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jijidarumaさんのクチコミ全587件

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  • ゲーテはハウプトヴァッヘのことを町一番の美しさを持っていると評した。

    投稿日 2024年04月17日

    カフェ ハウプトバッヘ フランクフルト

    総合評価:4.5

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:⑪この旅はゲーテ街道の出発点であるフランクフルトに戻って終わる。≫

    <2001年5月13日(日) 快晴 176km>
    Obrigheimオプリヒハイム 9:30に出発。 B37・A5・6 150km =>Frankfurtフランクフルト 市内観光 :レーマー広場・旧市庁舎レーマー、ゲーテ博物館、Hauptwacheハウプトヴァッヘ、Alte Operアルテオパーなど。B3・L? 26km =>Frankfurt Airportフランクフルト国際空港 :ハーツ車の返却、チェックイン、お土産購入。

    *レーマー広場そばの地下駐車場に車を停めて、市内に出る。
    (2012年にはParkhaus Hauptwacheハウプトヴァッヘの駐車場を利用した)


    【Hauptwacheハウプトヴァッヘ警衛所(監獄と市警察所)】
    旧市街のAn der Hauptwache 15

    1730年のバロック様式の建物は1944年、戦災で焼失したが、1954年に再建された。
    町の中心にあり、ゲーテはハウプトヴァッヘのことを町一番の美しさを持っていると評した。
    魅力的なRoter Mainsandstein赤色のマイン砂岩を利用して建てられた警衛所は、1905年以来、魅力的なカフェになっている。

    Hauptwacheハウプトヴァッヘ周辺はショッピングの中心で、日曜日なのでお店は全てお休みだったが・・・散策してみた。
    徒歩圏内で行けるAlte Operアルテ オパー(旧オペラ座)までの道は高級店が並ぶ。

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    4.0

  • ドイツを16年ぶりに再訪した旅は、ゲーテ街道の出発点、ゲーテハウスのあるフランクフルトで終わる。

    投稿日 2024年04月16日

    ゲーテハウス フランクフルト

    総合評価:4.0

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:⑪この旅はゲーテ街道の出発点であるフランクフルトに戻って終わる。≫

    <2001年5月13日(日) 快晴 176km>
    *ドイツ最終日、古城街道Obrigheimオプリヒハイムの古城ホテル ノイブルク城を9:30に出発。B37・A5・6を走る。
    Frankfurtフランクフルト(人口65万人の大都市)は150kmの距離である。
    レーマー広場そばの地下駐車場に車を停めて、市内に出る。

    【Goethehaus und Goethe Museumゲーテハウスとゲーテ博物館】

    公私ともに何度も来たフランクフルトだが、不思議なことに、このゲーテの生家と博物館はまだ見たことが無かった。
    レーマー広場の北西に200m行った所、マイン川からは北に300mの所に、ゲーテの顔が家の壁に見えた。
    本来、ゲーテ街道の出発点であるが、旅の最後に訪れることとなった。

    Johann Wolfgang Von Goetheヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832年)は1749年8月28日ここで生まれた。
    父は皇帝顧問官、母はフランクフルト市長の娘という恵まれた環境に育った。

    5階建てのゲーテハウスはもちろん第二次大戦後に再建されたものだが、調度品は元々のものだと云う。
    中庭のある1階には玄関の間、食堂、台所がある。
    2階はロココ調の中央の間、南・北の間、音楽室が其々ある。
    3階には父の書斎、母の部屋、妹の部屋、ゲーテ誕生の間、絵画の間と私的な階と言える。
    4階は“若きウエルテルの悩み”の初稿を書いた部屋・詩人の間があり、ゲーテ愛用の立ち机があった。隣の部屋には祖母から贈られた人形芝居の舞台があり、幼い兄・妹が楽しんだと云う。

    ゲーテ博物館は1997年にリニューアルされた際に隣接されたもので、ゲーテ時代の絵画やゲーテの資料が展示されている。
    当時としては大変な長寿である82歳で亡くなったゲーテの原点がここにある。

    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    3.5

  • フランケン・コーブルクに近い森の中にグルメレストランのシェフが経営する古城ホテル ホーエンシュタインがある。

    投稿日 2024年04月02日

    Romantik Hotel Schloss Hohenstein その他の都市

    総合評価:5.0

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:⑧フランケンの王冠と呼ばれたコーブルク大城塞は美しい姿で高台に立っている≫

    <2001年5月10日(木) 快晴 >
    Coburgコーブルク市内観光:Veste Coburgコーブルク大要塞・武器博物館など、市庁舎、Schloss Ehrenburgエーレンブルク宮殿・公園、人形博物館。 
    B289・L?=>Ahornアホルン・古城ホテルHotel Schloss Hohensteinホーエンシュタイン 17:20到着。

    コーブルクの近郊なのにB289・L?を行き過ぎたりして、森に囲まれた古城ホテルを見つけるのに時間がかかった。戻り道でこんもりとした森と城らしき建物に気がついて、山裾を回ってみた。森の中を進むと目的の古城ホテルが現れた。

    コーブルクからここまで27kmも走ったが、ナビがあれば半分で済んだろう。
    アホルン・古城ホテル ホーエンシュタインには17:20到着。

    <(1泊)Hotel Schloss Hohenstein古城ホテル ホーエンシュタイン>      
    D-96482 Ahorn 、Hohenstein 1
    全13室・?星、Park-Suite庭園側のスイート 、DM200(@56=11,200円)    

    コーブルクの近郊にあるこんもりとした森の中にこの城はある。
    1306年、Otto von Brandenburg, Markgrafオットー・ブランデンブルク辺境伯の妻であったJutta von Hennebergユッタ・ヘンネベルク, Gräfin von Coburg und Schmalkaldenコーブルク・シュマルカルデン伯爵夫人(1247年~1327年)の居城として建設された。
    1525年農民戦争で被災するも、1573年には再建された。
    1763年、時のコーブルク領主Ernstエルンストにより、今日ある城郭や庭園の姿に改築された。
    1941年にはドイツ帝国郵便に売却され、老人ホームなどに使用されることとなった。
    1989~96年に高級ホテル・グルメレストランに改装され、現在は二人のオーナーシェフにより営業されている。

    城の周辺には森が広がり、城門の前面にはロココ風SchlossPark城内庭園がある。庭園傍には礼拝堂があり、結婚式に利用されているそうだ。
    古城ホテルは天守閣を中心にして長方形の城郭が築かれている。城門をくぐると中庭があり、これを囲んでレセプション、レストラン、ホテル宿泊棟、会議室が設けられていた。
    今夜の部屋は1階のどっしりした、ドアーを開けた暗い廊下の先にあった。
    広いサロン付のスイート(28㎡)が用意されていた。
    スイートは3室あり、二つは2階にある。希望したバス付のダブルルームは無いため、ちょっと格上げのスイートにしてくれたようだ。

    尚、現在は<Romantik Hotel Schloss Hohenstein>と称している。

    ・・・・・

    地域の古城ホテルとして、かつて小さな古城ホテルに泊まった事があった。

    帰国辞令を受けて、受験期の長女の為に、家族を早めに帰国させていた。
    それで、1985年4月6日、この時は一人でフランケン地方を訪れ、一泊した。
    (当時はHotel Schloss Hohensteinはまだ開業していなかったのだ)

    古城ホテルSchloss Neuhofノイホフ城(Wohnheim Schloss Neuhofと称する)
    D-96450 Coburg 、Neuhofer Str. 20

    ノイホフ城はコーブルクの町から北に2kmと近く、ホテルとレストラン、野鳥公園を備えていたので、利用しやすかったのだ。

    1973年、Schwanstecherシュヴァンシュテヒャー夫妻が魅力的な、かつての水城を購入し、ホテルとレストランを経営した。だがその後経営不振で倒産してしまい、
    現在はWohnheim Schloss Neuhofと称した地域の福祉治療施設となっている。
    古城ホテルも中々経営は難しいようであるが、古城街道で2泊したノイブルク城のように経営を再開することもあるかもしれない。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    7,500円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    5.0
    バスルーム:
    5.0
    ロケーション:
    5.0
    客室:
    5.0

