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jijidarumaさんのクチコミ(30ページ)全659件

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  • プラハ:バルタバ(モルダウ)川とカレル橋の眺めは春~夏の季節が一番のようだが

    投稿日 2016年05月20日

    ヴルタヴァ川 プラハ

    総合評価:4.0

    中欧4カ国周遊の旅 
    プラハ => ウイーン => ブラチスラヴァ => ブタペスト
      2003.11.26(水).~ 12.03(水) 8日間 

    11月27日(木):朝方は霧雨。摂氏6~8度。その後は曇り、正午頃にちょっと晴れ
    間が見えたが、結局、曇る。

    プラハ城の原型となる、スラブ人達による砦がこの高台に出来たのは7世紀の頃。
    13世紀にはボへミヤ王国が繁栄し、その後のフス戦争、30年戦争と宗教戦争が続き、王国はパプスブルグ家のオーストリア帝国に支配される。歴史の変遷は1991年のソ連消滅後のビロード革命によって、共産政権が崩壊し、1993年にはチェコとスロヴァキアが分離して、其々が独立の共和国になる。                    

    プラハ城は、町を見下ろす丘の上にある。灰色のどんよりした曇り空では、茶色の瓦で葺かれた屋根の旧市街やプラハを表現する“百塔の町”がよく見えない。城内には聖ヴィート教会、旧王宮、宮殿、修道院等が建っているが、一部は博物館、美術館になり、大統領府もここにある。                            

    黒塔近くの展望台からの眺めは、バルタバ(モルダウ)川の両岸の家々が曇天の下、霞んで見えています。ドイツ・マンハイムに始まる古城街道はプラハが終点ですが、いつか車で此処まで来てみたいものです。

    バルタバ川に架かるカレル橋を目指して、道を下り、川沿いの道に入り、居酒屋ふうのレストランを横に見ながら、橋に至る。
    カレル橋は14世紀頃にカレル4世によって築かれ、全長520mと長いもので、幅も10mと広く、ゴシック様式のどっしりした橋である。大勢の観光客が写真を写しています。
    橋の欄干には30体の聖人像が並べられ、ご利益があると言われる聖人像は、人がしばしば撫でる為、金色に光っています。私も当然、ご利益を願って、撫でましたけれども?!!異教徒は駄目でしょうか?!!
    やはり、このプラハは春~夏の季節が一番のようで、この古都の色合いが木々の緑と調和して、美しさを際立たせると思われます。



    旅行時期
    2003年11月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    景観:
    4.5
    人混みの少なさ:
    3.0

  • ブラチスラヴァ:ドイツ語でプレスブルグとよばれ、昔からヨーロッパ中部の文化センターだった

    投稿日 2016年05月19日

    ブラチスラヴァ城 ブラチスラバ

    総合評価:3.5

    中欧4カ国周遊の旅 
    プラハ => ウイーン => ブラチスラヴァ => ブタペスト
      2003.11.26(水).~ 12.03(水) 8日間 

    11月30日(日):一日中、曇り空。摂氏8度。 

    今日はスロヴァキアの首都、ブラチスラヴァ(総人口540万人、ブラチスラヴァは46万人)にバスで向かう。10:00~12:00、市内観光です。
    オーストリアと比較するとやはり経済的には恵まれていない国、町の様子がみえる。
    最近は日本との合弁企業も進出してきているようだが、ハンガリーにはまだまだ追いつけないようだ。
    ドナウ川沿いのこの街は1919年まで、ドイツ語でPressburgプレスブルグとよばれ、昔からヨーロッパ中部の文化センターとなっていたそうです。
    首都ブラチスラヴァはウイーンから流れるドナウの川下60kmに位置し、ウイーンの郊外と呼ばれるほど、歴史的、文化的に様々な影響を受けている。
    歴史的にはハンガリー王国の戴冠式の街に選ばれ、1563年から1830年まで、聖マルチン大聖堂でパプスブルグ家出身の11人の王が戴冠した。
    中でもオーストリアの女帝及びハンガリー女王マリア・テレジアの戴冠が有名で、その治世下、プレスブルグはたいへん繁栄した。1993年にはチェコと分離して、現在のスロヴァキア共和国が設立された。

