jijidarumaさんのクチコミ(18ページ)全662件
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ヴァイカースハイム:マルクト広場は教会、庁舎、博物館、ホテル、レストランなどがあり、中世以来の共同体の良い光景を見せている。
投稿日 2020年11月27日
総合評価:4.0
≪2012年ドイツ麗しの5月:ロマンチック街道、シュヴェービッシュ・アルプ街道、古城街道を行く≫
Weikersheimヴァイカースハイム観光:
15:45~17:30
ホーエンローエ侯爵家の城下町・ヴァイカースハイムは、Vorbachフォルバッハ川がTauberタウバー川に注ぐ川口付近に位置する。人口7千人と小さい。
周囲を葡萄畑と森に囲まれたヴァイカースハイムと、北にあるW-Schaefterheimシェフタースハイムは有名なブドウ栽培地であり、ヴュルテンベルク・ワイン生産地のコッハー・ヤークスト・タウバー地域タウバーベルク地区に属す。
この日、楽しみにしていた、久しぶりのヴァイカースハイム城見物から、マルクト広場に戻る。
マルクト広場周辺にはプロテスタントのStadtkirche St. Georg聖ゲオルク教会(1419年築)、Rathaus市庁舎(1711年築、Ehemaliger Kavaliersbau、 spaeter Dekanatかつての騎士たちの家、後の教区監督者)の家、現在は市庁舎) 、Tauberlaender Dorfmuseumタウバー地方郷土博物館(1582年築、かつては果物の倉庫や地下蔵として使用された家)、Marktbrunnenマルクト広場の泉(1767年築、2002年改装)、さらにホテルやレストラン、木組みの家などが見られ、なかなか良くまとまった中世以来の共同体をつくり、感じの良い光景を見せている。、
XXX- 旅行時期
- 2012年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- 景観:
- 4.0
-
バート・メルゲントハイム:かつてプロイセン(後のドイツ帝国)を封土として支配したドイツ騎士団が此処に置かれていた。
投稿日 2020年11月26日
総合評価:4.0
ドイツ2012年・麗しの5月:マインツ選帝侯の城、ドイツ騎士団宮殿、ホーエンローエ侯爵家の居城を訪ねた
<Deutscher Ordenドイツ騎士団とは?>
ドイツ騎士団とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。
正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会と称する。
12世紀後半、聖地パレスチナに巡礼するキリスト教信者を護衛し、病院を設立する目的で設立された。
中世には聖地やバルト海地域で十字軍の騎士修道会として活動した。プロイセンなどを統治し、東方植民の先駆けとなった。テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。
<ドイツ騎士団の本部の変遷>
アッコ(現イスラエル北部:1192~1291年)
ヴェネツィア(イタリア:1291~1309年)
マルボルク (ポーランド王領プロシア:1309~1466年)
ケーニヒスベルク( 東プロイセン・旧ドイツ東部領土:1466~1525年)
*バート・メルゲントハイム(ドイツ中部:1525~1809年)
ウィーン(1809~現在) ・・・(Wiki抜粋)
<Deutschordensschlossドイツ騎士団宮殿>この旅⑧番目の城
D-97980 Bad Mergentheim 、Schloss 16
http://www.deutschordensmuseum.de/
ブルク通りをまっすぐ進むと、ドイツ騎士団の居城の城門に至る。
立派な紋章が掲げられた半円形の城門をくぐって中に入ると、中央に大きな菩提樹が立つ中庭がある。
かつては水城で、13世紀にドイツ騎士団の居城となった。
この騎士団は東方植民地の獲得に活躍し、プロイセン(後のドイツ帝国)の基礎を築いたと云う。
当地には旧教派の騎士団が残り、ナポレオンに敗退するまで、本拠地としていたので、1526~1809年の長い間、騎士団総長の宮殿があった。
Schlosskircheドイツ騎士団教会は高名な建築家のJohann Balthasar Neumannヨハン・バルタザール・ノイマンの作品で、歴代の騎士団総長等の墓がある。
1996年開設の博物館:
開館;火~日・祭日 10時半~17時
制服、紋章、歴史文書で300年に及ぶドイツ騎士団総長の伝統を展示している。
・・・
残念ながら、次の町のヴァイカースハイム城が気になり、騎士団宮殿や教会を見ることなく、閲兵では600頭の騎馬が埋め尽くしたと云う広大な中庭をちょっと散策して終わった。- 旅行時期
- 2012年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
-
バート・メルゲントハイム:ドイツ騎士団総長シュッツバル、又の名ミルヒリングの名が付いた噴水(泉)のこと。
投稿日 2020年11月25日
総合評価:4.0
≪バート・メルゲントハイム:ドイツ騎士団総長Wolfgang Schutzbarヴォルフガング・シュッツバル、又の名ミルヒリングの名が付いたMilchlingsbrunnenミルヒリングの噴水(泉)のこと≫
(2012年ドイツ麗しの5月:ロマンチック街道、シュヴェービッシュ・アルプ街道、古城街道を行く)
Wolfgang Schutzbarヴォルフガング・シュッツバル(1483年~1566年、Milchlingミルヒリングとも称された)は1483年、ヘッセン州中部のギーセン地方のTreis an der Lumdaトライス・アム・ルムダで生まれ、 1507年にDeutschen Ordenドイツ騎士団に入った。
1529年、彼は当時マールブルクのLandkomtur地方騎士修道会長(騎士団司令官の意か?)であったDaniel von Lehrbachダニエル・フォン・レールバッハのKoadjutor補佐官に取りたてられた。シュッツバルは1529年にレールバッハ地方騎士修道会長を引き継ぎ、その後、1543年までBallei Hessen in Marburgマールブルクのバレイ・ヘッセンの地方騎士修道会長を勤めた。
1543年、シュッツバルはWasserleitungメルゲントハイムに置かれていたドイツ騎士団の39代(1543~1566年)のHochmeister総長になった。
1544年、Kaiser Karl V.皇帝カール5世(1500年~1558年)により、Preussenプロイセンを封土として与えられた。
彼はメルゲントハイムで死去する前、1564年にRathaus庁舎を建て、この町最初のWasserleitung水道管(設備)を作り、この町に寄与した。
そのこともあってだろう、現在もこの町のマルクト広場に彼の像「Milchlingsbrunnenミルヒリングの噴水(泉)」が立っている。
ミルヒリングの噴水(泉)は、メルゲントハイムの町が聖なる泉(Heilquellen)の発見から100年を迎える祝いに、聖なる温泉(Heilbad )が広く知られるようになった事もあって、その記念位1926年に作られたものである。
その前身は遅くとも1548年までに完成し、16世紀の初めから19世紀の終わりまで、マルクト広場7番地にあった。
ミルヒリングの噴水(泉)は、ドイツ騎士団総長ヴォルフガング・シュッツバルの紋章が描かれた盾を持つ騎士の姿を示している。
ただ、剣を持つBremen Rolandブレーメンの騎士ローラントの表現(当時騎士の像の定番として描く)に似たものとなっている。確かに、そう言えばそうだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
以上は、総長ミルヒリングで検索しても、ドイツ騎士団の総長リストに無かったから、何故、ミルヒリングの噴水(泉)と称するのか分からなかったので、調べてみた。
(2020年11月24日訳、編集加筆)- 旅行時期
- 2012年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
-
セピア色の思い出:ドロイトウィッチの古城ホテル(フランス風マナーハウス)に泊まる
投稿日 2020年11月19日
総合評価:5.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
5日目の8月9日ロンドンから90 kmのOxfordオックスフォードを通過し、文豪シェイクスピアの故郷Stratford-upon-Avonストラトフォード・アポン・エイヴォンを見物し、Droitwichドロイトウィッチのマナーハウスに1泊することにした。
≪ドロイトウィッチの古城ホテル(フランス風マナーハウス)に泊まる≫
ストラトフォード・アポン・エイヴォンを巡り、その後はドロイトウィッチ・スパのThe Chateau Impney Hotelシャトー・インプネー・ホテル(いわゆるフランス風のマナーハウス)に至る。
ドロイトウィッチ・スパはBirminghamバーミンガムの南35km、Worcesterウースターの北11kmに位置する。
ドロイトウィッチ・スパはRiver Salwarpeサルワープ川畔(全長32.8 km、Severnセヴァーン川:全長354kmの支流)に発展した町で、大きな岩塩鉱床の上に位置している。
ローマの幾つかの軍団街道がこの町を通り、古くから塩を産する塩鉱山と温泉のある町、歴史的にも温泉療法の地として知られている。