  • ツヴィンゲンベルグ城はネッカー川畔から眺めるのが一番だ。

    投稿日 2020年10月23日

    ツヴィンゲンベルク城 古城街道周辺

    総合評価:4.0

    ≪Burgenstrasseブルゲンシュトラッセ・古城街道≫ 

    ドイツの観光街道の一つ、古城街道は創設以来の58周年が過ぎた。
    中世からの歴史あふれる城は、それぞれの古城・館がその魅力的な風景を現在も保っている。ネッカー渓谷には多くの中世からの魅力的な城や館がある。
    ハイデルベルクの城、ホルンベルク城やグッテンベルク城がとりわけネッカー川沿いの城として知られている。其の他にもエーベルバッハ城、ヒルシュホルン城、ツヴィンゲンブルク城、エスリンガー城、シュトルツェネック城、ミンネブルク城、レムゼック城、ヴァイラー城、ディルスベルク城、ノイブルク城、ハインスハイム城、ホークハイム城、リーベンシュタイン城と数々の城が流域にはあり、興趣ある古城街道が整備されている。

    ①ドイツ16年ぶりの再訪:ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る
    期間 :2001年5月3日~5月14日 :12日間
    使用レンタカー:Volvo S80 2400CC  Diesel  Automatic
    5月12日(土)   快晴  214km

    ②2012年のドイツの旅:ロマンチック街道、シュヴェービッシュ・アルプ街道、古城街道の旅
    期間 :2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間の旅
    使用レンタカー:Renault Scenicルノー・セニック・2000cc・ ガソリン車・黒 5T 
    5月26日(土); 快晴で気持ち良い一日、26℃、140km 

    5月は“麗わしの春”の季節。
    今日のように真っ青な青空を言うのでしょう。本日も快晴。
    このネッカー川沿いにはライン川流域に負けないほど古城が多い。
    Mosbachモースバッハを経由して、B37を行く。Minneburgミンネブルク城址が山中に見える。

    <Burg Zwingenbergツヴィンゲンベルグ城>
    この旅43番目の城  17:00
    D-69439 Zwingenberg 、Schlossstrtasse 1
    http://www.schloss-zwingenberg.de

    ツヴィンゲンベルグ城は14世紀初期の城郭。緑濃い山腹に中世風の塔(40m)が高々と立っていて、ネッカー川畔から見る城全体が最も良い景観である。古城街道の名城と言われるだけの素晴しさがある。
    現在もバーデン大公の個人所有で、一般公開は行っていない。
    但し、作曲家ウエバーがこの地に来て、“魔弾の射手”を作曲したことから、毎年8月、城内でコンサートが開かれると云う。
    宿泊も可能とか。川に沿った横長の村民は680人。

    尚、「ツヴァイ~城ではないと思います」と口コミを書かれたはなはなさんのトップに出ている写真はヒルシュホルン城(古城ホテル)でしょう。

    ツヴィンゲンベルグ城から距離19kmにあるのはSchloss Hirschhorn ヒルシュホルン城(古城ホテル)D-69434 Hirschhorn am Neckarである。

    ・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0

  • コーブルク公爵のエーレンブルク宮殿には美しい見栄えだけでない、思いがけない歴史の背景がある。

    投稿日 2024年03月24日

    エーレンブルク城 その他の都市

    総合評価:4.5

    バイロイトの次に訪れたのは、距離120kmのCoburgコーブルクの町である。

    ここコーブルク公爵領はバイエルン州の北部・フランケン地方である。
    北はテューリンゲンの森、東をフランケンの森、南にマイン・フランケン平野に囲まれた地域で、ドイツの中央部にあたります。
    コーブルクはマインの支流Itzイッツ川(全長80km、Rattelsdorfラッテルスドルフを過ぎたところでMainマイン川に合流する)に沿って発展している。

    *英国王室(ハノファー王朝)、つまり Victoriaヴィクトリア女王の王配(おうはい:女王の夫のこと)Albrecht von Sachsen-Coburg-Gothaアルブレヒト・フォン・ザクセン・コーブルク・ゴータ(英語読みはアルバート、1840年-1861年)はCoburgコーブルクの出身であった。

    コーブルクの町はHerzog von Sachsen-Coburg und Gothaザクセン・コーブルク・ゴータ公家の宮廷があり、英王室との深い結びつきがあった町である。
    この事があった所為か?!第二次大戦下、英空軍はこの町を空襲しなかったと云う。
    また、コーブルクの町は連合軍の米軍により占領されたこともあって、大戦後東西ドイツに分離された際、幸いにも西ドイツ領になっている。つまり東西ドイツ国境線はコーブルクに沿って引かれ、コーブルクは国境沿いの町となった。
    (これも英国王室との関係の深さを物語るのかもしれない)

    14:35にコーブルク大要塞の駐車場を出て、コーブルク市内に戻る。
    要塞地区とは少々違って、優雅なSchloss Ehrenburgエーレンブルク宮殿前に来た。
    エーレンブルク宮殿は1547~1918年の間、コーブルグ公爵の居城であったので内部は見る価値があるそうだ。

    コーブルク:観光冊子の説明・・・エーレンブルク宮殿にはVorsaal控えの間、Familliensaalファミリールーム、Riesensaal巨大な間(バロック様式の宴会場)、Grosse Bildergalerie大ギャラリー、Rotes Empfangszimmer赤の応接室、Cobelinzimmerコブラン降りの部屋、Audienzzimmer接見室、Arbeistzzimmer書斎、Schlafzimmer寝室(ヴィクトリア女王の住居)、Thronsaal王座の間、プロテスタント教会などがあるらしい。


    だが、時間の割り振りで、結局好みの人形博物館を選び、宮殿、公園、州立劇場(旧宮廷劇場・1840年)などを外から見て回っただけになった。

    ・・・・・・・・・・・・・・

    尚、*ヴィクトリア女王と、王配(おうはい:女王の夫のこと)Albrecht von Sachsen-Coburg-Gothaアルブレヒト・フォン・ザクセン・コーブルク・ゴータ(英語読みはアルバート)の結婚式については、以下の事が参考になる。

    【ヴィクトリアは1836年にアルバートと会ったことがあり、その時の日記の中でアルバートを「髪は私と同じ褐色、目は綺麗な碧眼、美しい鼻と口。顔の表情は魅力的だ。同時に善良さと甘美さと知的さを持っている」と絶賛していた。

    もっとも1839年4月にヴィクトリアはメルバーン子爵に対して「私は当面いかなる結婚もしたくない」と語っている。アルバートのことは嫌いではなかったが、周囲が勝手にアルバートとのお見合いを進めているのが気に入らなかったという。
    だが結局周囲に流される形で同年10月10日にウィンザーを訪れたアルバートを引見することになった。この頃アルバートは身長こそ167センチと低めだが、顔は一層美男になっており、また高い教養をもっていた。ヴィクトリアはすっかり彼に一目ぼれした。引見の翌日に彼女はメルバーン子爵に対して「結婚に対する意見を変えた」と述べ、さらに翌々日には「アルバートと結婚する意志を固めた」と述べた。

    後日再びアルバートを召し、君主である彼女の方からプロポーズを行なった。「貴方が私の(結婚の)望みを叶えてくれたらどんなに幸せでしょう」と言ってプロポーズしたという。

    ヴィクトリアとアルバートは1840年2月10日にセント・ジェームズ宮殿で結婚式を挙行した。その翌日のレオポルド1世への手紙でヴィクトリアは「世界で私ほど幸せな人間はいないと思います。彼は天使のようです。昨日の披露宴は楽しくて熱気にあふれていました。ロンドン市内では群衆が果てしなく沿道に続いていました」と書いている。】
    (Wiki参考)

    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • ”フランケンの王冠と”称されるコーブルグ大要塞

    投稿日 2017年04月03日

    コーブルク要塞 その他の都市

    総合評価:5.0

    ここコーブルグ公爵領はバイエルン州の北部・フランケン地方である。北はテューリンゲンの森、東をフランケンの森、南にマイン・フランケン平野に囲まれた地域で、ドイツの中央部にあたります。町はマインの支流Itz(80km)イッツ川に沿って発展している。

    要塞はコーブルグの157mの小高い丘にその雄姿を見せている。Vesteにはエーレンブルグ城・公園から登ることもできるようだが、きつそうなので、車で町の裏手を迂回して要塞に近づいた。真っ青な青空と緑の森に映える赤レンガの屋根の要塞が見えてくる。手前に広い駐車場があって、2.8DMを管理人に支払い、歩いて向かう。徒歩10分で要塞だ。

    ≪Veste Coburgフェステ・コーブルグ大要塞・美術館≫
    2001年5月10日(木) 快晴  12:00~13:35 12DM
    http://www.kunstsammlungen-coburg.de 

