たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(18ページ)全1,854件
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- 基本情報
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投稿日 2020年08月11日
総合評価:5.0
信楽高原鉄道玉桂寺前駅近くにある秋葉山十輪院玉桂寺。第47代淳仁天皇が平城京の北京として造営した保良宮に建築したとして開基であると寺伝には書かれている。
その後空海弘法大師によって、保良宮跡地に現在の玉桂寺の基礎が開かれることとなり、以来ご本尊を弘法大師としつつ現在に至っている。
寺宝や仏像には由緒あるものが多数あり、旧蔵の重要文化財であった京都国立博物館に寄託していた木造阿弥陀如来立像は、調査により鎌倉時代建暦2(1212)年に作られ、像内の願文により浄土宗の祖法然の弟子であった源智が、師の一周忌に際して発願したものであることが判明している。また同じく像内に残されていた結縁交名から、数万もの人物がこの阿弥陀如来像に結縁したしたこともわかっている。
作者は快慶の弟子である行快と推定されており、昭和56(1981)年に国の重要文化財に指定された後、平成22(2010)年の法然の八百年大遠忌を記念し浄土宗に譲渡されている。
その他現存する仏像や石塔は甲賀市の指定文化財となっているものもあり、樹齢5~600年の高野槙は滋賀県指定の天然記念物となっている。
境内は高野槙を含めた木々が生い茂り、昼間でも薄暗く感じる場所があったりと厳か感が漂っている。またそのような中に一際目立つ一願成就大不動明王は、カラフルさが一際目を引く存在になっている。
ぼけ封じの観音霊場でもあるが、玉桂寺准四国八十八ヶ所霊場札所めぐりが境内で結願できるなど、ありとあらゆる霊場巡りができる場所として、多くの参拝者が訪れる場所となっている。
最近あまり見かけない〝忠魂碑〟が境内に残るなど神社の要素も併せ持っている玉桂寺は、地元住民からすれば氏神様のような感覚を持たれているようにも感じられる。ただ古いだけではなく、新しいものも随所に取り入れられている玉桂寺は、観光という意味でも訪れる価値があると改めて感じる場所であった。- 旅行時期
- 2020年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 信楽高原鉄道玉桂寺前駅より徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時期と時間に左右されます。
- バリアフリー:
- 4.0
- 境内の多くは砂利敷です。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 〝旧〟と〝新〟の微妙なコンビネーションが素晴らしい。
-
投稿日 2020年08月11日
総合評価:5.0
信楽高原鉄道玉桂寺前駅から信楽高原鉄道線路と大戸川を渡る橋である保良の宮橋。駅からお寺までをつなぐ参道を兼ねています。
地方活性化施策の一環として平成2(1990)年に架橋されたもので、歩行者専用となっているが、駅側入口には扉が設けられており、動物の通行もあるようだ。
名前の由来は奈良時代淳仁天皇が北京として建設を進めた保良宮に由来している。保良宮伝承地は他にもあるが、玉桂寺を建立したとされる空海弘法大師が残した寺伝に基づいている。
鋼製の吊り橋は何の変哲もない橋のように見えるが、列車の運行時間に被れば信楽高原鉄道の車両を真上から撮影できる撮り鉄御用達の場所でもある。
夜にはなかなか撮影の難しい場所ではあるが、カメラに納めなくても見るだけで充分満足の行く場所でもあった。- 旅行時期
- 2020年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 信楽高原鉄道玉桂寺駅下車すぐです。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時期と時間に左右されます。
- バリアフリー:
- 5.0
- 両岸はスロープが付いています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 色々な角度から眺めると良さがわかります。
-
投稿日 2020年08月12日
総合評価:5.0
国道422号線上朝宮から滋賀県道522号線を暫く北上すると右手に見えて来る。岩屋山仙禅寺というのが正式な呼称であるが、通称の岩屋観音として知られている場所である。開創は奈良時代の養老7(723)年鷲峰山金胎寺(宇治田原町)の別院として行基の手によると伝えられており、山岳信仰の霊地として最盛期には僧房五宇を有して栄えたと記されていた。
