たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(33ページ)全1,843件
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- 基本情報
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投稿日 2018年08月24日
総合評価:5.0
沖縄戦当時真和志村(現那覇市)真地にあった〝シッポウジヌガマ〟と呼ばれる洞窟を拡張整備したもので、米軍上陸前より県庁・警察部の避難壕とされていました。開戦後に島田叡知事が移動し、第32軍が出した南部撤退の方針に対し、県と軍首脳部、そして南部市町村長17名が合同会議を開いたものが戦中最後の市町村会議となりました。
南部撤退に難色を示していた島田知事ではあったものの最後は軍の方針に同意せざるを得なくなり、荒井退造警察部長とともにシッポウジヌガマを出て轟壕をはじめとした南部へと撤退されたと記録されています。
行政が関係する戦争遺跡として那覇市は文化財指定を叫んでいますが、なかなか進展しないようで、保全のために鍵がかけられた状態で現在に至っています。
鍵はかけられているものの、那覇市役所で鍵を借りられることができるため、中に入ることはできます。壕内には御嶽もあり、名前の由来である〝四方地地根母君神がなし〟の文字が刻まれた碑が置かれており、ここに行政の中心を置いた行政の思惑を今に感じることができる場所となっています。
見学するのに手間はかかりますが訪れて損はない場所だと思います。- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 識名霊園内にあります。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 鍵を借りないと入れないので誰もいませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足場は悪いです。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 〝四方地地根母君神がなし〟の由来がわかります…。
-
投稿日 2016年01月04日
総合評価:5.0
第一尚氏琉球王朝第二代国王尚巴志が基礎を作ったのでは?との説が濃厚な首里城は、沖縄の?顔?と言っても過言ではない?正殿?や?守礼之門?で知られています。13世紀に尚巴志が中山を滅ぼしてこの地に凱旋。その後北山、南山を統一し琉球王朝を立てた際に居城として構築されました。首府としてこの首里の地を定め大いに栄えたことが記録されています。幾度か火災に見舞われて焼失し、木材の供給には薩摩からの援助を受けていたそうです。明治維新の琉球処分に於いて廃城となった後は急速に荒廃が進み、一時は取り壊しの危機にあったものの、関係者の奔走もあり保存が決定し、昭和初期には正殿の改修工事も行われ国宝に指定されました。
しかし第二次世界大戦の沖縄戦に於いて第32軍が首里城地下に司令部壕を構築し、そのこともあり米軍の執拗な攻撃対象となりなにもかもが焼失してしまいました。戦後この地に作られた琉球大学もその遺構破壊に拍車をかけてしまったところもありましたが、守礼之門が再建された後移設され、本格的に再建の計画が始まります。正殿を中心とした建物群や城郭が復元され、平成4(1992)年には首里城公園としてオープンしました。
未だ完全復元には至っておらず、再建工事中のものも多い中で平成12(2000)年には?琉球王国のグスク及び関連遺産群?の名称で世界遺産に登録されました。あくまで世界遺産の登録は?首里城跡?としてであり、現在の建物ではありません。この広大な首里城公園のうち、往時を思わせるものがどれくらいあるのかはわからない方も多いと聞きます。正殿地下に眠る?石垣?は、案内にも出てくる有名な場所ではありますが、逆にそれくらいかも知れません。しかしなぜこの首里城がなくなってしまったかは様々なもので記述がされており、加えて内部には入れないもののその元凶になった司令部壕の入口は確認することができます。正直車で回っていてもその場所に辿り着くのは難しいかも知れません。破壊は3日で終わりましたが、再建は未だに終わっていない事実…琉球色の色濃い首里城でからこそ考えられることはあるのではないでしょうか。- 旅行時期
- 2014年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 空港から車で20分位で行くことができます。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 人が少ないことはないのでは・・・。
- バリアフリー:
- 5.0
- 車椅子の入場にはスタッフが対応されています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 実物がどうだったかではなく今の建物は荘厳です。
-
投稿日 2016年10月15日
総合評価:5.0
首里城へと続く道の二つめの門が『瑞泉門』になります。元々『瑞泉(ずいせん)』とっは、『立派でめでたい泉』という意味があり、門手前にある『龍樋(りゅうひ)』と呼ばれる湧水があり、それにちなんで命名されたと伝わっているようです。
1470年頃の創建ではあるものの、やはり沖縄戦にて消失し、平成4(1992)年に再建され、その後『世界遺産』を構成するもののひとつとして現在に至っています。そして門の両脇には一対の石獅子(いしじし)が並んでおり、これも『魔除け』の意味で置かれているそうです。
