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jijidarumaさんのクチコミ(21ページ)全659件

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  • 世界遺産の西安・兵馬俑(へいばよう)を偶々!発見した楊志発さんは一躍時の人となった。

    投稿日 2020年02月10日

    秦始皇帝陵博物院 (兵馬俑) 西安

    総合評価:5.0

    <西安・兵馬俑の発見者・楊志発(ヤン・シファ)のこと>
    1996.10.20.~10.28.友好訪中団(8泊9日の招待旅行)の一員として参加し、北京・西安・杭州・上海・蘇州の各都市を巡った。

    北京:万里の長城、明十三稜、天安門広場、故宮博物館、
    西安:兵馬俑、華清池、大雁塔、碑林博物館、陝西歴史博物館、
    杭州:西湖十景・花港観魚、六和塔、霊隠寺、玉泉、双峰茶園、
    上海:玉仏寺、豫園・豫園商城、外灘、楊浦大橋、南浦大橋、、
    蘇州:寒山寺、拙政園、江南(同里)古鎮、

    とりわけ、すごいと印象が強かったのは西安・兵馬俑であり、その発見者・楊志発さんから購入した兵馬俑の説明本にサインを頂いた。

    始皇帝(紀元前259年~前210年)陵は中国北西部、陝西(せんせい)省西安市(かつての長安)から30km離れた臨潼区に位置する。兵士や馬をかたどった素焼きの像、約8000体が埋葬されていると見られており、今までに1500体が発掘されたそうだ。兵士像は、将官、歩兵、鎧を着た下級兵士、弓矢で武装した歩兵など、いくつかの種類に分かれている。
    1987年、兵馬俑は始皇帝陵と共にユネスコ世界遺産に登録された。

    1974年3月29日、臨潼県西揚村の住民6人が村の南に井戸を掘ろうとして土を掘っていた際に、住民のひとり「楊志発」によって兵馬俑の最初の破片が発見された。彼の話によれば、「最初、鍬で土を掘り返していたところ、何か硬いものに当たったという。きっとなにか壺でも有って、昔ここに竈でもあったのだろうと何気なく掘り返していると、人間大の人形が出てきたという。
    その人形は、左足はかけていたが、胴体は無傷で、その人形の脇には青銅の矢が置いてあった」とのことである。(Wiki抜粋)
    ・・・・・

    兵馬俑の発見者とされた楊志発さんは一躍時の人となり、1984年には湖北省の村の党書記となり、1997年には湖北省の第9回人民代表大会代表の一人にも選ばれた。
    楊さんに訪れた最も輝かしい栄光の時は、1998年、当時のビル・クリントン米大統領夫妻が兵馬俑を訪れ、購入した本に兵馬俑発見者として楊さんにサインを求めた時だろう。
    その他に、メキシコ、ギリシャ、ノルウェーなどの大統領や首相と出会う機会もあった。
    楊さんは、出会った要人たちの名前はもう思い出せないが、彼らと撮った写真は自宅に大事に飾ってあるという。

    旅行時期
    1996年10月
    利用した際の同行者
    その他
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    5.0

  • エスリンゲン(ネッカー川畔)の中世クリスマス市は思っていた以上に楽しい。

    投稿日 2020年02月13日

    エスリンゲン シュツットガルト

    総合評価:5.0

    ドイツのクリスマス :2009年12月7日(月)~15日(火)

    12月9日(水);快晴、7.5℃、139km

    二つ目の町Esslingen am Neckarエスリンゲン(ネッカー川畔)(人口91千人)は過去に訪れた事が無い。Canstatter Volksfestカンシュタット祭り(150年の歴史のあるビール祭り)の広大な会場そばも通る。

    ≪Esslingen am Neckarエスリンゲン(ネッカー川畔)のクリスマス市≫
    13:10~15:10
    http://www.esslingen.de/  
      
    中世の色濃い町エスリンゲンは、町の周辺をブドウ畑の丘が囲み、なだらかな丘陵の麓にある。Schwaebische Weinstrasseシュヴァーベンワイン街道の町であり、町の中心を流れるNeckarネッカー川沿いに発展した町である。
    ネッカー川の利便を利用して、イタリアとドイツを結んだ商業路の中継点として繁栄し、帝国自由都市(1219年)でもあった。

    旧市街の中心に立つ聖ディオニソス教会(8世紀の創建)の周りに新旧の市庁舎があり、マルクト広場、Hafenmarktハーフェンマルクトまでが、冬のメルヘン・クリスマスマーケットに大変身している。ここには様々な180余りの屋台が並ぶ。
    この町はエスリンゲンの中世クリスマスマーケットと称するように、歴史的な木組み建築の家々を背景に、曲芸師や職人、芸術家、大道芸人などが中世の衣装を着て、彼らが演ずる中世を楽しめる。
    あまり日本の観光書にも書かれていなかったほど、通常の観光ルートから外れていて、幸いな事に中世の雰囲気がいまだに残っている。
    Ludwigsburgルートヴィヒスブルグ、Stuttgartシュトゥットガルトの関係と同じで、ここも近年、クリスマスマーケットの素晴らしさから、観光地として見直されているのも面白い。

    雲ひとつない晴天をバックに塔や教会、そして葡萄畑が望まれる美しい景観である。
    聖ディオニソス教会の二つの塔の先には、丘の上に”太った塔”呼ばれる城と武器庫(ヴェアガング)が見える。

    ・・・・・

    旅行時期
    2009年12月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.5

  • 私共はブレーメンの音楽隊像と一緒に写真に納まる事を習わしにしている。

    投稿日 2020年02月01日

    ブレーメンの音楽隊像 ブレーメン

    総合評価:4.0

    2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅
    期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
    (14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)
    9月19日(木)Bremenブレーメンから近郊観光、晴れ・17℃

    *Rathaus市庁舎(1405年の創建、今年で614年)、中世の面影がしのばれるロマンチックなブレーメンの殆どの歴史的遺産・見所はこの広場近くにある。
    そして、ラーツケラーの入口傍に有名なブレーメンの音楽隊像(上から鶏、猫、犬、ロバ)がある。
    私共は音楽隊像と一緒に写真に納まる事を習わしにしている。

    グリム童話の中では、結局ブレーメンに行かなかった彼らですが、ブレーメンの繁栄の象徴として、今は市庁舎傍に立っているのだ
    音楽隊の像はいつも人気が高くで、写真を一緒に撮る人が順番待ちだが、この日の銅像前には殆ど人がいない。

    ・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2019年09月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    展示内容:
    4.0

  • ブレーメン:名物店カフェ クニッゲの店がある豚通り(ゼーゲ通り)って何なの?

