jijidarumaさんのクチコミ(18ページ)全659件
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リンブルクの大酒豪Hattstein-Brunnenハットシュタインの泉
投稿日 2020年07月17日
総合評価:4.0
<リンブルクの大酒豪Hattstein-Brunnenハットシュタインの泉>
Ploetze、D-65549 Limburg an der Lahn
2006年5月、二度目のドイツ駐在を終え、1985年5月31日に帰国して以来、21年ぶりとなる“デュッセルドルフ訪問”を第一に、ライン、モーゼル、ザール、アール、ラーン川の周遊をした。
旅の最終ルート「Lahn-Ferienstrasseラーン休暇街道巡り」は文字通り“Die Lahnラーン川”に沿って走る。ラーン川は、ラーンコプフという標高612mの斜面に水源地から、まず東に、グラーデンバッハ山地北部をカルデルンまで至り(上部ラーン渓谷)、マールブルグ(城、エリザベート教会、大学都市)の上流で南に下り、ギーセン(城、大学都市)の辺りで、ギーセン・ラーン渓谷の地域を切り開いて、西に向きを変えて流れる。
さらにWetzler,Weilburg,Limburgの町々を経由し、幾つかの小さな川がラーンに合流し、全長242kmをゆったりと穏やかに流れ、やがて標高61mの地点、Lahnstein、コブレンツでラインの大河に注ぎ込む。
≪Lahn-Ferienstrasseラーン休暇街道巡り:Limburgリンブルク≫
ライン川の右岸Rheingauer-Riesling-Routeラインガウ・リースリング・ルート”を走る国道B42からBurg Lahneckラーンエック城を横に眺めながら、ラーン渓谷沿いに走るB260に入る。ラーン休暇街道を即ち、ラーン渓谷沿いの古城、城址、木組みの家々の旧市街、庭園など美しい町々を訪れる計画である。
DiezディーツからLimburgリンブルクは2kmと近い。Dom大聖堂近くの駐車場に到着。
Limburgリンブルクは木組みの家々が軒を連ねる旧市街があり、ラーン川に沿った人口3万5千の古都は、千年の歴史ある大聖堂を中心に、その風景は素晴らしいものがある。
13世紀前半に、ロマネスク様式で建てられた大聖堂はまるで美しい王冠を頂いたような姿である。ただ、大聖堂の内部は19世紀に改造された為、大変シンプルなものでちょっと物足りなかったが。
美しい、歴史的な旧市街に足を運び、大聖堂から石畳みの坂道を左右の木組みの家並み・・・13~19世紀・・・を楽しみながら、下りていく。
最も見栄えの良い、撮影ポイントの石造りのラーン橋で写真を撮っていると、ダックスフントを連れた親切な小母さんが我々を『写しましょうか!』と言ってくれた。
写真は残念ながら、期待した大聖堂が家内に隠れてしまっていた。
でも、これだけで、この町が気に入る。
その昔、確かに旧市街の通りを歩き、広場の中央にあったハットシュタインの泉を見たが、もう記憶も定かでない。
「Saeuferbrunnen大酒豪の泉=Hattsteinbrunnen in Limburgハットシュタインブルンネン(泉)」は頭上に持ちあげた酒樽からワイン(泉の水!)を飲んでいる姿がとても珍しい。この像は14世紀、リンブルクの町の指導者だったFriedrich von Hattsteinフリードリヒ・フォン・ハットシュタインだ。
「大酒豪の泉」と親しみを込めて名前が付けられたと思われる「ハットシュタインの泉」はリンブルクの広場に面して立っている。
遠路から来た観光客には丁度良い目印だ。
・・・・・
さて、Friedrich von Hattsteinフリードリヒ・フォン・ハットシュタインはStadthauptmann von Limburg an der Lahnリンブルク・アン・デア・ラーン市長で、1363年に死去した、と簡単な説明がある。
ハットシュタイン家の一族はフランクフルト・アム・マインにも近いTaunusタウヌス山地にあるハットシュタイン城を居城とした騎士領主であった。
Raubritter Friedrich von Hattstein強盗(もしくは盗賊)騎士と云う形容が付いたフリードリヒ・フォン・ハットシュタインであるが、この記念碑である泉(噴水)は、彼に敬意を表して建てられたと云う。
フリードリヒは外向的で人好きの良い性格であったが、反面、退廃的な生活をしていた事で知られている。しかし、1353年、フリードリヒの良い所を知るリンブルクの市民たちは彼をまともな男になるように説得したと云う。
その説得に反省し、まともな男になったフリードリヒは1357年から1363年までリンブルク市長になり、市政に尽くしたと伝えられている。
大酒飲みでもあったフリードリヒは今もワイン樽から流れ出るワイン(水だが)を飲み干すような姿で広場に立っている。
・・・・・- 旅行時期
- 2006年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
-
セピア色の思い出:かつて世界の富が集中したと思わせる大英博物館はすごい
投稿日 2020年11月04日
総合評価:5.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
ロンドンの2日目、8月6日(日)は9時出発、午前中はLondonロンドンの①ウェストミンスター寺院、②国会議事堂とビッグ・ベン、③タワーブリッジ、テームズ川とディスカバリー号、④バッキンガム宮殿と衛兵交代式、午後は⑤トラファルガー広場とライオン像、⑥大英博物館などを巡った。
≪⑥British Museum大英博物館(1759年開館)≫
大英博物館は「英国の歴史が詰まった」博物館であり、時には「世界各地の英国植民地から略奪してきた(泥棒博物館、強盗博物館といった言葉も)」歴史を示すなどと揶揄されているのだが、世界最大の博物館の一つに違いない。
古今東西の美術品や書籍や略奪品など約800万点もの膨大なものが収蔵されており、その内で常設展示されているものでも約15万点を数える規模である。
収蔵品は美術品や書籍のほかに、考古学的な遺物・標本・硬貨・切手やオルゴールなどの工芸品、世界各地の民族誌資料など、多岐に渡っている。
収蔵品は多くが個人の収集家の寄贈によるものだと云う。これは意外だったから、「略奪してきた」と声高に云うのは言い過ぎかもしれない。入場料は無料。
もちろん英国自身の所蔵品も展示しているが、常設展示だけでも余りに多種多様で、一日で全てを見るのは不可能であろう。
ともかく、短い旅の、午後の短い時間を使って、大英博物館を家族で訪れた。
だから、目に付いた、気になった展示品だけを見たが、皆疲れてしまった。
主にエジプト関連の写真を撮ったようだが、多分、フィルムが無くなった所為で、展示品は殆ど撮れていない。中でもエジプト室の展示品は色彩鮮やかな壁画類や動物のミイラもあって、8歳と6歳の娘たちにも大いに興味がもてる展示室だったかもしれない。
ともあれ広い館内を限定的とはいえよく歩いてくれた。
1階正面入口から最初に見えるのはエジプト王朝の巨大な彫刻群だ。アメンホテプ3世像、貴重なロゼッタ石には最初から興味をそそられた。
エジプト王朝の巨大な彫刻群と共に、左手にギリシア・ローマ時代の彫刻、アッシリア・バビロニアの古代文化品・守護獣神像、左奥にはギリシア・アテネのパルテノン神殿から剥がしてきた彫刻類が、規模も大きいパルテノン室に展示されている。正面一番奥のエドワード7世ギャラリーには中国の古美術品など。
ザーッと見ていくしかないのだが、古代の古文書、聖書、英国史に名高いMagna Cartaマグナ・カルタ(大憲章)、写本時代の作品、初期の印刷術によった書籍、世界的な切手コレクションといったものが展示されている。
階段を上がった2階西側にはギリシア・ローマ室にその時代の素焼、青銅作品、銀器、生活用品、宝石・貨幣、白地に紺の模様の飾り皿、壺類の陶磁器類の名品、ガラス工芸品などを集めたコーナーが展示されている。
北側奥にはエジプト室が設けられていて、多くのミイラの展示やエジプト壁画、装飾品が展示してある。エジプト室の北側に西アジア室、横にはバビロニア、マヤ文化の部屋がある。東側には民族学室、インド室、時計室、初期ルネサンス室、ルネサンス室があり、南側に原始時代室、青銅時代室、ローマ時代・イギリス室といった名前が付いた部屋などがある。
やはり印象に残るのは北側奥のエジプト室だ。
大英博物館が略奪してきたものを展示する「泥棒博物館、強盗博物館」と云われたと先に書いたが、英国やドイツ、米国等の大国と、元の所有国のエジプト、ギリシアなどとの間で返還請求問題が生じている。
現在の所有者はいずれも、「これほどの貴重な人類の財産を保存できる国があるだろうか」という考えであり、返還要求に応じていません。
元の所有国たちの過去と現在を見れば、その考えに賛同する。
そうした中でも最も有名な2つの品(英・独は返還要求に応じていません)は
①<Rosetta Stoneロゼッタ・ストーン(ロゼッタ石)>
ロンドンの大英博物館
2003年からはエジプト政府が最も正当な所有者であるとし、ロゼッタ・ストーンの返還を求めている。世界的にはエジプトの妥当性が認められているのだが、イギリスはいまだに返還していない。
②<Bueste der Nofreteteネフェルティティの胸像>
ベルリンの新博物館
1924年にベルリンで『ネフェルティティの胸像』が公開されて以来、エジプト政府はドイツに対し胸像の返還要求を続けていて、こちらもイギリス同様に現在も決着がついていない。
・・・・・- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 4.5
-
セピア色の思い出:英国・日本の海の英雄、ネルソン提督と東郷元帥を思う。
投稿日 2020年10月30日
