaさんのクチコミ(2ページ)全662件
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駐在1年目、先輩に誘われて、遠い遠い古代ギリシャ「アポロン神の御神託」の地を訪ねた。
投稿日 2016年02月02日
総合評価:5.0
1974年12月28日?1975年1月6日
≪年末年始:ギリシャ(アテネとその近郊)・トルコ(イスタンブ?ル)の旅≫
会社(大学も)の先輩家族と初めての海外旅行でしたが、帰国の内示も出ていた先輩から誘われて、思い切った旅に行きました。
当時の私は駐在一年に満たない新米(一番若い)でしたので、他の駐在員の方々(その家族)から、あとでいろいろとやっかみや反発がありました。何しろ当時の駐在員も家族旅行でこの地まで来るのは稀なことでしたから。
以来、訪れたことが無い国々です。写真を見るともう黄ばんでいます。
1974年12月30日
アテネ北西約160kmにありますが、大きなアメ車のタクシーを調達し、大人4人、子供4人が乗って、デルフィの地に向かったのです。
オシオス・ルカス寺院、デルフィの遺跡(アポロンの神殿・・大きく険しい岩山を背にしたアポロン神殿跡は御神託の地に相応しい場所でした。野外劇場)、コリントのアポロンの神殿、エピダブロスの野外劇場、ペロポネソス半島東部に位置し、かつてドイツの考古学者のシュリーマンが発掘したミケーネ文明の古代遺跡群(ライオンの門、アガメヌオン王の墓)、ダフニ修道院などを一日で巡ったのです。- 旅行時期
- 1974年12月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1日
- アクセス:
- 2.5
- コストパフォーマンス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 展示内容:
- 4.5
-
皇帝ナポレオンの屈辱の地ワーテルローの古戦場を訪ねたら、ライオン像の丘に登るべし。
投稿日 2025年09月13日
総合評価:5.0
【皇帝ナポレオンが、英蘭普連合軍に敗れた屈辱の地Schlacht bei Waterlooワーテルローの古戦場を訪ねたら、ライオンの丘に登るべし。】
1983年の春を迎え、1983年5月21日~23日、Pfingstenフィングステン(聖霊降臨祭)の休みにベルギーとオランダに小旅行した。
ベルギー・フランドル地方を中心にオランダの南部を一寸かすめて走る旅である。
この旅で最初の目的地、英雄・フランスの皇帝ナポレオンが、英国・和蘭陀王国・普魯西(プロシア=プロイセン王国)王国の連合軍、つまり英蘭普連合軍に敗れた屈辱の地ワーテルローの古戦場である。意外にも、駐在二度目に漸く訪れたことになる。
ヨーロッパの歴史に欠かせないナポレオン時代の最後を飾る「(独語)Schlacht bei Waterlooワーテルローの戦い」と呼ばれている古戦場だ。
【La Butte du Lionライオンの丘】
Ronte du Lion 1815, 1420 Braine-l'Alleud
Walloon Brabantブラバン・ワロン州、ワーテルロー(現人口3万人)南南東5kmのMont Saint Jeanモン・サン・ジャンには、戦いの記念碑、通称「ワーテルロー・ライオン」があり、このライオン像は敵であったフランスを向いている。
記念碑のある人工の丘は1823~1826年の3年をかけて完工した。
「Butte du Lionライオンの丘」と呼ばれ、階段で登ることができ、ベルギーの観光名所となっている。
ライオンの像は、28トンもの重さがあり、メッヘレンの彫刻家ヴァン・ヘールが製作し、リエージュのコックリルが鋳造した砲身を鋳つぶして作られたライオンの像で、丘の高さは45mくらい、急傾斜の226段の階段を上がった頂上に、*オラニエ王子の名誉の負傷を記念して作られた。
これは敗走したナポレオン軍が遺棄した野砲を鋳つぶして作ったものだ。
*オラニエ公ウィレム(Willem Frederik George Lodewijkウィレム・フレデリック・ヘオルヘ・ローデウェイク)は、後に第2代オランダ国王(在位:1840年~1849年)、及びルクセンブルク大公)に即位した。
イギリス軍に加わり第1軍団を指揮し、Bataille des Quatre Brasカトル・ブラの戦い、ワーテルローの戦いに参戦し、負傷した。
ライオン像は
長さ4.5m、
高さ4.45m、
重さ28トン、
基礎の土台の高さは6mだそうだ。
ライオンの像の足で野砲の球を抑えているのだとか。
この像は急傾斜の226段の階段を上った頂上(高さは45mくらい)に在って、因縁の敵国フランス(首都パリ)をにらんでいる。
・・・・・
ワーテルローの戦いは1815年6月18日の1日で決着したが、如何に大きな戦いであったかが分かるのは以下の数値だ。
<両軍の兵力対比>
フランス帝国軍:
総兵力73,000人(歩兵50,000人、騎兵15,000人 銃・砲兵8,000人、野砲252門)
英蘭普連合軍:
総兵力120,000人(歩兵91,000人、騎兵21,000人 銃・砲兵8,000人、野砲282門:英蘭連合156門、プロイセン126門)
(ウェリントン公爵旗下の連合軍:英、蘭、ハノーファー王国など68,000人と、ブリュッヘル元帥旗下のプロイセン軍50,000人:後のドイツ帝国軍)
<戦後の両軍死傷者等の数対比>
フランス帝国軍:
死傷者25,000人、捕虜8,000人、脱走者15,000人、遺棄された野砲220門、
英蘭普連合軍:
死傷者24,000人(ウェリントン公爵旗下の連合軍死者3,500人、傷者10,200人、行方不明者3,300人 合計17,000人。ブリュッヘル元帥旗下のプロイセン軍死者1,200人、傷者4,400人、行方不明者1,400人 合計7,000人)
尚、両軍の乗馬7,000頭が死んでいる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 1983年05月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
-
銚子:【稲むらの火:TSUNAMI(つなみ)】で知られた 濱口 梧陵(はまぐち ごりょう)翁の紀徳碑を見つけた。
投稿日 2025年09月04日
総合評価:5.0
濱口梧陵君紀徳碑
〒288-0811 千葉県銚子市妙見町461-8
妙見宮・妙福寺を出て来ると、道路を挟んで右手にヤマサ醤油の本社工場がある。
銚子駅方面から来て、道路を右折し妙福寺に向かって真っすぐ行くと、左手にちょっとした森(ヤマサ醤油の敷地内であろう)があり、その木々の中にこの大きく、立派な紀徳碑(顕彰碑)が立っている。
意外に気付かずに通り過ぎてしまうのだが、偶々帰り道に道路を横切り、森側の歩道を歩いた。それで濱口 梧陵(はまぐち ごりょう)翁の碑に気付いて、こうした写真も撮れたのだが、翁は実業家・社会事業家・政治家といった人物像よりも*<稲むらの火>のエピソードで世界に知られた人だ。
【濱口 梧陵(はまぐち ごりょう)翁の紀徳碑(顕彰碑)】
勝海舟(伯爵 勝安芳 かつ やすよし)が題額を書いている紀徳碑(顕彰碑)の説明版がある。
紀徳碑(顕彰碑)の説明版の最後に簡単に書かれていたのが、*<稲むらの火>であり、ここであらためてWikiから引用・抜粋した。
また、情けないことだが、この事を*小泉八雲が小説化した事も初めて知った。
*小泉八雲「A Living God」
1896年(明治29年)、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、英語によって "A Living God " を著した。西洋と日本との「神」の考え方の違いについて触れた文章であり、この中で人並はずれた偉業を行ったことによって「生き神様」として慕われている紀州有田の農村の長「浜口五兵衛」の物語を紹介した。(Wiki)
*稲むらの火 とは:
「稲むら」(稲叢)とは積み重ねられた稲の束のこと。稲は刈り取りのあと天日で干してから脱穀するが、上のように稲架(はさ)に架けられた状態を「稲むら」と呼ぶ。 ただし脱穀後の藁の山も「稲むら」と言うことがあり、史実で燃やされたのは脱穀後の藁である。(Wiki)
安政元年11月5日(1854年12月24日)夜、安政南海地震の津波が紀州有田郡広村(現・広川町)に襲来した後に、梧陵は自身の田にあった藁の山に火をつけて安全な高台にある広八幡神社への避難路を示す明かりとし、速やかに村人を誘導することができた。結果として村人の9割以上を救った(死者30人)。
津波から命を救えるかは、情報の伝達の速さが関わっているという教訓を残した。これをもとに作られた物語が『稲むらの火』として知られている。
この災害の後、梧陵は破損した橋を修理するなど復旧につとめたほか、当時では最大級の堤防・広村堤防を約4年かけて修造した。この大土木工事は、荒廃した被災地からの住民離散を防ぐ意味を持つとともに、将来再び襲来するであろう津波に備えての防災事業であった。広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て梧陵が私財を投じたものであり、のちに小泉八雲は彼を浜口五兵衛の名で小説化し、「生ける神(A Living God)」と賞賛している。
当時としては巨大な堤防の建設の際に「住民百世の安堵を図る」との言葉を残している。堤防完成から88年後の1946年(昭和21年)、広村を昭和南海地震の津波が襲ったが、この堤防のために被害を減らすことができた。
また、梧陵の活躍をたたえ、広村堤防には感恩碑(1933年建立)が建てられている。広川町では毎年11月に「津浪祭」を行い、梧陵の遺徳をしのぶとともに災害の記憶と災害への備えを伝えている。
大規模な津波被害が出た2004年12月のスマトラ島沖地震によって、『稲むらの火』の物語が想起されるとともに、そのモデルとなった史実の濱口梧陵の事績が注目された。
歴史情報番組『その時歴史が動いた』(NHK総合、2005年1月12日)では、「百世の安堵をはかれ 安政大地震・奇跡の復興劇」を放送し、広村堤防築造を中心に梧陵の生涯を紹介した。番組中で解説のゲストとして出演した河田惠昭(京都大学防災研究所教授)は、現代のように災害対策に関心が払われていない時代背景において、災害対策としての目的で、公共事業ではなく一民間人の発案と私財をもって広村堤防建設が実施されたことを、非常に画期的と評価している。
2005年のスマトラ沖地震津波後に開かれたASEAN緊急会議に出席した当時の【首相小泉純一郎は、シンガポール代表から濱口梧陵の功績を尋ねられたが、知識がなく答えることができなかった。】
2015年12月4日、国連総会第2委員会は日本を含む142か国の提案により、この逸話のもととなった11月5日を「世界津波の日」に制定することを全会一致で決めた。
・・・・・
濱口 梧陵(はまぐち ごりょう、文政3年6月15日(1820年7月24日)~ - 1885年(明治18年)4月21日)は、日本の実業家・社会事業家・政治家。
紀伊国有田郡広村(現・和歌山県有田郡広川町)出身。
広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て彼の私財で賄われた。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。駅逓頭や初代和歌山県会議長を務めた。
醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語*『稲むらの火』のモデルとしても知られる。
生い立ち:
紀州湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男として生まれる。12歳で本家(濱口儀兵衛家)の養子となって、銚子に移る。
その後、若くして見聞を広め、開国論者となった。海外留学を志願するが、開国直前の江戸幕府の受け容れるところとならず、30歳で帰郷して事業を行った。嘉永5年(1852年)、同業の濱口吉右衛門(東江)・岩崎重次郎(明岳)とともに広村に稽古場「耐久舎(たいきゅうしゃ)」(現在の和歌山県立耐久高等学校)を開設して後進の育成を図った。
嘉永7年(1854年)頃、七代目濱口儀兵衛を相続する。
・・・・・
【ヤマサ醤油株式会社(ヤマサしょうゆ)】
ヤマサ醤油株式会社は、千葉県銚子市に本社を置き、醤油・各種調味料の製造・販売を行う企業である。
七代目当主濱口梧陵が医学をはじめ社会貢献事業に尽力し、現在でも医薬品原体(原薬)・医薬中間品・医薬化成品・診断薬などの製造・販売を行っている。
沿革:
1645年(正保2年) 初代当主濱口儀兵衛が醤油発祥の地、紀州由良の隣町である紀州有田郡広村(現・広川町)から銚子に移住し、本場の醤油造りで創業した。
・・・・・・・・・・・・
今日は香取市の府馬の大クス、妙見宮・海上山妙福寺の「臥龍(がりゅう)の藤」を見に来た一日だったが、
思いもよらない「なんじゃもんじゃ(一つ葉タゴ)」の木や花の事や、ヤマサ醤油と濱口 梧陵翁の事績を知ったことで、大いに満足した小旅行となった。
(2025年5月3日Wiki・HP参考、編集追記)
・・・・・・・・・・
尚、住所は記載された妙見町461-8の通りだが、
4Traの場所の表示が間違っている。
銚子市妙見町に印があるが、ここではない。- 旅行時期
- 2025年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
-
ポツダムの森の中、バイエルン王家の出身・プロイセン王妃エリザベートの愛したバイエルンハウス(5星ホテル)がある。
投稿日 2021年06月24日
ROMANTIK Hotel Bayrisches Haus Potsdam ポツダム
総合評価:5.0
2021年6月18日改訂した:
≪Relais und Chateaux Hotel Bayrisches Haus古城ホテル バイエルンハウス≫
現在は名前が変更されて「ROMANTIK Hotel Bayrisches Haus Potsdam」と称する。
D-14471 Potsdam 、Im Wildpark 1 / Elisenweg 2
Tel:+49 (0)331 5505 0 ・ Fax: +49 (0)331 5505 560
5星・全41室。Comfortzimmer im Garten- oder Waldhaus
私共の部屋は本棟の左奥にある別棟のWaldhausバルトハウス252室(1階)でした。
Euro80X3=240 朝食代は別・Euro25X3X2=150 合計Euro390 (46,265円)
このホテルは5星で、朝食代は一人Euro25もしていました。
予約したBooking comのホテルへのコメントを読むと、朝食代が高い、高いとのコメントが多かった。
http://www.bayrisches-haus.de/
グルメレストランRestaurant Friedrich Wilhelmはミシュラン1星 ・
Gault Millau 16点 、全独ランク138位。
Berlinベルリンから三十数kmの近郊、世界遺産の町・Potsdamポツダムの森の中に、珍しい歴史的なホテルがある。
歴史的な王侯の館(バイエルン地方に見られる独特の民族的な建物)であったので、古城ホテルの範疇に入れたが、普段、私共が思い浮かべる古城ホテルのような、城郭の名残は全くない。
今まで滞在してきた古城風のスタイルとは勿論違っている。
ポツダムの西部に位置するホテルは、Sanssouci Parkサンスーシ公園にあるNeues Palaisノイエスパレス新宮殿から車で10分の距離にある。
Relais und Chateaux Hotel Bayrisches Hausルレ・シャトーホテル(加盟)・バイエルンハウスのエレガントで広々とした客室には上品な布地が用いられ、木製家具とイタリア産大理石のバスルームが備わっている。
ホテルは本棟のWildparkresidenz(ビルトパークレジデンツ・動物園のレジデンツ)、Gartenhaus(ガルテンハウス・庭園小屋)、Jagthaus(ヤーグトハウス・狩猟小屋)、そして私共部屋があるWaldhaus(バルトハウス・森の小屋)とあり、呼び名も森の中のホテルらしい名前が付いている。多分、私共のバルトハウスの部屋が一番安い。
グルメレストラン Friedrich Wilhelmフリードリヒ・ヴィルヘルム(ミシュラン1星、火曜から土曜まで営業なので、私共の日程では17日(火)のみがチャンス)で、夕食を予約した。
また、公園の端、ホテルへの入口に立っているレストランは郷土料理のAlte Foersterei古いフォレステライ(山番小屋)"である。最初の夕食はここで食べた。
館内のL’Oasis Beauty&Spa(ビューティー&スパ)では、スイミングプール、サウナ、スチームバスを併設しており、美容トリートメントとマッサージもできる。
(注)
かの美貌で有名なオーストリア皇妃エリザベート、つまり愛称シシーの母ルドヴィカ妃の伯母プロイセン王妃エリザベート・ルドヴィカが愛したバイエルンハウス・・・皇妃シシーの名は伯母のプロイセン王妃エリザベートの名を付けたと云う。
(エリザベート・ルドヴィカはバイエルン王妃カロリーネ・フォン・バーデンの娘で双子の姉にあたる)
関連旅行記;
プロイセン王の一目ぼれ (Die Liebe auf den ersten Blick)
http://4travel.jp/travelogue/10862303
バウムクーヘン発祥の地Salzwedeler Baumkuchen ザルツヴェーデルとプロイセン王ヴィルヘルム4世
http://4travel.jp/travelogue/10862303
・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2011年05月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 1人1泊予算
- 15,000円 未満
- コストパフォーマンス:
- 4.5
- Booking comで予約したが、グルメレストランや朝食代は別にして宿泊代は早い予約で安かった。
- サービス:
- 5.0
- サービスは申し分ないものでした。
- バスルーム:
- 5.0
- 広く、清潔で申し分ないものでした。
- ロケーション:
- 4.5
- Berlinベルリンから三十数kmの近郊、世界遺産の町・Potsdamポツダムの森の中に、珍しい歴史的なホテルがある。
- 客室:
- 4.5
- 別棟のWaldhausバルトハウス252室(1階)・・・一番安いタイプでしたが、部屋は金額以上の感じでした。
-
ルツェルンのロイス川に架かる、屋根付きの木造橋・カペル橋は実に絵になりました。
投稿日 2025年08月16日
総合評価:5.0
【1975年8月9日~8月19日 10泊11日 夏の休暇Urlaub旅行
ロマンチック街道から南独、オーストリア、スイス巡り】
もう50年昔の事だ。
Zuerichチューリッヒから、=>A4 Zugツークを経由し、=>A4・2 ルツェルン傍のBrunnenブルンネンを訪れた。この町は宿が取りやすかっただけで、泊まったのだが・・・。
<Brunnen泊;Hotel Eden au Lacホテル・エデン・オ・ラック>
4星・39室
CH-6440 Brunnen am Vierwaldstaettersee 、Axenstrasse 15
ルツェルンの東に広がるフィーアヴァルトシュテッテ湖(通称ルツェルン湖)は湖の東側が大きく南へ曲がり、その曲がり角の湖畔に位置するのがブルンネンの町である。ホテル・エデンは風光明媚な湖畔沿いに立つ。
http://www.hoteledenbrunnen.ch/4517.html
⑧1975年8月16日(土) 晴れ ;210km
ブルンネン=>A2 Luzernルツェルン
<ルツェルン観光>
(9:30~14:00)
スイスの中央に位置するルツェルンは美しい湖畔に中世からの建物が並ぶ古都、昔も今もスイスを代表する水の都・観光地である。人口は75千人。
見るべきものは中世の市城壁Museggmauerムーゼック城壁、
1792年のフランス革命の時に、ルイ16世を守って果てたスイス傭兵の記念碑“瀕死のライオン像”、
屋根付きの木橋・カペル橋(1333年)と17世紀という110枚の歴史画、旧市街に残る見事な「フレスコ画」・壁画の建物、
初めて見たGletschergarten氷河公園・氷河臼など。
とりわけ、魅力的なのはReuss (Fluss)ロイス川に架かるKapellbrückeカペル橋(全長204.70 Meterで、欧州最古の木造橋と云われ、実に絵になりました。
ゼラニウムの花などが橋の欄干、旧市街の噴水、フレスコ画に彩られた建物を飾り、夏のルツェルンは美しかったです。
橋に隣接して、8角形をした、レンガ造りの高さ43mのWasserturm水の塔がある。この塔はかつて監獄や拷問部屋として使用されていたそうだ。
その後、屋根付きの木橋・カペル橋が1993年に、*火事で焼けおちた事がありました。
あの時、110枚の歴史画も失ったかと思うと残念なことです。
(*Wikiによれば、橋の大部分と、ほとんどの絵は焼失してしまったが、すぐに再建された。)
・・・・・- 旅行時期
- 1975年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 5.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 4.0
-
バーデン・バーデンの保養施設トリンクハーレの壁に14の壁画があり、エーベルシュタイン城のヴォルフ伯爵の伝説・運命の跳躍の絵がある。
投稿日 2025年08月05日
総合評価:4.5
【バーデン・バーデンの保養施設トリンクハーレと壁画のこと】
“ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”
オーデンの森・黒い森・バーデンワイン街道(カイザーシュトゥール)・仏アルザス地方(コルマール・シュトラースブルク・アルザスワイン街道)・シュヴァーベン地方の古城群・フランクフルト近郊のタウヌス・懐かしのデュッセルドルフ。
期間 : 2015年7月14日(火)~7月28日(火)15日間の旅
第三日:7月16日(木) 晴 23.5~30.5℃ 138km
Rastattラシュタット=>L?・B462 19km Gernsbachゲルンズバッハ =>L? 4km Schloss Eberstein古城ホテル エーベルシュタイン城