    投稿日 2020年01月28日

    ゼーゲ通り ブレーメン

    総合評価:4.0

    <ブレーメン:Soegestrasseゼーゲ通りの由来と名物店カフェ クニッゲ>

    ブレーメンの最も古い通りのうちの1つ、この通りは珍しい名前『Soegeゼーゲ』
    が付いている。13世紀、中世時代に『豚』を意味する言葉として使われた。
    その名の元はおそらく一帯に多くの豚小屋があった事に由来すると思われる。
    当時、豚飼いたちはブレーメン市城壁の家畜門を通って、旧市街の前にある
    共用エリアである牧草地まで豚の群れを連れて行ったのだろう。

    だから、【Soegestrasseゼーゲ通り(豚通り)】の名前は歴史的な意味がある。
    今はブレーメン中央駅と旧市街を結ぶ道で、記念碑彫刻「豚飼いと豚の群れ」
    から先は歩行者天国になっている。

    Sculpture "Schweinehirt und seine Herde", von Peter Lehmannブレーメン
    の彫刻家ペーター・レーマン(1921~1995年)の彫刻「豚飼いと豚の群れ」は、
    豚飼いと彼の狩猟犬、豚5匹、子豚4匹の群れからなるブロンズ製記念碑で
    1974年に完成したものだ。
    ゼーゲ通りの途中にある豚飼いや豚たちの銅像に旅の安全を祈って(豚は幸運
    のシンボルなので)いつものように触ってみた。
    名物店クニッゲはここから近い。

    尚、豚通りの半ば右手にCafe Konditorei Kniggeカフェ コンディトライ 
    クニッゲの店があり、2階は食事のできるレストラン、1階は1889年創業の
    カフェで名物Bremer Klabenブレーマー・クラーベンを販売している。
    (D-28195 Bremen 、Soegestrasseゼーゲ通り42/44番)

    レーズンがたっぷり入ったブレーマー・クラーベンはシュトレンに似ている。
    これは密度の詰まったシュトレンと言っても良く、「クラーベン」という語
    は「切れ目の入った形」をいう。多くは12月の初めに、復活祭まで保つほど
    の量が焼かれるのだが、9月の今も普通に販売している。
    クラーベンはシュトレンとは異なり、バターを塗ったり砂糖を入れたりしない
    と云うが、実に美味いのだ。

    通りの近くに、かつて町を守ったStadtgrabenシュタットグラーベン(掘割)
    沿いの風車があって、美しい花々と一緒に立っている。

    (2020年1月28日訳・編集・加筆)

    旅行時期
    2019年09月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5

  • ブレーメン空港は4度目になるが、生涯初めてのバッゲージクレイムをした。

    投稿日 2020年01月27日

    ブレーメン空港 (BRE) ブレーメン

    総合評価:4.0

    2019年9月18日、アムステルダム・スキポール空港経由でブレーメンに行った。旅の初日にアムステルダム・スキポール空港の空港要員たちのストライキに遭遇し、予定便の遅延、最終地のブレーメン空港では一時トランクが未着という事になった。(ターンテーブルの係員に『アムスの荷物はもう来ない』と言われたので)それで生涯初めてのバッゲージクレイム(預託荷物の引き取り=>荷物未着申請)を行う羽目になりました。

    空港事務所で荷物の状況をチェックしてもらうと、なんとブレーメンに着いていると言う。それで担当の女性と一緒に行くと、なんと目の先にあるではないか。先ほどまで荷物の回転テーブルに無かったはずのトランクが、3個ポツンと置かれていました。私共の2つと、どなたか他人の1つが。

    ブレーメンには2005年、2011年、2014年、2019年と友人夫妻を訪ねたが、今までの3回はフランクフルト空港(LH)経由でこうしたケースが無かった。2019年はオランダのアムステルダム・スキポール空港を経由したのが悪かったようだが。

    ブレーメンの南に国際便が発着するブレーメン空港(1913年開港)があり、新しい空港ターミナルは2001年に完成したものだ。
    滑走路は長さ2,040m幅45m、長さ700幅23mと2本がある。
    ただ、ブレーメン空港年間発着回数6万回までしか増便できない上に夜間離着陸制限(最終便の予定到着時刻は23時)がある。朝と夕方の発着は混雑する。空港へはアウトバーンA281号線が通っている。市内・ブレーメン中央駅には路面電車第6系統が走っている。  

    統計によると、ブレーメン空港は2019年の搭乗者数合計は230万人で、ドイツトップのフランクフルト空港の30分の1、デュッセルドルフ空港の10分の1である。また、全独38の空港(搭乗者数10百万を越える空港はフランクフルト、ミュンヘン、デュッセルドルフ、ベルリンなど8空港がある)で13位という小規模の空港である。

    ・・・・・・・・・・・・・・

    (2020年1月27日編集・加筆)

    旅行時期
    2019年09月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    施設の充実度:
    4.0

  • ブレーマーハーフェン:世界の気候を体験できる博物館「クリーマハウス」はみものだ。

    投稿日 2020年01月19日

    クリーマハウス ブレーマーハーフェン

    総合評価:4.0

    2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅
    期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)

    9月19日(木)Bremenブレーメンから近郊観光、晴れ・17℃
    Bremenブレーメン駅10:40発の電車=>11:25 Bremerhavenブレーマーハーフェン駅着、市バスでヴェーザー川畔へ、散策、船舶、展望台、自然博物館見学など11:50~15:30、

    【Bremerhavenブレーマーハーフェン観光】
    11:50~15:30
    ブレーマーハーフェンはエルベ・ヴェーザー・ドライエック西端の北海への移行部分に位置する。人口約113,000人の大都市である。1830年に最初の港が完成して以降、今日でも重要な港湾都市である。

    駅から更に市バスでAlter Hafenアルター・ハーフェン(旧港)に向かった。事前に予定を組んできたSさん、その意向のままに歩く。伝説のクラバウターマンの像を確認せずに、ドイツ船舶博物館前を通り過ぎ、旧港湾内にあるStier 雄牛(tugboat タグボート、 1954年)や、マストのある帆船前で写真を撮る。

    <クリーマハウスの見学>
    S夫人ご推薦の「Klimahaus Bremerhaven 8° Ostクリーマハウス・ブレーマーハーフェン東経8度」という、世界の気候を体験できる博物館(2009年創設)に見学に訪れた。
    子供たちも校外学習という事なのだろう、多数の訪問者が地球の最も重要な気候帯に住む人々の事を知る体験を希望してやって来ていた。

    ブレーマーハーフェンがある東経8度線に沿ったツアーとは、アフリカ西部のNigerニジェール、南太平洋のSamoaサモア、アラスカ州St. Lawrence Islandセントローレンス島、それらは共通する経緯の同じ行に位置しているそうです。
    但し、人々が経験する生活では全く異なった気象状況下に生活している。つまりニジェールでは乾燥と熱、サモアでは熱帯低気圧、セントローレンス島では氷河が溶けている気候におります。熱帯雨林を模した場所を蒸し暑いと通過し、雪が積もった雪原の寒さに凍える感じを体感し、星の輝く空に自分たちが置かれた環境との違いを思い、あるいは山登り、砂漠での化石発掘、水族館の魚たちを見ながら、世界を回る旅を体験してしまうわけです。

    世界の気候を体験できる博物館クリーマハウスは約11,500m2の展示スペースがあり、グルグル回る内に、同じ道を歩くこともありましたが、大いに歩かされた2時間半でした。

    ・・・・・

    追加写真は地球環境・エコ運動:「Fridays for Future未来のための金曜日」
    ブレーマーハーフェン(クリーマハウス・ブレーマーハーフェン3,000人の参加)、ベルリン(ベルリンで270,000人の参加)。

    旅行時期
    2019年09月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    3.5
    展示内容:
    4.5

