jijidarumaさんのクチコミ(3ページ)全662件
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デュッセルドルフ:プファルツ選帝候ヨハン・ヴィルヘルム2世の治世と騎馬像
投稿日 2019年06月23日
ヨハン ヴィルヘルム2世(通称ヤン ヴェレム)の騎馬像 デュッセルドルフ
総合評価:4.0
<デュッセルドルフ:プファルツ選帝候ヨハン・ヴィルヘルム2世の治世と騎馬像>
2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間
デュッセルドルフの旧市街を訪れると、飲み屋街近くにマルクト広場があり、ルネサンス様式のRathaus市庁舎(1570年)、7選帝侯の一人であったKurfuerst von der Pfalzプファルツ選帝候Johann WilhelmIIヨハン・ヴィルヘルム2世 (通称JanWellemヤン・ヴェレム)の騎馬像が絵になる形で立っている。
デュッセルドルフ市民に大変人気のあるプファルツ選帝候Johann WilhelmIIヨハン・ヴィルヘルム2世(1658年~1716年)だが、彼の治世(1690年~1716年)のもと、デュッセルドルフの発展は目覚ましいものでした。
とりわけ北イタリア・トスカーナ大公メディチ家・コジモ3世の娘Anna Maria Luisa de'Mediciアンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチと結婚した影響で、個人的に集めた絵画や彫刻などのコレクションを始め、その美術品を収めるための巨大な美術館をデュッセルドルフ城内に建てた。
(尚、今はMuseum Kunstpalastクンストパラスト美術館(D-40479 Duesseldorf 、Ehrenhof 4-5)に、このコレクションがあると云う)
またオペラハウスの設立や街灯の設置、新聞の定期発行など、様々な発展に貢献し、その功績を称えてヨハン・ヴィルヘルム2世の騎馬像が建てられたと云う。
デュッセルドルフとプファルツ選帝候の関係は、
1609年にVereinigte Herzogtuemer Juelich-Kleve-Berg ユーリヒ・クレーフェ・ベルク公国(神聖ローマ帝国の北西部の諸邦・公爵領、伯爵領の連合体として成立した)の最後の公爵ヨハン・ヴィルヘルム(1562~1609年)が死去した事に始まる。
この死去後にプファルツ継承戦争が続き、ユーリヒとベルクはヴィッテルスバッハ家のHerzog von Pfalz-Neuburg プファルツ・ノイブルク公に渡った。
デュッセルドルフ城はその居城となり、1685年にはプファルツ・ノイブルク公Philipp Wilhelm フィリップ・ヴィルヘルムがプファルツ選帝侯位も獲得している。
1690年、フィリップ・ヴィルヘルムがプファルツ選帝侯位継承戦争(1688~1697年)のさなかに死去した為、その長子ヨハン・ヴィルヘルム2世がプファルツ選帝侯となる。
さらに、1716年、子供がないままヨハン・ヴィルヘルム2世が死去すると、弟のKarl III. Philippカール3世フィリップが選帝侯位を継承した。
カール3世はプファルツ選帝侯の宮廷を、13世紀から500年プファルツ選帝侯領の首都にしていたにHeidelbergハイデルベルクに戻したので、デュッセルドルフの繁栄は徐々にかげりを見せ始めることになった。
カール3世フィリップの居城、ハイデルベルク城がフランス軍の攻撃で廃城となり、1720年、ハイデルベルクからMannheimマンハイムにその宮廷を移している。
・・・・・- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
-
イトシュタインはナッサウ家の宮廷都市で、小さな町とはいえ馬鹿に出来ない町なのだ。
投稿日 2025年02月12日
イトシュタイン旧市街(Idsteiner Altstadt) ヘッセン州
総合評価:4.5
1983年7月9日(土)~10日(日)にIdsteinイトシュタインに1泊し、フランクフルト、ライン下りの小旅行をしました。
イトシュタインは最初の文献記録(1102年に Etichensteinエチシェンシュタイン という表記で初めて文献に記録された)から1721年までGraf von Nassau-Idsteinナッサウ・イトシュタイン伯爵および他のナッサウ家の宮廷都市であったと云うから、小さな町とはいえ馬鹿に出来ない町なのだ。
イトシュタインはSchloss城=イトシュタイン宮殿、旧市街の木組み建築の美しい町並み、König Adolf Platzケーニヒ・アドルフ・プラッツに面して白い(現在はオレンジ色のようだが)Rathaus庁舎、Killingerhausキリンガーハウス(1615年)、独特“傾いた家”のSchiefes Hausがシーフェス・ハウスがある。その他にHexenturm魔女の塔、Torbogenアーチ付きの楼門などが目立った。
さて、特筆すべきはナチスの「T4(テーフィア)作戦」の話が残っていたことで、イトシュタインの町の歴史には「魔女狩りの犠牲者」の話以上に、恐ろしい話でした。
T4作戦とは1930年代後半からドイツ国で精神障害者や身体障害者に対して行われた毒ガスによる「強制的な安楽死」政策である。
T4作戦で使われた障害者殺害の手法は、そのままユダヤ人の絶滅計画( die Endlösung der Judenfrageユダヤ人問題の最終的解決、1942年)にも応用されたので、事実上Holocaustホロコースト(大量虐殺)のモデルケースとなった。
・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 1983年07月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
-
ドイツで最も美しいケーニヒス湖に、お椀をかぶせたような赤い屋根の聖バルトロメー僧院が彩を添えている。
投稿日 2025年02月06日
総合評価:5.0
≪Königsseeケーニヒス湖(王の湖)巡り(2008年4月26日≫
ドイツで最も美しいと称されるケーニヒス湖は太古に氷河が岩山を削り取り、その跡にできた湖である。あくまで青く、実に神秘的な湖で、周囲の山々の景観と共に大変美しい。湖の遊覧(船は電気式)はトランペットの吹奏があり、Watzmannヴァッツマン(2713m)東壁の景観美を楽しんで、40分で St. Bartholomä 聖バルトロメー僧院に至る。更に20分でOberseeオーバーゼー(上の湖)に行くこともできる。
Jennerイエナー(1874m)とWatzmannヴァッツマン(2713m)に囲まれた峡谷・Fjordフィヨルドの長さは凡そ8km、幅1.25km。平均の深さ150m、最深200mと云う。海抜は620mに位置する。
この湖はBerchtesgadenベルヒテスガーデン国立公園に属し、国立公園の面積は210平方kmに及ぶ。Kehlsteinケールシュタイン(1834m、ヒットラーの鷲の巣山荘・5月から10月の間、開業)や、Jennerイエナー(1874m)の山頂からの眺望は見事なものと云われる。
ドイツ駐在(第一回目)の1979年8月29日夏の休暇旅行以来の訪問となる。
<St. Bartholomä 聖バルトロメー僧院>
9:50発のWatzmannヴァッツマン号に乗船して、聖バルトロメー僧院に向かう。往復料金はEuro 23.6だ。湖を就航する18隻すべての船は1909年から電気式で湖面を静かにゆるやかに走り、水を汚さない。
ヴァッツマン東壁の景観美を楽しんでいると、お椀をかぶせたような赤い屋根の聖バルトロメー僧院が前方にはっきりと見えてきた。美しい王の湖に赤い屋根の聖バルトロメー僧院が彩を添えている。
片道35分で聖バルトロメー僧院に着いた。教会でミサが執り行われていた。皆につられて入った教会の席に座って、しばし難しい説話を聞いた。(10:25~40)
聖バルトロメー僧院は1134年に創立された。現在のバロック様式の教会や付属設備などは17世紀のもの。その後、バイエルン王が“狩猟の館”として使用したと云う。
僧院からさらに先にも船は行く。奥まった所にはOberseeオーバーゼー(上の湖)があるが、通常の観光客は僧院までの往復を選ぶ。
聖バルトロメー僧院の後背には文字通りと云える「Steinernes Meerシュタイネルネス メアー(石の海)」と称する2000m級の高い山並みが続き、ドイツ・オーストリアの国境線がある。
湖畔の周辺を眺めながら、水辺を散策してみる。透明度の高い湖を小さな鴨が泳いでいた。ホテルの朝食時に残ったパンを持参していたので、二人でパンをちぎって与えた。