    ドナウ川と旧市街を見下ろす85mの丘の上に、“ひっくり返したテーブル”と呼ばれるブラチスラヴァ城がある。
    18世紀のヴイーンの門を入り、城へ。1811年大火事にみまわれ、その後150年も城は廃墟のままであったが、漸く1953年に再建工事が始まり、現在も工事は続いているとか。
    現在の城は迎賓館、国立博物館の展示室になっていて、城内には入らず、お土産屋さんでのショッピング---可愛らしい小さな陶器の鐘を三つ、絵葉書を購入(7EUR)---や展望台の眺めを楽しむ。1971年完成の“新しい橋“がみえ、橋の鉄塔の上に空飛ぶ円盤のようなレストランがあるという。

    旧市街に下りる。入口に立つミハエル門は中が武器博物館になっていて、なぜか日本の刀が展示されていた。塔の上には回廊があって、高いところから、旧市街地が見える。
    ミハエル通りを歩いて、中央広場へ。クリスマス市が広場をうずめていて、いい香りの焼き栗マロンを買って食べる。美味い!広場に面した、14、5世紀の旧市庁舎は市立博物館になっていて、見学する。その後、スロヴァキア国立劇場、ホテル・カールトン、道端の“見つめる君”、“望遠鏡の紳士”の銅像をみてまわる。

    XXX

    旅行時期
    2003年11月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    2.5

  • ウイーン:消えてしまったレストラン”三人の軽騎兵”

    投稿日 2016年05月19日

    ドライ フザーレン ウィーン

    総合評価:4.5

    中欧4カ国周遊の旅 
    プラハ => ウイーン => ブラチスラヴァ => ブタペスト
      2003.11.26(水).〜 12.03(水) 8日間 

    11月29日(土):朝方曇天、昼より晴れ。摂氏8〜10度。

    夕食:”Drei Husarenドライ・フザーレン”---三人の軽騎兵

    ”ドライ・フザーレンDrei Husaren”---三人の軽騎兵の意で、1933年に三人の軽騎兵の士官によって賃貸されていたレストランで、最初の頃はカフェーの店であった。
    1993年に新しい経営者によって、より明るい、現代的に改装されたが、伝統的な、ウイーン風なスタイルを残していて、ウイーン料理の最高格式を誇っている店とのこと。

    18:30の予約時間通りにいく。お店はケルントナー通りをシュテファン寺院寄りにいった、ホテル・カイザリン・エリザベートの向い側にある。
    案内されてレストランに入ると、緑を基調にした家具などの装いがシックで、壁のテレジアン・イエローとマッチして、たいへん落ち着いたものだ。
    数組が入れる小部屋に案内される。イギリス人の観光客の夫婦、ウイーン市民と思われる夫婦、常連と思われる年配の女性等が其々の席で注文をしている。

    ピアノ演奏もある中、我々はまず、ドライ・シェリーTio Pepeで乾杯だ。
    今日はアラ・カルトで注文する事にした。

    前菜として、お奨めのローストされたエビを。
    スープはガチョウのスープを私だけが、いただきました。
    その後はメインとして、私は冬の定番(ジビエ)でもある猪の肉料理を、家内は鮭のメダリオンをいただく。
    ワインはレストランお奨めの赤GV.R.Sp.Mantler一本(38EUR)。
    エチケット(ラベル)を取って貰えば良かったが忘れてしまった。
    デザートはオレンジのムースとココナッツをかけたアイスクリームです。
    最後はコーヒー・ブラウナーを飲んで、満足した夕食でした。
    2時間のお食事代は合計180EUR(約25000円)でした。 

    https://www.youtube.com/watch?v=WM62Q2UjjT8 レストラン三人の軽騎兵

    参考:軽騎兵(けいきへい)について
    軽騎兵(けいきへい)は、楯と鎧の重装甲を帯び、敵の主力を壊滅させる目的で使われた重騎兵と違い、最小限の装備で足の速さを活かして後方撹乱や奇襲を主とした戦闘を行う兵種である。
    歴史的には、内陸ユーラシアの遊牧民の戦術に起源を持つ。この地域の牧民戦士は、遊牧生活の中で身につけた卓越した馬術と弓の技術によって弓騎兵として活躍し、近代的な火砲を基盤とする戦術が普及するまでは、ユーラシア大陸から北アフリカにかけての地域でもっとも有力な軍事勢力のひとつであった。
    近代兵種としてはハンガリー王国で初めて用いられたユサール(ハサー、フザール、驃騎兵とも呼ばれる)を示すことが多いが、竜騎兵や猟騎兵や槍騎兵やコサック騎兵も含んだ広義の呼び方もある。
    現在では、軽装甲車両や装甲兵員輸送車、オフロードバイクを主に用い、偵察を主任務とする部隊を軽騎兵 (light cavalry) と呼ぶこともある。(Wiki)

