廃少菩提寺跡
名所・史跡
3.21
クチコミ・評判
1~2件(全2件中)
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兵火により廃寺となってしまった。
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- 旅行時期:2021/08(約4年前)
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湖南市菩提寺の集落にある廃少菩提寺。栗東にある金勝寺の旧称が大菩提寺であることによって名付けられたものだと伝わる。開祖の良... 続きを読む辨上人は聖武天皇勅願を受けて少菩提寺を作ったとされているが、我が街石山のランドマーク石山寺の建立に携わったことの方が有名である。
天台宗系の寺院として戦国時代末期には、武将の争いの巻き添えとなり、織田信長の近江攻めの際に敗れた近江守護大名の六角氏が退路を確保するために道中に火を放ち逃亡の時間稼ぎをしたとされている。その際火をかけられた少菩提寺も例に漏れず全ての遺構が消失している。それに加えて湖南エリアに強く影響していた石仏信仰にも翳りが見え始めていたと言われており、煤塵と化した少菩提寺は再興されることもなく廃寺となり現在に至っている。
現在では石塔や石仏地蔵等が接近して残っているために当時の規模を知る由もないが、少し山歩きをすれば他の石仏・石塔があり、阿弥陀堂跡地には菩提禅寺が建立されていることなどから、それなりの広さがあったことが理解できよう。
また比叡山と敵対した織田信長が火を放ったとするものも散見するが、甲賀・湖南エリアに限って言えば天台宗に属してはいても反信長の立場を貫き僧兵を抱えていた大寺院以外を攻めた記録が残っていない。特に少菩提寺が消失したと伝わる元亀元(1570)年には金ヶ崎の戦いに於いて朝倉義景に織田信長が敗れた報を受け挙兵するが、野洲河原の戦いに於いて柴田勝家率いる織田軍に敗北し、その際に追撃を受けないようにとの理由から、六角勢が街道沿いの集落や寺院に火をかけたという説が理に叶っている。その後も六角勢は反信長の立場を貫くも連戦連敗では仕方がない。その結果焼失した少菩提寺は再建されることもなく廃寺となったまま現在に至っている。
廃少菩提寺跡に残る遺物の制作年代がある程度決まった時期であれば、衰退した時期も特定できるのだが、三体の地蔵尊の奥に位置する閻魔像は江戸時代の作と言われる様に廃寺になった後に建立されたものもある。この辺りをどう解釈するかは人によりけりだと思うが、自分なりの歴史解釈をしながら巡ることも一興だと私には思える場所であった。 閉じる投稿日:2021/08/27
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多宝塔と石造り地蔵尊が残っています!!
- 3.0
- 旅行時期:2014/09(約11年前)
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基本情報(地図・住所・アクセス)
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