因みにサルワープ川は「岩塩鉱から流れ出る塩水の川」の意味で、この為、純度の高い岩塩はすでにローマ時代にここで産出されていたと云う。
<The Chateau Impney Hotelシャトー・インプネー・ホテル>
このホテルは所謂Manor Houseマナーハウス(ホテル)である。
このマナーハウスは*当時入手していた1973年発行のChateux Hotelsシャトーホテル(仏81、独15、オーストリア4、英11、アイルランド1、スイス1合計113の古城ホテル、マナーハウスを掲載した)案内書にあった。
そこで「シェイクスピアラントのフランスそっくりのシャトー」と紹介されたマナーハウスは66室あることが表示されていた。
シャトー・インプネー・ホテルは65エーカー(換算すれば79,560坪、東京ドーム約5.65個分)という広大な敷地に3000の木々が植わる広大な森・庭園の中にあった。ホテルのゲートから館までは長い道が続く、車で左右が庭園や牧場を横目にしながら道を行く。何やらワクワクする気分だ。
ホテルに至れば、ドアマンが笑顔で出迎え、レセプションの格式ある様子に気分も更に高まり、車から出した荷物を持ったベルボーイに部屋に案内される。
写真が残っていないのが残念だが、ロンドンのホテルに比べると雲泥の違いだ。1泊の宿泊費は£80(ロンドン4泊分が£160)だった。
ホテルの部屋数は66室、本館、レストランとバーがあった。本館内にはとりわけ歴史を感じさせるジェームズ1世時代のオーク彫りの見事な階段が目に付く。
<シャトー・インプネー・ホテルの歴史>
このホテルは1870年代にルイ13世様式でJohn Corbettジョン・コーベット(1817 年~1901年、塩製造の企業家兼商人)により建てられた。
ドロイトウィッチ・スパの町はローマ時代から塩を生産して事で知られている。シャトー・インプネーのオーナーが塩工場を営んでいたのもその事による。
塩の工場で成功したコーベットは1855年にパリ旅行で彼の未来の妻Hanna O'Mearaハンナ・オメアラと会った。彼女はアイルランド出身の両親とパリに住んでいたが、二人は会ってから1年以内に結婚し、6人の子供をもうけた。
ただハンナ夫人はパリ時代が忘れがたく、彼女のノスタルジア(望郷心)を満たす為にコーベットはフランス風の大邸宅を建てたと云う。
1875年に大邸宅は£(ポンド)247,000の費用をかけて完成される。この費用を2007年の価値で換算すると£(ポンド)16,685,895になると云う。1ポンド=250円だった2007年のレートで4,171,500,000円、つまり42億円の大邸宅、町の有力者で、企業家であったコーベットは大金持ちであったわけだ。
尚、コーベット夫妻は結婚後約30年で離婚している。
1925年より館、つまりこの大邸宅をホテルとして開業する。
1978年当時はドロイトウィッチにあるフランス風のシャトー・インプネー・ホテル、いわゆるマナーハウスであった。
ホテルはChateau Impney Hotel & Exhibition Centreシャトー・インプネー・ホテル&展示会・会議センターと称しているが、イングランド中部ウエスト・ミッドランズ州でも、最も大きい展示会スペースを持っていると云う。
シャトー・インプネーは現在もドロイトウィッチ・スパの郊外の有名なlandmarkランドマークとして立っているが、残念にも2020年、シャトー・インプネー・ホテル(現在は106の寝室)を閉じると発表された。
コロナ禍でその後の活動状況は不明だ。
この夜、マナーハウスで頂いた夕食は素晴らしい味と雰囲気でした。その時は気後れしたのでしょう、食事の写真を撮っていない。また当時は食事の写真を撮る習慣もなかったから写真が殆どないのも普通だった。残念だが、今ホテルのHPで見る写真にはその雰囲気が残っていませんが・・・。
夕食代は記録が残り、宿泊費の半分を超える、この旅一番高い£45であった。
・・・・・- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1日
- 景観:
- 5.0
-
セピア色の思い出:シェイクスピアの町ストラトフォード・アポン・エイヴォンは拍子抜けした田舎町だった。
投稿日 2020年11月12日
観光案内所 (ストラトフォード アポン エイヴォン) ストラトフォードアポンエイボン
総合評価:3.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。その旅の第一の目的はScotlandスコットランドのエディンバラ城で行われるEdinburghエディンバラの祭り・「Military Tattooミリタリー・タトゥー」を見に行くことだった。
5日目の8月9日に4泊したロンドンを出発、もうロンドンを離れて北に向かう。スコットランドに向かう途中あちこちを訪ねるのだが、その第一は西34kmの近郊にあるWindsor Castleウィンザー城つまり英国王室の離宮であるウィンザー城を訪ね、衛兵交代式を見る事だ。
それから更にロンドンから90 kmのOxfordオックスフォードを通過し、文豪シェイクスピアの故郷Stratford-upon-Avonストラトフォード・アポン・エイヴォンを見物した。
<シェイクスピアの町ストラトフォード・アポン・エイヴォンは拍子抜けした田舎町だった>
Stratford-upon-Avonストラトフォード・アポン・エイヴォンはイングランド中部のWarwickshireウォリックシャー(州)にある町(人口2万5千人)でRiver Avonエイヴォン川(全長137km、River Severnセヴァーン川:全長354kmの支流)に面して発展した。
ストラトフォードはアングロサクソンの起源を持ち、中世には商業都市だった。町の歴史は800年以上に及び、ストラトフォードの名は古英語で"street"を意味するStratと、川を渡る道を示すfordの組み合わせに由来すると云う。
文豪William Shakespeareウィリアム・シェイクスピア(1564年~1616年)の故郷として世界的に知られているが、それほど文豪を『観光の売り』にしていない様子で、少々拍子抜けするほど、静かな田舎町の景観だった。
当時のブルーガイド海外版(実業之日本社)でも、シェイクスピアの生家、妻の実家、シェイクスピアの墓のあるホーリー・トリニティ教会、シェイクスピア劇場の説明があるだけで、短い行で済ましている。
文豪シェイクスピアは引退するまでの約20年間に、四大悲劇『ハムレット』(1601年)、『オセロ』(1604年)、『リア王』(1605年)、『マクベス』(1606年)をはじめ、『ロミオとジュリエット』(1596年)、『ヴェニスの商人』(1597年)、『夏の夜の夢』(1596年頃)、『ジュリアス・シーザー』(1599年)など、多くの傑作を残した。私共も読んだ覚えのある名前が並ぶ。
さて、ストラトフォードの象徴といてもよい2つの家(博物館)がある。
1つはシェイクスピアの生家である。父ジョンは成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともあり、16世紀のシェイクスピアの実家が当時として裕福な家柄であったことがわかる。彼が10歳だった1574年頃の建物が再現されており、家の内部は居間、寝室、食事の間などが見られた。
もう1つはストラットフォード市中心から1.6kmの距離にある英国風half-timberハーフティンバーの木造の家(Tudor styleチューダー様式。ドイツ的には木組み建築様式の家)と称するもので、屋根は茅葺である。
この家はシェイクスピアの妻Anne Hathawayアン・ハサウェイの生家で、この美しい大きな農家が16世紀のままの姿で保存されている。当時の裕福な農家の典型として残されているのだろう。美しい曲線の萱葺き屋根、複数の部屋のある広い家屋には調度品も置かれ、庭は夏草に深く覆われていたが。
もちろん日本の萱葺きの家とは違う風情、また、ヨーロッパ各地に見られる木組み建築様式の家や萱葺きの家とも違って見える。
この町とロンドンとの対比はすこぶる対照的で、貧富の差が歴然とした感じだ。
つまり思っていた以上に、チューダー様式のハーフティンバーの茅葺屋根の家から受けた印象は写真通りのセピア色で、イギリスきっての文人の故郷は妙に貧しさを感じた田舎町なのだ。
イギリスでは世界に先駆けて18世紀から蒸気機関の開発、改良を契機にして工場制機械工業の発達が促され、18世紀の中ごろから産業革命が進展した。
産業革命は市民革命と並んで、近代とそれ以前を分かつ分水嶺とされている。1815年6月、ワーテルローの戦いでナポレオン戦争の勝利を得て、ヨーロッパのみではなく各国植民地の地図は一変した。フランスが立ち直るには時間がかかり、かつて世界の覇権を握ったスペイン、ポルトガルの植民地は程なく独立し、オランダもケープ植民地(オランダ東インド会社が支配したケープタウン)をイギリスに奪われた。産業革命によって得た経済的優位性を得ていたイギリスは、ナポレオン戦争勝利によって覇権を一段と確たるものとしたのだ。
19世紀半ばから19世紀末にかけてのイギリス帝国はハノーヴァー朝第6代ヴィクトリア女王の統治(1837年から1901年)の下、科学技術は発展し、ロンドンのシティには世界中から資本が集まり、まさに最盛期を迎えていた。
ローマ帝国のPax Romanaパクス・ロマーナ(ローマの平和)に倣って、この時期を「Pax Britanicaパクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」と呼ぶ。
