nichiさんのクチコミ(37ページ)全2,220件
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投稿日 2021年02月16日
総合評価:4.5
宿泊する際、チェックインまで時間があったので、ココでお茶しました。
海が一望できる、オープンエアのスペースです。
まだランチを召し上がってるお客様もいらっしゃいます。
ココでシニア夫婦2人、ウェルカムドリンクとしてホットコーヒーをご馳走になりました。- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 利用形態
- その他
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投稿日 2021年02月16日
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投稿日 2021年02月14日
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投稿日 2021年02月14日
総合評価:3.5
昔々湘南のドライブがてら訪れた場所です。
三島大社の分霊であるこの神社には古い歴史があります。
永暦元年(1160年)、平治の乱に敗れ伊豆に流された源頼朝公は、三嶋明神に源氏の再興を祈願しました。
治承4年(1180年)、平家打倒の為、頼朝は旗挙げに成功し、元暦2年(1185年)に源氏を打ち破りました。頼朝は、鎌倉に三嶋明神の御分霊を、鎌倉に近いこの葉山の聖地に歓請しました。
それだけ古~い神社なんです。
後の鎌倉幕府は末永くこの神社を大切にし、歴代将軍は自らこの地を訪れ、流鏑馬、笠懸、相撲などの武事を行ったといいます。
その様子は「吾妻鏡」に記されています。
「吾妻鏡」は大学の頃、文学部でもないのに一般教養で選択した授業の一つ。
18歳の頃は難しくてこの授業を選択したことに後悔した覚えがありますが、今となっては基本的なことしか覚えていませんがいい思い出です。
「吾妻鏡」は鎌倉時代の歴史書で、徳川家康も愛読書だったようです。
その後、この森戸神社は、北条、足利、徳川にも大切にされたようです。- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
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投稿日 2021年02月14日
総合評価:3.5
billsは、二子玉川と表参道、そしてココ七里ガ浜で行ったことがありますが、七里ガ浜が一番好きです。
オーストラリアやハワイのbillsは行ったことがありません。
久々に七里ガ浜のbillsに訪れましたが、以前ほどの混雑ではありませんでした。
リコッタパンケーキをオーダー。
billsの定番です。
フレッシュバナナとハニーコームバターと一緒に戴きます。
メニューは各自のスマホでQRコードを読み込むタイプに変わっていましたが、
昔と変わらぬ雰囲気で同じ味で安心しました。- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 利用形態
- 朝食
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子供のころから何度も訪れている長谷寺、季節ごとにその表情を変える素敵なお寺です。
投稿日 2021年02月11日
総合評価:4.5
入口にあるのは、「門かぶりの松」が有名な山門です。
大きな提灯も特徴的です。
入場料は400円。
736年開創の古~いお寺です。
鎌倉の前の平安の前の奈良時代ですね~
聖武天皇の頃かな?
アジサイが綺麗なお寺で、6月は激混みのお寺です。
お寺に入って最初に現れるのが放生池。
多くの鯉が悠々と泳いでいます。
どれも高そう、、、、
長谷寺の中は広く、四季折々の花が咲いています。
季節毎に違う顔を見せてくれます。
自然の景色を凝縮して創られる池泉庭園と言う庭園の様式ですね。
山があり川がある庭です。
階段を登って行くと鐘楼があります。
1264年鋳造の鐘です。
鎌倉時代ですね。
本物は宝物館に展示されていてココにあるのは昭和59年の新しい鐘です。
それまではこの鎌倉時代の鐘が時を知らせる鐘として現役で毎日突かれていたんですね。
ひえ~~~
阿弥陀堂は、源頼朝が自身の42歳の厄除けのために建立したもの。
よって「厄除阿弥陀」言います。
ココに安置されている像は、もともと長谷寺で造立されたものではなく、同じ鎌倉の誓願寺(現廃寺)の本尊であったということです。
高さ2.8mの阿弥陀如来像です。
で、ココの木魚がデカい!