    俯瞰図で見るVeste Coburgは楕円形の要塞で二重の城壁が周囲を取り巻いている。楕円形の真ん中に城門があり、これをくぐって城内に入ると、正面にはFuerstenbau領主の建物が見える。その右手にルターの礼拝堂があり、その横の階段を上がるとテラス上に素晴らしい眺望が開ける。5月の景色、真黄色の菜の花畑が緑の中に黄色い帯となって横たわっていた。城内には大きな菩提樹があって、その木陰が好ましい。

    更に向かって左手に古めかしいSteinere Kemenate石造の部屋の建物が建ち、順にCarl-Eduard-Bauカール・エドワードの建物(Carl-Eduardはコーブルグの最後の公爵・1945年に退位)、Herzoginbau公爵夫人の建物、Roter Turm赤の塔、 Blauer Turm青の塔、Hohes Hausがある。二つの塔のとんがり屋根の色が其々の色をしているのが分かる。

    “Die Fraenkische Kroneフランケンの王冠”と謳われるVeste Coburgは面積25000㎡の台上にある。歴史文書に名が出てくるのは1056年のことで、945年の歴史を誇る、ドイツ屈指の大要塞である。
    その歴史の断片は1248年Henneberg伯爵家が居城として、100年の間、VesteとCoburgを支配した。1353年から1918年の565年もの間はザクセンとテューリンゲンを支配した領主Wettinヴェティン家の支配になり、遺産相続によってErnst 1世公爵の家系が連綿として続くこととなる。(マイセンのアルブレヒト城の所を参照)。1782~86年は牢獄・収容所として使用されることもあったが、第二次大戦後の1946年、早々とバイエルン州の所有となった。

    17世紀にVeste の防衛機能が強化されたが、30年戦争の1632年、旧教の立場である皇帝側の名将Wallensteinヴァレンシュタイン将軍がこのVesteを攻城し、その守りの堅さにわずか一週間で攻めるのを諦めたという話は有名である。

    要塞内には4つの歴史的建造物があり、それらが連携して、膨大な、様々な美術・ガラス工芸品・武器などの博物館となっている。

    A)Steinere Kemenate石造の部屋;ルターの部屋・クラナッハ作のルターの肖像画がある、このCoburg城の小間で(1530年4月から半年間で)旧約聖書のドイツ語訳を完成した。
    工芸美術品では1320年のピエタ像、1360年のバンベルグのマドンナ、そしてデューラー、クラナッハなどの絵画。

    B)Carl-Eduard-Bauカール・エドワードの建物: ヴェネチアングラスなどのガラス工芸品、陶磁器、錫の工芸品など。    

    C)Herzoginbau公爵夫人の建物:中世からの歴史的な武器・甲冑・銃器の陳列があり、甲冑姿で馬上に乗った姿はすごい。狩猟の武器・道具、Jagdintarsienzimmer狩猟の間は見事な木彫りが見られる。刑罰用のマスクなども。16~18世紀の競技用ソリ、花嫁の馬車など多数の馬車・ソリ。現代の陶磁器などなど。

    D)Fuerstenbau領主の建物:Carl-EduardはCoburger Herzog von Sachsen-Coburg und Gohhaザクセン‐コーブルグ‐ゴータの領主でコーブルグの最後の公爵(1884~1954年)であった。公爵は1945年に退位したが、それまで家族と共に長く住んでいた。
    城の中心となる建物で、次ぎの様な部屋がある。ここは見学をしたのか、室内写真がないので、記憶が不鮮明なのだが、参考に記した。
    Vorhalle次の間・Kassenraum金庫の間とも呼ばれて、銭函がある。Wachhalle守衛の間には大砲など武器が陳列されている。

    Lutherkapelleルターの礼拝堂が今日の姿になったのは20世紀の初め。ルターの業績に敬意を示すと共にVeste滞在を記念し、この名を付けた。Jagdgalerie狩猟の間、Salon der Herzogin公爵夫人の間、Lucas-Cranach Zimmerクラナッハの間、Lesezimmer図書室、Speisezimmer食事の間、そしてFahnenzimmer・Rauchsalon軍旗の間・喫煙室には小冊子によると日本の昭和天皇から第二次大戦前に贈られたという、刀剣と日本人形(Die Geisya-Puppeとあるが!)が中央に置かれていた。

    また、1982年10月、スウェーデン王のカール16世が王妃と共に来訪したとある。ザクセン‐コーブルグ‐ゴータ公爵の王女であったSibyllaはカール16世の母であり、その母が最も幸せな時代を過ごしたFuerstenbau der Veste Coburgを懐かしんでの訪問だったという。

    ・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    5.0

  • ドレスデン:ツヴィンガー宮殿見学はアルテ・マイスターというギャラリーに絞った。

    投稿日 2024年03月20日

    ツヴィンガー宮殿 ドレスデン

    総合評価:5.0

    <2001年5月8日(火) 曇り 134km  : 累計913km>
    メルキュール・パークホテル・マイセンを9:15に出発する。DresdenとKönigsteinの見学へ。B6・172 60km =>”ザクセンのスイス” Königstein:Festung Königstein大要塞見学10:30~13:25 B172 40km =>Dresden 14:20~16:30 市内観光:Elbe川畔、Semperoperオペラ劇場、Zwinger宮殿・古典絵画巨匠展 、Residenzschloss、君主の行列、聖十字架教会。 L? 15km =>Jagtschloss Moritzburg :城内庭園・Café 17:10~18:10 。

    【Dresdenドレスデン市内観光】
    14:20~16:30
    ドレスデンで弧を描いて流れるエルベ川畔もまた美しい。
    第二次大戦の末期に米英軍の爆撃を受けて見る影も無いほどに被災したこの町は戦後の復興の中で営々と建物の再建・修復に尽力してきたという。
    とりわけFrauenkirche聖母教会は瓦礫の山から以前の姿に戻すという修復を続けている。驚くべきザクセン人魂である。

    見るところも多いので、残念ながら場所を選ばねばなら無い。

    <Zwingerツヴィンガー宮殿>
    14:50~16:30  DM14 (784円)
    1709年~32年、ザクセン王国の隆盛を体現した選帝侯Friedrich Augustフリードリヒ・アウグスト1世(子供200~360人?を生ませた事から“Der Starkeデアー・シュタルケ(強王)”と呼ばれ、ドイツ人に大変人気の高い王)によって建設された宮殿である。

    この後期バロック様式の離宮に名前の由来となった、高い楼閣・Zwingerツヴィンガーの塔が立ち、広い中庭、四方に噴水、内部には陶磁器コレクション、ギャラリー、武器博物館などがある。
    とても全部は無理で、ギャラリーに絞る。

    Alte Meisterアルテ・マイスターというギャラリーには15~19世紀の名だたる古典絵画巨匠の作品があり、今日はその展示を見に入った。
    ラファエロの“システィーナのマドンナ”は見事な傑作。ジョルジョーネの“眠れるヴィーナス”、フェルメールの“遣り手婆”や“手紙を読む少女”もある。そのほかルーベンス、レンブラント、ヴェラスケス、デューラー、アイク、グレコなどの世界有数の名画が見られた。

    宮殿北にある噴水にも寄ってみた。“妖精の泉”といい、たいへん美しい。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    5.0

  • ドレスデンの郊外に、狩猟館モーリッツ城が美しい姿をみせている。

    投稿日 2024年03月18日

    モーリッツブルク城 (モーリッツブルク) ドレスデン

    総合評価:4.0

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:⑥ドレスデンの守り・ケーニッヒシュタイン大要塞とザクセン王国の首都ドレスデンを巡った。≫

    <2001年5月8日(火) 曇り 134km  : 累計913km>
    メルキュール・パークホテル・マイセンを9:15に出発する。DresdenとKönigsteinの見学へ。B6・172 60km =>”ザクセンのスイス” Königstein:Festung Königstein大要塞見学10:30~13:25 B172 40km =>Dresden 14:20~16:30 市内観光:Elbe川畔、Semperoperオペラ劇場、Zwinger宮殿・古典絵画巨匠展 、Residenzschloss、君主の行列、聖十字架教会。 
    L? 15km =>Jagtschloss Moritzburg :城内庭園・Café 17:10~18:10 

    【Jagtschloss Moritzburg狩猟館モーリッツ城】

    ドレスデン市内の見物をして、L?を15kmほどドレスデンの北西に走った。

    ザクセン侯のバロック建築のJagtschlossヤークトシュロス(狩猟館)であった Moritzburgモーリッツ城が、美しい姿をみせている。この城は自然保護区の中にある。