双璧の門の上に直接櫓がのっていることは、日本各地では見られるものの沖縄では結構珍しいものです。しかし櫓中央部にある『瑞泉』の扁額が琉球文化独特の味を出しています。
この『瑞泉』という言葉に由来している学校がありました。戦後廃校になった沖縄県立首里高等女学校、沖縄戦末期に『ずゐせん学徒看護隊』として従軍され、多くの犠牲者を出したことで知られています。『ずゐせん』というのは戦後同窓会の命名だそうですが、首里高女は首里城内のこの瑞泉門の近くにあったために『ずゐせん学徒看護隊』と呼ばれるようになったそうです。
現在の首里城は多くの観光客で賑わっていることは、誰がみても一目瞭然です。しかしこの地は日本軍の司令部が置かれていた場所であり、その遺構が残っている場所でもあります。興味のない方に言っても仕方がないことなのかも知れませんが、70余年前にはこの地もまぎれもない戦場だった『史実』であること位は頭の片隅に置いて欲しいと、瑞泉門から望める景色を眺めながらふと思いました。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 首里城公園駐車場から歩いて10分程。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 時間と時期に左右されます。
- バリアフリー:
- 5.0
- 段差はあります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 圧倒されます。
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投稿日 2016年10月15日
総合評価:5.0
首里城の城郭内へ入る第一の正門の『歓会(かんかい)門』は、『歓迎する』という意味を持っています。元々は中国皇帝からの使者である『冊封使(さっぽうし)』を招き、歓迎するという意味合いから名付けられました。
首里城は外郭と内郭によって二重に囲まれていますが、その最初の門であるのがこの『歓会門』になります。創建は15世紀後半であるというのは他の城郭を担っている門と同じではあり、また沖縄戦によって焼失したことも同様です。
石のアーチ状の門の上部に木造の櫓が載せてあるのは、首里城にある門と同じスタイルをとっており、門の両脇には石造りのシーサーが置かれ、魔除けの意味を込められていることはやはり沖縄ならではだと思います。
沖縄戦では日本軍司令部が首里城一体に置かれたこともあり、執拗な攻撃を受けました。時は過ぎて2000年には『世界遺産』に登録され、観光客の絶えない場所にはなっていますが、この地が70余年前には最前線の戦場であったこと位は頭の片隅には置いといてもらいたいと改めて思いました。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 首里城公園駐車場から歩いて10分程。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 時間と時期に左右されます。
- バリアフリー:
- 3.0
- 段差はあります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 圧倒されます。
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投稿日 2018年08月07日
総合評価:5.0
イングランド出身のロバート・ウォーカー・ジュニアが明治中期に建てられたと考えられるこの建物を1915年大正4(1915)年に購入し、昭和33(1958)年に亡くなるまで居住していたものであり、彼の死後妻のシゲコ・メーベルが母屋の一部を市に寄贈し昭和49(1974)年にグラバー園に移築されたものになります。
父親である英国の船長であったロバート・N・ウォーカー海運業を中心とした貿易事業を幅広く展開し成功を遂げ、明治37(1904)年には〝バンザイ清涼飲料工場〟を開業し、ジンジャーエールなどの大量生産に成功しています。その事業を受け継いだのが次男のロバート・ウォーカー・ジュニアであり明治41(1908)年のことでした。
父親であるロバート・N・ウォーカーはたいへんな親日家であったそうで、自ら設立した清涼飲料水メーカーの商品名に〝バンザイサイダー〟〝バンザイレモネード〟とネーミングを付けたほどだったと言われています。グラバーとともに創立した〝ジャパン・ブルワリ・カンパニー〟は、現在の麒麟麦酒株式会社の前身となっています。
現在は通路を兼ねた旧宅となっている旧ウォーカー住宅。他の資料館となっている旧宅とは少し趣が異なっているようにも思えます。またなぜ〝バンザイサイダー〟だったのか?勿論〝万歳〟の意味を込めてのネーミングだったのでしょうが、どうも日本軍の万歳特攻と被るところがあるように思えてなりません。成功した人物に意見をすることはできなかったのでしょうが、少しネーミングに違和感を感じた旧ウォーカー住宅でした。- 旅行時期
- 2018年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- グラバー園の順路最後の方に位置します。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 雨が降っていても多かった…。
- バリアフリー:
- 3.0