横幅105㎝の日本最大の木魚です。
直径約270㎝の原木から造られたんですね。
製作日数は8年以上かかったようです。
音を聞いてみたい。
その奥には、このお寺のメインの観音堂があります。
関東大震災で倒壊し、60年以上経った昭和61年に鉄筋で再建された建物です。
安置されているのは長谷観音。
本尊の十一面観音菩薩です。
高さ9.18mで、日本最大級の木彫仏です。
このご本尊は、この寺が創建された736年の像ではないようですが、少なくとも室町時代まで遡ることができるようです。
つまり、いつ製作されたかは正確には判らないんですね。
その奥の展望台からは、相模湾を見渡すことができます。- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
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投稿日 2021年02月07日
総合評価:4.0
入場料は300円
前は200円だったような??
いつ値上がりしたんだろう?
中に入って左に曲がると
バーーーーン!!
正面に大仏様。
朝一で訪れると、右側から朝日が大仏様に当たっています。
ココに来るといつも神秘的な「気」を感じます。
これは日本では島根県の出雲大社、カトリック築地教会、奈良の法隆寺。
海外ではイタリアのアシジのサン・フランチェスコ大聖堂、バチカンのシスティーナ礼拝堂、パリのサントシャペル、ペルーのマチュピチュの遺跡、インドのバラナシで感じたことがあります。
謎が多い鎌倉の大仏様。
阿弥陀如来です。
1252年に建立され始め、1243年に開眼供養が行われています。
鎌倉中期ですね。
鎌倉幕府によって建立されましたが、何のために造られたかはいまだにわかっていません。
大仏は、最初は木造だったようです。
この9年後。金銅の大仏が造り始められました。
木造の大仏が津波で壊れた説や、木造の大仏は金銅の大仏の鋳型だったとい
う説などがあります。
その後、大仏の完成まで、かなりの年月がかかったようですが、金銅の大仏が完成した年はわかっていません。
これも大仏の謎の一つです。
高さは台座を含めて13.35m。
大仏様は仏身高 11.31m。
ちなみに奈良の大仏様は14.98mですから奈良の方が大きいですね。
元々は奈良と同じように大仏殿があり、建物の中に鎮座していた大仏様です。
「明応の大地震」1498年(明応7年)による地震と津波で大仏殿は倒壊し流されてしまったようで、その後は再建されていません。
室町時代にはすでに今のように野ざらしの大仏様だったことが記録に残っています。121トンと重い大仏様は、建物が台風や津波で流されても、大地震で倒壊しても、微動だにしなかったんですね。
境内には「大仏様の草鞋」があります。
長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgもあります。
1951年、「大仏様に日本中を行脚し、万民を幸せにしていただきたい」と願う、茨城県久慈郡(現常陸太田市松栄町)の子供達によって始められました。
3年に一度巨大な草履が高徳院に寄進されています。- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
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投稿日 2021年02月07日
総合評価:3.5
メニューの頭に、このレトロ喫茶「トエム」の店名の由来が記してありました。
このお店の店主の家は、代々横須賀で漁師を営んでいましたが、店主が継げば5代目だったとのこと。
結局喫茶店を開くことになり、漁師の屋号である「トエム」を付けた「喫茶トエムを開店。
トエムと言う屋号は、先祖である赤穂戸衛門(あこうとえもん)から来ているとのことです。
魚貝の出汁が効いた「だし巻き卵サンド」
そそられる。。。。
パンが器になっているグラタントーストも懐かしいですね。- 旅行時期
- 2020年02月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 利用形態
- その他
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投稿日 2021年02月05日
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投稿日 2021年02月05日
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城ヶ島西端の長津呂崎にある灯台。 標高約 30 m の崖上にある灯台ですので、広い太平洋を見渡すことができます。
投稿日 2021年02月05日
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投稿日 2021年02月05日
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みうら・みさき海の駅の真向かいにあるマグロ料理で有名なお店です。
投稿日 2021年02月05日
総合評価:4.0
人気店なので、混んでいて密になるようでしたらお店に入るのを避けるつもりでしたが、時間が遅かったせいか、ガラガラでした。
スタッフさんが元気が良く、気持ちいいです。
釜揚げしらすまぐろ丼 1400円を夫婦で戴きました。
メッチャ美味しかったです。
今度はマグロステーキを戴きたいと思います。- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人当たり予算
- 1,500円未満
- 利用形態
- ランチ
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投稿日 2021年02月04日
総合評価:4.5
創建は1782年(天明2年)。
このお稲荷さんの見所は?