    16世紀中頃に最初の城が築かれ、1723年アウグスト強王によって、現在の姿に改築された。赤いドームが四方にあり、城の周辺は池になっている。
    湖面に映える水城はもう夕暮も間近い。

    バロック博物館は1947年より開館された。
    館内にはザクセン・仏製の家具、日本・中国・マイセンの磁器、仏・伊・独の絵画などの展示があり、見学する価値もある。
    残念にも、今日は既に時間が遅く、城内のガイドツアー見学は無理だった。しかたなく広い城内庭園を散策した。
    大きなライラックが甘酸っぱい香りを漂わせ、満開であった。 
         
    <お茶: モーリッツ城のCafé;Lederzimmerレダーの間>  
    17:10~30  DM20(1,120円)現金。

    お茶の時間にも遅すぎたかと思ったが、(昼食なしで来てしまったので)給仕さんに聞いてみるとまだOKだという。美味しい林檎のトルテに紅茶・コーヒーを頂く。

    これからマイセンに戻り、旧市街観光を軽くして、夕食を旧市街で済ませる予定だ。

    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0

  • ドレスデン:宗教改革者マルティン・ルターの大きな銅像が聖母教会前に立っている。

    投稿日 2024年03月13日

    マルチンルター像 ドレスデン

    総合評価:4.0

    宗教改革者Martin Lutherマルティン・ルターの足跡をたどる上で、重要な町(Eislebenアイスレーベン 、Wittenbergヴィッテンベルク)が1996年に世界遺産に登録された。
    “Lutherstadtルターの町“はLutherstadt Eisleben 、Lutherstadt WittenbergとMansfeld-Lutherstadtマンスフェルト・ルターシュタットの三つを言う。

    また、“Bund der Lutherstaedteルターに関連する諸都市の連盟“が 1993年に Wormsヴォルムス(同地のルター記念碑建立125周年の時)で結成されている。
    Eislebenアイスレーベン 、Wittenbergヴィッテンベルク と共にWormsヴォルムス 、Augsburgアウグスブルク、Coburgコーブルク、Eisenachアイゼナハ、Erfurtエアフルト、Halleハレ (Saaleザーレ)、Heidelbergハイデルベルク、Magdeburgマグデブルク、Marburgマーブルク、Nordhausenノルトハウゼン、Schmalkaldenシュマルカルデン、Speyerシュパイアー、Torgauトルガウ、Zeitzツァイツの16都市である。
    ルターが活躍し、影響を与えた範囲に驚く。 

    写真に載せたルターの銅像(ポーズは異なるが)の写真がある。
    ドイツの旅に順次したもので、アイスレーベンの古図の所で書いた“Bund der Lutherstaedteルター都市同盟”のメンバーの一部である。


    2011.05.18. “Lutherstadtルターの町“のWittenbergヴィッテンベルク、Eislebenアイスレーベンのマルクト広場に立つルターの銅像

    2011.05.21.ドレスデン:再建されたFrauenkircheフラウエン教会(聖母教会)をバックに立つルターの銅像(ノイマルクト広場)

    2013.10.27.Wormsヴォルムス:Lutherdenkmalルターの記念碑像・・・ヴォルムスは宗教改革者としてその名を残したマルティン・ルターゆかりの宗教都市で、ルター都市同盟のメンバーである。

    2019.09.25.ハノーファー:マルクト教会南側に立つルターの記念像(現在の像)

    尚、この口コミに投稿されている他の方の写真はFriedrich August II. (Sachsen)フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン選帝侯) の像です。念のため。

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    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0

  • アウグスト強王を中心とした君主の行列は、2万5千枚のマイセン磁器タイルで描かれたもので最初に見る価値がある。

    投稿日 2024年03月12日

    君主の行列 ドレスデン

    総合評価:5.0

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:⑥ドレスデンの守り・ケーニッヒシュタイン大要塞とザクセン王国の首都ドレスデンを巡った。≫

    <5月8日(火) 曇り 134km  : 累計913km>
    メルキュール・パークホテル・マイセンを9:15に出発する。DresdenとKönigsteinの見学へ。B6・172 60km =>”ザクセンのスイス” Königstein:Festung Königstein大要塞見学10:30~13:25 B172 40km =>Dresden 14:20~16:30 市内観光:Elbe川畔、Semperoperオペラ劇場、Zwinger宮殿・古典絵画巨匠展 、Residenzschloss、君主の行列、聖十字架教会。 L? 15km =>Jagtschloss Moritzburg :城内庭園・Café 17:10~18:10 。L? 19km =>Meißen・Mercure Parkhotel Meißen に18:40到着。夕食は市内の中華料理店”中華園”19:00~20:30 、食後にFrauenkirch聖母教会、ワインケラー・Vinzenz Richter、マルクト広場・市庁舎を見て回る。

    【Dresdenドレスデン市内観光】
    14:20~16:30
    ドレスデンで弧を描いて流れるエルベ川畔もまた美しい。
    第二次大戦の末期に米英軍の爆撃を受けて見る影も無いほどに被災したこの町は戦後の復興の中で営々と建物の再建・修復に尽力してきたという。
    とりわけFrauenkirche聖母教会は瓦礫の山から以前の姿に戻すという修復を続けている。驚くべきザクセン人魂である。

    見るところも多いので、残念ながら場所を選ばねばなら無い。まず、戦災を免れた“Der Fürstenzug 君主の行列”の壁画を最初に訪れたい。

    Residenzschlossレジデンツ城(14世紀・ザクセン王の居城)の中庭に欧州最古の武芸競技場Stallhofシュタールホフがあり、その外壁にマイセン磁器のタイルで描かれた、101mの壮大な壁画が君主の行列である。

    1123~1904年の長期に渡り、Augustアウグスト1世の騎馬像や時代を彩った芸術家たち93名が描かれたもの。2万5千枚のマイセン磁器タイルで描かれたというのがこの町らしい。

    戦災を免れたのは奇跡であろうか!!

    ともあれ、行列の全体、最初の神聖ローマ皇帝Lothar von Supplinburgズップリンブルク家のロタール1世(推定)と、真中のFriedrich August Iアウグスト強王を撮っておいた。35名のザクセンの辺境伯・選帝侯・王が描かれているらしいが、勿論数える気は無いが・・・。

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    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    5.0

  • ドレスデンの守り・Festung Königstein フェストゥンク・ケーニッヒシュタイン大要塞

    投稿日 2017年03月26日

    ケーニヒシュタイン城塞 ドレスデン

    総合評価:5.0

    ドイツ16年ぶりの再訪
    ( 2001年5月3日-5月14日 :12日間 )
    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る旅*
    5・08(火) 曇り

    ≪Festung Koenigsteinフェスツング・ケーニッヒシュタイン大要塞≫
    要塞からはるかに遠い駐車場に車を停めて、岩上の要塞に向かって歩く。タクシーや観光用の小さな列車(遊園地に見られる)もあったが、ともかく歩き出す。

    ドレスデンからチェコ国境に至るエルベ川流域は”Saechsische Schweizザクセンのスイス”と呼ばれる景勝の地である。このあたりはElbsandsteinエルベ砂岩の山塊が続き、川による侵食で所々に台地が残り、独特の美しい景観を造っている。
    そのエルベ川が湾曲するあたりに巨大な台地・ケーニッヒシュタイン“王の岩”とも称されるものがあり、台上(海抜361m)は広さ9.5haもある。ドイツ最大の要塞として、750年間の歴史的な建物が30も建っている。後期ゴシック、ルネッサンス、バロック、19世紀の様々な時代の集合である。

    古くはゲルマンの一部族が台上に拠点を設けていたと云われ、最も古い歴史文書には1233年Gerhard von Steinにより城郭が築かれたとあるそうだ。中世当時はチェコのボヘミヤ王の支配下だったが、15世紀の初めより、ザクセンの領主の所有となっている。1516年、台上に”奇跡のマリアを称賛する”僧院がBaertigenのGeorg公によって設けられた。1589年にはザクセン選帝侯Christian1世が大要塞を完成させる。このザクセン王国の時代には首都ドレスデンの防御として、重要な拠点となり、ヨーロッパ内でも最強の要塞と謳われたと云う。16世紀の終わり頃から20世紀(第一次・第二次世界大戦)に至るまで、しばしばここは戦時捕虜の収用所や政治犯の牢獄として使われることになる。1806年ナポレオンの台頭によって、ザクセン王国は彼の支配下になり、1813年にはナポレオン自らが要塞の視察を行った。要塞はRheinbundライン同盟(連邦とも言い、ナポレオンを盟主とした南ドイツ諸邦の連合体で、プロイセン・オーストリア連合に対抗したもの)のものとなる。