ラシュタットからクッペンハイム経由、B462のTaelerstrasse峡谷街道を走ると、19km でGernsbachゲルンズバッハの町に14時に着く。ゲルンズバッハの町は1219年に初めて歴史書に現れたが、エーベルシュタインの騎士領主によりムルグ川の両岸に発展した町で、黒い森の北端に位置する。人口14千人の町は歴史ある旧市街を持つ保養地である。
15時、ゲルンズバッハを出て、ムルグ川から130mの高さにある古城ホテルを目指す。Obertsroterstrasseオーベルスロット通りを走り、城の裏手にあたる山中をぐるりと4km回って、山頂のSchloss Eberstein古城ホテル エーベルシュタイン城には10分で着いた。
ゲルンズバッハの町やムルグ川、古城周辺のブドウ畑の眺望が良いのと、Schloss-SchaenkeシュロスシェンケにあるPlatanenterrasseプラタナスのテラスレストランでの昼食を楽しみにお客が来ているようで、周辺の駐車場もいっぱいである。
③7月16日(木)(1泊)Restaurant & Hotel Schloss Eberstein
古城ホテル エーベルシュタイン城
D-76593 Gernsbach 、Schloss Eberstein 1(レストランはWerderstrasse 1)
Tel:+49 (0) 7224 995950 、Fax:+49 (0) 7224 9959550
http://hotel-schloss-eberstein.de/
4星・全14室(うち4室がスイート)。選んだカテゴリーの部屋はStandard DZ=Euro158(朝食+Kurtax込み、21,730円)で、Dachgeschoss 屋根裏部屋の3階・25号室だった。
ここでは安い部屋なので、裏の山側の眺望となり私共のレンタカーが見えた。
バーデン・バーデンから車で東に20分の距離にある。
Gernsbachゲルンズバッハを流れるMurgムルグ川から130mの高さに、ムルグ渓谷のシンボルであるエーベルシュタイン城は堂々とした姿を見せている。
Felsnase鼻のように突き出た岩山に立つ古城の周辺はブドウ畑が囲み、それは美しい景観の中にある。
・・・・・
Baden・Badenバーデン・バーデンの保養施設Trinkhalleトリンクハーレという建物に、Die Sagen der Trinkhalleトリンクハーレの伝説集(14の壁画の説明)というものがあり、エーベルシュタイン城での攻城戦を描いた絵画が掲げられている。
また、以下の伝説の場面が出て来るのだが、口コミにこの事が紹介されていないので、ツイ少々長い紹介を書いた。
≪黒い森のエーベルシュタイン城:ヴォルフ伯爵の伝説・運命の跳躍≫
Schloss Eberstein :die Sage vom ”Grafensprung ”
https://4travel.jp/travelogue/11030462
・・・・・・・- 旅行時期
- 2015年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
-
木組み建築街道を走り、黒い森民族衣装博物館の町ハスラッハを訪ねた。
投稿日 2025年05月07日
総合評価:5.0
“ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”
オーデンの森・黒い森・バーデンワイン街道(カイザーシュトゥール)・仏アルザス地方(コルマール・シュトラースブルク・アルザスワイン街道)・シュヴァーベン地方の古城群・フランクフルト近郊のタウヌス・懐かしのデュッセルドルフ。
期間 : 2015年7月14日(火)~7月28日(火)15日間の旅
<使用レンタカー>
VW Skoda Rapid フォルクスワーゲン・シュコーダ(スコーダ)・ラピッド
1600ccディーゼル車 黒 5T オートマチック・エアコン(ナビなし)。
<黒い森・Taelerstrasse峡谷街道を走る>
第四日:7月17日(金) 晴 34~38℃ 188km
Gernsbachゲルンズバッハ=>B462 11km (Forbachフォルバッハ)=>B462 32km Baierbronnバイヤーブロン=>B462 30km Freudenstadtフロイデンシュッタット =>B294 27km Schiltachシルタッハ=>B294 10km Wolfachヴォルファッハ=>B33・294 13km *Haslachハスラッハ=>B33 18km Gengenbachゲンゲンバッハ =>B33・(Zellツェル)L?・B28 47km Oberkirchオーバーキルヒ・Romatik Hotel Zur Oberen Lindeロマンチックホテル オーベレ・リンデ
*黒い森も広いので、Haslachハスラッハだけを書く。
この日はB294をさらに西へ走る。順にHausachハウスァッハ、Haslachハスラッハとなる。二つは似たような名で間違いやすい名前だが、距離13kmで黒い森民族衣装博物館の町・ハスラッハに到着した。
【Haslach im Kinzigtalハスラッハ(キンツィヒ川)】
14:35~15:15
キンツィヒ川に沿ったローマ時代からの古い町は人口7千人の小さな町。この町も木組み建築街道に属し、フライブルクの町から南に38kmの距離にある。
1278年に帝国都市権を与えられ、特に銀鉱山の採掘で町はうるおい、17世紀にはさらに商業が発展し、地域の中心になっていった。当時のマルクト通りの住居・手工業横丁などの様子は今も残り、バロック風の木組み建築の家並みが美しい、絵画的な旧市街である。
特徴的なボレン帽子を付けた黒い森の民族衣装を展示した博物館が今日一番の目的だ。
http://www.haslach.de/
Kapuzinerkloster Haslachハスラッハ・カプチン修道院:
D-77716 Haslach 、Klosterstrasse1
Graf Christoph II. von Fuerstenbergクリストフ2世・フュルステンベルク伯の建設指示により1630~32年に完成した。
http://www.kloester-bw.de/kloster1.php?nr=396
<Schwarzwaelder Trachtenmuseum黒い森民族衣装博物館(ハスラッハ修道院内)>
D-77716 Haslach 、Im Alten Kapuzinerkloster
1980年開館。火~土10時~12時半、13時半~17時、入場料Euro3(418円)
http://www.trachtenmuseum-haslach.de.vu/
http://www.zum.de/Faecher/G/BW/Landeskunde/rhein/volkskunde/trachten/haslachfr.htm
この博物館は1630~32年に建設されたハスラッハ・カプチン修道院を改装した建物を利用して、1980年に開館したものである。
博物館には黒い森と上ライン川地域から集められたもので、最も貴重な民族衣装の100以上が地域別に個室(かつての修道士の部屋と思われる小さな部屋)に展示されていた。
また、Brautkronen婚礼の冠、Haubenボンネット(夫人・子供の帽子)とHueten帽子(男性用)の貴重なオリジナルコレクションもすごい。
民族衣装は独特のもので、鮮やかな赤い玉(未婚の女性は赤・既婚者は黒)を十数個帽子上に飾り(独語でBollenhutボレン帽子と言う。英語ではPompon Hat玉房で飾った帽子)、真っ白のブラウスに、小花模様のビロードのベスト、黒の前掛けを付けたスカートの民族衣装は素晴らしいもので、とりわけ若い娘さんたちはチャーミングである。
今もって、結婚式や、毎年秋口の収穫祭に行われる祭りで、この民族衣装で着飾った老若男女たちを見られるようだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2015年07月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
-
ニンフェンブルグ宮殿の美人画ギャラリー、お気に入りは“美しいミュンヘンッ娘”
投稿日 2020年03月25日
総合評価:4.5
<南ドイツとオーストリア周遊の旅>
(2004年4月21日-5月4日:2週間)
5月01日(土)85km、 曇り時にシャワー
シュタルンベルガーゼー・Golfhotel Kaiserin Elisabethゴルフホテル
エリザベート皇妃 (4星:3泊) を9:20スタート=>BST?/ATB952・95・
E533 =>ミュンヘン10:00= 30km、市内観光:フラウエン教会、
市庁舎---仕掛け時計11:00、レジデンス(宝物館)、昼食“Spatenhaus”
13:30-15:00、ニンフェンブルグ宮殿見学:美人画ギャラリーなど
15:30-16:40 城内庭園カフェ 17:00-17:40、 Hofbraeuhaus
夕食”ホーフブロイハウス”18:10~ 、ホテルに戻る 21:00。
*今日から、ドイツの詩人達が好んで詠う「ドイツの春」のスタートです。
麗し、美わし、ウルワシの5月です。1日はメーデーで町のお店はお休みです。
700年余り、バイエルンを支配したヴィッテルスバッハ家の家紋からとった、
バイエルン州の旗---白と水色の市松模様----はどこの町、村でも、庁舎に
掲げられている。面白いのは街道沿いのレストラン、飲み屋でも、この旗が、
ビールメーカーの旗と共に、店先に高々とあるのが良い。
昼食の後、少し離れたニンフェンブルグ宮殿へ、美人画ギャラリーを見に
行く事となる。1758年完成のバロック様式の宮殿で、1918年まで、
バイエルン王の夏の離宮として、利用されたものです。
中でもルードヴィヒ1世が描かせた美人画のギャラリーは素晴らしい。
ヘレーネ・ゼドルマイヤーという画はその際立った美しさを
“美しいミュンヘンッ娘”と言う呼び名でミュンヘン市民に愛されて
いるそうです。
宮殿前のライラックの群落がとてもきれいです。宮殿の裏側には
広大な庭園が広がり、そこかしこに植物園、狩猟のロッジ、屋内プール
等が点在している。
カフェ・レストランもあり、家内の友人母子Iさん達はアイスカフェー、
我々はチーズ・ケーキ、アップルパイと紅茶・コーヒーで休憩にする。
夜はHofbraeuhausホーフブロイハウスで乾杯だ。
“Ein Prosit、Ein Prosit、der Gemuetlichkeit・・アイン・プロジット、
アイン・プロジット、デア・ゲミュートリヒカイト・・さあ乾杯、さあ乾杯、
みんなで愉快に乾杯だ!!“
・・・・・- 旅行時期
- 2004年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 4.5
-
ホーエントヴィール大要塞跡への狭い道の勾配18%!標識にビビって登頂を諦め、早々と世界遺産ライヒェナウ島の僧院群に向かった。
投稿日 2025年04月29日
総合評価:5.0
2007年4月26日 (木) 快晴 25.5℃爽やか 、 184km
Stein am Rhein シュタイン-アムライン(1000年記念年):旧市街・市庁舎、独特の家々=>L? 16km Singenジンゲン・“Hohentwiel”ホーエントヴィール大要塞跡
