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jijidarumaさんのクチコミ(17ページ)全659件

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  • ローテンブルク:南ドイツ有数の町に発展させた、実力者トップラー市長の夏の別邸は奇妙な建物だ。

    投稿日 2021年01月12日

    ドッペル橋 (二重橋) ローテンブルク

    総合評価:3.0

    <トップラー別荘は二重橋の近くにある>
    Taubertalweg 98、D-91541 Rothenburg ob der Tauber

    このフランケン地方に残る“中世の宝石”と称されるローテンブルグは人口12千人と小さな町である。旧市街の周辺をぐるりと高い城壁が囲み、3つの門、北と南に2つの稜堡を持った見事な城塞都市である。
    ローテンブルグには二つの中心がある。一つはマルクト広場を中心とする市庁舎、有名な“見事な一気飲み”が行われる市参事会館などである。
    もう一つは美しい庭園・教会がある場所、Burggarten城塞公園である。この町の基礎となったホーエンシュタウフェン王家の帝国城塞があった所だ。
    ここからの景観は素晴らしいのだ。

    2009年4月:
    4月28日(火) 今日は久しぶりに曇り、夕方小雨。 10~15℃。 121km

    帝国城塞跡、今はBurggarten城塞公園)の町の基礎となったホーエンシュタウフェン王家の帝国城塞があった所だ。ここからの景観は素晴らしいのだ。
    1388年に建てらえたTopplerschlosschenトップラー別荘(実力者Heinrich Toppler (1340~1408年)ハインリヒ・トップラー市長の別邸)と称される奇妙な建物も、公園テラスから見下ろせた。

    2009年12月:
    12月10日(木);小雨模様の寒い一日、5.5~7.5℃、162km

    ドイツのクリスマス時期(2009年12月7日(月)~15日(火))にWuerzburg、Ludwigsburg、Esslingen、Stuttgart、Rothenburg、Nuernberg、Forchheim、Frankfurtなどが大所と小さな町々Neckarwestheim、Waldenburg、Schwaebisch Hall、Kirchberg a.d.Jagstのクリスマス市を訪ねた。

    Topplerschlosschenトップラー別荘(小城);
    春にローテンブルクを訪れた時は城塞公園のテラスから見下ろしただけだったが、今日はわざわざDoppelbruecke二重橋(14世紀)経由で、訪ねてみた。
    町の実力者トップラー市長の夏の別邸として1388年に作られた、小城とも称される6階建ての奇妙な建物である。
    二重橋から狭い道Taubertalwegタウバータール通りに入り、道路際に車を停め、塀から覗き込んでみた。
    小雨模様のローテンブルク、クリスマスの観光客はわざわざここまで来ないから、休館になっていたようだ。小城の周辺に誰も見かけないので、残念ながら博物館らしい中には入らずに覗き込んだだけで旧市街に戻った。

    2012年5月:
    2018年5月:

    ・・・・・・・・・

    旅行時期
    2018年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    2.0
    人混みの少なさ:
    5.0

  • ローテンブルクのブルク門は、かつてこの町が帝国自由都市であったことを伝えている。

    投稿日 2021年01月11日

    ブルク門 ローテンブルク

    総合評価:5.0

    2018年5月21日(月):  晴れ、 24℃、 67km

    ローテンブルグには二つの中心がある。
    一つはマルクト広場を中心とする市庁舎、有名な“見事な一気飲み”が行われる市参事会館などである。
    もう一つは美しい庭園・教会がある場所、Burggarten城塞公園である。この町の基礎となったホーエンシュタウフェン王家の帝国城塞があった所だ。
    ここからの景観は素晴らしいのだ。

    今日、偶々お会いしたアメリカから来訪のFさんご夫妻(奥様は福岡出身の日本人)とこの町一番のHotel Eisenhutホテルアイゼンフート(鉄兜)でお茶を御一緒した後はBurgtorブルク門を通り、帝国城塞(今はBurggarten城塞公園)に案内した。
    この公園内も大勢の観光客が回遊していたが、タウバー川の清流にかかるDoppelbruecke二重橋(14世紀)や教会、村落の景観など城塞都市の違った風景も見え、Topplerschlosschenトップラー別荘(1388年実力者トップラー市長の別邸)と称される奇妙な建物も、城塞公園のテラスから見下ろせた。
    ここは大いに気に入ってもらえたようだ。

    2012年5月:

    マルクト広場に出て、Herrngasseヘレン横丁をBurgtorブルク門に向かうと、時計が付いているから時計塔ともいえる高い塔が目に入る。このブルク門は小さいながらも、シュピタール稜堡のように一種の稜堡(城門と防御用の要塞)の形になっている。
    ヘレン横丁から入る門は塔門、城塞公園に出る門は城塞門というらしいが、2つの門の間を防衛的な仕組みにしているのだ。

    旧市街の西に位置するBurgtorブルク門は1356年の地震で帝国城塞が破壊された後に作られたそうで、ローテンブルクでは最古の城門建造物だと云う。城塞公園から見る高い塔には3つの紋章が飾られており、実に印象的だ。中央にローテンブルクが帝国自由都市であった事を示す「双頭の鷲の紋章」があり、その下に2つのローテンブルクの市の紋章が2つ左右に並んである。加えて、城塞門のアーチの上に双頭の鷲の紋章がある。
    元来はこの街の中心であったホーエンシュタウフェン家(コンラート3世)の帝国の城(Burg)に向かって、城塞門が立派に作られる必要はないが、帝国城塞跡地になると、跡地は市街地外のような扱いになって、ことさら城塞門のアーチの上に双頭の鷲の紋章を示したのだろう。

    ブルク門からBurggarten城塞公園に入ると、広さ1.4ヘクタールの美しい公園に目を見はるだろう。今日も日本人ツアー客や、様々な国の観光客が多い。
    公園内からローテンブルクの町並みや城壁に沿ってタウバー渓谷の素晴らしい景色を眺めることができ、タウバー川の清流にかかる、二重橋(14世紀)や教会、村落がたいへん美しい絵になっている。左右に広がる城塞都市の違った風景も見え、トップラー別荘(1388年実力者トップラー市長の別邸)と称される奇妙な建物も、公園テラスから見下ろせた。ここは何度来ても感嘆する。

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    初めて訪れたのはPrienプリーンのゲーテ語学校時代の1974年2月、家族と初めての夏の休暇で訪れた1975年8月、・・・・・2009年4月、2009年12月、ちょっと思い出すだけでも、ローテンブルクを訪れた回数は多い。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2018年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • ローテンブルグ:最も防御に力を入れた南口にSpitalbasteiシュピタール稜堡がある。

    投稿日 2021年01月10日

    シュピタール門 ローテンブルク

    総合評価:4.0

    2018年5月21日(月):  晴れ、 24℃、 67km

    このフランケン地方に残る“中世の宝石”と称されるローテンブルグは人口12千人と小さな町である。旧市街の周辺をぐるりと高い城壁が囲み、3つの門、北と南に2つの稜堡を持った町の姿は西の谷となるタウバー川から80m上の町を見上げると、それは見事な城塞都市である。この景観をドイツ人は“縁なし帽子のとんがり“と呼ぶと云うが、なんとなくわかる気がする。

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    <Spitalbasteiシュピタール稜堡(門)>
    2009年4月:
    4月28日(火) 今日は久しぶりに曇り、夕方小雨。 10~15℃。 121km

    最も防御に力を入れた南口にはSpitalbasteiシュピタール稜堡(17世紀、2つのZwinger城塔、7つの門)がある。
    ここから左手に城壁に沿った、坂道を下って行くと、視界が開けてくる。遠く、帝国城塞(Burggarten城塞公園)があった所が見える。ブドウ畑がタウバー川に面した斜面に出来ていたが、以前はあったのだろうか?!

    タウバー川の清流にかかる、Doppelbruecke二重橋(14世紀)や教会、村落がたいへん絵になる形で、こうしてまわって来た甲斐があった。美しい庭園・教会がある場所からは、城塞都市の違った風景も見え、Topplerschlosschenトップラー別荘(1388年実力者トップラー市長の別邸)と称される奇妙な建物も、公園テラスから見下ろせた。

    2018年5月:
    ざっとローテンブルグの観光案内をすると、駐車場P5からクリンゲン門の市城壁をくぐって町中に入ると、Schrannenplatzシュランネン広場(市場)に出る。まっすぐ行けば、マルクト広場だ。“Meistertrunk見事な一気飲み”目当てに日本人ツアー客や様々な国の観光客が多い。東の市門のGalgentorガルゲン塔、Rathaus市庁舎(13世紀)、Ratstrinkstube市参事会館(仕掛け時計1910年・Meistertrunk見事な一気飲み)、高い鐘塔、Georgsbrunen聖ゲオルゲの泉などはマルクト広場周辺にある。
    Schmiedgasse鍛冶屋通りを南にそのまま行くと、この町で最も絵になる、有名な場所に至る。Ploenleinプレーンライン(意味はラテン語で小さな場所)だ。

    更に進むと最も防御に力を入れた南口にはSpitalbasteiシュピタール稜堡に至る。

    ・・・・・

    旅行時期
    2018年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • セピア色の思い出:スコットランド第一の城と称される、最高の地を選んで築城されたスターリング城

    投稿日 2021年01月09日

    スターリング城 スターリング

    総合評価:4.5

    <1978年夏の休暇・イギリス旅行>
    1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間

    昨夜はStation Hotelステーションホテルに1泊(£29)したと記録があり、夕食も街中で食べた(£11.8)ようだが、今調べてもその名のホテルはない。
    名称が変わってしまったようだが、グラスゴーより高い室料だったが、同じように便利な駅前ホテルだったのだろう。

    11日目の8月15日(火)晴れ後小雨、
    この日はスコットランドの都市の中では一番小さい都市スターリングにあるStirling Castle スターリング城を見学して、その後にEdinburgh Castleエディンバラ城を予定している。

    スターリングの町は英国スコットランド中部の都市で、River Forthフォース川(全長45kmと短い)沿いに発展した。かつてスコットランド王国の首都が置かれ、旧市街にはスターリング城やChurch of the Holy Rudeホリールード(聖十字)教会などの歴史的建造物が多い古都である。また、歴代のスコットランド王の勅許を得た自治都市であった。

    スターリングは人口45,750人(2011年)とスコットランドの都市では最小部類に入るが、背後に山岳地帯ハイランドを擁し、スコットランドとイングランドとの攻防の歴史の中で戦略的に重要な位置を占めてきた。
    スコットランドとイングランドの長きに渡る戦いで、この地でいくつかの主要な戦いがあった。
    特にBattle of Stirling Bridgeスターリング橋の戦い(1297年)と、町からほど近いBattle of Bannockburnバノックバーンの戦い(1314年)が知られている。どちらもスコットランドが勝利した。