    XXX
    尚、レストランのHPをチェックしてみると、残念ながら現在は閉店になっていた。
    当時、JALの支店にも近く、分かりやすい場所にあった。珍しいレストラン名にも魅かれて訪れたが、次の復活を期待して、今は思い出の記録の一つとして残すことにした。

    旅行時期
    2003年11月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    一人当たり予算
    10,000円以上
    利用形態
    ディナー
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.5
    雰囲気:
    4.5
    料理・味:
    4.5

  • デュッセルドルフ:プファルツ選帝侯カール・テオドアが離宮・狩猟館とした、小さなベンラート城

    投稿日 2016年05月19日

    ベンラート城 デュッセルドルフ

    総合評価:4.0

    2014年ドイツ:北方二州を巡る
    (北方二州:シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州 &
    メクレンブルク・フォアポンメルン州を中心に巡る旅)

    (2014年05月09日~23日  15日間)

    05月22日(木) 82km、晴れ、26.6℃、
    ≪Schloss Benrathベンラート城見学≫
    13:25~15:50 入場料Euro18
    D‐40597 Dusseldorf ・Benrath 、Benrather Schlossallee 100-106
    http://www.schloss-benrath.de/

    ベンラート城はデュッセルドルフ市の郊外、南15kmにある。ライン川の水を引き込んだ61haもの広大なSchlosspark庭園もあり、市民の憩いの場になっている。
    ベンラート城の城門内に入り、駐車場を聞いてみると、ここには無いと言われ、ベンラートの町に引き返すことになった。ぐるぐる住宅地を走るが駐車スペースが見つからず、漸く見つけた給油所傍の駐車場に車を置けた。(Park代 13:47~15:55 Euro4.5)

    徒歩で10分ほど南に歩くと、ベンラート城の周辺道路に至り、宮殿と言っても良い美しい姿が目に入る。手前に大きな池と水を噴き上げる噴水、正面中央にピンク色した小さな宮殿と左右に対称形になって二つの“Kavaliersfluegel騎士の翼”という建物がある。
    裏手に回ると、ライン川に向かって縦に470mの長方形の運河“Spiegelweiher鏡池”が造られ、周囲を緑濃い深い森が囲む。その内、50haの広さの地域は自然保護対象区になっているそうだ。
    左にフラン式庭園、右にはイギリス式庭園もある好環境に恵まれて、庭園を散策している市民も多い。

    今年の春から初夏にかけてこの宮殿を舞台に様々な催しがある。5月27日~31日まで“Schumannfestシューマンフェスティバル”が催され、6月8日には“Benrather Schlosslaufベンラート城マラソン”、6月28日には“Traeumereien am Romantik-Schlossロマンチックな宮殿でトロイメライ”のクラシックコンサートが花火・光・噴水と競演されるという。それ以外の季節にも様々な舞台として、この宮殿は最適の場所なのでしょう。

    切符売り場で次のベンラート城のガイド案内を確認すると、14時だという。
    宮殿博物館の開館:火~日、10~17時。

    ガイド案内は1時間で14:00~14:45。城内はカメラ禁止、手荷物禁止で厳しい。
    Corps de Logis(仏語:どう発音すのかわからないが、宮殿の意)と称されている宮殿は2階建15室に豪華なフランスの家具と陶磁器・絵画を展示している。
    Gartensaal庭園の間(食事の間)、 Salon Muratムラートのサロン、フランケンタールの陶磁器コレクション。

    <ベンラート城の歴史>

    ベンラート城には元々はHerren van Benroidベンロイドの騎士の城砦があったと云う。
    12世紀の終わりに、Grafen von Bergベルク伯がこれを取得した。ただ、当時の城が通常の平城であったのか、水城であったのか、定かになっていない。
    1660年、Herzog Philipp Wilhelm フィリップ・ヴィルヘルム公爵の二番目の妻であったElisabeth Amalia Magdalenaエリザベート・アマリア・マグダレナ公妃の指示で、水城に形を変える事になった。1662~67年にかけて、夏の離宮・狩猟館に新しく建て変え、公爵家族がしばしば滞在したと云う。
    その後、Kurfuerst Johann Wilhelm von Pfalz-Neuburg(genannt Jan Wellem)プファルツ・ノイブルク選帝侯ヨハン・ヴィルヘルム(通称ヤン・ヴェレン)はデュッセルドルフ城(旧市街にあった城:1260年にベルク伯が築城~1872年に火災で焼失)を増築して居住したが、同時にベンラート城も良く使用し、候の二番目の妻Anna Maria Luisa de’ Medici アンナ・マリア・ルイザ・ド・メディチと共に避暑地として訪れている。