しかし交通の要所に建立されたことが災いし、暦応・文明の2度に渡る兵火によって寺は焼失する。その後巨岩上に小堂が作られて、本尊十一面観音秘仏(未公開)を安置して現在に至っている。小堂(観音堂)の床下右にある花崗岩の巨岩には、三尊形式の摩崖仏が浮き彫りにされている。中央には薬師如来坐像が彫られており左の脇像の下には〝建長元(1249)年〟と刻まれていることから、我が国に残存する摩崖仏像では二番目に古いものとされ、昭和56(1981)年9月5日当時の信楽町によって町指定登録文化財(彫刻)に指定されている。平成16(2004)年10月1日に信楽町は甲賀市となり消滅するが、その後も市指定登録文化財(彫刻)となり現在に至っている。
本尊十一面観音を拝むことはできないが、薬師如来坐像は見ることができる。しかし摩崖仏の摩耗が激しいことに加えて、鬱蒼とした木々が日光を遮っているために本当に見辛いものとなっている。デジカメでは光量を加減したにもかかわらず仏像を収めることができなかった。それをストロボを焚いてアナログカメラで撮影したものだけが薬師如来像を確認できることに気付いた。野外でありながら〝光の加減〟を考えなければならない像は、決して多くはなかった記憶から、それだけ〝貴重な体験〟だったことになる。寺付近の場所を離れ、集落に出ると日差しが残っていることを知り、改めてこの場所がありがたい場所であることに気付いた私であった。- 旅行時期
- 2020年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 朝宮郵便局から車で5分程の場所。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れたときには誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足元は舗装されてはいない。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 苦労して見ることができた阿弥陀如来像には感激した。
-
投稿日 2020年08月19日
総合評価:5.0
その昔私は仙台に住んでいた。帰省の際にたまに飛行機も利用していたが、当時空港への足は仙台駅もしくは館腰駅からのバス便しかなく、定時運行が難しい路線だった記憶がある。
今回は初めて仙台空港アクセス線を利用した。普通列車ではあったが30分かからず仙台駅から空港まで到着できた。バスだと1時間を費やしていた時代とは比較にならない便利さだった。
三セク運行ということで割高感は否めない。しかし快適さは格段に上がったので、コスト面の見直しがされればなおありがたいのに・・・と感じたバス路線時代を知っている私であった。- 旅行時期
- 2019年05月
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 割高感はある。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時と場合によりけりだ。
- バリアフリー:
- 5.0
- 駅舎は考えられている。
- 乗り場へのアクセス:
- 5.0
- 仙台駅では乗り継ぎもスムーズであった。
- 車窓:
- 4.0
- 単調に見えるのかも知れない。
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投稿日 2020年08月18日
総合評価:5.0
信楽高原鉄道玉桂寺前駅。昭和62(1987)年7月13日に開業した駅は、第三セクター化された際に開業した駅です。
高野槙で知られる玉桂寺へは保良の宮橋を渡って5分程の距離にあり、参拝に公共交通機関を利用するにはロケーション的には便利な駅です。
日常生活では通学時の利用程度のようで駅舎や関連施設はなく自転車置き場のみがあるだけでした。
参道を兼ねている保良の宮橋とは絶妙の位置関係にあり、1面1線の駅ホームからの橋や橋から見た駅舎の景色などはパンフレットに掲載される程有名なものとなっています。
運行本数は1時間あたり1~2本しかないために玉桂寺滞在を含む時間取りには注意が必要ですが、上手く利用すれば利用価値は高いと思います。- 旅行時期
- 2020年06月
- 施設の快適度:
- 5.0
- 何もないが綺麗にはされている。
- バリアフリー:
- 5.0
- 駅ホームまではスロープがある。
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これやこのゆくもかえるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関~蝉丸~
投稿日 2020年09月11日
総合評価:5.0
国道1号線から少し右手に入ったところに碑が建立されている。平安時代中期に不破関・鈴鹿関と共に〝三関〟のひとつとして交通の要所として名を馳せていた。古より貴族や武将、文人墨客が通過しており、中でも盲であり琵琶の名手であった蝉丸は、この地に庵を結んだとされており百人一首に取り上げられている〝これやこのゆくもかえるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関〟の一首は、この地を通り過ぎる人の流れを詠んだものとされている。
