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jijidarumaさんのクチコミ(26ページ)全662件

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  • ローテンブルク:リーメンシュナイダー作品の“Heilige Blut Altar聖血の祭壇”は必見です。

    投稿日 2017年12月23日

    聖ヤコブ教会 ローテンブルク

    総合評価:4.5

    <Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅>
    期間:2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間の旅

    5月18日(金);朝方小雨、その後、晴、20℃、101km

    St.Jakobs-Kirche聖ヤコブ教会(1311~1485年);14:00~14:20 入場料Euro4
    Klingengasseクリンゲン横町を真直ぐ行くと、リーメンシュナイダー作品がある聖ヤコブ教会である。
    2009年のクリスマス時期に訪れたが、又見る事にした。

    今日はリーメンシュナイダー作品を続けて見る。
    Creglingenクレクリンゲンの近郊にあるHerrgottskircheヘルゴット教会のリーメンシュナイダー作品の最高傑作と云われるMarienaltar聖母マリア昇天の祭壇、17km先のDetwangデトヴァンクにある“St. Peter und Paul聖ペテロと聖パウロ”と云うロマネスク様式の教会内にリーメンシュナイダー(工房)作の聖壇がある。“Kreuzigungs-Retabel聖十字架祭壇“と呼ばれる。

    そして坂道を2km走って、丘に登ると、Rothenburg ob der Tauberローテンブルク・オプ・デア・タウバーに到る。
    この町にもリーメンシュナイダー作品がSt.Jakobs-Kirche聖ヤコブ教会(1311~1485年)に残っている。
    イエスの血=聖遺物が十字軍によりローテンブルクにもたらされて、この聖遺物を飾る祭壇をリーメンシュナイダーが依頼された。
    教会の2階に“Heilige Blut Altar聖血の祭壇”(1500年頃)がある。
    祭壇中央に“最後の晩餐”の図、左に“イエスのエルサレム入城”、右に“オリーブ山の場面”が彫られている。
    テーマがテーマだけに、ヘルゴット教会の作品とは違い、華麗さはない。

    ・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    3.5
    展示内容:
    5.0

  • ブラウンシュヴァイク:ライオンがシンボルの王の都にある城

    投稿日 2017年12月18日

    ダンクヴァルデローデ城 ブラウンシュヴァイク

    総合評価:4.0

    “北ドイツ周遊の旅”
    2005年4月21日(木)~5月5日(木)15日間
    4/26 (火)  174km、曇り時々小雨

    Cellツェレの町から走り出す。今日は初めて訪れる町は50km先、少し観光ルートから外れ
    たBraunschweigブラウンシュヴァイクに9:30到着。

    この町は人口26万人。ライオンがシンボルの王の都だ。12世紀の頃から、北ドイツ地帯を支配したハインリヒ獅子公の拠点として、大いに栄え、歴史的な見所も多い。
    現在はニーダーザクセン州の南部最大の都市として、VWやSiemensの大工場をもち、発展している。旧市街を巡る環状線に沿って走り、J.F.Kennedy米大統領を記念して名付けた交差点を右に入り、Bruchtorwall通り際の駐車場に停める。
    ブルグ広場を目指して、人通りも多い街中を歩く。15分位で、大聖堂DomやBurg Dankwarderodeブルグ・ダンクヴァルデローデ城が見えてくる。

    Burgplatzブルグ広場にはこの町のシンボル、---ハインリヒ獅子公が建てた---ブロンズのライオンの像(本物は州立博物館に)が城に向かって守護神の如く、立っている。
    像の台座に登って、写真を撮ろうとしていると、ダンクヴァルデローデ城の見学にきた子供達がこちらを見て笑っている。

    城内の一階展示室は10:30オープンとの事で、それまで、2階のRittersaal騎士の大広間を覗く。先程の20名ぐらいの小学生達が、先生と父兄に引率されて、案内の方の説明を聞いている。案内の方が、『日本の方ですか?良かったら、ドイツ語の説明ですが、子供達と一緒にどうですか?!』と言ってくれて、ご好意に甘える事にした。早速、子供達にも日本からのお客さんだよと紹介してくれて、皆さんと挨拶を交わす。10歳から12歳の子供達は神妙な顔をして、遠来の客を迎えてくれた。50代男性と思われる案内人は、大広間の描かれた歴史的人物や業績など、時々子供達に問いかけながら、説明していく。
    神妙に聞いている子供の中にも、時にふざけてしまう子がいて、案内人にピシッと注意される。親切な女の子は私達が見やすいように、他の子供を制して、私達に前に出るように勧めてくれた。

    城をいったん出て、子供達と更に、ロマネスク様式のDom大聖堂に行く。大聖堂もハインリヒ獅子公が建てたもので、高い八角形の2本の塔が目立っている。内陣には、ハインリヒ獅子公とその妻で英国人マティルダの比翼の柩が並んでいる。珍しく3本だけの杭が打たれたキリストの十字架像、女帝マリア・テレジア(オーストリア・ハンガリー帝国)の娘の柩はウイーンで見た柩を同じように立派なものだ。
    州立博物館に行くという子供達と親切な案内人に別れて、10:30城の1階にあるMittelaltersammlung中世の収集品の展示室へ。展示規模も小さく、ウイーンやミュンヘンの宝物館とは比較にならないが、城の成り立ちの模型、神聖ローマ皇帝オットー4世の緋のマント、銀器等を見る事が出来た。

    この町に来たのも、実はHerzog Anton Ulrich-Museumアントン・ウルリヒ公博物館(6Euro)を訪れる為です。Burgからは思っていた以上に距離があり、小雨も降ってきて、少々寒さも感じる。大きく道を迂回して、州立劇場や博物館が並ぶ地域に至る。
    ウルリヒ公の収集したレンブランド等の名品が展示されていて、特にフェルメールの“ワイングラスを持つ娘”が有名である。また、クラナハ、ホルバインなどのドイツ・ルネッサンス絵画部門、江戸の蒔絵小箱、陶器などの工芸部門も充実して、大変印象深い。
    お昼も抜きで見て周り、さすがに疲れたので、博物館内のカフェでコーヒータイムとした。

    Altstadtmarkt旧市街マルクト広場は博物館から真西に15分ほど歩いた所にある。
    この地域も中世のままの建物が並び、見応えのある地域だ。13世紀のAltstadtrathaus旧市街市庁舎、1408年作のMarienbrunnenマリア様の泉、そして、この町のルネッサンス風建物を代表する、Gewandhausゲバンドハウス毛織物販売・手工業者の建物(現代の商工会議所ビル)など、まさに中世の風情である。

    ・・・・・

    旅行時期
    2005年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • デュッセルドルフ旧市街観光で最後に訪れたヘッチェンス(陶磁器)博物館。

    投稿日 2017年12月02日

    ドイツ陶器博物館 デュッセルドルフ

    総合評価:4.0

    2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
    2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間

    <デュッセルドルフ旧市街観光をもう一度>

    <Hetjens-Museumヘッチェンス博物館>
    (Deutsches Keramikmuseumドイツ陶磁器博物館)
    D-40213 Duesseldorf 、Schulstrasse 4
    13:15~14:30、   Euro4X2=8(1,031円)

