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jijidarumaさんのクチコミ(2ページ)全587件

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  • アウグスト強王(兼ポーランド王)に49年もコ‐ゼル伯爵夫人が幽囚された古城(要塞)

    投稿日 2017年04月24日

    シュトルペン城 ドレスデン

    総合評価:4.5

    ≪かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る≫
    期間:2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間の旅

    5月23日(月);快晴、26℃、59km
    起床7:00、朝食8:30~9:10、Dresden・Schloss Eckberg 9:45スタート ->B6 24km Stolpenシュトルペン 10:15着 ;城内観光~11:45

    この日は元々、ドレスデンからピルナというザクセンのスイスの入口に行く行程を考えていたのだが、その前に少し寄り道したのだ。ドレスデンから真東に行くと、シュトルペンという町があり、ここにBurg Stolpenシュトルペン城という中世の雰囲気に満ちた古城が立っている。
    ドイツ観光局で以前にもらっていた、ザクセン地方の古城群を案内した8ページのパンフレットでこの城の事を知り、49年も幽囚されたコ‐ゼル伯爵夫人にからむ三つの宮殿・城(Schloss Nossen ・Schloss Pillnitz・Burg Stolpen)を是非、訪ねたいと思った。
    とりわけ、その生涯の大部分を過ごしたBurg Stolpenシュトルペン城は興味深く、すでに二つの宮殿・城を見て、ここが最後の訪問地になる。

    <Burg Stolpenシュトルペン城>
    入場券Euro10、 10:15~11:45
    D-01833 Stolpen 、Schlossstrasse 10
    http://www.burg-stolpen.de/
    Lausitzer Berglandラウジッツ山地の西の端に、シュトルペン城(要塞)があり、およそ17kmでチェコの国境に至る。・・が、国境を越えるには徒歩で行く道しかないと云う。
    ドレスデンから20km東に位置する。
    シュトルペンの町の高台に登り、駐車場(Euro1.5)の一角に車を停め、更に坂道を上った。その先に黒々とした城門が出てきた。
    説明ではKasematteカゼマッテというらしい。かつては要塞の砲郭だった。
    城門を過ぎて、40mの長方形の建物Kornhausコルンハウス(かつての穀倉・1527年)があり、城内博物館の切符売り場がある。嬉しい事に日本人が来る事があるのか?ここにも日本語の簡単な説明文があった。
    ここまでが日本流でいえば、二の丸にあたる。
    昔はここに主たる衛兵所が置かれ、馬屋、牢獄・拷問室などがあった。左手にはその拷問室を再現し、様々な責め道具を展示していた。牢獄の壁は青黒い玄武岩の肌をそのまま見せて、陰鬱な感じだ。

    ここを出ると、本丸にあたる城郭になる。目の前に、右手にドーム型の屋根をした塔、左に二つの塔がくっついて立っている。右が面白い名のSchoesserturm税金の塔、左がJohannisturmヨハネの塔(1509年)、後にCoselturmコーゼルの塔と呼ばれた。
    税金の塔は目立った展示は無かったが、この名前は中世に使用されたSchoss税金・租税という言葉から来たと云う。かつては税徴収官や書記官等がここで働いていた。1階が異端者(異教徒)の穴(間)、2階が修道士の穴と妙な名がつき、3階が管理事務所だそうだ。
    左が一番興味のあるヨハネの塔(コーゼルの塔)で元来、聖ヨハネはマイセン辺境伯・司教の守護神だったことから、この名が付けられたと云う。
    1階がヨハネの牢獄と言い、深く口をあけて人を飲み込むような穴があった。
    2階のゴシックの間はシュトルペンの司教時代。

    3~5階が囚人コーゼル伯爵夫人の生涯を展示していた。寝台、トイレ、宮廷大臣 Hoymホイム伯とコーゼル伯爵夫人の肖像画、見事な筆跡のフランス語で書かれた伯爵夫人の手紙(フランス語が如何にドイツの王侯貴族という上流社会で当たり前のように使用されていたかを知る事が出来る)、立派な暖炉、日常に使用した品々、台所、とりわけ見事なマイセン磁器は“伯爵夫人の脱走”と称した作品であった。

    1716年、コーゼル伯爵夫人がシュトルペン城に追放、幽囚される。
    1765年、49年間、幽囚されていたコーゼル伯爵夫人が85歳の高齢で亡くなった。

    6階は塔の見張りでシュトルペン要塞の展示がある。
    外に出てからもう一度塔を見上げたら、二つの塔に見えるが、一つは階段の為の塔であり、もう一つの丸い方が展示のある本塔であった。

    次は右手に立つSeigerturm時計塔と言う。天辺に小さな時計があるらしいが良く見えない。16世紀の頃は鐘を打ち鳴らして、時を知らせた。今は機械仕掛けだが。
    カフェテリアがあり、84.39mもの深い井戸、礼拝堂とコ‐ゼル伯爵夫人の墓碑、突き当りにBurggeistお城の幽霊と称する穴倉がある。幽霊を呼びだして!と書いてある。

    その84.39mの井戸だが、玄武岩上に造った城なので、大変水に困ったと云う。最初は桶を担いで水を運んだ。労力の割に獲る水は少なく、この為、16世紀の頃は水車を利用し水を汲み上げ、720mの水路を作り、ポンプで城内に水を上げる装置を作った。
    この装置は1813年、ナポレオン軍により破壊されてしまったので今は無い。
    戦略上、城外にある装置は敵に破壊されてしまうので、1607/8~1632年の24年の長い間をかけて岩盤を掘り進んだと云う。一日1~1.5cm、年に3~4mと掘り、気が遠くなるような時間をかけて、世界でも稀な84.39mもの深い井戸を作り上げたそうだ。

    最後の塔は15世紀後半のものでSiebenspitzenturm7つの尖塔塔といい、円錐屋根の角に6つの小さな塔が付き、真中に尖塔があったことに名前の由縁がある。
    1632年の町の大火で、円錐屋根は焼失した。塔内には司教の執務室が長い間あった。
    地上階には大きな竈が設けられていたが、1559年、選帝侯妃アンナが香草に詳しく、ここに彼女の台所を備えた。それを“香草の竈”を称していた。天辺は展望台になっている。登らなくても、ここからの周辺の眺望は実に美しい。菜の花の黄色が緑の中を彩り、赤茶色の屋根の家並みも、教会も絵になる風景だ。

    古城にはつきものの暗い地下牢、丸天井の穴蔵、深く口をあけて人を飲み込むような穴、この城には全てがあった。又、そこかしこに玄武岩の岩肌を見る事が出来た。

    コーゼル伯爵夫人が何故、49年も幽囚されたのかは、また別の機会に。

    XXXXX

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.5

  • アイゼナハに生まれた、バロック時代を代表するバッハは大事にされている。

    投稿日 2024年02月24日

    バッハの家 アイゼナッハ

    総合評価:4.0

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:②ドイツ文化の源流と云われるアイゼナハをじっくり観光し、翌日宗教都市である州都エアフルトを訪れた≫

    <2001年5月5日(土) 曇り後雨、肌寒し 59km>

    Friedewaldフリーデヴァルト 8:55出発。=>A4・B7 33km Eisenachアイゼナハ:市内観光 ;Wartburgヴァルトブルク城、ニコライの塔、マルクト広場、バッハハウス、ルターハウス、ゲオルゲ教会 =>Hotel Garni Burgfriedホテル ガルニ ブルクフリード 17:30着。

    テューリンゲンの森の北西部にあたる、緑濃い山間によくぞ建てたものといった印象のWartburgヴァルトブルク城(世界遺産・1999年登録)がある。
    山上の細長い城郭を見物後、市内観光に出た。

    バッハハウスはヴァルトブルク城を下り、マルクト広場に向う左手にあった。
    マルクト広場を中心に市庁舎、教会、ルターの家、ニコライの塔などがあって、ドイツの旧市街は分かりやすい。

    新緑の菩提樹の下にバッハの立派な銅像が立っていた。スミレの花壇に囲まれ、この町に生まれた、バロック時代を代表するバッハは大事にされている。

    バッハハウスはその直ぐ横に建っている。壁を黄色に塗ったバッハ記念館である。当時の生活様式を再現した部屋、バッハゆかり?の古楽器が置かれ、観光客へのサービスでオルガンや小さなパイプオルガンを演奏してくれた。

    (入館料はDM10(x@57円=570円)

    バッハの足跡はアイゼナハ、ライプツィヒ、ワイマール、エアフルト、ハレ、ツェレ、リューベック、リューネベルク、ヴァイセンフェルス、ポツダム、ケーテン、アルンシュタットなど数多い。

    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    4.0

  • マールブルグ:聖女エリザベートの生きた証しがエリザベート教会となった。

    投稿日 2024年02月22日

    エリーザベト教会 マールブルク

    総合評価:5.0

    2001年5月、ドイツの観光街道であるゲーテ街道の中心、ドイツ文化の源流と云われるEisenachアイゼナハを訪れた。
    この町にはWartburgヴァルトブルク城(世界遺産・1999年登録)が山上にたっていて、かつてのヴァルトブルク城の城主テューリンゲン方伯の妃であった「聖女エリザベートの一代記」などの展示を見る事が出来た。
    この事があって、口コミとした。


    <2001年5月5日(土) 曇り後雨、肌寒し 59km>

    【Wartburgヴァルトブルク城(世界遺産・1999年登録)を訪ねた】 
    http://www.wartburg-eisenach.de
    テューリンゲンの森の北西部にあたる、緑濃い山間によくぞ建てたものといった印象の城である。
    山上の細長い城郭はその中世以来の姿を良く残していて、聖女エリザベートや吟遊詩人たちの歌合戦の話、ルターが隠れ住んだという城内見学が楽しみである。

    Elisabeth-Kemenate聖女エリザベートの間は必見である。
    天井や壁がモザイク(ガラス製1902-6)で彩られ、見事な美しさを今に残している。部屋の壁面をぐるりと飾るモザイクは、聖女の一生を描いていると云う。

    この階には「Elisabeth-Galerie聖女エリザベートの回廊(ギャラリー)」がある。
    6つの大きなフラスコ画が回廊(ギャラリー)を埋めていて、その一代記を表現している。

