旅好者さんのクチコミ(50ページ)全6,282件
- サムネイル表示
- リスト表示
- ホテル
- ショッピング
- グルメ・レストラン
- 交通機関
- 観光スポット
- 基本情報
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:4.0
弥栄(やさか)神社は上野丘の東南斜面といったところにありました。周辺の道は狭く、駐車場は東辺に1台分だけがありました。771年(宝亀2年)の創建と伝わる古社ですが、「やさか」神社としての歴史は、大友氏初代当主・大友能直が建久年間(1190年~1199年)に京都祇園社(八坂神社)を勧請して再興したことに始まっています。16世紀終盤の薩摩・島津氏の侵攻で焼失しますが、1618年(元和4年)に府内藩2代藩主・竹中 重義によって再建されています。拝殿前に「御遷在四百年記念」の石柱がありました。この神社には、府内藩預かりになっていた徳川一伯(忠直)が社殿を寄進したとのことです。神門の築造は1625年(寛永2年)とのことで、年代では合いますが・・・。なお、一ノ鳥居の扁額が「祇園宮」となっているとおり、ずっと祇園社と呼ばれていましたが、現在の弥栄神社は明治初期に名称変更されたものです。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2022年07月14日
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:4.0
大分市美術館は上野丘を上っていき、1番高いところ?と思われるところにありました。上野で美術館というと、ここは東京かと突っ込みたくなりました。1999年(平成11年)に開館したそうですが、一時代前の美術館!といった感じの建物でした。行った時は「花のラファエロ」とか「バラのレンブラント」と評されたという、ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ(1759~1840)という植物画家の作品を観ました。とても手間の掛った作品で、虫眼鏡を持って近付きたくなる様な精緻さでした。これはこの画家一代限りで終わってしまったものなのですかね。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 展示内容:
- 4.0
-
投稿日 2022年07月14日
-
投稿日 2022年07月14日
-
投稿日 2022年07月14日
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:4.0
円寿寺は上野丘の南東端近くにありました。前身となる岩屋寺は、11世紀の古文書にその名が見られるので、それよりも数100年は前に創建されたとみられるとのことです。門前には「下馬札」が誇らしげに立っていました。府内藩主・日根野吉明より将軍家菩提所の寺格が与えられたとのことです。ご住職が、府内藩預かりとなっていた徳川家康の孫・松平一伯(忠直)と深い親交を結んでいたことからでしょう。なお、日根野吉明の墓所はここにありますが、松平一伯の墓所は王子西町の浄土寺にあります。宗派の関係だと思います。境内に1319年(元応元年)建立という鎌倉期の宝塔がありました。大友家6代当主・大友貞宗が延寿寺六坊を新改築する革命的大業を成し終えたことを記念して建立されたものだそうです。なお、山号は総社山で、天台宗のお寺さんです。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:5.0
大分元町石仏は、上野丘の東南端部の麓にありました。大臣塚古墳の南方にありましたが、丘の上にあるか、麓にあるかといったところでした。覆い屋というよりもしっかりとした御堂が建っていました。堂内に入ると、中央に薬師様が穏やかな眼差しでおられました。左に多聞天、右に不動明王などが彫られていたそうですが、それはよく分りません。11世紀後半の彫像だそうですが、この辺りは宇佐神宮の領内だったのだそうです。
車で訪れた時には「元町石仏駐車場」がありました。フォルクスワーゲン大分中央店前の久大本線の狭い踏切を渡ったところに、大分市の設置した「元町石仏駐車場」がありました。きれいに整備されているところではなく、所有者に市が使用料を払っている様なところでした。- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:3.0
大友氏遺跡の上原館(うえのはるやかた)は住宅街の中にありました。大友氏の館は顕徳町とこの上原に、同時に2つがあったそうです。現地に訪れても、説明に書かれている大規模な堀跡、土塁なんていうのは、???です。ほとんど何があったのかは分かりません。真ん中辺りに「西山城大友館跡」の碑が建てられていました。どんな役目を果たした館だったのか、大友氏の研究を待ちましょう。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:3.0
