成田にある麻賀多神社(まかたじんじゃ)は台方の大宮と船形にある澳津宮(おきつみや)がある。
- 4.0
- 旅行時期:2023/01(約3年前)
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by jijidarumaさん(男性)
成田 クチコミ:7件
2023年の初詣は混雑も無く、気軽にという基準で調べた結果、成田にある麻賀多神社(まかたじんじゃ:台方の大宮殿(おおみやでん)と船形にある澳津宮(おきつみや)=奥宮(おくのみや)の2社を孫娘と共に初詣に訪れた。
最初に申しあげると、タイトルにあるように「成田にある麻賀多神社(まかたじんじゃ:台方の大宮殿と船形にある澳津宮)の2社」を訪れた。
最初に総本社の台方、次に澳津宮である船形の麻賀多神社を初詣した。
4Traで口コミのスポットを探すと、妙なことに船形の場所が台方としての概要説明などが登録されていた。
口コミを投稿した方が、間違って登録したようで、その後も誰も訂正をしておらず、十数名が台方訪問の口コミを船形の場所に投稿していた。
それで、最初の方に訂正を依頼したが、反応も無く、事務局に2社の訂正依頼した。漸く、台方の方が訂正されたが、船形はそのままである。
止む無く、台方と船形の2神社の口コミを書いた。
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2023年1月2日
【台方・麻賀多神社(だいかた・まかたじんじゃ)】
千葉県成田市台方1番地
Tel:0476-28-5736
https://makata-jinja.com/
麻賀多神社は、千葉県成田市台方にある神社である。式内社で、旧社格は郷社、「麻賀多十八社」の総本社、ご本家になる。
全国的に見ても、他所に見られない珍しい名前の神社は、印旛沼の東側から南にかけてにのみ存在する神社である。
印旛郡市である成田市に台方、船形の2社、佐倉市に11社と多く、富里市に2社、八代市に1社、酒々井町には2社あり、総計18社である。
この珍しい麻賀多神社については、ほとんど知らなかったのだが、正月早々に実に興味深いお詣りが出来た。印旛国造(いんばのくにのみやつこ)・伊都許利命(いつこりのみこと)と言う名前もこの初詣ですごく身近になったのだ。
<台方・船形の麻賀多神社の歴史>
社伝によれば、景行天皇42年(西暦112年)6月晦日、東征中の日本建尊(やまとたけるのみこと)が当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡を印旛国魂澳津鏡(インバノクニタマオキツカガミ)と崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源であると云う。
応神天皇20年(西暦289年)、神八井耳命(かんやいみみのみこと)の8世の子孫である印旛国造(いんばのくにのみやつこ:当時の大和朝廷の地方長官)・伊都許利命(いつこりのみこと)が現在の成田市船形手黒に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命=稚日女尊(わかひるめのみこと:機織りの神)を祀った。
また、伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として雅産靈命=和久産巣日神(わかむすびのみこと:穀物の生育を司る神、五穀・養蚕の神)を併せ祀った。
この2神は「真賀多真(まかたま)=勾玉(まがたま)の大神(おおかみ)」と呼ばれた。
推古天皇16年(西暦570年頃)、伊都許利命の8世の子孫の広鋤手黒彦命(ひろすきてぐろのみこと)が、神命により現在の成田市台方稷山(あわやま)に雅産靈命(わかむすびのみこと)を遷座し、それまでの船形手黒の社殿を澳津宮(おきつみや)とした。
尚、台方・麻賀多神社から北方1kmのところに澳津宮(船形・麻賀多神社)があり、伊津許利命の噴墓(後述)が残っている。
延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真(まかたま)」が三種の神器の1つと同名であるとして、1字取って「真賀多神社(まかたじんじゃ)」に改称した。
後に、一帯が麻の産地であることから麻賀多神社に社名を改めた。
台方・麻賀多神社の社紋は麻の葉をデザインされており、最近まで赤ちゃんの産衣(うぶぎ)に麻の葉を入れて健やかなる成長を祈願したと云う。
つまり、永く子供の守り神として信仰されてきた。
平安時代に編修された延喜式神名帳に2社とも記載されている延喜式内社であり、近郷5村(台方だいかた・大袋おおぶくろ・下方しもかた?・伊篠いじの・飯仲いいなか)の総鎮守として祀られ、明治4年には郷社に列格している。
この地方住民の崇敬が特に篤く、平安時代からの千葉の豪族・千葉氏を始め江戸期の佐倉藩主等によって数回にわたって御社殿が造営された。
麻賀多神社の大杉(昭和10年県指定天然記念物)は推古天皇の時代に植樹されたとされ、約1400年近くの樹齢を持つ東日本一の大杉である。
御神木の大杉は太さ8m、高さ40m余りとされている。
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2023年1月3日
【船形・麻賀多神社まかたじんじゃ】
千葉県成田市船形834
千葉県成田市ニュータウンにあり、印旛沼の東1kmほどの船形にある神社である。総本社、ご本家である台方・麻賀多神社から北方1kmのところに船形・麻賀多神社(澳津宮(おきつみや)があり、社殿を造営した印旛国造(いんばのくにのみやつこ:当時の大和朝廷の地方長官)・伊都許利命(いつこりのみこと)の噴墓(後述)が神域に残っている。
伊都許利命の方形の古墳は公津原古墳群(こうづはらこふんぐん:39号墳 分墳)と、現在は号数で称されている。
成田市の公津(こうづ)は神津(こうづ=神の港)の転語と思われ、船形の地名もその辺から称したと思われる。従って、昔は印旛沼がもっと近かったのだろう。
成田市ニュータウン内には公津原古墳群のように古墳も多く、住宅開発時に貝塚も出たそうで、当時の人々が住むには適した地域だったのでしょう。
境内左手奥に、御神木の大杉がある。
御神木の大杉は樹齢650年(台方の大杉の方がずっと古いが)と、なかなかの雄姿を示している。周囲の太さ6m、高さ約40mで、台方の御神木より周囲は2m細い。台方もそうだったが、周辺の森は明るい。
船形・麻賀多神社の社紋(神紋)は麻の葉ではなく、巴紋(特に三つ巴)でした。
境内の参道を戻ると、左手に古墳(伝伊都許利命の墳墓)案内がある。そこには岩屋らしき穴(広さ約5㎡)があり、直刀、金環、鎧片等を納めてあった石棺がある。
伝伊都許利命墳墓は東西辺約35m、南北辺約36m、高さ約5mの方墳である。
南辺の中央部に凝灰質軟砂岩製の横穴式石室が開口している。また、2段築成された西辺のテラス状部分に箱式石棺が1基発見され、一部が露出している。石材は絹雲母片岩である。つまり、2基の遺跡があった。
文久4年(1864年)に大木の根元から発見された鏡と玉は、麻賀多神社に伝えられている。7世紀代に築造された古墳と考えられる。(麻賀多神社)
この時は墳墓の左手から古墳(周囲120m、高さ7m)方形墳上に登ったが、実際は道路際に表示板や石段があり、そこから参詣する形になっていた。
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成田で歴史勉強をした2日間、興味深い麻賀多神社や、ニュータウン内でよく見かける公津原古墳群、神社と合体したような謂れのある39号墳(方墳)を孫娘と訪れる事が出来て、今年は良き初詣となった。
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
クチコミ投稿日:2023/02/09
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