    長く住み、その後も何度か訪れたこの町でも行っていない場所はある。
    その一つがヘッチェンス(陶磁器)博物館だ。

    Laurenz Heinrich Hetjensローレンツ・ハインリヒ・ヘッチェンス(1830 ~1906 年)はドイツ芸術の蒐集家でした。彼個人のコレクションは『Rheinische Keramikライン地方の陶磁器』をベースにしたものです。
    古くはRheinisches Steinzeugライン地方の石器や、広くはアジアの磁器も含めた世界中の陶磁器が蒐集されており、彼の名を冠したドイツ陶磁器博物館の基礎となったと云う。
    ヘッチェンス博物館は1909年に開設された。

    陶磁器の8000年に及ぶ歴史や世界のすべての陶磁器を蒐集したもので、定期的に内外の博物館で公開されている。
    地階、地下1階、2階、3階とあるが、写真撮影が禁止なので、どうしても作品が一過性になって、記憶もまだら模様だ。

    地階からスタートする、8000年に遡る陶器、イスラムの陶器、20世紀の磁器、ユーゲントシュティール様式の磁器、作陶所。
    地下1階には初期の文化時代、石器、アフリカから出土した陶器、中米出土の陶器、

    2階Fayenceファヤンス焼き(中国や日本からヨーロッパに輸入されていた磁器は非常に高価で、それを真似るものとしてヨーロッパでは錫釉を施した陶器の上に彩色したマジョリカ焼き、ファヤンス焼きといったものが18世紀末ころまでに制作されました。
    独・仏・蘭・伊のヨーロッパ各国のもの)、
    3階では現代に繋がる18世紀のマイセンを初めとするヨーロッパの磁器となっていました。

    ・・・・・

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • デュッセルドルフ・カフェ ハイネマン:2階のレストランで久しぶりに昼食を食べた。

    投稿日 2017年11月24日

    カフェ ハイネマン (フェラインスバンク パッサージュ店) デュッセルドルフ

    総合評価:4.0

    2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
    2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間

    10月26日(水) 102km、朝曇り、徐々に晴れて暖かい日。12.0~16.0℃

    2013年10月以来4年連続で今年もデュッセルドルフを訪問し、“カフェ・ハイネマン”のチョコレートを買いに寄る事に決めていた。
    お気に入りのハイネマンはケー・センターの店で、いつも買う事にしている。
    しかも久しぶりにここの2階で昼食を食べる予定にした。

    ≪昼食:Cafe Heinemannカフェ・ハイネマン(Koeセンター内)≫
    D-40212 Duesseldorf 、Martin-Luther-Platz32
    https://www.konditorei-heinemann.de/
    営業時間;月~金:9~19時、土:9~18時半 、日曜日:10~18時。
    12:25~13:40 Euro37(4,769円)

    飲み物はアルトビール0.33L 2.9X2=Euro5.8、
    食事はスープとメインの2品にして、家内はビーフコンソメEuro4.6、私がグーラッシュスープEuro5.5、
    メインは家内がカレーソーセージEuro8.5、私がウィンナーシュニッツェルEuro11.5を注文しました。
    朝食が少なかったとはいえ、私はグーラッシュスープを頂き、さらにシュニッツェルの量は多く、半分を残してしまった。量的にはメインだけで良かったかもしれない。

    当地一番の定評あるチョコレートのお店で、1階がチョコレートの販売、2階がレストラン・カフェなっている。
    店内2階の席は年配のお洒落をしたドイツ人達で占められ、殆どは小母さまたちのグループやスノビッシュなおばあさま族の個人客だ。日本人もアジア人もいません。
    私共のように旅行者然とした格好の人は誰もいませんし、彼らの目が気になり、私共は少々落ち着かない空間に座っていた思いでした。

    食後は4年続けてハイネマンのお目当て・シャンパントリュフなどを購入した。

    XXX

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    一人当たり予算
    3,000円未満 
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    3.5
    サービス:
    3.5
    雰囲気:
    3.5
    料理・味:
    4.0

  • デュッセルドルフ:旧市街(500m四方の狭い町)には何でもある。

    投稿日 2017年11月19日

    旧市街アルトシュタット デュッセルドルフ

    総合評価:4.5

    Duesseldorfデュッセルドルフ観光:  
    http://www.duesseldorf.de/

    <Altstadt旧市街(500m四方の狭い町)散策>

    デュッセルドルフの有名人の中でも詩人ハインリッヒ・ハイネは“アルトシュタッドの息子”と呼ばれ、親しまれている。ハイネの生家はこの旧市街の真ん中にあり、今はビアーレストランになっていて、家の壁に記念の石版が張られてあるだけだ。
    もう一人Schumanロベルト・シューマン(1854年精神を病んで、ライン川に身を投じるという事件を起こした2年後にボンで死去。没後162年になる。親友ブラームス、メンデルスゾーンも旧市内に住んでいた由)も住んでいて、妻のクララと2年間(1852~54年)住んだ住居があり、ここにも生誕175年記念の石版とクララのレリーフが埋め込まれている。こちらは少し離れていたので、見るのを省略した。

    旧市街はともかく歩くことだ、狭いだけに間違っても困る事は無く、ケーの方向か、ライン川の方向に行くかを決めればよい。見たい、食べて飲んでみたい所はいずれにしても狭い中なのだ。
    きれいに改装された家並みが続き、二人の労働者風の大きな銅像が道路でにらみ合う銅像にびっくり。以前は無かった像、二人の間に立って押しとどめたが・・・。

    角を曲ると、地ビール・アルトビールのレストランUerigeウエリゲ(ビール醸造所:シュレッサーアルト、シューマッハアルト、ウエリゲアルト、フランケンハイムアルトの一つ)、魚料理のレストラン(Fischhausフィッシュハウス)などが続く。まだまだ閑散としているが、それでも店前に設けられた席で一杯やっている人もいる。このあたりは居酒屋やレストランが軒を連ねていて、「世界一長いカウンター」と称されているとか。

    その近くはマルクト広場で、ルネッサンス様式のRathaus市庁舎、選帝候JanWellenヤン・ヴェレン騎馬像(1570年)が絵になる形で立っている。
    その先のBurgplatzブルグ広場にまたやって来た。来る度にRadschlagerbrunnenラートシュレーガーブルネン側転の泉を撮る。1288年、ケルン大司教の軍に対し、ベルグのアドルフ伯に従う市民達の軍がWorringenヴォリンゲンの戦いに勝利し、市民は都市の自治権を獲得する。この勝利を祝って、凱旋する兵を子供たちが“側転”をして出迎えたと言う故事に因んだもので、黄色くなったプラタナスの樹の下に“側転”像と噴水がある。
    しかも、”Worringenヴォリンゲンの戦いに勝利した像”も近年になって、直ぐ近くに作られた、
    Schlossturmシュロスの塔(現在は船舶博物館)もあり、大きな観覧車だけが場違いの如く立っている。それさえ無ければ、このあたりは昔と変わらぬ様子なのだが。