  • ブレーマーハーフェン:アトランティック・ホテル・セイル・シティーには怖いほど高い展望台がある。

    投稿日 2020年01月20日

    ATLANTIC Hotel Sail City ブレーマーハーフェン

    総合評価:4.0

    2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅
    期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
    9月19日(木)Bremenブレーメンから近郊観光、晴れ・17℃
    Bremenブレーメン駅10:40発の電車=>11:25 Bremerhavenブレーマーハーフェン駅着、市バスでヴェーザー川畔へ、散策、船舶、展望台、自然博物館見学など11:50~15:30、

    <Bremerhavenブレーマーハーフェン観光>
    11:50~15:30

    快晴で風も強く吹くヴェーザー川の堤に上り、川ベリを散策する。

    はるかに高い「ATLANTIC Hotel Sail Cityアトランティック・ホテル・セイル・シティー」の展望台(2008年オープン、全独20位の高さ147m、この町の象徴的建造物)が目に入り、登ろうという事になった。もっともエレベーターがあり、あっという間に90mほど上った。

    展望台からの眺望は素晴らしく、(私一人が高所恐怖症で恐々と歩みながら、写真を撮った)ヴェーザー川河口の広大なこと、13万人の港湾都市の様子が手に取るように見渡せた。ヴェーザー川は北海にも近く、時間に寄って潮の満ち引きがよく分かるようだ。

    展望台の下を見ると、Zoo am Meerツォー・アム・メーア動物園がこぢんまりとした様子を見せる。ヴェーザー川口に面した動物園には北極熊や北極ギツネ、北極ウサギ、ペンギン、アザラシ、アシカ、オットセイ、白フクロウといった動物がいるらしい。

    ・・・・・

    旅行時期
    2019年09月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    友人
    ロケーション:
    4.0

  • 再訪して夕食を楽しんだ古城ホテル フリードリヒスルーエは5星ホテル

    投稿日 2020年01月15日

    ヴァルド & シュロスホテル フリードリッヒスルーエ ハイルブロン

    総合評価:4.5

    2007年4月29日(日)~5月1日(火)に2泊した古城ホテル レーエンから、アウトバーンA6にのって、東に走り出す。27km先のOehringenで高速をおり、L?狭い道を12km北に行く。Zweiflingenの村落は緑の森の中にある。菩提樹の長い並木道を行くと、懐かしいWald- Schlosshotel Friedrichsruhe古城ホテル フリードリヒスルーエが見えてきました。18:30着。  (ホテル間の往復は75km、90分でした。)

    ≪古城ホテル フリードリヒスルーエ≫
    D-74639 Zweiflingen 、Friedrichsruhe
    Tel:49(0)7941-60870  http://www.friedrichsruhe.de

    1978年のクリスマスに滞在した古城ホテル フリードリヒスルーエは、2007年に再訪した際には5星、全43室となっていました。

    ハイルブロンからローテンブルグに続く丘陵地帯は13~19世紀の間、ホーエンローエ家の支配の地であり、その事もあって、古くからHohenloheホーエンローエ地方と呼ばれた。
    1612年Kraftクラフト 6世伯により、その南西部Oeringenエーリンゲンに広大な動物公園がつくられ、狩猟館が併設された。その後1712~17年にFriedrichフリードリヒ2世伯により、Jagtschloss狩猟の館が建設され、“フリードリヒ公の静養地”の意味で、Friedrichsruheフリードリヒスルーエと名付けられた。

    このホテルSchloss Friedricshruhe古城ホテル フリードリヒスルーエは狩猟の館を中心にした形で、1953年に開業される。
    3万㎡の広大な敷地に狩猟の館を中心にしたホテル棟、レストラン、プール、サウナ、ビューティーサロン、ゴルフ場(1978年当時は9ホール、2019年現在は27ホール)、テニス場などがある、ドイツ屈指の最高級古城ホテルになっている。

    <夕食:古城ホテル フリードリヒスルーエ:グルメレストランにて>
    18:30~21:15 Euro190(=3万円)
    古城ホテル フリードリヒスルーエのグルメレストランで、ドイツ料理界でも名を知られた星付きシェフとして活躍してきたのは、60歳前半のシェフLothar Eiermannロタール・アイアーマン氏(1945年生まれ、ドイツ人シェフ)である。
    以前はミシュラン2星、ゴー・ミョーも最高点に近いもの(19点)であったが、現在はミシュラン1星(16.5点)、ゴー・ミョー16点を保持している。
    全独ランクリストに依ると順位は27番と評価はいまだ高い。
    ニュー:Euro88~118、70席、レストラン従業員35名。

    又、月・火はレストランが休みの為、この旅行日程(2007.04.29.日曜日に) を調整した。

    尚、Wald&Schlosshotel Friedrichsruheは長期間の2星から1星になり、2018年2星に復帰し、全独ランクは70位である。

    詳細は旅行記を参照。

    ・・・・・

    旅行時期
    2007年04月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    15,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    5.0
    ロケーション:
    4.0

  • ブレーメンの守護神は帝国の鷲の紋章の楯を持つ

    投稿日 2020年01月14日

    ブレーメンのマルクト広場の市庁舎とローラント像 ブレーメン

    総合評価:4.0

    2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅
    期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
    (14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)

    9月19日(木)
    世界遺産【2004年登録】になっている。

    ブレーメンの旧市街にはマルクト広場にローランド像がある。
    カール大帝のイスラムとの戦いにおける騎士ローランの歌に名高いが600年の
    歴史を経過した色褪せた姿で立っている。
    1404年に建設されたブレーメンの守護神の高さは10mもある。

    この像のある限り、ブレーメンは神聖ローマ帝国下の自由ハンザ都市で
    いられるとされている。
    この「ローラント像の楯」には帝国の鷲の紋章がある。
    帝国自由都市にはそのシンボルの帝国の鷲の紋章が似合うのだ。

    神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)は1186年にブレーメンを
    帝国自由都市とした。1260年に都市ハンザが形成され、ブレーメンは1358年に
    ハンザ同盟に加盟している。ブレーメン大司教との争い中で、その自由な気風
    の象徴としてローラント像(1404年)や市庁舎(1409年)がマルクト広場沿い
    に建設されたとされている。
    当初は木像だったが、ブレーメン大司教の手によって放火され消失した後、
    石造で再建された。

    ハンザ諸都市には自由の守護神として、ローランド像を建てている事が多い。


    ・・・・・・・・

    旅行時期
    2019年09月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • リッペ侯家のブロンベルク城はトイトブルクの森からヴェーザー川に沿った丘陵地帯の観光の中心にある。

    投稿日 2019年12月24日

    ブルクホテル ブロムベルグ その他の都市

    総合評価:4.0

    2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅
    <9月18日(水)~10月03日 (木) :14泊+機中1泊=15泊16日間の旅>

    4星・全53室。2階No.163号室、Vorburg一の丸に改築した新しい部屋で、
    部屋の扉にKemenate der Edlen、Freiherr von Fuerstenberg貴族の部屋
    ・フュルステンベルク男爵とあった。
    Euro213.4+朝食代Euro14X2X2=56(2泊)、駐車場料(一日Euro2x2=4)、
    合計273.4=33,014円。
    また、朝食・昼食・夕食を希望する場合は其々1泊1人あたりEuro14、Euro30、
    Euro30で予約できる。(但し、昼食は遠出の為、夕食のみホテルで1回食べた)
    Booking.Comで2泊予約した。チェックイン14時、チェックアウト11時。
    リッペ侯国の首都であったDetmoldデトモルドから15kmの距離にあり、
    司教区であったPaderbornパーダーボルンから50km北東、ハノーファー空港
    には80kmである。