    *Stirlingスターリングは地名の由来は不明だが、struggle・strife努力・闘争の地といった説があるが、以下の言葉からして、良い意味に使っている。
    ①sterling poundsスターリング・ポンドつまり、イギリスの基本通貨単位であるポンド(pound sterling)を指す言葉。
    ②sterling silverスターリング‐シルバーは純銀の質をいい、銀の含有率が92.5パーセントのものをいう。英国貨幣のスターリングがこの純度であったことに因む。銀器を購入する際の指標だから、良質性を表すものとして知っていた。
    一般的に925が一番硫化(黒ずむ)しにくい。

    <スターリング城>・・・入場料£0.74
    何処の国でも攻城の場となる事を予期して、山や丘の上や川筋の峻厳な場を利用して堅固な城を築いている。その点、見るからに最高の地を選んで築城されたと思われるスターリング城はスコットランド第一の城と称されている。

    スターリング城はキャッスル・ヒルと呼ばれる千年以上前から存在した火山性の岩山で、そのでこぼこした岩の平坦な上に築城したものである。三方をけわしい断崖に囲まれ、難攻不落と思われる城郭は最適な場所にあった。この為、当初より重要な城塞として、戦略的に使用された。

    眼下にスターリングの旧市街を、遠くはハイランドの山なみまでを眺望できる。お城の前に建っている像はイングランドからスコットランドの独立を奪回した14世紀初頭のスコットランド王Robert the Bruceロバート・ザ・ブルース(在位1306~1329年)である。面白いことに、ロバート・ザ・ブルース王はスターリング城を築城したのではなく、その逆にイングランドからスターリング城を奪還すると、二度とこの城がイングランドによるスコットランド支配の拠点とならないように破壊した。その後、15世紀の後半から16世紀前半にかけて現存するスターリング城を再建したのは、この王の家系であるスコットランドの王家Stuart dynastyスチュアート朝のJames Ⅳジェームズ4世と5世、Mary Iメアリー女王、そして、ジェームズ6世だったそうだ。
    1800年から1964年まで、スターリング城はイギリス軍の所有で兵舎に利用されていた。その後、改装が進んで原型に復元された。

    見学は2つの城門をくぐると、城郭の内側に中庭を囲むようにしてスターリング城を構成する建物が並んでいるので、順次見て回る。
    ①Royal Palace王宮・・・内側の城門をくぐってすぐの壮麗な建物。ルネサンス様式と後期ゴシック様式の組み合わせで、優れた石造りのスコットランドでも印象的な建築の一つである。
    ②Regimental Museum戦時博物館・・・王宮の隣にある。近代から現代の武器、勲章等の品々、文書、写真などが展示されている。
    ③Chapel Royalチャペル・ロイヤル・・・博物館の隣にあるのは築城当初より利用されたルネサンス様式の王室礼拝堂である。
    ④Great Hallグレートホール・・・次に立つのはジェームズ4世により建てられたホール。盛大な祝宴が催されたと云うスコットランド最大の大広間がある。南側の高座に二つの華麗な張り出し窓がある。
    ⑤Great Kitchenグレートキッチン・・・グレートホールのわきに祝宴に饗される料理が準備された城内台所がある。
    ・・・・・

    次は60 km南東にあるスコットランドの首府エディンバラにあるEdinburgh Castleエディンバラ城だ。有料道路(£0.15)を使って向かった。


    旅行時期
    1978年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.0

  • ローテンブルグ:クリンゲン稜堡・聖ヴォルフガング教会は一体化した要塞兼教会である。

    投稿日 2021年01月06日

    クリンゲン門 ローテンブルク

    総合評価:3.5

    2018年5月21日(月):  晴れ、 24℃、 67km

    このフランケン地方に残る“中世の宝石”と称されるローテンブルグは人口12千人と小さな町である。旧市街の周辺をぐるりと高い城壁が囲み、3つの門、北と南に2つの稜堡を持った城塞都市である。

    <Klingenbasteiクリンゲン稜堡・St.Wolfgangskirche聖ヴォルフガング教会>

    2009年12月:
    高々としたクリンゲン門上には6角形の太陽?星マーク?のイルミネーションがあり、クリスマスらしい。
    1400年頃のKlingentorクリンゲン門とSt.Wolfgangskirche聖ヴォルフガング教会(羊飼い信仰会が1493年建立したので、羊飼い教会の名で呼ばれる。後期ゴシック様式)があり、教会は防御用の回廊を持つ要塞兼教会(一体化した)になっている。
    全体が北を守る稜堡として、南口のシュピタール稜堡と同じ役目をしている。

    Klingengasseクリンゲン横町を真直ぐ行くと聖ヤコブ教会に至る。

    2012年5月:
    1400年頃のKlingentorクリンゲン門とSt.Wolfgangskirche聖ヴォルフガング教会があり、教会は防御用の回廊を持つ要塞兼教会になっている。全体が北を守る稜堡として、南口のシュピタール稜堡と同じ役目をしている。

    2018年5月:
    旧市街の北西側にあるクリンゲン門の駐車場P5から聖ヴォルフガンク教会経由で、旧市街に入ると、何やら騒がしい、中世の兵士の格好をした集団がガストホフの前で歌を歌っている。
    おやおや、これはツイていた。ローテンブルクはお祭りのようだ。
    その季節、季節にある催しはやはり良いものです。今年はキリスト教徒の争い・30年戦争の催しを2つの町で2度見る機会になりました。これらは事前の調べから漏れていました。
    だからツイていたと思っています。

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    旅行時期
    2018年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • ローテンブルクで、もう一つ付け加える美しい景観は人気のPloenleinプレーンラインだろう。

    投稿日 2021年01月05日

    プレーンライン ローテンブルク

    総合評価:5.0

    2018年5月21日(月):  晴れ、 24℃、 67km

    古城ホテル コルムベルク出発9:50 ->L?  28km Schloss Schllingsfuerstシリングスフュルスト ->L?  16km Rothenburgローテンブルク ->L? 23km コルムベルク・Burg Hotel Colmberg・古城ホテル コルムベルクには19:55到着。 

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    このフランケン地方に残る“中世の宝石”と称されるローテンブルグは人口12千人と小さな町である。旧市街の周辺をぐるりと高い城壁が囲み、3つの門、北と南に2つの稜堡を持った町の姿は西の谷となるタウバー川から80m上の町を見上げると、それは見事な城塞都市である。
    この景観をドイツ人は“縁なし帽子のとんがり“と呼ぶと云うが、なんとなくわかる気がする。

    ローテンブルグには二つの中心がある。一つはマルクト広場を中心とする市庁舎、有名な“見事な一気飲み”が行われる市参事会館などである。
    もう一つは美しい庭園・教会がある場所、Burggarten城塞公園である。この町の基礎となったホーエンシュタウフェン王家の帝国城塞があった所だ。
    ここからの景観は素晴らしいのだ。

    ローテンブルクで、もう一つ付け加える美しい景観は人気のPloenleinプレーンラインだろう。

    2009年4月:
    Ploenleinプレーンライン(意味はラテン語で小さな場所)だ。夏場には窓に飾られた花々が街並みを美しく見せているが、今は花の季節には早いようで、ちょっと寂しい。

    2009年12月:
    Schmiedgasse鍛冶屋通りを南にそのまま行くと、最も絵になる、有名な場所に至る。
    ローテンブルク一番の光景というプレーンラインである。
    夏場には窓に飾られた花々が、街並みを美しく見せて写真や絵の題材になるのだが、クリスマスシーズンの夕方近い時間も悪くありません。
    もったいない事にこの手前で戻ってしまう人が多かった。

    2012年5月:
    鍛冶屋通りを南にそのまま行くと、この町で最も絵になる、有名な場所に至る。
    Ploenleinプレーンラインだ。

    *1975年8月夏の休暇で訪れた写真が残っています。8月の観光シーズンでしたが、プレーンラインには殆ど人がいませんでした。今日の雑踏を見ると、今昔の感があります。

    この場所とマルクト広場、城塞公園は、この町の最も好きな場所なのだ。

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    旅行時期
    2018年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)

  • デュッセルドルフ歌劇場:なぜクリスマスの前後には「ヘンゼルとグレーテル」なのか?

    投稿日 2020年12月17日

    ライン・ドイツ・オペラハウス デュッセルドルフ

    総合評価:4.0

    ≪なぜクリスマスの前後には「Haensel und Gretelヘンゼルとグレーテル」なのか? ≫

    なぜクリスマスの前後には「ヘンゼルとグレーテル」なのか・・・については 、手元の”誰も知らないクリスマス・舟田詠子氏の著書”では簡単に述べています。
    「このオペラは12月23日にドイツのワイマールで初演されて以来、クリスマスの贈り物の出し物として定着してしまったからだと・・・。」

    「Haensel und Gretelヘンゼルとグレーテル」はグリム童話に収録されている作品(KHM 15)です。
    「ヘンゼルとグレーテル」は1811年ごろ、当時カッセルにあったグリム兄弟の住居の近所の薬局のヴィルト家姉妹から採集した、ヘッセン州に伝わる民話の中の一篇である。1812年に出版した『子供と家庭のメルヒェン集』初版に収録され、1857年の決定版とも呼ばれる第7版に至るまでに、さまざまな付け加えや書き換えが行われている。(Wiki)

    (「Adventアドベント:キリストの降臨節」とは、11月30日にいちばん近い日曜日からクリスマス前日までのこと。アドベントキャンドルは手作りしたリースなどのアレンジメントにキャンドルを4本立て、クリスマスまでの4週間、日曜日ごとに1本ずつ灯していく習慣をいう)

    長く続いた飢饉で困った親が口減らしのために子捨てをする話ですから、さてクリスマスに相応しいものなのか、疑問もありますが、兄妹で魔女を退治して、魔女がため込んだ財宝を持って暗い森から自宅に戻る・・・ハッピーエンドの話に変えてしまったのが良かったのだろう。

    魔女の作った“Lebkuchenhausレープクーヘンハウス(英語はGingerbread house)お菓子の家”もその人気には効果的であったのでしよう。

    *1970年代半ばに若かった家内がドイツのお料理教室で作った「御菓子の家」です。この写真を見ると、ヘンゼルとグレーテルのグリム童話を思い起こします。
    家内は出来上がった「御菓子の家」を、市内の教室から自宅まで市電に乗って、おそるおそる持ち帰ったそうです。
    私の記憶では、この品は長く子供部屋に置かれ、誰も食べないままでした。

    Hexenhausヘクセンハウス=魔女の家は雑多な菓子だけで出来ている「お菓子の家」だと云う。
    グリム童話の原作では、「お菓子の家」の壁がLebkuchenレープクーヘンで作られ、屋根は菓子類が載り、窓は透き通った砂糖で出来ていたと記述されている。
    それでお菓子の家を“Lebkuchenhausレープクーヘンハウス”と称している。

    ・・・・・

    さて、舟田詠子氏の著書で書かれた『Haensel und Gretelヘンゼルとグレーテル』というオペラがあり、クリスマスの時期は、市内の劇場で親子の観客がこれを楽しんでいる。この時期を象徴するものと言えましょう。