    Rheinuferpromenadeライン川畔プロムナードもいつも必ず見に来る。
    ラインには左からRheinkniebrueckeラインクニー橋、Oberkasseler Brueckeオーバーカッセラー橋、TH-Heuss Brueckeテオドーア・ホイス(初代西ドイツ大統領の名)橋と、三つの大きな橋が掛かる。その橋の下を相変わらず遊覧船や大きな、長い輸送船が河口に向けて、或いは上流に向けて、航行している。
    この辺りのライン川の川幅200~300Mで大きく蛇行している。この川岸から見る景色は変らず、遠くに172mのラインタワーが見え、かつて住んだOberkasselオーバーカッセルのKaiser-Friedrich-Ringカイザー・フリードリヒ・リングは遠くて見えない。

    (注)第二次大戦におけるDie Bruecke von Remagenレマーゲン鉄橋の攻防について先に述べたが、デュッセルドルフでも1945 年 3 月 3 日にドイツ国防軍は連合軍(英米)のライン川渡河を阻止するため、オーバーカッセラー橋を爆破した事を知った。

    旧市街名物の“金貨をひり出す男”の像が銀行の店の壁に彫られています。縁起物ということで、しっかり金貨?!を手で触って、運が付くように祈り、写真を撮った。

    Schneider-Wibbel-Gasse仕立屋横丁というメルヘンチックな小道に行く。
    時計のある建物に仕立屋シュナイダーさんの銅像が鎮座し、通り過ぎる人たちは皆、体の各所を触っていく。髪の毛、眉、鼻、手や腕、膝の箇所が地の銅色に変わっている。
    丁度、小学生たちがいて、彼らはワイワイ言いながら、触っている。私共が立っているのに気づいた男の子が、仲間に「ホラ観光客が見たがっているから、場所を開けなよ!」と言ってくれた。嬉しいね!ついでに「ここに小さなネズミが隠れているよ!」と教えてくれた。見ると、像の前掛けの襞にネズミが一匹いた。

    仕掛時計は11、13、15、18、21と一日5回も時計の下の扉が開き、針と糸を持ったシュナイダーさんの人形が出てくる。
    ハイネの作詞の誰も知っている“ローレライの曲”が流れる。
    このような仕掛時計もあって楽しい横丁だが、何故かスペイン横丁と呼んでも可笑しくないほど、スペイン料理屋が並び、駐在時ひいきにしていた“El Amigoエル・アミーゴ”の店も健在だった。

    これを落としては叱られる。
    ナポレオン皇帝陛下の席で、名物のライン風ムッシェルン料理を食べたレストラン“ツム・シッフェン”、近くにHeimatbrunnen郷土の泉(1982年)、Hetjens-Museumヘッチェンス博物館(Deutsches Keramikmuseumドイツ陶磁器博物館)もある。
    そしてアンドレアス教会傍の「アンナ小母さんのレストランWeinhaus Tante Annaワインハウス・タンテ・アンナ」の店も。

    この旧市街には何でもあって楽しいのだ。

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    5.0
    景観:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.0

  • デュッセルドルフ・カイザースヴェルト地区ホテル ムッターハウスは意外に利用者が多かった

    投稿日 2017年11月17日

    Hotel Mutterhaus Düsseldorf デュッセルドルフ

    総合評価:4.0

    2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
    2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間

    10月26日(水)、デュッセルドルフの駐車場を出る。カイザースヴェルト地区ホテル ムッターハウスにはカイザースヴェルト通りを走り、市電の停留所近くで、勘が働きうまくホテルが見つかった。ホテルのチェックインを済ませ、天井の高い、かつて僧院だったという雰囲気が残るホテルの部屋に入った。

    ⑬10月26日(水)~10月27日(木):1泊
    Hotel MutterHaus Duesseldorf旧僧院ホテル ムッターハウス デュッセルドルフ
    D-40489 Duesseldorf 、Geschwister-Aufricht-Strasse 1
    (Kaiserswerth ; ehem. Alte Landstrasse 179)
    Tel:+49(0)211-61727-0  https://www.hotel-mutterhaus.de/

    4星・全55室。3階DZ・No.218(クラシックとうたっていたがシンプルで機能的な部屋:予約に書かれていた27㎡よりもずっと広いと思った)・Euro144(朝食込み=16,811円)。

    ホテル ムッターハウス<*母の家>は1903年開業のHotel Garni(朝食のみのホテル)でデュッセルドルフのカイザースヴェルト地区、デュッセルドルフ空港からわずか5km(車で10分)に位置する。ムッターハウスの300m先にある市電Klemensplatzクレメンス広場駅から、メッセ・デュッセルドルフ会場まで10分以内でアクセスできる。

    水(ガス入り)0.375L 2本、コーヒー、ココア、紅茶のサービスはあったが、浴用ガウン、スリッパは無い。古めかしい外観とは異なり、たいへんモダンなホテルである。
    また、思っていた以上に部屋は明るく、広い。浴室の機能も十分なもので、宿泊客も多いようだった。空港が近いという利点から、機会あれば利用しても良いと思えた。

    「Duesseldorfの町・空港にも近い、静かな環境ホテル」
     ベッドが沈まないものも良かった。
     朝食の場所は1階左手にあり、意外に泊り客が多く、ホテルを見直した。

    ・・・・・・・・・

    *<母の家>は教会組織の一部と言える。未婚で生涯独身のキリスト者
    女性が各種施設や教会で社会的奉仕に献身する。
    奉仕女(=独語はDiakonissen、救恤看護婦きゅうじゅつかんごふ
    ・・・困っている人々を救い、見舞いの金品など与えた活動をなした)
    はそれぞれ〈母の家(ムッターハウス)〉に属し、そこで訓練を受け、
    国内外に派遣され、各地に施設を置き、奉仕活動をした。
    奉仕活動後、再び〈母の家〉に戻った。衣食住は保証されていた。

    旅行時期
    2016年10月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    10,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    3.5
    バスルーム:
    3.5
    ロケーション:
    4.0
    客室:
    4.0

  • デュッセルドルフ旧市街にある便利なホテル

    投稿日 2017年11月12日

    アルトデュッセルドルフ デュッセルドルフ

    総合評価:3.5

    “ドイツ ライン・モーゼル周遊の旅”
    2006年5月5日(金)~5月19日(金)15日間
    5/05 (金)  晴  23℃

    フランクフルトには5分早めの14:30に到着となった。
    デュッセルドルフ行きは国内便のトランジットの余裕をみて、1時間15分後の15:50としていたので、時間まで国内ターミナル内で待つ事になる。長い通路を歩いて、ゲートA05に行く(14:55)。念の為、カウンターでチェックインする。成田のカウンターでは12ABであったが、16DFに座席が変更されていた。15:30にはバスに乗って、飛行機に。
    LH―808はEurowings社が運航をしていて、City-Lineと称するCRJ700の80人乗りの飛行機でした。国内都市間を結ぶ、機能的な飛行機ですが、機内は満席で、太ったドイツ人にはちょっと気の毒なほどに、狭く感じる。窓から緑の中に浮かぶような町・村の屋根を下に眺めながら、50分の飛行で16:40には、懐かしのデュッセルドルフに到着です。
    市の北部にある空港は、1985年の帰国後に大火災で空港が焼けてしまったので、新しい空港は私共には、もう勝手が分からぬ場所になっている。
    タクシーで凡そ10km・10分走る距離にある、旧市街のホテルに向う。空港からの高速を走って、直ぐ街中となる。アー、この道は覚えていると、感慨がわいてきます。旧市街はタクシーの進入が出来ないので、30mほど前で降車する事になってしまった。(18Euro)