    ブロンベルク城の歴史:
    その昔、ゲルマン人がローマ軍団と雌雄を決したトイトブルクの森からヴェーザー川に沿って丘陵地帯が続く。東ヴェストファーレン・リッペ地方にあって、かつてこの地域を支配したリッペ侯国 (12世紀の騎士Bernhard Iベルンハルト1世にはじまり、1613年にリッペ・デトモルト侯国となり、1905年にリッペ侯国になる)があった。
    ブロンベルク城は1231~1255年にかけて、騎士Bernhard III ベルンハルト3世によって築城されたもので、リッペ侯国の主たる城館となっていた。

    1962 年、ブロンベルクの町がSchaumburg-Lippeシャウムブルク・リッペ侯家(Bueckeburgビュッケブルクに宮廷が置かれた)から居城を買い取り、更に1974年に州政府が譲り受け、城館を補修・改装の上、ホテルをオープンした。


    Booking.Comへの評価:7.1 、良い
    この地域の観光の中心地に位置しており、次回も是非宿泊したいと思う。
    · かつて近くを通っても一度も訪れなかった古城ホテルだったので、念願がかなった思いがある。モダンで、機能的だが、部屋には男爵の名が付くなど、古城ホテルらしき雰囲気も良く残していて、満足した。
    · 2泊したのはVorburg(一の丸と思しき場所)で、出来れば本館に泊まりたかった。
    4星ながら、お水の無料サービスなし。浴用ガウンあり。

    ・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2019年09月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    10,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.0
    バスルーム:
    4.0
    ロケーション:
    4.0
    客室:
    4.0

  • ボーデン湖・メーアスブルグの旧城でゲーテとも親交のあった女流詩人のアンネッテ・ドロステ・ヒュルスホフは死去している。

    投稿日 2017年09月16日

    旧城 メーアスブルク

    総合評価:4.0

    “ドイツ 南西部・黒い森とボーデン湖・シュヴァーベン地方の旅”
    2007年4月19日(木)~5月3日(木)15日間

    "ボーデン湖”という名はカロリング王家の館ボードマンに由来していると云う。
    英語、仏語ではコンスタンツ湖と呼ばれ、ドイツ文学的には“シュヴァーベンの海”とも言われている。
    ドイツ最大の湖は面積539万平方キロ、周囲263km、最大水深252m、湖にはアルプス山系などから合計236本の河川が流れ込む。その中で一番大きい川はライン川だ。

    Wasserburg am Bodenseeのヴァッサ―ブルク観光局で頂いたパンフレットの表紙には次の言葉が書かれている。“
    休暇に海が必要ですか?!”とある。
    何もかも揃った保養地・ボーデン湖で過ごす事ができれば、なにもわざわざ、海に出かける必要など無いと言いたげに-----。

    4.27(金) 快晴 27℃  、 131km
    Bodenseeボーデン湖周辺巡り;Salemザレム城 ―>Meersburgメーアスブルグ:旧城、新城の庭園と湖の眺望、ドロステの館(Droste-Museum im Fuerstenhausle)、旧市街11:35~15:00

    古くからの城下町Meersburgメーアスブルグ(海の城の意)である。町はボーデン湖の西北端に位置して、コンスタンツは対岸にある。この町はボーデン湖の岸から丘に向かって広がる狭い斜面に、Unterstadt下町とOberstadt上町とで形成されている。
    上町のマルクト広場を中心に木組み建築の建物(この町がドイツ木組み建築街道南ルートの終着点になる)が中世からの歴史的面影を残している。
    町の名の由来となったAltes Schloss旧城をまず見に行く事にした。
    ボーデン湖を見下ろす高台には、7世紀にメロヴィング王朝のダンゴベルト1世によって築城された旧城がドイツ最古の完全な形で保存されている。
    HPでみる古城の姿や下町、上町の旧市街は海のようなボーデン湖側から見ても、丘側のドロステの館から見ても、たいへん趣むきがあって美しい。

    城への跳ね橋傍に女流詩人のアンネッテ・フォン・ドロステ・ヒュルスホフの胸像が立っている。以前来た時にはこうした胸像があったのか?記憶も鮮明ではない。

    この城は30もの部屋に分かれていて、ドロステの詩作の間や死去した部屋なども見る事が出来る。見学には幾つかのコースが設定されていて、選んだ一番短いコースは騎士の間、紋章の間、武器庫、礼拝堂、深い井戸、内庭を勝手に回れる事が出来た。
    (11:35~12:50 12Euro)

    ・・・・・

    旅行時期
    2007年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    4.0

  • ボーデン湖・メーアスブルグ:ドイツの女流詩人ドロステの館はボーデン湖を見下ろす高台にある

    投稿日 2017年09月16日

    観光案内所(メーアスブルク) メーアスブルク

    総合評価:4.0

    観光案内所(メーアスブルク)の項を利用して、メーアスブルグの旧城の項で書けなかったドロステ女史の事、彼女の博物館について以下に書いた。

    ・・・・・

    “ドイツ 南西部・黒い森とボーデン湖・シュヴァーベン地方の旅”
    2007年4月19日(木)~5月3日(木)15日間

    4.27(金) 快晴 27℃  、 131km
    ボーデン湖メーアスブルグの旧城に足跡を残したドイツの女流詩人Annette von Droste-Huelshoffアンネッテ・フォン・ドロステ・ヒュルスホフには、葡萄畑に囲まれ、ボーデン湖を見下ろす高台に彼女の博物館(Droste-Museum im Fuerstenhausle)がある。

    ドロステ女史(1797~1848)は1841年、妹が城主と結婚していたこともあって、メーアスブルグの旧城に初めて来訪し、その滞在中に有名なバラード(物語詩)『荒野の若者』を完成している。
    この古城とボーデン湖の景色を気に入って、以来、三回もの長期滞在の日々をこの城で過ごした。1848年5月、城の一間で、ひどい肺炎で亡くなったと云う。51歳であった。

    女史はデュッセルドルフが州都であるノルトライン・ヴェストファーレン州の北部、Muensterlandミュンスター地方の典型的な水城“Burg Huelshoffヒュルスホフ城”で城主の娘として生まれ、女流詩人として世に出る。
    19世紀の文豪ゲーテや哲学者ショーペンハウエル、また、グリム童話のグリム兄弟とも親交があったと云う。
    詩人としてのドイツでの評価は高く、旧ドイツマルクの20DM紙幣の図柄に美人であった女史が採用されている。また、1961年発行のドイツ郵便切手でも、1DM切手の図柄になっている。