11:50発のHochkarterホッホカルター号に乗船して、12:25に元の船着き場に戻った。
・・・・・- 旅行時期
- 2008年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 4.0
-
保養地バート・ライヘンハルには歴史的な、美しいザリーネ(製塩場)が残っている。
投稿日 2025年02月05日
総合評価:5.0
1979.07.30.&2008.04.25.ベルヒテスガーデン、保養地Bad Reichenhallバート・ライヘンハルを訪れた。
バート・ライヘンハルに塩水の泉が発見された後、1617年Maximilian I.マクシミリアン1世公により、後背地の森が豊かなTraunsteinトラウンシュタインに二番目のSalineザリーネ(製塩場)が建設され、町に繁栄をもたらした。
このSalineザリーネ(製塩場)は1912年まで製造が続いたと云う。
<2008.04.25.バート・ライヘンハル 市内観光>
町をめぐる道路を一回りして、1979年7月以来の再訪となる市内に向かった。
St.Johannes聖ヨハネス教会傍に駐車し、ポスト通りをマルクト広場を目指した。
現在の町はザーラッハ川に沿って発展した保養地である。
古来より、豊富な塩水に恵まれ、塩水を使用した呼吸器系統の病気療養地として広く知られている。
古くはケルト人やローマ軍団の居住地であったが、中世から近年に至るまでSalineザリーネ(製塩場)の拠点として、世に知られた。
1834年、町の3分の2を失う大火災が生じたが、その後復興し1890年にはライヘンハルからバート・ライヘンハルとなった。
マルクト広場には新旧二つの市庁舎が建ち、壁面をフラスコ画が描かれていて、大変美しい広場だ。
旧市庁舎は1849年建築、1924年にドイツ人に人気のカール大帝、赤髭王(Barbarossaバルバロッサ:神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の異名)、バイエルン王ルートヴィヒ1世などがフレスコ画で描かれている。
すでに12時近くなっていて、広場を埋めた様々の店も手じまいしている。広場中央にはWittelsbacherbrunnenヴィッテルスバッハ(バイエルン王家)の泉(1905年)が高々と立っていた。
旧市街はこの町の最も古い部分でFlorianiplatzフローリアン広場は独特の切妻壁を持ち、典型的なアルプス地方の家並みを残している。
フローリアン広場の中央に他にあまり見かけない消防士の泉というものがあり、興味深いのは泉の中央に聖フロリアヌスの像(Florian von Lorch、304年頃没:ポーランド、リンツ、煙突掃除人と消防士、石鹸の釜炊き人などの守護聖人)が立っていた事だ。
町の大部分を失った、1834年の大火災の記憶を留めているのだろう。
周辺には13世紀、中世の城壁も一部残っていた。
Alte Saline旧製塩場の中庭に入った。
全景の写真を撮ったアルテ・ザリーネは1832年バイエルン王ルートヴィヒ1世が建設した、世界で最も美しいと言われるネオ・ロマネスク様式の製塩場である。
塩の博物館を併設している。
この町は保養地だけに落ち着いた、洒落た街並みが好ましいものだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2008年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.5
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 展示内容:
- 4.5
-
デュッセルドルフ旧市街には歴史を語る二つの彫刻、ヴォリンゲンの戦いと勝利を祝った側転像がある。
投稿日 2025年02月03日
総合評価:5.0
デュッセルドルフの旧市街にはその歴史を語る二つの彫刻を見ることができる。
旧市街にお出かけの際は是非この作品を訪れて頂きたいものだ。
A)Stadterhebungsmonumentシュタッダーヘーブングスモニュメント(デュッセルドルフが都市特権を得たことを記念するモニュメント)
Müller-Schlösser-Gasse, 40213 Düsseldorf
1288年に「Schlacht von Worringenヴォリンゲンの戦い」でデュッセルドルフが勝利し、都市特権を得たことを記念するブロンズ製の彫刻のことである。
この彫刻は聖ランベルトゥス教会の近くにある。
この彫刻は都市の設立(都市特権を得た)と、デュッセルドルフの住民とケルン大司教の間の歴史的な戦いを表しており、石と金属の作品は一種の「歴史の教訓」の表現である。
この作品は1988年(ヴォリンゲンの戦いで勝利した700年周年記念)になって、旧市街の中に作られた。
・・・・
B)Radschlägerbrunnenラートシュレーガーブルンネン(側転像と噴水)
Burgpl. 13, 40213 Düsseldorf
デュッセルドルフ旧市街のブルク広場の中心にあるラートシュレーガーブルンネン“側転”像と噴水はこの町の重要な歴史的シンボルでもある。
Stadterhebungsmonumentシュタッダーヘーブングスモニュメントからライン川に向かって、18mほど離れたブルク広場にある。
1288 年のヴェリンゲンの戦いで、デュッセルドルフの領主アドルフ フォン ベルク伯爵がケルン大司教に対して決定的な勝利を収めたことを記念するものです。
この勝利はデュッセルドルフに都市特権を与え、市の歴史における政治的転換点となったため、非常に重要でした。
この勝利を祝って、凱旋する兵を子供たちが“側転”をして出迎えたという故事に因んだもので、黄色くなったプラタナスの樹の下に“側転”像と噴水がある。
・・・・・- 旅行時期
- 2016年10月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
-
ハンザ都市ロストックのラーツケラーで旬のシュパーゲル(白アスパラ)料理を楽しんだ。
投稿日 2025年01月30日
総合評価:5.0
1982年から数えて 23年ぶりの北ドイツです。
ドイツの誇る世界遺産の町々(ブレーメン、リューベック、ヴィスマール、ヒルデスハイム、更にクウェートリンブルグ、ゴスラー)や、ハンザ諸都市・エリカ街道(塩の道)・ハルツ山地(魔女伝説)・メルヘン街道を巡る、盛りだくさんの旅をした。
<使用レンタカー>
Renaut Espace R157-ディーゼル2200cc Automatic
7人乗りのルノーのバンで、長さ4.86m、高さ1.74m、幅1.89mと、今までルノー車にも、こんな大きい車にも乗ったことが無く、どうなる事か?!!
2005.04.24.北ドイツ周遊:一日でリューベック=>ヴィスマール=>ロストック=>シュヴェリーン=>リューベックを回遊した。
4月24日はリューベックと1295年にハンザ同盟を結んだWismarヴィスマール、
294km Rostockロストック、Stralsundシュトラールズントの北方三都市のうち、ヴィスマール、ロストックを訪ね、帰途7つの湖の町と称される古都Schwerinシュヴェリーンを経由して、リューベックに戻るというコースを計画した。
この時期は、町々のマルクト広場の朝市や農家(道路際でも)の直売所で、朝一番の新鮮なSpargelシュパーゲルを買う事が出来る。
ドイツでは"Volksgemueseフォルクスゲミューゼ(ドイツ人に最も好まれる野菜)" と呼ばれているほど、季節になると好んで食べる。
レストランには“Die Spargelzeit ist da !!!(さー、春の旬、シュパーゲルがあるよ!!!)”といった看板が立つ。
日本では白アスパラの缶詰めが多く、まだまだ、なじみのないものだ。また、緑のアスパラが主流で、明治の北海道開拓と共に生産が始まったと云われている。
・・・・・
2005年4月24日11:30世界遺産ハンザ都市Wismarヴィスマールを発ち、B105で*ロストックに向かう。
道路沿いには“アスパラ、卵 売ります!!”の看板が目に付く。
12:30、Hansestadt Rostockハンザ都市ロストックに到着し、旧市街の入口となるSteintor城門のところで、左折し、旧城壁の跡を横にみて、市電の走るLange通りに駐車する。
この世界遺産【2002年登録】のハンザ都市は800年にわたり、“北方の門”として、繁栄してきた。冷戦下においては、旧東独最大の港湾都市で、造船業が主力であったが、東西統一後は経済の不況にあえいでいるそうだ。
日曜日の所為か、人口の割に歩いている人々も、車も少ないが、やはり不況の影響もあるのだろうか?!