    1755~69年、マンハイムのKurfuersten Karl Theodor von der Pfalzプファルツ選帝侯カール・テオドアが、新たに離宮・狩猟館として建てたのは後期バロック様式の城で、現在のようなベンラート城の城館と庭園が整われた。城内には美しい84室もの大小の部屋があると云う。
    また、ハイデルベルクに橋や門を建設し、離宮・狩猟館としてSchloss Schwetzingenシュヴェツィンゲン宮殿(シュパーゲルで有名な町)を建てている。ベンラート城はシュヴェツィンゲン宮殿と比べて規模は小さいが良く似ている。

    XXX

    旅行時期
    2014年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    4.0

  • レーゲンスブルグ:この美しい町は二つの顔を持っている。一つは石、もう一つは水。

    投稿日 2016年05月13日

    石橋 (レーゲン) レーゲンスブルク

    総合評価:4.5

    <2008年ドイツバイエルン州:バイエルン王国、アルペン街道>
    04.29 (火) 小雨 時に激しく 9℃、 163km

    ドナウ川に架かる石橋はドイツ最古の橋(1135~46年の建設・プラハのカール橋などの原型になった)でこの町の景観に欠かせぬものだ。雨の降る中、石橋の真ん中まで歩いた。振り返った眺めがこの町一番ものと言われるが、あいにくの雨で一番の眺めが台無しなのが残念だ。
     
    『この美しい町は二つの顔を持っている。一つは石、もう一つは水。ドナウ川から眺めてみると、この二つが一つに溶け合う。 (サンドラ・パレティ)』

    橋から見るドナウ川は結構川幅もあり、今日は雨の為、水量も多いようだ。Historische Wurstkuecheの近くに観光船が3隻ほど停泊しているのが見えた。

    橋の先に市の北門、左手に旧塩の倉庫、Dom St.Peterが見える。

    XXX

    旅行時期
    2008年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    5.0

  • レーゲンスブルグ:ヴルストキュッヘに寄らなければ、レーゲンスブルグに行ったことにはならない!

    投稿日 2016年05月12日

    ヒストーリッシェ ヴルストキュッヘ レーゲンスブルク

    総合評価:4.5

    <2008年ドイツバイエルン州:バイエルン王国、アルペン街道>
    04.29 (火) 小雨 時に激しく 9℃、 163km

    ドナウに架かる石橋(1135~46年の建設・プラハのカール橋などの原型になった)に向かった。石橋そばに昔は塩の倉庫があり、今はカフェ・レストランになっている。
    この建物の前には石畳の広場があって、焼きソーセージ料理の名代の店がある。
    その昔、夏の盛りの季節でしたが、広場に張られた赤いテントの下で、家族皆がこのソーセージ料理を食べたことがあった。
    家族からは好評のコメントがあったことを覚えている。

    ≪昼食:Regensburgレーゲンスブルクの”Historische Wurstkuecheヒストリッシェ・ヴルストキュッヘ伝統の味ソーセージレストラン”で。≫

    ドナウ川に面し、数百年もの間、人々に楽しんでもらった伝統の味の店である。
    名代は自家製ソーセージの炭焼き料理である。

    雨の外は寒いので、小さなれんがの小屋に入った。汗をかきながらソーセージを焼いている厨房の横を通り、35名の席しかない小さな部屋に入ったが、幸いにも、入口傍の角にテーブルが空いていた。

    注文品は6本か、12本かの違いだけで、”Sechs auf Kraut“焼きソーセージ6本とザワークラウト(酢漬けキャベツ)とDunkelsビールを私が、家内は暖かい紅茶を。
    ここのソーセージは太くもなく、大きくもない、味も好みで、食べやすい。