総合評価:4.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。
ロンドンの2日目、8月6日(日)は9時出発、午前中はLondonロンドンの①ウェストミンスター寺院、②国会議事堂とビッグ・ベン、③タワーブリッジ、テームズ川とディスカバリー号、④バッキンガム宮殿と衛兵交代式、午後は⑤トラファルガー広場とライオン像、⑥大英博物館などを巡った。
・・・・・
⑤Trafalgar Squareトラファルガー広場のライオン像とネルソン提督像
ウェストミンスター広場に1805年のトラファルガーの海戦における勝利を記念して造られたトラファルガー広場で当初は「ウィリアム4世広場」という名前だった。
60mの高さのネルソン提督の像・記念柱(1843年完工、大理石)は噴水の隣に、巨大な4頭のライオンのブロンズ像に囲まれて建っている。
名将ネルソン提督とトラファルガーの海戦:
子爵Horatio Nelsonホレーショ・ネルソン(1758年~1805年)はフランス・スペイン連合艦隊に対して戦史上稀に見る大勝利を収めて、ナポレオンによる制海権獲得・イギリス本土侵攻を阻止した。ネルソン自身は同海戦で戦死した。イギリス最大の英雄とされている。
「Battle of Trafalgarトラファルガーの海戦」は1805年10月21日にスペインのトラファルガー岬の沖で行なわれた海戦である。ナポレオン戦争における最大の海戦で、イギリスはこの海戦の勝利により、皇帝ナポレオン1世の英本土上陸の野望を粉砕した。
ネルソンが戦闘に先立ち、麾下の艦隊に送った「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」は今日でも名文句として知られる。
後に「Nelson Touchネルソンタッチ」と呼ばれる事になる、彼の新戦術は敵味方の艦隊同士が、戦列(Line)を形成して平行に並んで撃ち合うという、当時の海戦の常識を破り、艦隊が一直線に敵中腹に飛び込み、敵艦隊を分断した後に分断した艦隊に集中砲火を浴びせ、分断した敵の1/2を殲滅するものであった。
この作戦の難点は分断する為に先頭に立つ艦が集中砲火を浴び危険である事で、ネルソン自身、その役を自ら買って出る。
激戦の末、連合艦隊は撃沈1隻、捕獲破壊18隻、戦死4,000、捕虜7,000という被害を受け、ヴィルヌーヴ提督も捕虜となった。
一方イギリス艦隊は喪失艦0、戦死400、戦傷1,200という被害で済んだが、ネルソン提督はフランス艦ルドゥタブルの狙撃兵の銃弾に倒れた。
ネルソンは「神に感謝する。私は義務を果たした」と言い残して絶息した。
日本で言えば、東郷平八郎元帥(1848年~1934年)であろう。
日露戦争においては、連合艦隊を率いて「日本海海戦」で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、Admiral Togoアドミラル・トーゴー(東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。
明治38年(1905年)5月27日、東郷元帥は敵前で大回頭(だいかいとう:敵前Uターンのこと。日本艦隊は旗艦「三笠」を先頭に、一斉に左舷に回頭、ロシア艦隊と並進する針路をとろうとする。 海戦史上名高い戦法である)を行うという大胆な指示を出し、海戦に勝利を納めた。
この回頭は「トウゴウ・ターン」と称された。
当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。
この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。(Wiki)
・・・・・
縁側にたたずむ東郷元帥の写真1枚が母の遺品から出てきた。最初祖父の写真かと思ったのだが、よく見ると鋭い眼光、白い髭の様子が東郷元帥だった。
若い時に7年(大正末期から昭和)ほど宮中奉公をした母には、国民的人気の元帥の写真は一種のお守りであったのかもしれない!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- 景観:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
-
セピア色の思い出:ウェストミンスター寺院から議事堂とビッグ・ベン、タワーブリッジ、テームズ川とディスカバリー号などを巡る。
投稿日 2020年10月27日
総合評価:4.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。
ロンドンの2日目、8月6日(日)は9時出発、午前中はLondonロンドンの①ウェストミンスター寺院、②国会議事堂とビッグ・ベン、③タワーブリッジ、テームズ川とディスカバリー号などを巡った。
天気は晴れ時々曇り、一時的にタワーブリッジで小雨にあった。ホテル前の道でロンドン最初の写真を撮る。それから、ウェストミンスター寺院に向かった。
①Westminster Abbeyウェストミンスター寺院(1987年世界遺産に登録)
現在のエリザベス女王の戴冠式が行われた場所ということで、ウェストミンスター寺院内を見学した。寺院内には王家や政治家、芸術家などの墓がある事でも知られている。
また、寺院前の広場にはインド独立運動の指導者Mahatma Gandhiマハトマ・ガンディー像、英国元首相Sir Winston Churchillウィンストン・チャーチル像も立っていたが、ロンドンで早々と英国歴史上のかつての敵対者が仲良く並んで立っているのを見る事になった。
②国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)とビッグ・ベン
この地は戦略上の要衝であり、アングロ・サクソンの時代には既に城砦らしきものがあったようだ。テームズ川畔に面した宮殿は1834年10月16日に発生した火災によって宮殿の大半が焼失したので、現在のものは再建されたものだ。
現在、ウェストミンスター宮殿は英国議会が議事堂として使用している。
併設されている愛称Big Benビッグ・ベンと呼ばれる大時計塔(1859年完工、高さ96.3m)とともにロンドンの景観を代表するものだ。
テームズ川の対岸から歩いて、ウェストミンスター橋を渡りながら見る外観は美しく、議事堂は長大な左右対称のファサードを中心に、その両端の右にビッグ・ベンを、そして左にヴィクトリア・タワーをおき、全体の景観を纏めている。
③タワーブリッジ、テームズ川とディスカバリー号
<Tower Bridgeタワーブリッジ>
ロンドン市内を流れるテームズ川に架かる跳開橋。
タワーブリッジでは風もあり、小雨にあったから、娘たちもちょっと寒そうだ。
1886年に着工、1894年に完成した。「タワー」は近くのロンドン塔に由来し、やはりロンドン観光の定番スポットである。
橋の長さは244m、左右にあるゴシック様式の主塔の高さは65mあり、内部は展望通路・歴史博物館がある。主塔間の橋桁の長さは61m、上部橋の高さは44mである。
テームズ川は全長346kmの距離を流れて行く。テームズ川には無数の橋やトンネルがかかっており、タワーブリッジ、ロンドン橋、ランベス橋、ダートフォード・クロッシングなどがある。
<H.M.S.Discoveryディスカバリー号>
船内見学もできたディスカバリー号は1901年に英国王立地理院の特注で作った調査船でした。1901年に南極探検家キャプテン*ロバート・スコットの指揮下で南極に赴く。1905年にディスカバリー号は売られて、1923年探検用の王立調査船に改装された。その後、ディスカバリー号は1929年に練習船となり、更に1979年からスコットの偉業を後世に残す博物館船としてテームズ川畔に係留されている。
・・・・・- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
-
“鉄腕ゲッツ”と呼ばれた男≫が生まれた城・古城ホテル ゲッツェンブルク城
投稿日 2015年05月07日
総合評価:4.5
“鉄腕ゲッツ”と呼ばれた男≫鉄の義手を付けて戦った騎士Goetz von Berlichingenゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン
≪??Die Goetzenburg古城ホテル ゲッツェンブルク城≫ この旅32番目の城
D-74249 Jagsthausen 、Schlossstrasse 20
Weisslingenヴァイスリンゲンの部屋(1階) 、Euro110x2=220(22,425円)
Tel:+49 (0) 7943 9436-0 、Fax:?9436200
http://www.die-goetzenburg.de/
古城ホテルは全28室(本館17室+以前は無かった宿泊棟Vorburg一の丸11室)がある。レストランはシュヴァーベンの郷土料理を中心としたドイツ料理を提供する。
ゲッツェンブルク城はJagstヤークスト川に沿ったヤークストハウゼンにある。
ドイツ騎士団の城館がある保養地バート・メルゲントハイムや、ネッカー川沿いの古城群にも車で30分の距離と近い。
また、ヤークスト川の上流4kmには鉄腕ゲッツの墓碑もある美しいKloster Schoentalシェーンタール修道院が見られる。
かつてはBurg Jagsthausen ヤークストハウゼン城と呼ばれていたが、現在はゲーテの戯曲“鉄腕ゲッツ”で全国的に知られた為、Die Goetzenburgゲッツェンブルク城、つまりゲッツの城と称されるようになった。
毎年、6月中旬から8月初旬まで、ゲーテの戯曲“鉄腕ゲッツ”の野外劇が城内の内庭で催されて、チケットが入手しにくいほど、人気も高いそうだ。
ホテル・レストランはKriegerクリーガー夫妻が経営を任されているようだが。- 旅行時期