    <ドロステの館(Droste-Museum im Fuerstenhausle)>

    ドロステの館は19世紀の始めに、女流詩人として活躍したアンネッテ・フォン・ドロステ・ヒュルスホフの記念館である。

    旧城から旧市街を北に出て、国道33号線に沿って東に行くと、左手にドロステの館が見える。葡萄畑に囲まれたこの高台には、当初はGartenhaus東屋が建てられていた。その後、16世紀になって、コンスタンツの司教の隠れ家として200年もの間使用されたと云う。
    1843年この館が5000本の葡萄畑と共に競売に付された為、ドロステ女史がプライベートの場として購入したと云う。
    二階建ての小さな館には、19世紀前半のドイツ美術様式であるBiedermeierstilビーダーマイヤー様式の家具(簡素と実用を特色とする)が置かれ、〝Schwalbennest燕の巣”と、女史が名付けた詩作の間には自らの作品を納めた書架などが見られた。
    ”Paradezimmerパレードの間”には女史の肖像画、胸像、家族の写真、グリム兄弟の写真、手紙など様々な個人の記念物が飾られいる。23歳の時の肖像画が一番の美人です。

    テラスへの部屋のガラス戸を開けると、町からボーデン湖まで、見事な眺望が開ける。
    女性の案内人は館内の説明をした後、窓辺の旧式なHammer Klavierハンマークラビアー(オルガンのようなピアノ)を弾いて、ドロステ作曲の小品を演奏してくれた。なかなか良い曲です。ドロステが残した作曲作品は四十数曲にのぼると説明があったが、ドロステ女史が多才な詩人であった事が偲ばれる。

    訪問者ノートに日本人の記載が無いので是非にと案内人に勧められて、珍しくも家内がノートに記帳した。
    現在、館はバーデン・ヴュルテンベルグ州が所有している。(14:15~15:00 9.8Euro)

    ・・・・・

    尚、現在(2017年9月)ドロステの館は改装中で、2018年の春まで休館中である。

    Droste-Museum im Fuerstenhausle
    88709 Meersburg Stettener Str. 11
    http://www.fuerstenhaeusle.de/start/

    XXX

    旅行時期
    2007年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.0

  • ベルギー:名園で知られたアンヌヴォワ城の秋

    投稿日 2019年07月31日

    アンヌヴォワ城 アンヌヴォワ城周辺

    総合評価:4.0

    <2013年秋・ドイツ・ベネルックスの旅>
    ドイツ・メルヘン街道、ミュンスターラントの水城と、オランダ・マーストリヒト、ベルギー・ルクセンブルクのアルデンヌ地方の古城を巡る旅
    期間 :2013年10月14日(月)~10月28日(月)15日間

    10月23日(水);83km 、20℃、風あり。薄曇り。

    5:00起床、朝食(8:15 ~8:40)後、庭園を散歩し、9:15にNamur ナミュールの古城ホテル シャトー・ド・ナミュール城をスタート。->L? 2km  Citadelle de Namurナミュール城塞 ->L?・L? 22km Annevoieアンヌヴォワ・Chaeteau d'Annevoieアンヌヴォワ城

    10:30に出発し、ナミュール城塞を下って、ムーズ川の右岸に沿って走り、Chaeteau d'Annevoieアンヌヴォワ城に向かった。

    Annevoieアンヌヴォワ:
    <Chaeteau de Annevoieアンヌヴォワ城>
    この旅27番目の城   
    11:00~14:30
    BE-5537 Annevoieアンヌヴォワ、47, rue des Jardins
    http://www.jardins.dannevoie.be/

    アンヌヴォワ城はナミュールの南南西22km、ディナンの北8kmにある。
    もともと17世紀にアロワ家がここに城を建てたのが始まりだが、1758年にシャルル・アレクシ・ド・モンペリエが城主となった時から、城と庭園の様子はがらりと変わった。
    フランスやイタリアを広く旅して城館や庭園設計の知識を深めたモンペリエは、天才的な創造力と技術を駆使して、機械を一切使用しない噴水庭園をこの地に造成した。
    イタリア式、イギリス式、フランス式などの数々の区画に分かれ、素晴しい庭々が見学者をいつも新鮮な驚きに誘う。随所に滝や噴水(50)を配した48haの広大な庭園である。

    開館時間:4/1~9/15毎日9:30~18:30、9/16~11/1毎日9:30~17:30、
    閉館日:11/2~3/31 泉水庭園入場券・駐車券Euro14.25(1,461円)。

    <アンヌヴォワ城の泉水庭園(ワロン地域の重要史跡)>
    樹齢200年を超す木々があちこちにあり、黄葉された木々の間に幾つもの噴水が水を吹き上げて、滝が流れ、美しい庭園がある。庭を辿って行くと、右手に古城の建物が見える。
    城館は小ぶりで、その前には池があり、水鳥も泳いでいる。

    水のメカニズムは250年前のもので、全長400mの丘の上の大水路から流れ出る水は城館を囲む斜面を流れていく。自然の落差がもたらす流水だけを利用してきたと云う。
    チケット売り場から中に入り、右に進み、回遊した。
    ①大扇形の池、18世紀としては珍しく、“海神ネプトゥーヌス(ネプチューン)の袖飾り”と呼ばれる。
    ②7mの高さまで噴き上がると云う大噴水。
    ③左右対称式の庭園最古のフランス式滝と自然な滝を模倣したイギリス式滝。
    ④1760年以来、機能している水棚。
    ⑤城館。
    ⑥トリトンの噴水。
    ⑦全長168mの小水路。
    ⑧大水路。
    ⑨大花壇など。

    ・・・・・・・・・

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    2.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    4.0

  • ナミュール城塞(Citadelシタデル)跡から望む一番の眺めはムーズ川とサンブル川の合流点と市街地である。

    投稿日 2019年08月01日

    城砦 (シタデル) ナミュール

    総合評価:4.0

    <2013年秋・ドイツ・ベネルックスの旅>
    ドイツ・メルヘン街道、ミュンスターラントの水城と、オランダ・マーストリヒト、ベルギー・ルクセンブルクのアルデンヌ地方の古城を巡る旅
    期間 :2013年10月14日(月)~10月28日(月)15日間

    10月23日(水);83km 、20℃、風あり。薄曇り。

    5:00起床、朝食(8:15 ~8:40)後、庭園を散歩し、9:15にNamur ナミュールの古城ホテル シャトー・ド・ナミュール城をスタート。->L? 2km  Citadelle de Namurナミュール城塞

    シャトー・ド・ナミュール城から2kmほど丘の下になる城塞(Citadelシタデル)跡に車で向かった。
    大きな駐車場(実はここは4~9の間だけ使用されると後で知った)には殆ど車が無いので、ここで良いのかと思いつつ、とりあえず車を停めた。
    傍の休業中のパノラマレストランからムーズ川の流れる様子を眺めた。
    ここはまだ城塞内ではなく、トンネルに入った。
    そこを通り抜けると、夕立でたたかれ、黄葉した木々の葉が落ちたのだろう、落葉掃除に数人の清掃員が無駄口を叩きながら、作業していた。
    九十九折りの道を案内所に向かって下りる。何だ!案内所にも広い駐車場があった。ここまで歩くとさすがに大汗をかいた。

    要塞の案内書をもらって、ムーズ川とサンブル川の合流点を眺める場所まで更に歩く。要塞跡には兵舎のようなもの、地下道の入口、門や塔、様々な名残があるが、何と言っても一番はここから見る眺望であろう。

    城塞跡には武器博物館、地下道見学などを含む約2時間の見学コースがある。
    開館時間:4~9月は毎日、10月は土日祝のみ11:00~18:00。
    従い、今日は対象外なのだ。