    17:30ホテルAlt Duesseldorfにチェックイン。
    当時、プライベートの接待によく行った“大都会”(鉄板焼きの日本料理店---今は撤退して、イタリア料理店に変わっていました。)があった角を曲がり、ほんのちょっと行った所にホテルはありました。

    インターネットのBookings DEで予約したホテルは思っていた以上にこぢんまりとしたもので、且つ1階はカフェ・レストランになっていて、この時間帯にはもう、ドイツ人たちがビール片手に真っ赤な顔で騒がしい。旧市街のホテルなので覚悟はしていたが---。
    3階の21号室はまずまずの広さで、裏庭に面していて、静かな感じである。
    早速、電話でかつての会社の先輩F夫人(ご主人は機械部門の出身で、私が1974年に最初のドイツ勤務になった時に、既に数年駐在していたから、40年近くをドイツにいる事になる。今日は日本出張中の為、会えず!!残念であった。)にご挨拶する。
    19:00にオペラ劇場前でお会いして夕食を共にする予定だ。

    (2泊)Alt Duesseldorf   
    Hunsrueckenstr.11、D- 40213 Duesseldorf 
    21号室、 Euro 85x2=170 ;全28室、 2星
    http://www.alt-duesseldorf.de

    05/07(日) 快晴 25℃ 、 129km(レンタカーのスタート時、12,569km)

    今日はレンタカーを借りて、駐在中の旧居や日本人学校、近郊をドライブする予定です。時差の関係で4時半に目がさめてしまうが、7時に起床する。
    美味しい朝食後、8:30にタクシーでと思い、Hotelの女性に車を呼んで欲しいとお願いする。なんと今日は、市内マラソンがあって、旧市街近辺は元より、主たる道路が車の乗り入れを時間制限するとの事で、タクシーも駄目だと言う。地下鉄で中央駅に行き、そこからDuesseldorf空港に向かうのが一番だとアドバイスされる。
    参ったなと思うがこればかりは他に方法が無く、重いトランクを引きずって、カウホフ下の地下鉄駅へ。近くの警備員に切符の買い方を教えてもらって、乗車する。
    中央駅でS-Bahnに9:15乗り換え、9:30空港へ。

    10:00 予約済みのHertzでレンタカーを借り出す。(今年はメルセデス2200CC ディーゼルとなった)指定された車の引渡しの場所に行き、いざスタートしようと、バックするが動かない。日本流のトヨタや昨年のルノーはブレーキを強く踏んだり、スタートのエンジンをふかしたりすると、自動的にブレーキが外れるが、このメルセデスは違っていた。2004年の時はどうしたか忘れていて、あせってしまう。仕方なく、先ほどの係りを呼んでもらう。20分ほど待っていると先ほどの係りが来て、簡単な事に、ハンドル下のノブを引っ張って、ブレーキを外すのだ言われる。そうだったか?!最初はいつもあせるのか?!目に入らなくなる。
    10:30車がスタートし、外の道に出て行くまで、親切な係りの小父さんも心配そうに見ていました。
    今日のマラソン大会と言い、車のスタートといい、落ち着きの無い一日のスタートだ。さて、気をつけねば!!


    XXX

    旅行時期
    2006年05月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    7,500円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    3.0
    バスルーム:
    3.0
    ロケーション:
    4.5
    客室:
    3.0

  • ミュンスターの聖パウロ大聖堂には二つの目玉がある:もう一つは1540年製の天体時計である。

    投稿日 2017年11月08日

    大聖堂(St. Paulus-Dom) ミュンスター

    総合評価:5.0

    <三十年戦争の講和条約締結地のミュンスターの町を一日観光>
    第10日:2016年10月23日(日)9km、午前は曇天、午後は晴れ、寒い朝3.5~9.5℃

    見るべきものとしては聖パウロ大聖堂の二つの目玉、即ち一つは宝物館・・・先に説明した、残るもう一つは1540年製の天体時計である。

    <1540年製の天体時計>
    12:40~12:55

    見るべきとされているのは天体時計で、技術的にも美術的にも驚異の作品と云われる。
    1540年製の天体時計は高さ7.8m、幅4.1mの大きなもので、上部に座した聖母子を中心に左にラッパを吹く者、鐘を鳴らす者、右に大きな鎌を持ち背に翼がある者、更に矢を持つ骸骨が鐘を鳴らしている人形がある。
    窓にはその光景を見る人々の絵、10個の鐘と仕掛け、中部に天体時計、下部に暦がある三段階のもので、12:45頃になると、係のような方が来て、内部に入りスタートさせた。

    時間が来ると仕掛けが動き出し、右の扉から、従者のような者が先導し、Heiligen Drei Koenige東方の三博士が順に出てくる。聖母子の前をぐるりと動き、左の扉に消えていく。それを2度繰り返した。
    それは最初がMorgenstern暁の明星・Venus金星(アンティークな星形)が、時計の上部(王宮のような建物の屋根)に現れ、この星の動きに合わせて人形は動いて行くようだった。次はAbendstern宵の明星・Mars火星が出現し、これに合わせ同じ人形が同じように一周したのだった。5分もしない時間だった記憶がある。

    仕掛け時計は1日に1回、正午(夏時間表示ではない)のみ、仕掛けが動き出す。
    幸い、私共もその時間に時計前に居合わせた。多くの観光客、参拝者はこの日一度の見せ場を見て喜び、動き出した時はオー!と歓声が上がった。

    ・・・・・

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    5.0

  • 教育熱心であった会津藩で、「ならぬことはならぬものです」の掟は象徴的である。

    投稿日 2017年11月06日

    會津藩校日新館 会津若松

    総合評価:4.0

    <会津・磐梯山巡り>
    たまには小旅行もしようと会津へ。

    会津・磐梯山巡りは第三日:
    会津藩校・日新館
    2017年9月30日  11:00~12:30

    御薬園(おやくえん)から千葉に帰宅する前に、寄る所がある。
    会津藩校・日新館がそれで、会津若松の市内・御薬園から西の郊外に走り、車で20分の距離、河東町高塚山の小高い丘の上に新しく建てたものだという。
    http://www.nisshinkan.jp/

    江戸時代には教育熱心であった各藩は競って藩校(例えば、萩(長州)藩・明倫館、薩摩藩・造士館、米沢藩・興譲館、岡山藩・閑谷学校、水戸藩・弘道館)を作り、その数は全国で300藩校を数えたそうです。
    その中で規模・教育の内容ともに随一と謳われたのが、会津藩校・日新館です。
    敷地内で最も高い天文台から見ると、藩校の敷地は東西226m、南北116mとたいへん広いもので、建物面積は合計1500坪です。
    かつて鶴ヶ城の西側に藩校(1803年創建)がありましたが、戊辰の戦いで焼失した為、昭和62年(1987年)に会津の精神文化を後世に伝えるべく、復元されたそうです。