- 2012年05月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 1人1泊予算
- 7,500円 未満
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- サービス:
- 4.5
- バスルーム:
- 4.5
- ロケーション:
- 4.0
- 客室:
- 5.0
-
投稿日 2015年02月19日
総合評価:4.5
Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅
期間 : 2012年05月15日(火)?05月29日(火)15日間の旅
5月26日(土); 快晴で気持ち良い一日、26℃、140km
ハイルブロンからハイデルベルク間を流れるネッカー川沿い、ヒルシュホルン・アム・ネッカーの町とネッカー川を見下ろす高台に立つヒルシュホルン城(現在は人気の古城ホテル)がある。
≪Schloss Hirschhorn古城ホテル ヒルシュホルン(鹿の角)城≫
4号室(2階・本城館Suite;Kategorie HZZI ) Euro164(16,717円)
D-69434 Hirschhorn am Neckar 、Schlossstr. 39-45
Tel:+49 (0) 6272?92090 、Fax:?3267
http://www.schlosshotel-hirschhorn.de
全25室(本城館8室+別棟17室)、本城館(Kategorie HZZI )DZ=Euro164。
ハイルブロンからハイデルベルク(人気のハイデルベルクにはここから車で20分の距離)間を流れるネッカー川沿い、町とネッカー川を見下ろす高台に立つ古城ホテルである。
“ネッカー渓谷の真珠”と云われる中世の町は好ましい。
古城街道を何度か旅してきたが、この古城ホテルには街道を巡る途中に訪れて、昼食をとっただけで、宿泊は初めてである。
それも最初に予定していたSchloss Neckarbischofsheim古城ホテル ネッカービショップスハイム城が、当日は結婚式が入っていて、部屋の空きが無かった所為である。
川沿いの道から、山道を登ると小さな城門がある。その門を入ると、古城ホテル ヒルシュホルン城がある。
ヒルシュホルンとは鹿の角、鹿の角笛の意。
快晴の日は眺めの良いテラスレストランから、ネッカー川を運行する貨物船や観光船、カヌー遊びの人も見える。その絵になる景観から、今では古城街道沿いの古城の中でも、人気の高い古城ホテルとなっている。
この城はオーデンの森を後背地にもっているので、野鳥獣の料理を得意としている。
城の歴史:
城の起源は13世紀に遡ると云う。ネッカー川を眼下に見るオーデンの森の山の尾根に最初は物見の塔が建てられ、後に城館や第一・第二の城壁が築かれた。13?17世紀初めまでの400年という長い間をヒルシュホルンの騎士と呼ばれる領主が居城としていた。
中世のヒルシュホルン城は城壁とBergfried天守閣(Der Hexenturm魔女の塔と呼ばれる主塔)、本館、厩舎の他、多くの門や附属建造物が遺されている。
本館は16世紀のゴシック様式をベースにルネサンス様式に建てられたもので、1803年から町の所有となり、営林署として利用されてきた。
1959年、古城ホテルに改造された。人気も高かったが、2010年10月30日に廃業した。
その後、経営者が変わって、2011年7月、古城ホテルは再オープンした。
(2012.08.21.訳・編集)- 旅行時期
- 2012年05月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 1人1泊予算
- 10,000円 未満
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- サービス:
- 4.5
- バスルーム:
- 5.0
- ロケーション:
- 4.0
- 客室:
- 5.0
-
セピア色の思い出:ロンドンを象徴し、英国史を語る、人気のロンドン塔を見物
投稿日 2020年10月15日
総合評価:5.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。その旅の第一の目的はScotlandスコットランドのエディンバラ城で行われるEdinburghエディンバラの祭り・「Military Tattooミリタリー・タトゥー」を見に行くことだった。
ロンドン観光は初めてで、ロンドン4泊5日の間、観光書に載っている主だった所を見て回った。
<Tower of Londonロンドン塔見物>
8月7日9時10分出発、午前中はロンドン塔に行く(駐車料£0.85)。
ロンドン観光の2日目のメインであるロンドン塔は首都ロンドンを流れるテームズ川畔(全長346km)に面して立つ、見た目には小規模に見える中世の城塞である。
世界遺産登録は1988年なので、私共が見物した10年後になる。
予想以上にロンドン塔は人気が高いようで、観光客が多いのに驚いた。
とりあえず見物前に城壁前で家内と長女を撮った。それからまずは入場券購入(4人分が£4)と、なかなか進まぬ長い列に並んだ。
漸く、敷地内に入り、周辺の木組みの家(Tudor styleチューダー様式と思われる)が気に入り、家内と娘たちの写真を撮る。これらがロンドン塔最初の写真だ。
ロンドン塔の入口は娘たちに愛想よく日本語で今日は、サヨナラと話しかけてくれたBeefeaterビーフィーター(牛食い)が衛兵として守っている。彼は胸に赤い王冠が刺繍され、紺色の地に赤い線の入った制帽・制服を身にまとっている。彼は正式には「The Yeomen Wardersヨーマン・ウォーダーズ(通称Beefeaterビーフィーター:牛食い)」と呼ばれる。彼らの歴史は15世紀、国王の命により国民義勇軍の役割として、国王の財産の守護やロンドン塔に収監される囚人たちの監視役などを務めていた。
また、現役の英陸軍の近衛兵も警護に当たる。
丁度、この近衛兵たちの交代式にも出会った。熊毛の高々とした黒い帽子をかぶり、赤の上衣、紺のズボンという格好はなかなか良い。
陰惨とも思われるロンドン塔の歴史は11世紀に遡る、1066年に即位したWilliam Iウィリアム1世(1027年~1087年:ノルマン王朝初代・征服王と称される)が、ロンドンを守るための要塞の建設を命じたことに始まった。
1241年、中世のロンドン城塞にノルマンスタイルの天守閣(32m)にあたる最初の塔が完成した。
その後、歴代の王によって増改築が繰り返され、最初の塔は5階建てで「White Towerホワイト・タワー」と呼ばれるようになり、「ロンドン塔」は塔や館、St John's Chapel聖ジョンズ礼拝堂(1080年ロマネスク様式)などが建ち並ぶ城塞全体を指す名前となった。
ロンドン塔は正式には「女王陛下のロンドン塔の宮殿および要塞と呼ばれ、現在も儀礼的な武器などの保管庫、礼拝所などとして使用されている。
中でも世界最大級のダイヤモンド「アフリカの星」がはめ込まれた王笏をはじめ豪華な宝物を展示する「ジュエル・ハウス」(入場料£1.4)が見所だ。
<Waterloo Blockウォータールー館:Jewel Houseジュエル・ハウス(宝物館)>
特筆されるのは宝物館で保管されている世界最大級のカット・ダイヤモンド「The Cullinanカリナン」である。1905年に南アフリカのカリナン鉱山で発見されたダイヤモンド原石は3106カラット(621.2g)もあり、鉱山の所有者サー・トーマス・カリナンの名前で命名された。
この原石から9つの大きな石と96個の小さな石が切り出された。9つの石にはそれぞれカリナンIからIXの名が与えられ、全てイギリス王室若しくは王族個人が所有している。
それらは宝物館で展示されていたのだが、実は内部が撮影禁止で、写真はないから、もう記憶に残っていない。
<Royal Armouriesロイヤル・アーマリーズ(国立武器防具博物館)>
イギリス最古の博物館ロイヤル・アーマリーズはイギリスの国立武器防具博物館である。世界的に見ても最も古い博物館の一つである。また、銃火器、武器防具、火砲で構成されたコレクションは世界でも最大規模とされている。
<ロンドン塔には、英国の歴史が垣間見える>
最後に居住した王はステュアート王朝のJames Iジェームズ1世(1566年~1625年)とされる。
1282年からは、身分の高い政治犯を収監、処刑する監獄としても使用されはじめ、14世紀以降は、政敵や反逆者を処刑する死刑場となり、城塞や王宮というよりも、これらの方で有名となった。
1471年:ヘンリー6世、ランカスター朝最後の王。
1536年:アン・ブーリン、ヘンリー8世の2番目の王妃。
1540年:トマス・クロムウェル、ヘンリー8世を支えた宰相。
1542年:キャサリン・ハワード、ヘンリー8世の5番目の王妃。
1554年:*レディ・ジェーン・グレイジェーン・グレイ、ヘンリー7世の曾孫。
1601年:エセックス伯ロバート・デヴルー、エリザベス1世の寵臣。
*ここにはイングランド史上初の女王(テューダー王朝第4代)異名に「九日間の女王」というLady Jane Greyレディ・ジェーン・グレイ(1537年~1554年)が収監されていた。
数奇な縁で女王として即位したが、在位わずか九日間で女王Mary Iメアリー1世(1516年~1558年、血まみれのメアリーと呼ばれた)により廃位され、その7か月後に大逆罪で斬首刑に処された。この事もあって女王と呼ばれていないが、現英国王室は公式に歴代君主の一人に数えていると云う。
・・・・・
尚、ナチス副総統・親衛隊大将Rudolf Hessルドルフ・ヘスも収監されていた。