    1955年には軍事博物館が開設され、1989年のベルリンの壁崩壊後はザクセン州の所有となり、2000年には民間所有と変わっている。
    この長い歴史の中で、不思議なことに築城した思惑とは異なり、HPを読む限りはこの要塞が大きな攻防戦を戦ったという記述が無い。

    大要塞見学 (10:30~13:25 、16DM)  

    城内めぐり見物・Zum Rundgangには66のポイントがあり、最短2時間は必要らしい。
    城内には橋を渡って、城門をくぐって行く道とチケット販売所傍に岩壁をくりぬいたエレベーター(1970年完工)があり、昇りは楽なこれにした。台上に上がると一気に展望が開けた。城内めぐりで選択して見たのは次のような場所だ。
    ①見張りの塔(1601、1600年)、②兵営、③29エレベーター、④突出した岩壁角、⑤クラニッヒ台地、⑥世紀から使用されたパン工房、⑦旧武器庫(1594年)、⑧Koenigsnase“王の鼻”と呼ばれる東に突き出た岩壁角、⑨雷痕の高台(300年もの歳古びた樫の木にしばしば雷が落ちたという。)、
    ⑩Friedrichsburg(見張りの塔として、1589年に建設。1731年にバロックの円形建物に改築され、現在は事務所に利用されている。ここからの景色は絶景で、エルベの向こうには砂岩の台地“Lilienstein百合の岩”が見えて、雄大な美しさを日の光の下で見てみたかった。)、⑫Hungerturm(飢えた塔・見張りの塔であったと云う。)。これで2.2kmの城壁を巡る散策が一巡する。この散策はたいへん魅力的で、台上の森や庭園、そしてElbtalエルベ渓谷を眼下に見ることができた。

    要塞の中央には⑬Magdalenenburg(1621年ルネッサンス様式の小城。アウグスト強王の命により、1725年に238,000Lが入る巨大なワイン樽が造られ、地下貯蔵庫に置かれたという。1818年防弾対策された食糧倉庫に建替えられた。)、⑭Brunnenhaus井戸の小屋(1563年要塞にとって最重要の水を確保するために、152.5mもの深い井戸が掘られた。最初は巻き上げ機によったが、1912年になって電気仕掛けになった。1998年以来、“水汲みショー”が行われている。この日も大勢の観光客が詰め掛けていて、残念ながら私共は断念した。)、⑮Schatzhaus宝物館(ザクセン王国の宝物の貯蔵庫。金貨を入れた樽が展示されていた。)、 
    ⑯新武器庫(1631年、ザクセンの記念物を飾る催し場として建設。今は1806~1945年の要塞建設や軍事史の展示や、Bundeswehrドイツ軍の軍事博物館として大砲などの武器の陳列場となっていて、興味深い。)、⑰司令官の家(司令官家族の私室には19世紀の家具。)、 ⑱Georgenburg(中世当時の城郭。1619年に改築し、最初は狩猟の館に、後に国家の政治犯の収容に使用された。)、⑲Torhaus(1589年、東の昇り口にあたる台上に建てられた。要塞の中心になる建物。この建物下に暗い通路があって、城門に至る。)、○4Torravelin城門(1590年)、⑳Rothe Bruecke赤い橋(入口に架かる橋。レンガの色からこの名がついた。)などを見て回ったが、とても2時間どころではなく、昼食もせずに歩いたが、3時間もかかってしまった。

    近くの保養地にでも宿泊して、ここもさることながら、ザクセンのスイスといわれる渓谷美を堪能して見たかった。

    xxxxx

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    5.0

  • ドイツ七名窯の第一に位置するマイセン磁器の美しさに感嘆した。

    投稿日 2024年03月07日

    マイセン磁器博物館 (マイセン磁器工場) マイセン

    総合評価:5.0

    【ドイツ七名窯の第一に位置するマイセン磁器の美しさに感嘆した。】

    エルベ川に面した西洋磁器の発祥地として知られる古都マイセンはドレスデンから20kmの位置にある。戦災の被害も少なく、中世の街の雰囲気を残した町だ。

    <5月9日(水) 快晴  264km>
    Meißen8:50に出発。=>マイセン磁器工場・博物館見学 9:15~11:15、Albrechtburg城・大聖堂見学 11:30~13:30 =>B101・A4・72・9 (Nossen・Cheminitz・Hof) 264km =>Bayreuth 16:30~17:10 市庁舎、城、新宮殿 ・ Hotel Jagtschloss Thiergarten 17:40到着。

    *快晴の古都マイセン。今日は気持の良い朝だ。ホテルを8:50に出発して、少し離れた所にある州立マイセン磁器工場に向かう。場所は思いのほか目に付きにくく、工場前を通り過ぎてしまい、2度行ったり来たりしてしまう。

    【Porzellan-Manufaktur Meißen州立マイセン磁器工場】 
    (9:15~11:15 、入館料DM28=1,680円)

    ヨーロッパを代表するマイセン工房と磁器博物館を見学し、その美しさに感嘆した。
    工房はガイドツアーのみだが、実際に創作中の様子を見ることができ、テープによる日本語解説もあって、分かり易く、楽しく、興味深いものだった。

    磁器博物館には18世紀から現代まで、年代に従って、総数3000点の磁器が陳列されている。また、階段下のスペースには、可愛い花模様のマイセン食器を長テーブル上に、テーブルセッティングとして陳列していた。見事なものです。
    陶磁器で作られたパイプオルガンも目を引くものでした。

    (1階のお店で、小さなマイセンの薔薇模様の花瓶を購入した。決めるのに時間がかかったが。 DM 379.85=22,800円)

    尚、マイセン磁器のブランドマークは青い交差した剣である。マイセン磁器であることを証明するマークだ。

    【Meißen マイセン磁器】
    ヨーロッパの磁器の先駆けとなった、Meißenマイセンは*ドイツ七名窯の第一に位置する。宮廷錬金術師のBöttgerベットガーは1709年、ヨーロッパで初めて白色磁器の製造に成功した。ベットガーの仕えるザクセン選帝侯アウグスト1世は磁器製造の秘密を守るため、1710年、磁器工場をアルブレヒト城内に作り、ベットガー達を磁器製造に専念させた。“白い黄金”と称されるマイセンの白色磁器はヨーロッパ中の人気を博し、大きな富をもたらした。

    マイセンのブランドマークは青い交差した剣であり、最も人気の高いモチーフはZwiebelmusterツヴィーベルムスタ(玉葱模様、英語ではBlue Onionブルーオニオン)と呼ばれ、コバルトブルーの色合いを持ち、昔も今も全てが磁器職人の手作業で、繊細且つ優美に造られている磁器である。

    <*参考追記(2008.04.10.):ドイツの陶磁器>
    18世紀後半、ドイツでの磁器窯隆盛の時代、「ドイツの七名窯」に挙げられた、歴史ある由緒ある名窯は、《 第一にヨーロッパの磁器の先駆けとなった、Meißenマイセンであり、Höchst ヘキスト・Fürstenberg フュルステンベルク・KPM Berlinベルリン・Nymphenburgニュンフェンブルグ・FrankenthalフランケンタールそしてLudwigsburgルードヴィクスブルグの7つです。

    その後、18世紀の半ばから、ドイツ各地に磁器窯が造られ、ドイツに於いて、マイセンがキングなら、ドレスデンはクイーンと例えられているDP Dresdenドレスデンや、Villeroy&Bochヴィレロイ・ボッホ、Rosentahlローゼンタール、Hutschenreutherフッチェンロイター、テューリンゲン陶磁器のKloster Veilsdorfクロスター・ヴェールスドルフやKahlaカーラ等が創業されている。

    ドイツを旅する上で、楽しみの一つは“世界に冠たる”ドイツの陶磁器を見ることです。博物館の名品を見て回ることも良いのですが、直に名窯の工房をのぞき、作品の仕上がる工程を見るのも楽しいものです。