1978年の夏の訪問で見た感じは、イギリスの田舎町にその恩恵は及んでいなかったように思われる。
シェイクスピアの妻の生家が16世紀のままの姿で保存されているのも、逆に歴史の停滞したままに生き残った所為だろう・・・とか、あの文豪シェイクスピアの実家や、彼の終の棲家も復元されたと云うが、その存在はむしろ、そういった思いを裏付けるようだ。
正直に言って、この田舎町に今や年間250万人の観光客が訪れると云う。
それは奇観というと、叱られるが・・・。
・・・・・- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
-
皇帝フリードリッヒⅢ世が1887年にこの城を訪れ、【ブラウンフェルスを見ずに、老いてゆけようか】と云ったそうだ。
投稿日 2020年11月09日
総合評価:5.0
<2006.5.“ドイツ ライン・モーゼル・ラーン周遊の旅”>
期間 : 2006年5月5日(金)~5月19日(金)15日間
目的地: 今回の旅の目的地は二度目のドイツ駐在を終え、1985年5月31日に帰国して以来、21年ぶりとなる“デュッセルドルフ訪問”が第一です。
そして週末や休暇の帰途に、何度も立ち寄った“ライン・モーゼル川、更に言えばルール川、アール川、ラーン川の流域等”を旅するものです。
<Lahn-Ferienstrasseラーン休暇街道巡り>
Lahnsteinラーンシュタイン、山上にそびえるBurg Lahneckラーンエック城を横に眺めながら、渓谷沿いに走るB260に入る。
ラーン休暇街道を即ち、Lahnラーン渓谷沿いの古城、城址、木組みの家々の旧市街、庭園が残る、美しい町々を走り、訪れた。
2006.05.17(水)晴れ時に雲が出て20℃程度の一日 、 146km(通算1857km)
15:35出発、途中の山道から、山上にメルヘンチックなSchloss Braunfelsブラウンフェルス城が見える。三つの塔が高々と立っていて、初めて見る城だが、なかなか形の良い城だ。
15:52 、Braunfelsブラウンフェルスに着く。(以下は抜粋)
Braunfelsブラウンフェルスは高タウナス山系の国立自然公園内にある。ラーン川の南に、750年以上の古い歴史をもつFachwerk木組みの家並みの町があり、今はラーン休暇街道沿いの、人口11400人が住む保養地となっている。
町の中心のMarktplatzマルクト広場からは、見事なSchloss Braunfelsブラウンフェルス城が見える。
第二次大戦では幸いにも被害も受けずに現在に至り、城は博物館となっている。
<Schloss Braunfelsブラウンフェルス城見学>
1時間のミニ・ガイドツアー。ドイツ人で英語を達者に話すお爺さんがガイドだ。
ここでの興味深い事をあげれば:
①皇帝フリードリッヒⅢ世が1887年にこの城を訪れ、【ブラウンフェルスを見ずに、老いてゆけようか?!(日本的には“日光を見ずに、結構と言うな!”かな?!)】と云ったという。
この城のおびただしい文化遺産は絵画であり、武器、家具調度品、陶磁器等のコレクションである。それらは確かに一見の価値あるものである。
②最初の騎士の間
13~18世紀の数々の武器が展示されていて、なかなか見事なものだ。その一角に皆を誘い、ガイドが鎖帷子を皆に持たせて、『どのくらいの重さか?』と聞く。私は『10kgだ』と答えると、ほんとに10kg!!『孫の重さがこんなものでね!』と言うと、ガイド曰く『日本人は頭が良いからな!』
③ゴシックの間
マールブルグ・聖女エリザベートの一番下の娘Gertrud von Altenbergゲルトルート・アルテンベルク(1227~1297);彼女は母が死んだ時、たった3歳であった為、Kloster Altenbergアルテンベルク女子修道院で育ったという)が持っていたゴシック様式の櫃がある。
④祭壇の間
最も興味深い、聖女エリザベートの指輪が展示されている。テューリンゲン方伯・夫ルートヴィヒ四世が十字軍に出かける際に、聖女エリザベートに与えた指輪であると・・・【この城で聖女エリザベートの話を聞くとは想像だにしませんでした。夫ルートヴィヒがイタリアの南・Otrantoオトラントで戦死した時、エリザベートのしていた指輪のオパールの石が血を流したと】・・・伝えられているそうだ。指輪の横にある、13世紀の銀製のピッチャーは聖女エリザベートが貧者や病人に、それでワインを与えたと云う。
(注)ブラウンフェルス城はSolms-Braunfels ゾルムス・ブラウンフェルス伯家の居城であり、近隣のNassauナッサオ伯家などと共に、アルテンベルク女子修道院の支援者であった関係で、聖女エリザベートや娘のゲルトルート・アルテンベルク女子修道院長の遺品が展示されたようである。
聖女エリザベートはハンガリーの王女に生まれ、ヴァルトブルグ城の城主、テューリンゲン方伯のヘルマンの息子ルートヴィヒ四世と14歳で結婚しました。
夫が1227年に十字軍遠征で戦死し、3人の子供と共に城を追放されてしまう。マールブルグにやってきた聖女エリザベートはそこで信心深い一生をおくり、貧者救済の為に献身しました。余りに献身が過ぎた為、24歳で亡くなります。死後、エリザベート信仰が起こり、その墓地へのドイツ各地から巡礼が始まり、4年後の1235年、彼女は“聖女”の称号を受け、マールブルグに聖女エリザベート教会が建設された。
・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2006年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 4.0
-
リンブルクの大酒豪Hattstein-Brunnenハットシュタインの泉
投稿日 2020年07月17日
総合評価:4.0
<リンブルクの大酒豪Hattstein-Brunnenハットシュタインの泉>
Ploetze、D-65549 Limburg an der Lahn
2006年5月、二度目のドイツ駐在を終え、1985年5月31日に帰国して以来、21年ぶりとなる“デュッセルドルフ訪問”を第一に、ライン、モーゼル、ザール、アール、ラーン川の周遊をした。
旅の最終ルート「Lahn-Ferienstrasseラーン休暇街道巡り」は文字通り“Die Lahnラーン川”に沿って走る。ラーン川は、ラーンコプフという標高612mの斜面に水源地から、まず東に、グラーデンバッハ山地北部をカルデルンまで至り(上部ラーン渓谷)、マールブルグ(城、エリザベート教会、大学都市)の上流で南に下り、ギーセン(城、大学都市)の辺りで、ギーセン・ラーン渓谷の地域を切り開いて、西に向きを変えて流れる。
さらにWetzler,Weilburg,Limburgの町々を経由し、幾つかの小さな川がラーンに合流し、全長242kmをゆったりと穏やかに流れ、やがて標高61mの地点、Lahnstein、コブレンツでラインの大河に注ぎ込む。
≪Lahn-Ferienstrasseラーン休暇街道巡り:Limburgリンブルク≫
ライン川の右岸Rheingauer-Riesling-Routeラインガウ・リースリング・ルート”を走る国道B42からBurg Lahneckラーンエック城を横に眺めながら、ラーン渓谷沿いに走るB260に入る。ラーン休暇街道を即ち、ラーン渓谷沿いの古城、城址、木組みの家々の旧市街、庭園など美しい町々を訪れる計画である。
DiezディーツからLimburgリンブルクは2kmと近い。Dom大聖堂近くの駐車場に到着。
Limburgリンブルクは木組みの家々が軒を連ねる旧市街があり、ラーン川に沿った人口3万5千の古都は、千年の歴史ある大聖堂を中心に、その風景は素晴らしいものがある。
13世紀前半に、ロマネスク様式で建てられた大聖堂はまるで美しい王冠を頂いたような姿である。ただ、大聖堂の内部は19世紀に改造された為、大変シンプルなものでちょっと物足りなかったが。
美しい、歴史的な旧市街に足を運び、大聖堂から石畳みの坂道を左右の木組みの家並み・・・13~19世紀・・・を楽しみながら、下りていく。
最も見栄えの良い、撮影ポイントの石造りのラーン橋で写真を撮っていると、ダックスフントを連れた親切な小母さんが我々を『写しましょうか!』と言ってくれた。
写真は残念ながら、期待した大聖堂が家内に隠れてしまっていた。
でも、これだけで、この町が気に入る。
その昔、確かに旧市街の通りを歩き、広場の中央にあったハットシュタインの泉を見たが、もう記憶も定かでない。
「Saeuferbrunnen大酒豪の泉=Hattsteinbrunnen in Limburgハットシュタインブルンネン(泉)」は頭上に持ちあげた酒樽からワイン(泉の水!)を飲んでいる姿がとても珍しい。この像は14世紀、リンブルクの町の指導者だったFriedrich von Hattsteinフリードリヒ・フォン・ハットシュタインだ。
「大酒豪の泉」と親しみを込めて名前が付けられたと思われる「ハットシュタインの泉」はリンブルクの広場に面して立っている。
遠路から来た観光客には丁度良い目印だ。
・・・・・
さて、Friedrich von Hattsteinフリードリヒ・フォン・ハットシュタインはStadthauptmann von Limburg an der Lahnリンブルク・アン・デア・ラーン市長で、1363年に死去した、と簡単な説明がある。
ハットシュタイン家の一族はフランクフルト・アム・マインにも近いTaunusタウヌス山地にあるハットシュタイン城を居城とした騎士領主であった。