    『ヘンゼルとグレーテル』はドイツの作曲家Engelbert Humperdinckエンゲルベルト・フンパーディンク(1854~1921年)が作曲した全3幕のオペラである。

    原作は有名なグリム童話『ヘンゼルとグレーテル』である。台本は作曲者の妹であるアーデルハイト・ヴェッテで、はからずも題材と同じ兄妹コンビとなった。1891年から1892年にかけてフランクフルトで作曲され、1893年12月23日にヴァイマル宮廷歌劇場にて初演された。
    後にロンドンやニューヨークでも公演された。フンパーティンクの代表作であり、ワーグナー以後・リヒャルト・シュトラウス(本作の初演を指揮)以前のドイツ・オペラを代表する作品といわれる。また、ワーグナー以後に多く現れたメルヘン・オペラの代表的な作品ともされる。
    特にドイツ圏では今なお上演回数上位に位置する人気作であり、英米でも比較的人気が高い。

    参考:歌劇「ヘンゼルとグレーテル」より(小編成)/E.フンパーディンク(小野寺 真)/Haensel und Gretel/Engelbert Humperdinck
    指揮:隊長 柴田昌宜 演奏:陸上自衛隊中部方面音楽隊
    https://www.youtube.com/watch?v=yPNduhF0GKA&vl=ja

    ・・・・・

    また、バレエの『Nussknackerfigurenクルミ割り人形』も、クリスマスの時期は劇場などでも見られますが、クリスマスが舞台ですから、こちらは上演の理由も分かりやすい。 1974年、ドイツに赴任したての頃、前任者に連れられて、Deutsche Oper am Rheinライン・ドイツ・オペラ(デュッセルドルフ歌劇場)でこのバレエの『Nussknackerfigurenクルミ割り人形』を観劇した。観劇中、眠っても問題ないだろうと、最上階の後ろの方の席で、初体験をしたのだ。
    デュッセルドルフ歌劇場は1875年の開設だから、もう150年近くになる。1956年に全面改修され、座席数1342。1981~86年まで若杉弘が音楽監督を務めた。
    また、バリトン歌手の木村俊光が1970年から専属歌手、1985年に東洋人として初めての終身雇用の権利を得て、1986年まで所属。メゾソプラノ歌手の矢野恵子が1974年から2005年まで、31年間定年になるまで専属歌手契約。

    バレエの『Nussknackerfigurenクルミ割り人形』は、E.T.A.ホフマンの1816年の童話『くるみ割り人形とねずみの王様』を原作にした、Peter Tchaikovskyピョートル・チャイコフスキー(1840~1893年)の作曲したバレエ音楽(作品番号71)、およびそれを使用した2幕3場(演奏時間は約1時間25分(第1幕約45分、第2幕約40分)のバレエ作品である。
    チャイコフスキーの三大バレエ(「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」の3曲)の一つであり、初演から100年以上を経て数多くの改訂版が作られている。

    バレエ組曲「くるみ割り人形」作品71aはチャイコフスキーがバレエ音楽から編んだ組曲である。「くるみ割り人形」作曲中のチャイコフスキーはこの頃、自作を指揮する演奏会を企画していたが、あいにく手元に新作がなく、また作曲する暇もなかったため、急遽作曲中の「くるみ割り人形」から8曲を抜き出して演奏会用組曲とした。バレエの初演に先立ち、1892年3月19日、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で初演された。

    バレエ組曲「くるみ割り人形」ダイジェスト映像
    https://www.nntt.jac.go.jp/ballet/nutcracker/

    チャイコフスキーの作品には交響曲第4番、交響曲第6番悲愴、スラヴ行進曲、四季など多岐にわたる作曲で知られている。

    ・・・・・

    色々知恵者が居て、子供たちがこの時期の劇場の大いなるお客様になるように仕掛けた、さらに将来を期待したものであったのかもしれません。

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    旅行時期
    2020年12月
    利用した際の同行者
    家族旅行

  • ドイツ 黒い森:「NHKグレーテルのかまど」の紹介の無理と盛り過ぎに驚く。

    投稿日 2020年12月13日

    シュヴァルツヴァルト

    総合評価:1.0

    ≪ドイツ 黒い森と伝説について≫

    先日、新聞のTV欄で以下を見つけて、検索すると、

    ・・・
    2020年12月7日放送:NHKグレーテルのかまど「ドイツ 黒い森のさくらんぼケーキ」 をテーマに

    ドイツ南部に広がる森林地帯、黒い森(シュヴァルツヴァルト)地方。この深い緑の森は『ヘンゼルとグレーテル』や『白雪姫』など、数々のグリム童話の舞台といわれる。
    その森の名を冠する“黒い森のさくらんぼケーキ”、味わいの決め手は、たっぷりしみ込んだサクランボのお酒キルシュヴァッサー。森の恵みを大切にするドイツの人々の暮らしと、さくらんぼケーキ誕生の秘話もご紹介。
    ・・・とあった。

    だが、「ドイツ 黒い森のさくらんぼケーキ」については、この口コミで【シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ(黒い森の さくらんぼケーキ)の考案諸説】
    と称して書いたことがある。
    https://4travel.jp//overseas/area/europe/germany/schwarzwald/tips/11947782/

    また、「白雪姫」についても、【ドイツ2012年・麗しの5月:白雪姫伝説が生まれたロアーの町を訪ねる。】で書いた。
    https://4travel.jp/travelogue/11655009

    TV放映と共にシュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテの口コミに急に閲覧が増えたのだが、それはともかくも、Wikiを引用すると、

    ・・・・・
    「Haensel und Gretel, KHM 15:ヘンゼルとグレーテル」は1811年ごろ、当時カッセルにあったグリム兄弟の住居の近所の薬局のヴィルト家姉妹から採集した、ヘッセン州に伝わる民話の中の一篇である。

    また、ドイツの森は黒い森だけでなく、各州、各地方にある。
    例えば、このヘッセン州のReinhardswaldラインハルトの森はWikiによると広さ 200 km2、高さ 472.2 m までの中低山地で、ヘッセン州カッセル郡のWeserberglandヴェーザーベルクラントに属す。

    グリム童話をはじめとする数多くの物語や伝説の故郷であるラインハルトの森は、特に*『いばら姫(眠れる森の美女)』の城、ザバブルク城で知られている。

    *この事は【2019年ドイツのメルヘン街道と木組み建築街道の旅:23メルヘン街道の代表はいばら姫とラプンツェル(髪長姫)の古城でしょう。】をご参照。
    https://4travel.jp/travelogue/11628303

    ラインハルトの森は(地理的には)北部ヘッセンの北、カッセルとバート・カールスハーフェンとの間、ハン・ミュンデンとホーフガイスマーとの間に位置している。この森は、北と東はヴェーザー川に、南東と南はフルダ川に面しており、この2本の川がニーダーザクセン州との州境を形成している。西はエッセ川、北西はディーメル川が境界となっている。ラインハルトの森は、いずれもヴェーザー川をはさんで、北はゾリンク、北東はキッフィンク、東はブラムヴァルトといった中低山地につながっている。南東はフルダ川をはさんでカウフンゲンの森につながる。ラインハルトの森から南西の遠くないカッセル盆地の上にはハービヒツヴァルトがそびえている。
    ・・・・・

    また、黒い森の伝説・民話につても検索してみると、
    バーデン地方の伝説・民話の項にヒットした。

    Volkssagen aus dem Lande Baden バーデン地方の伝説・民話
    – 107. Schwarzwald黒い森の項

    Schwarzwald
    • Der Blindensee im Schwarzwald
    • Das Ochsengespann im Blindensee DOKU
    • Der Blindensee soll vermessen werden
    • Die Nonnen vom Glaswaldsee DOKU
    • Seemaennlein ausgelohnt
    • Die Neckarsage DOKU

    • Das Villinger Thalfraeule
    • Geisterhaftes Kalb
    • Der Schimmelreiter in Mergentheim
    • Die Weiber zu Weinsperg
    • Woher Urach so geheissen
    • Die Kanonenkugel im Uracher Schloss
    • Die Sage vom Reussenstein
    • Sibylle von der Teck
    • Die Historie von der schoenen Lau
    • Wirt am Berg
    • Des Teufels Nase
    • Kinderwallfahrt
    • Unsere Frau zu den Nesseln
    • Unsere Frau zum Hasen
    • Die drei seltsamen Heiligen
    • Regiswindis
    • Wasser- und Holzfrauen
    • Wie drei warme Quellen entstanden
    • Die Schlange und das Kind
    • Der Mann im Mond
    • Weisse und schwarze Erdmaennle
    • Die Kuemmernisbilder
    • Das Riesenspielzeug
    • Geroldseck
    • Das von den Juden getoetete Maegdlein
    • Die feurigen Wagen
    • Mummelsee
    • Das Kroenlein des Otternkoenigs
    • Die Trud im Schwabenland

    各項をザックリ見ても、そこにはグリム童話やヘンゼルとグレーテル、白雪姫といった類いの言葉もなく、TVで表現された≪この深い緑の森(=黒い森)は『ヘンゼルとグレーテル』や『白雪姫』など、数々のグリム童話の舞台といわれる。≫と言うには
    無理があり、盛り過ぎだと思う。

    ・・・・・・・・・

    旅行時期
    2020年12月

  • セピア色の思い出:北に向かう道は湖と古城が続き、300kmを走り、陰鬱な印象を見せたネッシー伝説のネス湖とアーカート城址に至る。

    投稿日 2020年08月30日

    アーカート城 インバネス

    総合評価:4.0

    ≪スコットランド・ネッシー伝説のネス湖とアーカート城址を訪れた。≫

    <1978年夏の休暇・イギリス旅行>
    1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間

    9日目の8月13日(日)、曇り
    グラスゴーを発って、A82でさらに北西23kmにある、澄み切ったLoch Lomondロック・ローモンド湖(ロッホともいう。淡水湖であり、長さは39km、幅は8km)を横に見て、A83に進みLoch Fyneファイン湾(長さ65kmの細長い湾)のインヴァレリー橋(右下の写真)が見える場所に至り、小休止して写真を撮った。ファイン湾に面して立つInveraray Castleインヴァレリー城(Duke of Argyllアーガイル公爵家の城、1746年築城)が遠望できる。
    立派なインヴァレリー城を素通りして山間に入り16km 先のA819とB840が交差するCladichクラディックで道端に停車し、Loch Aweアヴェ湖を見下しラーメンを食べた。
    旅も後半に入ったが、皆元気だ。

    アヴェ湖はこれも長い湖畔(長さ41km、幅1km、最深94m)をもち、いくつかの城址が湖上の島に残っている。右手のA819をアヴェ湖に沿って北端に走ると、Kilchurn Castleキルカーン城が小島の上に見える。15世紀 Clan Campbellキャンベル氏族(スコットランドのハイランド地方最大の氏族のひとつ)が築城したものだ。インヴァレリー城と同じ、後のアーガイル公爵家である。