- 建物内は木なので滑ります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 通路化しているのに違和感を感じます。
-
呉到着が遅れると助かります。
投稿日 2018年08月07日
総合評価:5.0
ホテルチェックインが22:00を過ぎ、付近のお店はほとんど閉まっている中でフロントで教えてもらった24時間営業のファミレス〝ジョイフル呉駅前店〟に向かいました。
駅からもホテルからも徒歩5分の便利な場所にあり、普通列車の旅で疲れた体を一休みし、夕食のオーダーを入れることにします。ふとメニューを見て気に入った〝ガパオライス〟とドリンクバーをオ注文しドリンクでのどを潤します。程なくしてお料理が運ばれてきますが、なぜか時間に余裕のないときはついつい早食いになってしまう私の悪い癖…。今回も例に漏れずあっという間に完食してしまします。あまりにも早く食べ過ぎてしまったため、ドリンクのお代わりを数回繰り返して行った後に出発しようとすると、会計時になぜか〝ハイボール〟のオーダーが…。
酒飲めん奴が何でハイボールなんて頼むねん~って揉めるよりも早く、金額がおかしいことに店員さんが気付いた様子。どうやら前に取ったオーダーの取り消し忘れなんだろうけど、そうするとオーダーを最初に取った時間が表示されるために〝夜間料金〟が入らなくなってしまうはずです。結局電卓で食事代を計算されてお支払いしましたが、やはり夜間料金は入っていませんでした。
食事の内容というよりも以外に夜の呉の町では〝お食事処〟が少ないために使い勝手の良さが目立ちますがごくごく一般のファミレスです。でもグルメでない私のような旅行客からすると落ち着く場所であることは違いありません。とにかくおなかが減ったという方にはお勧めのお店です♪- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 利用形態
- ディナー
- アクセス:
- 5.0
- 呉駅前・ホテルからも徒歩5分です♪
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- ファミレスですから…。
- サービス:
- 5.0
- 悪くはありません。
- 雰囲気:
- 5.0
- 訳アリの人も多いかも…。
- 料理・味:
- 5.0
- なかなかのお味でした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 段差はあったような気がします。
- 観光客向け度:
- 3.0
- ファミレスですから…。
-
投稿日 2017年05月01日
総合評価:5.0
呉駅から徒歩5分程の距離にある呉海員会館ビューポートくれホテル、その名の通り一般財団法人呉海員会館が運営する公共の宿です。最近リニューアルされたとのことで結構内装などは奇麗になっているところも多いのですが、なんせ歴史ある施設ゆえ古さが見え隠れしていることは否めません。
しかし〝汚い〟という印象は全く受けず、むしろ装備が良くただ新しいだけということで売っているホテルより、よっぽど〝落ち着く〟印象を持ちました。朝食は和洋のセットメニューでドリンクバー付きというものですが、量は多くはないもののオシャレなメニューでの提供は好感が持てました。
呉軍港巡りの拠点としては最高のロケーションであると思います。宿泊サイトを経由せず直接ホテルのホームページから予約するのが一番安いようです。短い時間の滞在しかできなかったものの十分寛げました。次回呉再訪の際のホテルは決まりです♪- 旅行時期
- 2017年04月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 1人1泊予算
- 5,000円未満
- アクセス:
- 5.0
- 呉駅から徒歩5分。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 朝食付き4,850円は安いと思います。
- 客室:
- 5.0
- 古さはありますがキレイにされてあり快適です。
- 接客対応:
- 5.0
- 良い感じです。
- 風呂:
- 5.0
- 清潔にされていました。
- 食事・ドリンク:
- 5.0
- 量は多くはないものの品のあるお料理でした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 段差はありません。
-
投稿日 2018年08月01日
総合評価:5.0
沖縄慰霊の日に平和祈念公園で行われる沖縄戦全戦没者追悼式に参列するための会場入りシャトルバスとして利用しました。那覇から本島南部を結ぶ路線を走る那覇バスは、現在第一交通傘下のバス会社となっており、路線はもとより観光バス事業にも参入しています。
路線バスは草臥れたものが多い中で観光バスは新車を含め新しいものが多いため、外見・内装ともきれいなものが多いように思います。
慰霊の日のシャトルバス運行は、会場から最も近い沖縄清明の丘公園を結ぶ路線を担当しているようで、定員が少なめの新しいバスが投入されていました。韓国製ヒュンダイバスも走っているようですが、私が利用したのはいすゞ製のものでした。
沖縄仕様と呼ばれる〝強冷房車〟だったようで、帰りは平和祈念公園を歩いて汗だくだったものの、エアコンの効いた車内ですっきりできました♪- 旅行時期
- 2018年06月
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 乗り場へのアクセス:
- 5.0
- 車窓:
- 5.0
-
投稿日 2018年08月01日
総合評価:5.0