    古めかしい室内は様々な有名人の写真などが掛けてあり、Hochwasser大洪水の記念碑(版)もある。それらは店内のどこまで水位が来たかと記したものだが。1954年7月の洪水は家内の背丈(148cm)ほどの高さだ。その他にも1965年6月、1988年3月のドナウ川大洪水が記録されていました。
    1988年3月27日ではドナウとともに増水したのがエルベ川でしたが、最近では2013年7月に起こったエルベ川の大洪水がすごく、流域のドレスデンが水に埋まり、大変でした。

    ”Wer nicht in der Wurstkuchl war 、ist nicht in Regensburg gewesen。ヴルストキュッヘに寄らなければ、レーゲンスブルグに行ったことにはならない!”とお店のパンフレットにある。

    嬉しいことにこの町に入ると同時に私共はこれを実践したわけだ。

    (13~14 Euro 22)        http://www.wurstkuchl.de

    混んでいることも多く、その場合はドナウ川を眺めながらテラス席で食事することになるが、一度はレストラン内部で食事することをお勧めする。

    XXX

    旅行時期
    2008年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    一人当たり予算
    2,000円未満
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    サービス:
    5.0
    雰囲気:
    5.0
    料理・味:
    4.5

  • コルマール:ピノ・グリの伝来伝説の主人公ラザール・ド・シュヴァンディ男爵の像が立つ

    投稿日 2016年04月02日

    旧税関広場  コルマール

    総合評価:5.0

    “ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”           
    オーデンの森・黒い森・バーデンワイン街道(カイザーシュトゥール)・仏アルザス地方(コルマール・シュトラースブルク・アルザスワイン街道)・シュヴァーベン地方の古城群・フランクフルト近郊のタウヌス・懐かしのデュッセルドルフ。

    期間 : 2015年7月14日(火)~7月28日(火)15日間の旅
    <カイザーシュトゥール地方を巡り、ライン川を越えて、フランス・コルマール観光へ>

    7月19日(日)  朝方は小雨、昼頃から晴 21.5~28℃  123km

    Koifhus (Ancienne douane ) 旧税関:
    15世紀の旧税関は1480年建設のゴシック様式、1575年建築のルネサンス様式の2つの異なる時代の建築様式が一緒になっている建物だ。 Grand’rue とRue des Marchandsの二つの通りが合流する場所にあり、かつてコルマールの行政・経済の中心地として、交易品にかかる税金を徴収した場所であった。
    今も1階部分は休憩所や、イベントスペースとして活用されている。
    カラフルな色彩、きれいなモザイク模様の独特の屋根が見られる建物で、小さな尖塔のある庇の付いた外部階段が目に付く。

    Fontaine Schwendiシュヴァンディの噴水:
    旧税関の建物内を通り抜けると、周囲をカラフルな木組みの家々に囲まれた広場の中心に、神聖ローマ帝国の将軍、Lazare de Schwendiラザール・ド・シュヴァンディ男爵(1522 ~1583年)の銅像と噴水がある。
    コルマールには銅像は多いが、こちらも自由の女神像を手がけたバルトルディの作品(1898 年)である。第二次世界大戦中に銅像は完全に破壊され、今は再建されたものだ。

    <シュヴァンディとピノ・グリの伝来伝説>
    シュヴァンディが右手に掲げるのはぶどうの苗木で、男爵はアルザスにブドウのPinot Grisピノ・グリ種をもたらした功績者と云われている。きれいな黄金色、スモーキーなニュアンスやアプリコット、ハチミツを感じるアルザスのピノ・グリの伝来伝説がある。
    このピノ・グリは1565年頃、トルコ軍との戦いでオーストリア軍に従軍していたラザール・ド・シュヴァンディ男爵がハンガリーのトカイの村から持ち込んだという有名な伝説が伝えられているのだ。
    バーデン地方とアルザス(カイゼルベルグ近くのKientzheimキエンツハイムの村に男爵の城Chateau de Schwendiシュヴァンディ城があった。)に所有地があった男爵は、キエンツハイムにピノ・グリ種のぶどうを植えて増やすように命じたと云われている。