=>B33/34 37km世界遺産 Kloster Insel Reichenauライヒェナウ島の僧院群(2000年登録・St.Georg、St.Maria&Markus、St.Peter&Paulの3教会) 島内10kmを走る 14:00~16:20 お茶:Insel Reichenau のパン屋さん 15:00~15:30
=>B33/34/31 42km (Überlingen)=>L?12km Salemザレム・Schlosshotel Schwanen古城ホテル・白鳥17:30着
*スイス領Stein am Rhein シュタイン-アム ライン(ラインの石)から、ドイツに戻り、L?を16kmでSingenジンゲンの町(人口47千人)の郊外に「Festungsruine Hohentwiel ホーエントヴィール大要塞跡」が見えてきた。
この要塞はドイツ最大の要塞と云われる。今は要塞跡が山上(海抜686m)にあるだけで、そこからの眺望は素晴らしいそうだ。
此処は氷河時代から形成された260mの山容(死火山)を利用し、914年にBurkhards ブルクハルトⅢ世伯が居城として築城したものだ。
9.92haの広大な要塞は30年戦争などでは大きな役割を果たしたが、18世紀に国家の重要な囚人を収容する監獄に変わり、1801年フランス革命軍(ナポレオン時代)によって爆破されたまま、現在に至っている。
見学には凡そ2時間。この辺り一帯は独特の風土を持ったHegauヘーガウ地方と呼び、点々と岩山が大きな山容をなしている。
グリム童話よりも古い民話が伝承されてきたと云う。
尚、1797年に地学にも精通した文豪ゲーテがヘーガウ地方を旅した時、彼の旅日記にホーエントヴィール大要塞の印象を書き留めたと云う。
麓近くまで行ってみたが、狭い道の勾配が18%!との表示があり、ビビってしまって、登るのを諦めた。飛び出たような山容にある大要塞跡の遠景を写真に撮るだけとなった。 (13:20)
ボーデン湖=>SingenジンゲンからB33/34で37km、 Insel Reichenauライヒェナウ島に入る。英語で言うとRich Land・豊かな島と言う意味である。昔から、ボーデン湖の魚に恵まれた漁業と、気候が温暖なお陰で野菜や果実、ブドウ畑を営む農業が盛んで、今はこれら新鮮な生産物を提供する人気の保養地である。
ボーデン湖最大の島であったが、堤が1838年に築かれて陸続きとなり、今は堤の上を車も行き来する。
堤の上のPirminピルミン通りはポプラの高い木々が整然と続く道で、気持ちの良い通りだ。
西ローマ皇帝のカール大帝は、緑豊かな、すがすがしい自然の中にあるこの島を好み、島全体を帝国修道院とし、780年に多くの特権を与えた。
これに依って島の修道院文化は発展し、ヨーロッパの宗教史、文化史に欠かすことの出来ない存在になったと云う。
また、芦の茂る一帯は鳥類にとっての自然保護区になっている。 島内は車で一周しても凡そ10~15kmである。
世界遺産 Kloster Insel Reichenauライヒェナウ島の僧院群(2000年登録)はSt.Georg聖ゲオルグ教会、St.Maria&Markus聖マリア・マルクス教会、St.Peter&Paul聖ペーター・パウル教会の3教会を一括した遺産として評価したものである。
OberzellオーバーツエルにあるSt.Georg聖ゲオルグ教会が最初に道の右手に見え、駐車場は左手にあった。50セント硬貨が無くなり、駐車料金自動支払機が使えない。ここでもまた、親切な小母さんグループに会い、大量に50¢硬貨を替えて貰えた。
聖ゲオルグ教会は888年に建造されて、今も殆ど外観が変わらないままである。内部には10世紀のオットー朝時代の壁画が色も薄くなってはいるが残っている。駐車場側には壁画を説明している小さな資料館もあって、拡大された写真などを見ることができる。
島の中心であるマルクト広場には樹齢700年の菩提樹の大木が緑の葉を広げ、涼しげな木陰を作っている。
その周りに庁舎や郷土博物館、ホテル等もある地区、Mittelzellミッテルツエルには旧修道院教会のSt.Maria&Markus聖マリア・マルクス教会がある。
聖マリア・マルクス教会は広場の右手にある塀に囲まれた中にあった。最古の部分は816年にあたり、後ゴシック、ロマネスク様式が見られる。特に13世紀の天井の骨組みは船底によく似たつくりになっていて、素朴だが強靭さを感じさせる。
お茶:Insel Reichenauのパン屋さんで。
遅くなった昼食は諦めて、必ずこの小さな村内にもあると思い、パン屋さんを探す。郷土博物館の後ろの小道にパン屋さんがあった。リンゴのタルトとオレンジジュースを買い、駐車場の木陰で頂く。タルトがとても美味しく思えた。
(15:00~15:30 Euro4)
島の北の先端になるNiederzellニーダーツエルには、Gnadenseeグナーデン湖(ボーデン湖の一部)に面して、St.Peter&Paul聖ペーター・パウル教会が建っている。駐車場からは遠く、野菜畑の先に二つの塔をもった赤い屋根の教会が見えてくる。
聖ペーター・パウル教会は11~2世紀に建設されたもので、東の後陣には万能の神キリストの大きな壁画(1110年作成)がある。バロック、ロマネスク、ロココ様式と時代の変遷とともに、其々の特徴をみせている。
教会裏手の墓地からの眺めも良く、グナーデン湖に帆走するヨットも見え、対岸の村々の家が遠望できる。 (14:00~16:20)
ライヒェナウ島からKonstanzコンスタンツ(古くはローマ軍の駐屯地であった。1414の宗教会議で有名。ドイツ領の商業と大学の町。)は7kmと近く、此処からは対岸のMeersburgメーアスブルクにフェリー便がある。
花の島Mainauマイナウ島もあって見所も多いが、以前に立ち寄ったので、今回は省略して、Salemザレムに向かう。
B33/34/31 42kmのÜberlingenユーバーリンゲンで、ボーデン湖畔から山間に入り、ザレム谷を走る。L?狭い、上下する道を12kmでザレムとなる。道標に沿っていくと、Schlosshotel Schwanen古城ホテル白鳥が出てきた。Schloss Salemザレム城の美しい姿も見え、その昔は城の建物の一部であった、今は警察署がホテルの隣地にある。17:30到着です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2007年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 半日
-
故郷青梅市の姉妹都市ボッパルト・青梅公園を訪ね、ラインの大蛇行の展望台から見事な景観を楽しんだ。
投稿日 2025年04月23日
総合評価:5.0
<故郷青梅市の姉妹都市ボッパルト訪問・ラインの大蛇行>
第5日:2016年10月18日(火) 149km、午前中は曇り、午後晴、11.5~15℃*
古城ホテル アウフ・シェーンブルグ =>L?・ B9 30km Boppardボッパルトの展望台=>(Koblenzコブレンツ)B49 53km (Alken アルケン) =>B49・53 66km Zell / Mosel・ Hotel Schloss Zell古城ホテル ツェル城
生まれ故郷の東京都青梅市の姉妹都市であるボッパルト訪問が第一の目的なのだ。
以前にも訪れた町だが、青梅の第三代市長の記念碑のある新青梅公園やラインの大蛇行は初めてのことなのだ。
ボッパルトの町はB9の国道とライン川に挟まれ、川沿いに長細い町を形成している。右折して旧市街傍のパークハウス(~12:45までEuro1.2、到着時は走行距離623kmの表示になっていた)に駐車し、Oberstrasse上の道をマルクト広場に向かう。
洪水に備えた作りと想像したが、市庁舎の2階にインフォーメーションがあり、市内の地図と青梅公園の場所、ライン川の蛇行を見る展望台に上る道の状況を聞く。
<Boppardボッパルト(ラインラント・プファルツ州)>
http://www.boppard.de/index.
10:45~11:20
ボッパルト市はドイツ連邦共和国西部のラインラント・プファルツ州に属し、有名なローレライの近くの町である。ライン川は全長1320kmだが、かつての西ドイツの首都ボンの位置は半分の655km、ラインの源泉からボッパルトは570kmの距離になる。
ボッパルトは紀元前50年頃にはローマ軍が進出し、約1600年前のローマ時代には軍団の治める城塞都市としての形が出来たという歴史の古い優雅な町で、石造りの美しい家並みとライン川の大蛇行の地に位置し、チェアリフトで上る山頂から見た風景を「ラインの真珠」と呼んでいる。人口は約1万7000人を数える。
今回はいまだ見ていない友好都市青梅の第三代市長の記念碑のあるライン川畔の青梅公園を見たい。そして「ボッパルトのライン川大蛇行」も見たい。
「青梅公園」には我が家の分家である青梅市第三代市長の顕彰碑があるからなのだが、私が学生の頃、1965年(昭和40年)9月にボッパルトと青梅は友好都市(青梅にとっては唯一の友好都市)になったのです。その友好都市締結をした市長でした。
今はもう付き合いのない親族です。
青梅市のHPによると、【青梅市では「青年に夢を持たせるために」と、日本と国民性の似ているドイツの都市との姉妹都市提携を望んでいました。青梅市に在住していた蛇の目ミシン社長、島田氏を介して、当時の西ドイツ、ボンに在住していた同社の顧問弁護士、遠藤氏に青梅市と状況の似た都市の選定をお願いしたそうです。遠藤氏は、観光や保養地、ワインの産地として有名なボッパルト市を候補として紹介してくれました】とある。
【青梅公園】
ライン川にそったプロムナードを歩く。Obertor上の門を過ぎ、洒落た家を見ながら、観光船が停泊している所に着いた。遠くに大蛇行を見る展望台の山が見え、チェアリフトのようなものも目に入った。気分は良いが青梅公園まで、結構歩いた。
駐車場から車を出して走らせ、チェアリフトの駅の駐車場に車を置いた方が良かったと思いつつ、どうやら行き着いた。
青梅公園と日本語で刻んだ大きな石と、石灯籠が左右に立ち、ここからが青梅公園だ。
これらは青梅市の寄贈によるものだろう。プロムナードは更に続いているようだったし、市長の顕彰碑が見当たらないので、地元の人に聞いたが分からず、駐車場に引き返した。
多分、顕彰碑は友好都市関係を纏めて展示している別館があると、インフォーメーションで言っていたから、そちらに置かれたのだろう。
石灯籠の所からプロムナードの先に、旧市街の聖セヴェルス教会の尖塔が見えた。おやおや、いやに遠くまで来てしまった。
・・・・・
【ラインの大蛇行】
ライン川大蛇行が見える展望台とゼッセルバーン(チェアリフト)乗り場が青梅公園傍にある。このSesselbahnゼッセルバーン(チェアリフトの長さ915m・片道20分)は下の駅でも見上げながら、怖く感じた。それで裏道を車で登って、展望台に着いた。
ボッパルトは何度か訪れましたが、大蛇行を上から見るのは初めてでしたから、この日は晴天に恵まれて、その見事な蛇行の景観にとても感激した。この山頂から見た風景を「ラインの真珠」と呼んでいるというが、尤もなことだ。
日当たりの良いこともあって、街中では13.5℃だったが、ここの気温は18℃となっている。