浦添グスク入口にあるようどれ館。浦添市の運営で館内には古写真や発掘調査成果のパネルや出土遺物などが展示されており、浦添グスクと浦添ようどれの歴史が分かりやすく学べるようになっています。
やはり目玉としては浦添ようどれの西室である〝英祖王陵〟の実物大の復元模型だと思います。〝てぃだこ(太陽の子)〟と呼ばれる英祖王は、琉球神話に始まる最初の王統天孫氏25代国王思金松兼王の孫とされる人物で、舜天王統義本王から禅譲を受け英祖王統初代の王となり、五代90年に渡る英祖王統を築き上げた人物とされています。もっとも内地でいう鎌倉時代のことであるにも関わらず、その存在も疑われるところもあるようですが、それは〝歴史のロマン〟のようにも思え、第二尚氏王朝第七代国王尚寧王が、英祖王に肖ろうと考えたことから、出身地でもあるこの浦添ようどれ東室に埋葬されことも踏まえるとそのカリスマ性はかなり大きなもののようにも思えます。後の国王が肖ろうとした英祖王の西室、実際には見ることはできませんがジオラマを見ているだけでも気持ちは900年前にタイムスリップすること請け合いです♪
また企画展を定期的に行っており、訪れた日には「沖縄県の戦争遺跡~前田高地から首里まで」が開催されていました。浦添グスクは沖縄戦当時〝前田高地(ハクソーリッジ)と〟呼ばれる攻撃・守備の要の場所であり、この地を巡って日米両軍が熾烈な戦いを繰り広げた激戦地として知られています。前田高地を占領された日本軍は、程遠くない場所にある首里の司令部壕から出て南部へと撤退するに至ります。そのことが結果として南部での膨大な数の戦死者を出すことに繋がりました。
その過程を前田高地・前田・経塚陣地壕群のパネルや遺跡から出土した戦争遺物の実物を展示し、わかりやすく解説されているものでした。なかなか調べてもわからない昭和20(1945)年4~5月の戦況のことなので、言葉はよくありませんが興味深く見せていただきました。
浦添グスク巡りは定期的にうらおそい歴史ガイド友の会が主催しているものの他、個人で申し込むこともできます。費用もそれほど掛からないので、開催日にどうしても行けない場合などは利用する価値は高いと思います。
浦添グスクについて前知識をつける場所としては非常に良い場所のように感じます。- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 空港から車で30分くらい。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 少なくはない。
- バリアフリー:
- 5.0
- 建物は考えてあります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 圧倒されます。
-
投稿日 2018年08月01日
総合評価:5.0
沖縄戦に徴用された学徒隊の中でもっとも有名なひめゆり学徒隊。沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の生徒達によって構成されました。南風原陸軍病院から南部へと撤退し、入る壕を〝じゃんけん〟で決めたと言われる少女達。中でも最も人気が高かったものが、塔の前に大きく口を開いている伊原第三外科壕だったとされています。
じゃんけんで負けた少女達が入った伊原第一外科壕や糸洲第二外科壕では、比較的犠牲者数が少なかったことが、無邪気に〝じゃんけん〟で決めたことが後々少女達の運命を大きく左右してしまったことになにかやるせないものを感じます。
現在では大きな新〝ひめゆりの塔〟が建立されていますが、戦後すぐの物資のないときに娘二人を失った〝魂魄之塔〟を建立した金城和信先生ご夫妻が、娘の遺骨を発見した伊原第三外科壕隣に初代の〝ひめゆりの塔〟を建立したのは昭和21(1946)年4月のことでした。普通の石に刻まれた文字は、良く見ないと見落とすことも少なくはないと言われています。
また新しい塔の裏側に納骨堂が設けられていることも多くの方は知らないという回答がされるもののようです。
ひめゆりの塔を観光地化されたものとして、再訪の価値はないという辛口の意見も出ていますが本当にそうなのでしょうか?それはただ付近の土産物屋が客寄せのためにやっていることに対する反感ではないかと思えてなりません。言い方は悪いですが、土産物屋の店員にひめゆり学徒の足跡を訪ねてもまともな回答ができる方はほとんどいません。ただ成績を上げるためにあの手この手を繰り出しているだけだと思います。
土産物屋と学徒犠牲者には何ら関係はありません。最も年上で19歳といううら若き少女達は、お国のため家族のために従軍し、蕾のまま斃れたに過ぎないのは紛れもない史実です。外野のことはどうでも良いことです。それより本当に〝ひめゆり学徒〟を知ろうと見落とすことのないように真剣に70余年前を今に伝えるものを見て下さい。そんな思いを持ちつつ訪れられるようになってから私は、すべての学徒隊慰霊碑と同じように二度と同じ悲劇を繰り返さないで…という言葉を発しているように感じるようになりました。- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 那覇から車で30分ほどで到着します。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 慰霊の日は特に多いです。
- バリアフリー:
- 3.0
- 塔のまわりは砂利敷きです。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 訴えかけを感じて下さい。
-
投稿日 2018年07月13日