    <シュベンディ家とシュヴァンディ男爵の栄誉>
    シュベンディ家はOberschwaben上シュヴァーベン地方の出で、12世紀初めに騎士領主として名が歴史に登場している。バーデン地方カイザーシュトゥールにあるブルクハイム城の歴史で1561年、Reichsfreiherr von Hohenlandsberg神聖ローマ帝国ホーエンラントベルク男爵のLazarus von Schwendiラザラス・シュベンディ(仏語でLazare de Schwendiラザール・ド・シュヴァンディのこと)が所有した時期が隆盛を誇ったようだと前述したが、シュヴァンディ男爵はKaiser Karl V.皇帝カール5世、Maximilian II.マクシミリアン2世、 そして Ferdinand I.フェルディナント1世に仕えて功のあった外交官、政治家、かつ陸軍大将・司令官でした。
    1863年2月、オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝Franz Joseph Iフランツ・ヨーゼフ1世の決裁にて、「世評に高い、後世の模範ともなるオーストリアの名誉ある指揮官、将軍」のリストにシュヴァンディ将軍が推戴された。
    更に、この栄誉を称え、Heeresgeschichtliches Museumウィーン軍事史博物館の“Feldherrenhalle将軍たちのホール”にかつての将軍の身長と同じ大きさの像が納められた。像はカララ大理石を利用し、彫刻家ピーター・ルッツ(1828~1907年)により、1867年に完成し、その像は皇帝ヨーゼフ1世自身によってホールに捧げられたと云う。
    http://www.hgm.at/

    <Lazarus-von-Schwendi-Staedtebundラザラス・シュベンディ都市同盟>
    上のラザラス・シュベンディ都市同盟(1986年創設)の紋章はEhrenkirchenエーレンキルヒェン(フライブルクの南13kmにある人口7千人の町)の市庁舎に掲げられている。
    ドイツ、フランス、ベルギーのラザラス・シュベンディと関係のある都市の同盟である。
    シュベンディ男爵の居城Chateau de Schwendiシュヴァンディ城があったKientzheimキエンツハイムの村に1986年に各都市の代表が参集して、友好都市としての同盟を創立した。
    都市同盟に参加する17都市は以下の通り。
    ドイツ:Kirchhofen (Ehrenkirchen)、Burkheim, Triberg、Mittelbiberach und Schwendi、 alle in Baden-Wuerttemberg。
    フランス:Kientzheim、Ingersheim、Logelheim、Sigolsheim、Wintzenheim、Turckheim、 Munster、Ammerschwihr、Niedermorschwihr、Katzenthal、Kaysersberg、
    alle im Oberelsass。“上アルザス地方”の自治体メンバーはアルザスワイン街道を走ると、目に入る町や村である。
    ベルギー: Philippeville(Festung)、in Wallonien(Provinz Namur).

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.5

  • ”Koeケー”と愛称されている世界に冠たる通り

    投稿日 2016年03月27日

    ケーニヒスアレー デュッセルドルフ

    総合評価:5.0

    <Duesseldorfデュッセルドルフ>:  12:30~16:30
    http://www.duesseldorf.de/

    一年ぶりのデュッセルドルフは昨秋の頃よりはきれいな街の姿を見せていた。早速目的のケーニヒスアレー(“王様の小道”と称される)、通称Koeケーに行って、Cafe Heinemannカフェ・ハイネマンのチョコレート、パイケーキを購入した。

    “ケーニヒスアレー=Koeケー”と愛称されている世界に冠たる通りで、1801年、ミュンヘン王宮の建築家のプランを採用して、現在の1kmの並木道が完成したのです。
    幅82mの大通りで、真ん中のお堀を挟んで凡そ400本のカスターニアン(マロニエ)が大きく育った並木道が続く。
    ホーフガルテン方向を正面にして、右側には高級ブティック、ブランド品の店、カフェ・レストランが並んでいる。
    左側にはドイツの銀行やオフィス、ホテル、カフェ・レストラン、ブランド品の店等がこの街の顔として並んでいる。

    2013年10月20日(日)に久しぶりにデュッセルドルフを訪れ、ハイネマンのチョコレート、パイケーキを購入したが、2014年05月21日(水)にも飛行機便の関係から帰国便をANAのデュッセルドルフ=>成田を選択した。

    ANAが直行便をこの春から乗り入れたこともあって、2年連続となり、今年はLH(ANA運航)がベースながら同様となった。

    XXX

    黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅㉙懐かしのデュッセルドルフとハイネマンのお土産

    http://4travel.jp/travelogue/11115916

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • タウヌス丘陵にある古城ホテル レッタースホーフ城

    投稿日 2016年03月20日

    Schlosshotel Rettershof フランクフルト

    総合評価:3.5

    フランクフルト近郊のRetterswaldレッタースの森に入り、少し行くと視界が広がって、大きな広い牧場に出た。“ケルクハイム(タウヌス)の宝石”と呼ばれるRettershofレッタースホーフという場所に着いた。その一角高台に古城ホテルがある。