    キルカーン城でA85になり、更に山間をぬってConnelコネルからA828、Portnacroishポートナクロイッシュに抜けて、Loch Linnhe リニ湾(長さ50kmの細長い湾)に出る。すると湾の島上に立つ、絵のように美しい(カレンダーに常時掲載されるらしい)Castle Stalkerストーカー城が目に入る。「ストーカー城」という名前はスコットランド・ゲール語で「猟師」や「鷹匠」の意味だそうだ。城はリニ湾の入り江であるLoch Laichリック湾に浮かぶ島にそびえていて、14世紀に築城された4階建ての城砦である。A828号線 からストーカー城を望むことができるので、しばし車を停めて、写真を撮った。
    散歩中なのか、目の前をキルトのスカート姿の小父さんが家族と登って来た。

    A828号線を行くと、South・Ballachulishサウス・バラチュリシュからまたA82に変わり、スコットランド最長の入り江であるリニ湾の奥、ネビス川とロッキー川の河口に位置する町Fort Williamフォート・ウィリアム(人口1万人、「兵営」の意がある入植地)に着いた。ここでは遠泳大会があり大勢の人が出ていた。現在の8月の平均気温は16℃~8℃だそうだが、当時は今少し暖かかったようだ。それでも遠泳大会とは少々驚く。伝統的なキルト姿の女子鼓笛隊が彩を添え、嬉しいことに娘たちと一緒に写真を撮ってくれた。
    もうこの町はスコットランドのハイランド地方になり、ロンドンから824 km、エディンバラに216kmの距離にある。

    Fort Williamフォート・ウィリアムからA82を北に20km程行った、A87傍の山際にあった石造りの小さいホテルを見つけ、ここに1泊することにした。
    ホテル インヴァーガリーを出発し、そこから5kmにガリー川が流れ込むLoch Garryガリー湖(長さ4km、幅250m、最深15mという小さな湖)がある。

    更に12km北には有名な、伝説のLoch Nessネス湖が続いてあり、そのネス湖畔、つき出したような岬には、その地に相応しいようなスコットランド独立戦争の舞台となったUrquhart Castleアーカート城址が残る。
    はるばる長躯してやって来たアーカート城址はA82の道路沿いだが、この道は国道とはいえ狭く、路肩に駐車するにも苦労した。
    (今は駐車場が出来ているようだが)
    ハイランド地方の首都と云われるInvernessインヴァネス(ネス川の河口を意味する)の町から南西約10kmにある中世初期の要塞の上に、Urquhart Castleアーカート城は13世紀から16世紀にかけて建造されたが、現在は廃墟となっている。
    14世紀に起こったWars of Scottish Independenceスコットランド独立戦争(13世紀から14世紀にかけてスコットランド王国で起こった、イングランド王国に対する戦争である)では、歴史の舞台となった。
    アーカート城の存在が最初に歴史書に記録されるのはスコットランド独立戦争の当事者であるEdward I of Englandエドワード1世イングランド王により占領された1296年の時だ。エドワード王のスコットランド侵略をきっかけに起こったスコットランド独立戦争は1357年まで断続的に続いた。
    そうした争いの後、アーカート城はイングランド王家のもの(王城)となった。
    王城となった後もアーカート城はスコットランドの有力氏族*Clan MacDonald/Mcdonaldマクドナルド氏族のEarl of Rossアール・ロスには何度も攻撃された。 1509年、アーカート城はスコットランドの別の氏族Clan Grantクラン・グラントに下付されたが、マクドナルド氏族との争いは続いた。
    その後もアーカート城は幾度か急襲を受けて補修、増強されたが、17世紀の中頃には打ち捨てられた。アーカート城は1692年、*Jacobiteジャコバイト軍の手に落ちるのを阻止するため、門楼を爆破し、荒廃していった。

    *スコットランドの独立のために戦った実在の人物にSir William Wallace サー・ウィリアム・ウォレスがいる。
    1995年のメル・ギブソンが主演・監督をした米映画『Braveheartブレイブハート』はサー・ウィリアム・ウォレス(1270年頃~1305年、スコットランドの愛国者、騎士、スコットランド王国の守護者及び王国軍指揮官)の生涯を描いた歴史映画である。
    *Jacobiteジャコバイトは、1688年イングランドで起こった名誉革命の反革命勢力の通称である。彼らは追放されたステュアート朝のジェームズ2世およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を支持し、政権を動揺させた。ジャコバイトの語源はジェームズのラテン語名(Jacobus)である。
    *Clan MacDonald/Mcdonaldマクドナルド氏族およびClan Donaldドナルド氏族 は、スコットランドの氏族の中でもっとも大きい氏族のひとつである。

    天気も悪く、陰鬱な印象を見せた17世紀以来のアーカート城址は、スコットランドでも大きい湖であるネス湖(長さが約35km、幅約2kmの細長い湖で、水深は最大で約230m)を見下ろす岬の突端に位置していた。

    アーカート城はスコットランドでも特に大きな面積を持つ城の1つである。
    西側に入口を持ち、堀と跳ね橋で守られている城には、北に門番小屋など現存する建物の殆どが集中し、目立つのは北端に立つ5階建てのGrant Tower天守閣(縦12mX横11m、壁の厚みは最高3m)である。南はより高い位置にあり、築城当時の残骸が少し残っている。

    見物人も夏季の日曜日にしては少なく、十数人だった(今は年30万人以上を数える)。
    当時からネッシー(未確認動物)伝説もあって、神秘な湖を背景にして立つアーカート城址は、それなりに興味を引き、スコットランドでエディンバラ城とスターリング城に次いで観光客が多い城となっていると云う。

    縄張り図の詳細:A Site of drawbridge; B Gatehouse; C Upper Bailey;
    D Chapel; E Inner close; F Grant Tower; G Great Hall; H Kitchen;
    I Water gate; J Nether Bailey; K Motte ; L Doocot; M Smithy; N Loch Ness
    ・・・・・

    <Hotel Invergarryホテル インヴァーガリー>
    Invergarry Scottish Highlands PH35 4HJ
    https://www.invergarryhotel.co.uk/

    現在のホテルは4星・全13室。室料・食事代込み£61.15。
    きれいに改装されているが、当時は古めかしい典型的な石造りの小さいホテルでした。River Garryガリー川(全長5.6kmと短い)に望む、静かな場所にあるCounty Innカントリーインで、スコットランド高地観光(フォート・ウィリアム、ネス湖、インヴァネス、西海岸、スカイ島など)に適した場所にある。
    元々は古くから続く*マクドナルド一族の歴史的な家屋だったと云う。1885年築の古い駅馬車宿を改装したホテルで、改装前まではスポーツや狩猟用のロッジとして使われていた。宿泊した2階の部屋もきれいで、1階にあったスコットランド料理を提供したレストランの味も好ましく、満足した。

    旅行時期
    1978年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1日
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • セピア色の思い出:スコットランド最大の都市グラスゴーをちょっぴり訪問した。

    投稿日 2020年12月09日

    ジョージア スクエア グラスゴー

    総合評価:3.0

    <1978年夏の休暇・イギリス旅行>
    1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間

    ≪スコットランド最大の都市Glasgowグラスゴーをちょっぴり訪問した≫

    8日目の8月12日(土)小雨、湖水地方の町Keswickケズウィック を発ち、A66を東のPenrithペンリスを経由し、M6を北に約30km走った。Cumberlandカンバーラントの中心Carlisleカーライルまで来ると、いわゆるイングランドも終わりだ。
    カーライルから東にA69で29 km先の Gilslandギルスランドに向かい、少し手前に、今はBirdoswaldバアードスワルドのRoman Fortローマン・フォルト(ローマ軍団の砦)と称する地があった。
    ここにローマ皇帝ハドリアヌスの名が付けられた防御線(長城)があった。
    ハドリアヌスの長城を越えれば、スコットランドになる。

    ケズウィック から北のハドリアヌスの長城(凡そ90km)を見て、スコットランド最大の都市Glasgowグラスゴーまでは凡そ200km、更にネス湖近くのFort Williamフォート・ウィリアムには200kmで合計400kmと試算したから、途中の観光などを考えると、一気にネス湖近くまで走るのはできない。
    それで丁度中間のグラスゴーに1泊した方が良さそうだと思っていた。

    ・・・・・

    14時近くグラスゴーに着き、観光案所でホテルを探して市内観光をした。

    グラスゴーはイギリスのスコットランド南西部に位置する都市で、1971年の数値で人口は91万人で、スコットランド最大であると云うから驚く。
    イギリス全体でもなんとロンドン738万人、マンチェスター246万人、バーミンガム101万人(いずれもイングランド)に次いで第4位に位置すると云うから馬鹿に出来ない。・・・が、グラスゴーはほとんど知らないのだ。
    現在のWikiによれば、英国国内ではロンドンとエディンバラについで3番目に観光客が多く、年間300万人ほどがこのグラスゴーを訪れる。15世紀創立の名門グラスゴー大学を擁し、産業都市であるとともに、文化・芸術・若者の街として知られているとあるから、なかなかのものだ。

    【市内観光はほんのさわりの写真が2枚のみが残っている。市内を見物したが、思った以上に立派で、整然とした町だった。それでも当時のブルーガイドの英国版にはグラスゴーの説明は全く無し、資料もなしの観光で、印象も薄く、もったいない半日、1泊と言うべきなのか。】

    グラスゴーの歴史:
    紀元前からRiver Clydeクライド川(全長170km)沿いに集落が形成されていた。ローマ帝国はこの地に前哨拠点を設置し、ローマ支配下のブリタニアとケルト人やピクト人の住むカレドニアの間に全長60km のAntonine Wallアントニヌスの長城を建設した。この長城は西暦144年にスコットランドの中央部に石と土で作られた防塁である。西暦164年、ローマ軍はハドリアヌスの長城へ撤退し、アントニヌスの長城は建設後わずか20年で放棄された。
    グラスゴーはキリスト教のSt Mungo聖ムンゴの伝道により6世紀頃につくられたと云われている。これ以後グラスゴーはスコットランドの中心として発展し、12世紀にはSt Mungo's Cathedral聖ムンゴ大聖堂ともグラスゴー大聖堂(スコットランド国教会)とも称されるが、1451年にはグラスゴー大学が創設された。16世紀に入るとクライド川の水運を用いた貿易が盛んになり、アメリカ大陸のタバコ、カリブ海の砂糖などがこの都市を中継してイギリス国内に運ばれた。1707年にイングランド王国とスコットランド王国が合併、現在の連合王国としてのイギリスが成立する。そして産業革命が始まると、ランカシャーで採掘される石炭と鉄鉱石によって工業化が進み、グラスゴーでは綿工業を中心とした産業が盛んになり、大英帝国第二の都市と呼ばれるようになった。
    https://www.glasgow.gov.uk/

    ホテルはStation Hotelステーションホテルと記録にある。
    事前の宿泊リストには、上の絵葉書にあるHotel Albanyホテル アルバニ―の名があるが、予約をしていなかったので、当日にホテルを探して駅前に決めたようだ。
    Station Hotelステーションホテルとは「The Grand Central Hotelグランドセントラルホテル」の事だろう。一般にセントラルホテルという。