Raubritter Friedrich von Hattstein強盗(もしくは盗賊)騎士と云う形容が付いたフリードリヒ・フォン・ハットシュタインであるが、この記念碑である泉(噴水)は、彼に敬意を表して建てられたと云う。
フリードリヒは外向的で人好きの良い性格であったが、反面、退廃的な生活をしていた事で知られている。しかし、1353年、フリードリヒの良い所を知るリンブルクの市民たちは彼をまともな男になるように説得したと云う。
その説得に反省し、まともな男になったフリードリヒは1357年から1363年までリンブルク市長になり、市政に尽くしたと伝えられている。
大酒飲みでもあったフリードリヒは今もワイン樽から流れ出るワイン(水だが)を飲み干すような姿で広場に立っている。
・・・・・- 旅行時期
- 2006年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
-
セピア色の思い出:かつて世界の富が集中したと思わせる大英博物館はすごい
投稿日 2020年11月04日
総合評価:5.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
ロンドンの2日目、8月6日(日)は9時出発、午前中はLondonロンドンの①ウェストミンスター寺院、②国会議事堂とビッグ・ベン、③タワーブリッジ、テームズ川とディスカバリー号、④バッキンガム宮殿と衛兵交代式、午後は⑤トラファルガー広場とライオン像、⑥大英博物館などを巡った。
≪⑥British Museum大英博物館(1759年開館)≫
大英博物館は「英国の歴史が詰まった」博物館であり、時には「世界各地の英国植民地から略奪してきた(泥棒博物館、強盗博物館といった言葉も)」歴史を示すなどと揶揄されているのだが、世界最大の博物館の一つに違いない。
古今東西の美術品や書籍や略奪品など約800万点もの膨大なものが収蔵されており、その内で常設展示されているものでも約15万点を数える規模である。
収蔵品は美術品や書籍のほかに、考古学的な遺物・標本・硬貨・切手やオルゴールなどの工芸品、世界各地の民族誌資料など、多岐に渡っている。
収蔵品は多くが個人の収集家の寄贈によるものだと云う。これは意外だったから、「略奪してきた」と声高に云うのは言い過ぎかもしれない。入場料は無料。
もちろん英国自身の所蔵品も展示しているが、常設展示だけでも余りに多種多様で、一日で全てを見るのは不可能であろう。
ともかく、短い旅の、午後の短い時間を使って、大英博物館を家族で訪れた。
だから、目に付いた、気になった展示品だけを見たが、皆疲れてしまった。
主にエジプト関連の写真を撮ったようだが、多分、フィルムが無くなった所為で、展示品は殆ど撮れていない。中でもエジプト室の展示品は色彩鮮やかな壁画類や動物のミイラもあって、8歳と6歳の娘たちにも大いに興味がもてる展示室だったかもしれない。
ともあれ広い館内を限定的とはいえよく歩いてくれた。
1階正面入口から最初に見えるのはエジプト王朝の巨大な彫刻群だ。アメンホテプ3世像、貴重なロゼッタ石には最初から興味をそそられた。
エジプト王朝の巨大な彫刻群と共に、左手にギリシア・ローマ時代の彫刻、アッシリア・バビロニアの古代文化品・守護獣神像、左奥にはギリシア・アテネのパルテノン神殿から剥がしてきた彫刻類が、規模も大きいパルテノン室に展示されている。正面一番奥のエドワード7世ギャラリーには中国の古美術品など。
ザーッと見ていくしかないのだが、古代の古文書、聖書、英国史に名高いMagna Cartaマグナ・カルタ(大憲章)、写本時代の作品、初期の印刷術によった書籍、世界的な切手コレクションといったものが展示されている。
階段を上がった2階西側にはギリシア・ローマ室にその時代の素焼、青銅作品、銀器、生活用品、宝石・貨幣、白地に紺の模様の飾り皿、壺類の陶磁器類の名品、ガラス工芸品などを集めたコーナーが展示されている。
北側奥にはエジプト室が設けられていて、多くのミイラの展示やエジプト壁画、装飾品が展示してある。エジプト室の北側に西アジア室、横にはバビロニア、マヤ文化の部屋がある。東側には民族学室、インド室、時計室、初期ルネサンス室、ルネサンス室があり、南側に原始時代室、青銅時代室、ローマ時代・イギリス室といった名前が付いた部屋などがある。
やはり印象に残るのは北側奥のエジプト室だ。
大英博物館が略奪してきたものを展示する「泥棒博物館、強盗博物館」と云われたと先に書いたが、英国やドイツ、米国等の大国と、元の所有国のエジプト、ギリシアなどとの間で返還請求問題が生じている。
現在の所有者はいずれも、「これほどの貴重な人類の財産を保存できる国があるだろうか」という考えであり、返還要求に応じていません。
元の所有国たちの過去と現在を見れば、その考えに賛同する。
そうした中でも最も有名な2つの品(英・独は返還要求に応じていません)は
①<Rosetta Stoneロゼッタ・ストーン(ロゼッタ石)>
ロンドンの大英博物館
2003年からはエジプト政府が最も正当な所有者であるとし、ロゼッタ・ストーンの返還を求めている。世界的にはエジプトの妥当性が認められているのだが、イギリスはいまだに返還していない。
②<Bueste der Nofreteteネフェルティティの胸像>
ベルリンの新博物館
1924年にベルリンで『ネフェルティティの胸像』が公開されて以来、エジプト政府はドイツに対し胸像の返還要求を続けていて、こちらもイギリス同様に現在も決着がついていない。
・・・・・- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 4.5
-
セピア色の思い出:英国・日本の海の英雄、ネルソン提督と東郷元帥を思う。
投稿日 2020年10月30日
総合評価:4.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。
ロンドンの2日目、8月6日(日)は9時出発、午前中はLondonロンドンの①ウェストミンスター寺院、②国会議事堂とビッグ・ベン、③タワーブリッジ、テームズ川とディスカバリー号、④バッキンガム宮殿と衛兵交代式、午後は⑤トラファルガー広場とライオン像、⑥大英博物館などを巡った。
・・・・・
⑤Trafalgar Squareトラファルガー広場のライオン像とネルソン提督像
ウェストミンスター広場に1805年のトラファルガーの海戦における勝利を記念して造られたトラファルガー広場で当初は「ウィリアム4世広場」という名前だった。
60mの高さのネルソン提督の像・記念柱(1843年完工、大理石)は噴水の隣に、巨大な4頭のライオンのブロンズ像に囲まれて建っている。
名将ネルソン提督とトラファルガーの海戦:
子爵Horatio Nelsonホレーショ・ネルソン(1758年~1805年)はフランス・スペイン連合艦隊に対して戦史上稀に見る大勝利を収めて、ナポレオンによる制海権獲得・イギリス本土侵攻を阻止した。ネルソン自身は同海戦で戦死した。イギリス最大の英雄とされている。
「Battle of Trafalgarトラファルガーの海戦」は1805年10月21日にスペインのトラファルガー岬の沖で行なわれた海戦である。ナポレオン戦争における最大の海戦で、イギリスはこの海戦の勝利により、皇帝ナポレオン1世の英本土上陸の野望を粉砕した。
ネルソンが戦闘に先立ち、麾下の艦隊に送った「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」は今日でも名文句として知られる。
後に「Nelson Touchネルソンタッチ」と呼ばれる事になる、彼の新戦術は敵味方の艦隊同士が、戦列(Line)を形成して平行に並んで撃ち合うという、当時の海戦の常識を破り、艦隊が一直線に敵中腹に飛び込み、敵艦隊を分断した後に分断した艦隊に集中砲火を浴びせ、分断した敵の1/2を殲滅するものであった。
この作戦の難点は分断する為に先頭に立つ艦が集中砲火を浴び危険である事で、ネルソン自身、その役を自ら買って出る。
激戦の末、連合艦隊は撃沈1隻、捕獲破壊18隻、戦死4,000、捕虜7,000という被害を受け、ヴィルヌーヴ提督も捕虜となった。
一方イギリス艦隊は喪失艦0、戦死400、戦傷1,200という被害で済んだが、ネルソン提督はフランス艦ルドゥタブルの狙撃兵の銃弾に倒れた。
ネルソンは「神に感謝する。私は義務を果たした」と言い残して絶息した。
日本で言えば、東郷平八郎元帥(1848年~1934年)であろう。
日露戦争においては、連合艦隊を率いて「日本海海戦」で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、Admiral Togoアドミラル・トーゴー(東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。
明治38年(1905年)5月27日、東郷元帥は敵前で大回頭(だいかいとう:敵前Uターンのこと。日本艦隊は旗艦「三笠」を先頭に、一斉に左舷に回頭、ロシア艦隊と並進する針路をとろうとする。 海戦史上名高い戦法である)を行うという大胆な指示を出し、海戦に勝利を納めた。
この回頭は「トウゴウ・ターン」と称された。
当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。
この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。(Wiki)
・・・・・
縁側にたたずむ東郷元帥の写真1枚が母の遺品から出てきた。最初祖父の写真かと思ったのだが、よく見ると鋭い眼光、白い髭の様子が東郷元帥だった。