    ??7月24日(金)、25日(土)
    (2泊)Schlosshotel Rettershof 古城ホテル レッタースホーフ城: ?
    D-65779 Kelkheim 、Rettershof 5
    Tel:+49(0)6174 - 290 90 、 Fax:- 25 35 2
    http://www.schlosshotel-rettershof.de/cms/

    4星・全35室。No.110はホテルの入口から右手に延びるモダンな建物(新館)の一番手前の部屋でした。地上階だが、外から見ると空堀の上に立っているようなので2階にも見える。
    Euro158x2=316+(朝食12.5x4=50)=366(50,705円)。
    水2本、浴用ガウン。スリッパあり。
    2013年にホテル全室を改装したそうで、バルコニー付きの部屋は立派で広く、浴室も広い、バルコニーの向こうはRetterswaldレッタースの森、全体に設備も十分なもので満足だったが、Romatik Hotel に加盟したばかりのホテルにしてはレセプションの応対は少々悪かった。

    レッタースホーフ城はフランクフルト空港より西へ25kmの距離にあるKelkheimケルクハイムとKoenigsteinケーニッヒシュタインの間に位置している。
    タウヌス丘陵(自然公園)のレッタースの森、静かで緑豊かな牧歌的な地域に立つ古城ホテルは12世紀の修道院の敷地内に1885年に建設されたものである。
    2014年10月よりRomantik Hotelに加盟した。
    グルメレストランRetter'sはSchlemmer Atlas 12点、ドイツランク2217位。
    暖炉があるラウンジや広々としたテラス、それにサウナ、ボウリングレーン、テニスコートなどのレジャー施設も備えている。

    レッタース修道院とレッタース城の歴史:

    1146年、Graf Gerhard von Nueringゲルハルト・ニューリング伯がタウヌスの森の中にベネディクト派のKloster Retters im Taunusレッタース修道院を建てた。 
    1190〜1360年がKloster修道院の全盛期であったと云う。
    1559〜1581年、Graf von Stolberg-Koenigsteinシュトルベルグ・ケーニヒスシュタイ伯が、修道院からHofgutホーフグート居城に変えた。
    以降16世紀から19世紀の間、城主が変遷する。
    1581〜1803年、Kurfuerst zu Mainzマインツ選帝侯
    1806〜1866 年、Herzoeg von Nassauナッソー公爵
    1866〜1884年、Koenig von Preussenプロイセン王
    1884〜1885年、独英の貴族 Adelige Frederik Arnold Rodewald zu Feldheimフレデリック・アーノルド・ローデバルト・フェルトハイムが娘のAlice von Dieskauアリス・ディースカウが居住する城館として購入し、Tudorstilテューダー様式の小城に改築した。
    1885〜1903 年、アリス・ディースカウの所有となる。
    1903〜1924 年、ヘッセン王女Sybilleシビレと夫Friedrich Freiherr von Vinckeフリードリヒ・ヴィンケ男爵が所有。
    1924〜1979年、Felix von Richter-Rettershofフェリックス・リヒター・レッタースホーフと妻Graefin Hertha von Rotkirchヘルタ・ロートキルヒ伯妃が長く所有した。
    1945〜1953年、米軍に依り接収。
    1980 年、ケルクハイムの町が所有。
    1984〜1985年、城館の改装を行い、英国テューダー風の装いになった館にはグルメレストランや美しい庭園を備えている。
    2012年、Daniela SchwarzダニエラシュバルツとHans-Juergen Laumeisterハンス・ユルゲン・ラウマイスターが所有し、ホテル・レストラン経営を行う。
    2013年、更に会議用施設、ホテルの全室に改装を加えた。

    XXX
    日本に帰国する前に前泊しても良いし、タウヌス丘陵一帯の町巡りの基地にしても良いだろう。
    今回の旅では家内がスズメ蜂(Wespeヴェスペ)に刺された為、体調を崩して回復に努めたホテルになった。

    旅行時期
    2015年07月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    12,500円 未満
    コストパフォーマンス:
    3.0
    サービス:
    3.0
    バスルーム:
    4.0
    ロケーション:
    3.5
    客室:
    4.0

  • シラーの生家は小さな博物館、同時に中身のない博物館だった。

    投稿日 2016年02月20日

    シラーの生家 その他の都市

    総合評価:2.5

    “ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”
    期間 : 2015年7月14日(火)~7月28日(火)15日間
    7月23日(木)  朝は小雨、午後徐々に晴れる 17.5~27.5℃  140km