この町の過去の繁栄を象徴しているのは、ハンザ同盟圏で“北の光と讃えられた---バルト海沿岸で最古の大学(1419年創立)“のロストック大学---ヴィルヘルム・ピーク大学---があることだ。
大学前には英雄ブルヒャー将軍の銅像がある。プロイセン軍人で、ナポレオンを破るワーテルローの戦いに功績があったという。その横のクレペリナー通りは町一番の通り、その通りを真直ぐ行くと、ノイアー・マルクト広場に至る。
旧市街は東西1.5km、南北1kmの楕円形をしていて、その真中にノイアー・マルクトがあり、7つの小さな尖塔を持つピンク色の市庁舎を中心に、北ドイツ特有のレンガ造りの建物が立ち並び、その先に、聖マリエン教会が見える。1472年製の天文時計、1290年製の青銅洗礼盤が内部にあるそうだが、閉まっていて、残念ながら断念した。
<昼食:Ratskeller-Arkadenラーツケラー・アーケード>
0.3Lのビール、オレンジジュース込みで、Euro30と嬉しい安さだ。
(13:00~14:00)
此処では、店の前の案内板に“Die Spargelzeit ist da !!!(さー、春の旬、白アスパラがあるよ!!!)”とあるのが、目に付いた。この言葉に弱い私共は、これは食べねば、とラーツケラーに入ることにしたわけです。
“Goldhenne(黄金のメンドリ)”---豊穣や多産を祈って、ドイツでは卵や鶏をシンボルとして飾る---という名を付けた席に座って、“小さくきざんだ鮭と白アスパラのクリームスープ、オランダ風ソースをかけ、パセリ・ジャガイモを添えた、200gのフレッシュなアスパラ(大きいのを選択すると400gと倍の量です)を食べる。いやー、なんとも美味しい春の恵みだ。
・・・・・- 旅行時期
- 2005年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 5.0
- 景観:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
-
ローテンブルク:ミシュラン1星Villa Mittermeier ヴィラ ミッテルマイヤー
投稿日 2025年01月30日
Villa Mittermeier, Hotellerie & Restaurant ローテンブルク
総合評価:5.0
ホテルはGarniで夕食用のレストランが無い所を選んだので、ミシュラン星付きレストランの夕食の機会を得た。
夕食:Rothenburg :Villa Mittermeierミッテルマイアー 19:00?22:30
D-91541 Rothenburg 、Vorm Wuerzburger Tor 9
ミシュラン1星、Gault Millauゴー・ミヨは16点。全独140位(2010年)。
メニュー;3品Euro39、 5品Euro88、8品Euro97、
ワイン;フランケンなど350種 、従業員10名、34席。
シェフ;Mathias Apelt http://www.villamittermeier.de/
【今夕はモダーンなミシュラン1星のフランス料理のレストラン。勿論、フランケン・ホーエンローエ地方の地元産の食材・香辛料をベースにしている。
午後7時ではまだ早いようで、レストランには一番乗りとなった。窓際の予約席に座っていると、徐々にお客が入り、8割方、席が埋まったのには驚いた。
最近特に感じるがドイツ人も味にうるさくなったようだ。今夜も十分に満足した夕食となった。
料理はメニューから、家内が3品Euro39、私が4品Euro70を選んだ。
飲み物:辛口のシェリーOloroso Secoと、ワインはFrankenフランケンの赤にトライしました。そしてお水0.75L ; Euro14+60+7=81。
2005年Randersackerer Sonnenstuhl Spaetburgunder “s”
・Weingut Schmitt ‘s Kinder。 http://www.schmitts-kinder.de/
(フランケン地方の町Randersackerは1200年を越えるワイン文化を持つ。その地で10世代凡そ300年、ワイン醸造を行ってきたWeingut Schmitt's Kinderは1712年に町の中心にバロック様式の館を建て、1984年、町の郊外に"Sonnenstuhl太陽の椅子"の葡萄畑にも近い場所に、モダーンな醸造所を作った。そこはマイン川と葡萄畑の美しい光景がある事で知られている。)
ここでは感心した事に、ソムリエが日本製のラベル剥がしを利用し、ワインのラベルをきれいに処理してくれた。
シェフのご挨拶:?マンゴのシャーベットと赤くコーティングした角切りのスイカ。
?ミディアムに焼いたマグロにビーツのソースの二品が出ました。
前菜:私は鵞鳥のレバーロースト、2種類のタイ-マンゴ添え。
家内は赤ニゴイのロースト、ルイユソース(ジャガイモ、にんにく、赤唐辛子、オリーブオイル)と、ヴァニラ・サフランソースで。
メイン:私の魚料理はナマズでした!レッドチコリ、カボチャ、ビネグレットソース 。
肉料理は鹿の背肉、香料入りパン、森の茸、パセリ、シナモン、ブラウンソース。
家内はHof Mueritzミューリッツ(メクレンブルク湖水地方の中心部にあり、良品で知られている。)産の子羊のうなじ肉、干しプラム、パースニップ(セリ科) 添え、ブラウンソース。
デザート:私が白のチョコレート、イチジク、砂糖を被せたオリーブ。木のまな板風に載って出てきた。これは最近の流行らしい。
家内はヴァニラアイス、ミルク、ライスに葡萄、ピスタチオ入り飲み物。
最後にもう一つ、チョコレート、アイス、飴状のもの。
白一色のお皿、それも大きめな皿に料理の色彩も美しく盛られて、気持ちの良いアレンジに感心した。 夕食代合計はEuro195(26千円)となりました。 】
- 旅行時期
- 2009年12月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 1人1泊予算
- 15,000円 未満
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- サービス:
- 5.0
- ロケーション:
- 5.0
-
横浜人形の家に我が家のゴスラーちゃん(ビスクドール)に似たものがあるかと訪れた。
投稿日 2025年01月29日
総合評価:4.0
【2002.01.12.~13.懐かしの横浜:定年を前にかつて短い間横浜に住んだ事を思い、横浜港、山下公園、氷川丸、中華街、横浜人形の家などを見て回った】
懐かしの横浜:横浜港、山下公園、氷川丸、中華街、横浜人形の家など
天気の良い日で、写真も良く撮れているのが嬉しい。
1泊(土・日)して歩いた横浜は、もう馴染みのない異国の町のように思えて、ちょっと戸惑った小旅行でしたが・・・。
この日以外にも、会社の仲間や夫婦で中華街に出かけたし、長女の結婚式で横浜のホテルを利用したこともあるが、デジカメを持っていない頃で、また、カメラ持参で様々な被写体を撮る習慣も無かったから、アルバムに旅行などの写真が少ないのだ。
さて、1983年4月1日~4日、当時東西Berlinベルリンに分かれ、“陸の孤島”と称されていたベルリン(Oster-Reiseオースターライゼ)に小旅行をした。
その帰途、大好きなドイツの町の一つであるGoslarゴスラー (Land Niedersachsenニーダーザクセン州)を訪れて、ホテルで催されていた蚤の市(独語・Flohmarkt、英語・Flea market)でドイツ製のアンティーク・ドールを購入した。
我が家のゴスラーちゃん(ビスクドール)は*アーモンド・マルセルの370のようだ(2008年12月3日撮影)。
今も人形ゴスラーちゃんは我が家の居間に鎮座し、もう40年の付き合いになる。
横浜人形の家にどんな人形があるかと訪れたのだが、ゴスラーで購入した人形によく似た人形もあって、興味深いものだった。
<横浜人形の家>
〒231-0023 横浜市中区山下町 18番地
TEL:045-671-9361
開館時間 : 午前9時30分~午後5時
(入館は午後4時30分まで)
当時の館長が、かの有名な旅行家・作家の兼高かおるさん(2019年1月5日、90歳で逝去)だったのは、この写真で思い出した。
<横浜 マンダリンホテル>
神奈川県横浜市中区野毛4-170
Tel:045-243-3131
3星・全128室。
日ノ出町駅から徒歩3分に位置し、野毛山公園に近い横浜マンダリンホテルに泊まったが、アルバムに貼られた冊子のみが残り、残念にも写真は全く無しで、これでは何の記憶も感慨も無い。
・・・・・- 旅行時期
- 2002年01月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 4.0
-
投稿日 2025年01月28日
総合評価:4.5
茨城百景(いばらきひゃっけい)という呼び名がある。茨城百景は茨城県観光審議会が選定した100の景勝地を指すのだと云う。
因みに水戸の偕楽園(かいらくえん)、関東の松島と称される五浦海岸(いづらかいがん)、霞ヶ浦(かすみがうら)、鹿島神宮(かしまじんぐう)、水郷潮来(すいごういたこ)などが代表的な景勝地として指定されている。
行方郡には、水郷潮来などと共に創建1200年、関東最古の西蓮寺(さいれんじ)が指定されている。
行方市西蓮寺(なめがたしさいれんじ)で最も知られているのは 高さ25メートルと27メートルの大イチョウである。
春の桜、秋の曼珠沙華(ヒガンバナ)の群生、晩秋の大銀杏が知られていて、これを楽しみに参詣する人も多い。
【西連寺(さいれんじ)】
〒311-3514 茨城県行方市西蓮寺504
Tel:080-8731-1772
西蓮寺は茨城県行方市西蓮寺にある天台宗の寺院。山号は尸羅度山(しらとさん)。院号は曼珠院(まんじゅいん)。本尊は薬師如来(やくしにょらい)である。
俗に常陸の高野山(常陸高野西連寺)とも云われ、山門(仁王門)と相輪橖(そうりんとう)は国の重要文化財、木造薬師如来坐像は茨城県指定有形文化財である。
また、境内の面積は1万6000平方メートルあり、県指定天然記念物である樹齢1000年以上といわれる2本の大イチョウのほか、サクラ・スギ・シイの巨木が茂っている。