ボッパルトから続く下流左岸の傾斜面は、一面の葡萄畑になっており、Bopparder Hammボッパーダー・ハムの名で知られるワインの名産地として知られている。
この展望台から見る対岸にも葡萄畑が広がり、半円形にライン川に囲まれたFilsenフィルゼン一帯の景観が実に美しい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
-
ヨーロッパ第一の「ラインの滝」は、高低差23mだが、流れ落ちる水量の迫力に驚いた。
投稿日 2025年04月11日
総合評価:5.0
ドイツ 南西部・黒い森とボーデン湖・シュヴァーベン地方の旅”
:黒い森・バーデンワイン街道・高-上ライン川とボーデン湖・
シュヴェービッシュ-アルプ地方・オーデンの森:
期間:2007年4月19日(木)~5月3日(木)15日間
旅も後半はスイス国境沿いに流れる高-上ライン川沿いを走り、ラインの滝を見て、ラインの調整ダムでもあるボーデン湖周辺を巡った。
<使用レンタカー>
VW Golf-Goal 1.6 5T(1600CC)オートマチック・エアコン付き。
4.26 (木) 快晴 25.5℃爽やか 、 184km
朝食後、9:00 Waldshut-Tiengen ;城の周辺を散策 8:00~8:30=>B34/B13 37km 高ライン川流域=>スイス領へ-Neuhausen am Rheinfallノイハウゼン・ラインの滝 9:50~10:40 =>B34/B13 4km Schaffhausenシャフハウゼン:旧市街・騎士の家 10:55~11:25 =>B13 26km Stein am Rhein シュタイン-アムライン(1000年記念年):旧市街・市庁舎、独特の家々 12:10~12:55 =>L? 16km Singenジンゲン・“Hohentwiel”ホーヘントヴィール大要塞跡 13:20 =>B33/34 37km 世界遺産 Kloster Insel Reichenauライヒェナウ島の僧院群(2000年登録・St.Georg、St.Maria&Markus、St.Peter&Paulの3教会) 島内10kmを走る 14:00~16:20 お茶:Insel Reichenau のパン屋さん 15:00~15:30 =>B33/34/31 42km (Überlingen)=>L?12km Salemザレム・Schlosshotel Schwanen古城ホテル・白鳥17:30着
*気持ち良い寝覚めは体調も良い証拠といえる。朝食後、涼しい(13.5℃)朝の散策に城の周辺を歩いてみる。(8:00~8:30) 清算後、9時Tiengenをスタートする。
今日は高ライン川流域=>をスイス領へ向かう。国道B34を24km走ると、ドイツとスイスの国境の村、Nauweltナウベルトである。この辺りはスイス領がドイツ方向に食い込んだような形で、複雑な地勢になっている。
2007年当時、スイスは*シェンゲン協定に入っていなかったので、パスポートの提示が必要だったが、一応国境警備員がいて、こちらを見ている。特に何もいわれる事も無く、ゆっくりと通過し、更にスイス領内のB13を行く。
スイス領に入ると残念ながら道は悪くなり、戦略上意識的にくねくねさせているのかと思うほどに直線道路は少ない。そんな道を13km行くと、スイス領・Neuhausen am Rheinfallノイハウゼン・アム・ラインファル(滝)に至る。
*<シェンゲン協定>
1985年、当時のEEC加盟10カ国のうち、西ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの5カ国が「人の移動の自由」の実現に向けて、域内国境を段階的に撤廃することに合意した。
2024年6月時点で、EU加盟国27カ国中、アイルランドとキプロスを除く25カ国および非加盟国4カ国(アイスランド、リヒテンシュタイン、ノルウェー、スイス)の計29カ国は、シェンゲン協定の下、域内国境審査の廃止に合意した。
・・・・・
【Neuhausen am Rheinfallノイハウゼン・アム・ラインファル】
ノイハウゼン(海抜410m、人口11千人)は、Laufen-Uhwiesenラウフェン・ウーヴィーゼンの自治体と共有する観光名所ライン滝で知られている。
Rheinfallラインの滝は横幅150m、高さ23m(高低差)、最深13m、平均水量は約600立方メートル/秒(夏期) 。
ヨーロッパで一番高いというラインの滝はヨーロッパ最大級の水量が流れ落ちる滝で駐在中は、一度も来た事が無く、今回は念願の訪れである。
旅行資料(Aral Auto Buch 1974~75年版)では、Rheinfall von Schaffhausenとあり、隣接地のSchaffhausenシャフハウゼンに在るように記載されている。実際は所在地のアドレスNeuhausen am Rheinfallノイハウゼン・アム・ラインファル(滝)の如く、ノイハウゼンが正しいようだ。(この口コミの所属もシャフハウゼンだが)
ノイハウゼンの町に入ると直ぐに右手の方の坂道を下がる案内が出て、道はライン川側の駐車場に入っていく。
広い駐車場にバスや乗用車が多かったが、まだまだ空いていた。管理人に一日OK(これしか選択がない)という、Euro3.5の高い駐車料金を支払う。
ラインに沿った道を歩くとSchlösschen Wörthヴォェルト小城がラインに面して、建っていた。レストラン・観光船の船着場、お土産屋がそこにはあって、韓国人、中国人、そして今まで殆ど出会わなかった日本人のツアー客がわんさと群がっていた。
Rheinfallラインの滝は雪解けの豊かな水量もあって、白い水しぶきをあげながら流れ落ちている。といっても、正面から見ると20m程度の落差の滝なので迫力度には欠ける。*川幅120mほどの向う岸には丘の上から滝を見下ろすように、Schloss Laufenラウフェン城が建っていて、此処にも観光客の姿が見える。この位置からは逆光になるが滝の真中に水の浸食から取り残されたように小島が二つ(日本的には夫婦岩と呼んでもおかしくないと思うが)あり、そこに観光船が一隻向かっている。
見ている内に船はお客を下ろして、次のお客の為に戻ってくる。観光客が小島の頂上まで登って、手を上げているのが分かる。
滝の白い水しぶきとその迫力ある水量を肌に感じるには、この島に登るか、左岸の展望台に行って間近に眺めるのが一番である。島の天辺にはスイス国旗がはためいて、領有を主張していた。 (9:50~10:40)
(*因みにAral Auto Buch 1974~75年版ではライン滝は川幅115m、落差20mになっていた。こうした数字は変遷するようで、現在の数値は前述した)
・・・・・
(スイス政府観光局より抜粋)
ヨーロッパ最大の水量を誇る名瀑。ライン川にあり、詩人ゲーテも讃える景勝地としても古くから世界的に有名な滝で、その大きさと迫力に圧倒される。
スイスアルプスを源流にドイツ、オランダと流れていくライン川の中で、Hochrheinホッホライン(高地ライン)と呼ばれる地方にあるラインファル(ラインの滝)である。 最終氷期(ヴュルム氷期)にライン川がジュラ山脈の固い石灰岩地質にぶつかり流れをかえることになり、現在の滝がうまれたと考えられている。
古くから多くの人が集まる有名な景勝地で、この瀑布に強く魅了された、生涯に4度も訪れたドイツの文豪ゲーテは『この先も絵に描かれたり、文章に記されたり多くの人が感動を伝えようと試みるだろうが、何人によっても確定され、論じつくされることはないだろう』と語っている。
尚、2015年に、滝の目の前に鉄道の駅「ノイハウゼン・ラインファル駅」が出来て、滝見物にはさらに便利になった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2007年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- 景観:
- 5.0
-
州都シャフハウゼンで一番目につくのは「金の雄牛の家」のフレスコ画だろう。
投稿日 2025年04月16日
総合評価:5.0
2007年4月26日 (木) 快晴 25.5℃爽やか 、 184km
朝食後、9:00 Waldshut-Tiengen ;城の周辺を散策 8:00~8:30=>B34/B13 37km 高ライン川流域=>スイス領へ-Neuhausen am Rheinfallノイハウゼン・ラインの滝 9:50~10:40 =>B34/B13 4km Schaffhausenシャフハウゼン:旧市街・騎士の家 10:55~11:25 =>B13 26km Stein am Rhein シュタイン-アムライン(1000年記念年):旧市街・市庁舎、独特の家々 12:10~12:55 =>L? 16km Singenジンゲン・“Hohentwiel”ホーヘントヴィール大要塞跡 13:20 =>B33/34 37km 世界遺産 Kloster Insel Reichenauライヒェナウ島の僧院群(2000年登録・St.Georg、St.Maria&Markus、St.Peter&Paulの3教会) 島内10kmを走る 14:00~16:20 お茶:Insel Reichenau のパン屋さん 15:00~15:30 =>B33/34/31 42km (Überlingen)=>L?12km Salemザレム・Schlosshotel Schwanen古城ホテル・白鳥17:30着
*9時Tiengenをスタートする。今日は高ライン川流域=>をスイス領へ向かう。国道B34を24km走ると、ドイツとスイスの国境の村、Nauweltナウベルトである。この辺りはスイス領がドイツ方向に食い込んだような形で、複雑な地勢になっている。
ノイハウゼンにあるラインの滝から、B13で4km走ったライン川畔の町Schaffhausenシャフハウゼンはスイスのシャフハウゼン州にある人口34千人の町で、小さいながらも同州の州都となっている。
ドイツのシュヴァーベンに備えたSchwabentorシュヴァーベンの門(1361年に初目て建設。後にフレスコ画の時計台に von Carl Roesch画)からシャフハウゼンの旧市街に入る。
旧市街のVorstadtフォルシュタットにあるHaus zum Goldenen Ochsen金の雄牛の家が特に有名である。これは1492年創建の市民の家だが、黄金の牛やバビロン人を描いたフレスコ画が、赤い地の壁に見ることができる。
また、Vordergasseフォルダー通りにあるHaus zum Ritter騎士の家(見事なフレスコ画の壁画が見られ、1566年に騎士が建てた家だと云う。一番上に白馬に乗った騎士の姿があり、それがこの家の名の由縁)も素晴らしい。
1520年の石造り・ムーア人の泉、1564年製・天文時計の付いたFronwagturmフロンバーク塔、Fronwagplatzフロンバーク広場周辺など街中は見るものも多い。
Munotムノートはシャフハウゼンの町の海抜433mの高台に立つシンボルであり、リング状の城塞である。16世紀に建てられたとされる。今日では観光地であり、無料で見学することができる。
地下駐車場はデパートに併設してあり、帰途に自動支払い機で清算しようとしたがEuroを何故か受け付けず、大変困った。小母さん達が後ろに4人ぐらい並んで待っていたので申し訳なかったが、スイスフランの持ち合わせがないので参った。