    元来、「日新館の教育目標は人材の育成」というもので、会津藩は上士以上の藩士の子弟は全て入学が義務付けられました。文武の両教科を教授する総合学校には10歳になると上士子弟は日新館に入学したそうです。
    生徒数は1000~1300人で、授業は朝の8時から始まり、中国の古典を素読所で学び、書学、弓道、剣道、馬術、水泳、銃・砲、医学・天文学と多岐にわたり、それは初歩から専門分野、さらに文武両道教育が実践された学校でした。

    南門から入り、大成殿にいくと、近在の小学生の集団が中国風の学帽を被り、講師の先生の教えを聞きながら、孔子像の前で唱和していました。右隣の大学という建物では漫画風の絵で昔の人の鼻のかみ方、箸の使い方を分かりやすく書いています。
    東西に置かれた塾には素読所があり、資料館には会津藩関係者の歴史、紀子妃殿下の家系図でご先祖が会津藩士であったことの説明、弓道場、木馬場、水練水馬場、幕末・明治記念室、武道場、天文台、砲術場などを順に巡り、西門から出る。
    中には弓の体験場などもあり、合宿場も備えている。

    NHKの大河ドラマ“八重の桜” で知られた「ならぬことはならぬものです」は「会津武士の子はこうあるべきだ」という象徴的な言葉でしょう。
    日新館に学ぶ前に「什の掟(じゅうのおきて)」を学んだと云います。伝えられるところでは、同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子供たちは十人前後で集まりをつくっていた。この集まりのことを会津藩では「什 (じゅう)」と呼び、そのうちの年長者が一人什長(座長)となった。
    毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長が「什の掟」を一つひとつ皆に申し聞かせ、全ての掟が終わると、昨日から今日にかけて「掟」に背いた者がいなかったか?と問い、背いたものには反省の罰を与えたと云う。

    日新館から、会津盆地の実りが見渡せた。

    XXX

    旅行時期
    2017年09月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • デュッセルドルフ:“アンナ小母さんのワインハウス”で夕食を楽しんだ

    投稿日 2017年11月03日

    タンテ アンナ デュッセルドルフ

    総合評価:4.5

    “ドイツ ライン・モーゼル周遊の旅”
    2006年5月5日(金)~5月19日(金)15日間
    05/06(土) 快晴、 25℃

    ≪夕食、Weinhaus Tante Annaワインハウス・タンテ・アンナで≫
    119~21時;夕食代はEuro97=14000円

    デュッセルドルフの旧市街にある、この店は20世紀初め、人気者の女将に因んで、名前を“アンナ小母さんのワインハウス”としたそうだ。古くは1593年、イエズス会修道院の礼拝堂として、建造されたと云う。
    店内には1000年の歴史を感じさせる黒く古びた花崗岩の柱がみられ、300年の年月を経たアンティークの家具で飾られた、落ち着いた雰囲気をもつ家庭的料理とワインの店です。1985年、日本へ帰国する前にドイツ人スタッフを招いて、食事をした思い出のお店である。

    愛想の良いオーナーに案内される。予約席は入口を入って直ぐ、17世紀初頭のニュールンベルグ風タイル張りに飾られた立派な暖炉の前の特等席でした。
    どっしりした樫の木製のテーブルに座り、辺りを眺めると金の飾りのある格天井、真鍮の大きな飾り皿、古い大砲、巨大な乗馬靴、鎧の胸当て、黒ずんでしまった連帯旗等、ユニークで、統一性の無い品々が並び、この部屋を古き時代に誘うように飾られている。 

    早速、Frankenheim Altで喉を潤し、没後150年のシューマン・フェスティバルに因んだ、今夜のメニュー“シューマン・メニュー(クララ夫人の料理レシピから採った。)Euro29.5”を二人とも注文する事にしました。

    このメニューは“パセリ・ニクズク入りアスパラスープ”、
    メインは“人参・アブラナの野菜をあわせた、肉汁一杯の子牛の胸肉料理”、
    デザートには“レーズン入りのプディン”が出てきました。

    ワインは2003年のBadenバーデン(Mimus、Spaeteburugunder、 Q.b.A /Trocken 、Dr.Heger醸造所・Ihringen ---北はハイデルベルグ、南はスイス国境に至るライン川東岸に広がる細長いワイン産地であるBaden地方のみならず、ドイツ最高の醸造所の一つであると高く評価されています。:Euro24)のコクある、濃縮感がうれしい赤を一本、楽しみました。

    満足した夕食を終わって、オーナーに握手で送られて、漸く暗くなった外に出ると、人々が道に置かれたテーブルに座り、ビール片手に飲んでいます。
    老若男女で混雑した旧市街をライン川畔まで歩いて行くと、ブルグ広場に人だかりが。
    なにやら日本流の太鼓と空手のような演舞をやっている。ホテルに戻ってくると、ホテルの前も飲み客で一杯だ。

    ・・・・・

    旅行時期
    2006年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    一人当たり予算
    7,000円未満
    利用形態
    ディナー
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.0
    雰囲気:
    4.5
    料理・味:
    4.5

  • 会津藩・御薬園(おやくえん)と秩父宮勢津子妃殿下ゆかりの重陽閣は、一度は訪ねたい。

    投稿日 2017年11月02日

    御薬園(会津松平氏庭園) 会津若松

    総合評価:4.5

    <会津・磐梯山巡り>
    たまには小旅行もしようと会津へ。

    会津・磐梯山巡りは第三日:
    御薬園(おやくえん)と重陽閣
    2017年9月30日  9:40~10:30

    国指定名勝・会津松平氏庭園の御薬園(おやくえん)には見事な庭園と、秩父宮勢津子妃殿下ゆかりの重陽閣があると聞き及んでいたので、是非訪れてみたい所なのだ。
    開園時間:8:30~17:00

    鶴ヶ城の東にあり、宿泊先ホテルニューパレスからほぼ真っすぐ、車で数分と近い。
    回遊式の借景園と、各種薬草を栽培する薬草園(今も400種の薬草を栽培する)で知られている。薬草園が御薬園の名前の由来になったそうだ。
    元来は15世紀室町時代の守護大名、葦名盛久が霊泉の湧き出た地に自らの別荘を建てたのが始まりと伝承が残る。後に会津藩主が領民を疫病から救うために園内に薬草園を作り、朝鮮人参を試植し、その栽培を民間に広く奨励したという会津藩らしい旧跡といえる。

    現在に残る庭園は17世紀後半の元禄時代に遠州風山水庭園に大改造したもので、園内の楽寿亭や御茶屋御殿の建物は、戊辰戦争時に新政府軍の傷病者の診療所となった為、戦火を免れた。
    その敷地面積は約1.7haもあり、中央に心字の池を配し、池の中央に亀島があり、そこに数寄屋造りの楽寿亭が建っている。楽寿亭には戊辰戦争時につけられた刀傷もあって、歴史の生々しさに驚く。園内には泉石、灯籠、そして樅の木、杉、松、伽羅木、五葉の松などの見事な大木もあってもなかなかの景観である。
    不思議に、ぐるりと庭園内を回遊すると気分も爽快になる。