西連寺は関東最古の寺院と謳われているが、桓武天皇(第50代天皇・在位:天応元年・781年~延暦25年・806年)の勅願により、延暦元年(西暦782年)に伝教大師最澄の弟子最仙(さいせん)上人によって開創されました。
最仙上人は常陸国関城(現在の茨城県筑西市(ちくせいし)出身の高僧で、中国に渡り修行を重ねて帰郷し、常陸国で天台宗の布教に尽力した。
・・・・・- 旅行時期
- 2024年12月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.5
- 景観:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
-
ローテンブルク:ミシュラン1星Villa Mittermeier ヴィラ ミッテルマイヤー
投稿日 2014年06月12日
総合評価:5.0
ホテルはGarniで夕食用のレストランが無い所を選んだので、ミシュラン星付きレストランの夕食の機会を得た。
夕食:Rothenburg :Villa Mittermeierミッテルマイアー 19:00?22:30
D-91541 Rothenburg 、Vorm Wuerzburger Tor 9
ミシュラン1星、Gault Millauゴー・ミヨは16点。全独140位(2010年)。
メニュー;3品Euro39、 5品Euro88、8品Euro97、
ワイン;フランケンなど350種 、従業員10名、34席。
シェフ;Mathias Apelt http://www.villamittermeier.de/
【今夕はモダーンなミシュラン1星のフランス料理のレストラン。勿論、フランケン・ホーエンローエ地方の地元産の食材・香辛料をベースにしている。
午後7時ではまだ早いようで、レストランには一番乗りとなった。窓際の予約席に座っていると、徐々にお客が入り、8割方、席が埋まったのには驚いた。
最近特に感じるがドイツ人も味にうるさくなったようだ。今夜も十分に満足した夕食となった。
料理はメニューから、家内が3品Euro39、私が4品Euro70を選んだ。
飲み物:辛口のシェリーOloroso Secoと、ワインはFrankenフランケンの赤にトライしました。そしてお水0.75L ; Euro14+60+7=81。
2005年Randersackerer Sonnenstuhl Spaetburgunder “s”
・Weingut Schmitt ‘s Kinder。 http://www.schmitts-kinder.de/
(フランケン地方の町Randersackerは1200年を越えるワイン文化を持つ。その地で10世代凡そ300年、ワイン醸造を行ってきたWeingut Schmitt's Kinderは1712年に町の中心にバロック様式の館を建て、1984年、町の郊外に"Sonnenstuhl太陽の椅子"の葡萄畑にも近い場所に、モダーンな醸造所を作った。そこはマイン川と葡萄畑の美しい光景がある事で知られている。)
ここでは感心した事に、ソムリエが日本製のラベル剥がしを利用し、ワインのラベルをきれいに処理してくれた。
シェフのご挨拶:?マンゴのシャーベットと赤くコーティングした角切りのスイカ。
?ミディアムに焼いたマグロにビーツのソースの二品が出ました。
前菜:私は鵞鳥のレバーロースト、2種類のタイ-マンゴ添え。
家内は赤ニゴイのロースト、ルイユソース(ジャガイモ、にんにく、赤唐辛子、オリーブオイル)と、ヴァニラ・サフランソースで。
メイン:私の魚料理はナマズでした!レッドチコリ、カボチャ、ビネグレットソース 。
肉料理は鹿の背肉、香料入りパン、森の茸、パセリ、シナモン、ブラウンソース。
家内はHof Mueritzミューリッツ(メクレンブルク湖水地方の中心部にあり、良品で知られている。)産の子羊のうなじ肉、干しプラム、パースニップ(セリ科) 添え、ブラウンソース。
デザート:私が白のチョコレート、イチジク、砂糖を被せたオリーブ。木のまな板風に載って出てきた。これは最近の流行らしい。
家内はヴァニラアイス、ミルク、ライスに葡萄、ピスタチオ入り飲み物。
最後にもう一つ、チョコレート、アイス、飴状のもの。
白一色のお皿、それも大きめな皿に料理の色彩も美しく盛られて、気持ちの良いアレンジに感心した。 夕食代合計はEuro195(26千円)となりました。 】
- 旅行時期
- 2009年12月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人当たり予算
- 10,000円以上
- 利用形態
- ディナー
- アクセス:
- 5.0
- 町の外郭にあるホテルで町一番のレストラン
- コストパフォーマンス:
- 4.5
- このクラスとしては一人13,000円は安いかもしれない。
- サービス:
- 5.0
- 十分納得のサービス
- 雰囲気:
- 4.5
- レストランはモダン
- 料理・味:
- 5.0
- モダーンなミシュラン1星のフランス料理のレストラン
-
ニュルンベルクでベストの評価を持つミシュラン2星レストラン エッシィッヒブレートラインは予約が電話かファックスと時代離れ!
投稿日 2014年06月06日
総合評価:5.0
2009年12月11日(金)
Restaurant Essigbraetlein レストラン・エッシィッヒブレートラインにて;
ミシュラン2星・・2008年より、Gault Millauゴー・ミヨは18点と評価も上昇中。
全独82位(2010年)。 席数:30、従業員:9人
メニュー;?品Euro42、6品Euro79、7品Euro96 ワイン;150種
シェフ;Andree Koethe
*ニュルンベルクでベストの評価を持つレストランは、町でも最も古い1550年からの歴史をもったもので、当時はワイン商人の集会所としての役割を担っていたと云う。Gewuerz(香料・薬味)Kraeuterkueche(薬草料理)、有機農産物を使用していて、ここの料理を食べる為に、この町を訪ねる価値があると言われている。
二人のシェフ;Andree Koethe、Yves Ollechs Buch は “Die Kunst des Wuerzens香料の芸術” を表現していると云う。スパイスキッチンの巨匠との評価が高い。
この店の得意料理はRochen mit Pfifferlingenスケート(エイ)あんず茸添えと、 Steinbutt auf Fenchelフェンネルにのったカレイ、 Reh mit Liebstoeckel und Essigkirschen鹿肉にラビッジ(セリ科)とサクランボ酢を利用したものだそうだ。
【1550年から続いている、レストランEssigbraetleinで夕食を楽しむ。この店の創作料理は近年、世評も高く、店内の席数も限られている為、席を確保できたことは大変運が良いのだと云う。店内はさすがに満席です。
この日のメニューは6品メニューのみです。量的には多すぎると思い、給仕に聞いてみるとこの中から適宜、選択しうると言う。そこで二人とも4品を選んでみた。
4品のお値段と言っても、Euro79X2=178と、なかなかのもの・・・。
飲み物:ハウスアペリティーフ(プラムのSektゼクト・・シャンパン)、お水、そしてワインは2004年Pinot Noir Reserveピノ・ノワール レゼルヴ
;醸造所Weingut Holger Kochはバーデンワイン街道の最も優良な産地Kaiserstuhl 皇帝の椅子の中心地にあたるVogtsburg-Bickensohlにある。
http://www.weingut-holger-koch.de/weingut.php
飲み物合計はゼクトEuro27+水6.8+ワイン89 =122.8
シェフのご挨拶:南瓜のクリーム煮、ライスペーパー巻き、シナモンかけ。
肉の角切りに赤い甘みの香辛料かけ。
鰻の甘酢ソースかけ。
パン・バター:自家製パン、豆色のバター。
前菜:湖のマスにトマトソースかけ、薄切のカリフラワー添え。
メイン:(魚料理)カレイにクルミの甘酢ソースかけ、大根の千切り載せ。
(肉料理)鹿肉にアカデミアンナッツ入り、イチジクのサラダ。
イタリアンパセリ、ライスペーパー添え。
デザート:暖かいマンゴ、ミルクチョコレートアイス、カラメルの飾り。
コーヒー:5種類のチョコレート;ミルクチョコレートにラズベリー載せ、葡萄載せ、オレンジペースト載せ、白チョコレートなど。
19:00~21:45
拘ってなんとか食事のチャンスが持てたが、内容に驚き、かつ、大変満足した料理とサービスでした。その代金はEuro320(43千円)でした。】
尚、2009年当時、このレストランは珍しい事にメールがなく、予約は電話かファックスなので、ファックスで数度のやり取りをしました。
12月11、12日の金土はさすがにもう一杯で、Wartelisteウェイティングリストに載せてもらったものの、出発まで決まりません。仕方なく、旅程に沿ったホテル名と電話・ファックス番号を送っておいた。
結局、最初のホテルSchloss Steinburg(Wuerzburg)に電話があり、幸いこの夜の予約がOKとなった。
久しぶりに時差を考えずに返事をしてくるので、夜中に起こされることもあり、時代離れと言うのか、手書きの返事でしたので、読むのも一苦労でした。
ただ、対応は都度きちんと返事が来るのはさすがでしたが・・・。
・・・・・- 旅行時期
- 2009年12月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人当たり予算
- 10,000円以上
- 利用形態
- ディナー
- アクセス:
- 5.0
- Nuernbergニュルンベルクの旧市街にある、聖ゼーバルト教会に近い。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 二人とも4品を選んでみた。 4品のお値段と言っても、Euro79X2=178だが満足からすれば、十分に納得する。
- サービス:
- 5.0
- 大変満足したサービスでした。
- 雰囲気:
- 5.0
- 外観も内装も素晴らしい。
- 料理・味:
- 5.0