    ①4歳の時にヴァルトブルク城に到着した場面、
    ②バラの奇跡、
    ③十字軍遠征に参加する夫との別れ、
    ④夫の戦死後、城を追われるエリザベート、
    ⑤Marburgマールブルクで死の床に伏す、
    ⑥死後4年で聖女に列せられたエリザベートを顕彰し、聖体を担ぐセレモニー・列聖式のシーン。
    (1236年以後Marburgマールブルクに壮大な聖エリザベート教会が建設される)

    【聖エリザベートのバラの奇蹟】
    ドイツではじめて福祉事業を行ったとされる、聖女エリザベート信仰には、次のような伝説がある。

    『ライ病患者をいたわったエリザベートが患者を自分の婚姻の寝床に寝かせたが、戻ってきた夫ルートヴィヒ四世がこれを邪推して探したところ、寝床には磔にされたキリスト像を見出した。』と云う。

    また、『13世紀初頭、テューリンゲン州のヴァルトブルク地方は大飢饉が襲い、村人は大変な食糧不足に陥りました。村人のそんな状況を心配したエリザベートは城で作ったパンや肉をこっそり、村人達に分け与えました。夫のルートヴィヒ四世がこれをたしなめましたが、彼女はパンを与えるのをやめません。
    ある時、パンを入れた籠を持った小間使いと一緒に出かけようとして、ルートヴィヒ四世に見つかり、籠の中身を確かめられました。籠の覆いを取ると、そこにはたくさんのバラの花が入っていたのです。』と。

    このバラの奇蹟の伝説をモチーフにした聖女エリザベート一代記が、アイゼナハのヴァルトブルク城、マールブルグの聖エリザベート教会、リューベックの聖霊養老院など、各地で見ることができます。

    ・・・・・

    <2005年5月3日(火) 晴れ 14℃  191km>

    2005年4月21日(木)~5月5日(木)15日間 ;
    1982年から数えて 23年ぶりの北ドイツです。

    【ドイツ中部にあるマールブルグの聖エリザベート教会を訪ねた】

    聖女エリザベートはハンガリーの王女に生まれ、4歳の時にヴァルトブルク城の城主、テューリンゲン方伯のヘルマンの息子だった、当時11歳のルートヴィヒ四世の婚約者として、城にやって来て、14歳で結婚しました。
    夫が1227年に十字軍遠征で戦死した為、3人の子供と共に城を追放されてしまいます(1228年)。この為、マールブルグにやってきた、聖女エリザベートはそこで信心深い一生をおくり、貧者救済の為に献身しました。
    余りに献身が過ぎた為、24歳で亡くなります。死後、エリザベート信仰が起こり、その墓地への巡礼が始まり、ドイツ各地からの巡礼が行われるようになりました。

    4年後の1235年、彼女は“聖女”の称号を受け、マールブルグに聖エリザベート教会の建設が始まります。

    2005.5.03.Marburgマールブルグの麓、右手にあるElisabethkirche聖エリザベート教会を最初に訪ねた。(Euro4)

    この教会は24歳で亡くなった聖女エリザベートの墓の敷地に1235年から50年をかけて建立された。二つの見事な鐘楼をもつ、初期純粋ゴシック様式の教会で、十字架の形を基本として建てられている。正面入口に“天国への入口“と呼ばれる浮き彫りがあり、聖母マリアとキリストを描いている。
    内部に入ると左隅にドイツ最後の将軍ヒンデンブルグ元帥の墓所があり、正面に”バルラッハの十字架のキリスト像“(1918年)、左手に聖女エリザベートの立像(1470年頃)が、茶色のドレス、ブルーのマント、王冠の下は白いスカーフで覆われた、大変優美な服装で立っている。素晴らしく美しい。
    内陣には聖女エリザベートの黄金の聖遺骨箱(1240年頃) 、これも見事な細工である。13、4世紀頃のステンドグラスには聖女エリザベートの善行と生涯が描かれていて、文字通り、聖女エリザベート信仰のあふれた教会であった。

    特にじっくり見たのは聖女エリザベートの墓所(霊廊)で、上部にキリストがエリザベートに王冠を授ける光景、下部にはエリザベートの死の状景、棺の周囲に聖人たち、乞食、いざり、精神病者などがエリザベートの冥福を祈る図が彫られたもので、大変印象深い。

    ・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2005年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    5.0

  • リューベック:聖女エリザベートの一代記の絵が飾られた聖霊養老院

    投稿日 2017年04月04日

    聖霊養老院 リューベック

    総合評価:4.0

    2001年5月、ドイツの観光街道であるゲーテ街道の中心、ドイツ文化の源流と云われるEisenachアイゼナハを訪れた。
    この町にはWartburgヴァルトブルク城(世界遺産・1999年登録)が山上にたっていて、かつてのヴァルトブルク城の城主テューリンゲン方伯の妃であった「聖女エリザベートの一代記」などの展示を見る事が出来た。
    この事があって、写真などを添えて、改めて口コミとした。


    <ドイツ北部のリューベックにある聖霊養老院>
    2005年4月23日 (土)

    北ドイツ周遊で訪れたリューベックに、5本の塔と切妻が美しいHeiligen-Geist-Hospital聖霊養老院があり、偶然、内部に聖女エリザベートの一代記の絵が飾られているのを見た。
    マールブルグの聖エリザベート教会は1285年頃に完成されているが、聖エリザベート信仰が北ドイツにも及んでいたという事だろう。

    聖霊養老院はハンザ商人が資金を出し合い、1280年に建設された福祉施設で、救貧院兼病院であった。現在も老人ホームに使用されている。狭いが立派な個室が並ぶ施設だった。
    ハンザ都市リューベックの経済力の背景も有ったのであろうが、この時代に福祉施設を持っていたとは、恐れ入った話だ。


    XXX

    旅行時期
    2005年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • 古城ホテル ヴァルトブルグ城:レストラン ”Landgrafenstube”方伯の間での夕食

    投稿日 2014年09月02日

    ロマンティック ホテル アウフ デア ヴァルトブルク アイゼナッハ

    総合評価:4.0

    ドイツ16年ぶりの再訪
            ( 2001年5月3日?5月14日 :12日間 )
    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る旅*

    使用レンタカー:Volvo S80 2400CC  Diesel  Automatic

    ≪ゲーテ街道Goethestrasse≫
    明日からゲーテ街道を走る。
    “ドイツ人の心の故郷”と旅行会社の宣伝文句にある、この街道はFrankfurtフランクフルトから東に走り、Hanauハーナウ、宗教都市Fuldaフルダを通り、EisenachアイゼナッハやErfurtエアフルトといった“ドイツの緑の心臓”と呼ばれる、深い森が続く森林地帯Thueringenテューリンゲン地方を過ぎ、かつてのワイマール公国の古都Weimarワイマールに至る。更に東に足を伸ばすとJenaイエナ、その近郊にあるDornburgドルンブルク古城群、そして最終地Leipzigライプチッヒまで400kmの街道である。

    詩人であり、作家として高名であったJohann Wolfgang Von Goetheヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749?1832年)はワイマール公国の外交・財政を管掌する大臣であり、自然科学者、画家でもある、多才な人間であった。文豪ゲーテはフランクフルトの裕福な家庭に育ち、18世紀の西欧における市民階級の興隆期にその才能を開花させた。自ら旅人と称し、彼が訪れた町々はドイツのみならず、フランスのシュトラースブルグStrasbourg、イタリアのナポリ・シチリア・ローマなどに及ぶが、特にこのゲーテ街道はゲーテの足跡が見られる町々が続く。これから私共が訪れる町々はそのゲーテ抜きには語ることができない。
    そしてルター、バッハ、メンデルスゾーン、リスト、シラーといった宗教改革者、音楽家、文人たちも同様にこの街道を行き来し、町々にその足跡を印した。

    5・05(土) 曇り後雨、肌寒し 59km
    Friedewald・Schlosshotel Prinz von Hessen古城ホテル・ヘッセンの王子を8:55出発。?>A4・B7 33km Eisenach :市内観光 ;Wartburg城、ニコライの塔、マルクト広場、バッハハウス、ルターハウス、ゲオルゲ教会 ?>Hotel Garni Burgfriedブルクフリード 17:30着。

    A4・B7をほんの少し(33km)行くと、Eisenachアイゼナッハの町(人口4万5千人)に至る。
    このドイツ文化の源流とも言われる町の観光はまずWartburgヴァルトブルグ城である。
    山上の城までボルボは軽快に上がる。狭い山道は山間をぐるぐる回るような感じで上がって行く。

    ヴァルトブルグ城見学は色々あるが、ここでは2点だけ紹介したい。
    <Elisabeth-Kemenate聖女エリザベートの間>
    は天井や壁がモザイク(ガラス製1902?6)で彩られ、見事な美しさを今に残している。部屋の壁面をぐるりと飾るモザイクは聖女の一生を描いていると云う。2階への階段を上がると、そこには城の礼拝堂があった。13世紀の壁画(キリストの6人の使者像)がかろうじて残っている。
    <Elisabeth-Galerie聖女エリザベートの回廊>
    が2階にある。6つの大きなフラスコ画が回廊を埋めていて、聖女の一代記を表現している。
    ? 4歳の時にヴァルトブルグ城に到着した場面。
    ? バラの奇跡。
    ? 十字軍遠征に参加する夫との別れ。
    ? 夫の戦死後、城を追われるエリザベート母子はマールブルクへ。
    ? Marburgマールブルクで死の床に伏す。
    ? 死後4年で聖女に列せられたエリザベートを顕彰し、聖体を担ぐセレモニー・列聖式のシーン。(1236年以後Marburgに壮大な聖エリザベート教会が建設される。)

    XXX

    ホテルには夕食用のレストランが無いので、タクシーで又古城ホテルのホテル ヴァルトブルグ城に向かう。ホテルへの狭い、急坂は慣れていないと難しそうだ。夕食時に飲むこともあって、タクシーを利用したが正解であった。
    ホテルのレストランは、昼のヴァルトブルグ城見学時に予約してあったので私共の席は窓際に設けてあった。窓の外には“ドイツの緑の心臓”と呼ばれる、深い森が広がっている。

    夕食:Hotel auf der Wartburg のRestaurant ”Landgrafenstube”方伯の間
    (方伯:宮廷伯爵に対し、地方に封土された地方伯爵の意)