総合評価:5.0
糸満市国吉台にある萬魂之塔。白梅之塔隣にある歴史を感じる慰霊塔は、戦後熾烈な戦いがあった国吉台付近で野ざらしになっていた遺骨4,000柱を国吉集落の民が集めて、付近の壕に収めていたものを、昭和30(1955)5月に〝萬魂之塔〟を建立し、集めた遺骨を納めたことに始まっています。
この〝萬魂之塔〟の特徴は、民間の手による軍関係者の遺骨収集でもありました。国吉台の戦いは、沖縄戦末期の熾烈な戦いが行われた場所のひとつとして知られている場所であり、この地で戦死した第24師団隷下の第22連隊・第32連隊・第89連隊の将兵の遺骨が多くを占めていたとされています。
白梅学徒も解散命令が出された後〝白梅自決之壕〟をはじめとした付近の壕に籠ったものの、軍属・民間問わず行われていた米軍の〝馬乗り攻撃〟によって多くの犠牲者を出した場所でもあります。
付近一帯には日米軍属の慰霊碑が建立されており、そのことが〝許せない〟と言う者もいるようですが、果たしてそうなのでしょうか?確かに学徒隊として徴兵された〝白梅学徒〟の慰霊碑の周りに軍属の慰霊塔を建立することは、理解し難いところもあるかも知れません。
しかし何度も言うようですが、軍を構成する〝軍人全て〟が悪人だったわけではありません。最近では逆にそうではない〝実話〟の証言も多く明らかにされており、十把一絡げに〝違和感〟を呈することは、無知から出てくる愚かな判断となるように思えてなりません。
この地で戦没死した兵士の遺骨は萬魂之塔に収められたと考えられており、それが慰霊塔周辺に建立された〝個人の墓標〟の建立に繋がっていると聞いたことがあります。萬魂之塔後方に建つ小さな墓標には、『陸軍軍曹 矢野次郎』・『海軍二等軍曹 矢野大三郎』と刻まれていますが、この次郎氏は白梅学徒隊の生存者に〝歌〟を聞かせていたという証言が書くれています。最後は学徒隊を先に逝かせる訳には行かないと壕の上で自決をされたらしいのですが、その〝思い出〟として語られる兵士が悪者だったと言えるのか?そう思えて仕方がありません。
戦後73年を迎えた今年平成30(2018)年、戦争を実際に経験された方々も多くが亡くなっており、語られることのなかった〝真実〟もそのままになってしまうことが多い中で、反面年数が経過した故に得られる〝証言〟も増えてきたようにも思えます。何でもかんでも不快感を表すのは簡単ですが、その背景も踏まえた上で〝軍という組織〟と〝兵士という個人〟の違いは考えなければならないと改めて思った白梅之塔慰霊祭の日に再訪した〝萬魂之塔〟でした。- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 白梅之塔の隣にあります。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 萬魂之塔のみを訪れる方は多くはありません。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足元は未舗装です。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 建立背景を知ると偉大さがわかります。
-
投稿日 2018年07月18日
総合評価:5.0
平和の広場から放射状に円弧の形で拡がる黒御影石でできている刻銘板が並んでいます。沖縄戦に於ける戦没者を国籍軍民問わずその名を刻み、今なお刻名者が年々増加しています。
自身も鉄血勤皇隊として沖縄戦に従軍された元沖縄県知事で昨年亡くなられた大田昌秀氏が、沖縄戦で戦没した多くの人々が経年により忘れ去られてしまうことを懸念し発案・建立されたものになります。
都道府県別慰霊碑も然りですが、あまりにも立派すぎている平和の礎に、初めて目にした頃は違和感すら感じた記憶が残っています。ただ建立にあたり色々な思惑が入っており、慰霊の日6月23日の日の出の方向に向かってメインストリートが走っているなど、立派さを競うような考えではなく、慰霊という概念から離れずに作られたことはやはり大田昌秀氏ならではの考えだと頷けます。
黒御影石の波打つような配置には、鉄の暴風の波濤が平和の波となりわだつみに折り返し行くコンセプトとデザイン表記がされていますが、大海原に向かう平和の波とはなんぞや?と思うところもありますが、わだつみの声とは戦没学徒の遺書と例えられていることを考えればなんとなくわかるような気もします。
残念ながら大田昌秀氏は昨年亡くなられました。しかし平和の礎の建立意図を曲げて闇雲な平和思想には繋げて欲しくないと思うのが私の意見です。
平和の礎を見た戦争を知らない者達が自分の感性でもって平和というものを考える・・・、そんなことが実践できる場であり続けて欲しい・・・そう改めて感じました。- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園入口からすぐです。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 一番人が多い時でした。
- バリアフリー:
- 4.0
- 碑のまわりは芝生敷きでした。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 大田昌秀氏の建立意図が理解できました。
-
お昼を頂きました。
投稿日 2018年07月30日
総合評価:5.0
モリーブに行った際に遅めの昼食を摂るために入りました。以前はタバコの吸えるファミレスとして、お茶しがてら長居するお客も多かったのですが、ついにこちらも7月21日から全席禁煙となりました。