ヘスは1941年5月10日午後6時10分、ヒトラーには事後承諾のつもりで、対英和平交渉を結ぶべくドイツからMesserschmittメッサーシュミット Bf110で飛来し、イギリス時間午後8時30分頃、スコットランドのグラスゴー郊外の農場に不時着した。ヘスは右足首を捻挫したものの無事であった。捕虜となり、1941年から1944年まで勾留され、最後のロンドン塔の収監者となった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 4.5
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 4.5
-
ニュルンベルク:旧市庁舎にある旧牢獄(Lochgefaengnisse穴の牢獄)は初めての訪れだ。
投稿日 2020年10月10日
総合評価:4.0
<北バイエルン;フランケン地方とオーバープファルツ地方を巡る旅>
:フランケンワイン、ボックスボイテル街道、古城街道;フランケン・シュヴァイツの古城群、陶磁器・ガラス街道、マイン、ペグニッツ、ナーブ、レグニッツ川を巡る:
期間:2009年4月17日(金)~5月1日(金)15日間の旅
4月26日(日) 朝方はやや曇り空、その後は快晴。20℃。 87km
ニュルンベルクは昨日に続く二日目の観光である。
旧市街地の中心にある中央広場から、Die Burg・Kaiserburgカイザーブルク(帝国城)に向かうブルク通りに入る手前右手にあるどっしりした建物が旧市庁舎である。
Altes Rathaus Nurnberg
D-90403 Nurnberg Rathauspl. 2
、
ここは市庁舎広場(同時に通り道でもある)であるが、その左手には聖セバルドゥス教会が見られる。
昨日の観光で見られなかった旧市庁舎には旧牢獄(Lochgefaengnisse穴の牢獄)があるというので、今日の目的にした。ここは初めての訪れだ。
ニュルンベルク全盛期の14世紀に建てられた旧市庁舎の地下室に、穴の牢獄がある。
ガイドの先導で、十数人の見学者と共に暗い地下牢に降りる。
中世の拘置する為の獄と拷問道具を揃えた天井が高い部屋がある。
トイレはもちろん常備し、2mの長さの牢獄が12、その部屋の鎖でつなぐ設備を見ると、2人以上が同室であった様子が分かる。
床や天井、壁は厚板が張られて、部屋の中には板のベッドか、ベンチになるような板が置かれている。
町や古城の見学ではこうした牢獄を見る事も多いが、ニュルンベルクの牢獄は良くできたもので、また保存も良い。
(12:30~13:00 チップとパンフレット代Euro1.5 ;シニアは無料でした)
・・・・・- 旅行時期
- 2009年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 3.5
-
アッシャウ:ドイツ料理界の天才ミシュラン3星シェフ ハインツ・ヴィンクラーの5品料理を楽しむ。
投稿日 2020年09月28日
Boutique Hotel Residenz Winkler プリーン
総合評価:5.0
≪2008年春:ミシュラン3星レストランHeinz Winklerハインツ・ヴィンクラーで、人生初の贅沢な夕食を楽しむ≫
<夕食:レジデンツ・ハインツ・ヴィンクラーのグルメレストランの「Venezianishe Restaurantヴェネチアニッシェ レストラン」 にて>
食事時間18:30~21:50、5品料理と飲み物費用合計Euro 440=73,257円
レストランの”Venezianishe Restaurantヴェネチアニッシェ レストラン” の評価はMichelinミシュラン3星・Gault Millauゴー・ミヨ19点(全独ランク4位)。
80席に対し、従業員40名とたいへん手厚いスタッフ数。
昼食コース;3品Euro89、5品130。
夕食コース;5品Euro 135、8品158。
ワイン950銘柄(1星レストランの倍の数である)。
オーナーシェフHeinz Winklerハインツ・ヴィンクラーは31歳で初めてミシュラン3星を獲得しているが、このAschauアッシャウの地では3星を11年もの間継続し、また、独立前のレストランMuenchner Kult-Lokals Tantrisタントリス(現在ミシュラン2星:ミュンヘンで最もお高いレストランと言われているそうだ)などの取得期間を加算すると、3星は合計21年と言われる。
バイエルン州で唯一のミシュラン3星を継続中である。
・・・・・
Heinz Winkler empfiehlt heute Abend・・・ハインツ ヴィンクラー 今夕のお勧めをお願いした。お勧めの5品コース(Euro 135x2)。
飲み物:
アペリティーフ:シェリー酒エミリオ・ルスタウ・フィノ・ハラーナ(へレス産のフィノ)
シェフからの贈り物(厨房からのご挨拶):
料理の注文や飲み物の注文、料理の出来上がりまでの時間調整にシェフからの贈り物として、二つ出てきました。
①白アスパラのクリームスープ
②3品・・・長方形のガラスの皿に3品がのって出てきました。
左手から、キャビアがのったサーモンの小片。ガラスコップに入ったグリーンピースをすり潰し泡立てたスープ。ハーブ入りマヨネーズソースの上にトマト風味の小エビをのせ。
飲み物:
ワイン:リースリングの白辛口・2005 年ラインガウ・リューデスハイマーベルク・シュロスベルク、Leitzライツ。
①前菜:スズキのカルパッチョ
②スープ;2007年バイエルン料理大賞の品
③魚料理;アンコウのメダリオン
④肉料理;Bresseブレス産鳩の胸肉
⑤デザート;イチゴのスフレ
コーヒー:コーヒーにチョコレート菓子
・・・・・
いずれの料理も美味しく、美しい出来栄えで、日本人の私共にも適当な料理の量でした。満席のお客にも拘わらず、適度の待ち時間で料理が運ばれてくるのもさすがでした。
『ミシュランの星は味、サービスをはじめ、全てに一流である証である』・・・納得です。
XXXXX- 旅行時期
- 2008年04月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- サービス:
- 5.0
- ロケーション:
- 3.5
-
セピア色の思い出:ロンドン市内ショッピング・英国土産はバーバリーのコートや銀食器など
投稿日 2020年10月04日
総合評価:4.5
≪ロンドン市内ショッピング:英国土産はバーバリーのコートや銀食器など≫
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
この時は駅観光案内所で紹介されたロンドン市内のホテルに4泊した。
ロンドン観光は初めてで、4泊5日の間、観光書に載っている主だった所を自分の車で市内を見て回った。若いから怖さ知らずで行けたようだ。
名前をあげれば、8月6日にLondonロンドンのウェストミンスター寺院、国会議事堂とビック・ベン、バッキンガム宮殿と衛兵交代式、テームズ川とタワーブリッジ、トラファルガー広場とライオン像、大英博物館、
8月7日は、ロンドン塔、Madame Tussaudsマダム・タッソー館(蝋人形館)、動物園(パンダ見物)、ギルドハウス、イングランド銀行、
・・・・・
8月8日はロンドン最後の日なので、市内のショッピング街を見て、気に入ったものがあれば、英国土産を購入しようと思っていた。
そこでRegentリージェント通り、Oxfordオックフォード通り、Bondボンド通り、Piccadillyピカデリー通りと、案内書に出て来る一帯を巡った。
この日のショッピングの主たるものは、ママのBurberryバーバリーコート(£70ポンド)、カシミヤのセーターとマフラー(£156)、銀器一式(£130)、キルトのスカート(£23)など合計£405でした。
ショッピング街は東京のように人の波で歩くのも大変、子供たちとはぐれぬように用心。ピカデリー・サーカスのキューピットの銅像、噴水に来た時はもう夕暮れ時、買物には時間がかかる。噴水周辺は観光客、若者たちで混雑していた。
最後にバッキンガム宮殿による。正門前でドイツのEssenエッセンから来た大学生に会う。久しぶりのドイツ語が妙に嬉しい。
(2020年10月03日:編集・加筆)- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 4.5
- 景観:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
-
セピア色の思い出:ロンドン動物園のパンダ見物では見物人がいないのに驚いた!
投稿日 2020年09月27日
総合評価:3.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。
ロンドン観光は初めてで、4泊5日の間、観光書に載っている主だった所を見て回った。
8月7日(月)は午前中にロンドン塔、ホワイトタワーを見て、Madame Tussaudsマダム・タッソー館(蝋人形館)、動物園(パンダ見物)、ギルドハウス、イングランド銀行を見て回った。
②次のLondon Zooロンドン動物園(1828年開設、1847年公開。Outer Circle, Regent's Park, London)はリージェンツ公園の北にある。
南端にあるマダム・タッソー館から動物園は近いし、子供たちにとってもパンダは初めてだから行ってみたのだ。
前掲の写真ではパンダ、いわゆるジャイアントパンダの姿は柱や金網などで見難いが、中央部の木の上にどっしり座って動かない姿を撮っている。
ともあれ、月曜日の所為か、パンダ舎の周りには誰もいない。イギリスでは珍しくもなく、人気がないのだろうか?
かつてロンドン動物園にはChi Chiチチというジャイアントパンダがいて、1972年に亡くなったという記録が残っているが、この時に見たジャイアントパンダの事はよく分からない。現在、ロンドン動物園には1頭もいない。
但し、スコットランドのエディンバラ動物園に2011年12月から、Tian Tian(F)とYang Guang(M)の2頭がいるようだ。この差が何だろうか?