若い時に7年(大正末期から昭和)ほど宮中奉公をした母には、国民的人気の元帥の写真は一種のお守りであったのかもしれない!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- 景観:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
-
セピア色の思い出:ウェストミンスター寺院から議事堂とビッグ・ベン、タワーブリッジ、テームズ川とディスカバリー号などを巡る。
投稿日 2020年10月27日
総合評価:4.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。
ロンドンの2日目、8月6日(日)は9時出発、午前中はLondonロンドンの①ウェストミンスター寺院、②国会議事堂とビッグ・ベン、③タワーブリッジ、テームズ川とディスカバリー号などを巡った。
天気は晴れ時々曇り、一時的にタワーブリッジで小雨にあった。ホテル前の道でロンドン最初の写真を撮る。それから、ウェストミンスター寺院に向かった。
①Westminster Abbeyウェストミンスター寺院(1987年世界遺産に登録)
現在のエリザベス女王の戴冠式が行われた場所ということで、ウェストミンスター寺院内を見学した。寺院内には王家や政治家、芸術家などの墓がある事でも知られている。
また、寺院前の広場にはインド独立運動の指導者Mahatma Gandhiマハトマ・ガンディー像、英国元首相Sir Winston Churchillウィンストン・チャーチル像も立っていたが、ロンドンで早々と英国歴史上のかつての敵対者が仲良く並んで立っているのを見る事になった。
②国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)とビッグ・ベン
この地は戦略上の要衝であり、アングロ・サクソンの時代には既に城砦らしきものがあったようだ。テームズ川畔に面した宮殿は1834年10月16日に発生した火災によって宮殿の大半が焼失したので、現在のものは再建されたものだ。
現在、ウェストミンスター宮殿は英国議会が議事堂として使用している。
併設されている愛称Big Benビッグ・ベンと呼ばれる大時計塔(1859年完工、高さ96.3m)とともにロンドンの景観を代表するものだ。
テームズ川の対岸から歩いて、ウェストミンスター橋を渡りながら見る外観は美しく、議事堂は長大な左右対称のファサードを中心に、その両端の右にビッグ・ベンを、そして左にヴィクトリア・タワーをおき、全体の景観を纏めている。
③タワーブリッジ、テームズ川とディスカバリー号
<Tower Bridgeタワーブリッジ>
ロンドン市内を流れるテームズ川に架かる跳開橋。
タワーブリッジでは風もあり、小雨にあったから、娘たちもちょっと寒そうだ。
1886年に着工、1894年に完成した。「タワー」は近くのロンドン塔に由来し、やはりロンドン観光の定番スポットである。
橋の長さは244m、左右にあるゴシック様式の主塔の高さは65mあり、内部は展望通路・歴史博物館がある。主塔間の橋桁の長さは61m、上部橋の高さは44mである。
テームズ川は全長346kmの距離を流れて行く。テームズ川には無数の橋やトンネルがかかっており、タワーブリッジ、ロンドン橋、ランベス橋、ダートフォード・クロッシングなどがある。
<H.M.S.Discoveryディスカバリー号>
船内見学もできたディスカバリー号は1901年に英国王立地理院の特注で作った調査船でした。1901年に南極探検家キャプテン*ロバート・スコットの指揮下で南極に赴く。1905年にディスカバリー号は売られて、1923年探検用の王立調査船に改装された。その後、ディスカバリー号は1929年に練習船となり、更に1979年からスコットの偉業を後世に残す博物館船としてテームズ川畔に係留されている。
・・・・・- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
-
“鉄腕ゲッツ”と呼ばれた男≫が生まれた城・古城ホテル ゲッツェンブルク城
投稿日 2015年05月07日
総合評価:4.5
“鉄腕ゲッツ”と呼ばれた男≫鉄の義手を付けて戦った騎士Goetz von Berlichingenゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン
≪??Die Goetzenburg古城ホテル ゲッツェンブルク城≫ この旅32番目の城
D-74249 Jagsthausen 、Schlossstrasse 20
Weisslingenヴァイスリンゲンの部屋(1階) 、Euro110x2=220(22,425円)
Tel:+49 (0) 7943 9436-0 、Fax:?9436200
http://www.die-goetzenburg.de/
古城ホテルは全28室(本館17室+以前は無かった宿泊棟Vorburg一の丸11室)がある。レストランはシュヴァーベンの郷土料理を中心としたドイツ料理を提供する。
ゲッツェンブルク城はJagstヤークスト川に沿ったヤークストハウゼンにある。
ドイツ騎士団の城館がある保養地バート・メルゲントハイムや、ネッカー川沿いの古城群にも車で30分の距離と近い。
また、ヤークスト川の上流4kmには鉄腕ゲッツの墓碑もある美しいKloster Schoentalシェーンタール修道院が見られる。
かつてはBurg Jagsthausen ヤークストハウゼン城と呼ばれていたが、現在はゲーテの戯曲“鉄腕ゲッツ”で全国的に知られた為、Die Goetzenburgゲッツェンブルク城、つまりゲッツの城と称されるようになった。
毎年、6月中旬から8月初旬まで、ゲーテの戯曲“鉄腕ゲッツ”の野外劇が城内の内庭で催されて、チケットが入手しにくいほど、人気も高いそうだ。
ホテル・レストランはKriegerクリーガー夫妻が経営を任されているようだが。- 旅行時期
- 2012年05月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 1人1泊予算
- 7,500円 未満
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- サービス:
- 4.5
- バスルーム:
- 4.5
- ロケーション:
- 4.0
- 客室:
- 5.0
-
投稿日 2015年02月19日
総合評価:4.5
Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅
期間 : 2012年05月15日(火)?05月29日(火)15日間の旅
5月26日(土); 快晴で気持ち良い一日、26℃、140km
ハイルブロンからハイデルベルク間を流れるネッカー川沿い、ヒルシュホルン・アム・ネッカーの町とネッカー川を見下ろす高台に立つヒルシュホルン城(現在は人気の古城ホテル)がある。
≪Schloss Hirschhorn古城ホテル ヒルシュホルン(鹿の角)城≫
4号室(2階・本城館Suite;Kategorie HZZI ) Euro164(16,717円)
D-69434 Hirschhorn am Neckar 、Schlossstr. 39-45
Tel:+49 (0) 6272?92090 、Fax:?3267
http://www.schlosshotel-hirschhorn.de
全25室(本城館8室+別棟17室)、本城館(Kategorie HZZI )DZ=Euro164。
ハイルブロンからハイデルベルク(人気のハイデルベルクにはここから車で20分の距離)間を流れるネッカー川沿い、町とネッカー川を見下ろす高台に立つ古城ホテルである。
“ネッカー渓谷の真珠”と云われる中世の町は好ましい。
古城街道を何度か旅してきたが、この古城ホテルには街道を巡る途中に訪れて、昼食をとっただけで、宿泊は初めてである。
それも最初に予定していたSchloss Neckarbischofsheim古城ホテル ネッカービショップスハイム城が、当日は結婚式が入っていて、部屋の空きが無かった所為である。
川沿いの道から、山道を登ると小さな城門がある。その門を入ると、古城ホテル ヒルシュホルン城がある。
ヒルシュホルンとは鹿の角、鹿の角笛の意。
快晴の日は眺めの良いテラスレストランから、ネッカー川を運行する貨物船や観光船、カヌー遊びの人も見える。その絵になる景観から、今では古城街道沿いの古城の中でも、人気の高い古城ホテルとなっている。
この城はオーデンの森を後背地にもっているので、野鳥獣の料理を得意としている。
城の歴史:
城の起源は13世紀に遡ると云う。ネッカー川を眼下に見るオーデンの森の山の尾根に最初は物見の塔が建てられ、後に城館や第一・第二の城壁が築かれた。13?17世紀初めまでの400年という長い間をヒルシュホルンの騎士と呼ばれる領主が居城としていた。
中世のヒルシュホルン城は城壁とBergfried天守閣(Der Hexenturm魔女の塔と呼ばれる主塔)、本館、厩舎の他、多くの門や附属建造物が遺されている。
本館は16世紀のゴシック様式をベースにルネサンス様式に建てられたもので、1803年から町の所有となり、営林署として利用されてきた。
1959年、古城ホテルに改造された。人気も高かったが、2010年10月30日に廃業した。
その後、経営者が変わって、2011年7月、古城ホテルは再オープンした。
(2012.08.21.訳・編集)- 旅行時期
- 2012年05月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 1人1泊予算