    <The Grand Central Hotelグランドセントラルホテル>
    4星・全186室、21会議室(2010年資料)、この時は1泊£3.6X4=14.4と、ホテルの格にしては意外に安かった。夕食は外で中華料理を食べた(£10.25)とある。
    グラスゴー中央駅(利用者は年間3300万人、スコットランド最大の駅)の正面に位置するGordon Streetゴードン通りに面している。
    19世紀Queen Anne styleアン女王スタイルと呼ばれる様式で装われたホテルは1883年に完工し、その後も拡張して中央駅の駅舎内に同居する形となった。
    最盛期にはグラスゴーの最上級のホテルであり、一流の上客が滞在したそうだ。

    ・・・・・・・・

    旅行時期
    1978年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間

  • セピア色の思い出:湖水地方を巡る。『この小さな地域には歴史の重みの代わりに、イギリス風景美の極致ともいえる神様の御恵みがある』

    投稿日 2020年12月05日

    ダーヴェント湖 ケズウィック

    総合評価:4.0

    ≪湖水地方を巡る。『この小さな地域には歴史の重みの代わりに、イギリス風景美の極致ともいえる神様の御恵みがある』≫

    <1978年夏の休暇・イギリス旅行>
    1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間

    <Lake District湖水地方>
    2017年、世界文化遺産に登録されたイングランドのCumbriaカンブリア県にある湖水地方は、ロンドンから北西に302km、エディンバラから南に209kmの距離にあり、レンタカーを利用しての旅でもたいへんというほどではない。
    それでもイギリスの旅はロンドン、エディンバラが主体であり、私共が旅した1978年8月当時は勿論、世界遺産でもないから、「ブルーガイド海外版・イギリスの旅」でも湖水地方について書かれたページはなんと1ページ半しかないのだ。
    その出だしにはこう書かれている。『この小さな地域には歴史の重みの代わりに、イギリス風景美の極致ともいえる神様の御恵みがある』と。

    (尚、驚かれるでしょうが、当時は英国の中央部に広がる標高300m以上に達する丘陵地帯、Cotswoldsコッツウォルズ(「羊の丘」という意味)地方も知りませんでした。というよりも「ブルーガイド海外版・イギリスの旅」では説明が何も書かれていません。だから行程の検討にも入る余地もなかった。今手元にある本(2001年ヨーロッパの田舎;新潮社)でイギリスの原風景に出会うと、この辺りも行ってみたら良かったかな?!と思います)

    今、改めて資料を読むと、ユネスコ世界遺産に登録されている湖水地方は国内最大の国立公園(面積は約2,243㎢)であり、緑の中にかつて氷河が作った大小の湖が500以上も点在するという。イングランドで最も美しい風景があると、評価も高い。
    イギリスの代表的なロマン派の詩人Sir William Wordsworthウィリアム・ワーズワース卿(1770~1850年)が住んでいたGrasmereグラスミア湖近くのグラスミアや、Peter Rabbitピーター・ラビットの絵本作者Beatrix Potterビアトリクス・ポター(1866~1943年)が半生を過ごした家「Hill Topヒル・トップ」が、Esthwaite Waterエスウェイト湖畔・Near Sawreyニア・ソーリーにあり、数々の詩や絵本の舞台になった美しい風景が湖水地方に今も残っている。

    ≪当時はあまり知られていない湖水地方を巡り、気分転換の一日となった≫

    Windermereウィンダミア湖はイングランドにおける最大の湖で、長さ18km、最も広い場所で幅1.5kmと長細い形状をしている。湖水巡りのほか、観光船、水上スキー、ゴルフ場と観光客には多岐な選択肢がある。ウィンダミア湖畔にある人口8,245人の町には石積みの家並みが中世の面影を残している。
    ウィンダミア湖北端にあるAmblesideアンブルサイドは「湖水地方の王冠の宝石」と称される村(人口2600人)、古くから湖水地方の交通の要として栄えた。
    凡そ3.2km北に走ると、Grasmereグラスミア湖(長さ1.5km、幅0.6kmと小さな湖で、最深は他の湖同様に21m)に至り、その東岸に人口1029人のグラスミア村にはイギリスの代表的なロマン派の詩人ウィリアム・ワーズワース卿が住んだ、小さなDove Cottageダヴ・コテージがある。

    8月11日(金)、晴れて天気も良い。

    9時半にケズウィックホテルを出る。湖水地方を巡る一日である。
    幾つかの湖と周辺の山や丘、悠々と草を食む羊の群れ、独特の山景が目立つBorrowdale Valleyボロ―デル渓谷、そして緑の中に点在しているイギリス風の石造りの家並みなどを見て回った。

    当時の写真を見ても、42年の昔は既に写真の流れではその行程は定かではない。この写真はあの場所だったと、自信を持って特定できないのが辛い所だ。

    滞在した国立公園・湖水地方北部のケズウィックはDerwentwaterダーウェントウォーター湖畔(湖の長さ4.8 km 、幅は1.6 km、最深が22m)に位置し、湖や周辺の山や丘、イギリス風の石造りの家並みが広がる景観の中心にある。
    また、湖水地方のマップでも見て取れるが、ケズウィックの北に位置するBassenthwaite Lakeバッセンズウエイト湖(長さ6.4 km長く、幅1 km狭い、最深は21m)も近い。

    【Borrowdale Valleyボローデール渓谷周辺】
    湖水地方の北西にボローデール渓谷という、絵のように美しい谷がある。
    谷の北口にはケズウィックの谷やダーウェントウォーター湖の風景がある。
    そしてCat Bells猫ベルという地点から、湖を見下す景観は素晴らしい。

    ホテルから2.8 kmの距離にあるDerwentwaterダーウェントウォーター湖右岸を南下して、ボローデール渓谷に入る。

    Bowder_Stoneボーダーストーンは大きな安山岩溶岩。13,500年~10,000年の昔、ボーダーの切り立った岩が200mも崩れ落ちたものだそうだ。
    巨岩は重さ約2000トンと推測され、高さ9.1m、幅15m、円周の幅は27mもあると云う。現在は階段で、巨岩の上に登れる

    岩山ばかりが特徴的で、ゴロゴロした岩石や土砂が急峻な崖から落ちてくる感じがすごい。英国の家がそれを利用した石造りなのも何となく分かる。
    また、この辺りで採石され、その石を積んで作った石垣で境界を作り、羊の放牧の柵にも利用しているのだろうか。石垣は遠く山あいの先へ伸びていき、山の色に溶け込んでいる。なだらかな山間には細い自動車道路がうねっている。
    時に白い糸のような滝が見え、大きな石、小さな石の間を小川も流れ、水も冷たい。こんな川原でも子供たちは靴下を脱いで、嬉しそうに遊ぶ。
    家内がワラビの群生を見つけて、娘たちに教えている。エッ!ワラビ、そんな季節かと一寸驚いた。子供たちもあまり近くに見たことが無く、珍しがった羊が1か所に集められ、目印が付けられた羊さん達は売られていく。

    Derwentwaterダーウェント湖観光の町ケズウィックの南にSurprise Viewサプライズ・ビューと呼ばれる絶景ポイントがある。
    その石造りのAshness Bridgeアッシュネス・ブリッジは素朴な石組の風合いが好ましい小さな橋で、橋越しに見るダーウェント湖が美しいと云われているが、写真を見ると、そのような写真を撮れていなかった。

    XXXXX

    旅行時期
    1978年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    2日以上

  • セピア色の思い出:湖水地方に鉄道を引き、同時に鉄道会社が建てた、由緒ある古城ホテル ケズウィックに2泊した。

    投稿日 2020年12月03日

    観光案内所 (ムートホール) ケズウィック

    総合評価:4.0

    ≪湖水地方:古城ホテルThe Keswick Hotelケズウィックホテルに2泊≫

    <1978年夏の休暇・イギリス旅行>
    1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間

    <湖水地方に鉄道を引き、同時に鉄道会社が建てた、由緒ある古城ホテルThe Keswick Hotelケズウィックホテルに2泊し、湖水地方を巡った>

    8月10日、もう1泊したかったDroitwich Spaドロイトウィッチ・スパのThe Chateau Impney Hotelシャトー・インプネー・ホテルを10時半に発ち、Birminghamバーミンガム、Manchesterマンチェスター、Lancasterランカスターと北上して、A6・A591でLake District湖水地方の入口Kendalケンダルを経由、Windermere Lakeウィンダミア湖を左に見ながら走る。ウィンダミア、Amblesideアンブルサイト、Grasmereグラスミア湖・グラスミアの町を過ぎると、A591の終点になるKeswickケズウィック(人口5千人)に至った。
    この日は凡そ311kmの長距離を走った。

    こぢんまりした町にある古城風(カントリーハウス)のホテルThe Keswick Hotelケズウィックホテルに2泊して、湖水地方を廻ったのだ。
    尚、Keswickケズウィックは 13世紀の記録にチーズを作る農場という意味の"Kesewic"と記されていたと云う。
    天気に恵まれた、この旅は良く日焼けしたものでした。
    当時の写真を見ると、写真は焼きが悪かったらしく、もう黄ばんだものになっています。ただ、残念なことに、何故かホテルの写真はなく、湖水地方を巡った写真ばかりだった。このホテルは健在かと、検索してみたら次のようにヒットした。

    ≪かつてはThe Keswick Hotelケズウィックホテル、現在の名前はKeswick Country House Hotelケズウィック カントリーハウス ホテル≫
    Station Rd, Keswick, CA12 4NQ,
    http://www.thekeswickhotel.co.uk/keswick-country-house/

    この古城ホテルは*当時入手していた1973年発行のChateux Hotelsシャトーホテル(仏81、独15、オーストリア4、英11、アイルランド1、スイス1合計113の古城ホテル、マナーハウスを掲載した)案内書にあった。
    そこで「19世紀の古城は美しい湖水地方の中心にある」と紹介された古城ホテルは76室あることが表示されていた。デュッセルドルフの旅行社で予約したが、1泊朝食付きで家族4人分DM100(1973年発行の案内書では一人£5~6)、従って2泊分はDM200でした。
    昼食や夕食は、街中や出かけた際に適当に食べたようだ。記録に10日ケズウィックで昼£4.3、夜8.8、11日£2.5、6.3と、それぞれ書かれていた。 

    現在は4星・全74室、4エーカーに及ぶ芝生と手入れの行き届いた庭園内に建つエレガントな古城風(カントリーハウス)のホテルである。
    The Lonsdale Restaurantロンズデール(第5代ロンズデール伯爵・・・ホテルの歴史にある)の名前の郷土料理を主とするレストランがある。

    ケズウィックの町の中心に徒歩5分の場所に位置し、Derwentwaterダーウェントウォーター湖から2.8 kmの距離にある。
    ホテルの歴史に後述した様に一部の部屋はケズウィック駅の旧駅舎内にあり、当時から残るプラットフォームにもアクセスできる。