- 香料・薬味?Kraeuterkueche(薬草料理)、有機農産物を使用していて、ここの料理を食べる為に、この町を訪ねる価値がある言う。
-
神崎神社:天下の副将軍・水戸光圀公ゆかりの「なんじゃもんじゃの木」を見る。
投稿日 2025年01月27日
総合評価:4.5
2024年6月17日小旅行
遠目に、「神崎森(こうざきもり)」と称する深い森が小高い丘の上に見えてきた。
それで、この日は神崎神社のなんじゃもんじゃの木(大クスノキ)を見学に訪れることにした。
【神崎森(こうざきもり)】
千葉県教育委員会HPの説明を引用すると、
*県指定天然記念物
*指定日:昭和10年(1935年)8月23日
*所在地(所有者):
香取郡神崎町神崎本宿1944(神崎神社)
*概要:
神崎(こうざき)は、利根川南岸に位置する河岸の物資集積地として発達してきた町であるが、利根川の堤防から神崎の街を眺めると、そこにはうっそうと木々が茂った森がひときわ目立つ。この森が神崎森(こうざきもり)である。
北総台地から離れて独立した台地にあり、神崎神社の社叢林(鎮守の森)として大切に守られてきた。
神崎森(こうざきもり)は全体として常緑広葉樹林が優占する。スダジイやアカガシが主体となるスダジイ林が大部分を占めているが、一部タブノキ林の要素も見られる。スダジイ林の林床には、ホソバカナワラビ、リョウメンシダなどが多く、湿ったスダジイ林の特徴がよくあらわれている。
タブノキ林はやや湿った斜面部で発達しており、高木層にはタブノキが優占し、シロダモが混在する。亜高木層では、スダジイ林にと共通するヒサカキ、スダジイなどが多く、低木層でもヤツデ、アオキとともにスダジイが多くみられる。また、北向き斜面では、巨大なムクノキ、ケヤキといった落葉広葉樹が多く見られ、北総台地の特徴をよくあらわしている。
なお、「神崎森にある神崎神社社殿右側には国指定天然記念物の「神崎の大クス」が位置している」。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この森に囲まれた神崎神社は、この地方によく聞く、天下の副将軍・水戸光圀公ゆかりの大クスノキがあるのだ。
神崎町のシンボルでもある「大クスノキ」があって、<なんじゃもんじゃの木>と云う妙な別称でも知られている。
「大クスノキ」は1926年(大正15年)10月2日に既に国指定天然記念物に指定されたもので、昔から、世に知られて存在であったようだ。
私自身は各地にある巨木を好んでみる面があるが、利根川筋の小さな町にこれほどのものがあるとは、全く知らなかった。
<神崎の大クスと植物学者の牧野富太郎>
大正時代に植物学者の牧野富太郎によって、この木が植物学的にクスノキであることが確認され、1926年に国の天然記念物として指定された。
主幹は根回りが約13m、目通幹囲8.5mだが、1907年12月に社殿を焼いた火災により一部焼失しており、現在は高さ7mのところで切断されている。
一方で、その根元からは数本の支幹が主幹を中心として南北に並んで生育しており、そのうち5本は樹高20mを超えていて、高いものでは25mに達する。
(参考:Wiki抜粋、編集・追記)
・・・・・
XXXXX- 旅行時期
- 2024年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.5
-
イキスと読めなかった、東国三社に数えられる神栖の息栖神社に参詣した。
投稿日 2023年02月01日
総合評価:4.5
【小江戸・佐原から潮来、神栖を巡る。③神栖の息栖(いきす)神社、佐原の荘厳寺(しょうごんじ)の十一面観音とみしるし不動を訪ねた。】
神栖の息栖(いきす)神社も佐原の荘厳寺(しょうごんじ)も最初は全く読めない字だった。息栖神社で出会った女子大生の2名にこの名は読めないと言ったら、ほんとにそうですねと、同意された。
土地名や神社仏閣の名前は実に難しい。
さて、神栖市の神栖(かみす)は神之池(ごうのいけ)の「神」と息栖神社の「栖」から神栖となったそうだ。
かつては広大な面積をもった池・「神之池(ごうのいけ)」は、約1,400~1,200年前に海面が下降して周辺砂丘の造成や土砂の堆積によって独立して出来たものだと云う。古くは周囲2里余(約8km)、面積292町歩余(約289ha)のおむすび型に近い円形の広大な淡水池があったものだが、日本列島は何処も同じで、鹿島地区の開発のため、現在は一部を残して大部分が埋め立てられてしまった。
【鹿島・香取とともに東国三社に数えられる息栖(いきす)神社に参詣した】
〒314-0133 茨城県神栖市息栖2882
Tel:0299-92-2300
<祭神>
主祭神は久那斗神 (くなどのかみ、岐神)
社伝では、鹿島神・香取神による葦原中国平定において、東国への先導にあたった神という。
相殿神には
天乃鳥船神 (あめのとりふねのかみ)
『古事記』では、建御雷神(たけみかづちのかみ)の副神として葦原中国平定に赴いたと記される。
息栖神社は鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、香取神宮(千葉県香取市)とともに【東国三社(とうごくさんじゃ)】と呼ばれている。
息栖神社の事を語る文章に、東国三社のうち他の二社に比べてより穏やかな趣がある神社が息栖神社だと云う。
つまり、鹿島(建御雷神タケミカヅチ=武甕槌大神)と香取(経津主神フツヌシ)に祭られる二神が、武神(軍神)であり、その神剣であるのに対して、息栖神社(久那斗神クナドノカミと天乃鳥船神アメノトリフネノカミ)は、武神の乗り物であった「天鳥舟(アメノトリフネ)」という神が祭られているからだとか!?
平安時代に「神宮(じんぐう)」の称号で呼ばれていたのは、『延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう:当時の官社の一覧表)』によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社だけだった。
鹿島と香取の両神宮が、日本の国でも別格の位置にあった事に比較し、
息栖神社は古くは「於岐都説神(おきつせのかみ」と記され、1321年の古文書では「おきすのやしろ」と記されたと云う。この「おきつせ・おきす => 沖洲」という古称から、香取海(かとりのうみ:古代の関東平野東部に広がっていた内海で、現在は霞ヶ浦や印旛沼などに名残を留めている)に浮かぶ沖洲(おきす)に祀られた神であると考えられている。
息栖神社が東国三社(とうごくさんじゃ)の一つと呼ばれている事については、私は今まで全く知らずにいた。もちろん、東国三社の意味も。
そして「東国三社巡り」の言葉があるが、江戸時代に「お伊勢参りの禊ぎ(みそぎ)の三社参り」と呼ばれ、信仰を集めた旅になっていた。
とりわけ、関東以北の人は伊勢神宮に参宮(さんぐう)したのち、「下三宮巡り」と称してこの三社を参拝したと云う。
<息栖の津・渡船場跡>
「息栖の津」は古い時代からあった。今から約七百年の昔、応安7年(1374年)記の香取神社文書「海夫注文」にその名が見える。当時、この流域の支配権を持つのは香取神社で、下総国側の24、常陸国側の50の津(港)を支配した。
「息栖の津」も利根川を往来する舟船の船着場とし、また魚労の拠点としての網引・釣魚に大きな役割を果たしていたようだ。
この時代には海水が入り、この辺りでもサケは勿論のこと、タイ・ヒラメ・ハマグリ等が獲れていたとの記録が残っている。
江戸時代になると、江戸の文人墨客、庶民の、東国三社(鹿島神宮・香取神宮・息栖神社)を巡拝する旅が盛んになった。日本橋小網町を小船で出発し、途中徒歩もあるが、下総国木下河岸(千葉県印西市)より木下茶船に乗り、利根川を下って三社に向かった。
記録には木下河岸を出る船数は、安永年間(1854年~)には年平均4400~4500隻にも達している。単純計算で1日12隻もの船が出航している。香取神社から鹿島神宮へ向かう途上、息栖神社へ立ち寄る慣例であった。
利根川の支流の辺に立てられた大きな鳥居があり、その支柱の両側に井戸があって、小さな鳥居が立てられている。「男瓶(おがめ)」と「女瓶(めがめ)」と言う名の井戸の中には魚が泳いでいる。
この井戸は、汽水(きすい: 海水と淡水の混合による低塩分の水)の中に湧き出す非常に珍しいもので、 「忍潮井(忍塩井)=おしおい」と呼ばれ、伊勢の明星井、伏見の直井とともに日本三霊水に数えられている。
海水をおしのけて清水が湧出していることからこの名前になったということです。
初めて訪れた息栖神社はなかなか興味深く、その歴史や地勢、水運といった新しい知識を得た。
・・・・・- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.0
-
思い立ったが吉日!とばかりに佐原のウナギ料理を食べに長谷川を訪れた。
投稿日 2025年01月12日
総合評価:4.0
佐原の鰻を食べる事、荘厳寺(しょうごんじ)の十一面観音に祈願する事、一度も足を向けたことが無い諏訪神社を訪れる事・・・本日の目的は三つである。
2024年の12月21日(土)、思い立ったが吉日!とばかりに佐原に向かう。
今日は久しぶりに「うなぎの長谷川」で食べる。
それから初めての諏訪神社に参詣、
さらに受験生の孫二人の為に佐原の荘厳寺(しょうごんじ)の十一面観音に御参りだ。
長谷川は天保2年(1831年)の創業当時から鰻一筋の商いを続けている佐原の味処で、初代から連綿と受け継がれてきた自家製のタレが、店の何よりの自慢だ。
<さわらグルメマップ>で紹介されるお店・和食のトップに名がある。
アクセス:佐原駅[南口]徒歩6分
ここ3年ばかりは長谷川に何時もフラれて、「うなぎ割烹 山田(昭和天皇も訪れたと云う」、その山田からも近い「やま川」に行くことが多かった。
今日は幸い昼時を少しずれていた所為か、空いていた。
私共はいつものように座敷は避けて、椅子席に座る。
佐原は成田と共に鰻料理で知られているが、佐原では長谷川が地元の人に好まれているそうだ。
だが、いつの間にか、隣にあった千葉銀行の佐原支店が市内の別の場に移転して空き地になっていた。良いお得意さん(固定客)が減ったのではないかと思った。
うな重、肝吸い付きは4,500円也。毎年値段が上がる!!