その内、見かねた一人の夫人がスイスフランの小銭で清算してくれた。その代わりに私のもっていたEuroを取ってくれたので、一件落着であった。
スイス人のご夫人達に感謝!!! (10:55~11:25)
・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2007年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
-
シュタイン-アム ライン(ラインの石)の町は創立1000年の記念年(同時に自由都市550年)にあたるという。
投稿日 2025年04月07日
市庁舎 (シュタイン アム ライン) シュタイン・アム・ライン
総合評価:5.0
ドイツ 南西部・黒い森とボーデン湖・シュヴァーベン地方の旅”
:黒い森・バーデンワイン街道・高-上ライン川とボーデン湖・
シュヴェービッシュ-アルプ地方・オーデンの森:
期間:2007年4月19日(木)~5月3日(木)15日間の旅
旅も後半はスイス国境沿いに流れる高-上ライン川沿いを走り、ラインの滝を見て、ラインの調整ダムでもあるボーデン湖周辺を巡った。
<使用レンタカー>
VW Golf-Goal 1.6 5T(1600CC)オートマチック・エアコン付き。
4.26 (木) 快晴 25.5℃爽やか 、 184km
朝食後、9:00 Waldshut-Tiengen ;城の周辺を散策 8:00~8:30―>B34/B13 37km 高ライン川流域=>スイス領へ-Neuhausen am Rheinfallノイハウゼン・ラインの滝 9:50~10:40 ―>B34/B13 4km Schaffhausenシャフハウゼン:旧市街・騎士の家 10:55~11:25 ―>B13 26km Stein am Rhein シュタイン-アムライン(1000年記念年):旧市街・市庁舎、独特の家々 12:10~12:55 ―>L? 16km Singenジンゲン・“Hohentwiel”ホーヘントヴィール大要塞跡 13:20 ―>B33/34 37km 世界遺産 Kloster Insel Reichenauライヒェナウ島の僧院群(2000年登録・St.Georg、St.Maria&Markus、St.Peter&Paulの3教会) 島内10kmを走る 14:00~16:20 お茶:Insel Reichenau のパン屋さん 15:00~15:30 ―>B33/34/31 42km (Ueberlingen)―>L?12kmSalemザレム・Schlosshotel Schwanen古城ホテル・白鳥17:30着
・・・・・
B13 を26kmすると、Stein am Rhein シュタイン-アム ライン(ラインの石)のUntertor(下町門)門前に至る。今年はこの村(人口3千人)の創立1000年の記念年(同時に自由都市550年)にあたるという。
山上のBurg Hohenklingenホーエンクリンゲン城は通常は閉鎖中だが、2007年の秋の記念祭には再オープンらしい。中世そのままの旧市街Unterstadt(下町)では、木組み建築の庁舎やフレスコ画で壁を飾った独特の家々が見られる。
出窓や柱も美しく彩られて、とりわけ中央の通りは左右の家々が全て被写体になるほど、素晴らしい建物が軒を連ねている。
シャフハウゼンの町よりも小ぢんまりした街だが、見応えがあった。
ラインにかかる橋を中程まで渡って、振り返ると旧市街の光景や山上のホーエンクリンゲン城はライン川の青、天空の青の間にあって、これまた素晴らしい眺めだ。
(12:10~12:55)
・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2007年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
-
ホテルZugspitz ツークシュピッツに3泊し、ここを基地として周辺を巡り、最高峰ツークシュピッツェにも登った。
投稿日 2025年04月01日
総合評価:4.0
ドイツ二度目の駐在では、初めての夏の休暇(1982年8月6日から16日の11日間)を、デュッセルドルフから南ドイツのロマンチック街道、ドイツアルペン街道、オーストリアのInnsbruckインスブルック、Fürstentum Liechtensteinリヒテンシュタイン公国まで足をのばした。そしてBodenseeボーデン湖などを巡って、デュッセルドルフに戻った。
最初の駐在でも訪れた地域だが、娘達も大きくなり、昔を思い出すように走った。
総走行距離は2400kmと結構長いものとなったが、38歳と若かったので、疲れも感じず、楽しい休暇となった。
この旅ではGarmisch-Partenkirchenガルミッシュ・パルテンキルヒエンのHotel Zugspitzホテル ツークシュピッツに9日~12日まで3泊し、ここを基地として周辺を巡ったのだった。8月10日国境を越えて、Innsbruckインスブルック、Mittenwaldミッテンヴァルトを巡り、ドイツ最高峰であるZugspitzeツークシュピッツェ(2966m)に8月11日に登った。
ガルミッシュ・パルテンキルヒエンから車でEibseeアイプ湖(Grainauグライナオ)まで行き、ここに車を置いて、往路は登山電車(Grainauでアプト式の電車に乗り換える)に乗り、ツークシュピッツェに上った。
帰路はEibseeseilbahnアイプ湖ロープウエイで一気にアイプ湖に降りるプランだった。2966mからアイプ湖のある973mまでを一気に下りていくのはなかなかのものだが、当時のロープウエイのゴンドラ(客車)は今見ると、小さくて何んとなくコワイ。
この時はまだ私も若く、高所恐怖を感じずに済んだ。
アイプ湖(面積1.77 km²、一周約7.2km、深さ約35m、氷河湖)は個人所有!だとか、今でもあるらしいが貸しボート遊びを楽しんだ。
この湖はエメラルドグリーンやブルーが混じった美しさがあり、透明度も高く、「バイエルン・アルプスで最も美しい湖」と呼ばれているそうだ。
天気は晴れ、やや雲ありでした。電車賃は大人2人DM39、子供2人DM23で合計DM124(12400円)でした。
ホテル ツークシュピッツで夕食を食べている写真があるが、何を食べたのか・・・?
多分、子供たちも好きなWiener Schnitzelヴィーナーシュニッツエルだったように見える。
尚、ホテル名は私共が宿泊した時はホテルの看板もHotel Zugspitzホテル ツークシュピッツであったが、現在検索すると、Hotel Zugspitzeホテル ツークシュピッツェとなっていた。その事情は不明だ。
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Hotel Zugspitzホテル ツークシュピッツ
D-82467 Garmisch-Partenkirchen 、Klammstraße 19
4星・全72ベット- 旅行時期
- 1982年08月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- サービス:
- 4.0
- バスルーム:
- 4.0
- ロケーション:
- 5.0
- 客室:
- 4.5
-
投稿日 2025年03月08日
総合評価:4.0
横芝光町の高台には千葉氏の一族が築城した坂田城跡があって、数十年前に植樹した梅が今は大きくなり、2003年から梅まつりが開催されるようになった。
その「坂田城跡梅林」は梅林の樹齢が約50年を超える巨木などその数1,000本と云われる。千葉県下最大級の梅林として知れわたっているそうだ。
因みに千葉県でも多いと思われる成田山公園の梅は360本だと云う。
最近流行りの「“天空"の梅まつり」と称して、観光客を呼んでいるが、少々盛りすぎの感がある。
標高30m前後と云う高台にある「坂田城跡」は杉木立などの山林に覆われて、手前の坂田池から城址を望んでも何も見えない。
坂田池を望む長方形(東西250m、南北1,500m)の台地上に展開する城跡は、1,000を超える千葉県の中世城郭なかでも最大級の規模のものと云える。
城跡の広大な面積は約4万平方メートル(4ヘクタール)というもので、千葉の田園地域によく見られる舌状台地(ぜつじょうだいち: 台地 が平地 に臨む末端の部分で、舌のような形状で平地側に突き出した形)の上にある。
梅林おもいやり駐車場に駐車し、城の北端に位置する曲輪である外城(とじょう)の坂田城跡梅林から、紅白の梅や菜の花を見乍ら=>外城(とじょう:三郭)=>登城(とじょう:二郭)=>見台(みだい)=>無城(むじょう:本丸)まで、凡そ片道1,500mの距離を往復した。
中世城郭である坂田城は本丸、見台、登城と外城までの曲輪(くるわ:城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域)が直線に並んだ「直線連郭式(れんかくしき)」と云われる形状になっていて、台形の先端は城門枡形(ますがた:四角形の空間をもった防衛構造)が設けられている<要害の地>である。
・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2024年02月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
-
ドイツアルペンの最高峰ツークシュピッツェ(2962m)の氷河駅を出ると雪原が目の前にある。
投稿日 2025年02月22日
Zugspitz Platt ガルミッシュ・パルテンキルヘン
総合評価:5.0
【ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊】
:アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:
期間 : 2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間
<Zugspitze ツークシュピッツェ2962m・ドイツアルペンの最高峰に登る>
4.20(日) 大快晴 24.5℃、 109km
朝食後、Bergのホテルをを8:35に出発。A95で80km先に向かった。9:25 Garmisch-Partenkirchenガルミッシュ・パルテンキリヒェン登山鉄道駅 ;9:45発・登山鉄道に乗車・Schneefernerhaus氷河駅(2645m)に11:00到着。氷河・教会・五月柱。氷河ロープウエイで頂上に向かう。11:30発。Zugspitze2962m・ドイツ最高峰に11:35着;展望・頂上はドイツ・オーストリアの国境になっている。
ガルミッシュ・パルテンキリヒェン駅近くの駐車場に車を停めた。
登山鉄道駅は出発点であり、終着点でもある。海抜720mの駅のプラットフォームからも、天気が良いので目的のZugspitze 2962mが右手に、Alpspitze2628mが左手に、二つの真っ白な頂を見ることができた。 (鉄道・ケーブル往復の一日乗車賃はEuro 69=11530円)