    広いレストラン内にはお客も少なめで、この為、大変サービスが良い。
    今夜の料理は郷土料理を注文する。その名もThueringer Menueテューリンゲン・メニュー(58X2DM);
    テューリンゲン風スープ・ジャガイモのクリームスープに血ソーセージの小さな団子入り。メインはジャガイモ、ベーコン、カブラが添えられた豚肉料理。
    デザートにはクアークの渦巻状の菓子にチョコレートのシャーベットが出てきました。
    食前酒はドライ・シェリー(14DM)、ワインはライン川右岸に広がるドイツワインの代表的生産地・Rheingauラインガウの白辛口、Johannisberg Klaus 、Prinz von Hessenヨハニスベルク クラウス、ヘッセンの王子醸造所 、1999年、エレガントでフルーティーなリースリングの白でした。(49DM)

    ・・・食後、ホテルの内を拝見する。暖かな火が燃えた暖炉があり、生き生きした花々が飾られた空間はなかなかすばらしいものでした。
    このホテルは35室と少ないが5星のホテルである。日本人ツアーの宿泊客も来るそうだが、次回はここに宿泊するのも良さそうだ。
    さて、本日の夕食代はしめて、185 DMでした。 19:30?21:50 

    XXX

    旅行時期
    2001年05月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    12,500円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.5
    ロケーション:
    4.0

  • アイゼナハ・ヴァルトブルグ城にはドイツの歴史が詰まっている。

    投稿日 2017年03月24日

    ヴァルトブルク城 アイゼナッハ

    総合評価:4.5

    ドイツ16年ぶりの再訪
    ( 2001年5月3日-5月14日 :12日間 )
    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る旅*
    使用レンタカー:Volvo S80 2400CC  Diesel  Automatic

    5・05(土) 曇り後雨、肌寒し 59km
    Eisenachアイゼナッハの町(人口4万5千人)に至る。このドイツ文化の源流とも言われる町の観光はまずWartburgヴァルトブルグ城である。山上の城までボルボは軽快に上がる。狭い山道は山間をぐるぐる回るような感じで上がって行く。城の真下に設けられた駐車場に導かれて停める.

    ヴァルトブルグ城内に入ると1階にRittersaal騎士の間がある。十字に木組みされた丸天井、石造りの部屋は12世紀以来の中世の雰囲気で、質素な空間だ。
    次はSpeisesaal食事の間が続き、領主と領主婦人が日常使用したもの。漆黒の樫の木の太い梁が目立つ天井、中央には古びた暖炉がある。石造りの回廊を通り、次の間に。そこは元来、騎士の間と対に作られたものという。

    Elisabeth-Kemenate聖女エリザベートの間は天井や壁がモザイク(ガラス製1902-6)で彩られ、見事な美しさを今に残している。部屋の壁面をぐるりと飾るモザイクは聖女の一生を描いていると云う。(尚、聖女エリザベートの奇跡の伝説が残る)2階への階段を上がると、そこには城の礼拝堂があった。13世紀の壁画(キリストの6人の使者像)がかろうじて残っている。
    この階にはElisabeth-Galerie聖女エリザベートの回廊がある。6つの大きなフラスコ画が回廊を埋めていて、その一代記を表現している。
    ①4歳の時にヴァルトブルグ城に到着した場面
    ②バラの奇跡③十字軍遠征に参加する夫との別れ
    ④夫の戦死後、城を追われるエリザベート
    ⑤Marburgで死の床に伏す
    ⑥死後4年で聖女に列せられたエリザベートを顕彰し、聖体を担ぐセレモニー・列聖式のシーン。(1236年以後Marburgに壮大な聖エリザベート教会が建設される。)

    リヒャルト・ワーグナーの歌劇 “タンホイザー” の舞台としてこの城は有名である。その昔、有名な詩人、歌人などがヨーロッパ各地より参集し、文化の中心ともなったという。吟遊詩人(Minnesaengerミンネジンガー:12世紀の頃、最盛となった。主に宮廷をめぐり、中世の騎士的恋愛が主題の詩を吟じた。宮廷恋愛歌人とも訳す)達が美しい歌声で、テューリンゲン伯の前で、死を賭して歌合戦を繰り広げた大広間はSaengersaalジンガーザール・歌手の間と呼ばれている。(1206年)壁面には“タンホイザー”の歌合戦のシーンがフレスコ画で描かれている。

    次はLandgrafenzimmer方伯の間で、領主が政務を行った場所。その権力を誇示するライオン(方伯の紋章になった)などの強い動物が壁に描かれている。また、方伯の伝説から、築城の伝説など7つの欄間壁画が見られる。3階への階段を上ると大きな広間に出た。

    Festsaal祝典の間がそれである。長方形の大広間にはシャンデリアがさがり、木彫りの装飾も美しく飾られ、正面には鷲の紋章が威厳を示している。大広間は近年、コンサート等に利用しているようで、何百の椅子が整然と並んでいた。
    ここには二つの話がある。

    一つは“メルヘン王” ルードヴィッヒ二世バイエルン王がここを真似た広間を新白鳥城に作ったと云う。
    二つには1817年10月18日、ドイツ学生同盟(1815年)の学生たち凡そ500名が参集し、ヴァルトブルグ集会を催したこと。
    テーマは1813年ライプチッヒの戦いに勝利したことの祝いであり、ルター宗教改革300年を記念したもの。この集会で宣言されたのはドイツ連邦成立への民族統一、民主主義の基本権の確立であり、当時のドイツ地域での市民階級(中間層)が始めて大衆行動を起こしたという歴史的なものだった。
    その際に使用された学生同盟旗は後年、ドイツの国旗の“黒・赤・黄”の三色旗の基となったそうだ。
    (*ライプチッヒの戦い:諸国民戦争とも言い、1813年10月プロイセン、オーストリア、ロシアの同盟軍がこの地で、ナポレオン軍に大勝し、ナポレオンの退位の契機になった。)

    ここでガイドは終了し、階段を下りて、ゲーテが提唱して作られた博物館に。
    聖物、デューラーの書棚、クラナハの作品などの展示あり。博物館横のお土産ショップ。その後、梁がむき出しになった、狭く、頭がぶつかりそうな通路をルターの小部屋に向かう。真に古城の趣むきたっぷりな木造の渡り廊下である。

    Lutherstubeルターの小部屋は質素な、木張りの部屋であった。帝国追放例を受けていたルターがザクセン侯の守護の下で、この部屋で誰にも分かるように易しい言葉で、ギリシャ語の新約聖書をドイツ語に翻訳した。(1521~22年の凡そ10ヶ月の短い間に翻訳した。;旧約聖書はこの後、Coburgコーブルク城でドイツ語訳を完成。)ルターは聖書を万人のものとした。‐‐‐歴史的なことを成し遂げたわけだ。
    ゲーテもワイマールの大臣となって、アイゼナッハには20回近く訪れたという。城の補修・保存を命じたというが、これもルターの弟子を自任していたゲーテだからだと・・・。

    XXX

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    展示内容:
    4.0

  • フランクフルトからゲーテ街道を東に走ると、かつての水城傍に5星の古城ホテル ヘッセンの王子があった。

    投稿日 2024年02月19日

    Göbels Schlosshotel "Prinz von Hessen" その他の都市

    総合評価:4.5

    【ドイツ16年ぶりの再訪】
    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    ヘッセン州地方はドイツの中部にあたるが、この地方には12、3世紀の中世を具現する古城が多い。なかでも名高いのは小高い丘の上にそびえるSchloss Spangenbergシュパンゲンベルク城である。町の象徴的建造物は1235年に建設されたその旧武器貯蔵庫には現在、狩と城の博物館が入っている。しかも、嬉しいことに4星・全29室、2017年に全面的に改装された古城ホテルでもある。

    <2001年5月4日(金) 晴れ、 306km>

    この日、お茶に立ち寄った古城ホテル シュパンゲンベルク城から南下する。=>B487・83・27、Bad Hersfeldバート・ヘルスフェルトでアウトバーンのA4にのる。12kmでFriedewald フリーデヴァルトのインターである。B62を1km走ると村内(人口2470人)に入る。
    すぐに村の中心で、そこには今夜の宿・古城ホテル・Schlosshotel ”Prinz von Hessenヘッセンの王子”があった。ここまで67kmと近い。
    古城ホテルPrinz von Hessenヘッセンの王子のレセプションに入ると、思っていた以上にモダンな雰囲気の古城ホテルであった。

    ヘッセン州には私が纏めた古城ホテルリストに18ホテルがある。その内、14の古城ホテルに足跡を残したが、その一つに<古城ホテル ヘッセンの王子>がある。

    (1泊)Schlosshotel  "Prinz von Hessen "古城ホテル ヘッセンの王子
    (尚、現在はGoebels Schlosshotel Prinz von Hessen古城ホテル ゲーベルズ・ヘッセンの王子と称している) 
    D-36289 Friedewald 、Schlossplatz 1

    5星・ 全 90室 。230号室=DM355(2万円)
    通された部屋(No.230・35㎡と広い)も新装間もないような明るい、きれいな部屋である。それだけに、値段もこの旅一番の高さだ。

    古城ホテル ヘッセンの王子はWasserburg水城の一辺に対し、コの字型に建った建物の中心に、1997年初めに建設された。ホテル・レストランがあり、左右の翼となる建物は左手が博物館で、右手は会議場などの施設に利用されているようだ。左手の建物裏には広い駐車場、乗馬用の厩舎などが見られる。コの字型の中庭には1605年にできた噴水がいまだに残っている。
    水城は四隅に円筒形の櫓・砦(Dicken-Turm太っちょの塔がホテル棟に面し、左手にGefaengnis-Turm牢獄塔、他の二つの塔はNO-Turmと言う、なんと訳すのか分からないが、塔ではないとでも言うのか?!半壊した姿のままだ)をもち、やや長方形の形をした水城は周囲を掘割に囲まれている。その周辺一帯を草原が更に囲んで、2万㎡の敷地はなんとも広大である。

    この城の歴史もまた古い。フリーデヴァルトはちょうど二つの古街道が十字に結ぶ場所であって、①はFrankfurtフランクフルトとLeipzigライプツィヒを結んだヘッセン州を通過する街道である。②は北海への窓口、Bremenブレーメンと北部バイエルンの中心地であるNuernbergニュルンベルクを結ぶ交易路である。