    ホテルの歴史:
    ケズウィックホテルは元来the Cockermouth, Keswick and Penrith Railway Companyコッカーマス・ケズウィック・およびペンリス鉄道会社により所有されていた。1865年に鉄道の開業と一致するように建設される予定だったが、ホテル自身は1869年に完成された。
    ホテルに隣接する鉄道駅は1865年1月2日に開業し、1972年3月6日に閉業した。
    (従って、私共が2泊した時は既に鉄道の役目を終えていたわけだ)

    毎年、ケズウィックホテルには多くの有名な方々が滞在されている。
    中でも、1895年8月14日に、Earl of Lonsdaleロンズデール伯爵(Hugh Cecil Lowtheヒュー・セシル・ラウザー、第5代ロンズデール伯爵のことか?)はKaiser Wilhelmヴィルヘルム皇帝陛下、Lord and Lady Churchillチャーチル夫妻(Charles Richard John Spencer-Churchillチャールズ・スペンサー=チャーチル第9代マールバラ公爵のことか?)、Marquis of Worcesterウースター侯爵(Henry Adelbert Wellington FitzRoy Somerset, 9th Duke of Beaufortヘンリー・アデルバート・ウェリントン・フィッツロイ・サマセット第9代ボーフォート公爵のことか?)などの貴賓たちとパーティーを主催した。この時の出席者のリストも展示されている。

    また、1956年10月にケズウィックホテルの最大最高の訪問客であろう、Her Majesty Queen Elizabeth IIエリザベス2世女王陛下がご訪問された。その訪問時の写真がラウンジエリアに3つの大きい写真で掲示されている。
    1997年には旧駅舎内に8寝室が改装設備され、個々の寝室には有名な画家の名が付けられている。
    2002年にChoice Hotelsチョイスホテルズにより買収されたが、現在もケズウィックホテルは湖水地方の最もよいホテルのうちの1つであり続ける。

    ・・・・・・・・

    旅行時期
    1978年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    2日以上

  • ロマンチック街道の町クレクリンゲン・ヘルゴット教会:天才リーメンシュナイダーの傑作・聖母マリア昇天の祭壇は必見!

    投稿日 2020年11月29日

    ヘルゴット教会 クレクリンゲン

    総合評価:5.0

    ≪Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅≫

    期間 :2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間の旅

    5月18日(金);朝方小雨、その後、晴、20℃、101km

    クレクリンゲンもロマンチック街道の町だ。
    町から少し外れたヘルゴット川に沿った場所に、二つの見所がある。
    2009年のクリスマスの旅では修復中で、見学ができなかったHerrrgottskircheヘルゴット教会(聖母マリア昇天の祭壇・・リーメンシュナイダー作)とFingerhutmuseum指ぬき博物館である。
    ローテンブルクから凡そ20kmにあるヘルゴット教会を最初に訪れる事にしていた。
    ロマンチック街道の旅はリーメンシュナイダー作品を見る旅でもある。

    <Herrgottskircheヘルゴット教会見学>  
    10:55~11:20 入場料Euro4 

    幸い改装も完了し、小さなヘルゴット教会ではリーメンシュナイダー作の見事な祭壇を見る事が出来た。写真はフラッシュ無しでOKだった。

    凡そ600年前に神意を受けた村の農夫が聖餅を地中から発見したと云う。
    その事跡を記念して、当時の領主ホーエンローエ伯がヘルゴット教会を建てた。
    教会建立後100年して、農夫が聖餅(ミサや聖体礼儀で食するために特殊なパンを聖別し、キリストの体の実体として信じられ、食べられるもの・・・さてどんな形であったのか?)を発見した場所を主聖壇として、リーメンシュナイダーがMarienaltar聖母マリア昇天の祭壇を作った。

    高さ11m、幅3.7mと大きなもので、それは見事なもので、リーメンシュナイダーの最高傑作と云われるだけのものがある。

    祭壇中央部に天使と昇天する聖母マリア(天才リーメンシュナイダー本人の作)、その下にこれを見守る十二使徒が刻まれている。
    祭壇上部には天国でのマリアの戴冠、翼扉にはマリアの4つの重大な出来事、
    即ち左上からエリザベートの訪問、受胎告知、
    右のキリスト生誕、神殿詣での場面が彫られている。
    更に祭壇右下の12歳のキリストと学者たちの彫刻には下部の3面で一番右手にリーメンシュナイダーの自刻像(頭部に帽子)が刻まれているのが目に付いた。

    <Tilman Riemenschneiderティルマン・リーメンシュナイダー>
    リーメンシュナイダー(1460年頃 - 1531年)は、中世ドイツの彫刻家である。
    北ドイツのLandkreis Osterode am Harzのオステンブルク(Ostenburg)に生まれる。後に家族と共にヴュルツブルクに移住し、工房をかまえ、祭壇や墓碑の彫刻を数多く手がけたと云う。その追随を許さぬ技術で評価を高めた。特に女性の彫像はその顔の表情が豊かで、独特の作品が多く、印象強い作品である。
    一方、1520年から1521年まで、ヴュルツブルクの市長を務めている。
    その死後、歴史から忘れ去られた。

    その作品はフランケン地方一帯の教会、修道院などに、作者はティル親方とか、ディルとかいった名前だけが伝えられて、残っていたそうだ。
    1822年に漸く彼の墓碑が発見され、再びその作品群と共に、歴史上にその名が復活することになったと云う。

    尚、時間があれば、Fingerhutmuseum指ぬき博物館に行かれることをお勧めする。
    指ぬき博物館はヘルゴット教会とは道路を挟んだ反対側の坂を下った所にある。

    ・・・・・

    最後の写真二枚

    ①デトヴァンク・聖ペテロと聖パウロ教会:リーメンシュナイダー工房作・“Kreuzigungs-Retabel聖十字架祭壇“
    ②ローテンブルク・聖ヤコブ教会:リーメンシュナイダー作“Heilige Blut Altar聖血の祭壇”(1500年頃)

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    5.0

  • ヴァイカースハイム城はホーエンローエ侯爵家の居城、支配下の古城群の中で最も優れ、かつ美しい。

    投稿日 2020年11月28日

    ヴァイカースハイム城 ヴァイカースハイム

    総合評価:5.0

    2012年ドイツ麗しの5月:ロマンチック街道、シュヴェービッシュ・アルプ街道、古城街道を行く。

    5月17日(木);快晴、朝は寒く5℃、日中は15℃、156km
    <Weikersheimヴァイカースハイム観光>  
    15:45~17:30

    *Schloss Weikersheimヴァイカースハイム城見学  
    16:00~17:20  この旅⑨番目の城
    ガイド見学・1時間 入場料 Euro11 

    1967年に至る長い期間、Fuersten von Hohenloheホーエンローエ侯爵家の居城。
    その支配地の城の中で最も優れ、かつ美しく、代表的な城である。
    この旅ではヴァイカースハイム城を筆頭に、Langenburgランゲンブルク城、Waldenburgヴァルデンブルク城、Neuensteinノイエンシュタイン城を見て行くことになる。

    この城は1156年に築城された当時は水城であったが、1586~1605年に新たに建設されたのが現在のものである。俯瞰した城館は3角形の格好をしていて、庭園側に向いた本館はルネサンス様式の建物で、バロック、ロココの各様式も見られる。

    <城内博物館>
    4時スタートのガイド見学に間に合った。この博物館も写真は不可であったので、その素晴しさは手元のパンフレットでしか、見る事が出来ないが、Rittersaal騎士の広間が最も美しく、またSpiegelkabinett鏡の間も記憶に残るものだ。

    騎士の間は大きなシャンデリアが小さく見えるほど広い。縦40m、横12m、高さ8.5mと、長方形した大きな広間に圧倒された。1603年に完成し、現在も当時の姿を良く残している。広間正面には大きな、立派な暖炉が備えられて重々しい。
    広間は色彩あふれた中世芸術が見事に表現されている。数々の狩猟シーンが描かれた天井、壁を飾る生き生きとした動物の剥製、ホーエンローエ家一族の系譜を伝える紋章、歴代城主・婦人たちの肖像画も掲げられて、それは見事なものだ。

    侯妃Elisabeth Friederike Sophieエリザベート・フリデリカ・ゾフィーの部屋も金銀で装飾され、ゴブラン織り、家具などを備えた“Schoene Zimmer美しき部屋”は見応えのあるものだった。

    博物館・開館;毎日 9時~18時、ガイド9時から、最終17時

    <ヴェルサイユ宮殿の庭園をモデルにした庭園>
    石橋を渡り、左右の深い堀を見ると、かつての水城であった様子がうかがわれる。
    更に50ほどの石像が立つ庭園を歩き、南の端にあるOrangerieオランジェリーまで行って、振り返る。
    池越しに庭園から城の本館を眺める図が一番美しいと思われる。

    ・・・・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • ヴァイカースハイム:マルクト広場は教会、庁舎、博物館、ホテル、レストランなどがあり、中世以来の共同体の良い光景を見せている。

    投稿日 2020年11月27日

    マルクト広場 (ヴァイカースハイム) ヴァイカースハイム

    総合評価:4.0

    ≪2012年ドイツ麗しの5月:ロマンチック街道、シュヴェービッシュ・アルプ街道、古城街道を行く≫

    Weikersheimヴァイカースハイム観光:  
    15:45~17:30

    ホーエンローエ侯爵家の城下町・ヴァイカースハイムは、Vorbachフォルバッハ川がTauberタウバー川に注ぐ川口付近に位置する。人口7千人と小さい。
    周囲を葡萄畑と森に囲まれたヴァイカースハイムと、北にあるW-Schaefterheimシェフタースハイムは有名なブドウ栽培地であり、ヴュルテンベルク・ワイン生産地のコッハー・ヤークスト・タウバー地域タウバーベルク地区に属す。

    この日、楽しみにしていた、久しぶりのヴァイカースハイム城見物から、マルクト広場に戻る。
    マルクト広場周辺にはプロテスタントのStadtkirche St. Georg​聖ゲオルク教会(1419年築)、Rathaus市庁舎(1711年築、Ehemaliger Kavaliersbau、 spaeter Dekanatかつての騎士たちの家、後の教区監督者)の家、現在は市庁舎) 、Tauberlaender Dorfmuseumタウバー地方郷土博物館(1582年築、かつては果物の倉庫や地下蔵として使用された家)、Marktbrunnenマルクト広場の泉(1767年築、2002年改装)、さらにホテルやレストラン、木組みの家などが見られ、なかなか良くまとまった中世以来の共同体をつくり、感じの良い光景を見せている。、