    ・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    5.0

  • 世に名高いマイセン磁器が始めて創られたアルブレヒト城を見学した。

    投稿日 2024年03月06日

    アルブレヒト城 マイセン

    総合評価:5.0

    【世に名高いマイセン磁器が始めて創られたアルブレヒト城を見学した。】

    エルベ川に面した西洋磁器の発祥地として知られる古都マイセンはドレスデンから20kmの位置にある。戦災の被害も少なく、中世の街の雰囲気を残した町だ。

    <5月9日(水) 快晴  264km>
    Meißen 8:50に出発。=>マイセン磁器工場・博物館見学 9:15~11:15 、Albrechtburg城・大聖堂見学 11:30~13:30 =>B101・A4・72・9 (Nossen・Cheminitz・Hof) 264km =>Bayreuth 16:30~17:10 市庁舎、城、新宮殿 ・ Hotel Jagtschloss Thiergarten 17:40到着。

    【Albrechtburgアルブレヒト城見学】
    11:30~13:30  DM 14

    州立マイセン磁器工場からマイセンの旧市街に戻り、アルブレヒト城への道を歩いて上る。台上からはエルベ川の流れと向こう岸に私共のメルキュール ホテルが望めます。
    Dom大聖堂(13~15世紀のゴシック建築)前にアルブレヒト城がある。

    古都マイセンは千年を超える歴史を持つ町である。
    この地がザクセンの“ゆり籠”(発祥の地)と呼ばれるように、ザクセンとテューリンゲンを支配した領主Wettinヴェティン家のErnstエルンストとAlbrechtアルブレヒト兄弟により、エルベ川左岸の高台に1471年ドイツ語圏最初の居城と称するアルブレヒト城が築城された。一部はルネサンス様式も見られるが、後ゴシック様式で建てられている。
    ヨーロッパで初めて白色磁器の製造に成功した錬金術師Böttgerベットガーをザクセン選帝侯アウグスト1世(強王)は磁器製造の秘密を守る為、1710年、磁器工場を城内に作り、ベットガー達を磁器製造に専念させた。
    磁器工場は1863年まで続いたという。

    磁器工場が城外に移転した後、アルブレヒト城は大掛かりな改装が行われ、ドレスデンの芸術アカデミーの11人によって、ヴェティン家の歴史やマイセンの歴史が壁に描かれた。当然、マイセン磁器の当時の工房の絵もある。
    1881年以来、城は博物館となる。1989年のベルリンの壁崩壊、1990年東西ドイツ統一と歴史的転換が行われ、1990年10月3日、この城内でFreistaat Sachsen自由州ザクセンの創立が宣言された。


    【Meißen マイセン磁器】
    ヨーロッパの磁器の先駆けとなった、Meißenマイセンはドイツ七名窯の第一に位置する。宮廷錬金術師のBöttgerベットガーは1709年、ヨーロッパで初めて白色磁器の製造に成功した。ベットガーの仕えるザクセン選帝侯アウグスト1世は磁器製造の秘密を守るため、1710年、磁器工場をアルブレヒト城内に作り、ベットガー達を磁器製造に専念させた。“白い黄金”と称されるマイセンの白色磁器はヨーロッパ中の人気を博し、大きな富をもたらした。

    マイセンのブランドマークは青い交差した剣であり、最も人気の高いモチーフはZwiebelmusterツヴィーベルムスタ(玉葱模様、英語ではBlue Onionブルーオニオン)と呼ばれ、コバルトブルーの色合いを持ち、昔も今も全てが磁器職人の手作業で、繊細且つ優美に造られている磁器である。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • マイセン唯一の古城ホテル メルキュールからは、エルベ川の対岸にアルブレヒト城がよく見える。

    投稿日 2024年03月05日

    Dorint Parkhotel Meißen マイセン

    総合評価:4.5

    【マイセン唯一の古城ホテル メルキュールからは、エルベ川の対岸にアルブレヒト城がよく見える。】

    <2001年5月7日(月)雨 313km>
    Weimarワイマールを8:40スタート B85 79km=>Rudolstadtルードルシュタット10:20~12:30 市内観光:Schloss Heidecksburgハイデックスブルク宮殿、市庁舎。 B88(Jena) 53km=>DornburgドルンブルクのDornburger Schloesser古城群 13:45~14:30 ;ゴシック・ルネッサンス・ロココスタイルの三つの城(1766~1822年にゲーテがしばしば滞在した)。B88・A4(Geraゲラ・Cheminitzケミニッツ・Nossenノッセン)B101 181km =>Meissenマイセン・Mercure Parkhotel Meissenに17:00到着。

    *いわゆる観光街道のゲーテ街道はワイマールから北東に120kmほど離れたLeipzigライプツィヒが終点であり、今回の旅もここに向かうべきなのであろうが、ライプツィヒよりもMeissenマイセン・Dresdenドレスデン観光を選んだ。

    B88・A4を順にGeraゲラ・Cheminitzケミニッツ・Nossenノッセンを走り過ぎると、マイセンに至る。B101でマイセン近くになると、丘の上にいくつも風力発電の大きな翼が回っていて、なかなか壮観な眺めだ。ドイツは風力発電の先進国だけに独特の姿をよく見かける。一気に走った距離は181kmになる。
    Mercure Parkhotel Meissenメルキュール・パークホテル・マイセンに17時丁度に到着した。

    エルベ川に面した西洋磁器の発祥地として知られる古都マイセンはドレスデンから20kmの位置にある。戦災の被害も少なく、中世の街の雰囲気を残した町だ。
    マイセンの旧市街はエルベ川の左岸にあり、今夜から2泊するメルキュール・パークホテル・マイセンはちょうどその対岸にあって、ホテルの庭先からAlbrechtsburgアルブレヒト城が良く見えた。

    <(2泊)Mercure Parkhotel Meißenメルキュール・パークホテル・マイセン>
    (旧称はParkhotel Pannonia Meißenパークホテル・パンノニア・マイセン) 
    D-01662 Meißen 、Hafenstr. 27-31
    4星・全97室、224-1号室(215x2=DM 430x@60=25,800円)

    エルベ川に面しているホテル(2008年現在は更にホテル名がWelcome Parkhotel Meißenウエルカム・パークホテル・マイセンと変わった。更に2024年現在はDorint Parkhotel Meißenドリント・パークホテル・マイセン)である。
    マイセン磁器を扱う商人により、1870年、当時の建築スタイルであるJugentstilユーゲント・シュティール(青春様式=仏語のアール・ヌーヴォー:ドイツ語圏の世紀末美術の傾向を指す)で建設されたVillaヴィラで、小さなメルヘンチックな城の外見をもっている。

    この館を改造し、1993年にはホテルとして開業した。
    レストランなどのある本館と新たに増設した二つの宿泊棟、会議室棟がある。
    さすがにマイセン磁器の名品が本館内に飾られている。

    宿泊客が多いようで、ホテル前の駐車場はいっぱいで、辛うじて駐車できた。
    宿泊棟の部屋は広く、現代的な明るい色調の、まずまずの部屋でした。

    翌日の朝食時には空に明るさが出てきたので、食後はホテルの庭に出てみた。
    ホテルのテラスからエルベ川に向かって緩やかなスロープになっていて、川べりに小さな小屋があった。そこから見るアルブレヒト城の雄姿は見事だ。
    エルベ川は広い川幅をもっているので、観光船はゆったりと運搬船は忙しげに往来していた。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    7,500円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.0
    バスルーム:
    4.0
    ロケーション:
    5.0
    客室:
    4.0

  • エアフルト大聖堂:ゲラ川に囲まれた盆地の上に発展した宗教都市は雨で寒かった。

    投稿日 2024年03月04日

    大聖堂 (エアフルト) エアフルト

    総合評価:4.0

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:②ドイツ文化の源流と云われるアイゼナハをじっくり観光し、翌日宗教都市である州都エアフルトを訪れた≫

    <2001年5月6日(日) 雨 101km>

    アイゼナハ・ホテル ガルニ ブルクフリードを9:00に出発。A4・B7 68km => Erfurtエアフルト10:00~12:35 市内観光:旧市街・フィッシュマルクト広場、市庁舎、ギルドハウス、クレーマー橋、Kaisersaalカイザーザール 、Domドーム広場と大聖堂 =>B7 33km Weimarワイマール13:00 市内観光

    *テューリンゲン州の州都Erfurtエアフルトは人口20万人を越える。
    西暦805年にフランク王国カール大帝によって造られた町で、1200年の歴史を誇る。町は交通の要路に位置し、宗教都市・商業都市として発展した。

    <市内観光>
    10:00~12:35、狭い旧市街を中心に徒歩でまわる。

    ゲラ川に囲まれた、盆地の上に発展した町であるが、宗教都市の面も見せている。小高い丘の上にDomドーム(大聖堂)と三本の尖塔を持つSeverikircheセヴェリ教会が見える。ドーム広場から見る二つの建築姿は荘厳なものだ。

    ドーム(大聖堂)は742年創建という。ロマネスク、ゴシックの建築様式が見られる、現在の建物は1465年頃のもので、内陣のステンドグラスがその美しさで知られている。
    ドーム広場から階段を上ると大聖堂の入り口に至る。
    大勢の観光客らが雨の中、熱心に参拝している。

    <昼食:Dom Cafeドーム カフェ>
    Domstufen 1, Erfurt,   
    ドームの階段横にカフェがあり、軽食が食べられるようだ。
    雨の降る寒い日にはこれが一番と、Gulaschsuppeグーラシュズッペ(パブリカ風味の肉入りシチュー)とパンを食べる。ほんとに安い、二人でDM6(342円)の昼食である。現金払いは当然か!