尚、「中国のパンダ外交」で西側諸国にパンダが贈呈されたのは、1972年、アメリカに贈られたリンリンとシンシンが最初で、それ以降、日本・フランス・イギリスなどに贈呈されていった。
日本の上野動物園には1972年10月、2頭のカンカン、ランランがやって来た。
当時の日本人の歓迎ぶりはすごいもので、パンダ人気がたいへん盛り上がった。この頃、私に海外駐在の話が出始めていたから、上野動物園に家族で訪れたか、ジャイアントパンダを見たのか、さて、もうすっかり忘れてしまった。
・・・・・
薄汚れたジャイアントパンダに家族も少々ガッカリしてしまったのだが、それからシティという(日本的には丸の内のような)地区に戻った。
ここに日本の商社、銀行の店が殆ど集まっている。
③Guildhallギルドホールは、シティ・オブ・ロンドンの市庁舎である。
12世紀に商人達のギルド(同業組合)が自治権を獲得後、1185年に初代市長(ロード・メイヤー)が誕生し、1319年にはギルドに選挙権と行政権が認められた。
このギルドホールは15世紀に統治の中心として建設されて以降、シティの市庁舎、シンボルとして機能してきた。現在も市長の晩餐会や講演会、定例の市議会が開催され、シティのホールつまり議事堂なのだ。
夕暮れ時に訪れたから、外観だけを写真におさめたが、内部にはチャーチル首相、ネルソン提督、政治家ピット首相(親子:大ピット、小ピット)の著名な方々の肖像画や記念碑があると云う。時間があれば、見て見たかったが、現在は1999年に再建されたGuildhall Art Galleryギルドホール・アート・ギャラリー(美術館)という隣の建物に展示されているようだ。
④Bank of Englandイングランド銀行はギルドホールから近い。
1694年の創立、コリント風の列柱が独特の建物は古色然としているが大きな建物である。かつて世界の金融を支配した英国中央銀行である。
一つ不思議なことに、イングランド銀行前で写真に撮った正義の女神像が現在の銀行前には見当たらず、イングランド銀行(旧王立取引所)前のウェリントン公爵(ワーテルローの戦いでナポレオン皇帝に勝利した)騎馬像だけが見える。
面白いことに、シティでは軍人を崇拝するような像を公衆の面前に建てることが禁止されているらしく、軍服ではなく平服の騎馬像になっているそうだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
明日8日はロンドン最後の日、リージェント通りでお買物の予定になっている。
(2020年9月25日:編集・加筆)- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 施設の快適度:
- 3.0
-
セピア色の思い出:ロンドンのマダム・タッソー館(蝋人形館)は実に面白い。
投稿日 2020年09月26日
総合評価:4.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。その旅の第一の目的はScotlandスコットランドのエディンバラ城で行われるEdinburghエディンバラの祭り・「Military Tattooミリタリー・タトゥー」を見に行くことだった。
この時は駅観光案内所で紹介されたロンドン市内のホテルに4泊した。
ロンドン観光は初めてで、4泊5日の間、観光書に載っている主だった所を見て回った。名前をあげれば、8月6日にLondonロンドンのウェストミンスター寺院、国会議事堂とビック・ベン、バッキンガム宮殿と衛兵交代式、テームズ川とタワーブリッジ、トラファルガー広場とライオン像、大英博物館、
8月7日は、ロンドン塔、Madame Tussaudsマダム・タッソー館(蝋人形館)、動物園(パンダ見物)、ギルドハウス、イングランド銀行、
8月8日には市内でショッピング(銀器、Burberryバーバリーコート)、ピカデリー・サーカスなどなど。
8月7日(月)は午前中にロンドン塔、ホワイトタワーを見て、Madame Tussaudsマダム・タッソー館(蝋人形館)、動物園(パンダ見物)、ギルドハウス、イングランド銀行を見て回った。
①Madame Tussaudsマダム・タッソー館はロンドンにある蝋人形館である。
(現在は欧州、アメリカ、アジアの各国に分館が出来ている)
今もロンドンの観光名所のひとつであるが、当時でも人気が高く、並ぶ人も多くてなかなか入場できなかった。子供たちには少し刺激の強いものも有ったし、顔と名前が一致して分かるわけでもないが、内部に入ると、人形なのか?蝋人形なのか?迷ってしまうほど精巧な、見事な人形が並んでいた。
名前をあげれば、皆納得の人達である。日本人では吉田茂首相の和服姿、史上有数・昭和最後の大横綱である千代の富士関の力士姿が、
英国ではエリザベス2世一家を筆頭に、ヘンリー8世と6人の王妃、エリザベス1世、イングランド・スコットランド・アイルランド3王国「共同統治」のウィリアム3世とメアリー2世、同君連合=ハノーヴァー王朝ジョージ3世、ウィリアム4世、ジョージ4世、ヴィクトリア女王、映画監督アルフレッド・ヒッチコック、女優オードリー・ヘプバーン、俳優リチャード・バートン、女優(政治家)グレンダ・ジャクソン、「ミステリーの女王」アガサ・クリスティ、チャーチル首相、ビートルズなどが見られ、
アメリカからはケネディ大統領、女優のマリリン・モンロー、アメリカの石油王ポール・ゲティ、『カサブランカ (映画)』の男優ハンフリー・ボガート、『刑事コジャック(TV)』の男優テリー・サバラス、
その他の国ではドイツのシュミット首相、ヨハネ23世 (ローマ教皇)、グスタフ6世アドルフ(スウェーデン国王)、童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン、スペインの画家ピカソ、イラン皇帝レザー・シャー・パフラヴィーなど。
(時代が変わるに応じて、ここに陳列される蝋人形たちも変わる。それを比較するのも面白事だろう。長寿の女王エリザベス2世だけでも見る価値がある)
地下のホラーの部屋には処刑場の場面が作られていて、フランスのギロチンの模型が、不気味で恐ろしい様で立っていた。加えて音楽まで不協和音を奏で、恐々といった感じだった。その横にはギロチンで処刑された王妃マリー・アントワネットの頭部が獄門台(首台)に載せられていたから、ぎょっとする。
とても子供には見せられないものだったから、私だけが見たのだけれども。
マダム・タッソー館は1835年、フランス生まれの蝋人形彫刻家Marie Tussaudマリー・タッソー(1761~1850年)がロンドンのベイカー・ストリートに創立し、1884年にメリルボン・ロードに移転した。
ここでは歴史上の人物、各国の政治家、エンターテイナーからスポーツ選手などを等身大の大きさで精巧に再現して展示している。
(2020年9月25日:編集・加筆)- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 施設の快適度:
- 4.0
-
ニュルンベルク:カイザーブルク(帝国城)傍にあるレストラン ブルグヴェヒターでお茶にした。
投稿日 2020年09月23日
総合評価:3.5
<北バイエルン;フランケン地方とオーバープファルツ地方を巡る旅>
:フランケンワイン、ボックスボイテル街道、古城街道;フランケン・シュヴァイツの
古城群、陶磁器・ガラス街道、マイン、ペグニッツ、ナーブ、レグニッツ川を巡る:
期間:2009年4月17日(金)~5月1日(金)15日間の旅
4月26日(日) 朝方はやや曇り空、その後は快晴。20℃。 87km
ニュルンベルクは昨日に続く二日目の観光である。
市博物館の横の道Burgenstrasse古城街道をDie Burg・Kaiserburgカイザーブルク(帝国城)に向かって上がる。
薄紫のライラックが満開の様子を楽しみながら、上り坂を上がると、Burgenstrasse古城街道の標識が出てきた。確かにカイザーブルクはこの街道上にある。
登りきってみるとお腹が空いているのに気が付いた。
<お茶:Burgwaechterブルグヴェヒターのレストランにて>
D-90403 Nuernberg 、Am Oelberg 10
(13:20~14:00 Euro 20)
Kaiserburgカイザーブルク(帝国城)傍のレストランでお茶にした。
レストランの内部は私共だけで、ドイツ人は花々で飾られたテラスで、
日差しの下でお茶や軽食を楽しんでいる。太陽の少ない冬を過ごすと、
こうしてみたいのか!