    庭園北西側には、戊辰戦争当時の会津藩第9代藩主(かつ最後の藩主)であった松平容保の孫にあたる秩父宮妃勢津子(1909年~1995年、享年85歳)ゆかりの重陽閣(ちょうようかく)が移築されている。
    重陽閣では70代と思しき男性ボランティアの方がご案内の上、色々と説明してくださった。その説明ぶりに会津の方らしい、妃殿下に対する思い入れを感じさせるものがあった。
    秩父宮妃勢津子殿下の会津訪問時に宿泊した1階は「思い出の部屋」として妃殿下来訪時の写真が拝見できた。2階は妃殿下が好んでお召し上がりになっていた紅茶・デザートなどが楽しめるそうだが、この日はそうした企画もなく、立ち入り禁止であった。
    重陽閣傍に秩父宮勢津子妃殿下顕彰碑も立つ。

    勢津子妃殿下は外交官の松平恆雄(後に駐英大使、駐米大使、宮内大臣、初代参議院議長を歴任)の長女でした。松平恆雄は旧会津藩主・松平容保の六男ですから、容保の孫になります。
    1928年(昭和3年)9月28日、昭和天皇の皇弟・秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)との婚儀が行われる。

    この婚儀には次のような話が残っている。
    当時の皇室典範では、皇族の妃は皇族もしくは華族である必要があった。勢津子妃の父・恆雄の身分は松平容保の六男ながら、平民であった。父の平民籍のままでは皇族へ嫁ぐことができなかった為、一旦叔父・松平保男(松平容保の七男。子爵、海軍少将)の養女となり、華族としての身分を得てから婚儀に臨んだそうである。

    維新戦争後も「逆賊」、「朝敵」として会津藩や会津藩主である松平容保は長く指弾されてきただけに、容保の孫にあたる勢津子妃の皇室への入輿(じゅよ=嫁入り)は、旧会津藩の士族、関係者にとっては大きな希望となり、その復権にも繋がったという。
    今に至るも会津人の感激は並々ならぬものであったようだ。

    更に言うと、秋篠宮文仁親王(あきしののみや ふみひとしんのう)の紀子(きこ)妃殿下は現天皇家にとって将来の皇統を継ぐ唯一の男子である悠仁親王(ひさひとしんのう)をご出産。将来は所謂“天皇の母”となるわけです。
    妃殿下の祖先を遡ると、父方の高祖父は池上武輔(会津藩郡奉行)がおり、会津藩家中でも250石取りの上級藩士の家であったそうです。
    つまりここでも、既に「朝敵」は死語となり、会津人にとっては大きな喜びが存在する。

    会津を回り、会津の教育、精神を語る会津藩校の「日新館」を巡ってみると、あらためて会津藩が如何に良き人材を育てたことが分かる。
    しかもそれらの人材が各界で見事な働きをしたこともよく分かる。

    ・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2017年09月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    4.5

  • 裏磐梯・五色沼は五色の色合いではないが、素晴らしい。

    投稿日 2017年10月27日

    五色沼自然探勝路 裏磐梯・猫魔

    総合評価:4.0

    <会津・磐梯山巡り>
    たまには小旅行もしようと会津へ。
    会津・磐梯山巡りは第二日:
    2017年9月29日10:00~12:30

    裏磐梯・五色沼見物をしました。

    五色沼は徒歩で巡る道が整備されていますから、皆さん歩いて
    往復されていました。所々に石ころがあり、濡れて滑る道でしたし、
    熊に注意!の看板もありました。
    中には熊よけのチリンチリンと鳴る鐘を首からかけて歩いて
    おられる方も見かけました。
    熊が出るほど、人がいないわけでもなく、結構行き交う人も多いのです。
    それで安心しながら、歩きました。

    行程を書いておくと、最初に東入口の駐車場に停め、すぐ傍の
    毘沙門沼(一番大きい)を見た。再び車に乗って反対側の西入口の
    駐車場に行き、そこから母沼、父沼、柳沼、青沼、瑠璃沼、弁天沼、
    竜沼、みどろ沼、赤沼の順に歩きました。赤沼の先は最初の毘沙門沼
    になります。
    通常の全行程は片道3.6km、60分と案内書にあり、私共は赤沼まで行って
    戻りましたので、往復8km程は歩いたでしょう。
    中でも、青沼の色合い、瑠璃沼と裏磐梯がセットとなった景観が
    気に入りました。

    紅葉の季節までちょっと早く、その頃は一段と素晴らしいことでしょう。

    ・・・・・

    旅行時期
    2017年09月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    4.5

  • 五色沼から磐梯山ゴールドラインを走り、会津若松へ

    投稿日 2017年10月25日

    磐梯山ゴールドライン 裏磐梯・猫魔

    総合評価:4.0

    <会津・磐梯山巡り:2017年9月28日~30日>
    たまには小旅行もしようと会津へ。

    28日にかんぽの宿郡山(磐梯熱海)の1泊し、
    翌日は40km先の裏磐梯・五色沼見物やゴールドラインを走りました。

    紅葉はまだ少しでしたが、磐梯山の頂上も一気に赤くなりつつあるのが
    遠望できました。(紅葉には1週間から10日早かったようです)
    ゴールデンルートの眺望台から見る猪苗代湖も綺麗でした。
    五色沼から登りだし、九十九折の下り坂は結構厳しく、
    注意して走りました。
    紅葉の季節でなかった所為か、走る車両も少なかったです。

    ・・・・・

    旅行時期
    2017年09月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    4.0
    景観:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.5

  • ライン:ニーダーヴァルドの森の中にナッサオ大公が建てた狩猟の館が今は古城ホテルになっている。

    投稿日 2017年10月21日

    トップ ホテル ヤークトシュロス ニーダーヴァルト リューデスハイム

    総合評価:3.0

    “ドイツ ライン・モーゼル周遊の旅”
    2006年5月5日(金)~5月19日(金)15日間
    05.16(火)曇り後徐々に快晴 18~28℃ 、 100km(ここまで、1711km)

    Niederwaldニーダーヴァルドの展望台から森の道を散策し、対岸のフンスリュック地方
    が見える展望ポイントまで行って、引き返す。

    14:50さらに上手の森の中を車で少し走ると、初めて訪れるJagtschloss Niederwald
    ヤーグトシュロス・ニーダーバルドが出てくる。

    1764年、ナッサオ大公が狩猟の館として建てたもの。
    本館が焼失したこともあって、1929年再建され、その後、クリーム色の壁、
    灰色の屋根をもつ館は、ホテル・レストランに生まれ変わった。
    ホテルの周辺の森は自然保護地域になっているらしく、深い緑におおわれている。

    <お茶:ヤーグトシュロス・ニーダーバルドのメインレストランで>
      14:55~15:55、Euro13

    “リンゴのケーキとチーズケーキにコーヒー・紅茶” の定番で。 
    ゆったりと、気楽な一時間が過ぎた。 

    一面総ガラス張りであるレストランの窓の外は、真黄色の菜の花畑が一杯に
    広がって、素晴らしい景色だ。この景色は贅沢な事に我々だけのものだ。

    ドイツの人は日にあたるのが好きで、ホテルの玄関横のテラスでお茶に
    しているが、我々は日差しを避けて、誰もいないレストランにした。


    XXX

    旅行時期
    2006年05月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    コストパフォーマンス:
    3.0
    サービス:
    3.0
    ロケーション:
    3.0

  • ライン・ニーダーヴァルドの展望台:愛する祖国よ、平和であれ!ラインの守りはしっかりと、終始変らず!!