    1983年、城跡の発掘の際、焼けた層から陶器の破片が出た。その鑑定によると11~12世紀の頃のものだと推測された。この地は10世紀には十数km離れた、Hersfeldヘルスフェルトの僧院の所有地となり、1306年にはヘッセン大公により、帝国封土とされた。1392年にヘッセン大公の狩猟館となった。1476年、水城に改築される。
    17世紀の三十年戦争の頃になると所有者が変遷する。
    18世紀の7年戦争(プロイセン・英連合 対 オーストリア・仏の連合軍間の戦い)では仏軍の攻撃を受けて、水城は破壊されてしまう。
    その後は廃城のまま、中世の古城の姿を留めているだけである。
    夕食はRestaurant ”Prinzenstube”(プリンスの間)にて、春の旬シュパーゲル料理を久しぶりに食べて満足した。翌朝の朝食はパビリオン風の建物にあるレストランSchlossgartenシュロスガルテンで頂く。大好きなドイツの新鮮、かつ豊富な朝食に感激しながら・・・。朝が早いのか?私どもだけのレストランは贅沢なものだ。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    10,000円 未満
    サービス:
    4.5
    バスルーム:
    4.5
    ロケーション:
    3.0
    客室:
    4.5

  • フルダの司教領主の居城シュタットシュロス(18世紀バロック様式)は長大な城で、現在は市政庁だ。

    投稿日 2024年02月18日

    フルダ城 フルダ

    総合評価:4.0

    【ドイツ16年ぶりの再訪:①ゲーテ街道をフルダ、シュパンゲンベルク城、古城ホテル ヘッセンの王子に走る】
    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    この旅で『ドイツ感傷旅行の第一回』がスタートする事となった。


    <2001年5月4日(金) 晴れ、 306km>
    8:30Sheraton Frankfurt Airportをチェックアウト。ハーツレンタカーにて手続き後(Volvo S80 2400CC Diesel)、フランクフルト 9:10スタート =>誤ってOffenbachオッフェンバッハに入り込む。以後 => A66・B40 102km Fuldaフルダ・人口6万2千人、市内観光:宗教都市の旧市街、大聖堂、聖ミカエル教会、バロックの城、城公園・オランジェリー、旧市庁舎。


    【フルダ市内観光】
    ヘッセン州の古都、Fuldaフルダはバロック建築が多く見られる宗教都市(司教領主の支配地)である。
    “陸の水”と古代ドイツ語の意味を持つ*フルダ川が街に沿って北に流れ、Weserヴェーザー川に注ぎ込む。そのフルダ川のほとりに、744年聖ボニファティウス(英人・ドイツのキリスト教化に努めた事から「ドイツ人の使徒」と呼ばれる。754年オランダで反キリスト教徒により殺害された)がベネディクト派の修道院を建てたことから、この町は発展したという。

    Domの後方にある聖ミカエル教会(Michaelsbergミカエルベルク)を見て、カスターニアン(マロニエ)の見事な並木道を歩いて、司教領主の居城Stadtschlossシュタットシュロス(18世紀バロック様式の城)に至る。
    現在は市政庁がある。

    長大な城の北側にはSchlossgartenシュロス公園があり、噴水の先にはオランジェリーが見えて、公園の花々が麗わしの5月を彩り、ドイツの春真っ盛りの景色を楽しむことができた。

    城門の前にはこの町を象徴している、聖ボニファティウスの十字架を掲げた銅像が建つ。
    旧市街には旧市庁舎をはじめ、様々な木組み建築の建物が見られ、楽しい街だ。

    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • 文豪ゲーテ・シラーの町ワイマールの旧市街には立派な市庁舎がある。

    投稿日 2024年02月12日

    市庁舎 (ワイマール) ワイマール

    総合評価:4.0

    【ドイツ16年ぶりの再訪:文豪ゲーテ・シラーの町ワイマールの旧市街には立派な市庁舎がある】

    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    この旅で私共の『ドイツ感傷旅行の第一回』がスタートする事となった。

    <2001年5月6日(日) 雨 101km>

    12:35、Erfurtエアフルトから一路Weimarワイマールを目指して、B7の道を33km走る。

    ワイマール(世界遺産・1998年登録)に13:00の到着だ。
    早速、人口6万人の小都市の市内観光をスタートする。
    (13:00~17:00)

    かつてのワイマール公国の古都Weimarワイマールには文豪ゲーテ・シラーの足跡が残る。

    ワイマール公国の首都では、ドイツ・クラシック文化が花開き、文化の発信地として、世界に冠たるものがある。さらには1919年、ドイツ最初の共和国が設立され、“ワイマール憲法”という民主的な憲法が制定されたことでも、世界史上に特筆されている。 

    古都にはゲーテ、シラー、リスト、バッハ、クラナハ、ニーチェ、ヘルダー、フィヒテなどのドイツの文人・芸術家が住み、活躍した事跡がそこかしこに残っている。
    ゲーテが時の領主カール・アウグスト公に招かれて、この地に来たのは1775年であり、26歳の青年期から、82歳で亡くなるまで、文人・政治家として、その生涯の大半をここで過ごしたわけだ。

    市内観光は旧市街の中心・マルクト広場傍の今夜のHotel Elephantホテル エレファント横にある駐車場に停めて、徒歩で回ることにした。 
    市庁舎、クラナハハウス、Stadtschlossシュタットシュロス城(クラナハなどの美術館)と外観のみを見て、イルム公園の奥まった所に白い壁の小さな、木組みの二階建てであるゲーテ山荘、シュヴァイツアー博士記念碑、シラーハウス、国民劇場と文豪ゲーテ・シラー像、ゲーテハウスなどを順に見て回った。

    <お茶:Ratskellerラーツケラーで>
    Weimar Markt 10  
    15:00~15:30  DM17(約1,000円、現金払い)

    雨にたたられた市内観光は疲れるもので、ツイ、休憩したくなる。
    それで、市庁舎内のレストランでお茶をした。
    杏のケーキ、林檎のトルテ、二人とも紅茶を頼む。

    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • ワイマールのイルム公園にあるゲーテ山荘は恋のお相手との逢瀬を楽しんだ所だとか。

    投稿日 2024年02月09日

    ゲーテのガーデンハウス ワイマール

    総合評価:5.0

    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    この旅で『ドイツ感傷旅行の第一回』がスタートする事となった。

    <2001年5月6日(日) 雨 101km>
    かつてのワイマール公国の古都Weimarワイマールに至る。
    この町は文豪ゲーテ・シラーの足跡が残る。

    ワイマールの町はワイマール公国の首都であり、ドイツ・クラシック文化が花開き、文化の発信地として、世界に冠たるものがある。
    ここにはゲーテ、シラー、リスト、バッハ、クラナハ、ニーチェ、ヘルダー、フィヒテなどの文人・芸術家が住み、活躍した事跡がそこかしこに残っている。従い、見所も多い。
    ゲーテが時の領主カール・アウグスト公に招かれて、この地に来たのは1775年であり、26歳の青年期から、82歳で亡くなるまで、文人・政治家として、その生涯の大半をここで過ごしたわけだ。

    川幅10mほどの小さなIlmイルム川が公園の中を流れている。
    緑濃いイルム公園内を散策する。(因みにワイマールのワイは清い;マルは水を意味するそうである)

    イルム公園の奥まった所に白い壁の小さな、木組みの二階建てであるGoethes Gartenhausゲーテ山荘がある。ワイマール公から贈られたもので、ゲーテの恋のお相手との逢瀬を楽しんだ所だとか。
    中は博物館にしてあり、思っていた以上にほんとに小さな、質素な部屋ばかりだった。(入場料DM10)

    イルム川は全長128.7kmとやや長い。
    こちらはIlmenauイルメナウ、Weimarワイマールの町を流れる。


    写真は
    ①ワイマール:左上から時計回りにStadtschlossシュタットシュロス城(ワーマール公の居城。現在はクラナハなどの美術館がある)、イルム公園内・ゲーテ山荘、Ilmイルム川の清流
    ②写真参考:地球の歩きからWeimarワイマール Map
    ③写真参考:ゲーテ街道を行く(表紙):ワイマール・・・右上にゲーテ山荘

    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    3.0

  • ワイマールの国民劇場前には文豪ゲーテとシラーの立派な銅像が仲良く立っている。

    投稿日 2024年02月07日

    国民劇場 ワイマール

    総合評価:4.0

    【ドイツ16年ぶりの再訪:文豪ゲーテ・シラーの町、ワイマール一番のホテル エレファント(象)に泊まる】
    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    この旅で『ドイツ感傷旅行の第一回』がスタートする事となった。

    <2001年5月6日(日) 雨 101km>
    かつてのワイマール公国の古都Weimarワイマールに至る。
    この町は文豪ゲーテ・シラーの足跡が残る。

    ワイマールの町はワイマール公国の首都であり、ドイツ・クラシック文化が花開き、文化の発信地として、世界に冠たるものがある。
    さらには1919年、ドイツ最初の共和国が設立され、“ワイマール憲法”という民主的な憲法が制定されたことでも、世界史上に特筆されている。 

    ここにはゲーテ、シラー、リスト、バッハ、クラナハ、ニーチェ、ヘルダー、フィヒテなどの文人・芸術家が住み、活躍した事跡がそこかしこに残っている。従い、見所も多い。
    ゲーテが時の領主カール・アウグスト公に招かれて、この地に来たのは1775年であり、26歳の青年期から、82歳で亡くなるまで、文人・政治家として、その生涯の大半をここで過ごしたわけだ。

    Nationaltheater国民劇場は“ウイリアム・テル”、“ファウスト”、“ローエングリン”の初演が行われ、楽長としてリスト、リヒャルト・シュトラウスが活躍した劇場であり、記念すべき“ワイマール憲法”が1919年に採択された場所である。

    その国民劇場前には文豪ゲーテとシラーの立派な銅像が仲良く立っている。
    ドイツ古典主義文化が隆盛を誇り、文化の発信地として、世界に冠たるものがあった事跡がこの町にはある。
    劇場前の通りには薄紫のライラックの花が満開である。

    写真は
    ①ワイマール:左上から時計回りにゲーテ街道図、国民劇場と文豪ゲーテ・シラー像、この旅のレンタカーVolvo S80 2400CC Diesel Automatic、ライラックの花が咲く季節
    ②ワイマール:左上から時計回りにホテル エレファント正面、レストラン アンナ・アマーリアでの夕食、ライラックの花、国立劇場と文豪ゲーテとシラーの銅像、ホテル エレファントのレストラン アンナ・アマーリア前で撮って頂いた。
    ③ワイマール:右上から時計回りにシュヴァイツアー博士記念碑、シラーハウス、国民劇場と文豪ゲーテ・シラー像、ゲーテハウス