碑の残る界隈は鉄道建設や、国道・名神高速の建設時に大きく道が掘り下げられたこともあり、往時を知るものは残ってはいない。またその絡みもあり逢坂の関そのものの存在場所にも多々異論があり、多くの説では現碑よりも少し大津方向に置かれていたのではないか?と言われている。
狭い旧道沿いに蝉丸神社共々あることから、車を停めるスペースがない。うなぎの名店かねよの駐車場を30分以内であれば利用可…と書かれているものも散見するが確認はできなかった。また界隈の史跡を巡って歩くにも、京阪京津線大谷駅から上栄町駅まで京津線の駅間距離が最も離れている区間を歩かねばならない。訪れることの難しさを感じた場所であった。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 京阪電鉄京津線大谷駅から徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪ねたときは誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 碑の周りを除けば舗装はされている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 歴史を感じることはできた。
-
投稿日 2020年09月20日
総合評価:5.0
大津市秋葉台、国道1号線から名神高速道路に至る住宅地の中に大規模な前方後円墳がある。茶臼山古墳は4世紀末から5世紀初頭古墳時代中期の築造とされており、被葬者は明らかではないが首長墓として考えられており、南側の小茶臼山古墳と共に大正10(1921)年3月3日に国の史跡に指定されている。
壬申の乱で敗れ自害した大友皇子(弘文天皇)やその一族の墓とも言われるが、築造推定時期からはずれており、第九代開化天皇の第三皇子で第12代景行天皇の曽祖父である彦坐王のものとされる説の方に信憑性があると言われている。
いずれにせよ宮内庁が絡んではいないので皇族の墳丘としては可能性が低く、往時の首領豪族のものであるというのが事実であるように思う。
茶臼山・小茶臼山古墳がある一帯は公園になっており、近隣の住民の憩いの場所になっている他、外回りの仕事をしている者の休憩場所として利用されている。その他グラウンドもあり野球やサッカーなども行われており、〝歴史公園〟の名が相応しいものとなって現在に至っている。
史跡指定はされてはいるものの御陵のように囲いがある訳ではないので、公園一帯を色々な目的で利用されていることを目にすることができる。歴史に触れながら大人になって行く子供達に、羨ましさを感じてしまう場所であった。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 京阪電鉄膳所本町駅より徒歩15分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 公園やグラウンドの利用者はいるが、古墳には人はいない。
- バリアフリー:
- 5.0
- 公園部分は舗装されている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 一見して古墳とわかるものである。
-
投稿日 2020年09月20日
総合評価:5.0
いつも夜に訪れている道の駅妹子の郷。今回は昼間訪れることができた。人通りがあることが大きな違いでもあるが、今年の場合は〝Welcome to IMOKONOSATO〟と記された〝壁書き〟にある。6月に訪れた際にはシーズンが書かれておらず、2020というYearのみ描かれていた。それから3ヶ月が経ちどうなっているかを見たところ、シーズンは書かれてはいなかったがなんと〝アマビエ〟が描かれていた。気付く者も少ないかも知れないが、なんだかほっこりする気持ちになった。
なお24時間オープンとなっているローソン和邇妹子の郷店についてであるが、当面の間は時短営業となっており06:00~23:00となっているため注意が必要である。- 旅行時期
- 2020年09月
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープが刻まれている。
- トイレの快適度:
- 5.0
- いつも清掃が行き届いており快適に利用できる。
- お土産の品数:
- 5.0
- 品数は豊富にあった。
-
投稿日 2020年09月20日
総合評価:5.0
大津市役所の裏、弘文天皇長等山前陵向かいに重厚な鳥居が建つ。国宝指定されている新羅善神堂である。平安時代に園城寺を再興した智証大師円珍が、留学先の塔から日本に戻る際、夢枕に我は〝新羅明神〟と名乗る老翁が出てきた。翁が言うには、我が像を寺の守護神として祀るようにと伝えて消えて行った。