ヘビースモーカーとして有名な私ですが、モリーブ自体に喫煙可能な場所が少ないこともあり、あまり吸わないようになりました。
そんなこともあるのかついオーダーを二品頼み、がっつり食べることにします。ペペロンチーノと野菜とキノコのピザ、そしてドリンクバー。あまりサイゼリアには立ち寄らないため、そんなオーダーもありかな?と思いました。程良い量のお料理は、ピザとパスタを手軽に味わえるものだと思います。
濃くなく薄くなくの味付けは飽きがこず、お腹いっぱい食べて888円というお手軽価格なので、リピートしている若い方が多いことは理解できる気がしました。- 旅行時期
- 2018年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 利用形態
- ランチ
- アクセス:
- 5.0
- モリーブ1階です。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- なかなか高いです♪
- サービス:
- 5.0
- あっさりしています。
- 雰囲気:
- 5.0
- ゆっくりできました。
- 料理・味:
- 5.0
- 味付けはクセになります。
- バリアフリー:
- 5.0
- 段差はありません。
- 観光客向け度:
- 3.0
- そういうお店ではありません。
-
投稿日 2018年07月14日
総合評価:5.0
慰霊の日に慰霊祭が行われる場所は多くありますが、ほとんど一般には情報が流れていないため〝行き当たりばったり〟で訪れるしかないものが多くあります。その中のひとつ私立沖縄昭和高等女学校の生徒からなる〝梯梧学徒看護隊〟に於ける戦没者慰霊祭もそのひとつでした。
学徒隊慰霊碑のひとつとして存在や歴史は紐解いたことはあれど、慰霊祭に訪れたことはありません。今回その時間までには間に合わなかったものの、式場の後片づけをされていたスタッフの方からお線香を頂き、上げさせて頂きました。
普段は撤去後の夕方に訪れることが多かったため、手向けられた花に囲まれている姿は知っていますが、慰霊祭の参加者のラストに入れたかと思うと、少し気持ちが楽になりました。
昨年平和祈念公園に〝学徒隊の碑〟が建立され、多くの学徒隊が存在したことが一躍有名にはなったものの、やはり個々の学徒隊慰霊碑まではまだ知られていないようにも思えます。学徒はここにもいた…改めてそんな気持ちになれた梯梧之塔でした。- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 駐車場から歩いてすぐ。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 慰霊祭の片づけをされている方がいらっしゃいました。
- バリアフリー:
- 5.0
- 塔までは舗装はされています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- この日だけはホッとします。
-
投稿日 2018年07月16日
総合評価:5.0
沖縄県立平和祈念公園の霊域一番手前の場所に建立されている島守之塔。沖縄戦に於いて戦没した沖縄県最後の官選知事である島田叡氏他県職員が祀られています。
お恥ずかしながら沖縄戦戦没者追悼式参加4年目となる今年になって初めて6月23日に慰霊祭が行われていることを知りました。
内地でも知名度が上がっている島田知事が祀られていることから、摩文仁一帯の慰霊塔の中では訪れる者も多く、花が絶えることなく手向けられていることは知っていましたが、島田知事を崇める方々の集まりである特例財団法人島守の会が主催する戦没者追悼式には、沖縄県職員を始め島田知事の出身地である兵庫県の関係者等多くの参列者がおり、規模の大きなものとなっていました。
人が多いこともあり、通路を挟んだ場所から手を合わせることしかできませんでしたが、〝断じて敢行すれば鬼神も之を避く〟という座右の銘を、言うだけでなく実行に移した島田知事。言うことすらできないヘタレの私からは雲の上以上の人物であるとしか思えません。内地の人間ながら沖縄県民のことを第一に考えて実行し、自らは未だ行方不明となったままの島田知事の功績を称える景色に、なにか清々しい気持ちになれた私でした。- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 摩文仁の丘の一番手前にあります。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 多くの参列者がおられました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 階段があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 沖縄県民が認める功績を伺い知ることができます。
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投稿日 2018年07月19日
総合評価:5.0
摩文仁の丘都道府県別慰霊碑の一番手前にあります。なぜ栃木県がこの場所なのかは偶々だったと言われています。
31,495柱の合祀者のうち沖縄戦没者は676柱と書かれており、その中のひとりが我が祖父です。
亡くなった母親が生前「祖父の墓には石ころが入っているだけ」と墓参りをする度に言っていました。しかしその頃沖縄戦というものが身近なものだとは思いもせず、ただ聞き流していたことが今になって悔やまれます。