- 10,000円 未満
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- サービス:
- 4.5
- バスルーム:
- 5.0
- ロケーション:
- 4.0
- 客室:
- 5.0
-
セピア色の思い出:ロンドンを象徴し、英国史を語る、人気のロンドン塔を見物
投稿日 2020年10月15日
総合評価:5.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。その旅の第一の目的はScotlandスコットランドのエディンバラ城で行われるEdinburghエディンバラの祭り・「Military Tattooミリタリー・タトゥー」を見に行くことだった。
ロンドン観光は初めてで、ロンドン4泊5日の間、観光書に載っている主だった所を見て回った。
<Tower of Londonロンドン塔見物>
8月7日9時10分出発、午前中はロンドン塔に行く(駐車料£0.85)。
ロンドン観光の2日目のメインであるロンドン塔は首都ロンドンを流れるテームズ川畔(全長346km)に面して立つ、見た目には小規模に見える中世の城塞である。
世界遺産登録は1988年なので、私共が見物した10年後になる。
予想以上にロンドン塔は人気が高いようで、観光客が多いのに驚いた。
とりあえず見物前に城壁前で家内と長女を撮った。それからまずは入場券購入(4人分が£4)と、なかなか進まぬ長い列に並んだ。
漸く、敷地内に入り、周辺の木組みの家(Tudor styleチューダー様式と思われる)が気に入り、家内と娘たちの写真を撮る。これらがロンドン塔最初の写真だ。
ロンドン塔の入口は娘たちに愛想よく日本語で今日は、サヨナラと話しかけてくれたBeefeaterビーフィーター(牛食い)が衛兵として守っている。彼は胸に赤い王冠が刺繍され、紺色の地に赤い線の入った制帽・制服を身にまとっている。彼は正式には「The Yeomen Wardersヨーマン・ウォーダーズ(通称Beefeaterビーフィーター:牛食い)」と呼ばれる。彼らの歴史は15世紀、国王の命により国民義勇軍の役割として、国王の財産の守護やロンドン塔に収監される囚人たちの監視役などを務めていた。
また、現役の英陸軍の近衛兵も警護に当たる。
丁度、この近衛兵たちの交代式にも出会った。熊毛の高々とした黒い帽子をかぶり、赤の上衣、紺のズボンという格好はなかなか良い。
陰惨とも思われるロンドン塔の歴史は11世紀に遡る、1066年に即位したWilliam Iウィリアム1世(1027年~1087年:ノルマン王朝初代・征服王と称される)が、ロンドンを守るための要塞の建設を命じたことに始まった。
1241年、中世のロンドン城塞にノルマンスタイルの天守閣(32m)にあたる最初の塔が完成した。
その後、歴代の王によって増改築が繰り返され、最初の塔は5階建てで「White Towerホワイト・タワー」と呼ばれるようになり、「ロンドン塔」は塔や館、St John's Chapel聖ジョンズ礼拝堂(1080年ロマネスク様式)などが建ち並ぶ城塞全体を指す名前となった。
ロンドン塔は正式には「女王陛下のロンドン塔の宮殿および要塞と呼ばれ、現在も儀礼的な武器などの保管庫、礼拝所などとして使用されている。
中でも世界最大級のダイヤモンド「アフリカの星」がはめ込まれた王笏をはじめ豪華な宝物を展示する「ジュエル・ハウス」(入場料£1.4)が見所だ。
<Waterloo Blockウォータールー館:Jewel Houseジュエル・ハウス(宝物館)>
特筆されるのは宝物館で保管されている世界最大級のカット・ダイヤモンド「The Cullinanカリナン」である。1905年に南アフリカのカリナン鉱山で発見されたダイヤモンド原石は3106カラット(621.2g)もあり、鉱山の所有者サー・トーマス・カリナンの名前で命名された。
この原石から9つの大きな石と96個の小さな石が切り出された。9つの石にはそれぞれカリナンIからIXの名が与えられ、全てイギリス王室若しくは王族個人が所有している。
それらは宝物館で展示されていたのだが、実は内部が撮影禁止で、写真はないから、もう記憶に残っていない。
<Royal Armouriesロイヤル・アーマリーズ(国立武器防具博物館)>
イギリス最古の博物館ロイヤル・アーマリーズはイギリスの国立武器防具博物館である。世界的に見ても最も古い博物館の一つである。また、銃火器、武器防具、火砲で構成されたコレクションは世界でも最大規模とされている。
<ロンドン塔には、英国の歴史が垣間見える>
最後に居住した王はステュアート王朝のJames Iジェームズ1世(1566年~1625年)とされる。
1282年からは、身分の高い政治犯を収監、処刑する監獄としても使用されはじめ、14世紀以降は、政敵や反逆者を処刑する死刑場となり、城塞や王宮というよりも、これらの方で有名となった。
1471年:ヘンリー6世、ランカスター朝最後の王。
1536年:アン・ブーリン、ヘンリー8世の2番目の王妃。
1540年:トマス・クロムウェル、ヘンリー8世を支えた宰相。
1542年:キャサリン・ハワード、ヘンリー8世の5番目の王妃。
1554年:*レディ・ジェーン・グレイジェーン・グレイ、ヘンリー7世の曾孫。
1601年:エセックス伯ロバート・デヴルー、エリザベス1世の寵臣。
*ここにはイングランド史上初の女王(テューダー王朝第4代)異名に「九日間の女王」というLady Jane Greyレディ・ジェーン・グレイ(1537年~1554年)が収監されていた。
数奇な縁で女王として即位したが、在位わずか九日間で女王Mary Iメアリー1世(1516年~1558年、血まみれのメアリーと呼ばれた)により廃位され、その7か月後に大逆罪で斬首刑に処された。この事もあって女王と呼ばれていないが、現英国王室は公式に歴代君主の一人に数えていると云う。
・・・・・
尚、ナチス副総統・親衛隊大将Rudolf Hessルドルフ・ヘスも収監されていた。
ヘスは1941年5月10日午後6時10分、ヒトラーには事後承諾のつもりで、対英和平交渉を結ぶべくドイツからMesserschmittメッサーシュミット Bf110で飛来し、イギリス時間午後8時30分頃、スコットランドのグラスゴー郊外の農場に不時着した。ヘスは右足首を捻挫したものの無事であった。捕虜となり、1941年から1944年まで勾留され、最後のロンドン塔の収監者となった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 4.5
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 4.5
-
ニュルンベルク:旧市庁舎にある旧牢獄(Lochgefaengnisse穴の牢獄)は初めての訪れだ。
投稿日 2020年10月10日
総合評価:4.0
<北バイエルン;フランケン地方とオーバープファルツ地方を巡る旅>
:フランケンワイン、ボックスボイテル街道、古城街道;フランケン・シュヴァイツの古城群、陶磁器・ガラス街道、マイン、ペグニッツ、ナーブ、レグニッツ川を巡る:
期間:2009年4月17日(金)~5月1日(金)15日間の旅
4月26日(日) 朝方はやや曇り空、その後は快晴。20℃。 87km
ニュルンベルクは昨日に続く二日目の観光である。
旧市街地の中心にある中央広場から、Die Burg・Kaiserburgカイザーブルク(帝国城)に向かうブルク通りに入る手前右手にあるどっしりした建物が旧市庁舎である。
Altes Rathaus Nurnberg
D-90403 Nurnberg Rathauspl. 2
、
ここは市庁舎広場(同時に通り道でもある)であるが、その左手には聖セバルドゥス教会が見られる。
昨日の観光で見られなかった旧市庁舎には旧牢獄(Lochgefaengnisse穴の牢獄)があるというので、今日の目的にした。ここは初めての訪れだ。
ニュルンベルク全盛期の14世紀に建てられた旧市庁舎の地下室に、穴の牢獄がある。
ガイドの先導で、十数人の見学者と共に暗い地下牢に降りる。
中世の拘置する為の獄と拷問道具を揃えた天井が高い部屋がある。
トイレはもちろん常備し、2mの長さの牢獄が12、その部屋の鎖でつなぐ設備を見ると、2人以上が同室であった様子が分かる。
床や天井、壁は厚板が張られて、部屋の中には板のベッドか、ベンチになるような板が置かれている。
町や古城の見学ではこうした牢獄を見る事も多いが、ニュルンベルクの牢獄は良くできたもので、また保存も良い。
(12:30~13:00 チップとパンフレット代Euro1.5 ;シニアは無料でした)
・・・・・- 旅行時期
- 2009年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 3.5
-
アッシャウ:ドイツ料理界の天才ミシュラン3星シェフ ハインツ・ヴィンクラーの5品料理を楽しむ。
投稿日 2020年09月28日
Boutique Hotel Residenz Winkler プリーン
総合評価:5.0
≪2008年春:ミシュラン3星レストランHeinz Winklerハインツ・ヴィンクラーで、人生初の贅沢な夕食を楽しむ≫
<夕食:レジデンツ・ハインツ・ヴィンクラーのグルメレストランの「Venezianishe Restaurantヴェネチアニッシェ レストラン」 にて>
食事時間18:30~21:50、5品料理と飲み物費用合計Euro 440=73,257円
レストランの”Venezianishe Restaurantヴェネチアニッシェ レストラン” の評価はMichelinミシュラン3星・Gault Millauゴー・ミヨ19点(全独ランク4位)。
