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大悲願寺

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クチコミ・評判

1~9件(全9件中)

  • 立派なお寺でした

    • 4.0
    • 旅行時期:2021/12(約4年前)
    • 0

    とにかく山門が立派で、目をひくお寺でした。
    横に長い敷地のお寺でしたがお庭にはいくつもの見どころがあって、短い時間ですが...  続きを読む観光の気分も楽しませていただきました。
    御朱印を書いていただいたのですが、とても親切にしていただきました。  閉じる

    投稿日:2021/12/22

  • オレンジ色の彼岸花

    • 5.0
    • 旅行時期:2021/09(約4年前)
    • 0

    五日市街道の秋川橋から旧五日市街道に入り数分で、現れるお寺。まず、壮大な山門に圧倒され、境内の木々の太さ、正面の観音堂の風...  続きを読む格や彫刻の細やかさに圧倒され、白萩に癒されるというフルコースが味わえる。彼岸花も美しいが、大黒様の前にオレンジ色の彼岸花があり、驚いた。  閉じる

    投稿日:2021/09/20

  • 天竺山に登る途中大悲願寺に寄りました

    • 4.0
    • 旅行時期:2020/06(約6年前)
    • 0

    真言宗豊山派の一寺、開基は源頼朝家臣平山季重で、多くの文化財を有します。立派な仁王門では天井絵と仁王像が見られます。正面に...  続きを読む観音堂があります。観音堂の向拝はじめ至る所に極彩色の見事な彫刻が見られます。右手に十七世紀に造られた梵鐘、右手奥には方丈型の本堂、朱雀門等があります。境内には四国霊場八十八ケ寺のお地蔵さんが配されています。また伊達政宗が所望した白萩が本堂前にあります。見るべく物が多くあるお寺です。特に地獄と天国を表現した彫刻等極彩色の彫刻には目を見張ります。萩または桜の季節に合わせて来寺して、ゆっくりと拝観したいものです
    「日時」2020年6月17日 晴
    「アクセス」JR五日市線武蔵五日市駅より徒歩21分
      閉じる

    投稿日:2021/06/03

  • 伊達政宗も欲しがった白萩の名所

    • 3.5
    • 旅行時期:2020/05(約6年前)
    • 0

    JR五日市線武蔵増戸駅が最寄り駅。
    武蔵増戸駅出口から西へ約1.4㎞のところにある真言宗のお寺です。
    金色山吉祥院と号...  続きを読むします。
    お寺自体の説明板は見当たりませんでしたが、境内には説明板がいくつもあります。
    それらによると、本堂は元禄8年(1695)の建築(東京都指定有形文化財)、観音堂は寛政6年(1794)の建立、楼門(仁王門)は寛文9年(1669)の再建で幕末期に描かれた天井画が見事。
    また、寺は白萩で有名で、伊達政宗が白萩を所望して寺に宛てた書簡が「白萩文書」として残されています(東京都指定有形文化財)。
      閉じる

    投稿日:2020/07/27

  • 白萩でない季節はひっそりしてます

    • 3.0
    • 旅行時期:2017/11(約8年前)
    • 0

    このお寺は、9月の白萩が有名で、この時期は参拝客が大勢訪れます。
    ほかの時期の境内は、ひっそりしていて、それも趣がありま...  続きを読むす。
    お寺は開基800年という古刹。山門が風格があります。
    あたりはのどかな里山地域で、周辺を散策するのも良いです。  閉じる

    投稿日:2018/01/21

  • 花の寺

    • 4.5
    • 旅行時期:2015/09(約10年前)
    • 3

    東国花の寺百ヶ寺の一つだけあり、広い境内は花に囲まれています。
    春に行った時にはボタンが見事でした。
    真言宗豊山派です...  続きを読むので長谷寺と同じボタンですね。
    秋は白萩で有名で、本堂前はほとんど萩でした。
    お茶席があり、抹茶とお菓子でのんびりできます。
    (300円と格安です)
    御朱印を書ける方がお一人しか居ないらしく
    日曜日は法事などで頂けない事が多いですが
    書き置きはあります。  閉じる

    投稿日:2015/09/16

  • 新説の受け売り

    • 4.0
    • 旅行時期:2015/05(約11年前)
    • 0

    元々この寺と伊達政宗の関連が深いことは知られていましたが、NHK放送によればお家騒動で殺害したとされる弟をこの寺に預けたと...  続きを読むいうのです。小田原征伐の時点では嫡子もなく後継者は弟のみそれで隠したというのです、敵対したはずの実母との手紙等からもみても弟存命があるという。 サンドイッチマンの伊達くんいなかったことになる。  閉じる

    投稿日:2015/05/14

  • 仙台藩藩主伊達政宗が来たお寺

    • 3.0
    • 旅行時期:2014/11(約11年前)
    • 0

    JR五日市線の武蔵増戸駅と武蔵五日市駅の間にあり、ここが東京かと思える位里山の風景の中にある。本当にここに伊達正宗が来たそ...  続きを読むうで、ここで見た白萩の美しさに感動されたという書簡も残っている。私が行った時は11月はじめだったので、白萩はわずか2~3つしか見れませんでした。  閉じる