母親は遺族会の旅でパスポートを持って沖縄を訪れたことがありました。しかしその頃はまだ栃木の塔は建立されてはおらず、なにを見たのかはわかりません。
その後沖縄へ行こうと母親を誘いましたが乗る気はなくそのまま亡くなりました。もしかするとそれが戦没者遺族の本音であるのかも知れません。私自身戦跡を訪ねるために沖縄を訪れるようになったのはやはり興味本位から始まったことを否定はできません。しかしまがりなりにも私に流れる血潮のルーツが沖縄にあることは事実です。
人と同じ思いを求める気は今でも毛頭ありません。ひとりの戦没者遺族の末裔として、私の目から見た戦争を語り続けたいと改めて思いました。- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 摩文仁の丘入口にあります。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 私以前に花は手向けられていませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 階段ありの砂利敷です。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 玉陵を模っただけあって立派です。
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投稿日 2018年07月20日
総合評価:5.0
糸満市国吉に建立された沖縄県立第二高等女学校学徒慰霊碑である白梅之塔。第二高等女学校の校章である白梅から名付けられました。
70余年沖縄戦が不可避とされた昭和19(1944)年に沖縄県内にあった高等女学校から学徒看護隊要員として集められた少女達は、基礎教育もほどほどにして前線の野戦病院に配属になりました。
その中で白梅学徒はまず八重瀬岳中腹の第24師団第一野戦病院(白梅学徒看護隊之壕)に配属されますが、戦闘最前線が南下してくることに伴い昭和20(1945)年6月3日に同壕と新城分院(ヌヌマチガマ)を閉鎖し、現在の白梅之塔付近の国吉地区に撤退を命じられ、傷病兵のうち比較的軽傷とされた者に肩を貸すなどして共に向かいました。
そんな最中の6月4日、師団上層部から学徒隊解散命令が出されます。既に戦場となっている場所での突然の解散命令に学徒達はどうして良いのかわからず、そのまま国吉の壕へと向かいます。その移動の最中や国吉の壕までなんとか辿り着き再び勤務を続けていた者を含め、米軍の執拗な攻撃の下多くの犠牲者を出す結果となりました。学徒隊として従軍した46名のうち自決者も含め約半数にあたる22名が蕾のままで亡くなりました。
戦後の昭和23(1948)年に小さな自然石を白梅之塔として建立し、第1回の慰霊祭が挙行されました。その後白梅之塔は昭和26(1951)年8月と平成4(1992)年6月と改修されて現在に至っています。
戦後73年を迎えた今年平成30(2018)年6月23日に行われた慰霊祭が72回目のものとなります。なぜ開催年と回数が違うのかはわかりません。しかし往時の少女もご存命であれば90前になっておられる今日、他の学徒隊慰霊祭が同窓生の減少と高齢化によって開催が難しくなり、取りやめとなっている今日白梅之塔慰霊祭も例に漏れないようで、昨年白梅同窓会長の中山きくさんより、同窓会主催の慰霊祭は昨年が最後だという話がされました。今後はサポートメンバーによる慰霊祭へと変えて行くとは言われたものの、やはりすぐに割り切れるものではないようで、体が動く間はやはり関わって行きたいと言われていました。
実際のところ今までの沖縄尚学高校によるサポートに加え、本年から那覇高校も加わった上に全て同窓会メンバーが執り行っていた来賓へのサービスを外注化するなど様変わりをしていることはわかりました。しかし一年間での変わりようは見方によっては違和感すら覚えたところもありました。
加齢や経年といった逃れることのできないことを補うのに今までと同様とはいかないことは勿論わかっているつもりです。ただ細かいところの変わりように今までとは違うと感じたのも事実です。
たまたま毎年見ているのでそう見えただけなのかも知れません。ただひとつ気になったのは中山きくさんが杖をついておられる姿を見たということ。それが一番気になったところでもありました。
同窓会主催ではなくなったとしても、塔に祀られている学徒達は悪いようにはしない思っていない筈です。それより自身が体験された学徒隊の悲劇というものを後世に伝えるべく長生きして頂かないといけないのではとも思います。
怠惰から慰霊祭の挙行を取りやめるのではなく、やむを得ない理由であれば戦没学徒も納得している筈です。
どんなものになるのかは結果論にしか過ぎません。それよりもきくさんには行きてもらわなければならない現状があることに違いはありません。ある程度は人に任せオブザーバーとして式典を見守って頂きたい・・・、そんな思いが余計に強くなった今年の白梅之塔慰霊祭でした。- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園から車で10分程です。
- 人混みの少なさ:
- 1.0
- 慰霊祭の時は車を停めることもできませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 塔の周りは舗装されていません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 白梅学徒隊への関心の深さを感じました。
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投稿日 2015年07月30日