    大聖堂近くのドーム広場には雑貨、食料品、花などのお店が雨の中で営業中だ。のぞいて見て、テーブルクロスに気に入ったものがあったので購入する。
    (DM29.9(1,710円)

    <お茶:Rathaus Cafeラートハウス カフェ>   
    RATHAUS ARCADE FISCHMARKT 1、99084 Erfurt
    急に小用に行きたくなる。これも寒い所為か?!ともあれ、市庁舎にあるカフェに飛び込んだ。やむなくコーヒータイムを取った。値段はDM7(400円)で昼食代と同じだった!

    12:35、エアフルトから一路ワイマールを目指して、B7の道を33km走る。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0

  • フルダ観光の目玉はやはりドイツのキリスト教徒の心の故郷と云われるバロックの壮大な大聖堂だろう。

    投稿日 2024年02月17日

    大聖堂 (フルダ) フルダ

    総合評価:4.0

    【ドイツ16年ぶりの再訪:①ゲーテ街道をフルダ、シュパンゲンベルク城、古城ホテル ヘッセンの王子に走る】

    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    この旅で『ドイツ感傷旅行の第一回』がスタートする事となった。

    使用レンタカー:Volvo S80 2400CC  Diesel  Automatic
    初めて乗ることになったボルボ車は大きく、がっちりとした車である。

    <2001年5月4日(金) 晴れ、 306km>

    8:30Sheraton Frankfurt Airportをチェックアウト。ハーツレンタカーにて手続き後(Volvo S80 2400CC Diesel)、フランクフルト 9:10スタート =>誤ってOffenbachオッフェンバッハに入り込む。以後 => A66・B40 102km Fuldaフルダ・人口6万2千人、市内観光:宗教都市の旧市街、大聖堂、聖ミカエル教会、バロックの城、城公園・オランジェリー、旧市庁舎。

    *フランクフルト空港から北東のフルダまで100km、あっと言う感じで着いてしまう。
    旧市街近くに駐車場を見つけることができて、ほっとして市内観光をスタートした。

    【フルダ市内観光】
    ヘッセン州の古都、Fuldaフルダはバロック建築が多く見られる宗教都市(司教領主の支配地)である。
    “陸の水”と古代ドイツ語の意味を持つ*フルダ川が街に沿って北に流れ、Weserヴェーザー川に注ぎ込む。そのフルダ川のほとりに、744年聖ボニファティウス(英人・ドイツのキリスト教化に努めた事から「ドイツ人の使徒」と呼ばれる。754年オランダで反キリスト教徒により殺害された)がベネディクト派の修道院を建てたことから、この町は発展したという。

    その修道院教会の上にDom大聖堂がバロック様式で建てられた(1704~8年)。
    今日の観光の第一はこのバロックの壮大な大聖堂を見ることだ。

    ドーム広場に二つの対称となる尖塔を持つどっしりとした、力にあふれた教会がある。
    ドイツのキリスト教徒の心の故郷に相応しい、たたずまいである。
    内部に入ると、意外に聖壇(この下に聖ボニファティウスの墓がある)などの造りは質素だ。南ドイツの絢爛な教会内部と大きく違うのはルター以降のプロテスタントの影響が強い所為なのか?

    Domの後方にある聖ミカエル教会(Michaelsbergミカエルベルク)を見て、カスターニアン(マロニエ)の見事な並木道を歩いて、司教領主の居城Stadtschlossシュタットシュロス(18世紀バロック様式の城)に至る。
    現在は市政庁がある。

    長大な城の北側にはSchlossgartenシュロス公園があり、噴水の先にはオランジェリーが見えて、公園の花々が麗わしの5月を彩り、ドイツの春真っ盛りの景色を楽しむことができた。

    城門の前にはこの町を象徴している、聖ボニファティウスの十字架を掲げた銅像が建つ。
    旧市街には旧市庁舎をはじめ、様々な木組み建築の建物が見られ、楽しい街だ。

    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • ワイマールには文豪ゲーテとシラー、二人の家が仲良く残っている。

    投稿日 2024年02月14日

    ゲーテの住居 ワイマール

    総合評価:4.5

    【ワイマールには文豪ゲーテとシラー、二人の家が仲良く残っている】

    *ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道を巡る*
    ( 2001年5月3日~5月14日:12日間 )

    この旅で私共の『ドイツ感傷旅行の第一回』がスタートする事となった。

    <2001年5月6日(日) 雨 101km>
    12:35、Erfurtエアフルトから一路Weimarワイマールを目指して、B7の道を33km走る。ワイマール(世界遺産・1998年登録)に13:00の到着だ。
    早速、人口6万人の小都市の市内観光をスタートする。
    (13:00~17:00)

    市内観光は旧市街の市庁舎、クラナハハウス、Stadtschlossシュタットシュロス城(クラナハなどの美術館)と外観のみを見て、イルム公園の奥まった所に白い壁の小さな、木組みの二階建てであるゲーテ山荘、シュヴァイツアー博士記念碑、シラーハウス、国民劇場と文豪ゲーテ・シラー像、ゲーテハウスなどを順に見て回った。

    かつてのワイマール公国の古都Weimarワイマールには文豪ゲーテ・シラーの足跡が残る。
    ゲーテと共にシラーはドイツで起こった文学運動の“Sturm und Drangシュトルム・ウント・ドランク;疾風怒涛”(世俗的道徳や因習を否定し、個性と意欲と自然を尊重した文学運動=古典主義文学運動とも呼ばれる)の代表的文人・作家である。
    ゲーテの“若きウエルテルの悩み” 1774年作、“ファウスト” 1808年作、シラーの“群盗” 1781年作、“ウイリアム・テル”1804年作などが代表作である。


    古都にはゲーテ、シラー、リスト、バッハ、クラナハ、ニーチェ、ヘルダー、フィヒテなどのドイツの文人・芸術家が住み、活躍した事跡がそこかしこに残っている。
    ゲーテが時の領主カール・アウグスト公に招かれて、この地に来たのは1775年であり、26歳の青年期から、82歳で亡くなるまで、文人・政治家として、その生涯の大半をここで過ごしたわけだ。


    <ゲーテハウス>
    ゲーテハウスは1782年から1832年、50年の間、文豪ゲーテ(同時に公国の政治家でもあった)が住んだ家である。
    二階は17室もあるという、黄色い壁の家は中に入ると陰鬱な感じであった。
    ファウストを執筆した書斎、質素な寝室、蔵書に囲まれた図書室、そして意外な鉱物のコレクション(ゲーテは鉱山監督も職務の一つであった)、馬車などを見ることができた。(入場料DM20)

    <シラーハウス>
    シラーハウスは文豪シラーの居住した家である。
    シラーは10歳年上のゲーテの招きに応じて、Jenaイエナ大学(現シラー大学)で教鞭をとった。
    その後、ワイマールに移り、この家には1802年から1805年に亡くなるまで住んでいた。
    傑作“ウイリアム・テル”もここで著したと云う。(入場料DM12)


    ・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.0

  • テューリンゲン州の州都エアフルト:ゲラ川をまたぐクレーマー橋上に32軒の4階建ての店舖が立ち並んでいる。

    投稿日 2024年03月02日

    クレーマー橋 エアフルト

    総合評価:4.0

    ≪ドイツ16年ぶりの再訪:②ドイツ文化の源流と云われるアイゼナハをじっくり観光し、翌日宗教都市である州都エアフルトを訪れた≫

    <2001年5月6日(日) 雨 101km>

    アイゼナハ・ホテル ガルニ ブルクフリードを9:00に出発。A4・B7 68km => Erfurtエアフルト10:00~12:35 市内観光:旧市街・フィッシュマルクト広場、市庁舎、ギルドハウス、クレーマー橋、Kaisersaalカイザーザール 、Domドーム広場と大聖堂 =>B7 33km Weimarワイマール13:00 市内観光