大臣塚古墳は、上野丘の東端部にありました。5世紀に築造された全長約50mの前方後円墳とのことですが、前方部は失われていて、直径約35m、高さ約13mの後円部のみが残っていました。石棺は古墳内に埋まったままで、見ることは出来ません。もちろん埋葬者は分かっていませんが、古墳の名称の元となっている地元に伝わる百合若大臣の伝説がありますが、その百合若大臣だとの俗説があるそうます。
駐車場は大分市が設置した「元町石仏駐車場」を利用するのが良いと思います。駐車場には元町石仏の参拝者以外は駐車してはダメと掲示されていますが、同じ大分市が設置した歴史の散歩道には元町石仏もこの大臣塚古墳も一緒に案内されていますからね。
余談ですが、この大臣塚古墳近くの道端に「皇太子殿下御降誕記念」と刻まれた石柱が建っていました。神社の境内とか公園とかでないところなので違和感がありました。いつのもので、どなたが建てたものなのでしょうね。- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2022年07月14日
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:3.0
大友氏館跡は万寿寺の真南の顕徳町三丁目辺りに整備中でした。万寿寺が現在地に移ったのは大友氏が滅びた後なので、この位置関係はたまたまということになるのでしょう。市の計画では、ここを「大友氏館跡歴史公園(仮称)」として整備を進めていて、2030年(令和12年)が完成目標だそうです。今は、1番南の庭園部分を復元したとなっていました。池の部分は出来上がっていますが、まだ樹木が育っていませんから、その先に見える日豊本線、豊肥本線の高架ばかりが目に入ります。あと10年くらい経ったら、何とか庭園として見られる様になるでしょう。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:5.0
万寿寺は、国道10号線(産業道路)の顕徳町三丁目交差点から、幅のある参道が真っ直ぐ伸びていました。昔は相当大きなお寺さんだったことが想像されます。その突き当たりに新しい総門がありました。いつから失われていたのか分かりませんが、近年、再建されたのでしょう。萬壽興聖禅寺と書かれた寺標が懸っていました。これが正式な寺標なのでしょうね。創建は1306年(徳治元年)とされ、場所は顕徳町の大友氏館跡の南東地域です。700m~800m北の現在地には1633年(寛永10年)に再興されています。境内を進むと、前面に石庭を置いた二重門の山門(1825年(文政8年)の建立)がありました。その右手に、1824年(文政7年)に、府内の俳句仲間「城東連」によって建立された友雀塚がありました。石碑の字は読めないのですが「花に阿そふ虻な喰ひそ友雀」。芭蕉44歳、1687年(貞亨4年)の句だそうです。楼門の先には、仏殿の大雄殿(明暦年間(1657年頃)の建立)や経蔵の雲廣蔵(1718年(享保3年)の建立)がありました。なお、山号は蔣山(まこもさん)で、臨済宗妙心寺派のお寺さんです
余談ですが、高崎山にあるお寺さんはこの万寿寺の別院だそうですね。自然動物園とは話が付いているそうですが、猿の餌場に本堂建設用地と嫌みのように立て札があります。撤去といった大人の対応は出来ないのでしょうか。- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:4.0
錦温泉は、大分市街地の東、大分川近くの錦町にありました。近付くと完全な住宅街なので、本当にあるのかちょっと心配になりました。最初に訪れた時、暖簾が出ていなかったので休みか?と思ったのですが、営業時間が午後3時からとちょっと遅めでした。脱衣所と浴室はガラス戸で区切られ、脱衣所はそこそこの広さがありました。また、無料のロッカーもありました。浴槽は3つあり、大の大きさのあつ湯、中のぬる湯、小の冷水となっていました。温泉はモール泉です。ここは「温冷交互浴」が勧められていて、冷水1分、お湯1分を8回から12回繰り返し、最後は冷水で締めるのです。(水時計が置かれていました)なお、温度はあつ湯:41~43度、冷水:15~20度と表示されていましたが、表示のないぬる湯は38度くらいに感じました。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 泉質:
- 4.0
- 雰囲気:
- 4.0
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:5.0