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • 文豪ゲーテ・シラーの町ワイマール、1542創業、町一番の5星ホテル エレファント(象)は格式も高い。

    投稿日 2024年02月05日

    ホテル エレファント ワイマール オートグラフ コレクション ワイマール

    総合評価:5.0

    【ドイツ16年ぶりの再訪:文豪ゲーテ・シラーの町、ワイマール一番のホテル エレファント(象)に泊まる】

    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    明日からゲーテ街道を走る。“ドイツ人の心の故郷”と旅行会社の宣伝文句にある、この街道はFrankfurtフランクフルトから東に走り、Hanauハーナウ、宗教都市Fuldaフルダを通り、EisenachアイゼナハやErfurtエアフルトといった“ドイツの緑の心臓”と呼ばれる、深い森が続く森林地帯Thueringenテューリンゲン地方を過ぎ、かつてのワイマール公国の古都Weimarワイマールに至る。
    更に東に足を伸ばすとJenaイエナ、その近郊にあるDornburgドルンブルクの古城群、そして最終地Leipzigライプチッヒまで400kmの街道である。

    <2001年5月6日(日) 雨 101km>
    この旅で『ドイツ感傷旅行の第一回』がスタートする事となった。

    (1泊)Hotel Elephantホテル エレファント(象)
    D-99423 Weimar 、Markt 19
    TEL:49(0)3643-8020 
    5星・全99室。201号室=DM295(16,815円) (Park代は別途徴収 DM22(1,245円) 

    町の中心であるマルクト広場に面して建つ4階建てのホテルは1542創業の町一番のホテルだと云う。Elephantエレファント(象)はその当時、その巨大な姿が珍しく、敬意の対象になっていたようで、こうした名がつけられたとか。

    由緒あるホテルの歴史に彩りを与える顧客には、名だたる作家、音楽家たち、即ちゲーテ、シラー、バッハ、リスト、メンデルスゾーン、ワーグナー、トルストイ、トーマス・マンなどの名が残る。
    1993年にホテルを大改装し、2000年にはStarwoodグループ入りした。
    2024年現在は「ホテル エレファント ワイマール オートグラフ コレクション」という。

    部屋の値段も高いだけに、さすがにアールデコ調のシックで落ち着いた、立派な部屋でした。

    【夕食:ホテル エレファントのレストラン ・Anna Amaliaアンナ・アマーリア】
    19:00~21:00 
    この旅一番のお値段となった夕食代はDM263.59 (15,000円)

    ”Anna Amalia”アンナ・アマーリアの名はゲーテの時代にワイマールの啓蒙的公妃であったアンナ・アマーリアに因んだものである。
    シェフはイタリア人・Marcello Fabbriが勤める。

    オーダーした飲物は食前酒にFino del Puerto Sherryシェリー酒を、ワインはザクセンの辛口の白Schloss Proschwitz・Kabinett(DM95・5400円)、食後にコーヒーを頼みました。

    スープはシュパーゲル(白アスパラ)のスープ。

    メインに私はFilet von Dorade(鯛)”Royal”、
    家内はKalbsfilet(子牛のフィレ肉)を。
    これにアスパラのリソットを一皿、別につけたのですが、イタリア人シェフだけに気に入った味でした。

    料理・ワインは美味しく、十分に私は堪能したのですが、家内が体調不良で、折角の夕食も半分も食べられずに終わってしまったのは残念なものでした。

    ・・・・・


    写真は
    ①ワイマールの市内観光:右上から時計回りにマルクト広場、市庁舎、Wittumspalais
    ヴィトゥムス宮殿、ホテル エレファントの駐車場入口とホテル正面
    ②左上から時計回りにゲーテ街道図、国民劇場と文豪ゲーテ・シラー像、この旅のレンタカーVolvo S80 2400CC Diesel Automatic、ライラックの花が咲く季節
    ③ワイマール:左上から時計回りにホテル エレファント正面、レストラン アンナ・アマーリアでの夕食、ライラックの花、国立劇場と文豪ゲーテとシラーの銅像、ホテル エレファントのレストラン アンナ・アマーリア前で撮って頂いた。


    旅行時期
    2001年05月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    10,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    5.0
    バスルーム:
    5.0
    ロケーション:
    5.0
    客室:
    5.0

  • ランツフート:1906年開業のロマンチックホテル フュルステンホフにはミシュラン1星のグルメレストランがある。

    投稿日 2024年01月14日

    Romantik Hotel & Restaurant Furstenhof その他の都市

    総合評価:5.0

    <ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊>                   
    :アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:
    期間:2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間の旅
    目的地:今春の旅はドイツ南部、バイエルン州のOberbayern高地バイエルンと呼ばれるアルプス地方とOstbayern東バイエルン地方を巡る旅である。
    Freistaat Bayernバイエルン州は面積(7千万㎢)がドイツ最大、人口(12百万人・カトリック教徒が凡そ67%、新教徒が24%と数えられている)も二番手となる有力州であり、それぞれが個性的な四つの地方からなる。
    州都ミュンヘンを中心とするOberbayern高地バイエルン地方、
    レーゲンスブルクを中心としたOstbayern東バイエルン地方、
    ニュルンベルクを中心としたフランケン地方、
    アウクスブルクが中心都市となるアルゴイ・バイエリッシャー-シュヴァーベン地方である。

    2008年4月29日 (火)

    二度にわたるドイツ駐在生活にも拘らず、この古都Landshutランツフートの町を訪れるのは始めてである。

    第一日目の4月17日(木)、Landshutランツフートの町で泊まったのは古城ホテルSchloss Schoenbrunn シュロス-シェーンブルン”美しき泉の城“である。この旅の最終日も、同じ町にある別の古城ホテルRomantik Hotel Fuerstenhof ロマンチックホテル フュルステンホフに泊まった。
    旅の最後の夕食をグルメレストランで食事を楽しむ事にしたのだ。
    この春の旅で3店目のグルメレストランだ。


    この町は1839年以来、ニーダーバイエルン地方政府の政庁所在地であり、800年の歴史ある町でもある。中世の面影は今も色濃く残り、ドイツでも有数の美しい町と云われてきた。又、神聖ローマ帝国・伯爵LudwigIX.,ルートヴィヒ9世とザクセン選帝侯フリードリヒ2世の娘*Amalia von Sachsenアマリアの息子Georgゲオルク公爵が1475年に美しい花嫁ヤドヴィガ・ヤギェロンカ ポーランド王女と「夢のような結婚式」を催した事で広く知られている。

    ランツフートのロマンチックホテル フュルステンホフにはいつもより遅い、18:20に到着となった。
    レセプションにいた陽気なオーナー夫人Simoneシモーネさんに夕食時間を30分ずらしてもらう。

    <(1泊) ⑬泊目、Romantik Hotel Fuerstenhofロマンチックホテル フュルステンホフ>    
    D-84034 Landshut 、Stethaimerstr.3
    Romantik Hotel全24室・3S星 、203号室(3階)=Euro 110(@165.13=18,200円) 。
    TEL:49(0)871-92550  http://www.fuerstenhof.la

    ミュンヘン空港まで30分・42kmとホテルのパンフレットにあったが、バイエルン王国の首都であったミュンヘンには70kmの距離だから、空港は手前にあり、ホテルからは近くて便利だ。
    バイエルンで最も美しいゴシックの町ランツフートにあるロマンチックホテル(1906年開業)にはミシュラン1星のレストラン”Fuerstenzimmerフュルステンツィマー(領主の間)”(Jugendstil ユーゲントシュティール様式が見られる)があり、旅の最後の日に相応しいホテルである。
    レストランは日曜と、月曜日の昼が休みなので、火曜日に宿泊・食事ができるように行程をわざわざ調整した。それに応えるだけのホテルです。
    若く、才能あるオーナーシェフ夫妻がこのホテルにかける意気込みと美意識が隅々まで感じられたホテルだった。

    【Jugendstilユーゲントシュティールとは;青年派様式若しくは青春様式とも訳している。1897~1910におけるドイツの芸術思潮である。その19世紀末の芸術は一種退廃的とも云われる芸術で、曖昧且つ曲線的表現を駆使している。
    フランス語で言うアール・ヌーヴォーもそれに近い。
    Passauガラス博物館でもその作品群を見ることができたが、ウイーンで名高いクリムトの絵画がその代表であり、建築でも独特の色彩とデザインを持った建物がウイーンの町に見られる】

    宿泊した203号室は3階の右手奥まった部屋で、ユーゲントシュティールと思われる装いが見える。
    室内の設備、家具なども室料金に比して、大変立派だ。

    ・・・・・

    【1475年「メルヘンのような婚礼」で知られた古都ランツフートにミシュラン1星レストラン「領主の間」がある。】

    Romantik Hotel Fuerstenhofロマンチックホテル フュルステンホフのRestaurant「Fuerstenzimmerフュルステンツィマー(領主の間)」
    領主の間はJugendstilユーゲントシュティールの部屋で、ホテル自慢のレストランである。
    ;ミシュラン1星・Gault Millau 13点 、(全独217位)
    ;65席、従業員14名(日曜日休み)、
    ;コースEuro46~80。ワイン190銘柄。
    ;オーナーシェフAndre'Greuアンドレ・グレウ(グレイ) ・・現代風ドイツ料理

    ユーゲントシュティール様式のレストランだけに独特な色合いと飾りだ。
    椅子の布地の柄、電燈の笠、暖炉、硝子戸のガラスの絵に様式美を感じる。

    もう一つのレストラン“Herzogstueberlヘルツォークシュテーベル(公爵の小間)を見てみたが、こちらはバイエルン風の伝統的なレストランだった。殆どのドイツ人(バイエルン人)のお客さんはむしろ、こちらの方が好みらしい。