総合評価:5.0
昭和19年8月22日未明、沖縄から本土疎開へと向かう学童及び付添いの教師や保護者の乗った疎開船〝対馬丸〟が、鹿児島県悪石島付近の海域で、米軍潜水艦〝ボーフィン〟が放った魚雷を受け沈没します。運良く救助された方もおられるものの、多くは漆黒の海に投げ出されて犠牲となられました。
沖縄戦に於ける子供達の慰霊塔が沖縄にないことを憂いた、愛知県丹陽村の〝すずしろ子供会〟の当時の会長河合桂氏が、愛知県の児童に〝1円募金〟を広く呼び掛けて20余万の浄財と資材を集め、それを元に昭和28(1953)年5月5日の〝子供の日〟に沖縄護国寺境内に建立されました。そして昭和34(1959)年6月9日に現在の旭ヶ丘公園に移設され現在に至っています。
対馬丸事件後60年目の平成16(2004)年8月22日に対馬丸記念館が開設され、その裏手にある旭ヶ丘公園に建立されています。専用の駐車場はなく記念館脇にあるパーキングメーターを利用するのが便利だとは思いますが、1時間しか停められないのでゆっくり回られたい方は付近の市営松山駐車場をご利用下さい。- 旅行時期
- 2015年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 沖縄都市モノレール 旭橋駅または県庁前駅 徒歩15分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 慰霊の日の前日でしたが誰もいませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 行くまでに坂や階段があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 立派な慰霊塔には惹かれます。
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投稿日 2018年07月24日
総合評価:5.0
沖縄に行くのにマイルのフリートラベルで利用しました。9,500マイル利用でのClassJ、6Kの窓側席を確保しましたが、ツインクラスのJAL便はいつもClassJを利用してるもののワイドボディ機材での運航便では14年前に研修で沖縄に行った帰り道以来です。
特に大柄な体型でもないのでシートピッチがどうのこうのはないものの前後座席のシートピッチが97cm、シート幅47cmの本革シートはやはり快適でした♪また最近ではLCCの利用が多いため、A320やA322、B738の200名の定員に満たない小型機だと関西那覇間のフライトでCAさん全ての顔を覚えてしまうのですが、さすが500席の大型機ゆえ今回さすがにそれは不可能でした。
いつもは機上の人になると早く降りたくて仕方がないのですが、約2時間のフライトがもう少し長くても良かったかな〜なんて思ったJAL搭乗でした。ただ残念ながら機内Wi-Fiは混み合っていたようで使えませんでした。- 旅行時期
- 2018年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 搭乗クラス
- エコノミー
- 航空券の価格
- 20,000円未満
- 直行便
- 直行便
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- マイルを使いました。
- 接客対応:
- 5.0
- 特別ではないのがまた良い感じです。
- 機内食・ドリンク:
- 5.0
- たまにはコーラ♪
- エンタメ(映画・音楽など)設備:
- 3.0
- Wi-Fiのスピードが上がらなかったのが少し残念…。
- 座席・機内設備:
- 5.0
- 貧乏人の贅沢です(笑)。
- 日本語対応:
- 5.0
- 文句なしです。
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投稿日 2018年05月15日
総合評価:5.0
神姫バスはその名の通り神戸~姫路に繋がる兵庫県の瀬戸内側エリアを拠点としたバス路線を運行しています。最も阪神エリアは阪急や阪神といった電鉄系や市営バスがメインであって、加古川・姫路といった兵庫県西の路線を得意としているようです。
定期的に加古川線沿線の施設に行くことがあるのですが、なんせ加古川線は電化はされているものの電車の本数は少ないため、バスの利用が便利だということで神姫バスを利用しています。以前は大型バスが投入されていましたが、一便あたりの利用客数を考えると中・小型を用いてコミュニティバス形式で運行した方が効率は良く、それが生きてきているように思います。
私自身の利用は本当に稀なことですが、やはり地元の方にとっては重要な生活の足であることには変わりはないため、企業努力をして現在の運行本数を含めた路線維持をして頂きたく思いました。- 旅行時期
- 2017年04月
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 割高感はあります。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時間帯によりけりです。
- バリアフリー:
- 5.0
- ノンステップ車両が多いです。
- 乗り場へのアクセス:
- 5.0
- ターミナルは駅チカです。
- 車窓:
- 5.0
- 田舎の景色が眺められます。































