帰国後比叡山の山王院に住んだ後、延暦寺第5代座主となった円珍は園城寺(三井寺)を賜り伝法灌頂の道場とした。その後比叡山を山門派が占拠したため、園城寺は寺門派の拠点となるが、その際に彫られたもののひとつが〝新羅明神像〟である。
当時園城寺は広大な敷地を持っており、この新羅善神堂の場所は寺域北端であったとされる。後に武家としての頭角を現し官軍として前九年の役を戦った源頼義が新羅明神に詣でて戦勝を祈ったとの記録が残っており、その新羅明神への信仰から源氏と園城寺の深い関係ができたと言われている。その流れで頼義の三男である源義光はこの園城寺〝新羅善神堂〟で元服し、以降新羅三郎義光と名乗って武功を上げている。
源氏との繋がりが強かった園城寺は、源頼朝をはじめとする源氏の棟梁からの寄進もあり栄えたとされているが、その後源実朝が暗殺されて北条得宗家が政治を司った時には荒廃し、南北朝時代の貞和年間に源頼義に始まる河内源氏の足利尊氏によって再建されたものが、現存する新羅善神堂とされている。安土桃山時代には豊臣秀吉によって園城寺が破却されるも、この新羅善神堂は堂とはあるものの園城寺の守護神である新羅大明神を祀った鎮守社、つまり神社であり祟りを恐れて他の堂宇は全て破却される中で唯一取り払われずに残っている。
明治34(1901)年には室町時代の建造物の特徴を色濃く残している建物として国宝に指定されている。
しかし現在では残念ながら訪れる者もおらず参道を歩くにも蜘蛛の巣が張っている状態であった。歴史を辿るにあたりかなり重要な立ち位置にあると思うのだが、その威厳は伝わってこない。園城寺の管理地として〝立入禁止〟の立て札のみが目立っている姿にかなり残念な思いをした。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 京阪電車大津市役所前駅より徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 参拝者には会わなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足場は悪い。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 建物の立派さは良くわかる。
-
投稿日 2020年09月20日
総合評価:5.0
シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席する途中日本に立ち寄ったロシア帝国皇太子ニコライ。明治24(1891)年5月11日に琵琶湖への日帰り観光を終えて京都へと戻る際、人力車で現場付近を通りかかったところ、警備にあたっていた滋賀県警察部守山警察署巡査の津田三蔵にサーベルで切りつけられ裂傷を負った。傷は長かったものの浅く命にかかわるものではなかった。三蔵は即座に捕らえられるが、その処分を巡って小国であった当時の日本は揉めに揉めている。皇族に対する危害を与えた〝大逆罪〟を適用しての死刑が囁かれる中、時の大審院院長児島惟謙は〝日本は法治国家である〟という姿勢を崩さず、最終的には一般人に対する謀殺未遂罪を適用し〝無期徒刑〟の判決を下し三権分立の司法権の独立を貫いた事件でもあったことが知られている。
犯人の津田三蔵は移送・収監された釧路集治監に於いて2ヶ月後に病死。怪我を負ったニコライは本国へと戻り、その後ロマノフ朝第14代ロシア皇帝となったニコライ2世も、日本人差別が進んだ結果とも言われる日露戦争に敗北し、国内が乱れる中ロシア革命が勃発し、皇帝の地位を失った末家族もろとも処刑されている。
大津事件の際に出血を拭った手拭いが後にDNA鑑定され、革命で処刑された王女達であることを証明したことは皮肉であるとしか言いようがない。旧東海道沿いであり、人通りも少ない場所にひっそりと建つ〝碑〟がその物語を語っているように見えた場所であった。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 大津駅から徒歩10分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 旧道沿いなので少なめである。
- バリアフリー:
- 5.0
- 碑の周りは舗装されている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 石碑だけではあるが、輪廻転生を表すには十分である。
-
投稿日 2020年09月19日
総合評価:5.0
下阪本にある東南寺。場所柄坂本城内にあったとされる寺院は、奈良時代後期延暦年間に最澄が創立したものとされている。境内が比叡山の東南戸津ヶ浜にあったことから東南寺と呼ばれるようになったものであるが、江戸時代寛永年間に高島郡今津にあった一堂を当地に移した経緯から今津堂とも呼ばれることもある。