鹿児島産のウナギだと、表示されていた。
この時間には私共を入れて3組のカップルが来客、私共が食事を終える頃に近所の女性親子が来店し、親し気に年輩のスタッフ(3人とも以前から務めている)と世間話をしながらうな重を楽しんでいた。
うな重に満足して、長谷川を出る。
・・・・・- 旅行時期
- 2024年12月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人当たり予算
- 5,000円未満
- 利用形態
- ランチ
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- サービス:
- 4.0
- 雰囲気:
- 4.0
- 料理・味:
- 4.0
- 観光客向け度:
- 3.0
-
ヴィリニュス旧市街(世界遺産)で、リトアニアの歴史を飾る王侯の像や伝説に満ちた聖カジミエルの画、奇跡のマリア像を見てまわった。
投稿日 2024年11月03日
総合評価:4.5
【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
2009年10月19日(月)~26日(月)
訪問地;
Lithuaniaリトアニア
・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
Latviaラトヴィア
・首都Rigaリガ
Estoniaエストニア
・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン
<2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>
「ヴィリニュス旧市街観光(旧市街は1994年に世界遺産に登録)」
(13:30~15:00)
深い緑に囲まれた、リトアニアの首都・世界遺産ヴィリニュス旧市街の面積は3.6平方キロメートルと、北欧最大の旧市街には歴史的・文化的事物が多い。
バルト二国の首都リガやタリンの旧市街と較べて、旧市街を囲む城壁がなく、更に旧市街には他で見られるドイツ騎士団・ハンザ同盟の影響もない。
旧市街の建築物は約1,500あり、バロック様式・ゴシックやルネッサンス様式と様々なスタイルのものが見られる。特筆すべきは28のカトリック教会(この国はカトリック国ですから、当然ですが・・)に加えて、8のロシア正教会,モスク、シナゴークという宗教施設が多い事であろう。
旧市街から少し離れた「リトアニアバロックの真珠!」と称されている聖ペテロ・パウロ教会を第一に見て、ゲディミナス城跡の丘とゲティミナス塔、聖アンナ教会を見ると、後はリトアニアの歴史を飾るMindaugasミンダウガス王像やケディミナス大公像であり、ヴィリニュス大聖堂の聖カジミエルの礼拝堂、夜明けの門の“奇跡のマリア”などの宗教施設を訪れる。
1)リトアニア民族博物館前で、最初で最後のMindaugasミンダウガス王(当時のリトアニアはドイツ騎士団の侵攻に苦しめられていたが、ミンダウカスは諸部族をまとめてリトアニアを統一し、1246年に即位した。)の銅像を拝した。銅像下に書かれた文字は当時の象形文字だそうだ。
2)“ヴィリニュス創設の伝説”の鉄の鎧を着けた狼を従え、剣を振りかぶったケディミナス大公像と乗馬像は、ヴィリニュス大聖堂の前のカテドゥロス広場に見る事が出来る。
3)ヴィリニュスのシンボルである主教座教会であるヴィリニュス大聖堂:
最初の教会は13世紀に騎士団の圧力から逃れるため、キリスト教を受け入れた、ミンダウガス王によって建設された。しかし王が暗殺されると、自然崇拝の聖地に戻ります。1387年にヨガイラ公により、再びキリスト教化され、教会は再建される。現在の建物は18世紀に大改装されて、ギリシャ神殿風の古典主義(クラシック)様式建造物となった。
内部に入ると身廊があり、堂内は割りと明るく、側廊との間にある柱には12使徒の絵が飾られている。パイプオルガンや様々な礼拝室があり、特に大きく、素晴らしいのはリトアニアの守護聖人・聖カジミエルの礼拝堂だ。
ここには聖人の石棺も安置され、黒の大理石が印象に残る。礼拝堂には2枚のフレスコ画があり、聖人の奇蹟・伝説を表している。左方の壁画は聖カジミエルの棺が120年経って、開けられたが、遺体が少しも腐敗していなかった。
右方の壁画は聖人の棺のそばで少女スウラが、死から蘇るというものである。
礼拝堂の聖カジミエルの聖画は銀を被せてある。その像は右手が二本あるように見える!絵師が絵を描いた時に、描いてもいない二本目が生じて、消しても消えないという、奇蹟!が起こったのだと云う。
大聖堂の前のカテドゥロス広場には大聖堂の鐘楼が建つ。高さは53mで、基礎の部分は13世紀の城壁の塔が使われているとか。
4)夜明けの門の“奇跡のマリア”:
かつて、タタール人の侵攻を防ぐ為の城壁があり、元来9つあった城門の一つだけが残っている。上部のルネッサンス様式の装飾は16世紀のもの。
リトアニアの紋章である白い騎馬像が描かれている。
この門の反対側は礼拝堂であり、ここに有名な“奇跡のマリア”のイコンがある。
写真を見ると、マリアは黒いマリア像で、顔や手は黒く、冠や後光、衣類は金色に塗られている。この門の下を通りながら、上を見上げて祈りを捧げる人が多い。窓が開け放されると、黒いマリア像を見ることが出来るのだが、今は閉まっていて、何も見えない。
この黒い(健康である象徴)マリアに祈ると、あらゆる願い事が叶うという。病の治った人々がお礼に寄進した、手形、足形、頭部の形などが、像の周辺、像を修める厨子の柱や壁などに、貼られているそうだ。
顕彰碑によると、1993年ローマ法王ヨハネ・パウロ二世がここを訪れている。
16:25カウナスに向かう。
・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2009年10月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 4.0
-
「リトアニアバロックの真珠!」と称され、教会美術に興味が無い人も魅了し、じっくりと見たい教会である。
投稿日 2024年10月29日
聖ペテロ & パウロ (ペトロ イル ポヴィロ)教会 ビリニュス
総合評価:5.0
【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
2009年10月19日(月)~26日(月)
訪問地;
Lithuaniaリトアニア
・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
Latviaラトヴィア
・首都Rigaリガ
Estoniaエストニア
・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン
<2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>
「ヴィリニュス旧市街観光(旧市街は1994年に世界遺産に登録)」
(13:30~15:00)
深い緑に囲まれた、リトアニアの首都・世界遺産ヴィリニュス旧市街の面積は3.6平方キロメートルと、北欧最大の旧市街には歴史的・文化的事物が多い。
バルト二国の首都リガやタリンの旧市街と較べて、旧市街を囲む城壁がなく、更に旧市街には他で見られるドイツ騎士団・ハンザ同盟の影響もない。
旧市街の建築物は約1,500あり、バロック様式・ゴシックやルネッサンス様式と様々なスタイルのものが見られる。特筆すべきは28のカトリック教会(この国はカトリック国ですから、当然ですが・・)に加えて、8のロシア正教会,モスク、シナゴークという宗教施設が多い事であろう。
9:00、最初に向かったのは町の外れにある聖ペテロ&パウロ教会(1675年創立)である。
聖ペテロ・パウロ教会は「リトアニアバロックの真珠!」と称されている。
ロシアからの解放を記念して建てられた教会で、1668年から建設が始まり、外観に7年、内装にはさらに30年あまりの歳月が費やされたと云う。
ヴィリニュス観光の中心地・旧市街からはちょっと方向違いのアンタカルニス地区にあり、やや離れているものの、教会美術に興味が無い人も魅了し、じっくりと見てまわりたい教会である。
朝日を背景に二つの塔を持つ、赤い屋根とマッチした、ベージュ色の教会は実に神々しく見える。
教会内は漆喰の白さで大変明るい印象を受けた。バロック調の華やかな彫刻が壁や天井を覆っており、それら約2000体の漆喰彫刻が素晴らしい。バロックの“氷れる音楽”と称されるのも、もっともだと思えた。
入口の左右にはドイツ・ラインの守護聖人であるクリストファー聖人の彫刻(生)と、それと対になった大きな鎌を持つ骸骨像(死)がある。
絵画が飾られていた祭壇、天井の絵画、ちょっと驚いたのは、宙吊りされた帆船(スウェーデンから贈られた、見事なシャンデリアは人を天国に運ぶのだと・・・)、そしてマグダリアのマリア像(ある貴族の奥さんをマリア像にかりて描いたと言われる)。
ポーランド出身の、先のローマ法王パウロ2世の来訪記念肖像、パイプオルガンと漆喰彫刻、丸天井と、最初の観光名所は印象深いものでした。