    【Romantik Hotel:Romantik 2007年版のHotel&Restaurant案内書】
    2004年の南ドイツ、オーストリア周遊で泊まったBad AiblingのRomantik Hotel Lindner や食事に訪れたSt.Wolfgangの白馬亭が、そして2005年の旅でも利用したハルツのQuedlinburgのRomantik Hotel Theophanoもこれに掲載されている。2007年には黒い森のHotel Sackmannでミシュラン1星の料理を堪能しました。
    私は泊まったホテルで出来るだけ、情報を入手するようにしているが、この案内書はヨーロッパを中心にしたもので、歴史ある、大変雰囲気の良いホテルばかりが載っている。料理も美味しく、シテイホテルとは違った魅力が一杯である。
    私のホテルの選択は、①古城ホテル、②ロマンチック掲載のホテル、③インターネットで見つける・・・という順序にしている。
    尚、①は町から離れているケースが多く、レンタカーが必須です。
    参考にHPを書いておきます。:http://www.romantikhotels.com
          
    ・・・・・

    旅行時期
    2008年04月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    10,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    5.0
    ロケーション:
    4.0
    客室:
    5.0

  • ランツフート:トラウスニッツ城はドイツでもたいへん美しく、力強い、見事な姿をもった城である。

    投稿日 2024年01月13日

    トラウスニッツ城 バイエルン州

    総合評価:4.5

    <ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊>                   
    :アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:
    期間:2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間の旅
    目的地:今春の旅はドイツ南部、バイエルン州のOberbayern高地バイエルンと呼ばれるアルプス地方とOstbayern東バイエルン地方を巡る旅である。
    Freistaat Bayernバイエルン州は面積(7千万㎢)がドイツ最大、人口(12百万人・カトリック教徒が凡そ67%、新教徒が24%と数えられている)も二番手となる有力州であり、それぞれが個性的な四つの地方からなる。
    州都ミュンヘンを中心とするOberbayern高地バイエルン地方、
    レーゲンスブルクを中心としたOstbayern東バイエルン地方、
    ニュルンベルクを中心としたフランケン地方、
    アウクスブルクが中心都市となるアルゴイ・バイエリッシャー-シュヴァーベン地方である。

    <4.18(金) 快晴 16℃、 137km>

    8:30城の周辺を散策し、シェーンブルン城、9:10スタート。Landshutランツフート(人口62千人)市内観光 =>6km 9:30~11:00 Trausnitzラウスニッツ城の見学。

    *二度にわたるドイツ駐在生活にも拘らず、この古都Landshutランツフートの町を訪れるのは始めてである。
    徐々に朝日も強くなり、今日は嬉しいことに、快晴になりそうだ。古城ホテル シェーンブルン城を9:10スタートした。メルセデスA-150はさすがに小さく感じる。
    今日の観光はランツフート である。高台のTrausnitzラウスニッツ城を初めに見学した。

    この町は1839年以来、ニーダーバイエルン地方政府の政庁所在地であり、800年の歴史ある町でもある。中世の面影は今も色濃く残り、ドイツでも有数の美しい町と云われてきた。又、神聖ローマ帝国・伯爵LudwigIX.,ルートヴィヒ9世とザクセン選帝侯フリードリヒ2世の娘*Amalia von Sachsenアマリアの息子Georgゲオルク公爵が1475年に美しい花嫁ヤドヴィガ・ヤギェロンカ ポーランド王女と「夢のような結婚式」を催した事で広く知られている。

    【Burg Trausnitzトラウスニッツ城の見学】
    Landshutランツフート(人口62千人)市内観光は先ず町を見下ろす高台に立つTrausnitzトラウスニッツ城の見学である(9:30~11:00)。
    シェーンブルン城のレセプションで教えて頂いた道に沿って6kmほど登る。
    城の後背地に小さな無料駐車場が設けられていた。
    今年の芽吹きは遅いなと思いながら、森の中を数分歩くと、城門があり、この門を入り、外構えの長い城壁に沿って歩くと、所謂、一の丸の城門に至る。

    その先には見事なトラウスニッツ城が青空の中に浮かんで見えた。
    橋を渡って本丸内に入る。
    ドイツでもたいへん立派な、力強い、見事な姿をもった城である。

    トラウスニッツ城は1204年Kelheimケルハイム侯Ludwigルートヴィヒにより築城された。更にWilhelmヴィルヘルムⅤ世が1600年代に現在の力強い城郭を完成させた。残念なことに1961年の大火災により、殆どを消失している。消失後、直ちに再建に着手し、1975年に現在の形に復元された。
    城下町から見上げた古城の姿もまたたいへん美しい。

    <“Kunst und Wunderkammer芸術と自然の驚異の部屋”という展示室を見学>
    ガイド案内は10時からだ。20分もあったので併設されている“Kunst und Wunderkammer芸術と自然の驚異の部屋”という展示室を見学する。
    小学生のグループが先生に引率されて、説明を聞きながら様々な展示を熱心に見ている。こちらはガイド付ではないので、気楽に一巡できた。ここはWittelsbachヴィッテルスバッハ家のAlbrecht世公爵が16世紀の頃蒐集した作品だという。象牙、金銀や宝石のちりばめた宝石箱、家具、絵画、彫刻、仏像、貝、動物の剥製などなど、世界各地の多様な、一種脈絡の無い蒐集品であったように思えたが----。 (9:40~10:00)

    <城内見学>
    男性のガイドさんに導かれて、中庭の正面建物中央の一階入口から城内に入る。本日は“私共二人だけ”のガイドツアー(Euro10)で恐縮である。大火災の被害を受けただけに中身は少なく、ガイドさん曰く、“火災後、様々なアンチーク家具類を新たに収集し、展示している。”とのことだ。順路に沿って行くと、

    ①Duerniz騎士の広間:Ludwigルートヴィヒ侯のストーブ、15世紀の壁画の名残が入口の上に見られる。
    ②Italian Annexイタリアの間:天井の16世紀のフレスコ画は1965年に発見されたそうだ。ヴィルヘルム世とその妻Renataレナタ(仏・アルザス‐ロートリンゲンの出)の其々の肖像画。
    ③道化師の階段:16世紀にイタリアの芸術家によって古い喜劇が描かれたフレスコ画。火災から消失を免れたが、ススで汚れていた。
    ④Georgskapelleゲオルクの礼拝堂:13世紀にその大部分が建設され、後に二階建てになった。領主は二階で、他の人々は一階で祈りをささげたと云う。
    ⑤旧デュルニッツ従者の間:神聖ローマ帝国の7人の選帝侯の絵が掛けられている。
    ⑥二階の回廊から中庭を見下ろす。アーケードの階段下に泉が見え、右手の黄色い塔はWittelsbacher Turmヴィッテルスバッハの塔がある。塔は円筒形で最後の防御の砦だと云う。
    ⑦各部屋:緑のタイル張りのストーブ、音楽家や宮廷の道化師を描いた絵。
    ⑧イタリアの間:1578年製素焼きの天井は花や果物模様が描かれている。
    ⑨黒タイルのストーブ:17世紀のもので、ライオンの足と称する脚が付いたもの。
    ⑩地と水の壁画:本来は水、地、火、風の四要素を描いた壁画であったが、大火災の後、残った二要素のみを移したもの。
    ⑪領主の小部屋:二階には公爵の祈りの間が設けられていた。聖歌隊の席とも云う。
    ⑫三階の展示室:城の改築時に発見されたものが展示されている。
    ⑬タペストリーの間:17世紀のフランダースの職人により製作された壁掛けの絨毯には11匹の怪獣(聖ゲオルクが退治した)と12世紀のバイエルンで勢力を伸張したヴィッテルスバッハ家のオットー・フォン・ヴィッテルスバッハ公爵の生涯が表されているそうだ。皇帝・赤ひげ王がオットーに公爵を授ける図とか様々な壁掛けがかかっている。
    ⑭テラス:夏の間はここで宴が催された。テラスからの旧・新市街の眺望は素晴らしい。山上の城の裾野からIsar川までびっしりと赤い屋根の建物が続き、左手にはSt.Martinskirche聖マルティン教会が高々とした尖塔を見せている。
    ⑮控えの間:テラスに続く部屋にはJadwigaヤドヴィガ・ポーランド王女の美しい肖像画が見られる。市民が熱狂して迎えた意味が良く分かる。  (10:00~11:00)

    親切にも日本語の説明書をコピーして頂いたガイドさんにはチップEuro3を手渡して、お別れです。
    城門脇にあった120mの深い井戸を見下ろしてから、駐車場に急いだ。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2008年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    3.5

  • バイエルンのブルクハウゼン城は対岸のオーストリア側から見ると、長大で難攻不落の堅城なのが分かる

    投稿日 2024年01月12日

    ブルクハウゼン城 その他の都市

    総合評価:4.5

    【ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊】   
    :アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:

    期間 :2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間の旅
    目的地: 今春の旅はドイツ南部、バイエルン州のOberbayern高地バイエルンと呼ばれるアルプス地方とOstbayern東バイエルン地方を巡る旅である。

    バイエルン州は見所も多く、魅力的な町々が散在するので、今回の旅は“古来のバイエルン王国”を周遊した。
    中でも、“ザルザッハ川(長さ250km)”流域にあるBurghausenブルクハウゼンの1km程の長い城は難攻不落の堅城として知られ、一度は見てみたい城だ。

    4.27(日) 大快晴 23℃、 217km

    【1km程の長い城は難攻不落の堅城・南ドイツのBurghausenブルクハウゼン城を訪ねる】

    まず見るべきはBurgブルク(城)である。
    ヨーロッパで最も長い城で距離は1030m(観光案内では1000m、或いは1043mとあるが、中を取った)、防衛上、実に恵まれた川と湖に城の周辺が囲まれている。
    中世の城はザルザッハ川とWoehrseeヴォール湖(川の流れが変わって、取り残された湖と思われる)に挟まれた、せまい小高い丘の背に建っている。
    丘の城を望むザルザッハ川畔に沿って発展した旧市街も整然と中世の面影を残す美しい街である。

    このブルクハウゼンにも子供達がまだ小学生の頃に、訪れた記憶がある。
    夏の盛りで、子供達が冷たいジュースを飲みたいと駄々をこねられたことがあった。
    その日のように上天気で、長い城郭の右端っこにあった城の駐車場から城内に向かって歩くと汗が出てきた。

    ブルク(城)は右手の駐車場がある外郭を6Hofホフと称し、順次、左に向かって1HofのHauptburgハウプトブルク(本丸)まで、合計6区画はそれぞれが独立した区域になっている。
    昔は跳ね橋であった木橋や深い空堀が其々を遮断し、独立した城郭が出丸、一の丸、二の丸といったように、配置されている。城壁はがっちりとしたものであり、傾斜のある自然の山塊は難攻不落の要害となっている。
    実際、この城は一度として、敵に侵攻されたことがないと云う。