    投稿日 2017年10月20日

    ニーダーヴァルト記念碑 リューデスハイム

    総合評価:4.0

    “ドイツ ライン・モーゼル周遊の旅”
    2006年5月5日(金)~5月19日(金)15日間
    05.16(火)曇り後徐々に快晴 18~28℃ 、 100km(ここまで、1711km)
    シェーンブルグ城9:30出発。9:45 B9 ->Pfalz・Kaubでフェリーに乗ってライン川右岸へ。B42->40km、Ruedesheim L?->6km、Eltville Kiedrich、10:30 Kloster Eberbach見学、11:40、L?->5km 、Eltville、->9km、Geisenheim―Schloss Johannisberg 昼食(12:00~13:30)、B42・L?->10km、14:00 Niederwaldニーダーヴァルドの展望台・ゲルマニアの女神の像、14:55 Jagtschloss Niederwald、16:10 Ruedesheim見学:つぐみ横丁、16:55 B42->40km、17:20 Kaub ・Pfalzでフェリーにのってライン川左岸へ(4Euro)。 B9-> Oberwesel、17:40ホテル着。
    夕食:19:00古城ホテル シェーンブルグ城のRittersaal騎士の間

    Schloss Johannisbergヨハネスベルグ城で昼食後はB42・L?->10km、14:00 Niederwaldニーダーヴァルドの展望台へ、初めて登り、ラインの眺望を楽しむ。ここには1871年のドイツ統一(普仏戦争の末期、パリ攻略中にヴェルサイユ宮殿にて、皇帝ヴィルヘルム一世がドイツの統一とドイツ帝国の成立を宣言する。帝国初代宰相はビスマルク。)を記念して、1883年に建てられた大きな“ゲルマニアの女神の像”が立っている。

    像の下部には、【Lieb Vaterland.Magst Ruhic Sein.Fest und Treu Die Wacht.Die Wacht Am Rhein.】と読める。
    【愛する祖国よ、平和であれ!ラインの守りはしっかりと、終始変らず!!】

    台座からの高さは凡そ7m弱でしょう。晴れた空の下、剣を持った女神がライン川を見下ろしています。左右に軍神が立ち、碑文の下にはラインの男女の神が船に乗っている姿が見られる。
    ヴィルヘルム一世でしょうか、真ん中に馬に乗って、プロイセン軍(後のドイツ軍ですが)を率いた群像も碑文の上にあり、ドイツ統一とライン川の結びつきが良く分かる。

    昨春、ローマ軍団を打ち破った戦い「トイトブルグの森」で見たゲルマン軍の将軍ヘルマンの記念碑もドイツ統一を祝って作られたものでした。
    そこに刻まれた【ドイツの統一は我が強さ。我が強さはドイツの力】の言葉を今も思い出します。

    ・・・・・

    旅行時期
    2006年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    3.5
    展示内容:
    4.5

  • ミュンスター:旧市街のプリンツィパルマルクトは広場であり、通りであると言う。

    投稿日 2017年10月14日

    プリンツィパルマルクト ミュンスター

    総合評価:4.5

    2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
    2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間
    第10日:9km
    今日は一日Muensterミュンスター観光である。St. Paulus-Dom聖パウロ大聖堂とDomkammer聖堂宝物館、1540年製の天体時計、St. Lamberti-Kirche聖ランベルティ教会の塔と三つの鉄籠(叛徒の籠)、Kiepenkerl Denkmalキーペンケアル(行商人)の銅像、Rathaus市庁舎:旧参事官室のFriedenssaal平和の広間(ヴェストファーレン条約の締結)などを見て回る。

    <旧市街にあるプリンツィパルマルクトは広場であり、通りであると言う>

    ミュンスターの旧市街にあるプリンツィパルマルクトはこの町のメイン通りである。
    歴史の重みを感じさせる北方ルネッサンスの切妻つくりの建造物が、軒を連ねる町一番の商店街でもある。

    この通りは三つの鉄籠(叛徒の籠)で知られたSt. Lamberti-Kirche聖ランベルティ教会から、三十年戦争の講和条約を締結したRathaus Friedenssaal市庁舎・平和の広間、ラーツケラーのレストランがあるPfefferkorn Muensterペッパーコルン(胡椒の粒)ミュンスター前を通り、Stadthausturmシュタットハウス塔に至る通りで、マルクト(広場)と言いながら、カーブを描く通りというのも珍しく、面白い。

    但し、この地区は第二次世界大戦で猛烈な空爆を被り、9割方が破壊されている。
    驚くことに戦後、建物は破壊される以前の姿にほぼ戻された。
    戦災を免れたのは聖ランベルティ教会(1375年から1450年の間に建てられた)をはじめとしてたいへん少ないと聞く。

    ・・・・・

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    4.5
    景観:
    4.5
    人混みの少なさ:
    3.5

  • ミュンスター:侯爵家の城はミュンスター大学と変わり、4.4万人の学生が在籍する。

    投稿日 2017年10月13日

    レジデンス (シティ パレス) ミュンスター

    総合評価:4.0

    2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
    2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間
    第10日:10月23日(日)9km、午前は曇天、午後は晴れ、寒い朝3.5~9.5℃

    ≪Fuerstbischoefliche Schloss侯爵家の城とWestfaelische Wilhelms-Universitaetヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学≫

    豪華な彫像が正面を飾る侯爵家の城は1767~1787年に三つの翼を持つ建築群として建設された。St. Paulus-Dom 大聖堂と同様に典型的なBaumberger Sandsteinバウムベルク(ミュンスターラントのKreis Coesfeldコースフェルト郡)の砂岩で造られている。

    1780年創立で、第二次大戦で罹災した城は再建され、1954年よりWestfaelische Wilhelms-Universitaetヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学となった。
    4.4万人の学生が在籍する大学は15の学部に130の学科から構成されるドイツでも最も大きな総合大学のひとつになっている。
    通称は町の名をとってミュンスター大学と言うが、大学の正式名称ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学であり、ヴィルヘルムとその名を残しているのはミュンスター城をその居城としていたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世である。
    ミュンスターの人口は31万人、これに占める学生の割合が大変高い都市である。

    侯爵家の城の正面・シュロス広場は様々な催しが行われる広大な広さがある。
    この日も賑やかなゼンド(キルメス)が開かれていた。

    <Botanischer Garten大学付属植物園>
    侯爵家の城の本館左には見事な木々の並ぶ城庭園へ続く小さな門があり、かつての厩の建物辺りに植物園が19世紀後半に造られた。
    プラタナスの大木が目に付いた。

    ・・・・・・・・

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    4.0

  • ミュンスター:聖ランベルティ教会の塔と三つの鉄籠は宗教戦争の恐ろしさを伝えている。

    投稿日 2017年10月11日

    ラムベルティ教会 ミュンスター

    総合評価:4.0

    2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
    2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間
    第10日:10月23日(日)

    ≪St. Lamberti-Kirche聖ランベルティ教会の塔と三つの鉄籠(叛徒の籠)≫
    Lambertikirchplatz
    http://www.st-lamberti.de/de/