見事な欄間の彫刻です。
見事です。
建物の中の格子天井にビックリしその見事な彫刻にウットリします。
屋根には恵比寿様と大黒様。
浦賀の村が干鰯で繁栄したことを物語っています。- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
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投稿日 2021年02月04日
総合評価:4.0
家内が、
「左右の狛犬が両方とも口が閉じてるね?」
と言ったことにハッとしました。
つまり阿吽の吽ですよね?
家内は思わずその場でスマホでググりました。
で判ったことが、叶神社は東西で一対なんですね。
西叶神社の狛犬は左右共に口をあいている阿吽の阿!
失敗した~~~
さっき西叶神社に行った時、狛犬見なかった~~~
夫婦で撮った写真を見直しましたが、西叶神社で撮った写真に狛犬は写っていませんでした。
残念。。。。。
でもこの事実、面白いっすね~~~
二つの東西の叶神社のそれぞれのお守りが揃うと「一つのお守り」になるようです。
お守りには、東西の叶神社それぞれ勾玉が入っているのですが、西の勾玉を東のお守り袋に入れることによって、初めて縁結びのお守りとしてのご利益が授与されるとのことです。
咸臨丸がココ浦賀で修理される間、勝海舟は断食をしました。
咸臨丸で無事にアメリカに渡れるようにとの願いを込めての断食でした。
その間はこの神社の井戸の水しか口にしなかったようです。- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
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投稿日 2021年02月04日
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浦賀に奉行所が置かれてまもない享保10年(1725年)ごろからある渡し船なんですね。
投稿日 2021年02月04日
総合評価:4.5
乗船料は大人200円 小中学生100円 自転車50円
12時から13時は昼休み。
桟橋に船がいないときはボタンを押すと対岸からやってくるようです。
愛宕丸と言う小さな船で、定員は13名。
西浦賀から東浦賀に乗ってみました。
乗船料200円×2名分は船内でお支払いします。
そもそもこの渡し船は、浦賀に奉行所が置かれてまもない享保10年(1725年)ごろからあるようです。
浦賀湾は、陸地に深く切り込んだ形であることから、江戸時代の東西浦賀村分村後の陸上交通は大変不便でした。
渡船の航路は「浦賀海道」と名付けられ、全国でも珍しい水上の市道(2073号線)です。
この船は公道ならぬ公海道なんですね。
乗船後約3分で東浦賀に到着しました。
渡船(渡し船)の歴史は古く、渡船を修復する際、周辺の村も東西の浦賀村と応分の協力をしていたようです。
当時の船頭の生活は、東西浦賀村の一軒あたり米六合で支えられていました。- 旅行時期
- 2020年11月
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投稿日 2021年02月03日
総合評価:3.5
ペリーの浦賀来航の際に交渉にあたった浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が1891年(明治24年)に建立された場所を、公園として整備したものです。
急階段を登って行きます。
最初に現れるのが、咸臨丸出航の碑。
1860年(安政7年)幕府は日米通商友好条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする使節団をワシントンに送ることにしました。
幕府は万が一の事故に備えて、軍艦奉行木村摂津守を指揮官に、勝麟太郎以下90名の日本人乗組員で運航する咸臨丸を従わせることにしました。
咸臨丸はココ浦賀で2日間航海準備を行い、浦賀港を出港。
39日後、無事にサンフランシスコに入港し、大任を果たしています。
碑の裏側には乗組員の名前。
奉行従者として福沢諭吉の名前がもありました。
さらに登ると中島三郎助招魂碑がありました。
明治24年に建てられました。
篆額は戊辰戦争を一緒に戦った榎本武明の筆です。
榎本武明の筆と言われても文字が見えない。
と言うか文字が見えても達筆すぎて読めないと思います。
浦賀のスーパースター 与力中島三郎助。