・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2009年10月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- 展示内容:
- 5.0
-
メルヘン街道の目玉:ラプンツェル(髪長姫)の古城ホテル トレンデルブルク城
投稿日 2020年06月24日
総合評価:5.0
<2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
(14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)
9月28日(土) 72km 、曇りのち晴れ、14℃~16℃
*起床6:00、朝食7:50~8:20、Hannoversch Muendenハノーフェルシュ・ミュンデンの市内見物8:45~10:35、11:00出発 =>B3・ B80 17 km Veckerhagenフェッカーハーゲン11:15~12:00 =>K52 L3229 12 km Dornroeschenschloss Sababurg古城ホテル いばら姫のザバブルク城12:17~13:00=>K56・L763 13 km Hotel Burg Trendelburgホテル ブルク トレンデルブルク 13:30~14:05
ザバブルク城を13時に出発した。村道を13 km走ると、人口6000人という小さな木組みの家の並ぶ村の中心に、Hotel Burg Trendelburg古城ホテル ブルク トレンデルブルクが見えて来る。
トレンデルブルク城もラインハルトの森の中にある。グリム童話の赤頭巾ちゃんの話が生まれたラインハルトの森は実に広大なのだ。
丘陵地帯に茶色の高い塔が見えてくる。あれが名高い“ラプンツェルの塔”だ。
<Trendelburgトレンデルブルク>
13:30~14:05
ザバブルク城と同じく、1977年5月のPfingstenフィングステン(聖霊降臨祭)の4日間の休みを利用した家族旅行(メルヘン街道)、1982年7月の日曜日に一日で700kmのドライブ旅行(カッセルからハーメルンまでのメルヘン街道)と二度、この古城ホテルを訪れているが、二度ともテラスレストランで、ティータイムを取っただけで、泊まりませんでしたが、漸く2005年の旅で1泊することができた。
2013年10月16日(水)にも訪れた。2013年の時はヴァルデック城をスタートし、カッセルやハン・ミュンデンを経由し、フュルステンベルクを再訪、カールスハーフェンからトレンデルブルク、サバブルク、カルデンと巡り、ヴァルデック城に戻った。
今回はフェッカーハーゲン、サバブルク、トレンデルブルクと行程が逆になる。
今年も又再び訪れたが、ぐるりと回遊するだけだ。
<Burghotel Trendelburg古城ホテル トレンデルブルク城>
D-34388 Trendelburg 、 Steinweg.1
TEL:49(0)5675-9090、FAX:-9362
http://www.burg-hotel-trendelburg.com/de/
4星・全22室。この城は1303年コンラッド3世伯爵が建てたのが始まりと云われている。大火災や戦乱に巻き込まれ、城は2度も炎上したものの、その都度修復され、その後も幾多の変遷をへて、1948年この城主の末裔によって、6室のみのホテルが開業された。
今は中世の雰囲気をもつ古城ホテルとして、メルヘン街道の目玉になっていて、世界中からやって来る観光客の人気も高い。
古城前の駐車場に車をおき、60mぐらい歩くと、ラプンツェルの塔が目に入る。
細い橋を渡って、狭い城門をくぐり、石畳の城内に入ると、カスターニアン(とちの木)の大木、見張り塔が目に入ってくる。
高い塔にはラプンツェルの長い髪を模したロープが下がっていた。以前はここまでやっていなかった記憶だが、ディズニー映画の影響もあるのだろう。
1907年発行のグリム童話では『魔女に閉じ込められたラプンツェルが塔から長い髪を垂れ下げ、王子に助けてもらった』という話が載っていて、トレンデルブルクの塔は其のモデルに使われたそうです。
テラスから周辺のラインハルトの森を遠望する。以前は見なかった大きな建物が下に見える。宿泊施設や駐車場・広場といったものだが。こうして森も少しずつ少なくなっていくのだろう。
塔には登る元気は無いので、古城ホテル トレンデルブルク城の内部を見せてもらう。城内に入ると、歴史の重みを感じさせる、武具、アンチーックな家具、調度が見事である。
近年に改装した様子で、Burgrestaurantブルクレストランもきれいになっていた。
ホテル内の装飾はいろいろと加えられて、古城の雰囲気も増していた。
ラインハルトの森、赤いレンガ屋根の家々、緑の畑が一望でき、ロマンチックである。
秋には鹿、猪、キジ、茸など、ラインハルトの森の恵みを受け、ホテル自慢の料理を提供するそうである。
私共にとって特別のニュースはホーフガイスマルに向かう道で、ディーメル川の岸辺に立つ「Trendulaトレンドゥラの木像」を発見し、漸くその姿を撮った事だろう。
Diemelディーメル川(ヴェーザー川の支流:全長110.5km)でいったん止まり、木像の写真を撮ってからトレンデルブルクを14:05に出発した。
・・・・・- 旅行時期
- 2019年09月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
-
投稿日 2014年08月20日
総合評価:4.0
≪Burghotel Trendelburg古城ホテル トレンデルブルク城≫
14:25?14:45
D-34388 Trendelburg 、 Steinweg.1
TEL:49(0)5675?9090、FAX:?9362
http://www.burg-hotel-trendelburg.com/de/
4星・全22室。
この城は1303年コンラッド3世伯爵が建てたのが始まりと云われている。大火災や戦乱に巻き込まれ、城は2度も炎上したものの、その都度修復され、その後も幾多の変遷をへて、1948年この城主の末裔によって、6ベッドのみのホテルが開業された。
今は中世の雰囲気をもつ古城ホテルとして、メルヘン街道の目玉になっていて、世界中からやって来る観光客の人気も高い。
バート・カールスハーフェンでB80(ハン・ミュンデン方面)とB83(トレンデルブルク城・ザバブルク城方面)に分れる。
ここでどちらにするか迷ったが、木組みの家並みより、B83のメルヘン街道の古城ホテルを選んだ。ラインハルトの森を通る道だが、ここには何度も来ている。
森を抜けると、急に明るくなり、前方の丘陵地帯に茶色の高い塔が見えてくる。
グリム童話に名高い“ラプンツェルの塔”だ。フュルステンベルク城から31kmでトレンデルブルク城に到着。
カスターニアン(とちの木)の大木、見張り塔が目に入ってくる。
城内に入ると、歴史の重みを感じさせる、武具、アンチーックな家具、調度が見事である。 白の天蓋つきの部屋:No.8(2005年・1泊朝食付きEuro130でした。)もレストランも皆、趣があり、これぞ!!古城ホテルと思う。
1977年5月のPfingstenフィングステン(聖霊降臨祭)の4日間の休みを利用した家族旅行(メルヘン街道)、1982年7月の日曜日に一日で700kmのドライブ旅行(カッセルからハーメルンまでのメルヘン街道)と二度、この古城ホテルを訪れているが、二度ともテラスレストランで、ティータイムを取っただけで、泊まりませんでしたが、漸く2005年の旅で1泊することができた。
今日はメルヘン街道を走ると云う事で、こちらを再訪問した。
古城前の駐車場に車をおき、橋を渡る。左手にラプンツェルの塔が立ち、ラプンツェルの長い髪を模したロープが下がっていた。以前はここまでやっていなかった記憶だが、ディズニー映画の影響もあるのだろう。
狭い城門をくぐり、中庭に入ると、秋真っ盛りの古城だった。やはり良いもので、しばし散策をする。塔には登る元気は無いので、古城ホテル トレンデルブルク城の内部を見せてもらう。
近年に改装した様子で、Burgrestaurantブルクレストランもきれいになっていた。秋になると、鹿、猪、キジ、茸など、ラインハルトの森の恵みを受け、ホテル自慢の料理を提供するそうである。
親切な奥さんが私共の写真をかつての古城の絵や甲冑の前で撮ってくれた。
また、来てみたいなと、ツィ思ってしまう。
XXX
<グリム童話・“Rapunzelラプンツェル” (髪長姫)>
あるところに夫婦がいた。長年子供がなかった2人だが、ある時やっと子供を授かる。
妊娠した妻は隣に住むゴーテルという魔女の庭のラプンツェル(妊婦が食べるのによいとされる野菜)を食べたくてたまらなくなる。
食が細ってやつれた妻に「ラプンツェルが食べられなければ死んでしまう。」と懇願された夫は、妻と生まれる子のために魔女の敷地に忍び込むとラプンツェルを摘み取りにかかるが、魔女に見つかってしまう。
しかし夫から事情を聞いた魔女は、好きなだけラプンツェルを摘んでもいいが、子供が生まれたら自分に渡せと言う。