    昼食の後、やってきたのは聖ランベルティ教会(開館:9時~19時)です。
    聖ランベルティ教会は1375年から1450年の間に建てられた。
    この教会の塔にはなんと今でも塔の番人がいて、毎晩角笛を吹いて火事注意を呼びかけると云う。

    ランベルティ教会にはその塔の先に三つの鉄籠が吊られているが、そこには16世紀の半ばに洗礼派扇動者(ミュンスターの反乱)三人の遺体が入れられていたそうだ。
    宗教改革の頃、1534年ミュンスターの町を一時新教派の再洗礼派が支配した。これを旧教派のカトリックの軍隊が攻め再洗礼派の首謀者を処刑し、見せしめのためこの檻に入れて教会の塔に吊るし晒した。

    鉄籠が何処にあるか分からないので、教会の小母さんに聞いてみると、親切にも売り物の小冊子のページを開き「ここにあるよ」と指さしてくれた。

    「この小冊子2冊を貸してあげるから、持って外に出て見てごらん」と言う。
    有りがたいことに直ぐ分かった。
    小冊子を戻しに行くと、嬉しいことに教会の絵葉書1枚を頂戴してしまった。

    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    3.5
    展示内容:
    4.0

  • ミュンスターの市庁舎:旧参事官室が平和の広間と称されるのは30年戦争終結の「ヴェストファリア条約」が結ばれたからだ。

    投稿日 2017年10月09日

    市庁舎(ミュンスター) ミュンスター

    総合評価:3.5

    <三十年戦争の講和条約締結地のミュンスターの町を一日観光>
    第10日:2016年10月23日(日)9km、午前は曇天、午後は晴れ、寒い朝3.5~9.5℃

    Rathaus市庁舎:
    Friedenssaal平和の広間でヴェストファーレン条約の締結

    Prinzipalmarktプリンツィパルマルクト8 - 9
    https://www.muenster.de/stadt/tourismus/index.html
    開館:10時~16時、Euro1.5X2=3(シニア)

    ミュンスター市庁舎は14世紀半ばにできたゴシック風の建物で、第二次大戦で
    罹災したが、1950年代に特徴的な切妻屋根と共に昔通りに再建された。

    旧参事官室の平和の広間で1648年、1618年から続いた30年戦争終結の
    「ヴェストファリア条約」が結ばれた。ミュンスターにはカトリック(旧教)、
    Osnabrueckオスナブリュックにはプロテスタント(新教)が集まり夫々条約
    が結ばれた。
    この条約締結の場にはヨーロッパ諸国のほとんどが参加し、参加者の内、
    特に多いのは神聖ローマ帝国内部の領主、有力聖職者、帝国自由都市の代表で、
    使節の総数は帝国外から37、帝国内から112、計148名であった。

    平和の間では出席した歴史上の使者たちの肖像画がずらりと掲げられ、また、
    16世紀のルネサンス様式という板張の壁に紋章や見事な木彫りを見ることが出来た。

     <三十年戦争(1618~48年)>
    ドイツの旅では、この戦争が訪ねた町々の歴史にしばしば登場するので、必須の知識である。30年戦争とはドイツの国土を主戦場に旧教派のカトリックと新教派のプロテスタント、それの後ろ盾となる神聖ローマ帝国、ハプスブルク、フランス、オランダ、スペイン、スウェーデン、バイエルンなどの諸国が参戦した戦争である。
    100年前のマルティン・ルターの宗教改革に始まった新旧キリスト教徒の対立が、17世紀に入るとドイツ国内では争いが先鋭化した。新旧キリスト教徒の宗教戦争は1618年、パプスブルグ家がボヘミア(現チェコ)の新教徒を弾圧した事に端を発する。旧教派のオーストリア・スペイン・パプスブルグ家と、新教派のフランス・ブルボン王家が政治的・現実的観点からドイツ国内の其々に荷担し、更に新教派にスウェーデン王が介入するなど、国際紛争が拡大した。この戦争は新教派優勢で終わり、1648年北ドイツのMuensterミュンスター・Osnabrueckオスナブリュックで66カ国によりヴェストファリア条約が調印された。
    この間に全ドイツの人口は3分の2に減少し、国土は荒廃したと云う。この事でドイツは300もの小国家が分立する。ドイツはフランスなどに200年の遅れを生じたとされているが、反面では小国家の分立が、全ドイツの国民文化の均等な広がりを育み、今私共が旅を楽しむ町々に、その事の有りがたさを見ることができる。
    ・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    3.5
    展示内容:
    3.5

  • ミュンスターの聖パウロ大聖堂には二つの目玉がある:一つは宝物館、もう一つは1540年製の天体時計である。

    投稿日 2017年10月09日

    大聖堂(St. Paulus-Dom) ミュンスター

    総合評価:5.0

    <三十年戦争の講和条約締結地のミュンスターの町を一日観光>
    第10日:2016年10月23日(日)9km、午前は曇天、午後は晴れ、寒い朝3.5~9.5℃

    ここではナチス独裁に勇敢に立ち向かい「ミュンスターの獅子」と呼ばれた
    Clemens _Graf_von_Galenガーレン枢機卿(2005年に列福された)の事を書いている。

    見るべきものとしては聖パウロ大聖堂の二つの目玉、即ち一つは宝物館、
    もう一つは1540年製の天体時計を見物せねばならない。

    <Domkammer聖堂宝物館>
    11:40~12:35  入場券3X2=Euro6

    聖堂宝物館(開館:11時~16時)は金細工、織物芸術の傑作を集めた宝物館で、
    ヨーロッパでもっとも重要な博物館に数えられている。

    Silbernes Kopfreliquiar des Hl. Paulus 聖パウロの銀製の頭部像・・1380年頃、
    この像は宝物館のチケットに印刷されていたから、当館の目玉なのでしょう。

    Propheten Philo von Alexandrienアレクサンドリアのフィロンの胸像・・
    紀元1世紀頃のユダヤ人井哲学者、
    Reliquienkreuz 十字架1090年頃、
    Dalmatikダルマティカ・・15~6世紀のベルギー製、欧州で中世頃まで着られた
    ゆったりとしたT字型の衣類。キリスト教の法服としても使用される、
    Muttergottes聖母・・1230年頃、樫木に彫った像に銀、金メッキしたもの、

    Hl. Agnes聖アグネス・・1536年頃、銀製の作品。聖アグネスは13歳で殉教した。
    尚、ホセ・デ・リベーラ筆「聖女アグネス」の絵が残る。この絵はローマ長官の
    横暴に屈しず、見せしめとして全裸にされた時、彼女の髪の毛が伸びて全身を
    覆ったという伝説を描いたものである。左上から天使が彼女の裸体に布を
    巻いている。 ・・・・・などなど。

    ・・・・・

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    5.0

jijidarumaさん

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33国・地域渡航

12都道府県訪問

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎ82歳になりましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

最近はアジアの香港・マカオ、台湾も時に昔を思い出しつつ、また、日本の小旅行と称した旅も
最近投稿しています。
(2026.02.11.)


プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、さらにロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、戦時体制の欧州の旅は見送り続けて、2026年を迎えている。

(2026.02.11.)

行ってみたい場所

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現在33の国と地域に訪問しています

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