    この城の歴史は1180年バイエルン公・Wittelsbachヴィッテルスバッハ家の居城として築城された事に始まる。
    Landshutランズフートに居城を持つNiederbayernニーダーバイエルン公の第二の宮殿として、1255年から1503年の間に現在の大きさにまで拡張された。 
    1475年、Georgゲオルク公爵(*「夢のようなランズフート結婚式」で知られる)は命を発し、国内随一の強固な城を完成させた。
    16世紀にはオスマントルコの襲来に備え、更に城壁が強固(堅城鉄壁)にされた。それは4000人が10年をかけてようやく完成したと云う。
    現在もなお、この城は中世の建築・城郭の最も大きな記念碑であり、支配者・バイエルン公の強大な権力と意志を示した存在となっている。


    <6Hofホフ>には中央にUhrturm時計台があり、その昔は醸造所で、今は”Burg Cafeブルクカフェ“となっている軽食用のレストラン、ホフのKastenamt管理事務所などがある。
    <5Hof>は市民用のBurgkapelleブルク礼拝堂、Spinnhausl織物小屋
    <4Hof>には目の前にHexenturm魔女の塔と称する牢獄が立ちはだかるように立っている。中には左手にHaberkastenハーバーカステン(ハーバーの学校?にはテアターアカデミーが附属)の建物がある。
    <3Hof>には右手に大きなKornkasten穀倉の建物とZeughaus兵器庫があった。
    また、ここにはヴォール湖を下に見る景観の場所がある。
    今は自然の市民プールが出来ていて、暑いころは市民で賑わう。
    本丸から左手奥の湖畔にそって、城壁が向い側の外廓まで伸びているのが見て取れた。

    ブルクハウゼン城は次の写真が分かりやすいが、ザルザッハ川とWoehrseeヴォール湖(川の流れが変わって、取り残された湖と思われる)に挟まれた、せまい小高い丘の背に、中世の城は建っている。

    <2Hof>にゲオルク公爵の建てたGeorgstorゲオルクの城門があり、右手にPfistereiパン屋・醸造所などがある。左手に行くとStephansturmシュテファンの塔などがある。

    <1Hof>そして自然の山塊の一番奥に1HofのHauptburgハウプトブルク(本丸)の城郭が出て来る。本丸の城郭に橋が架かり、空堀も深い。橋の向こうに「1HofのHauptburgハウプトブルク(本丸)」が立つ。
    左に高くBergfried天守閣、Palasパラス(宮殿)、Schlosskapelle城内礼拝堂(聖女エリザベート礼拝堂)が並び、右にStadtmuseum郷土博物館がある。

    城郭から外のWoehrseeヴォール湖に向かって手を伸ばすように城壁があり、途中にWoehrtorヴォールの門、Pulverturm火薬庫(塔)が立っている。

    尚、4と3、3と2、2と1の間には防衛上の橋が架かり、深い空堀が見られた。

    ・・・・・

    丘の城から眼下に望む、ザルザッハ川畔に沿って発展した旧市街も整然と中世の面影を残す美しい街である。
    今日のザルザッハ川はちょっと濁っていた。上流で降った雨が影響しているのだろう。眼下の旧市街は赤屋根が周辺の緑に映えて大変美しい。
    歴史あるこの街はゴシックから様々な様式の建物が軒を連ね、とりわけStadtplatzシュタットプラッツ(町の広場)周辺はパステルカラーのInn-Salzachイン・ザルザッハ様式の典型的な家並みである。

    Alte Brueckeアルテ・ブリュッケが独墺両国の岸に掛かる。これから「ホフ6」傍の駐車場に戻って、城郭を降りた。アルテ・ブリュッケを向こう岸に渡ると、高台に展望台があると云うのでそこに行ってみる。オーストリア側の展望台から、欧州一の長いブルクハウゼン城を見てみたいのだ。

    旧市街を車で抜け、ザルザッハ川に架かるアルテ・ブリュッケを渡り、オーストリア側に入った。昔は川の両側に国境守備隊がそれぞれガードしていたが、今は遮るものは何もない。
    狭い急坂を上がると、「Aussichtkanzelアウスジヒトカンツェル展望台」がある。
    ここから見るブルクハウゼンの城や旧市街の眺望は絶景だ。
    この城の長さは実際に歩いた事と、隣の国の展望台からの眺めで良く分かった。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2008年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    4.0

  • Tammタム:由緒あるホテル・オクゼン(雄牛)は文字通り、歴史ある木組み建築だった。

    投稿日 2024年01月11日

    ヒストリックホテル オクスン シュツットガルト

    総合評価:4.0

    “ドイツ 南西部・黒い森とボーデン湖・シュヴァーベン地方の旅”           
    :黒い森・バーデンワイン街道・高-上ライン川とボーデン湖・
    シュヴェービッシュ-アルプ地方・オーデンの森:
    期間 2007年4月19日(木)~5月3日(木)15日間の旅
    目的地:今回の旅の目的地はBaden-Wuerttembergバーデン・ヴュルテンベルク州と呼ばれている、ドイツの南西部の地域が中心の旅になります。

    <三つの世界遺産巡り>
    4.20(金) 快晴 15~20℃、午前中は涼しい風 207km

    フランクフルトから南下すると、Bergstrasse山岳街道がある。街道沿いにあるBensheimベンスハイムの町を7:10にスタートし、三つの世界遺産巡り:Lorschロルシュ・世界遺産Kloster Alten Muenster帝国僧院跡、Speyerシュパイヤー・世界遺産Dom Speyer大聖堂、世界遺産Kloster Maulbronnマウルブロン僧院を訪れてから、
    Mark-Groeningenマルクグレーニンゲン・町役場、木組み建築の家並み 17:11~17:25 =>L? 7km Tammタム ・Hotel Historischer Gasthof Ochsenオクゼン(雄牛)に 17:40着。

    今夜の宿は明日Ludwigsburgルートヴィヒスブルクの陶磁器(ルートヴィヒスブルグ磁器を中心にマイセンなど、高級陶磁器が展示されている)を見るために、できるだけその近くに宿を取った。そして、ついでにミシュランの星付きレストランを探してみた。幸い直ぐ近くの隣町に見つけた。

    L?を7km走ると、Tammタム に至る。

    <Tammタム>
    Hotel Historischer Gasthof Ochsenホテル 由緒あるホテル・オクゼン(雄牛)  は小さな町のメイン道路の真中辺に、歴史を感じる旧町役場の前にあった。
    17:40に到着した。

    Tammタム はバーデン・ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト行政管区のルートヴィヒスブルク郡に属す町で、人口12,700人と地域では大きい町だ。

    旧市街の中心部に歴史的建造物群がある。
    町役場、1450年頃に建設された後期ゴシック様式のバルトロメウス教会、パン焼き小屋、1泊の宿泊を決めた由緒ある(歴史的な)ホテル「オクゼン」などである。

    (1泊) Hotel Historischer Gasthof Ochsen
    ホテル 由緒あるホテル・オクゼン(雄牛) 
    D-71732 Tamm 、Hauptstrasse 40-42
    Euro 77 (週末料金:@169=13,000円) ;3星、全17室、1号室(地上階)
    Tel:49(0)7141-2999555 

    タムの町役場前に立つ建物は14世紀に創業された、歴史ある木組み建築のホテル・オクゼンである。珍しく、部屋は地上階の奥まった所にあり、レセプションから一度2階にあがって、通路をぐるりと回って、階段を下がった所でした。
    部屋の中は広く、贅沢なほど木が使われた部屋で、木組み建築の家であることを誇るだけのことはある。
    ホテルの周辺を見て回ったが、あたりまえだが裏手の様子も木組みの家だ。


    4.21(土) 快晴 25℃ 、 161km

    田舎の町のホテルだけに、朝食時は私共意外に泊り客を見なかった。
    昨日見た駐車場の車は泊り客のものではなかったのか、それとも早い出発だったのかもしれない。まだ観光客が訪れる季節には早いのだが。

    *朝食後、8:50 Tammタム―>L?9km Ludwigsburgルートヴィヒスブルグ・Residenzschloss宮殿の磁器工房ショップ・Bluehendes Barockバロック庭園 9:15~10:25 

    ・・・・・

    旅行時期
    2007年04月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    7,500円 未満
    コストパフォーマンス:
    5.0
    サービス:
    4.0
    バスルーム:
    4.0
    ロケーション:
    4.5
    客室:
    4.0

  • 山の駅にはバスやロープウエイ(ゴンドラ)の発着所、レストラン、お土産所などがある。

    投稿日 2023年11月18日

    志賀高原 山の駅 湯田中渋温泉郷・志賀高原

    総合評価:4.0

    2023年8月22日は志賀高原の旅の最終日。

    この日は昼まで娘と孫娘が志賀高原ゴールデンライン(ゴンドラ)に乗るというので、高所恐怖症の私は辞退して、その間、老夫婦で蓮池傍の山の駅や大蛇神社、志賀高原総合会館98の様々な施設を見学して待つことにしました。


    今は流行りの道の駅、海の駅、そしてここには山の駅がある。
    「志賀高原山の駅】には広い駐車場があり、地域の中心であるのがわかる。
    山の駅にはバスやロープウエイ(ゴンドラ)の発着所、レストラン、お土産所などがある。

    レストランには山ノ内大膳軒がある。
    この日はお休みで、名物のラーメンを食べたかったが当てが外れた。

    <山ノ内大膳軒(ラーメン専門店)>
    〒381-0401長野県下高井郡山ノ内町平穏7148
    営業時間:
    [日・月・水・木]11:00~18:00
    [金・土・祝前日]11:00~21:00
    定休日:火曜日

    山の駅に入ると、新しいロープウエイ(ゴンドラ)ができて、古い方は廃線になった。
    ただ、山の駅でもたいへん眺望が良い場所だから、ちょっとしたテラスと古いゴンドラが左右に置かれて、観光客用の休憩所になっていた。

    テラスから東館山(ひがしだてやま:2,030m)を正面に見る。動かぬ!「やまびこ号」そばで私共、娘達もソフトクリームを楽しむ。

    その後、山の駅の志賀高原ゴールデンライン(ゴンドラ)切符売り場で、往復切符を購入した。なるほど、こんな風にゴンドラの線が繋がって出来ているのか!
    観光客や冬季のスキー客には実に便利なものになっている。