父も浦賀奉行所の与力だった中島三郎助。
浦賀への黒船来航時、応接掛けとして折衝の任にあたり敏腕ぶりを発揮。
ここで黒船に乗船し館内を調べて回った経験があります。
翌年、幕府が初めて西洋式の軍艦「鳳凰丸」を建造する際、その建造主任になっています。
西洋式の軍艦の必要性を何度も幕府に進言した結果のようです。
更にその翌年、勝海舟や榎本武揚と共に長崎海軍伝習所に派遣され、造船術を学びます。
その後は浦賀で咸臨丸の修理などを行い、造船・操船の第一人者として活躍しました。
大政奉還で、150年の歴史がある浦賀奉行所も廃止。
与力や同心、みんな離職。
中島三郎助は、主君徳川の為、榎本武揚と共に幕府軍として戦い、中島三郎助は箱根の五稜郭で戦死しています。生き残っていれば、榎本武揚お共に明治政府の要人になっていた可能性もあったかもしれません。
しかし、自らの命を投げ出して徳川のために戦うことを選んでいます。
強い意思のもと、中島三郎助は旧幕府軍に加わったんですね。
たまたま一与力であった中島三郎助は、幕末から明治維新と言う激動の時代で、開国の舞台の日本中から注目を浴びた浦賀で大変な経験をします。
そして地元浦賀をこよなく愛した中島三郎助。
今でも浦賀の人々に愛されているんですね。
頂上近くには、与謝野鉄幹、晶子夫妻が観音崎、浦賀、久里浜を吟行した際に詠んだ句の歌碑がありました。
黒船を 怖れし世など なきごとし 浦賀に見るは すべて黒船 寛
春寒し 造船所こそ 悲しけれ 浦賀の町に 黒き鞘懸く 晶子
奥様の与謝野晶子の俳句、格好いいですね。
俳句ブームの今、夏井いつき先生の感想を聞きたい!!
頂上近くからは、浦賀湾ではなく、外海が良く見えました。- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
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元来は叶神社ですが、東叶神社があるため、区別の為に西叶神社と呼ばれているようです。
投稿日 2021年02月03日
総合評価:3.5
京都神護寺の文覚上人が源氏の再興を祈願して石清水八幡宮を勧請して造られた神社です。
叶神社
変わった名前だな~と思っていたら、文覚上人が当時の平家の横暴ぶりに憤って平家の滅亡を願い、その願いが叶ったことにより「叶明神」の称号が与えられ、叶神社となったようです。
平家滅亡の願いが叶ったから叶神社ね~~~
1692年(元禄5年)江戸幕府の行政政策によって、浦賀は東西の村に分けられました。
対岸の東側の村も同じご信徳を仰ぎたいということで分霊祭祀、東叶神社が生まれました。
社殿は1842年(天保13年)に再建されました。
水野忠邦が天保の改革を行った頃ですね。
このお寺の社殿のこの彫刻を施したのが、千葉の安房の代表的彫刻師、後藤利兵衛義光です。
この叶神社の彫刻は、彼の生涯を通しての最高作云われ、彼の出世作となっています。
見事です。- 旅行時期
- 2020年12月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
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投稿日 2021年02月03日
総合評価:4.5
ココは浦賀のコミュニティーセンターで、地元の方のための施設です。
この日もお年寄りが集まって、何かのセミナーがスタートするところでした。
この建物の2階にある浦賀奉行所や浦賀のヒーロー中島三郎助の資料やペリー艦隊の資料展示を拝見するのが目的でした。
入口の受付で、浦賀の歴史の展示を見に来た旅行者だと伝えると、地元のヒーローである中島三郎助の資料と、「歴史のまち・浦賀」と言うブロッシャーを頂き、展示してある2階に案内してくださいました。
この2つのブロッシャーは、手作り感満載で読み応えがあり、私達夫婦は浦賀について勉強することができました。
思ったより資料や展示が充実しており、先ほど頂いたブロッシャーを読みながらじっくり拝
見しました。
浦賀を彩った英雄たち。
早々たる方々が並んでます。
まずは勝海舟。
これはよく判ります。
咸臨丸は、1860年(安政7年)浦賀港を出港して37日間の航海の後、サンフランシスコに渡っています。
但し、出航前に勝海舟がココ浦賀の東叶神社の山中で航海の安全を祈願し、断食したことは知りませんでした。
後ほど、この東叶神社に寄って見ることにしました。
次は吉田松陰、
何で吉田松陰?