    <Namur ナミュール:Citadelle de Namurナミュール城塞>   
    この旅26番目の城
    BE-5000 Namurナミュール 、8, route Merveilleuse
    http://www.citadelle.namur.be/

    ナミュール市の中心から見上げると、ムーズ川とサンブル川の合流点に位置する広大な敷地(8ha)にナミュール城塞が見える。
    現在、ワロン地方の見事な遺産の1つとして数えられているが、ここからの眺望は素晴らしい。要塞にはカフェテリア・レストランがある。

    ここは元々、ローマ時代に築城されたローマ軍団の砦で、その後、しばしば再建・改造された。最初の城塞は937年に作られたが、現在の城塞の規模のものは1631年、1675年にオランダの支配下で建てられたものである。
    その後、ルイ14世なども所有していた。
    第二次世界大戦ではドイツ軍が近くまで迫ったと云う。

    要塞の先端にまで行くと、左にサンブル川、右にムーズ川が流れてくるのが良く見え、そして川の両岸に発展してきたナミュールの町、見事な眺望なのだ。

    ・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    3.5

  • ドナウエッシンゲン:歌人・斎藤茂吉の歌碑があるドナウの泉(本家)と48km先のドナウの源泉(元祖)の争い

    投稿日 2016年01月17日

    ドナウの泉 ドナウエッシンゲン

    総合評価:3.5

    【フュルステンベルク侯爵家の城として知られるSchloss Donaueschingenドナウエッシンゲン城とドナウの源流、歌人・斎藤茂吉の歌碑について】

    1723年にフュルステンベルク侯に依って建設されたドナウエッシンゲン宮殿の左手にDonauquelleドナウの泉(本家)があって、泉の傍に歌人・斎藤茂吉*(“ドナウ源流行”を著した。)の碑が立っている。

    泉の水はきれいなもので、藻が生えているが、いろんな場所から水を噴出しているのが良く分かる。
    この泉から流れ出る水はBrigachブリガッハ川に注ぎ、町外れで、フルトヴァンゲンから流れ出てくるBregquelleブレーク川と合流し、此処から正式なDonauドナウ川となる。
    地勢的には48km先のブレーク川源泉が正式なドナウ川源泉(元祖)と思うが、どちらの地元とも、自らの正当性を主張して譲らないそうだ。

    従って、全長2840kmなのか、2888kmがドナウ川の距離なのかは、地元では決着のつかない大きな問題なのだと云う。

    *歌人・斎藤茂吉の碑については山形県上山市のHPに下記のように出ていました。

    上山市で生まれ育った歌人・斎藤茂吉は、大正11年から13年までヨーロッパに留学しました。はじめに留学したオーストリアのウィーンで見たドナウ川に、彼がこよなく愛したふるさとの母なる川「最上川」に通じる強い印象を受け、いつかドナウ川の源流を訪ねてみようと心に誓うのでした。

    その後、ドイツのミュンヘン大学へ移った茂吉は大正13年4月、休暇を利用してかねて強く望んでいたドナウ川源流の地を求めて川をさか上りました。
    そして、源流の地「ドナウエッシンゲン市」にたどり着いた茂吉は、同地に滞在して歌を詠み、後日、「ドナウ源流行」を綴ったのでした。

    この斎藤茂吉の紀行を縁として、平成7年(1995年)3月21日、友好都市の盟約を締結しました。さらに、ドナウエッシンゲン市は、ドナウ川源流の地として知られているばかりでなく、世界的な保養地として有名な西ヨーロッパ最大の湖「ボーデン湖」や温泉保養地バーデン・バーデンに近く、数多くの観光客が訪れること。
    さらに、世界的に権威のある国際馬術競技会や国際音楽祭が開催されるなど、スポーツや文化活動が盛んで、古くから温泉観光地としてにぎわってきた上山市と共通点が多いことも理由のひとつとなっています。

    上山市とドナウエッシンゲン市との友好都市盟約締結5周年を記念して、2000年(平成12年)10月6日、ドナウエッシンゲン市内にある大河ドナウの源泉「ドナウの泉」に斎藤茂吉の歌碑が建立されました。

    これは、両市の交流が始まるきっかけとなった斎藤茂吉の業績を顕彰し、両市の末永い友好を誓い、ドナウエッシンゲン市の協力を得て上山日独友好協会と上山市が建立したもので、茂吉の歌碑は日本全国に数多くありますが、海外では初めてのものです。日本人観光客はもちろん、世界中からの観光客が「ドナウの泉」を訪れた際、興味深く歌碑を見ていきます。

    ...............................

    ※歌碑に刻まれている歌(茂吉が大正13年4月にドナウ川源流で詠んだもの)
    「大き河 ドナウの遠きみなもとを 尋(と)めつつぞ来て 谷のゆふぐれ」
    選歌と書体の指定は、ご子息の斎藤茂太氏によるものです。
    なお、歌碑には歌のドイツ語訳と茂吉の業績(左下)、
    盟約締結5周年を記念して建立する旨(右下)の
    ドイツ語が刻まれています

    XXX
    ついでに言えば、
    ドナウ源泉(元祖)のある町Furtwangenフルトヴァンゲンの
    小高い丘の上にある教会から、源泉はさらに3km遡る所だ。

    旅行時期
    2016年01月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    3.0
    景観:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.5

  • ライプツィヒ:ニコライ教会はベルリンの壁崩壊のきっかけとなった所

    投稿日 2019年07月14日

    ニコライ教会 (ライプツィヒ) ライプツィヒ

    総合評価:4.0

    <かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る>
    期間 : 2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間

    5月19日(木);快晴、ライプツィヒで夕立ち、20℃、 153km
    起床7:00、朝食8:00~8:30、Querfurt/ Schloss Loderslebenを9時に出発 ->L? 7km Querfurt・Burg Querfurtに9:15着 ;市内観光~10:00 ->B180(ザーレ・ウンシュトルート・ワイン街道)26km Freyburg (Unstrut)・Schloss Neuenburg10:40着 ;城内観光~12:40 ->B176・L? 28km 13:20 Merseburgメルゼブルク;市内観光~14:30 ->B181 36km Leipzigライプツィヒ;市内観光~17:00 ->B2・B95 56km  Kohren-Sahlis/Gnandstein 18:10ホテルに到着。夕食;Burghotel Gnandstein 19:15~20:30。⑦⑧Gnandsteinグナンドシュタインに<2泊>。

    <Nikolaikircheニコライ教会>

    ニコライ教会はライプツィヒで最大最古の教会。
    トーマス教会とともにバッハが主に活動した所で、重要なバッハの作品はここで初演されたと云われている。

    また、この教会は1989年のベルリンの壁崩壊、東西両ドイツの統一の端緒となった“平和的改革“のデモの発端となった所としても、知られている。
    “元祖・月曜デモ”の生みの親となっ たChristian Fuehrerクリスチャン・フューラー牧師(5 March 1943 – 30 June 2014)である。

    教会内に入ると、大きなパイプオルガンや 天井のヤシの木型の文様と柱が目立った。

    ・・・・・

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • ベルギー・ワロン地方で最もすばらしい城と讃えられるモダーヴ城