伝教大師最澄が文字や仏教というものをを知らない庶民にも広く布教し、両親の追善供養の為に開いた〝戸津説法〟が行われた場所として知られており、令和の時代になっても天台座主から直接使命された僧侶が最澄の志を継ぎ法華経を解り易く民衆に説法を行うことから、天台座主の登竜門としても知られている。
また境内は坂本城二ノ丸跡地とされており、本能寺の変後の明智左馬之助秀満によって火をかけられ、坂本城落城の際の戦死者を祀る供養塔が建立されている。
明智氏の首塚は少し離れた場所にあり、この地は家来筋のものだと言われているが、詳細はわかっていない部分が多いようだ。
坂本城の最後は光秀の妻子を殺害した秀満が切腹し、残る重臣が火薬庫に火をつけたため木っ端微塵に吹き飛んでしまったとされていることから、城郭のあった場所が残っているとは考え難いのが事実であるが、そのあたりは寛永年間の改修時に歴史を遡って供養塔を建立したのではないかと推測する。
現在の坂本城跡でも言われることであるが、本丸跡が城跡公園となっているに過ぎず、城内とされる場所に石碑が建てられていることも知らない観光客も多いと聞く。折角大河ドラマ〝麒麟が来る〟で明智光秀像に関心が集まっていることを踏まえると、往時の坂本城をビジュアルで復元し、今なお残る寺院が坂本城内にあることを知らしめることに繋げれば尚更興味深いものになるのではないかと感じたのは私だけでは無いと思う。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 坂本城跡公園から徒歩5分くらい。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた際には誰とも出会わなかった。
- バリアフリー:
- 4.0
- 石畳の部分もあるがほとんど砂利敷である。
- 見ごたえ:
- 5.0
- やはり圧倒される。
-
投稿日 2020年09月19日
総合評価:5.0
琵琶湖大橋の堅田側入口南に鎮座する野神神社は御祭神勾当内侍を祀る小さな神社である。
勾当内侍は生没年不明で存在そのものも不明と言われてはいるが、後醍醐天皇に仕える女官であったとされている。鎌倉幕府を倒し建武新政の立役者であった武将のひとり新田義貞が一目惚れし、そのことを知った後醍醐天皇の計らいで側室の一人になっている。
戦いに明け暮れていた新田義貞にとって、二人の時間というものはほぼなかったとされているが夫婦仲は良かったと伝わっている。
そんな義貞が足利尊氏との権力抗争に敗れ、北陸越前に落ち延びて再起を図るために後醍醐天皇の皇子である尊良・恒良両親王を連れて都落ちをする。その際勾当内侍も同行するが道中近江国堅田で尊氏軍に追撃を受けた際に、義貞からこの地に留まることを言い渡される。越前を平定すれば呼び寄せるとした義貞ではあったが、その後藤島の戦いに於いて討死を遂げる。その報を聞いた勾当内侍は嘆き悲しんだ末琵琶湖琴が浜にて入水し、その命を絶った。
勾当内侍を哀れんだ堅田の村民の手によって墓が作られた。その後室町時代になり、勾当内侍を祭神とした野神神社が創建され現在に至っている。車通りの多い道の傍にあるため、ゆっくり休めているかどうかは疑わしい。しかし悲劇の女性が村人の手によって祀られた〝人の心〟は、戦乱に明け暮れていた時代に於いて、訪れた者の気持ちまでホッとさせるものがあった。
決して大きな神社ではないが、由緒書きを読むとその建立意図がすぐに理解できる存在感はとてつもなく大きなものを感じる場所であったように思う。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 堅田駅から徒歩20分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた際には誰とも出会わなかった。
- バリアフリー:
- 4.0
- 足元は砂利敷であった。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 外見だけでなく、創建の想いを知るとまた違ったものになる。
-
投稿日 2020年09月19日
総合評価:5.0
酒井神社と通りを隔てて向かいに鎮座する両社神社。創建は不明ながらも鎌倉時代後堀河天皇の治世だと伝承されている。
古来より酒井神社と同一社とされており、両社権現・両社大明神と称されていた。両社神社として独立したのは、本能寺の変後坂本城主となった浅野長政の次男であり初代広島藩主であった浅野長晟の手によって現本殿が建立された元和6(1620)年とされている。以来酒井神社と対をなし現在に至っている。
御祭神が伊邪那岐命・伊邪那美命となっている点は酒井神社とは異なるものの、江戸時代の作風の残る本殿が滋賀県指定の文化財に、例祭のおこぼ祭りが大津市指定無形民俗文化財に指定されていることは酒井神社と同一である。
これ程似通った神社は見たことがなかったが、由来を知り理解ができた。中々見受けられない神社として訪れる価値のある二社であると感じる場所であった。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 坂本城址公園より歩いて5分くらいか