ペリー来航時、東浦賀にあった旅籠徳田屋で、佐久間象山に会っているとのこと。
そっか~~~
ペリー来航時に吉田松陰が師である佐久間象山に会っていたのは覚えていましたが、それは浦賀だったんですね。
榎本武揚?
何で榎本武揚?
榎本武揚と言えば、戊辰戦争で旧幕府軍を率いて新政府軍と戦い、明治政府では新政府に加わり様々な大臣を歴任した、元は幕臣の武士で政治家になって海軍中将になった方です。
NHKの大河ドラマ「八重の桜」で山口馬木也が演じていました。
浦賀船渠の設立に尽力したんですね。
知らなかった~
浦賀船渠は、後の浦賀ドッグの前身です。
澁澤栄一も?
浦賀造船所(浦賀船渠)の再建を行っていたんですね。
これも知らなかった~
そもそも浦賀には、9000年前から人が住んでいたことが、貝塚や遺跡で判っています。
鎌倉時代、この地を治めていた三浦一族にとってこの地は重要な湊になっています。
戦国時代には、後北条氏が浦賀城を築いています。
これで、浦賀には船大工や鍛冶屋が集まるようになりました。
江戸時代、三浦半島は天領でした。
家康は、浦賀の湊を貿易港にしようと思い、英国人ウィリアムス・アダムス(三浦按針)に領地を与え、按針は浦賀に居を構えスペイン船などを誘致して、貿易を行いました。
期間は10年ほどでしたが、6隻のスペイン船が来航し、当時浦賀に教会が造られた事実が残っています。
江戸初期、紀州から鰯を求めて多くの漁船が関東にやってきました。
食用ではありません。
この当時に近畿地方で盛んになった綿花の栽培に肥料として最適だった鰯を干した干鰯(ほしか)を求めていたからです。
その後東浦賀には干鰯問屋が生まれ、多くの浦賀の干鰯問屋が存在した浦賀は、全国の干鰯の商いを独占するまでに至りました。
江戸の街がドンドン発展し、江戸に入ってくる物資が増え、下田の奉行所だけでは統制できなくなり、幕府は1720年(享保5年)浦賀に奉行所を設置しました。
徳川吉宗の時代ですね。
江戸へ出入りする船を全て検査する「船改め」の任務は、105軒の廻船問屋が請け負っていました。
江戸時代後期には多くの異国船が訪れるようになり、海防と応接の任務を担っていた浦賀奉行所でした。
鎖国状態であった日本に対し、開国を要求してくる諸外国に対し、幕府は、会津藩に相模、と白河藩に房総の異国船防御を命じます。
可愛そうですね~~~
何で福島から来てこんなことやんなきゃいけないの~?
で、ココ三浦半島は会津領地にあった時期があります。
会津はココ相州に500人を派遣。
海に3か所(観音崎、平根山、城ヶ島)の台場、2か所(鴨居、三崎)に藩校を造ったとのことです。
会津藩が江戸湾警備をやらされたことは知っていましたが、台場や藩校のことは知りませんでした。
中途位半端にしか知らなかった自分の歴史認識と色々繋がって面白い!
会津藩士の墓地が三浦半島にあるぐらいなんですね。。。。。
さあペリーがやってきました!