    *春の天気は気難しい。本日も雨の中、アイゼナハを9:00に出発する。A4・B7を走っていくと、68km、凡そ一時間の距離のテューリンゲン州の州都Erfurtエアフルトに到着した。この町は人口20万人を越えるが旧市街は狭い。
    西暦805年にフランク王国カール大帝によって造られた町で、1200年の歴史を誇る。町は交通の要路に位置し、宗教都市・商業都市として発展した。


    <市内観光>
    10:00~12:35、狭い旧市街を中心に徒歩でまわる。

    傘を差しつつ、まずフィッシュマルクト(魚市場広場)に行く。ドイツの町によくある守護神ローラント像が中心に立ち、春を祝った五月柱を見ることができた。
    この広場の周りには独特の色合いで飾った建物が囲んでいる。ルネッサンス風のギルドハウスやネオ・ゴシック様式の市庁舎は目立って美しい。

    庁舎の裏手にKrämerbrückeクレーマー(商人の意)橋(1117年)がある。
    Geraゲラ川(全長85kmと短く、Arnstadt、Erfurtの町を流れる)の上にかかる橋で、全長120m、幅が18mだという。その橋上には32軒もの4階建ての店舗が両側にあり、商店街を作っている。
    イタリアのフィレンツェにあるポンテ・ヴェッキオ橋にも行った事があるが、エアフルトの方がやや小ぶりなもので、民族性もあってか、ずっと整然としている。

    日曜日でどの店も開いていないのが寂しいが、木組み建築の店舗の裏手に回って、細流であるゲラ川から見る、クレーマー橋の景観は結構良いものだった。

    尚、クレーマー橋の近くにKaisersaalカイザーザールがあり、1808年ここでナポレオン皇帝によって、ヨーロッパ諸国会議が開かれた場所である。
    この時、州長官官邸でナポレオン皇帝がゲーテを謁見したという。ナポレオンはゲーテに向かって、ゲーテの出世作『若きウエルテルの悩み』を愛読し、7回も読んだものだ・・・と、語ったと伝えられている。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    人混みの少なさ:
    3.0

  • アイゼナハの観光で知られていないロイター・ワーグナー博物館がある。

    投稿日 2024年02月28日

    ロイター ヴィラ ワーグナー博物館 アイゼナッハ

    総合評価:3.5

    <2001年5月5日(土) 曇り後雨、肌寒し 59km>
    Friedewaldフリーデヴァルト 8:55出発。=>A4・B7 33km Eisenachアイゼナハ:市内観光 ;Wartburgヴァルトブルク城、ニコライの塔、マルクト広場、バッハハウス、ルターハウス、ゲオルク教会 =>Hotel Garni Burgfriedホテル ガルニ ブルクフリード 17:30着。

    テューリンゲンの森の北西部にあたるアイゼナハ、緑濃い山間によくぞ建てたものといった印象のWartburgヴァルトブルク城(世界遺産・1999年登録)がある。1800年になって、ドイツの歴史・文化を良く体現しているこのヴァルトブルグ城をドイツ民族の文化と精神活動の記念碑とするべく、再建された。

    ヴァルトブルク城の麓、本日の宿となったHotel Garni Burgfriedホテル ガルニ ブルクフリード(ヴァルトブルク山頂への入口に位置する小さなホテルで、旧市街の中心まで徒歩5分)傍に100年以上の歴史ある、詩人Reuter Villaロイターヴィラがあった。
    今は「Reuter Wagner Museumロイター・ワーグナー博物館」と称している。
    一階には19世紀のドイツの作曲家、指揮者、思想家であったRichard Wagnerリヒャルト・ワーグナー(1813年~1883年)の資料室が置かれ、ヴァルトブルク城も舞台となった“タンホイザー”の楽譜などが所蔵されている。
    二階はロイターの住居が保存されている。

    <ドイツの詩人フリッツ・ロイターについて>
    多分、日本人観光客には殆ど知られていないであろうFritz Reuterフリッツ・ロイター(1810~1874年)は19世紀、ドイツの詩人である。Friedrich Reuterフリードリヒ・ロイターとも呼ばれる。
    ドイツ北東部メクレンブルク・フォアポンメルン州のStavenhagen シュターフェンハーゲンで生まれた。彼の父はシュターフェンハーゲンの市長だった。
    低地ドイツ語で郷土での生活をユーモラスに描き、近代郷土文芸の先駆者と言われている。「宿なし」、「Aus der Franzosenzeit, 1859フランス時代より」、「わが農民時代より」など代表的な作品がある。
    晩年はテューリンゲン州のアイゼナハに移り、当地で逝去した。
    *低地ドイツ語は、ロイターのような低地ドイツ語作家の存在にもかかわらず、高地ドイツ語のよう標準ドイツ語として確立されていなかった。

    尚、Richard Wagner Museumリヒャルト・ワーグナー博物館はバイロイトにあるが、スイスのルツェルン近郊トリプシェンにもある、ワーグナーはここで1866年から1872年までの6年間を過ごした。

    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    3.5

  • アイゼナハでルターもラテン語を学び、ヴァルトブルク城内でギリシャ語の新約聖書をドイツ語に翻訳した。

    投稿日 2024年02月26日

    ルターの家 アイゼナッハ

    総合評価:4.0

    【アイゼナハではルターもラテン語を学び、ヴァルトブルク城内でギリシャ語の新約聖書をドイツ語に翻訳した】

    <2001年5月5日(土) 曇り後雨、肌寒し 59km>
    Friedewaldフリーデヴァルト 8:55出発。=>A4・B7 33km Eisenachアイゼナハ:市内観光 ;Wartburgヴァルトブルク城、ニコライの塔、マルクト広場、バッハハウス、ルターハウス、ゲオルク教会 =>Hotel Garni Burgfriedホテル ガルニ ブルクフリード 17:30着。

    テューリンゲンの森の北西部にあたる、緑濃い山間によくぞ建てたものといった印象のWartburgヴァルトブルク城(世界遺産・1999年登録)がある。
    1800年になって、ドイツの歴史・文化を良く体現しているこのヴァルトブルグ城をドイツ民族の文化と精神活動の記念碑とするべく、再建された。
    それはドイツの宗教改革者、神学者、教授、聖職者、作曲家であったMartin Lutherマルティン・ルター(1483年~1546年)がヴァルトブルグ城のLutherstubeルターシュトゥーベ(ルターの小部屋)でギリシャ語の新約聖書をドイツ語に翻訳した歴史的功績によると云える。
    ルターの生地・没地であるLutherstadt Eislebenアイスレーベンや、彼が長年神学教授を務め、「95ヶ条の論題」を発表して宗教改革の口火を切ったLutherstadt Wittenberg ヴィッテンベルクの町には、いまでもルターの遺構が数多く存在し、アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルター記念建造物群として、1996年に世界遺産に、2015年には著述作品などが記憶遺産に登録されている。

    ヴァルトブルグ城のルターシュトゥーベ(ルターの小部屋)は質素な、木張りの部屋であった。帝国追放例を受けていたルターがザクセン侯の守護の下で、この部屋で誰にも分かるように易しい言葉で、ギリシャ語の新約聖書をドイツ語に翻訳した。1521~22年の凡そ10ヶ月の短い間に翻訳したそうだ。
    尚、旧約聖書はこの後、Coburgコーブルク城(要塞)でドイツ語訳を完成した。
    宗教改革者ルターは聖書を万人のものとした。
    つまり、歴史的なことを成し遂げたわけだ。

    アイゼナハはマルクト広場を中心に市庁舎、ゲオルク教会、ルターの家、ニコライの塔などがある。
    ルターが説教をしたゲオルク教会、その先に中世の木組みの建築の姿でルターハウスがある。少年の日に3年ほどここに下宿し、ラテン語の勉強に通ったそうだ。
    (ルターハウスの入館料もDM10(x@57円=570円)


    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    3.5

jijidarumaさん

jijidarumaさん 写真

33国・地域渡航

12都道府県訪問

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、ロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、結局2023年もドイツの旅を見送ってきました。2024年はどんな年になるのだろう。
(2023.11.28.変更)

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