80席に対し、従業員40名とたいへん手厚いスタッフ数。
昼食コース;3品Euro89、5品130。
夕食コース;5品Euro 135、8品158。
ワイン950銘柄(1星レストランの倍の数である)。
オーナーシェフHeinz Winklerハインツ・ヴィンクラーは31歳で初めてミシュラン3星を獲得しているが、このAschauアッシャウの地では3星を11年もの間継続し、また、独立前のレストランMuenchner Kult-Lokals Tantrisタントリス(現在ミシュラン2星:ミュンヘンで最もお高いレストランと言われているそうだ)などの取得期間を加算すると、3星は合計21年と言われる。
バイエルン州で唯一のミシュラン3星を継続中である。
・・・・・
Heinz Winkler empfiehlt heute Abend・・・ハインツ ヴィンクラー 今夕のお勧めをお願いした。お勧めの5品コース(Euro 135x2)。
飲み物:
アペリティーフ:シェリー酒エミリオ・ルスタウ・フィノ・ハラーナ(へレス産のフィノ)
シェフからの贈り物(厨房からのご挨拶):
料理の注文や飲み物の注文、料理の出来上がりまでの時間調整にシェフからの贈り物として、二つ出てきました。
①白アスパラのクリームスープ
②3品・・・長方形のガラスの皿に3品がのって出てきました。
左手から、キャビアがのったサーモンの小片。ガラスコップに入ったグリーンピースをすり潰し泡立てたスープ。ハーブ入りマヨネーズソースの上にトマト風味の小エビをのせ。
飲み物:
ワイン:リースリングの白辛口・2005 年ラインガウ・リューデスハイマーベルク・シュロスベルク、Leitzライツ。
①前菜:スズキのカルパッチョ
②スープ;2007年バイエルン料理大賞の品
③魚料理;アンコウのメダリオン
④肉料理;Bresseブレス産鳩の胸肉
⑤デザート;イチゴのスフレ
コーヒー:コーヒーにチョコレート菓子
・・・・・
いずれの料理も美味しく、美しい出来栄えで、日本人の私共にも適当な料理の量でした。満席のお客にも拘わらず、適度の待ち時間で料理が運ばれてくるのもさすがでした。
『ミシュランの星は味、サービスをはじめ、全てに一流である証である』・・・納得です。
XXXXX- 旅行時期
- 2008年04月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- サービス:
- 5.0
- ロケーション:
- 3.5
-
セピア色の思い出:ロンドン市内ショッピング・英国土産はバーバリーのコートや銀食器など
投稿日 2020年10月04日
総合評価:4.5
≪ロンドン市内ショッピング:英国土産はバーバリーのコートや銀食器など≫
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
この時は駅観光案内所で紹介されたロンドン市内のホテルに4泊した。
ロンドン観光は初めてで、4泊5日の間、観光書に載っている主だった所を自分の車で市内を見て回った。若いから怖さ知らずで行けたようだ。
名前をあげれば、8月6日にLondonロンドンのウェストミンスター寺院、国会議事堂とビック・ベン、バッキンガム宮殿と衛兵交代式、テームズ川とタワーブリッジ、トラファルガー広場とライオン像、大英博物館、
8月7日は、ロンドン塔、Madame Tussaudsマダム・タッソー館(蝋人形館)、動物園(パンダ見物)、ギルドハウス、イングランド銀行、
・・・・・
8月8日はロンドン最後の日なので、市内のショッピング街を見て、気に入ったものがあれば、英国土産を購入しようと思っていた。
そこでRegentリージェント通り、Oxfordオックフォード通り、Bondボンド通り、Piccadillyピカデリー通りと、案内書に出て来る一帯を巡った。
この日のショッピングの主たるものは、ママのBurberryバーバリーコート(£70ポンド)、カシミヤのセーターとマフラー(£156)、銀器一式(£130)、キルトのスカート(£23)など合計£405でした。
ショッピング街は東京のように人の波で歩くのも大変、子供たちとはぐれぬように用心。ピカデリー・サーカスのキューピットの銅像、噴水に来た時はもう夕暮れ時、買物には時間がかかる。噴水周辺は観光客、若者たちで混雑していた。
最後にバッキンガム宮殿による。正門前でドイツのEssenエッセンから来た大学生に会う。久しぶりのドイツ語が妙に嬉しい。
(2020年10月03日:編集・加筆)- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 4.5
- 景観:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
-
セピア色の思い出:ロンドン動物園のパンダ見物では見物人がいないのに驚いた!
投稿日 2020年09月27日
総合評価:3.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。
ロンドン観光は初めてで、4泊5日の間、観光書に載っている主だった所を見て回った。
8月7日(月)は午前中にロンドン塔、ホワイトタワーを見て、Madame Tussaudsマダム・タッソー館(蝋人形館)、動物園(パンダ見物)、ギルドハウス、イングランド銀行を見て回った。
②次のLondon Zooロンドン動物園(1828年開設、1847年公開。Outer Circle, Regent's Park, London)はリージェンツ公園の北にある。
南端にあるマダム・タッソー館から動物園は近いし、子供たちにとってもパンダは初めてだから行ってみたのだ。
前掲の写真ではパンダ、いわゆるジャイアントパンダの姿は柱や金網などで見難いが、中央部の木の上にどっしり座って動かない姿を撮っている。
ともあれ、月曜日の所為か、パンダ舎の周りには誰もいない。イギリスでは珍しくもなく、人気がないのだろうか?
かつてロンドン動物園にはChi Chiチチというジャイアントパンダがいて、1972年に亡くなったという記録が残っているが、この時に見たジャイアントパンダの事はよく分からない。現在、ロンドン動物園には1頭もいない。
但し、スコットランドのエディンバラ動物園に2011年12月から、Tian Tian(F)とYang Guang(M)の2頭がいるようだ。この差が何だろうか?
尚、「中国のパンダ外交」で西側諸国にパンダが贈呈されたのは、1972年、アメリカに贈られたリンリンとシンシンが最初で、それ以降、日本・フランス・イギリスなどに贈呈されていった。
日本の上野動物園には1972年10月、2頭のカンカン、ランランがやって来た。
当時の日本人の歓迎ぶりはすごいもので、パンダ人気がたいへん盛り上がった。この頃、私に海外駐在の話が出始めていたから、上野動物園に家族で訪れたか、ジャイアントパンダを見たのか、さて、もうすっかり忘れてしまった。
・・・・・
薄汚れたジャイアントパンダに家族も少々ガッカリしてしまったのだが、それからシティという(日本的には丸の内のような)地区に戻った。
ここに日本の商社、銀行の店が殆ど集まっている。
③Guildhallギルドホールは、シティ・オブ・ロンドンの市庁舎である。
12世紀に商人達のギルド(同業組合)が自治権を獲得後、1185年に初代市長(ロード・メイヤー)が誕生し、1319年にはギルドに選挙権と行政権が認められた。
このギルドホールは15世紀に統治の中心として建設されて以降、シティの市庁舎、シンボルとして機能してきた。現在も市長の晩餐会や講演会、定例の市議会が開催され、シティのホールつまり議事堂なのだ。
夕暮れ時に訪れたから、外観だけを写真におさめたが、内部にはチャーチル首相、ネルソン提督、政治家ピット首相(親子:大ピット、小ピット)の著名な方々の肖像画や記念碑があると云う。時間があれば、見て見たかったが、現在は1999年に再建されたGuildhall Art Galleryギルドホール・アート・ギャラリー(美術館)という隣の建物に展示されているようだ。
④Bank of Englandイングランド銀行はギルドホールから近い。
1694年の創立、コリント風の列柱が独特の建物は古色然としているが大きな建物である。かつて世界の金融を支配した英国中央銀行である。
一つ不思議なことに、イングランド銀行前で写真に撮った正義の女神像が現在の銀行前には見当たらず、イングランド銀行(旧王立取引所)前のウェリントン公爵(ワーテルローの戦いでナポレオン皇帝に勝利した)騎馬像だけが見える。
面白いことに、シティでは軍人を崇拝するような像を公衆の面前に建てることが禁止されているらしく、軍服ではなく平服の騎馬像になっているそうだ。
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明日8日はロンドン最後の日、リージェント通りでお買物の予定になっている。
(2020年9月25日:編集・加筆)- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 施設の快適度:
- 3.0
-
セピア色の思い出:ロンドンのマダム・タッソー館(蝋人形館)は実に面白い。
投稿日 2020年09月26日
総合評価:4.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。その旅の第一の目的はScotlandスコットランドのエディンバラ城で行われるEdinburghエディンバラの祭り・「Military Tattooミリタリー・タトゥー」を見に行くことだった。
