<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセ...
続きを読むルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。その旅の第一の目的はScotlandスコットランドのエディンバラ城で行われるEdinburghエディンバラの祭り・「Military Tattooミリタリー・タトゥー」を見に行くことだった。
5日目の8月9日に4泊したロンドンを出発、もうロンドンを離れて北に向かう。スコットランドに向かう途中あちこちを訪ねるのだが、その第一は西34kmの近郊にあるWindsor Castleウィンザー城つまり英国王室の離宮であるウィンザー城を訪ね、衛兵交代式を見る事だ。
それから更にロンドンから90 kmのOxfordオックスフォードを通過し、文豪シェイクスピアの故郷Stratford-upon-Avonストラトフォード・アポン・エイヴォンを見物した。
<シェイクスピアの町ストラトフォード・アポン・エイヴォンは拍子抜けした田舎町だった>
Stratford-upon-Avonストラトフォード・アポン・エイヴォンはイングランド中部のWarwickshireウォリックシャー(州)にある町(人口2万5千人)でRiver Avonエイヴォン川(全長137km、River Severnセヴァーン川:全長354kmの支流)に面して発展した。
ストラトフォードはアングロサクソンの起源を持ち、中世には商業都市だった。町の歴史は800年以上に及び、ストラトフォードの名は古英語で"street"を意味するStratと、川を渡る道を示すfordの組み合わせに由来すると云う。
文豪William Shakespeareウィリアム・シェイクスピア(1564年~1616年)の故郷として世界的に知られているが、それほど文豪を『観光の売り』にしていない様子で、少々拍子抜けするほど、静かな田舎町の景観だった。
当時のブルーガイド海外版(実業之日本社)でも、シェイクスピアの生家、妻の実家、シェイクスピアの墓のあるホーリー・トリニティ教会、シェイクスピア劇場の説明があるだけで、短い行で済ましている。
文豪シェイクスピアは引退するまでの約20年間に、四大悲劇『ハムレット』(1601年)、『オセロ』(1604年)、『リア王』(1605年)、『マクベス』(1606年)をはじめ、『ロミオとジュリエット』(1596年)、『ヴェニスの商人』(1597年)、『夏の夜の夢』(1596年頃)、『ジュリアス・シーザー』(1599年)など、多くの傑作を残した。私共も読んだ覚えのある名前が並ぶ。
さて、ストラトフォードの象徴といてもよい2つの家(博物館)がある。
1つはシェイクスピアの生家である。父ジョンは成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともあり、16世紀のシェイクスピアの実家が当時として裕福な家柄であったことがわかる。彼が10歳だった1574年頃の建物が再現されており、家の内部は居間、寝室、食事の間などが見られた。
もう1つはストラットフォード市中心から1.6kmの距離にある英国風half-timberハーフティンバーの木造の家(Tudor styleチューダー様式。ドイツ的には木組み建築様式の家)と称するもので、屋根は茅葺である。
この家はシェイクスピアの妻Anne Hathawayアン・ハサウェイの生家で、この美しい大きな農家が16世紀のままの姿で保存されている。当時の裕福な農家の典型として残されているのだろう。美しい曲線の萱葺き屋根、複数の部屋のある広い家屋には調度品も置かれ、庭は夏草に深く覆われていたが。
もちろん日本の萱葺きの家とは違う風情、また、ヨーロッパ各地に見られる木組み建築様式の家や萱葺きの家とも違って見える。
この町とロンドンとの対比はすこぶる対照的で、貧富の差が歴然とした感じだ。
つまり思っていた以上に、チューダー様式のハーフティンバーの茅葺屋根の家から受けた印象は写真通りのセピア色で、イギリスきっての文人の故郷は妙に貧しさを感じた田舎町なのだ。
イギリスでは世界に先駆けて18世紀から蒸気機関の開発、改良を契機にして工場制機械工業の発達が促され、18世紀の中ごろから産業革命が進展した。
産業革命は市民革命と並んで、近代とそれ以前を分かつ分水嶺とされている。1815年6月、ワーテルローの戦いでナポレオン戦争の勝利を得て、ヨーロッパのみではなく各国植民地の地図は一変した。フランスが立ち直るには時間がかかり、かつて世界の覇権を握ったスペイン、ポルトガルの植民地は程なく独立し、オランダもケープ植民地(オランダ東インド会社が支配したケープタウン)をイギリスに奪われた。産業革命によって得た経済的優位性を得ていたイギリスは、ナポレオン戦争勝利によって覇権を一段と確たるものとしたのだ。
19世紀半ばから19世紀末にかけてのイギリス帝国はハノーヴァー朝第6代ヴィクトリア女王の統治(1837年から1901年)の下、科学技術は発展し、ロンドンのシティには世界中から資本が集まり、まさに最盛期を迎えていた。
ローマ帝国のPax Romanaパクス・ロマーナ(ローマの平和)に倣って、この時期を「Pax Britanicaパクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」と呼ぶ。
1978年の夏の訪問で見た感じは、イギリスの田舎町にその恩恵は及んでいなかったように思われる。
シェイクスピアの妻の生家が16世紀のままの姿で保存されているのも、逆に歴史の停滞したままに生き残った所為だろう・・・とか、あの文豪シェイクスピアの実家や、彼の終の棲家も復元されたと云うが、その存在はむしろ、そういった思いを裏付けるようだ。
正直に言って、この田舎町に今や年間250万人の観光客が訪れると云う。
それは奇観というと、叱られるが・・・。
・・・・・
閉じる
投稿日:2020/11/12