    娘たちが志賀高原ゴールデンライン(ゴンドラ)に乗車するのを見送る。
    娘たち二人だけが一つのゴンドラに乗り、次のゴンドラにも客が乗って、あっという間に谷に向かって前進する。3つのゴンドラが一緒のグループで進むシステムのようだ。
    志賀高原ゴールデンライン(志賀高原リゾートゴンドラ)はブナ平(別のゴンドラの乗り場がある)に向かって怖い下降をする。

    お昼頃に娘たちが帰るまで、近くを散策する事にした。。


    52年前の旅では、ヒュッテ前の「高天が原リフト」に乗って、東館山(ひがしだてやま:2,030m)を目指した。東館山の展望を楽しみ、高山植物園を見学した後、「東館山空中ケーブル」で志賀高原最初の温泉である「発哺(ほっぽ)温泉」に降り、そこでまた「志賀高原ロープウエイ」で、志賀高原の池巡りの起点になっていた蓮池(はすいけ)まで行ったのだった。

    待ち合わせていた山の駅の「山ノ内大膳軒」はこの日お休みで、名物ラーメンを食べられなかったが、その代わり「山のキッチン」の美味いカツサンドが食べられた。

    <志賀高原 山の駅 レストラン「山のキッチン」>
    〒381-0401長野県下高井郡山ノ内町平穏7148
    10:00~16:00
    日曜営業

    ・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2023年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • 昭和初期の長野県に建設された「国策ホテル」に、 上高地帝国ホテル・野尻湖ホテル・志賀高原ホテルの三ホテルがあった。

    投稿日 2023年11月10日

    志賀高原歴史記念館 湯田中渋温泉郷・志賀高原

    総合評価:5.0

    <2023年8月20日(日)~22日(火)、志賀高原の旅>
    宿泊先:ホテル白樺荘(2泊)
    長野県下高井郡山ノ内町志賀高原蓮池(平穏7148)
    Tel:0269-34-3311

    8月21日、旅の2日目は宿泊先の白樺荘からも徒歩で行ける「志賀高原歴史記念館(旧志賀高原ホテル)」を訪れた。蓮池巡りをして、志賀高原山の駅まで行き、11:30に山の駅から志賀高原歴史記念館に向かって歩き出した。
    12:05、歴史記念館に到着した。徒歩で下り坂を凡そ30分、私の様な、日頃歩かない老人には、結構きつい道だった。

    時計塔辺りから赤い屋根の館を撮ってみた。こちらが目的地の歴史館(エントランス棟)である。旧志賀高原ホテルの写真(後掲)に比べると、左右の宿泊棟がなくなってしまった格好である。

    【志賀高原歴史記念館(旧志賀高原ホテル)】
    住所:〒381-0401長野県下高井郡山ノ内町平穏7148-35
    電話番号:0269-33-2597(財団法人和合会) 
    公開期間:5月1日~10月31日
    開館時間:9:00~17:00
    休館日:木曜日 ※冬季休業(11月1日から4月31日)

    (アクセス)
    長野電鉄長野線「湯田中」駅から長電バス白根火山線・奥志賀高原線にて33分の「丸池」停留所から徒歩3分。バス停(蓮池ひろば/長電バス)徒歩約20分。
    上信越自動車道「信州中野」ICからR292で志賀高原へ、23.6km(約30分)。

    4階建てのスキー用本格的ホテルとして、志賀高原ホテルは山小屋風外観を持つ建物、さすがにドイツ人の指導によって作られた建築物である。「ドイツ党」の私としては、久方ぶりにちょっと喜ばしい訪問になる。

    赤い屋根と大きな切り妻のファザード(玄関正面)、石積の柱に支えられたエントランスポーチの立派さに驚く。車寄せ、玄関、多目的ホールと続く建物は当時、冬季シーズンの社交場として、華やかなリゾート感あふれたものだったことでしょう。

    旧志賀高原ホテルの規模が立派だったのは、開業当時のこの写真でよく分かる。
    1937年(昭和12年)6月20日の数字が、左下に読み取れた。

    *昭和初期に外国人観光客を誘致するため各地に建設された「国策ホテル」は、
    長野県には「上高地帝国ホテル・野尻湖ホテル・志賀高原ホテル」の三ホテルが造られました。
    ドイツ人の指導のもとで造られた「志賀高原ホテル」は意識して建物の随所に日本文化と西洋文化を上手く混合させたと云う。「志賀高原ホテル」は当時の社交界の場になっていたそうだ。
    近年「上高地帝国ホテル」は建て替えられ、「野尻湖ホテル」は解体された。
    従って、部分的ながらも開業当初の建物が残されているのは「志賀高原ホテル」のみとなっている。

    志賀高原歴史記念館には、志賀高原のスノーリゾートの歴史を感じさせる展示物が見られたが、とりわけ、御当地出身の五輪選手で、銀メダリストである猪谷千春氏に関する資料が多く見られたのも当然であろう。

    エントランスホール(1階多目的ホール)に入れば、高々と吹き抜けとなっているロビーがあり、真正面に大きな石暖炉がこれまたすごい存在感を示し、各階には当時の手作りによる、色とりどりで美しい模様のステンドグラス、3階には展望室があり、会議室を飾る壁画・春夏秋冬が見られた。
    中庭に高山植物の花コマクサが栽培され、秩父宮ゆかりのドイツトウヒの大木もあった。

    なかなか興味深い歴史記念館でしたが、広い駐車場に車が一台もない!のは、残念。
    私共の見学中、1組の中年夫妻が訪れたが、好みが合わなかったのか、早々といなくなっていた。

    ・・・・・

    旅行時期
    2023年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    5.0

  • 志賀の丸池ホテルは馬の親子2頭を飼っていて、母馬が時々脱走するらしい。

    投稿日 2023年11月11日

    丸池ホテル 湯田中渋温泉郷・志賀高原

    総合評価:4.0

    <2023年8月20日(日)~22日(火)、志賀高原の旅>
    宿泊先:ホテル白樺荘(2泊)
    長野県下高井郡山ノ内町志賀高原蓮池(平穏7148)
    Tel:0269-34-3311

    8月21日、旅の2日目は宿泊先の白樺荘からも徒歩で行ける「志賀高原歴史記念館(旧志賀高原ホテル)」を訪れた。

    志賀高原歴史記念館はなかなか興味深い歴史記念館でした。

    13時も過ぎて、お腹もすいた。途中でみた丸池ホテルも近く、レストランがあるようなので、こちらで昼食にすることにした。

    <丸池ホテル>
    〒381-0401長野県下高井郡山ノ内町大字平穏7148
    Tel:0269-34-2721

    ホテルは志賀高原・丸池スキー場に隣接し、冬季シーズンは多くのスキーヤー・スノーボーダーが訪れる。
    ホテル周辺には丸池、琵琶池、一沼、蓮池などの美しい 風景がみられ、春~秋も志賀高原の自然を満喫できる。
    2階の広いレストランはモンテ・モアである。

    丸池ホテルのモンテ・モア:
    私はカレーライスにチーズが載ったもので、今まで食べたことが無いものでしたが、満足した。家内はチーズケーキと紅茶、孫娘はおうどんが好きだという。
    娘のピザを含めた軽食のお値段は4,150円也。予想していた以上に美味かった。

    さっきまでレストランの窓から時々目に入っていた親子の馬2頭の内、母馬が292号線を越えて、向こうの野原に脱走!してしまったようだ。
    レストランの厨房役の様な小父さんが現れて、脱走した馬を探しに行った。
    高原には大きなアブがいて、馬を刺すらしい。
    こんなカバーをしているからとても目立つので、馬も隠れられない。
    脱走!?は度々あるのだろう、慣れた小父さんは馬の轡を掴み、連れ戻す。
    脱走した馬は道路を越えて、無事に元の場所に戻って行きました。
    左手に白い仔馬(2頭は親子だと云う)がのんびりと草を食んでいます。

    この辺りは、冬は丸池スキー場になるようだ。

    馬の脱走騒ぎで、バタバタしていたご主人だったが、ご親切にホテル前で集合写真を撮ってくれた。

    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2023年08月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    接客対応:
    4.0
    食事・ドリンク:
    4.0

  • 志賀高原の蓮池は、今(2023年)昔(1971年)を比べるとビックリするほど変わっていた。

    投稿日 2023年11月01日

    蓮池(長野県山ノ内町) 湯田中渋温泉郷・志賀高原

    総合評価:4.5

    <2023年(令和5年) 8月20日~22日、娘と孫娘にさそわれた志賀高原の旅>
    <1971年(昭和46年)7月22日~24日、1歳半の娘と共に家族旅行した志賀高原>


    今から20万年前ごろ、志賀山などの火山活動により周囲の川が堰き止められ、志賀湖と呼ばれる湖(堰き止め湖・・・志賀高原最大の湖だったと思われるが、現在は消失湖)ができた。火山活動はなおも続き、湖がほぼ埋め尽くされた結果、現在の志賀高原の大部分が湿地帯になり、埋め残った所に沼や池がある。この一帯には1000種類以上の動物や植物が存在していると云う。(Wiki引用・追記)

    娘と共に手漕ぎボートに乗った蓮池(はすいけ:標高1,480m)は志賀高原の中央に位置し、周辺の景観に恵まれ、たいへん人気があるスポットになっている。
    左に一の瀬・高天が原・奥志賀方面と右の木戸池・横手山方面の道が分岐する所にある。池の形は南北に細長く、南端にホテル、北端にロープウエイやバスの発着所の建物(今で言うと山の駅)がある。

    当時も今も、蓮池を一周できる遊歩道(今年の冊子には15分で周回できるとMapにあったが、もっと長いように思えた)があり、当時の蓮池には行楽客用の手漕ぎボートがあった。

    52年後の今は勿論ボートは無く、池は蓮やスイレンの小さな花や蒲(がま)の穂、水生植物などで覆われていた。トンボも飛んでいた。

    今昔の蓮池を写真で比べてみた。

    旅行時期
    2023年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.5
    景観:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.5

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、ロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、結局2023年もドイツの旅を見送ってきました。2024年はどんな年になるのだろう。
(2023.11.28.変更)

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