    XXX

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    景観:
    4.0

  • バート・メルゲントハイム:かつてプロイセン(後のドイツ帝国)を封土として支配したドイツ騎士団が此処に置かれていた。

    投稿日 2020年11月26日

    ドイツ騎士団博物館 バード・メルゲントハイム

    総合評価:4.0

    ドイツ2012年・麗しの5月:マインツ選帝侯の城、ドイツ騎士団宮殿、ホーエンローエ侯爵家の居城を訪ねた

    <Deutscher Ordenドイツ騎士団とは?>
    ドイツ騎士団とは、ローマ・カトリック教会の公認した騎士修道会の一つである。
    正式名称はドイツ人の聖母マリア騎士修道会と称する。
    12世紀後半、聖地パレスチナに巡礼するキリスト教信者を護衛し、病院を設立する目的で設立された。
    中世には聖地やバルト海地域で十字軍の騎士修道会として活動した。プロイセンなどを統治し、東方植民の先駆けとなった。テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。

    <ドイツ騎士団の本部の変遷>
    アッコ(現イスラエル北部:1192~1291年)
    ヴェネツィア(イタリア:1291~1309年)
    マルボルク (ポーランド王領プロシア:1309~1466年)
    ケーニヒスベルク( 東プロイセン・旧ドイツ東部領土:1466~1525年)
    *バート・メルゲントハイム(ドイツ中部:1525~1809年)
    ウィーン(1809~現在) ・・・(Wiki抜粋)

    <Deutschordensschlossドイツ騎士団宮殿>この旅⑧番目の城
    D-97980 Bad Mergentheim 、Schloss 16
    http://www.deutschordensmuseum.de/  

    ブルク通りをまっすぐ進むと、ドイツ騎士団の居城の城門に至る。
    立派な紋章が掲げられた半円形の城門をくぐって中に入ると、中央に大きな菩提樹が立つ中庭がある。

    かつては水城で、13世紀にドイツ騎士団の居城となった。
    この騎士団は東方植民地の獲得に活躍し、プロイセン(後のドイツ帝国)の基礎を築いたと云う。

    当地には旧教派の騎士団が残り、ナポレオンに敗退するまで、本拠地としていたので、1526~1809年の長い間、騎士団総長の宮殿があった。
    Schlosskircheドイツ騎士団教会は高名な建築家のJohann Balthasar Neumannヨハン・バルタザール・ノイマンの作品で、歴代の騎士団総長等の墓がある。

    1996年開設の博物館:
    開館;火~日・祭日 10時半~17時
    制服、紋章、歴史文書で300年に及ぶドイツ騎士団総長の伝統を展示している。

    ・・・

    残念ながら、次の町のヴァイカースハイム城が気になり、騎士団宮殿や教会を見ることなく、閲兵では600頭の騎馬が埋め尽くしたと云う広大な中庭をちょっと散策して終わった。

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • バート・メルゲントハイム:ドイツ騎士団総長シュッツバル、又の名ミルヒリングの名が付いた噴水(泉)のこと。

    投稿日 2020年11月25日

    ミルヒリングの像 マルクト広場 バード・メルゲントハイム

    総合評価:4.0

    ≪バート・メルゲントハイム:ドイツ騎士団総長Wolfgang Schutzbarヴォルフガング・シュッツバル、又の名ミルヒリングの名が付いたMilchlingsbrunnenミルヒリングの噴水(泉)のこと≫

    (2012年ドイツ麗しの5月:ロマンチック街道、シュヴェービッシュ・アルプ街道、古城街道を行く)

    Wolfgang Schutzbarヴォルフガング・シュッツバル(1483年~1566年、Milchlingミルヒリングとも称された)は1483年、ヘッセン州中部のギーセン地方のTreis an der Lumdaトライス・アム・ルムダで生まれ、 1507年にDeutschen Ordenドイツ騎士団に入った。

    1529年、彼は当時マールブルクのLandkomtur地方騎士修道会長(騎士団司令官の意か?)であったDaniel von Lehrbachダニエル・フォン・レールバッハのKoadjutor補佐官に取りたてられた。シュッツバルは1529年にレールバッハ地方騎士修道会長を引き継ぎ、その後、1543年までBallei Hessen in Marburgマールブルクのバレイ・ヘッセンの地方騎士修道会長を勤めた。

    1543年、シュッツバルはWasserleitungメルゲントハイムに置かれていたドイツ騎士団の39代(1543~1566年)のHochmeister総長になった。
    1544年、Kaiser Karl V.皇帝カール5世(1500年~1558年)により、Preussenプロイセンを封土として与えられた。

    彼はメルゲントハイムで死去する前、1564年にRathaus庁舎を建て、この町最初のWasserleitung水道管(設備)を作り、この町に寄与した。
    そのこともあってだろう、現在もこの町のマルクト広場に彼の像「Milchlingsbrunnenミルヒリングの噴水(泉)」が立っている。

    ミルヒリングの噴水(泉)は、メルゲントハイムの町が聖なる泉(Heilquellen)の発見から100年を迎える祝いに、聖なる温泉(Heilbad )が広く知られるようになった事もあって、その記念位1926年に作られたものである。
    その前身は遅くとも1548年までに完成し、16世紀の初めから19世紀の終わりまで、マルクト広場7番地にあった。

    ミルヒリングの噴水(泉)は、ドイツ騎士団総長ヴォルフガング・シュッツバルの紋章が描かれた盾を持つ騎士の姿を示している。 
    ただ、剣を持つBremen Rolandブレーメンの騎士ローラントの表現(当時騎士の像の定番として描く)に似たものとなっている。確かに、そう言えばそうだ。

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    以上は、総長ミルヒリングで検索しても、ドイツ騎士団の総長リストに無かったから、何故、ミルヒリングの噴水(泉)と称するのか分からなかったので、調べてみた。

    (2020年11月24日訳、編集加筆)

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • セピア色の思い出:ドロイトウィッチの古城ホテル(フランス風マナーハウス)に泊まる

    投稿日 2020年11月19日

    観光案内所 (バーミンガム) バーミンガム

    総合評価:5.0

    <1978年夏の休暇・イギリス旅行>
    1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間

    5日目の8月9日ロンドンから90 kmのOxfordオックスフォードを通過し、文豪シェイクスピアの故郷Stratford-upon-Avonストラトフォード・アポン・エイヴォンを見物し、Droitwichドロイトウィッチのマナーハウスに1泊することにした。


    ≪ドロイトウィッチの古城ホテル(フランス風マナーハウス)に泊まる≫

    ストラトフォード・アポン・エイヴォンを巡り、その後はドロイトウィッチ・スパのThe Chateau Impney Hotelシャトー・インプネー・ホテル(いわゆるフランス風のマナーハウス)に至る。
    ドロイトウィッチ・スパはBirminghamバーミンガムの南35km、Worcesterウースターの北11kmに位置する。 

    ドロイトウィッチ・スパはRiver Salwarpeサルワープ川畔(全長32.8 km、Severnセヴァーン川:全長354kmの支流)に発展した町で、大きな岩塩鉱床の上に位置している。
    ローマの幾つかの軍団街道がこの町を通り、古くから塩を産する塩鉱山と温泉のある町、歴史的にも温泉療法の地として知られている。
    因みにサルワープ川は「岩塩鉱から流れ出る塩水の川」の意味で、この為、純度の高い岩塩はすでにローマ時代にここで産出されていたと云う。

    <The Chateau Impney Hotelシャトー・インプネー・ホテル>
    このホテルは所謂Manor Houseマナーハウス(ホテル)である。
    このマナーハウスは*当時入手していた1973年発行のChateux Hotelsシャトーホテル(仏81、独15、オーストリア4、英11、アイルランド1、スイス1合計113の古城ホテル、マナーハウスを掲載した)案内書にあった。
    そこで「シェイクスピアラントのフランスそっくりのシャトー」と紹介されたマナーハウスは66室あることが表示されていた。

    シャトー・インプネー・ホテルは65エーカー(換算すれば79,560坪、東京ドーム約5.65個分)という広大な敷地に3000の木々が植わる広大な森・庭園の中にあった。ホテルのゲートから館までは長い道が続く、車で左右が庭園や牧場を横目にしながら道を行く。何やらワクワクする気分だ。
    ホテルに至れば、ドアマンが笑顔で出迎え、レセプションの格式ある様子に気分も更に高まり、車から出した荷物を持ったベルボーイに部屋に案内される。
    写真が残っていないのが残念だが、ロンドンのホテルに比べると雲泥の違いだ。1泊の宿泊費は£80(ロンドン4泊分が£160)だった。
    ホテルの部屋数は66室、本館、レストランとバーがあった。本館内にはとりわけ歴史を感じさせるジェームズ1世時代のオーク彫りの見事な階段が目に付く。

    <シャトー・インプネー・ホテルの歴史>
    このホテルは1870年代にルイ13世様式でJohn Corbettジョン・コーベット(1817 年~1901年、塩製造の企業家兼商人)により建てられた。
    ドロイトウィッチ・スパの町はローマ時代から塩を生産して事で知られている。シャトー・インプネーのオーナーが塩工場を営んでいたのもその事による。
    塩の工場で成功したコーベットは1855年にパリ旅行で彼の未来の妻Hanna O'Mearaハンナ・オメアラと会った。彼女はアイルランド出身の両親とパリに住んでいたが、二人は会ってから1年以内に結婚し、6人の子供をもうけた。

    ただハンナ夫人はパリ時代が忘れがたく、彼女のノスタルジア(望郷心)を満たす為にコーベットはフランス風の大邸宅を建てたと云う。
    1875年に大邸宅は£(ポンド)247,000の費用をかけて完成される。この費用を2007年の価値で換算すると&pound;(ポンド)16,685,895になると云う。1ポンド=250円だった2007年のレートで4,171,500,000円、つまり42億円の大邸宅、町の有力者で、企業家であったコーベットは大金持ちであったわけだ。
    尚、コーベット夫妻は結婚後約30年で離婚している。

    1925年より館、つまりこの大邸宅をホテルとして開業する。
    1978年当時はドロイトウィッチにあるフランス風のシャトー・インプネー・ホテル、いわゆるマナーハウスであった。
    ホテルはChateau Impney Hotel & Exhibition Centreシャトー・インプネー・ホテル&展示会・会議センターと称しているが、イングランド中部ウエスト・ミッドランズ州でも、最も大きい展示会スペースを持っていると云う。

    シャトー・インプネーは現在もドロイトウィッチ・スパの郊外の有名なlandmarkランドマークとして立っているが、残念にも2020年、シャトー・インプネー・ホテル(現在は106の寝室)を閉じると発表された。
    コロナ禍でその後の活動状況は不明だ。

    この夜、マナーハウスで頂いた夕食は素晴らしい味と雰囲気でした。その時は気後れしたのでしょう、食事の写真を撮っていない。また当時は食事の写真を撮る習慣もなかったから写真が殆どないのも普通だった。残念だが、今ホテルのHPで見る写真にはその雰囲気が残っていませんが・・・。

    夕食代は記録が残り、宿泊費の半分を超える、この旅一番高い£45であった。

    ・・・・・

    旅行時期
    1978年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1日
    景観:
    5.0