    投稿日 2019年07月16日

    モダーヴ城 モダーヴ城周辺

    総合評価:4.5

    <2013年秋・ドイツ・ベネルックスの旅>
    ドイツ・メルヘン街道、ミュンスターラントの水城と、オランダ・マーストリヒト、ベルギー・ルクセンブルクのアルデンヌ地方の古城を巡る旅
    期間 :2013年10月14日(月)~10月28日(月)15日間

    10月22日(火);234km 晴れ。

    ナミュールの東35km、Huyユイの南東10kmにモダーヴ城がある。
    この日一番の収穫、時間をかけて見た甲斐があった。

    Modaveモダーヴ:<Chaeteau de Modaveモダーヴ城>
    この旅24番目の城  

    モダーヴ家、オートペンヌ家、サン・フォンテーヌ家が暮らした13世紀に遡る中世の城郭部分を利用しつつ、1651年、城郭の一部がロレーヌ軍によって破壊された為、1658年にマルシャン伯が全面的にフランス様式に改築した城で、峨々たる懸崖に威容を見せている。
    1941年から、ブリュッセルの市町村間水道会社(Vivaqua)が所有している。
    この一帯は自然保護区(450ha)になっており、首都のブリュッセルまで、ここを源泉とするきれいな水が送られているのだそうだ。
    自然の土地の傾斜を利用した独特の供給システムはいまもって、十分に機能しているのだと云う。

    【モダーヴ城内博物館見学】
    開館時間:4/1~11/16、12/25前後の数日間、1/1の9:00~18:00
    シニア入場料;Euro13+日本語説明書5=18(1,845円)   
    14:35~15:35

    博物館は素晴しいもので、日本語オーディオガイドも分かりやすい説明でありがたかった。地下室を含め、21室を見学した。
    事務の女性も少々日本語をしゃべるから、日本の観光客も多いのだろう。

    ①衛兵の間:
    城の中央扉を押して入った所が大広間になっている。ここを衛兵の間と称している。騎士の浮彫など内装も素晴らしく、なかでもジャン・クリスティアン・アンシュによるマルシャン伯(32貴族)の家系図をあらわした135㎡の天井スタッコ彫刻がすごい。
    これは西欧でも唯一の作例だそうだ。
    暖房器具を隠している大理石の家具は見事な紋章や彫刻が見られる。
    また、大きな黒大理石の暖炉は他では見ない。
    ②青の間:貴賓の宿泊所。18世紀の若い美しい女性の肖像画。
    ③ゴブランの間:大広間。17世紀ブラッセルのタペストリーはシーザーの事歴を描いた。
    ④ヘラクレスの間:英雄ヘラクレスの生涯を描いたスタッコ彫刻が特筆ものだ。
    ⑤小広間:17世紀、天井のスタッコは紋章の装飾。4隅に4頭の一角獣の彫刻がある。
    ⑥家族の間:控えの間。昔の景色を描いた5枚の絵画が飾られている。
    ⑦公爵の間:18世紀の装飾、花輪を持つ天使達が美しい。
    ⑧公爵のテラス:オユー川の谷間を見下ろす、素晴しい眺望のテラス。
    テラスに出てみると、この城が岩盤上に立ち、城の下は60mという深い谷(Hoyouxオユー川)になっているのがよく分かった。
    ⑨絵画の間:18世紀の風景画ばかり。
    ⑩浴室・トイレ付:リエージュ様式の羽目板。
    ⑪女主人の間:かつてはクロークとして利用されていた小さな部屋を19世紀に寝室に改装した。金のスタッコ、花唐草模様が優美である。
    ⑫ルイ15世の間:19世紀の遊戯室兼喫煙室だとか。
    ⑬正面大階段:2階への階段には大きなタペストリーと豪華なクリスタル製シャンデリア。
    ⑭ルイ14世の間:1870年代のエルツのローズウッドのピアノがある。
    ⑮図書室:
    ⑯公爵夫人の部屋:モンモランシー夫人の肖像画がかかる部屋。
    ⑰礼拝堂:19世紀にあたらしく改装した新古典様式の礼拝堂。
    ⑱丸い塔:5階まで続く樫材の螺旋階段がある。
    ⑲地下:台所設備、牢獄、17世紀、城内に谷から水をあげた供給システムの模型など。
    その他、18~9世紀の各種調度・家具やモダーヴ城オリジナルのジアン窯ファイアンス陶器のコレクションも興味深い。

    古城ホテルは全22室、レストラン・カフェテリアが有るそうだが、中には入っていない。

    ・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.5

  • ベルギー・アメイ:ジュエ城は面白い格子紋様のファサードを持つ水城

    投稿日 2019年07月15日

    ジュエ城 ベルギー

    総合評価:3.5

    <2013年秋・ドイツ・ベネルックスの旅>
    ドイツ・メルヘン街道、ミュンスターラントの水城と、オランダ・マーストリヒト、ベルギー・ルクセンブルクのアルデンヌ地方の古城を巡る旅
    期間 :2013年10月14日(月)~10月28日(月)15日間

    10月22日(火);234km 、22℃と汗ばむような暖かい一日だった。晴れ。
    *7:00起床、朝食(8:30 ~9:00)後、朝食後、9:35にオランダBerg en Terblijtベルグエンテルブレイトをスタート。 ->L?・N587・N595・L? 16km Wittemヴィッテム ->L?・N595(Aachenアーヘン)・B57・A25(ベルギーのLiegeリエージュ)・L?  137km Amayアメイ・Chaeteau de Jehayジュエ城

    ベルギーはと言うと、道路のアスファルト状態がオランダと比べ更に悪く、所々、ボコボコして、高速で走るには怖い。
    高速の上限が時速120kmで制限されているのも納得です。

    アメイには13時ころに着いたが、ジュエ城の場所が分からず、時間がかかった。
    殆どベルギー語(ワロン語)だけを話すお爺さん、小母さん、青年の3人に聞いた。・・・と言っても旅の行程にChaeteau de Jehay 1, rue du Parcの名前と住所が書いてあるので、それを示して、聞くのだ。
    お互いジェスチャーを交えてだが、これが意外と分かるから不思議だ。

    さて駐車場に着いてみると、オランダナンバーの小父さんが、ここが開いていると自分の駐車場所の隣を指示した。
    それから“折角来たのだけど、残念だね!城門がしまっている。
    2時半から開門だそうだから、1時間はまたなくては・・・”と言い、ご本人は帰ってしまった。

    Amayアメイ:<Chaeteau de Jehayジュエ城>
    この旅23番目の城
    13:30~13:45
    BE-4540 Amay  、1, rue du Parc
    Tel: +32(0)85 31 17 16  、Fax:‐32 84 64

    リエージュの南西20kmにある。
    水濠に格子紋様のファサードを映す姿がロマンチックで印象的な城である。

    現在の城館はヘルマン・ド・サール家が16世紀に建てた。
    18世紀に城を所有したヴァン・デン・ステーン家は内装に大規模な変更をもたらした。
    1860年には中庭をネオゴシック様式に変更し、この中庭にはさらにベルギー王室のお抱え建築家アルフォンス・バラの装飾が加えられている。
    家具、食器、タペストリー、絵画等の豊かなコレクションも興味深く、数々のブロンズ像を配したイタリア庭園も素晴しいと云う。

    開館時間:5~9月の土日11:00~18:00、6月の水14:00~17:00、7~8月の火~金14:00~18:00、9月の火~水14:00~17:00、団体は予約により4~10月可。
    10月の個人客の事を書いていないので、見学可能か不安であったが、結果的に見る事は出来なかった。