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 散歩している方としか出会いません。
- バリアフリー:
- 4.0
- 境内は砂利敷である。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 酒井神社と比べるのは一興だった。
-
投稿日 2020年09月19日
総合評価:5.0
坂本城址に鎮座する酒井神社。平安時代初期の創建で境内梵音堂にあった大きな石から酒が湧き出したことから神意と悟り、御神体として祀ったのが始まりと伝えられている。
その後伏見宮家から〝酒井神社〟の社号を賜ったものの、鎌倉時代の元仁年間に近隣神社に祀られていた禅納大明神を勧請し、両社権現や両社大明神と呼ばれるようになっている。
織田信長による比叡山焼き討ちの兵火により社殿が焼失し一時衰退するが、本能寺の変後に坂本城の城主となった浅野長政から崇敬庇護されたことで再建されている。
隣接する両所神社は当初は酒井神社境内にあったが、長政の次男であり広島藩初代藩主となった浅野長晟が新たに境内を整備し酒井神社から独立させている。
明治期の神仏分離令では村社に列した。本殿は江戸時代初期に建立されたものであり、一間社流造・檜皮葺,工法や組物・彫刻など建立当時の神社本殿建築の特徴を継承する貴重なものとして昭和34(1959)年に滋賀県指定文化財に、また例祭である〝おこぼさん〟は五穀豊穣を祈願する奇祭であり古式を伝える行事として貴重な事から大津市指定無形民俗文化財に指定されて現在に至っている。
立地を見ればすぐにわかるが、通りを挟んで両社神社が鎮座している。分社・独立を経て現在に至っているが、双方の造りなどを見比べても大変よく似通っているのが素人目にもわかることは興味深いことである。
再建されるまでは坂本城内にあったはずであるが、明智光秀の治世に於ける時代にそのことを記しているものはないようである。城下町であり門前町でもあった坂本の〝複雑な一面〟を表している建物のひとつであると感じた私であった。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 坂本城址公園から歩いて5分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 散歩している方とお会いした程度。
- バリアフリー:
- 4.0
- 境内は砂利敷である。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 複雑な歴史が背景にあるが、建物の歴史はまた別である。
-
投稿日 2020年09月12日
総合評価:5.0
大津京を作った第38代天智天皇。その第一皇子だった大友皇子は、そのまま大津京で天皇になり国を治めるのが当たり前だった。しかし天智帝の死後、天智の弟であり往時の叔父である大海人皇子と争わなくてはならなくなった古代最大の内乱である壬申の乱の結果、最後の瀬田川の戦いに於いて負け、自害をして果てた悲劇の皇子の一人でもある。
天智帝の死後壬申の乱で敗死するまで7か月間という短い期間だったことから長きに渡り〝即位していない〟とされていたが、明治3(1870)年に追号され、第39代弘文天皇となり現在に至っている。
大友皇子の陵墓には色々な場所が候補として挙がっており、同じ大津市内でも皇子山古墳や膳所茶臼山古墳の名が挙がっている。また大友皇子を祀る神社としても石山も二つの御霊神社がある等興味深いものも少なくない。
近江で生まれ近江で亡くなった悲劇の皇子の足跡は辿って行くと本当に興味深いと思える場所のひとつであった。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 大津市役所の山手にある。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた時には誰とも出会わなかった。
- バリアフリー:
- 4.0
- 参道は石畳となっていた。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 御陵としてキレイで大切にされているように見える。
-
投稿日 2020年09月11日
総合評価:5.0
本堅田の琵琶湖岸に湖に浮かぶように立つお堂がある。臨済宗大徳寺派海門山満月寺の建物のひとつであるが、俗に浮御堂という名で知られている。近江八景〝堅田の落雁〟で知らないものはいないと言われる程メジャーな場所となっており、滋賀県・琵琶湖・浮御堂は外せない観光ポイントとも言われている。
浮御堂の由来は平安中期の天台宗の僧源信で、ある夜比叡山から琵琶湖を眺めていると光るものを見つけた源信はそれを網で拾い上げた。するとそれが黄金の阿弥陀仏像だということがわかり、早速源信の手によって魚類殺生供養のために阿弥陀仏像1体を造りその体内に拾い上げた黄金の阿弥陀仏像をおさめたものの他に、千体の阿弥陀仏像をも奉安し浮御堂を創建したと言われている。その様子から〝千仏閣〟〝千体仏堂〟と称し、衆生制度とともに琵琶湖を運航する船舶の安全も祈願するようになった。