レストラン内部は暖炉の間があり、洒落た装いである。
メニュー:リンゴのケーキにコーヒー。ドイツのコーヒーは美味い。
・・・・・- 旅行時期
- 2009年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人当たり予算
- 2,000円未満
- 利用形態
- その他
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- サービス:
- 3.5
- 雰囲気:
- 4.0
- 料理・味:
- 3.5
-
懐かしのプリーン:キームゼー湖の男島に見事なルードヴィヒ二世の宮殿がある。
投稿日 2020年09月16日
総合評価:5.0
≪ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊≫
:アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:
期間:2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間の旅
4.23 (水) 曇り時々小雨 12℃、
2008年の春、バイエルンのプリーンを久しぶりに訪問した。
市内にあった語学学校Goethe-Institutゲーテ・インスティトゥートや、2ヶ月の間、学校に通った時に下宿した家、そしてFahrschuleファーシューレ自動車学校(ドイツはどの町にも先生一人の小さな学校がある)などを見て回ったが、34年前の記憶は不鮮明で、どれ一つ特定できなかった。
XXXXX
Prien-Stock10:30発の観光船・Rudorf号でHerreninsel男島に向かう。
(Prien ->Herreninsel・15分、往復Euro12.6 )
男島の北東に位置する桟橋に着くと、大勢の観光客が桟橋そばの切符売場の前に参集している。様々な国の言葉が聞こえてきて、世界的に名高い観光地であることを再認識した。
十分時間のある一日となったので、切符売場ではルードヴィヒ二世の宮殿:ガイド付き見学 、併設のルードヴィヒ二世博物館、Altes Schloss博物館の特別展の通し切符を購入した。
尚、ルードヴィヒ二世の宮殿など見学内容は別途、関連旅行記に詳細を書いた。
ご参照下さい。
≪南独、オーストリア巡り≫
2004年4月21日~5月4日の2週間
南ドイツとオーストリアをドイツ・バイエルン国王ルードヴィヒ2世とオーストリア皇妃エリザベート・・・愛称 “シシー”を巡る旅と称して、レンタカー(メルセデス・ベンツ2000CC)の旅をしたことがある。
珍しく、家内の友人親子が御一緒した、4人の旅でした。
快晴に恵まれ、男島への20分程の船旅も心地よく、新緑の中をヘレンキムゼー宮殿へ向かう道も弾むような気持ちだ。
≪南独、オーストリア、スイス巡り≫
1975年8月9日~8月19日 10泊11日
夏の休暇旅行で
さて、駐在二年目に入ると、車にも少し自信が出てきて、夏の休暇は初めて大きな旅行をしました。
当時、私共は31歳、娘たちは5歳と3歳でした。
赴任して、家族を連れて最初に行きたかったのはロマンチック街道であり、更に東に走りバイエルンの州都ミュンヘン、私が学んだゲーテ・ドイツ語学校のあったキームゼー湖畔のプリーンでした。ヘレンキームゼー城建学。
≪Prienプリーンの思い出 ; 1974.2.2.~3.29.≫
プリーンは観光地である。
世に名高いバイエルン王ルードヴィヒ二世の建てた新宮殿(第三番目の宮殿)Schloss Herrenchiemseeヘレンキームゼー城があるHerreninselヘレンインゼル(男島)への観光船が発着する所だ。- 旅行時期
- 2008年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 展示内容:
- 4.0
-
セピア色の思い出:生憎の小雨の中、2000年の歴史遺跡・ハドリアヌスの長城を訪ねた。
投稿日 2020年08月22日
総合評価:4.0
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。
その旅の第一の目的はScotlandスコットランドのエディンバラ城で行われるEdinburghエディンバラの祭り・「Military Tattooミリタリー・タトゥー」を見に行くことだった。
フランスのCalaisカレー港から愛車オペル車をホーバークラフトに載せ、Strait of Doverドーバー海峡(仏側からするとPas de Calaisカレー海峡)を越え、イギリスのRamsgateラムズゲートに到着しました。
イギリスとフランスを隔てるイギリス海峡の最狭部距離はたった34km、凡そ40分の乗船でした。約42年前の事です。
今はドーバー海峡にもChannel Tunnel英仏海峡トンネル(全長50km)が通じている。1994年11月14日、ロンドンと欧州大陸を結ぶ高速鉄道ユーロスターが開業した。便利になったようで、旅の情緒に欠けるかもしれない。
この時はその他に、Londonロンドンの大英博物館など、Oxfordオックスフォード、湖水地方、ネス湖、ハドリアヌスの防御線(長城)なども見て、Kingston on Hullキングストン・アポン・ハル*の港から、Rotterdamロッテルダムに抜けて、ドイツ・デュッセルドルフに戻りました。
*Kingston on Hullキングストン・アポン・ハル(通称ハル、Hull)は、イギリス・イングランド東海岸に位置する、国際航路を行く大型貨客船も寄港する港町であり、北海に注ぐハル川の川畔の北に発展した人口257千人の中核都市である。
総行程2,750kmと15日間としては良く走った思いが残ります。
・・・・・
8月12日(土)小雨
この日、湖水地方の町KeswickケズイックからA66を東のPenrithペンリスを出て、M6を北に約30km走った。Cumberlandカンバーラントの中心Carlisleカーライルまで来ると、いわゆるイングランドも終わりだ。カーライルから東にA69で29 km先の Gilslandギルスランドに向かい、少し手前に、今はBirdoswaldバアードスワルドのRoman Fort(カストラ・・・ローマ軍団の砦)と称する地(42年前も、こうした呼び方をしていたか、覚えていないが)があった。
有名な2000年の歴史遺跡「Hadrian's Wallハドリアヌスの長城」に至ったのだ。
生憎の雨で、湿地帯のようになった小高い丘を登った。長く長く続く城壁はかつての世界の覇者ローマ帝国が軍団を派遣し、この地まで支配した証しとして、今に残っている。
高さ5m前後、幅2m半の石造りの防塁である。勿論、今に残る中国の長城のすごさはローマ軍団の長城をはるかに超えている。
この城壁は防衛上、城壁の下はやや攻めにくい傾斜を見せている。この長城を越えれば、スコットランドの地だ。
雨の中も羊たちが草を食みながら、城壁の低い所からスコットランドに入って行く。
カーライルの町にはローマ軍団が駐屯し、国境線を守備したと云う。
その後、スコットランドとの戦いではこの長城は重要な役割を果たした。
さて、世界遺産「ローマ帝国の国境線」は後にイギリスとドイツのものを一括登録している。
有名な「Hadrian's Wallハドリアヌスの長城」は1987年世界遺産登録された。
(1978年にドイツのアーヘン大聖堂など12件が最初の世界遺産リストに登録されたが、当時は世界遺産ではなかったのだ)
10年をかけて西暦132年に建設された。イングランド北部、スコットランドとの境界線近くにある。
全長118kmの長城の間に、東のNewcastle upon Tyneニューカッスル・アポン・タイン、そこから90km西にあるCarlisleカーライル(カーライルはスコットランド国境最前の町)がある。
及び「Antonine Wallアントニヌスの長城」がある。
こちらは2008年世界遺産登録された。
西暦144年にスコットランドの中央部に石と土で作られたローマ時代の防塁である。西暦164年、ローマ軍はハドリアヌスの長城へ撤退し、アントニヌスの長城は建設後わずか20年で放棄された。
ハドリアヌスの長城に比べて凡そ半分の全長60km。
また、ドイツ最長の文化記念物として、「Deutsche Limes-Strasseドイツ・リーメス街道」(2005年登録)が世界遺産に一括登録されている。
ドイツのリーメスはライン川畔のコブレンツ近くの町Bad Hoenningenバート・ヘンニンゲンからドナウ川畔のRegensburgレーゲンスブルクに至るものである。
全長770kmの防衛線上には監視塔拠点900以上と、大小のKastell砦120を数えると云う。
各地には様々な規模の出城や防壁、防御柵、広い温泉施設、居住用建築物が見られる。
イギリスの長城に比べ、規模も大きい。
・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
-
古城ホテル ヴォルフスブルンネン城は娘の結婚プレゼント!!!に建てた城。
投稿日 2020年08月03日
総合評価:4.0
<「狼の泉」の異名が付いた古城ホテル ヴォルフスブルンネン城>
2005年春“北ドイツ周遊の旅”2005年4月21日(木)~5月5日(木)15日間
1982年から数えて 23年ぶりの北ドイツです。Kasselカッセルの大企業の社長が娘の結婚プレゼント!!!に、1904~07年に建てた城だそうだ。
王が王妃や愛妾に城を贈る事はよく聞く話だが、大企業の社長とはいえ、驚いた話だ。
第二次大戦後はユダヤ人の孤児収容所、ルールの鉱山労働者の保養所、独大企業Preussagプロイサーグへの賃貸等を経て、1988年からホテルに生まれ変わった。
ドイツで中学生までいた長女夫婦も、2000年12月の新婚旅行で、此処に宿泊した事があり、その事を聞いていたから、我々も是非宿泊したいと思っていた古城ホテルです。
17:00にチェックイン。予約は3階のSchlosszimmerシュロスツィマー(スイート)213号室は正面左手の塔の下、張り出した丸窓のある大きな部屋です。
ピンク系でトーンが統一され、天蓋つきのベッドがあり、その素敵な部屋からの眺望は、前面の森、丘の下の田園風景、走ってきた道路の先に見えるヴェラ川一帯の山河と、とても素晴らしいものだ。
<Meinhard :Hotel Schloss Wolfsbrunnen
古城ホテル ヴォルフスブルンネン城>
D-37276 Meinhard-Schwebda bei Eschwege 、Am Berg 1
https://www.wolfsbrunnen.de/
4星・全65室、1泊した3階のSchlosszimmerシュロスツィマー(スイート)213号室はEuro 115でした。
ヴォルフスブルネン城はエシュヴェーゲの北東4km、海抜211mに立っている。
そこはシュウェーブダ地区の北北東約800mに位置し、ヘッセン州Werra-Meissner-Kreisヴェラ・マイスナー郡のDachsbergダックスベルクのふもとにあるマインハルトの森林地帯にあります。
この城はドイツ帝国皇帝の侍従長であるAlexander von Keudellアレクザンドル・フォン・キュデル(1861~1939年)が1904年から07年にかけてネオ・ルネサンス様式で建てた近代的な城です。
1886年6月、アレクザンドルは25歳の時、21歳のLouise Henschelルイーズ・ヘンシェル(1865~1951年)と結婚した。彼は1904年から1907年までかけてヴォルフスブルネン城を建て、妻に贈ったと云う。実際はこの結婚を祝って、妻の父から建設資金が出たのだが。
ルイーズの父Carl Anton Oscar Henschelカール・アントン・オスカー・ヘンシェルは、カッセルの機械メーカーの社主であり、カッセル商工会議所の会頭であった大実業家でした。
1939年に夫アレクザンドルが死去したあとも、ルイーズ未亡人は家族と共にこの城の一角に住んでいたそうです。
1943年から45年にかけてドイツ国防軍の病院だった。
1980年から85年までアシュラム・サンヤシン(ヒンドゥー教のお坊さん)が所有者だった。
1988年以降は古城ホテルとなっている。
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さて、15年も経った現在(2020年)、古城ホテル ヴォルフスブルネン城の
HPをあらためて見ると、新資本が入り、ホテル経営も変わったようで、新しく、さらに豪華な古城ホテルになっていました。- 旅行時期
- 2005年05月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 1人1泊予算
- 7,500円 未満
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- サービス:
- 4.0
- バスルーム:
- 4.0
- ロケーション:
- 3.5
- 客室:
- 5.0
-
バウムクーヘンの元祖はザルツヴェーデルのカフェ・クルーゼだよ!