ドイツ二度目の駐在では、初めての夏の休暇(1982年8月6日から16日の11日間)を、南ドイツからオーストリアのInnsbruck、リヒテンシュタイン公国まで足をのばした。総走行距離は2400kmだったが、38歳(私共の長女の今の年齢と同じだ!)と若かったので、疲れも感じず、楽しい休暇となった。あれから26年である。Garmisch-Partenkirchen (Hotel Zugspitz)には三泊し、Zugspitzeに8月11日に登りました。天気は晴れ、やや雲ありでした。面白いことにZugspitzeの高さは2966mと記録されています。あれから26年で4mも低くなった計算ですが---?! そして電車賃も半額の5000円でした。
9:45発・登山鉄道に乗車する。途中のGrainauグライナウまでは電車も普通の走りで、山裾を縫うように走る。右手に広々と平原が開け、所々に冬場の飼料小屋?が建っている。遠くに見える山はKramer山1982m。その裾野に小さな町々の赤い屋根の家並みが見える。Grainauでアプト式の電車に乗り換える。海抜973mにEibseeアイプ湖があり、そこの駅からさらにお客さんが乗ってきて、満席になってきた。
Zugspitzeツークシュピッツェ周辺はいまだ冬のようで、乗り込む人たちもスキー客、スケートボード客であり、電車の外面にはスキーの杖を上手くはさんで運ぶ装置があり、さすがなもの。Eibseeアイプ湖から急斜面になり、もう雪景色の中を電車は登っていく。Grosser Waxenstein2278mの岩山を横目に見て、Riffelriss波上の起伏の裂け目1680mでトンネルに入る。山塊をくりぬいた長いトンネルで、途中の2050m付近で降りてきた電車とすれちがった。 Schneefernerhaus氷河駅(2645m)は終着点である。氷河駅には11:00に到着した。ちょうど75分をかけて登ってきたわけだ。
さすがに寒い。氷河駅から外に出てみると真っ青な空があった。真っ白な氷河や雪原の先のスロープにはドイツで最も高い所に建っているチャペルがある。このチャペルはMaria Himmelfahrtマリア昇天という名前だそうだ。そこまではとても遠く、歩いて行けないが。雪原はスキーやスノーボートに興じる老若男女でにぎわい、26年前にはなかった、柱に白と青とで彩色したバイエルンの五月柱が雪原に高々と立っている。
とてもいい感じだ!!レストラン前のテラスでは日光浴の人たちがのんびりしている。26年前にもこんな光景をみて、羨んだことを思い出した。
さて、まだここは頂上ではない。まだ317mも上の頂がある。雪原より相当高い所にケーブルが張られて、高所恐怖症の私にはロープウエイは見るからにこわい。ここまで来て、帰るわけにもいかず、Gipfelseilbahn氷河ロープウエイで頂上に向かう。11:30発のゴンドラに乗りこむと、あっという間に人々でいっぱいになる。中にはシェパードの大型犬を連れた人もいた。Zugspitze2962m・ドイツ最高峰には11:35にあっという間に?!到着です。ずっと近づく展望台駅のみを見て、できるだけ下を見ないで乗っていたが---。
電光表示板に外の温度が表示されていたが、ここはマイナス4℃だ。
展望台に出てみると雪も積り、滑りやすい。雪を頂く四方の山々の眺めは絶景である。ここから160km先まで見えるという。
頂上はドイツ・オーストリアの国境になっている。26年前は旅の記念にと、わざわざこの国境を、パスポートを提示して行き来したものだが。国境事務所には人影もなく、今は自由なのでしょう。
面白いことにオーストリア国ではなく、Land Tirolチロル州の看板であり、かたやドイツ連邦ではなく、Freistaat Bayernバイエルン自由州であることだ。
展望台からEibseeアイプ湖を真下にのぞくと、左右に広がった湖の色が神秘的な青さを見せていた。展望台から少しはずれた高台に金色の十字架が雪の中に立っている。ここが実際の2962m頂上だ。夏場にはここまで行けるのだろうが、今はまだ冬!なのだ。
Eibseeseilbahnアイプ湖ロープウエイに乗ってこの展望台から、まっすぐ下のアイプ湖まで、降りることもできる。26年前は帰路にこれを利用した。2962mから973mまでを一気に下りていくのもなかなかのものだが、今回は遠慮?し、12:05 発の氷河ロープウエイを使って氷河駅に戻った。
レストランで昼食を食べ、氷河駅を13:30発で下山する。終点の登山鉄道駅には14:45に到着した。
まだ、日も高いので、冬季オリンピック開催地の町Garmisch-Partenkirchen(海抜708m、人口は28千人)を観光することとした。(15:00~50)
・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2008年04月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 半日
- 景観:
- 5.0
-
投稿日 2025年02月20日
総合評価:4.0
【ドイツの団子(だんご)、”クネーデル”料理を食べましたか?】
1977.06.18.~19.ニュルンベルク近郊の町Schwabachシュヴァーバッハの一地区、Schwanstetten‐Mittelhembaシュヴァンシュテッテン・ミッテルヘムバッハという小さな田舎を訪れたのだった。
この時は前半の16日から17日フランケン地方のバンベルクや、バイロイトを巡り、18日ニュルンベルクなどを巡った。
写真はフランケンの旅:左上から時計回りで、バイロイトの歌劇場前(祝祭劇場前も殆ど人の姿を見なかった)で、バイロイトの新宮殿前で、バンベルクの旧市庁舎をバックに、バイロイトのHofgarten、バイロイトの新宮殿の噴水。
・・・・・
【ドイツ16年ぶりの旅】
2001年5月9日(水) 快晴 264km
午後1時マイセンを出発。次の目的地は古城街道の町々だ。B101・A4来た道を戻る感じで、Nossen・Cheminitzと走る。ここで給油(90DM)。更にA72に入り、Hofを目指して南下する。ホフ近郊でPotsdamポツダムから南下してくるA9に合流し、一気にBayreuthバイロイトの町に入った。16:30着。マイセンから264kmの行程である。
<Bayreuthバイロイト>
(16:30~17:10)
市庁舎近くに駐車して、足早に城、新宮殿を見て回った。
Bayreuthは人口7万人の小都市だが、ドイツ南東部・フランケン地方北部の中心都市になる。18世紀にいたるまでは地方の城下町でしかなかったが、ここの領主Brandenburg- Bayreuthブランデンブルグ・バイロイト辺境伯にプロイセン王フリードリヒ大王の姉・ヴィルヘルミーネが嫁いでくると、この宮廷はヨーロッパの文人・芸術家の集まるサロンとなり、ヨーロッパ文化の中心に変わったと云う。
1876年にワーグナーが設計したRichard-Wagner-Festspielhaus祝典歌劇場は世界でも最高の劇場と言われ、夏の音楽シーズンにここでバイロイト祝祭音楽祭が開かれる。
ワーグナー博物館もあり、ワーグナーファンの聖地と称される町である。
近郊にあるホテルへの道を心配していたが、意外に分かり易く、草原の先にホテルの姿を見出した。
古城ホテルHotel Jagtschloss Thiergartenには17:40に到着した。
<(1泊)Hotel Jagtschloss Thiergarten古城ホテル(狩猟の館) ティーアガルテン>
D-95448 Bayreuth 、Oberthiergartenstr. 36
11号室・皇帝の間 、 325DM 全8室・4星 、
バイロイトの近郊・南5kmの狩猟の森に、18世紀初頭、ブランデンブルグ・バイロイト辺境伯ゲオルグ・ヴィルヘルムにより築城された。彼の死後は様々な変遷をたどり、最後には農家の納屋や倉庫に落ちぶれたそうだ。
大改装の後、1922年からホテル・レストランとして創業される。第二次大戦後は米軍により接収されたりしたが、1982年にはホテルが再開された。ワーグナーファンの聖地と称される、バイロイト祝祭音楽祭が開かれる夏の音楽シーズンには世界からこれを目当てに町を訪れるため、この時期のホテルは世界の名士の迎賓館となるのだという。
私共の部屋・恐れ多くも“Kaiserzimmer皇帝の間”と称する11号室は二階の中ほどにありました。中央にベッドが置かれ、上には真っ白な天蓋があり、寝る時には天蓋のカーテンを下ろし、カーテンに囲まれて就寝することになりました。
初めての体験です。窓辺からはホテルのテラスレストランが見下ろすことができ、前に広がる庭園や大きな菩提樹などの木々を見ることができました。多分、ホテル1番の部屋でしょう。この小さな古城ホテルはレストラン”Petit Chateau小さな城” を含め、価値のあるホテルでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2001年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
-
あきる野市:伊達の萩寺と称する大悲願寺で森田五水の天井絵(天女の絵)を楽しむ。
投稿日 2025年02月17日
総合評価:5.0
70歳になった時、母の遺品を調べる気になった。その中に一葉の写真があった。生前の父母からは全く聞き及んでいなかったので、どういった方か、生来の歴史好きもあって、興味を持ち調べてみたのでした。
写真は父の大叔父にあたる井上宗助(森田家第16代秋之助の次男)という方で、旧制東京府立第八高女(現都立八潮高等学校)や東京府立第五中学校(現都立小石川高校)のいずれも第三代校長を務めた教育者(校歌の作詞家)であった。我が家は父方も母方も辿れば、祖父の代から教育者が多い。
大叔父とそのご先祖森田将監祥昌(甲斐武田家の旧臣)、森田五水(森田家第14代、狩野派画家)を親族の語り部のいる間に調べようと、やってみると際限なく広がって行き、いろいろと興味深いものだった。
70歳で一念発起したわけだが、纏めたものを中里介山(大菩薩峠:だいぼさつとうげの作者)の姪を母に持つ大学時代の友人が長く主宰してきた同人誌(年1回発行)に6年間(№27~32号)投稿させてもらった。
【伊達の萩寺と称する大悲願寺で森田五水の天井絵(天女の絵)を楽しむ】
あきる野市の大悲願寺は伊達政宗の白萩の謂れもあり、通称は「萩寺」とも呼ばれる。山門である仁王門に天井画(森田五水)の天女の絵が見られる。
東京都あきる野市(旧西多摩郡五日市町)にある真言宗豊山派の大悲願寺は、山号は金色山、院号は吉祥院である。本尊は私共の守護仏である大日如来である。
大悲願寺の通称は「萩寺」と云う。
大悲願寺は建久2年(1191年)に源頼朝の命により、京都醍醐寺澄秀僧正を開山として、源平合戦で名を馳せた武将、平山季重(ヒラヤマスエシゲ)が建てたと云われています。
大悲願寺は正平9年(1354年)には鎌倉公坊足利基氏、氏満より寺領二十石を賜り、最盛期は末寺三十二ヶ寺(常福寺は森田家の菩提寺で先祖の森田将監祥昌が建てた寺だが豊山派であり、大悲願寺の末寺になっていたと思われる)を有し、明治維新まで受け継がれた。大悲願寺は真言宗豊山派の有力な地域本寺で、「檀林(だんりん)」と言い、所謂僧侶たちの学校でもあった。
大悲願寺の十五世秀雄は伊達政宗の舎弟と云われ、その縁で当山を訪れた政宗は境内一面に咲く白萩に心を引かれ、後日一株所望した書簡(都文化財)が現存している。現在も九月にはその白萩が境内一面花を咲かせている。
