<会津・磐梯山巡り>
たまには小旅行もしようと会津へ。
会津・磐梯山巡りは第三日:
御薬園(おやくえん)と重陽閣...
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2017年9月30日 9:40~10:30
国指定名勝・会津松平氏庭園の御薬園(おやくえん)には見事な庭園と、秩父宮勢津子妃殿下ゆかりの重陽閣があると聞き及んでいたので、是非訪れてみたい所なのだ。
開園時間:8:30~17:00
鶴ヶ城の東にあり、宿泊先ホテルニューパレスからほぼ真っすぐ、車で数分と近い。
回遊式の借景園と、各種薬草を栽培する薬草園(今も400種の薬草を栽培する)で知られている。薬草園が御薬園の名前の由来になったそうだ。
元来は15世紀室町時代の守護大名、葦名盛久が霊泉の湧き出た地に自らの別荘を建てたのが始まりと伝承が残る。後に会津藩主が領民を疫病から救うために園内に薬草園を作り、朝鮮人参を試植し、その栽培を民間に広く奨励したという会津藩らしい旧跡といえる。
現在に残る庭園は17世紀後半の元禄時代に遠州風山水庭園に大改造したもので、園内の楽寿亭や御茶屋御殿の建物は、戊辰戦争時に新政府軍の傷病者の診療所となった為、戦火を免れた。
その敷地面積は約1.7haもあり、中央に心字の池を配し、池の中央に亀島があり、そこに数寄屋造りの楽寿亭が建っている。楽寿亭には戊辰戦争時につけられた刀傷もあって、歴史の生々しさに驚く。園内には泉石、灯籠、そして樅の木、杉、松、伽羅木、五葉の松などの見事な大木もあってもなかなかの景観である。
不思議に、ぐるりと庭園内を回遊すると気分も爽快になる。
庭園北西側には、戊辰戦争当時の会津藩第9代藩主(かつ最後の藩主)であった松平容保の孫にあたる秩父宮妃勢津子(1909年~1995年、享年85歳)ゆかりの重陽閣(ちょうようかく)が移築されている。
重陽閣では70代と思しき男性ボランティアの方がご案内の上、色々と説明してくださった。その説明ぶりに会津の方らしい、妃殿下に対する思い入れを感じさせるものがあった。
秩父宮妃勢津子殿下の会津訪問時に宿泊した1階は「思い出の部屋」として妃殿下来訪時の写真が拝見できた。2階は妃殿下が好んでお召し上がりになっていた紅茶・デザートなどが楽しめるそうだが、この日はそうした企画もなく、立ち入り禁止であった。
重陽閣傍に秩父宮勢津子妃殿下顕彰碑も立つ。
勢津子妃殿下は外交官の松平恆雄(後に駐英大使、駐米大使、宮内大臣、初代参議院議長を歴任)の長女でした。松平恆雄は旧会津藩主・松平容保の六男ですから、容保の孫になります。
1928年(昭和3年)9月28日、昭和天皇の皇弟・秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)との婚儀が行われる。
この婚儀には次のような話が残っている。
当時の皇室典範では、皇族の妃は皇族もしくは華族である必要があった。勢津子妃の父・恆雄の身分は松平容保の六男ながら、平民であった。父の平民籍のままでは皇族へ嫁ぐことができなかった為、一旦叔父・松平保男(松平容保の七男。子爵、海軍少将)の養女となり、華族としての身分を得てから婚儀に臨んだそうである。
維新戦争後も「逆賊」、「朝敵」として会津藩や会津藩主である松平容保は長く指弾されてきただけに、容保の孫にあたる勢津子妃の皇室への入輿(じゅよ=嫁入り)は、旧会津藩の士族、関係者にとっては大きな希望となり、その復権にも繋がったという。
今に至るも会津人の感激は並々ならぬものであったようだ。
更に言うと、秋篠宮文仁親王(あきしののみや ふみひとしんのう)の紀子(きこ)妃殿下は現天皇家にとって将来の皇統を継ぐ唯一の男子である悠仁親王(ひさひとしんのう)をご出産。将来は所謂“天皇の母”となるわけです。
妃殿下の祖先を遡ると、父方の高祖父は池上武輔(会津藩郡奉行)がおり、会津藩家中でも250石取りの上級藩士の家であったそうです。
つまりここでも、既に「朝敵」は死語となり、会津人にとっては大きな喜びが存在する。
会津を回り、会津の教育、精神を語る会津藩校の「日新館」を巡ってみると、あらためて会津藩が如何に良き人材を育てたことが分かる。
しかもそれらの人材が各界で見事な働きをしたこともよく分かる。
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投稿日:2017/11/02