    投稿日:2015/04/17

  • 70歳になった時、母の遺品を調べる気になった。その中に一葉の写真があった。生前の父母からは全く聞き及んでいなかったので、ど...  続きを読むういった方か、生来の歴史好きもあって、興味を持ち調べてみたのでした。
    写真は父の大叔父にあたる井上宗助(森田家第16代秋之助の次男)という方で、旧制東京府立第八高女(現都立八潮高等学校)や東京府立第五中学校(現都立小石川高校)のいずれも第三代校長を務めた教育者(校歌の作詞家)であった。我が家は父方も母方も辿れば、祖父の代から教育者が多い。
    大叔父とそのご先祖森田将監祥昌(甲斐武田家の旧臣)、森田五水(森田家第14代、狩野派画家)を親族の語り部のいる間に調べようと、やってみると際限なく広がって行き、いろいろと興味深いものだった。
    70歳で一念発起したわけだが、纏めたものを中里介山(大菩薩峠:だいぼさつとうげの作者)の姪を母に持つ大学時代の友人が長く主宰してきた同人誌(年1回発行)に6年間(№27~32号)投稿させてもらった。

    【伊達の萩寺と称する大悲願寺で森田五水の天井絵(天女の絵)を楽しむ】

    あきる野市の大悲願寺は伊達政宗の白萩の謂れもあり、通称は「萩寺」とも呼ばれる。山門である仁王門に天井画(森田五水)の天女の絵が見られる。

    東京都あきる野市(旧西多摩郡五日市町)にある真言宗豊山派の大悲願寺は、山号は金色山、院号は吉祥院である。本尊は私共の守護仏である大日如来である。
    大悲願寺の通称は「萩寺」と云う。

    大悲願寺は建久2年(1191年)に源頼朝の命により、京都醍醐寺澄秀僧正を開山として、源平合戦で名を馳せた武将、平山季重(ヒラヤマスエシゲ)が建てたと云われています。
    大悲願寺は正平9年(1354年)には鎌倉公坊足利基氏、氏満より寺領二十石を賜り、最盛期は末寺三十二ヶ寺(常福寺は森田家の菩提寺で先祖の森田将監祥昌が建てた寺だが豊山派であり、大悲願寺の末寺になっていたと思われる)を有し、明治維新まで受け継がれた。大悲願寺は真言宗豊山派の有力な地域本寺で、「檀林(だんりん)」と言い、所謂僧侶たちの学校でもあった。

    大悲願寺の十五世秀雄は伊達政宗の舎弟と云われ、その縁で当山を訪れた政宗は境内一面に咲く白萩に心を引かれ、後日一株所望した書簡(都文化財)が現存している。現在も九月にはその白萩が境内一面花を咲かせている。

    1794年に観音堂を建立。1824年から27年にかけては観音堂内陣に欄間彫刻や向拝を追加。1834年から42年にかけても彫刻や飾り板を観音堂内陣に追加したことがわかっている。
    1951年に観音堂を改修し、屋根を茅葺きから本瓦葺きに変更。
    1978年に本堂が東京都有形文化財、1995年に観音堂が五日市町の有形文化財指定を受ける。
    2005年から2007年にかけて観音堂を半解体修理。屋根を銅板葺きに変更している。

    阿弥陀如来像や仁王門天井絵(幕末期に狩野派画家として門弟数百人を擁したという森田五水の作)、伊達政宗からの白萩所望状など、優れた文化財を数多く所蔵しており、特に、木造の伝阿弥陀三尊像は、国の重要文化財に指定されている。

    <市指定有形文化財:仁王門 天井絵(てんじょうえ)>
    この仁王門は安政六年(1859年)再建されたが、天井絵の作成も同年である。
    中央通路の格天井(こうてんじょう)は大日如来の梵字(ぼんじ)を囲んで草木の花が描かれている。一隅に「狩野養信(おさのぶ)門人藤原善信(よしのぶ)」の銘があるが、彼は現五日市小庄の人、郷土の画家である。

    また仁王像の天井には右天女、左迦陵頻伽(かりょうびんが)(極樂の鳥)が描かれている。作者は現日の出町平井千石の人*森田五水(ごすい)。彼は幕末期狩野派画家として、多摩地域に盛名があった。
    北側袖天井の雲竜図も五水の手になり、見事な筆勢である。
     昭和59年11月25日指定
       あきる野市教育委員会

    *平井の常福寺(森田家の菩提寺)に並んで建つ春日神社(日の出町平井3690)に筆塚(顕彰碑)まで建てられた法眼(ほうげん)森田五水(1791年~1874年)は、幕末期に狩野派画家として門弟数百人を擁したという。
    幼名を民次郎、諱を守順といい、僊谷堂五水とも称した。