1794年に観音堂を建立。1824年から27年にかけては観音堂内陣に欄間彫刻や向拝を追加。1834年から42年にかけても彫刻や飾り板を観音堂内陣に追加したことがわかっている。
1951年に観音堂を改修し、屋根を茅葺きから本瓦葺きに変更。
1978年に本堂が東京都有形文化財、1995年に観音堂が五日市町の有形文化財指定を受ける。
2005年から2007年にかけて観音堂を半解体修理。屋根を銅板葺きに変更している。
阿弥陀如来像や仁王門天井絵(幕末期に狩野派画家として門弟数百人を擁したという森田五水の作)、伊達政宗からの白萩所望状など、優れた文化財を数多く所蔵しており、特に、木造の伝阿弥陀三尊像は、国の重要文化財に指定されている。
<市指定有形文化財:仁王門 天井絵(てんじょうえ)>
この仁王門は安政六年(1859年)再建されたが、天井絵の作成も同年である。
中央通路の格天井(こうてんじょう)は大日如来の梵字(ぼんじ)を囲んで草木の花が描かれている。一隅に「狩野養信(おさのぶ)門人藤原善信(よしのぶ)」の銘があるが、彼は現五日市小庄の人、郷土の画家である。
また仁王像の天井には右天女、左迦陵頻伽(かりょうびんが)(極樂の鳥)が描かれている。作者は現日の出町平井千石の人*森田五水(ごすい)。彼は幕末期狩野派画家として、多摩地域に盛名があった。
北側袖天井の雲竜図も五水の手になり、見事な筆勢である。
昭和59年11月25日指定
あきる野市教育委員会
*平井の常福寺(森田家の菩提寺)に並んで建つ春日神社(日の出町平井3690)に筆塚(顕彰碑)まで建てられた法眼(ほうげん)森田五水(1791年~1874年)は、幕末期に狩野派画家として門弟数百人を擁したという。
幼名を民次郎、諱を守順といい、僊谷堂五水とも称した。
尚、母の一番下の妹が伊奈村の世襲名主であった石川本家に嫁いでいるが、大悲願寺は石川家累代の菩提寺である。石川本家は大悲願寺の80軒くらいあった檀家の頭で、檀頭と呼ばれた。大悲願寺の檀頭は6人のみで、檀頭の纏め役が石川本家で、非常に名誉ある地位にいたと云う。寺の建築の事などで相談があれば檀頭にし、寺に対する村人からの文句などがある時は檀頭を通して行ったそうだ。
正月には大悲願寺住職は行列を作って檀頭の家へ年賀に行き、一般の村人は路傍に立ってその行列を拝んだと云う。
寺には両墓制といって、遺体の投げ込み墓と檀頭の墓と住職の墓しかなかったと云う。昔の寺は皆そんなもので、要するに寺は創建者のものなのです。
大悲願寺の山際の一番高い場所に檀頭の墓があり、石川本家の墓所は大悲願寺の累代住職の墓石隣りにあった。
昔の寺というものは、豪族が地域支配をする時の拠点であり、同時に自分の一族の墓所も設けている。戦国時代の永禄年間(1558~70年)に森田将監祥昌が開基したといわれる常福寺(森田家の菩提寺)も同様趣旨で創建されたのだろう。
参考引用:
『大悲願寺と五日市の中世』石井道郎(イシイ ミチオ)
1921年生まれ~・九州大学経済学部卒。都立五日市高校教師を経て五日市町立郷土館勤務、郷土史研究家。
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追記(最近、旅猫さんの「八王子千人同心」の旅行記にコメントしたことがあって、これに影響されて、以下を追記し、写真も投稿した):
森田五水作の八王子千人同心組頭三木家十一代愛之助栄攄肖像画と、幕末の新選組近藤勇で有名になった天然理心流だが、その天然理心流師範であった増田蔵六肖像画は平成21年12月6日付けで八王子市の指定文化財(歴史資料)になっている。
<天然理心流師範増田蔵六肖像画>
天明6年(1786年)、八王子千人同心の武州多摩郡戸吹村坂本右衛門信明の子として生まれる。
はじめは専藏と称していた。文化2年(1805年)20歳のときに、天然理心流の二代目近藤三助方昌に入門した。三助の亡き後、初代近藤内蔵之助の高弟小幡万兵衛から三術(剣術、柔術、棒術)の指南免許を受け、多くの門弟を指南した。天然理心流の実質的な継承者である。
その後、同村の三沢家の養子となって三沢藏六と改称した。文政8年(1825年)40歳で八王子千人同心増田磯蔵の養子となり、邸内に道場を設けた。
八王子千人同心窪田組の組頭でもある。
明治4年(1871年)11月19日、86歳の生涯を終えた。
朱塗りの長机を背にして、羽織袴に小刀を差し、脇差を左側に置いて、斜め左向き正座する姿を描いたのである。机上には、筆立てに差した2本の筆と、硯、巻物が置かれ、手前には短冊と筆が置かれている。剣術家として知られる蔵六の文人としての教養も見ることができる。やや老齢の気品にあふれ、落ち着いた表情に、藏六の人柄を見事にとらえた作品といえよう。八王子の剣術に関する歴史資料として貴重である。
落款に「七十四翁/法眼五水寫」とあり、森田五水74歳、すなわち慶応2年(1866年)の作であることがわかる。この年、増田蔵六81歳にあたることから、80歳の慶祝の寿像として製作されたものと考えられる。
尚、肖像画は現在も増田家に残るものだと聞く。
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<八王子千人同心組頭三木家十一代愛之助栄攄肖像画>
千人同心組頭三木家十一代愛之助栄攄肖像画は、森田五水が66歳、安政5年、西暦1858年の時に描いた作品で、すなわち愛之助栄攄44歳の肖像画である。
八王子千人同心組頭三木家十一代愛之助栄攄は文化12年 (1815年) 3月20日、父茂尭の三男として誕生した。天保13年 (1842年)11月、若年寄見分の長柄調練、また弘化3年(1846年) 9月の将軍上覧のための長柄調練に参加し、いずれも手当銀を下賜されている。また、愛之助は医術の心得があり、戸吹の自宅で幕末から明治にかげて医師としても活躍した。
慶応4年(1868年)2月に隠居し、明治35年 (1902年) 4月28日に87歳で没した。
この肖像画は、千人同心組頭を代々務めてきた三木家に伝えられたもので、九代幸光、妻津弥、十代茂尭、妻屋與、十一代栄攄の三代5名のものである。
5名もの肖像画が残されていることは他に例がなく、夫人像が2点も含まれていることは珍しい。幕末期の千人同心組頭クラスの生活の様子を知る上で
貴重な歴史資料である。
(八王子市文化財年報第4号 2011.01.19.八王子市教育委員会)
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- 2010年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
-
ゴスラーのドーム フォアハレ(大聖堂入口の間の意味)は皇帝居城を守る門番の如く在る。
投稿日 2025年02月14日
総合評価:4.0
Goslarゴスラーはハルツ山地の西端にあり、4万6千人の世界遺産の町です。
私はこの町の中世の雰囲気が好きで、1976年の5月1日~2日(1泊)、1983年4月4日(ベルリンからの帰途、立ち寄り)の二回、Düsseldorfから凡そ片道350kmのゴスラーに遊びに来ました。
その後2005年4月30日の魔女の祭にも訪れている。
市庁舎横のHohe Wegホーエ通りをまず皇帝の居城Kaiserpfalzカイザーファルツに向かうと、Domvorhalleドーム フォアハレ(11世紀にハインリヒ三世によって建てられた大聖堂は1820年に老朽化のため取り壊され、北扉口の張出部分だけが残され保存されている。「大聖堂入口の間」という意味の建物)という小さなお堂が立っている。
いまはドーム フォアハレは皇帝居城を守る門番の如く在る。
皇帝居城は11世紀にハインリヒ三世によって建てられました。
しかし、現在の建物は1868年から1879年にかけて復元されたものです。
カイザーファルツの前には、ドイツ人に最も人気の高い、Friedrich I Barbarossaフリードリヒ一世像・バルバロッサ赤髭王【12世紀】、Wilhelm der Grosseドイツ皇帝ヴィルヘルム一世【1871年帝国の成立】の二つの騎馬像が立って、ゴスラーの町を見下ろしている。
ゴスラーの町の名前の基になったGoseゴーセ川の流れでLohmühle水車が廻り、川沿いの石畳の道や木組みの家々の家並み、それらが木々の緑と一体となって、1000年の古都ゴスラーの魅力となっている。
ハルツにも、ようやく春が到来です。
・・・・・- 旅行時期
- 1983年04月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
-
中世以来の歴史あるフリッツラーはカッセルから25km南、木組み建築の家並みが美しい町である。
投稿日 2025年02月13日
総合評価:5.0
【中世以来の歴史あるFritzlarフリッツラーはカッセルから25km南、木組み建築の家並みが美しい町である。】
2013年10月15日(火);218km 、曇り時々シャワー、10~12.5℃と寒い。
フリッツラーは中世の神聖ローマ帝国(919年の帝国会議でハインリヒ1世がドイツ王に選出された)の起点となった聖堂と皇帝の町(人口14千人)である。
元々は「平和の町」を意味する Friedeslarフリーデスラー に由来すると云う。
旧市街は全長 2.5 km、高さ 7.5 m から 10 m、厚さ平均 3 m の市壁で囲まれていて、各所に塔が立っている。その中心にマルクト広場があり、中世の街作りの形が今でも良く分かるのだ。
唯、18世紀以降その 2/3 が取り壊された。現存するのはフラウエン塔、グラウアー塔、グレーベン塔、ローゼン塔、ヨルダン塔、レーギル塔、アム・バート塔、ブライヒェン塔、カンツェル塔、ヴィンター塔の10塔である。
ローランドの泉とマルクト広場:
マルクト広場は特に木組みの家並みが美しい。中でも中央にこの町一番と云われる木組み建築の家、切妻塔付きの“Alte Kaufhausアルテ・カウフハウス”が見事である。1480年に建てられたMichelミヒャエル兄弟会のギルドハウスである。
大聖堂に向かう道にHochzeitshaus結婚式の家(郷土博物館)、1415年建築の町最古の家で傾いた“Spitzenhaeuschenとがった家”(観光局)などが見られる。
また、聖ボニファティウスはドイツでのキリスト教の伝道にあたり、723年、Donareicheドナーアイヒェ(ゲルマン族の神木である樫の木)を切り倒し、キリスト教の神の優越性を示したと云う。
最初の礼拝堂に始まり、現在のSt. Peter Dom聖ペーター教会(1085年頃から1118年)、ロマネスク・ゴシック様式の教区教会である大聖堂建設はこの町の歴史に極めて重要な役割を演じた。聖堂広場に彼の樫の木を切り倒す像が象徴的に立っている。
・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0



























































































































































