この時は駅観光案内所で紹介されたロンドン市内のホテルに4泊した。
ロンドン観光は初めてで、4泊5日の間、観光書に載っている主だった所を見て回った。名前をあげれば、8月6日にLondonロンドンのウェストミンスター寺院、国会議事堂とビック・ベン、バッキンガム宮殿と衛兵交代式、テームズ川とタワーブリッジ、トラファルガー広場とライオン像、大英博物館、
8月7日は、ロンドン塔、Madame Tussaudsマダム・タッソー館(蝋人形館)、動物園(パンダ見物)、ギルドハウス、イングランド銀行、
8月8日には市内でショッピング(銀器、Burberryバーバリーコート)、ピカデリー・サーカスなどなど。
8月7日(月)は午前中にロンドン塔、ホワイトタワーを見て、Madame Tussaudsマダム・タッソー館(蝋人形館)、動物園(パンダ見物)、ギルドハウス、イングランド銀行を見て回った。
①Madame Tussaudsマダム・タッソー館はロンドンにある蝋人形館である。
(現在は欧州、アメリカ、アジアの各国に分館が出来ている)
今もロンドンの観光名所のひとつであるが、当時でも人気が高く、並ぶ人も多くてなかなか入場できなかった。子供たちには少し刺激の強いものも有ったし、顔と名前が一致して分かるわけでもないが、内部に入ると、人形なのか?蝋人形なのか?迷ってしまうほど精巧な、見事な人形が並んでいた。
名前をあげれば、皆納得の人達である。日本人では吉田茂首相の和服姿、史上有数・昭和最後の大横綱である千代の富士関の力士姿が、
英国ではエリザベス2世一家を筆頭に、ヘンリー8世と6人の王妃、エリザベス1世、イングランド・スコットランド・アイルランド3王国「共同統治」のウィリアム3世とメアリー2世、同君連合=ハノーヴァー王朝ジョージ3世、ウィリアム4世、ジョージ4世、ヴィクトリア女王、映画監督アルフレッド・ヒッチコック、女優オードリー・ヘプバーン、俳優リチャード・バートン、女優(政治家)グレンダ・ジャクソン、「ミステリーの女王」アガサ・クリスティ、チャーチル首相、ビートルズなどが見られ、
アメリカからはケネディ大統領、女優のマリリン・モンロー、アメリカの石油王ポール・ゲティ、『カサブランカ (映画)』の男優ハンフリー・ボガート、『刑事コジャック(TV)』の男優テリー・サバラス、
その他の国ではドイツのシュミット首相、ヨハネ23世 (ローマ教皇)、グスタフ6世アドルフ(スウェーデン国王)、童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン、スペインの画家ピカソ、イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィーなど。
(時代が変わるに応じて、ここに陳列される蝋人形たちも変わる。それを比較するのも面白事だろう。長寿の女王エリザベス2世だけでも見る価値がある)
地下のホラーの部屋には処刑場の場面が作られていて、フランスのギロチンの模型が、不気味で恐ろしい様で立っていた。加えて音楽まで不協和音を奏で、恐々といった感じだった。その横にはギロチンで処刑された王妃マリー・アントワネットの頭部が獄門台(首台)に載せられていたから、ぎょっとする。
とても子供には見せられないものだったから、私だけが見たのだけれども。
マダム・タッソー館は1835年、フランス生まれの蝋人形彫刻家Marie Tussaudマリー・タッソー(1761~1850年)がロンドンのベイカー・ストリートに創立し、1884年にメリルボン・ロードに移転した。
ここでは歴史上の人物、各国の政治家、エンターテイナーからスポーツ選手などを等身大の大きさで精巧に再現して展示している。
(2020年9月25日:編集・加筆)- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 施設の快適度:
- 4.0
-
ニュルンベルク:カイザーブルク(帝国城)傍にあるレストラン ブルグヴェヒターでお茶にした。
投稿日 2020年09月23日
総合評価:3.5
<北バイエルン;フランケン地方とオーバープファルツ地方を巡る旅>
:フランケンワイン、ボックスボイテル街道、古城街道;フランケン・シュヴァイツの
古城群、陶磁器・ガラス街道、マイン、ペグニッツ、ナーブ、レグニッツ川を巡る:
期間:2009年4月17日(金)~5月1日(金)15日間の旅
4月26日(日) 朝方はやや曇り空、その後は快晴。20℃。 87km
ニュルンベルクは昨日に続く二日目の観光である。
市博物館の横の道Burgenstrasse古城街道をDie Burg・Kaiserburgカイザーブルク(帝国城)に向かって上がる。
薄紫のライラックが満開の様子を楽しみながら、上り坂を上がると、Burgenstrasse古城街道の標識が出てきた。確かにカイザーブルクはこの街道上にある。
登りきってみるとお腹が空いているのに気が付いた。
<お茶:Burgwaechterブルグヴェヒターのレストランにて>
D-90403 Nuernberg 、Am Oelberg 10
(13:20~14:00 Euro 20)
Kaiserburgカイザーブルク(帝国城)傍のレストランでお茶にした。
レストランの内部は私共だけで、ドイツ人は花々で飾られたテラスで、
日差しの下でお茶や軽食を楽しんでいる。太陽の少ない冬を過ごすと、
こうしてみたいのか!
レストラン内部は暖炉の間があり、洒落た装いである。
メニュー:リンゴのケーキにコーヒー。ドイツのコーヒーは美味い。
・・・・・- 旅行時期
- 2009年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人当たり予算
- 2,000円未満
- 利用形態
- その他
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- サービス:
- 3.5
- 雰囲気:
- 4.0
- 料理・味:
- 3.5
-
懐かしのプリーン:キームゼー湖の男島に見事なルードヴィヒ二世の宮殿がある。
投稿日 2020年09月16日
総合評価:5.0
≪ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊≫
:アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:
期間:2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間の旅
4.23 (水) 曇り時々小雨 12℃、
2008年の春、バイエルンのプリーンを久しぶりに訪問した。
市内にあった語学学校Goethe-Institutゲーテ・インスティトゥートや、2ヶ月の間、学校に通った時に下宿した家、そしてFahrschuleファーシューレ自動車学校(ドイツはどの町にも先生一人の小さな学校がある)などを見て回ったが、34年前の記憶は不鮮明で、どれ一つ特定できなかった。
XXXXX
Prien-Stock10:30発の観光船・Rudorf号でHerreninsel男島に向かう。
(Prien ->Herreninsel・15分、往復Euro12.6 )
男島の北東に位置する桟橋に着くと、大勢の観光客が桟橋そばの切符売場の前に参集している。様々な国の言葉が聞こえてきて、世界的に名高い観光地であることを再認識した。
十分時間のある一日となったので、切符売場ではルードヴィヒ二世の宮殿:ガイド付き見学 、併設のルードヴィヒ二世博物館、Altes Schloss博物館の特別展の通し切符を購入した。
尚、ルードヴィヒ二世の宮殿など見学内容は別途、関連旅行記に詳細を書いた。
ご参照下さい。
≪南独、オーストリア巡り≫
2004年4月21日~5月4日の2週間
南ドイツとオーストリアをドイツ・バイエルン国王ルードヴィヒ2世とオーストリア皇妃エリザベート・・・愛称 “シシー”を巡る旅と称して、レンタカー(メルセデス・ベンツ2000CC)の旅をしたことがある。
珍しく、家内の友人親子が御一緒した、4人の旅でした。
快晴に恵まれ、男島への20分程の船旅も心地よく、新緑の中をヘレンキムゼー宮殿へ向かう道も弾むような気持ちだ。
≪南独、オーストリア、スイス巡り≫
1975年8月9日~8月19日 10泊11日
夏の休暇旅行で
さて、駐在二年目に入ると、車にも少し自信が出てきて、夏の休暇は初めて大きな旅行をしました。
当時、私共は31歳、娘たちは5歳と3歳でした。
赴任して、家族を連れて最初に行きたかったのはロマンチック街道であり、更に東に走りバイエルンの州都ミュンヘン、私が学んだゲーテ・ドイツ語学校のあったキームゼー湖畔のプリーンでした。ヘレンキームゼー城建学。
≪Prienプリーンの思い出 ; 1974.2.2.~3.29.≫
プリーンは観光地である。
世に名高いバイエルン王ルードヴィヒ二世の建てた新宮殿(第三番目の宮殿)Schloss Herrenchiemseeヘレンキームゼー城があるHerreninselヘレンインゼル(男島)への観光船が発着する所だ。- 旅行時期
- 2008年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 展示内容:
- 4.0
























































































































