投稿日 2020年07月05日
総合評価:4.5
2014年ドイツ:北方二州を巡る・(北方二州:シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州 &
メクレンブルク・フォアポンメルン州を中心に巡る旅)
(2014年05月09日~23日 15日間)
05月18日(日) 185km、曇り時々シャワー、15℃
起床6:30、朝食8:00~9:00、庭園散策、ヴェンドルフ城10:11 =>L?・(Crivitz)L? 32km Jagdschloss Friedrichsmoor フリードリヒスモール狩猟用離宮 10:55~11:15 =>L?・B106・B5 20km Ludwigslustルートヴィヒスルスト宮殿 11:40~12:50 =>B191 34km Festung Doemitzデーミッツ要塞13:30~14:30 =>B191(Danneberg)・B248 43km Salzwerdelザルツヴェーデル15:20~16:30 (お茶)SalzwedelザルツヴェーデルCafe Kruseカフェ・クルーゼ 15:30~16:20
*デーミッツ要塞からは国道191でDannebergダンネベルクに、ここからは国道248を南下し、アルトマルク地方に入る。合計43kmを走ると、元祖バウムクーヘンで有名なSalzwerdelザルツヴェーデルに着いた(15:20)。街中のLorenzkircheローレンツ教会からちょっと歩くと、目的のCafe Kruseカフェ・クルーゼのバウムクーヘンの看板が目に付いた。
この町も木組み建築の家並みが多い。
<(お茶)ザルツヴェーデルのCafe Kruseカフェ・クルーゼ>
15:30~16:20 Euro12(1,587円)
元祖バウムクーヘンのレストランでは運良く、バウムクーヘン作成の実演をしていた。
ドイツ人のツアーの人たち向けの実演だったのでしょうが、ツアー担当者が気を利かして、私共を見える場所に招じてくれた。
(1842年創業で、昔のままのレシピ通りに行われる実演は日曜日及び毎月の第一水曜日14:00に行われるという。私共が入った時間はすでにこの対象時間ではなく、実演は予約済みのグループの為であったから、有難いものだったのです)
暖炉のような場で黄金色した炎が燃え、女性の担当者が昔通りのレシピでローラーに巻き付けながらバウムクーヘンをクルリクルリと回転させて、“ケーキの王”バウムクーヘンを形作っていく。
見学の後は当然、カフェで3片のバウムクーヘンを注文し、ダージリンの紅茶で楽しんだ。そして、やはり娘家族にお土産もと、同じ3種を購入した(Euro21.83)。帰国して3種類のバウムクーヘンを私共と娘家族で其々3等分して食べた。娘たちにも好評だった。
<Salzwerdelザルツヴェーデル>
15:20~16:30
http://www.salzwedel.de/
ザクセン・アンハルト州の最北部・アルトマルク地方にあるザルツヴェーデルという25千人の町はかつてのハンザ都市であり、Magdeburgマグデブルク、Luebeckリューベック、Hamburgハンブルク、Braunschweigブラウンシュヴァイクといった都市との交易路が交差する町であった。州都マグデブルクからハンブルク方面に走って凡そ100kmの距離にある。
ザルツヴェーデルはBaumkuchenバウムクーヘンの発祥の地として知られている。
今もってこの町では当時のレシピを使った、直火で焼くバウムクーヘンを食べられる。
その製法は少なくとも1682年からのもので、直火の上をじんわりと回転するローラーの上にバウムクーヘンが徐々に層をなすように作っていく。
1841年5月26日、プロイセン王Friedrich Wilhelm IVフリードリヒ・ヴィルヘルム四世(在位:1840年 - 1861年)は、選帝侯ヨアヒム二世(1535-1571)(Kurfuerst JoachimⅡ)以来の王侯貴族として、ザルツヴェーデルの町を訪ねた。
それだけに 町は王に敬意を表して、歓迎の宴を催した。その際、"Adler Horst"のLuise Lentzルイーズ・レンツのバウムクーヘンが、初めて王の食後のデザートに出されました。
ヴィルヘルム四世はそれをたいそう気に入り、愛する王妃のために残りを持って帰ったそうです。 また、ヴィルヘルム四世はルイーゼ・レンツにバウムクーヘンをベルリンの宮廷に定期的に送付するように命じたと云う。
その後、ベルリンはもとより、ウィーン、サンクトペテルブルクなど、各地の王宮からも注文があり、この味は王宮から民衆に広がり、各地の人々に好まれるようになったと云われている。
今日もなお、王が食べた当時のように、直火による手作業で焼かれたバウムクーヘンは古くから伝えられたレシピに従い、保存料を使わず、一番良い自然の素材とバターだけが使用されているのだそうだ。
現在、ドイツで有名なバウムクーヘンの町はザルツヴェーデル、Cottbusコットブス、Dresdenドレスデンがある。
其々はアラック(蒸留酒)を使う、挽いたアーモンドにラム酒を入れる、挽いたアーモンドやマジパンを入れシンプルに作るやり方である。
この内、発祥の地ザルツヴェーデルの3店にその製法が受け継がれていると云う。
①Cafe Kruseカフェ・クルーゼ;
D-29410 Salzwedel 、Holzmarktstrasse 4 - 6
http://www.kruse-baumkuchen.de/
②Salzwedeler Baumkuchen GmbH ザルツヴェーデラー・バウムクーヘン有限会社;
D-29410 Salzwedel 、Am Gueterbahnhof 19
http://www.baumkuchen-saw.de/
Cafe "Treff im Adler * Horst"カフェ“トレフ・イム・アドラー・ホルスト”。
③Erste Salzwedeler Baumkuchenfabrikエアステ・ザルツヴェーデラー・バウムクーヘン・ファブリーク ;
D-29410 Salzwedel 、St.-Georg-Strasse 87
http://www.baumkuchen-salzwedel.de/
XXX- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 利用形態
- その他
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.5
- サービス:
- 4.5
- 雰囲気:
- 4.5
- 料理・味:
- 4.5
-
カッセルの丘陵公園:壮大な「水の芸術」大噴水ショーを一度は見たいもの。
投稿日 2020年06月30日
総合評価:5.0
<2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
(14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)
9月29日(日) 79km 、 晴れ時々曇り、14℃~18℃
Caldenカルデン11:45出発 =>L3217・L3298・K5 10 km Kasselカッセル・Bergpark Wilhelmshoeheベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエで大噴水を見る12:00~16:20
*Caldenカルデンを11:45に出発し、凡そ10 km でKasselカッセルのBergpark Wilhelmshoeheベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエの駐車場に12時到着した。
駐車料金はEuro7。但し、駐車券の半券で噴水のスタート時点の山上Herkulesヘラクレスの像(Grosse Kaskaden大きな人工の階段状の滝)までバスNo.23に無料乗車が出来る。なお、自力で途中まで登ったので使用せず。
<ヴィルヘルムスヘーエ城公園>
ベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエ山岳公園はヨーロッパ一の山地公園で、標高527m、敷地は総面積240haと広大なものとなっている。2013年にユネスコの世界文化遺産に登録された。
この山岳公園は1700年頃、ヘッセン・カッセル方伯カールの下でバロック庭園として設けられた。その後、18世紀から19世紀に一部がイギリス式の風景庭園に造り替えられた。
カッセル観光の目玉、見応えのあるカッセルの噴水ショーは、この山岳公園内で、夏期(2019年5月1日~10月3日)に週の水、日の2回と祭日(開始14時半~16時頃終了)に行われる。
庭園は水の高さが50mを超える大噴水や、渓流、滝、池、水路など、水を利用してデザインされた造形が特徴で、そのユニークさは他に例がないそうだ。
今日は高低差231mを利用した水の流れと見事な大噴水を見にここにやって来た。
(「水の芸術」大噴水ショーの時間的経緯)
12時、駐車場からともかく登り出す。
海抜289mのGrosse Fontaene(グローセフォンテーネ)大噴水の池から12時半に右手の道を上がる。
12時45分、Plutogrotte(プルートグロッテ)冥王(冥府を司る神)の洞窟に至り、たかだか70mを上がった。
12時50分、Teufelsbruecke(トイフェルスブルッケ)悪魔の橋(海抜357m)を写真に撮る。
13時05分にNeptunbassin(ネプチューンバーシン)海神ネプチューンの池にようやくたどり着いた。駐車場から1時間弱かかった。海神ネプチューンの池は海抜420mの地点で、ヘラクレスの像まで標高差100mを上がるだけになった。・・・がここで、十分と思った。
(昼食13:15~14:15)
14時半、ヘラクレスの像の下部から水が少しずつ吹き出て、流れ出し、幾つもの階段を水が両脇まで浸しつつ下ってくる。(海抜520m)