1853年(嘉永6年)久里浜海岸で国書を受け取り、翌年には横浜で日米和親条約が結ばれています。
この開国までの経緯は、私達が住む家のすぐ近くにある横浜開港御記念館で詳しい資料を見ることができます。
浦賀のスーパースター 与力中島三郎助。
父も浦賀奉行所の与力だった中島三郎助。
浦賀への黒船来航時、応接掛けとして折衝の任にあたり敏腕ぶりを発揮。
ここで黒船に乗船し館内を調べて回った経験があります。
翌年、幕府が初めて西洋式の軍艦「鳳凰丸」を建造する際、その建造主任になっています。
西洋式の軍艦の必要性を何度も幕府に進言した結果のようです。
更にその翌年、勝海舟や榎本武揚と共に長崎海軍伝習所に派遣され、造船術を学びます。
その後は浦賀で咸臨丸の修理などを行い、造船・操船の第一人者として活躍しました。
大政奉還で、150年の歴史がある浦賀奉行所も廃止。
与力や同心、みんな離職。
中島三郎助は、主君徳川の為、榎本武揚と共に幕府軍として戦い、中島三郎助は箱根の五稜郭で戦死しています。生き残っていれば、榎本武揚お共に明治政府の要人になっていた可能性もあったかもしれません。
しかし、自らの命を投げ出して徳川のために戦うことを選んでいます。
強い意思のもと、中島三郎助は旧幕府軍に加わったんですね。
たまたま一与力であった中島三郎助は、幕末から明治維新と言う激動の時代で、開国の舞台の日本中から注目を浴びた浦賀で大変な経験をします。
そして地元浦賀をこよなく愛した中島三郎助。
今でも浦賀の人々に愛されているんですね。
江戸時代に湊町として栄えた浦賀。
全国から多くの廻船が寄港し、商家と土蔵が立ち並び、賑やかで豊かな街が形成されていきました。
東浦賀に多くの街ができ、街ごとに自治組織が出来て、祭礼が執り行われました。
この後、東浦賀の街を歩いていて思ったのですが、至る所に街ごとの町内会館がありました。
遊郭もあり、相撲や芝居の興業も行われたようです。
高い教養を持つ文化人も輩出しています。
下田で江戸に入る船のチェックに限界が来た時、船の荷物や乗組員の検査を船番所を浦賀に移すことになりました。
しかし大部分の土地が役所のものになることになり、干鰯問屋をはじめ東浦賀の人々は猛反対。
幕府に書面提出、叶神社に反対祈願、大山(伊勢原)に反対願。
等の動きを起こしました。
幕府はこれで東浦賀の設置を諦め、西浦賀に奉行所と船番所を設置しました。
叶神社にも後ほど訪れました。
浦賀は細長い湾を挟んで東浦賀と西浦賀に分かれています。
元々は東浦賀が干鰯問屋を中心に発達していました。
東浦賀にはお金持ちも多かったようです。
東浦賀を支えていた干鰯商売が繁栄すると、千葉(上総国)勝浦村の一郎左衛門が運上金(営業税)200両と幕府が負担していた燈明堂(菜種油で灯された灯台)にかかる費用を全額負担する条件で西浦賀で商売したいと願い出ます。
東浦賀の干鰯問屋を中心に村は猛反対!
西側のみで営業することに許可は出ましたが、これで浦賀は東浦賀と西浦賀に分断されました。
明治3年(1870年)東浦賀と西浦賀が合併し浦賀村になりました。
東西の浦賀に分かれ、178年目だったそうです。- 旅行時期
- 2020年11月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)














































































































































