やがて妻が生んだ女の子は、即座に魔女に連れて行かれる。ラプンツェルと名付けられた娘は、森の中に築かれた入り口のない高い塔に閉じ込められる。魔女はラプンツェルの見事な長い金髪をはしご代わりに、窓から出入りしていた。
そんなある日、森の中を歩いていた王子が美しい歌声に引かれ、塔の中に閉じこめられたラプンツェルを発見し、魔女と同じ方法を使って塔に登る。魔女に隠れて夜ごと王子を部屋に招き入れて愛し合い、ラプンツェルは妊娠する。
その事実を知って、激怒した魔女はラプンツェルの髪を切り落とし、荒野へと放逐してしまう。 一方、何も知らずラプンツェルを訪ねてきた王子は、待ち受けていた魔女から罵られる中で全ての顛末を知って絶望し、塔から身を投げて失明する。
7年後、盲目のまま森をさまよっていた王子は、男女の双子と暮らしているラプンツェルとめぐり会う。
うれし泣きするラプンツェルの涙が王子の目に落ち、王子は視力を回復する。王子はラプンツェルと子供たちを伴って国に帰り、皆で幸せに暮らしたそうだ。(Wik)
XXX- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 1人1泊予算
- 10,000円 未満
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- サービス:
- 4.0
- バスルーム:
- 3.5
- ロケーション:
- 3.5
- 客室:
- 4.0
-
ヴィリニュスのゲディミナス塔傍に最も特筆すべき標が有りました。 いわゆるバルト三国を繋いだ【人間の鎖】です。
投稿日 2024年10月25日
総合評価:5.0
【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
2009年10月19日(月)~26日(月)
訪問地;
Lithuaniaリトアニア
・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
Latviaラトヴィア
・首都Rigaリガ
Estoniaエストニア
・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン
<2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>
「ヴィリニュス旧市街観光(旧市街は1994年に世界遺産に登録)」
(13:30~15:00)
深い緑に囲まれた、リトアニアの首都・世界遺産ヴィリニュス旧市街の面積は3.6平方キロメートルと、北欧最大の旧市街には歴史的・文化的事物が多い。
バルト二国の首都リガやタリンの旧市街と較べて、旧市街を囲む城壁がなく、更に旧市街には他で見られるドイツ騎士団・ハンザ同盟の影響もない。
旧市街の建築物は約1,500あり、バロック様式・ゴシックやルネッサンス様式と様々なスタイルのものが見られる。特筆すべきは28のカトリック教会(この国はカトリック国ですから、当然ですが・・)に加えて、8のロシア正教会,モスク、シナゴークという宗教施設が多い事であろう。
まず、丘の麓を通るアルセナーロ通り(Arsenalo gatvė)からゲディミナス城跡の丘にケーブルカーで登り、ゲディミナス塔より、ヴィリニュス旧市街の素晴らしいパノラマを楽
しむこととする。
≪ゲディミナス城跡の丘とゲティミナス塔(13世紀・内部は小さな歴史博物館)≫
この城には“ヴィリニュス創設の伝説”が残っている。
『ある日、トラカイ城から、狩に出かけたゲディミナス大公は二つの川に挟まれた丘の近くに野営を張りました。その夜、大公は不思議な夢を見た。
それは丘の上に立ち、大きく吠える鉄の鎧を着けた狼の夢でした。祭司のリジェイカがその夢を神の神託と判断しましたので、喜んだ大公はその丘に城を築くことにしたそうです。その丘がゲディミナス城跡の丘なのです。
その伝説の鉄の鎧を着けた狼を従え、剣を振りかぶったケディミナス大公像と乗馬像は、大聖堂の前のカテドゥロス広場に見る事が出来る。
ゲディミナス城跡の丘から、そして75段の階段を上がり、ゲディミナス塔より眺めた旧市街や3つの十字架の丘のパノラマは美しいものでした。
やや陰ってきた秋の空でしたが、黄葉に染まった町の眺めや、ネリス川の先に見える近代建築の高層群は見厭きないものです。
・・・・・
そしてここには最も特筆すべき標【人間の鎖】が有りました。
いわゆるバルト三国を繋いだ【人間の鎖】です。他の口コミにはザックリ見た限り、書かれていないので、此処で書き残しておこうと思います。
そのスタート時点はこの塔の下から始まったのです。別名【バルトの道】と称し、1989年8月23日、当時ソビエト連邦支配下にあったバルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)の独立運動の一環として行われたデモンストレーションを指します。
およそ200万人が参加して手をつなぎ、3カ国を結び、600キロ以上の人間の鎖を形成したそうです。人間の鎖にどれだけの人が参加したかは報道によって異なる。
翌日のロイター通信によれば、エストニア人70万人、ラトヴィア人50万人、リトアニア人100万人が参加したと報じている。(ソ連国家保安委員会KGBが人間の鎖を繋ぐ人々を詳細に撮影した為に、今その記録を見る事が出来るのだという)
このデモンストレーションは、バルト三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約秘密議定書締結50周年を期して行われ、三国が共通の歴史的運命を共有していることを、国際社会に訴えるために行われた。
1990年8月20日、三国はそろって再独立を果たした。
・・・・・- 旅行時期
- 2009年10月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 5.0
- 景観:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
-
ヴィリニュス:聖アンナ教会は33種類の異なった形のレンガが使われ、当時のヨーロッパでは他に例がないと云う。
投稿日 2024年10月22日
総合評価:3.5
【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
2009年10月19日(月)~26日(月)
訪問地;
Lithuaniaリトアニア
・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
Latviaラトヴィア
・首都Rigaリガ
Estoniaエストニア
・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン
<2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>
大聖堂のあるカテドゥロス広場を横切り、ヴィルナ川が蛇行している半島に建つ聖アンナ教会に向かう。ザンネンな事に教会は修復中で、傍のベルナルディン修道院(聖アンナ教会と同時期に建てられた。美しいフレスコ画がある)を遠くに見て帰る。
聖アンナ教会は写真で見ると、16世紀後半に建てられた見事なゴシック様式の教会だ。建設には33種類の異なった形のレンガが使われ、当時のヨーロッパでは他に例がない教会であるそうだ。
この教会にはこんなエピソードが残る。
*1812年ロシア攻め (Russlandfeldzug von 1812)のナポレオン皇帝が、この教会を見て『わが手に収めて、フランスに持ち帰りたい』と云ったとか・・・。
*ロシア帝国が大陸封鎖令を守らないことを理由にフランス帝国のナポレオン1世がロシアに侵攻し、モスクワを占領するも結果的にロシアの冬に敗北し、退却した。ナポレオンのヨーロッパ制覇の野望及び彼の人生に対する決定的な大打撃(転換点)になった。
尚、皇帝の行軍の道は地図で見ても、当時ロシア帝国の支配下にあったバルト三国だが、これらの国々を経由した様子がない。
この後、Piliesピリエス通りをぶらぶらする。気にいったCaféを見つけた。
お茶:Café Saskaitaカフェ サスカイタ (15:20~55)
ピリエス通り19のカフェSaskaita (現在はPilies Kepyklėlė)に入った。
ココア4X2 =8Litasリタス 、アップルクーヘン7X1=7Litas 合計15 Litas=600円。
寒い日には暖かいココアが一番だ。
美味なるリンゴのケーキにアイスがかかったものを二人で食べた。
・・・・・- 旅行時期
- 2009年10月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.5



















































































































































