    尚、母の一番下の妹が伊奈村の世襲名主であった石川本家に嫁いでいるが、大悲願寺は石川家累代の菩提寺である。石川本家は大悲願寺の80軒くらいあった檀家の頭で、檀頭と呼ばれた。大悲願寺の檀頭は6人のみで、檀頭の纏め役が石川本家で、非常に名誉ある地位にいたと云う。寺の建築の事などで相談があれば檀頭にし、寺に対する村人からの文句などがある時は檀頭を通して行ったそうだ。

    正月には大悲願寺住職は行列を作って檀頭の家へ年賀に行き、一般の村人は路傍に立ってその行列を拝んだと云う。
    寺には両墓制といって、遺体の投げ込み墓と檀頭の墓と住職の墓しかなかったと云う。昔の寺は皆そんなもので、要するに寺は創建者のものなのです。
    大悲願寺の山際の一番高い場所に檀頭の墓があり、石川本家の墓所は大悲願寺の累代住職の墓石隣りにあった。

    昔の寺というものは、豪族が地域支配をする時の拠点であり、同時に自分の一族の墓所も設けている。戦国時代の永禄年間(1558~70年)に森田将監祥昌が開基したといわれる常福寺(森田家の菩提寺)も同様趣旨で創建されたのだろう。

    参考引用:
    『大悲願寺と五日市の中世』石井道郎(イシイ ミチオ)
    1921年生まれ~・九州大学経済学部卒。都立五日市高校教師を経て五日市町立郷土館勤務、郷土史研究家。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    追記(最近、旅猫さんの「八王子千人同心」の旅行記にコメントしたことがあって、これに影響されて、以下を追記し、写真も投稿した):

    森田五水作の八王子千人同心組頭三木家十一代愛之助栄攄肖像画と、幕末の新選組近藤勇で有名になった天然理心流だが、その天然理心流師範であった増田蔵六肖像画は平成21年12月6日付けで八王子市の指定文化財(歴史資料)になっている。


    <天然理心流師範増田蔵六肖像画>

    天明6年(1786年)、八王子千人同心の武州多摩郡戸吹村坂本右衛門信明の子として生まれる。
    はじめは専藏と称していた。文化2年(1805年)20歳のときに、天然理心流の二代目近藤三助方昌に入門した。三助の亡き後、初代近藤内蔵之助の高弟小幡万兵衛から三術(剣術、柔術、棒術)の指南免許を受け、多くの門弟を指南した。天然理心流の実質的な継承者である。
    その後、同村の三沢家の養子となって三沢藏六と改称した。文政8年(1825年)40歳で八王子千人同心増田磯蔵の養子となり、邸内に道場を設けた。
    八王子千人同心窪田組の組頭でもある。
    明治4年(1871年)11月19日、86歳の生涯を終えた。
       
    朱塗りの長机を背にして、羽織袴に小刀を差し、脇差を左側に置いて、斜め左向き正座する姿を描いたのである。机上には、筆立てに差した2本の筆と、硯、巻物が置かれ、手前には短冊と筆が置かれている。剣術家として知られる蔵六の文人としての教養も見ることができる。やや老齢の気品にあふれ、落ち着いた表情に、藏六の人柄を見事にとらえた作品といえよう。八王子の剣術に関する歴史資料として貴重である。

    落款に「七十四翁/法眼五水寫」とあり、森田五水74歳、すなわち慶応2年(1866年)の作であることがわかる。この年、増田蔵六81歳にあたることから、80歳の慶祝の寿像として製作されたものと考えられる。
    尚、肖像画は現在も増田家に残るものだと聞く。

    ・・・・・

    <八王子千人同心組頭三木家十一代愛之助栄攄肖像画>

    千人同心組頭三木家十一代愛之助栄攄肖像画は、森田五水が66歳、安政5年、西暦1858年の時に描いた作品で、すなわち愛之助栄攄44歳の肖像画である。

    八王子千人同心組頭三木家十一代愛之助栄攄は文化12年 (1815年) 3月20日、父茂尭の三男として誕生した。天保13年 (1842年)11月、若年寄見分の長柄調練、また弘化3年(1846年) 9月の将軍上覧のための長柄調練に参加し、いずれも手当銀を下賜されている。また、愛之助は医術の心得があり、戸吹の自宅で幕末から明治にかげて医師としても活躍した。
    慶応4年(1868年)2月に隠居し、明治35年 (1902年) 4月28日に87歳で没した。

    この肖像画は、千人同心組頭を代々務めてきた三木家に伝えられたもので、九代幸光、妻津弥、十代茂尭、妻屋與、十一代栄攄の三代5名のものである。
    5名もの肖像画が残されていることは他に例がなく、夫人像が2点も含まれていることは珍しい。幕末期の千人同心組頭クラスの生活の様子を知る上で
    貴重な歴史資料である。

    (八王子市文化財年報第4号  2011.01.19.八王子市教育委員会)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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    投稿日:2025/02/17

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基本情報(地図・住所)

施設名
大悲願寺
住所
  • 東京都あきる野市横沢134
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 寺・神社・教会
登録者
アラカン さん

※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。

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