  • セピア色の思い出:シェイクスピアの町ストラトフォード・アポン・エイヴォンは拍子抜けした田舎町だった。

    投稿日 2020年11月12日

    観光案内所 (ストラトフォード アポン エイヴォン) ストラトフォードアポンエイボン

    総合評価:3.0

    <1978年夏の休暇・イギリス旅行>
    1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間

    8月5日、ドイツ・デュッセルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。その旅の第一の目的はScotlandスコットランドのエディンバラ城で行われるEdinburghエディンバラの祭り・「Military Tattooミリタリー・タトゥー」を見に行くことだった。

    5日目の8月9日に4泊したロンドンを出発、もうロンドンを離れて北に向かう。スコットランドに向かう途中あちこちを訪ねるのだが、その第一は西34kmの近郊にあるWindsor Castleウィンザー城つまり英国王室の離宮であるウィンザー城を訪ね、衛兵交代式を見る事だ。
    それから更にロンドンから90 kmのOxfordオックスフォードを通過し、文豪シェイクスピアの故郷Stratford-upon-Avonストラトフォード・アポン・エイヴォンを見物した。

    <シェイクスピアの町ストラトフォード・アポン・エイヴォンは拍子抜けした田舎町だった>

    Stratford-upon-Avonストラトフォード・アポン・エイヴォンはイングランド中部のWarwickshireウォリックシャー(州)にある町(人口2万5千人)でRiver Avonエイヴォン川(全長137km、River Severnセヴァーン川:全長354kmの支流)に面して発展した。
    ストラトフォードはアングロサクソンの起源を持ち、中世には商業都市だった。町の歴史は800年以上に及び、ストラトフォードの名は古英語で"street"を意味するStratと、川を渡る道を示すfordの組み合わせに由来すると云う。

    文豪William Shakespeareウィリアム・シェイクスピア(1564年~1616年)の故郷として世界的に知られているが、それほど文豪を『観光の売り』にしていない様子で、少々拍子抜けするほど、静かな田舎町の景観だった。
    当時のブルーガイド海外版(実業之日本社)でも、シェイクスピアの生家、妻の実家、シェイクスピアの墓のあるホーリー・トリニティ教会、シェイクスピア劇場の説明があるだけで、短い行で済ましている。

    文豪シェイクスピアは引退するまでの約20年間に、四大悲劇『ハムレット』(1601年)、『オセロ』(1604年)、『リア王』(1605年)、『マクベス』(1606年)をはじめ、『ロミオとジュリエット』(1596年)、『ヴェニスの商人』(1597年)、『夏の夜の夢』(1596年頃)、『ジュリアス・シーザー』(1599年)など、多くの傑作を残した。私共も読んだ覚えのある名前が並ぶ。

    さて、ストラトフォードの象徴といてもよい2つの家(博物館)がある。
    1つはシェイクスピアの生家である。父ジョンは成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともあり、16世紀のシェイクスピアの実家が当時として裕福な家柄であったことがわかる。彼が10歳だった1574年頃の建物が再現されており、家の内部は居間、寝室、食事の間などが見られた。
    もう1つはストラットフォード市中心から1.6kmの距離にある英国風half-timberハーフティンバーの木造の家(Tudor styleチューダー様式。ドイツ的には木組み建築様式の家)と称するもので、屋根は茅葺である。
    この家はシェイクスピアの妻Anne Hathawayアン・ハサウェイの生家で、この美しい大きな農家が16世紀のままの姿で保存されている。当時の裕福な農家の典型として残されているのだろう。美しい曲線の萱葺き屋根、複数の部屋のある広い家屋には調度品も置かれ、庭は夏草に深く覆われていたが。
    もちろん日本の萱葺きの家とは違う風情、また、ヨーロッパ各地に見られる木組み建築様式の家や萱葺きの家とも違って見える。

    この町とロンドンとの対比はすこぶる対照的で、貧富の差が歴然とした感じだ。
    つまり思っていた以上に、チューダー様式のハーフティンバーの茅葺屋根の家から受けた印象は写真通りのセピア色で、イギリスきっての文人の故郷は妙に貧しさを感じた田舎町なのだ。

    イギリスでは世界に先駆けて18世紀から蒸気機関の開発、改良を契機にして工場制機械工業の発達が促され、18世紀の中ごろから産業革命が進展した。
    産業革命は市民革命と並んで、近代とそれ以前を分かつ分水嶺とされている。1815年6月、ワーテルローの戦いでナポレオン戦争の勝利を得て、ヨーロッパのみではなく各国植民地の地図は一変した。フランスが立ち直るには時間がかかり、かつて世界の覇権を握ったスペイン、ポルトガルの植民地は程なく独立し、オランダもケープ植民地(オランダ東インド会社が支配したケープタウン)をイギリスに奪われた。産業革命によって得た経済的優位性を得ていたイギリスは、ナポレオン戦争勝利によって覇権を一段と確たるものとしたのだ。
    19世紀半ばから19世紀末にかけてのイギリス帝国はハノーヴァー朝第6代ヴィクトリア女王の統治(1837年から1901年)の下、科学技術は発展し、ロンドンのシティには世界中から資本が集まり、まさに最盛期を迎えていた。
    ローマ帝国のPax Romanaパクス・ロマーナ(ローマの平和)に倣って、この時期を「Pax Britanicaパクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」と呼ぶ。

    1978年の夏の訪問で見た感じは、イギリスの田舎町にその恩恵は及んでいなかったように思われる。
    シェイクスピアの妻の生家が16世紀のままの姿で保存されているのも、逆に歴史の停滞したままに生き残った所為だろう・・・とか、あの文豪シェイクスピアの実家や、彼の終の棲家も復元されたと云うが、その存在はむしろ、そういった思いを裏付けるようだ。

    正直に言って、この田舎町に今や年間250万人の観光客が訪れると云う。
    それは奇観というと、叱られるが・・・。

    ・・・・・

    旅行時期
    1978年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    景観:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • 皇帝フリードリッヒⅢ世が1887年にこの城を訪れ、【ブラウンフェルスを見ずに、老いてゆけようか】と云ったそうだ。

    投稿日 2020年11月09日

    ブラウンフェルス城 ヘッセン州

    総合評価:5.0

    <2006.5.“ドイツ ライン・モーゼル・ラーン周遊の旅”>
    期間 : 2006年5月5日(金)~5月19日(金)15日間
    目的地: 今回の旅の目的地は二度目のドイツ駐在を終え、1985年5月31日に帰国して以来、21年ぶりとなる“デュッセルドルフ訪問”が第一です。
    そして週末や休暇の帰途に、何度も立ち寄った“ライン・モーゼル川、更に言えばルール川、アール川、ラーン川の流域等”を旅するものです。

    <Lahn-Ferienstrasseラーン休暇街道巡り>
    Lahnsteinラーンシュタイン、山上にそびえるBurg Lahneckラーンエック城を横に眺めながら、渓谷沿いに走るB260に入る。
    ラーン休暇街道を即ち、Lahnラーン渓谷沿いの古城、城址、木組みの家々の旧市街、庭園が残る、美しい町々を走り、訪れた。

    2006.05.17(水)晴れ時に雲が出て20℃程度の一日 、 146km(通算1857km)

    15:35出発、途中の山道から、山上にメルヘンチックなSchloss Braunfelsブラウンフェルス城が見える。三つの塔が高々と立っていて、初めて見る城だが、なかなか形の良い城だ。

    15:52 、Braunfelsブラウンフェルスに着く。(以下は抜粋)

    Braunfelsブラウンフェルスは高タウナス山系の国立自然公園内にある。ラーン川の南に、750年以上の古い歴史をもつFachwerk木組みの家並みの町があり、今はラーン休暇街道沿いの、人口11400人が住む保養地となっている。
    町の中心のMarktplatzマルクト広場からは、見事なSchloss Braunfelsブラウンフェルス城が見える。
    第二次大戦では幸いにも被害も受けずに現在に至り、城は博物館となっている。

    <Schloss Braunfelsブラウンフェルス城見学>
    1時間のミニ・ガイドツアー。ドイツ人で英語を達者に話すお爺さんがガイドだ。

    ここでの興味深い事をあげれば:

    ①皇帝フリードリッヒⅢ世が1887年にこの城を訪れ、【ブラウンフェルスを見ずに、老いてゆけようか?!(日本的には“日光を見ずに、結構と言うな!”かな?!)】と云ったという。
    この城のおびただしい文化遺産は絵画であり、武器、家具調度品、陶磁器等のコレクションである。それらは確かに一見の価値あるものである。

    ②最初の騎士の間
    13~18世紀の数々の武器が展示されていて、なかなか見事なものだ。その一角に皆を誘い、ガイドが鎖帷子を皆に持たせて、『どのくらいの重さか?』と聞く。私は『10kgだ』と答えると、ほんとに10kg!!『孫の重さがこんなものでね!』と言うと、ガイド曰く『日本人は頭が良いからな!』

    ③ゴシックの間
    マールブルグ・聖女エリザベートの一番下の娘Gertrud von Altenbergゲルトルート・アルテンベルク(1227~1297);彼女は母が死んだ時、たった3歳であった為、Kloster Altenbergアルテンベルク女子修道院で育ったという)が持っていたゴシック様式の櫃がある。

    ④祭壇の間
    最も興味深い、聖女エリザベートの指輪が展示されている。テューリンゲン方伯・夫ルートヴィヒ四世が十字軍に出かける際に、聖女エリザベートに与えた指輪であると・・・【この城で聖女エリザベートの話を聞くとは想像だにしませんでした。夫ルートヴィヒがイタリアの南・Otrantoオトラントで戦死した時、エリザベートのしていた指輪のオパールの石が血を流したと】・・・伝えられているそうだ。指輪の横にある、13世紀の銀製のピッチャーは聖女エリザベートが貧者や病人に、それでワインを与えたと云う。

    (注)ブラウンフェルス城はSolms-Braunfels ゾルムス・ブラウンフェルス伯家の居城であり、近隣のNassauナッサオ伯家などと共に、アルテンベルク女子修道院の支援者であった関係で、聖女エリザベートや娘のゲルトルート・アルテンベルク女子修道院長の遺品が展示されたようである。
    聖女エリザベートはハンガリーの王女に生まれ、ヴァルトブルグ城の城主、テューリンゲン方伯のヘルマンの息子ルートヴィヒ四世と14歳で結婚しました。
    夫が1227年に十字軍遠征で戦死し、3人の子供と共に城を追放されてしまう。マールブルグにやってきた聖女エリザベートはそこで信心深い一生をおくり、貧者救済の為に献身しました。余りに献身が過ぎた為、24歳で亡くなります。死後、エリザベート信仰が起こり、その墓地へのドイツ各地から巡礼が始まり、4年後の1235年、彼女は“聖女”の称号を受け、マールブルグに聖女エリザベート教会が建設された。

    ・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2006年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    4.0

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33国・地域渡航

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

最近はアジアの香港・マカオ、台湾も時に昔を思い出しつつ、また、日本の小旅行と称した旅も
最近投稿しています。
(2025.06.11.)


プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、さらにロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、戦時体制の欧州の旅は見送り続けて、2025年を迎えている。

(2025.06.11.)

行ってみたい場所

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