14時39分、海神ネプチューンの池に滝のようになって池に水が落ちだすのだ。
(ヘラクレスの像から100m下となる海抜420mの地点)
15時20分、悪魔の橋(海抜357m)に到達。
15時30分、Aquaedukt(アクアエドゥクト)に至る。1792年、ローマの水道橋の遺跡を模したもので30mの高さ。(海抜320m)
15時45分、大噴水の池に達して、水圧のかかった水は吹き上がり始めた。(海抜289m)
(噴水ショーは1時間半をかけて、16時ころに終了する)
ヘラクレス像から大噴水池まで2.3kmを下り、丘の高低差による水圧を利用することによって高さ52mまで水を噴き上げる姿を「水の芸術」と呼んでいる。
「水の芸術」のクライマックスでは、ヴィルヘルムスヘーエ城を背景に大噴水を撮る人、大噴水とヘラクレスの像をバックに撮る人と様々で、私共もカメラ片手にこの一瞬の為に待っていたから、皆さん同様にシャッターを切ったものです。
・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2019年09月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 3.5
- 景観:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
-
カッセル:大噴水ショーで知られた山岳公園内にあるヴィルヘルムスヘーエ城は18世紀後期の歴史的建造物である。
投稿日 2020年06月29日
総合評価:4.0
<2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
(14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)
9月29日(日) 79km 、 晴れ時々曇り、14℃~18℃
Caldenカルデン11:45出発 =>L3217・L3298・K5 10 km Kasselカッセル・Bergpark Wilhelmshoeheベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエで大噴水を見る12:00~16:20
*ヴィルヘルムスタール宮殿の駐車場で15分ほど休憩し、Caldenカルデンを11:45に出発し、次の目的地に向かう。
凡そ10 km でKasselカッセルのSchloss Wilhelmshoeheヴィルヘルムスヘーエ城近くの駐車場に12時到着した。ここは海抜280mぐらいになる。
<Kasselカッセル>
カッセルはヘッセン州の北部の大学都市で、フランクフルト・アム・マイン、ヴィースバーデン(州都)に次ぐヘッセン州第3位の都市(人口201千人)である。
カッセルは歴史上、1277年から1866年までヘッセン・カッセル方伯家の首都であったことがある。
フルダ川の両岸に広がるカッセルはWasserspielekunstヴァッサーシュピールクンスト大噴水芸術が有名である。また、1955年から 4、5年ごとに開催される芸術祭ドクメンタ(現代美術展)で知られている。このためカッセルは1999年3月から「documenta-Stadtドクメンタ・シュタット」と公式に称している。
「Schloss Wilhelmshoeheヴィルヘルムスヘーエ城」
カッセルのBergpark Wilhelmshoeheベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエ(山岳公園の総面積240ha)には、18世紀後期の歴史的建造物であるヴィルヘルムスヘーエ城がある。
ヴィルヘルムスヘーエ城の中央翼は古代コレクションとアルテ・マイスター絵画館(古の巨匠絵画館)に充てられている。この絵画館は主にフランドルやオランダのバロック絵画を所蔵している。
たとえば、レンブラントの「ヤコブの祝福」、フランス・ハルス、ルーベンスなどである。その他に古いドイツ絵画(アルブレヒト・アルトドルファー、アルブレヒト・デューラー)、イタリア絵画、スペイン絵画もある。
・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2019年09月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
-
メルヘン街道の代表はいばら姫の城サバブルクですが、残念にも2018年12月から休業中。
投稿日 2020年06月25日
ホテル ドルンレッシェンシュロス サバブルク (いばら姫の城) カッセル
総合評価:4.0
<2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
(14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)
9月28日(土) 72km 、曇りのち晴れ、14℃~16℃
起床6:00、朝食7:50~8:20、Hannoversch Muendenハノーフェルシュ・ミュンデンの市内見物8:45~10:35、11:00出発 =>B3・ B80 17 km Veckerhagenフェッカーハーゲン11:15~12:00 =>K52 L3229 12 km Dornroeschenschloss Sababurg古城ホテル いばら姫のザバブルク城12:17~13:00=>K56・L763 13 km Hotel Burg Trendelburgホテル ブルク トレンデルブルク 13:30~14:05 =>B83 13km Hofgeismarホーフガイスマル14:35~15:45=>B83 7km Grebensteinグレーベンシュタイン16:00~16:20=>B83・L3217 10 km Caldenカルデン16:35着。
*グリム童話で名高い“ラプンツェルの塔”のモデルとなったBurghotel Trendelburg古城ホテル トレンデルブルグ城や、
Dornroeschenschloss Sababurgいばら姫のザバブルク城は私のお気に入りだから、この地域に来ると外せないのだ。
<Sababurgザバブルク> 12:17~13:00
Dornroeschenschloss Sababurg古城ホテル いばら姫のザバブルク城はもちろん、若い頃にも家族で訪れているのだが、定年後の旅も2005年春に訪れた。
そしてドイツ・ベネルックス秋の旅をした際、2013年10月16日(水)にもザバブルク城(いばら姫の城)を訪れた。
その後2018年末に理由は不明だが、古城ホテル ザバブルク城(いばら姫の城)は営業を停止していた。多分業績不振となったのだろうが。
2019年9月28日、今日の事だが古城ホテル ザバブルク城が閉業した後が気にかかり、どんな風になったかを見たかったのだ。
6年ぶりの秋の訪れだが、見覚えある巨人族のザバの木像が右にいく道路沿いに立っていた。左に入って駐車場に停める。今日は週末なので、観光客やハイキングで立ち寄る人も多いと思ったが、数台の車が有るぐらいだった。古城にも秋が訪れていた。
<Dornroeschenschloss Sababurgいばら姫のザバブルク城>
D-34369 Hofgeismar (Sababurg)ホーフガイスマル(ザバブルク) 、Im Reinhardswald (ラインハルトの森)
ザバブルグ城はメルヘンの国・ラインハルトヴァルトの原生林の中にあり、グリム童話で知られるいばら姫の城は670年以上の歴史をもつ。
別名100年の眠りから覚めた“眠れる森の美女”と呼ばれている。
この城は13世紀にマインツ司教が支配地域の前哨基地として建てた。
1429年ヘッセン公国の所有となり、狩猟の館となるも、19世紀始め、公国の崩壊と共にうちすてられ、長い間、文字通り「眠れる城」として忘れられた存在になっていた。
第二次大戦後、目覚めた城はホテル・レストランに改造され、大変人気のある古城ホテルになっていたのだが。この城は3星・全18部屋という小さな古城ホテルでした。
13 km離れた古城ホテル トレンデルブルグ城に泊まってしまうので、いままでここには泊まった事が無いのだ。今回も休業中で、カルデンの方に宿泊する古城ホテルを見つけていた。ザバブルク城の周囲には自然動物園(1571年)も設けられていたが、今日はその様子が見えなかった。古城ホテルの館内の扉はしっかり閉鎖されていた。
休業の文字があった。休業が実に惜しまれる。
それでもメルヘン好きな人々は訪れる。土曜日といえ、メルヘン好きの人々はやはり年輩者ばかりで、すこし寂しい感じを受けた。
この日もゲッティンゲンから訪れた80代と77歳のご夫妻(25歳の時にここで御二人は結婚式を挙げたと奥様は昔を思い出すようにおっしゃっていた)と、城址前にあった屋台(軽食と飲み物の提供)でお会いし、「ここのケーキは美味しい」からと勧められ、しばし歓談した。
屋台のお兄さんに代金を支払いながら古城ホテルの再開を尋ねると、何時にと言うわけではなかったが、「また再開するさ!」と、気を持たせることを言ってくれた。
残念ながら、ザバブルク城らしい景観はあったが、城址に残る大広間のように中身は空虚の城になっていました。
メルヘン”いばら姫”のイメージは様変わりですが、この古城に立つと周辺の森や草原が見渡され、良い気分になります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2019年09月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)





























































































































































