教育熱心であった会津藩で、「ならぬことはならぬものです」の掟は象徴的である。
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- 旅行時期:2017/09(約8年前)
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by jijidarumaさん(男性)
会津若松 クチコミ:2件
<会津・磐梯山巡り>
たまには小旅行もしようと会津へ。
会津・磐梯山巡りは第三日:
会津藩校・日新館
2017年9月30日 11:00~12:30
御薬園(おやくえん)から千葉に帰宅する前に、寄る所がある。
会津藩校・日新館がそれで、会津若松の市内・御薬園から西の郊外に走り、車で20分の距離、河東町高塚山の小高い丘の上に新しく建てたものだという。
http://www.nisshinkan.jp/
江戸時代には教育熱心であった各藩は競って藩校(例えば、萩(長州)藩・明倫館、薩摩藩・造士館、米沢藩・興譲館、岡山藩・閑谷学校、水戸藩・弘道館)を作り、その数は全国で300藩校を数えたそうです。
その中で規模・教育の内容ともに随一と謳われたのが、会津藩校・日新館です。
敷地内で最も高い天文台から見ると、藩校の敷地は東西226m、南北116mとたいへん広いもので、建物面積は合計1500坪です。
かつて鶴ヶ城の西側に藩校(1803年創建)がありましたが、戊辰の戦いで焼失した為、昭和62年(1987年)に会津の精神文化を後世に伝えるべく、復元されたそうです。
元来、「日新館の教育目標は人材の育成」というもので、会津藩は上士以上の藩士の子弟は全て入学が義務付けられました。文武の両教科を教授する総合学校には10歳になると上士子弟は日新館に入学したそうです。
生徒数は1000~1300人で、授業は朝の8時から始まり、中国の古典を素読所で学び、書学、弓道、剣道、馬術、水泳、銃・砲、医学・天文学と多岐にわたり、それは初歩から専門分野、さらに文武両道教育が実践された学校でした。
南門から入り、大成殿にいくと、近在の小学生の集団が中国風の学帽を被り、講師の先生の教えを聞きながら、孔子像の前で唱和していました。右隣の大学という建物では漫画風の絵で昔の人の鼻のかみ方、箸の使い方を分かりやすく書いています。
東西に置かれた塾には素読所があり、資料館には会津藩関係者の歴史、紀子妃殿下の家系図でご先祖が会津藩士であったことの説明、弓道場、木馬場、水練水馬場、幕末・明治記念室、武道場、天文台、砲術場などを順に巡り、西門から出る。
中には弓の体験場などもあり、合宿場も備えている。
NHKの大河ドラマ“八重の桜” で知られた「ならぬことはならぬものです」は「会津武士の子はこうあるべきだ」という象徴的な言葉でしょう。
日新館に学ぶ前に「什の掟(じゅうのおきて)」を学んだと云います。伝えられるところでは、同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子供たちは十人前後で集まりをつくっていた。この集まりのことを会津藩では「什 (じゅう)」と呼び、そのうちの年長者が一人什長(座長)となった。
毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長が「什の掟」を一つひとつ皆に申し聞かせ、全ての掟が終わると、昨日から今日にかけて「掟」に背いた者がいなかったか?と問い、背いたものには反省の罰を与えたと云う。
日新館から、会津盆地の実りが見渡せた。
XXX
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
クチコミ投稿日:2017/11/06
いいね!:7票
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