井伊の赤備え。
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- 旅行時期:2021/07(約4年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
彦根 クチコミ:8件
徳川四天王のひとりとされる井伊直政。徳川家康の腹心とも言える彼は家康同様今川家家臣の子供としてお互い複雑な幼少時代を送っている。家庭の事情めいたもので家康に仕えることとなり、その後の家康が出陣した戦いの先鋒として戦功を挙げて重臣となって行く。
井伊の赤備えと呼ばれるものは、長篠の戦に於いて武田方の武将山県昌景の朱色の軍装をまねたものとされているが、これは主君家康が武田氏の旧領である信濃と甲斐を治めるにあたり、武田家の旧臣たちを含めた軍勢を纏め、武田の兵法を引き継ぐという任務を直政に任せたことの一端でもある。徳川重臣の一翼を担う武将となった直政は、その後〝赤備え〟〝井伊の赤鬼〟という勇猛果敢な戦いぶりで戦功を挙げながら徳川家の中での立ち位置を上げて行くこととなった。
家康が上洛し豊臣秀吉に臣従すると、直政の武勇・政治的手腕を秀吉は高く評価している。その証拠に天正16(1588)年4月行われた聚楽第行幸の際には、昇殿を許される一段身分が上の公家成に該当する侍従に直政のみが任官され、徳川家中で最も高い格式の重臣となっている。しかし秀吉に心底付こうという考えは直政にはなかったようで、豊臣姓が下賜されたにも関わらず名乗らなかった記録が残っている。秀吉亡き後に起こった政治抗争では積極的に豊臣方の武将との交渉を引き受け、盟約を結ぶまでとなった黒田如水・長政父子をはじめ、黒田家を通じて豊臣恩顧の武将達も家康方に引き入れることに成功している。
関ケ原の戦いでは東軍の軍監として本多忠勝共々家康本陣に随行している。加えて反石田三成の京極高次、関一政、相良頼房らを西軍から東軍に与するよう取り込んだ。開戦時には霧の中先陣を争ったという説もあるが、現在ではそれは視界の利かない中での偶発的遭遇だったとする説が濃厚となっている。戦い終盤には島津隊に襲い掛かり、大将である島津義久にあと一歩までという距離まで近づいたところを狙撃され、足に大けがを負い落馬する。東軍の圧勝となった関ケ原の戦いだったが戦後処理に直政は大けがを負ったまま奔走し、同時に江戸幕府の基礎固めに尽力している。その功により石田三成の旧領近江佐和山18万石と官位従四位下が与えられることとなった。
佐和山藩主となった直政ではあったが関ケ原で負った戦傷が癒えないまま42歳で他界する。家督を継いだ井伊直継が幼少であったがために、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談し、直政の遺志を継いで慶長8(1603)年に琵琶湖に面した金亀山に彦根城の築城を開始した。
その後幾多の変遷はあったものの彦根は城下町として明治維新まで繁栄した。廃藩置県でも壊されずに残った彦根城天守閣は、第二次世界大戦の戦火も受けず江戸時代に建立されたままの姿を今に伝えている。
実際のところ井伊直政が彦根に関わったのは2年に満たない短い期間であった。しかしその後に佐和山・彦根藩主となった直勝・直孝兄弟にその思いは継がれて行き、ライフラインの整備や諸産業の活性化に努め、彦根城完成後間もない間に現在の城下町の基礎が出来上がったとされている。
駅前の井伊直政公像は像の如く〝勇敢な戦いっぷり〟で認められ、彦根が拓ける基礎を作ったとする意見によるものだと聞いた。謂れはともかく彦根駅のランドマークとして〝井伊の赤鬼〟が建立されていることからも、民衆から慕われたお殿様だったことを確信するものであった
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 彦根駅前。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 像目的の者には会わなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 周辺も舗装してあった。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 井伊の赤鬼そのものだった。
クチコミ投稿日:2021/07/29
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