歴史上多くの戦いの場となった場所ゆえ、荒廃した時期もあったがすぐに再建されて現在に至っている。
満月寺と浮御堂内部を拝観するには8:00~17:00迄の開門時間に訪れなければいけないが、琵琶湖に浮かぶ浮御堂の姿は24時間見学が出来るようになっている。月夜に浮かぶ浮御堂はまた神秘的で、その姿を見られるだけで十分訪れた価値がある場所だと思う。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 堅田駅から徒歩20分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 言った時間は誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 外から見る分に関しては問題ない。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 月夜に浮かぶ浮御堂だけでも十分訪れる価値はある。
-
投稿日 2020年09月11日
総合評価:5.0
鎌倉時代末期、後醍醐天皇の討幕運動に加わった新田義貞。足利高氏・楠木正成らとともに鎌倉幕府14代当執権主北条高時を滅ぼし、建武の新政を開始する。倒幕に賛同し鎌倉陥落の立て役者となった義貞に、後醍醐天皇は自身の女官を娶らすという〝褒美〟を出している。勾当内侍(こうとうのないし)、世尊寺(一条)行房の娘で〝長橋の局〟だとする彼女に義貞は一目惚れするが、立場の違いからどうすることもできないでいた。その話を耳にした後醍醐天皇が褒美と称し仲を取り持ったことで結ばれる。
しかし時代は南北朝の争乱期へと進む中、建武の新政から足利尊氏が離反し、朝廷軍に反旗を翻す。一度は争いに打ち勝ち尊氏を九州まで逃亡させることに成功する。しかし軍を立て直して東進してきた尊氏軍に湊川の戦で敗北を期し、盟友であった楠木正成が自害して果てている。
京都へと入った尊氏は光明天皇即位させ北朝を成立させた。その勢いに押された格好になった後醍醐帝や義貞は比叡山に立て籠り抵抗をし続けるが、意見の違いから後醍醐帝は尊氏と和睦し幽閉されることとなる。一方で義貞一行は恒良・尊良の両親王を奉じて北陸へと逃れ、軍の立て直しを図ろうとする。その一方で合流して北朝方と戦うはずであった陸奥の北畠顕家軍とは何らかの理由で合流できず、その後顕家は石津の戦いで戦死し援軍もなくなる結果となってしまう。
北陸へと向かう際、勾当内侍も義貞に同行していたと言われている。しかし移動に伴う悪条件が重なったこともあり、一旦近江今堅田の地で勾当内侍を滞在させ、頃合いを見計らって呼ぶ旨の約束をして越前へと向かったと言われている。義貞からの連絡を心待ちにしていた勾当内侍であったが、届いたものは越前藤島での義貞戦死の知らせであった。義貞を信じてここ近江国今堅田で待っていた勾当内侍の嘆き悲しみは想像を絶するものであったと言われており、様子を心配していた従者を振り切って琵琶湖の琴が浜に於いて入水し果てたと言われている。
存在すら疑われている勾当内侍ではあるが、その伝承を今に伝えるには十分な厳か感のある野神神社と勾当内侍御廟道の道標は、時代に揉まれた〝悲劇の女性〟を思い描くには十分過ぎる場所であった。今尚勾当内侍を慰める祭りが行われていることに、人の心に残っている安心感を覚えた私であった。- 旅行時期
- 2020年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 堅田駅から1.5km。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 参拝者にはお会いしていない。
- バリアフリー:
- 5.0
- 石畳だが段差はある。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 厳か感が悲恋を語っているように思う。
-
投稿日 2020年03月27日
総合評価:5.0
ライブで数回訪れたことのある大阪城ホールですが、いつもギリギリの時間にしか到着しないので、全景を見たのは今回が初めてでした。
意外に大きい建物なんだ~と感心したのもありますが、コロナ騒動で諸イベントが中止になり、建物には近づけなくなっていたのは残念に思いました。
何をやって欲しいとかはありませんが、B'zライブの時のようにジョーテラスに人が屯っている姿の中心にある方が似合っているとふと思いました。- 旅行時期
- 2020年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 京橋駅からでも10分位で到着します。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 建物付近はクローズされていました。
- バリアフリー:
- 5.0
- 建物にはスロープが切ってありました。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 離れて見るのと近くで見るのとはだいぶ違う印象でした。
-
投稿日 2020年09月05日
総合評価:5.0
長州出身で幕末期の長州藩の医師・西洋学者・兵学者であった村田蔵六。医師でありながら長州藩を引っ張って、明治維新を成し遂げた兵学者でもある。
日本陸軍の創設者でもあり、西国の兵力の懸念から大阪を中心とした軍創設に拘っていた。戊辰戦争終結後も薩長派閥が争いを続ける中で、益次郎も海江田信義ら薩摩派閥とは相いれない関係が続いていたと言われている。
明治2(1869)年9月4日夕刻、三条木屋町の旅館で会食中に元長州藩士8名の刺客に襲われる。益次郎も重傷を負うが一命は取り止めた。しかし右膝に追った深手は骨に達するようなものであり、山口藩邸に運び込まれ数日間治療を受けるが、症状は悪化の一途を辿り敗血症を併発し予断を許さない状態に陥った。そしてボードウィン・緒方惟準らの治療を受けた結果大阪の病院にて転院治療が決まる。
高瀬川の船着場から伏見での一泊を経て大阪天満に到着、そのまま鈴木町大阪仮病院に入院する。この際楠本イネやその娘の阿高らの看護を受けるが病状は好転せず、遂にボードウィン執刀で左大腿部切断手術を受けることが決定する。しかし益次郎の立場が仇となり、手術のための勅許を得ることに手間取ってしまう。勅許を得てすぐに手術は行われたもののすでに手遅れの状態であり、敗血症による高熱を発して容態が悪化の一途を辿り、明治2(1869)11月5日夜に死去した、享年46歳。
益次郎死後彼の意向は明治維新に引き継がれる形で進む形となり、フランス軍をモデルにした近代的陸軍が置かれることになった。大阪はその後も軍都としての役割を担い続け、第二次世界大戦中も戦略爆撃の対象となり、多くの犠牲者を出すきっかけとなっている。
陸軍の創設者というと反戦主義の世界では国賊と言われることもあるようだ。しかし戊辰戦争から始まる明治維新は、近代日本における〝最後の内乱〟であることも知られている。それを治めたのはのはほかならぬ軍隊であることを忘れてはいけないように思える。確かに内乱終結後に外国へと目を向けて失敗した史実はあるが、何でもかんでも十把一絡げにして否定することも問題であるように感じられる。
益次郎自身も暴漢によって命を奪われている。それを肯定できるものは何もないが、抑止する立場が居れば軍部の暴走は引き留めることができたのではと思えてならない。
結果論ではあるが戦争をするかしないかを論議する時では既になく、ひとつの考えを暴走させないように監視する。そういった考えが必要となってきているのではないかと〝大村益次郎卿殉難報國之碑〟の碑文を読んで感じた私であった。- 旅行時期
- 2020年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 大阪城から徒歩5分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 碑の前は人通りは多いのだが…。
- バリアフリー:
- 5.0
- 碑の周りは舗装されている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 一際大きい碑が目に留まる。
-
投稿日 2020年05月14日
総合評価:5.0
京橋駅南口広場に昭和59(1984)年に建立された〝平和よ永遠なれ〟像。謂れははっきりしない部分もあるようですが、戦争末期の大阪空爆、中でも終戦前日の京橋駅爆撃の被災者救護に当たったライオンズクラブ会員である医師の発案で建立が決まったと言われています。
第二次世界大戦中に爆撃を受けた都市に於いて空爆犠牲者慰霊の意味で多くの慰霊碑を建立しているライオンズクラブですが、見た目が立派過ぎて慰霊碑らしからぬ物に見えることも多々あります。慰霊の気持ちを抽象化し過ぎるために〝芸術的〟な要素が前面に出てしまう残念な印象を持ってしまいます。
勿論建立意図は組めるので不快感は感じませんが、やはりブロンズ像の作成費用に思うことはありました。- 旅行時期
- 2020年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 京橋駅南口出てすぐです。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 像を見ている方はいませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 像周辺は舗装されています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 作成意図はわかります。







































