    私共もせめて周辺だけでもと、面白い格子紋様のファサードを持つ水城を濠の外から眺めて回った。それから、次の目的地・モダーヴ城に向かった。

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • オランダの国家遺産になっている古城ホテル ヴィッテム城

    投稿日 2019年07月16日

    シャトー ヴィッテム マーストリヒト

    総合評価:3.0

    <2013年秋・ドイツ・ベネルックスの旅>
    ドイツ・メルヘン街道、ミュンスターラントの水城と、オランダ・マーストリヒト、ベルギー・ルクセンブルクのアルデンヌ地方の古城を巡る旅
    期間 :2013年10月14日(月)~10月28日(月)15日間

    10月22日(火);234km 、22℃と汗ばむような暖かい一日だった。晴れ。
    *7:00起床、朝食(8:30 ~9:00)後、朝食後、9:35にオランダBerg en Terblijtベルグエンテルブレイトをスタート。 ->L?・N587・N595・L? 16km Wittemヴィッテム

    旅は今日が9日目で、これからは日が経つのも早い。
    今日最初の城であるヴィッテム城は宿泊ホテルから16kmの距離にあったので、ここで昨日の夕食の機会を得たいと思っていた。
    当日は月曜日、ここのレストランの営業日は火~日(12~20時)と知り、断念していた。
    尤も昨日のように道に迷っていたのでは、近くても夕方からの夜の遠出は難しかっただろう。

    ヴィッテム城を訪ね、城内見学の可否を聞くと、不可だと言う。
    (客のあしらい方が下手だ!)仕方なく、周辺のみの散策に留めた。
    庭には大きなプラタナスの木(スズカケの木)が黄葉していたが、なかなか見栄えのある古城だった。

    <Kasteel Wittem古城ホテル カスティール ヴィッテム城>
    この旅22番目の城
    10:00~10:20
    Nl-6286 AA Wittem 、Wittemer Allee 3

    4星・全12室。
    Maastrichtマーストリヒトの南東にある古城ホテル。

    11世紀築城の城館は歴史を遡ると古く、現在、この城はオランダの国家遺産になっている。かつて一時的にドイツのバート・アロルゼンにあるFuerstentum Waldeck-Pyrmontヴァルデック・ピルモント侯の家族が所有していた時もある。
    この旅の最初の時期に出て来る、あの山上のヴァルテック城主の末裔である。
    この事もあって、訪ねたのだが・・・。

    1968年、ファルケンブルクのPeter Ritzenペーター・リッツツェンが城を購入し、大改装して、ホテル・レストランをオープンした。
    1977~1989年の間、レストランはミシュラン1星の評価を得ていたこともあるが、今はその面影は無く、むしろ近郊のミシュラン星付きのレストランと提携し、グルメ希望のお客をそこに送迎するアレンジメントをしている。

    リッツツェン家は2009年半ばからホテル・レストランの売却を希望し、2011年にRonald ロナルドと Silviaシルビア夫妻が現在の所有者になっている。

    ・・・・・

    旅行時期
    2013年10月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)

  • ライプツィヒ:ナポレオンに勝利した象徴として建てられた諸国民戦争記念碑の巨大なことに圧倒された。

    投稿日 2019年07月15日

    諸国民戦争記念碑 ライプツィヒ

    総合評価:4.0

    <かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る>
    期間 : 2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間

    5月19日(木);快晴、ライプツィヒで夕立ち、20℃、 153km
    起床7:00、朝食8:00~8:30、Querfurt/ Schloss Loderslebenを9時に出発 ->L? 7km Querfurt・Burg Querfurtに9:15着 ;市内観光~10:00 ->B180(ザーレ・ウンシュトルート・ワイン街道)26km Freyburg (Unstrut)・Schloss Neuenburg10:40着 ;城内観光~12:40 ->B176・L? 28km 13:20 Merseburgメルゼブルク;市内観光~14:30 ->B181 36km Leipzigライプツィヒ;市内観光~17:00

    Voelkerschlachtdenkmal Leipzigライプツィヒ諸国民戦争記念碑:

    ライプツィヒ市内の地下駐車場から出て、来た道を戻り、南に向かって数kmで、
    突然お目当ての巨大な塔が前に見えてきた。ライプツィヒ諸国民戦争記念碑である。
    山勘で走ったのだが、上手く当たった。
    ちょっと停車して、凄さに圧倒されながら写真を撮った。

    当時のドイツにとって、ナポレオンに勝利した事が如何に大きかったかを
    具現したものだ。
    この諸国民戦争記念碑はライプツィヒの象徴として有名であると同時に
    ドイツで最も大きい国立記念碑である。
    死と自由のための巨大な殿堂は高さ91mで、旧ナポレオン司令塔からそれほど
    遠くない所にある。
    1858年から1913年にかけて建築家ブルーノ・シュミッツによって建設された。

    ヨーロッパ連合軍がナポレオンに勝った1813年の決定的な勝利を記念するもので、
    土台にある像は多くのドイツの戦争の際に守護聖人とされた大天使ミヒャエルです。
    栄誉の殿堂のドーム天井の巨大な面には324個のほとんど実物大の騎士像が
    描かれている。
    www.voelkerschlachtdenkmal.de

    *参考wiki・ライプツィヒの戦い(1813年10月16日 - 10月19日)
    ナポレオン戦争における最大規模の戦闘で“諸国民の戦い”とも呼ばれる。
    ライプツィヒ(当時のザクセン王国領)で、ナポレオン1世麾下のフランス・
    ワルシャワ公国・ライン同盟諸邦軍19万と、プロイセン・ロシア帝国・
    オーストリア帝国・スウェーデンの連合軍36万の間で戦いが行われた。
    3日間の激戦の末、圧倒的な兵力差の前にフランス軍は敗北した。
    フランス軍は4万以上の死傷者を出し、一方の連合軍も5万以上の死傷者を出した。

    この戦いの結果、フランス帝国のライン川以東での覇権は終焉を迎え、
    ナポレオンのドイツ支配が終わった。同時にライン同盟*は崩壊し、
    多くのドイツ諸邦が連合軍に加入することになる。
    この事は皇帝ナポレオンの退位の契機になった。
                      (2011.08.18.編集)

    *ライン同盟は1806~1813年の7年間、ドイツ(当時の神聖ローマ帝国)に
    フランス皇帝ナポレオン1世の圧力により成立した国家連合である。
    ナポレオンは1806年7月25日、神聖ローマ帝国内のドイツ諸侯を神聖ローマ帝国
    から離脱させ、フランスと同盟を組ませました。
    ナポレオンの敗退とともに解体した。
    ライン同盟の主たる構成国にはバイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、
    ザクセン王国、ヴェストファーレン王国、バーデン大公国、
    ヘッセン・ダルムシュタット大公国、ヴュルツブルク大公国、
    マインツ大司教領などである。

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

最近はアジアの香港・マカオ、台湾も時に昔を思い出しつつ、また、日本の小旅行と称した旅も
最近投稿しています。
(2025.06.11.)


プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、さらにロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、戦時体制の欧州の旅は見送り続けて、2025年を迎えている。

(2025.06.11.)

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