長浜神社は、昭和通りを東進し、城崎交差点から南下したところにありました。1406年(応永13年)に創建されたと伝えられています。「豫州長濱大明神」と書かれた神鏡の納まった祠が流れ着き、社殿を建立して祀ったのだそうです。豊後水道を横断したのですから、正に神懸かりですね。現在地には1681年(延宝9年)に遷座されたそうです。現在の地名は長浜町ですが、この神社から名を貰ったのでしょうね。お参りに拝殿に近付くと、見事な細工瓦が見られました。龍の上にあるのは虎の頭に手を置いた鍾馗様でしょうか。ご祭神の少彦名命(すくなひこなのみこと)は医薬の神様であり、病気治癒のご利益があるそうですね。鍾馗様は魔除けや病封じの神様だそうですから、そんな繋がりで置かれているのでしょうか。それにしても、この辺りの神社はこの様に立派な細工瓦で飾るのが普通なのでしょうか。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:5.0
西新町の天満神社は、NHK大分放送局の少し東といったところにありました。1653年(承応2年)に、時の藩主・日根野吉明によって神殿が造られたとのことです。衰退していた近隣にあった笠和天満宮を再興させたものです。お参りに拝殿に近付くと、見事な細工瓦が見られました。その拝殿は千鳥破風の屋根の下に、唐破風が付けられた造りでしたが、そこに大きな龍の鬼瓦が乗り、その下は鱗模様と波模様が付いていました。左右には胴長?の狛犬も見えました。軒瓦には天神様の紋・梅鉢が配されていました。また、彫刻も龍や鳳凰など見応えがありました。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:4.0
OASISひろば21は大分県立美術館と昭和通りを挟んだところにありました。とはいっても、昭和通りに面しているのはほんの一部という大きな施設で、コンサートホールなどを擁する総合文化センター、NHK、ホテルなどがあるのですね。通り掛かりにアトリウムプラザの寄りましたが、大きくて明るい空間でした。テーブルと椅子がたくさん置かれていて、何か飲み物でも頼まないといけないのかな?と思いましたが、自由に利用が出来ました。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- サービス:
- 4.0
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:4.0
大分県立美術館は、国道10号線から国道197号線(昭和通り)に曲がってまもなくのところにありました。設計は坂茂さんとのことです。建物が大きいので全景が写るところを探していたら、空中連絡通路を渡りきってしまいました。前面の多くを占めている硝子は可動式なんですね。開いたところを見てみたいところです。中は空間が多く、最近の美術館だなぁと思いました。訪れた時はコシノジュンコ展でした。過去最大規模の展覧会と銘打っていました。ファッションデザインとは総合芸術なのだと改めて教えられました。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 展示内容:
- 4.0
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:3.5
春日神宮の社殿の後ろに拡がる森を抜け、100m弱北に進むと県道22号線に出ました。その角のところに小振りな公園がありました。神宮寺浦公園です。太刀を杖代わり?にした大友宗麟像があり、その右方に「南蛮貿易場址」の石碑がありました。県道22号線はその昔の海岸線で、神宮寺浦と呼ばれた浜辺だったそうです。大友宗麟は、そこに南蛮貿易の交易所を設けたのだそうです。神宮寺浦の名はここに春日神社の神宮寺があったからとのことです。ところで、この銅像は1937年(昭和12年)に日名子実三さんによって制作されたのですが、戦時中の金属供出で一旦はなくなってしまったそうですね。日名子さんの遺族の家に残っていた原型を元に、長谷秀雄さんが1958年(昭和33年)に制作し直したとのことです。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
投稿日 2022年07月14日
総合評価:4.0
春日神社は大分市街の北部にありました。一ノ鳥居から二ノ鳥居を通って神門までの参道左(西側)には樹木がありますが、右(東側)は住宅街となってしまっているのが、神社の参道としては寂しい感じがしました。創建は古く、平安時代の860年(貞観2年)に国司だった藤原世数(よかず)が、氏神である奈良の春日大社の四所大神(春日神)をお迎えしたとのことです。歴史上2回の社殿焼失に遭っていて、1回目は1584年(天正12年)で薩摩・島津軍の侵攻によるものです。そして、2回目は1945年(昭和20年)で、アメリカ軍の空襲だったとのことです。(別府には空襲はなかったそうですが、大分は軍需施設があったのですね)戦後は仮殿の期間が長く、現在の社殿は1967年(昭和42年)に再建されたとのことです。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0













