    ≪Schillerstadt Marbachシラーの町マールバッハ観光≫ 
    13:10~14:45
    http://www.schillerstadt-marbach.de/

    Stuttgartシュトゥットガルトの北20kmにシラーの町マールバッハがある。
    Marbach am Neckarネッカー川畔のマールバッハが正式名だ。
    人口15千人の田舎町であるが、ドイツの国民的作家シラー(1759年生まれ)はこの地に誕生している。そして現在もシラーの生家があることで知られている。

    <シラーの生家>:
    毎日10時~17時まで開館 、
    入場料Euro3X2=6(835円)

    Niklastorstr.31にある変哲もない小さな博物館だが、それと同じように中身のない博物館であった。
    シラーの母の絵やシラーの像ぐらいで、多分多くの資料はシラー国立博物館にあるのだろう。
    緑の窓扉が印象的な家にはシラーの生家であると銘板(中央上部)が架けられていた。
    これが無ければ通過してしまうような家だ。

    XXX

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    2.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    1.0

  • コペンハーゲン:何が何でも人魚姫の像を見たい!

    投稿日 2016年02月18日

    人魚姫の像 コペンハーゲン

    総合評価:3.5

    1974年(昭和49年)1月20日
    初めての海外旅行(初めて飛行機に乗った!)はドイツ・デュッセルドルフへの赴任の旅でした。当時、30歳の若造で赴任先でも一番歳下でした。

    19日に当時の羽田空港で家族(家内と娘二人)、両家の両親や親族、大学運動部の先輩・同期・後輩、会社の上司・同僚から盛大な万歳の声で送られて、意気揚々の赴任でした。
    乗機のJAL⁻411(21:50発)はアメリカ・アンカレッジでいったん給油の為降り(この頃はこれが普通でした)、ここを経由して次の経由地であるデンマークのコペンハーゲンに早朝6:00に着きました。

    最初の飛行プランはSK-611 コペンハーゲン9:45発、デュッセルドルフ11:00着の予定でしたが、これは満席で次便のLH-13を選んだのでした。LH-13はコペンハーゲン15:20発、デュッセルドルフ16:20着でした。
    この為、コペンハーゲンでは6時間の長い待ち時間が出たのです。そこで乗り換え時間を利用して、無謀にも!一人でコペンハーゲンの市内観光に行きました。
    無謀にも!と書いたのも、語学は中途半端だし、何かに巻き込まれて、時間通りに空港に戻れず、LH-13に乗り遅れたら、新任者を空港に出迎える方々に申し訳が無いからだ。

    8:00にバスでコペンハーゲン市内に向かい、市庁舎前で降り、近くにあったパレスホテル内で、9:00市内観光を申し込みました。時間は11:00から13:30の二時間半、料金は当時の記録によるとDK25でした。現在の3時間の定番観光ツアーはEuro120とある。
    携行外貨US$100から30をDK195.97に両替し、それから観光費用(DK56)、昼食(DK15)、絵葉書・郵便代(DK5)、タバコのケント2カートン(DK50)の土産などに使ったのです。

    市内観光はパレスホテル前のバスの発着所からスタートし、王宮前広場、丸い屋根のFrederiks Kirkeフレデリックス教会(ノルウェー産の大理石を用いたロマネスク・バロック様式の教会でMarmorkirken大理石教会と呼ばれている。)、17世紀に市街地が拡大するなかで築かれた新しい港がNyhavnニューハウンなどを回る。

    お目当ての人魚姫の像はコペンハーゲン港の北東部ランゲルニエ地区にある。
    おとぎの国デンマークの象徴、アンデルセン童話のDen Lille Havfrue人魚姫をモチーフにしたブロンズ像で、岩の上に腰掛けた姿である。完成は1913年8月23日、彫刻家エドワード・エッセンにより作られた。
    下半身は魚のはず・・が御約束事ですが、この人魚像は足首近くまでが人間のままであり、当時の像のモデルになった女性の足があまりに美しく、うろこで覆うのがしのびなかったためという話が残っている。
    尚、アンデルセン童話の作品は「裸の王様」「みにくいアヒルの子」「マッチ売りの少女」などが世界的に知られている。(私でも知っている。)
    さて、人魚姫の像は「世界三大がっかり名所」の一つに数えられているそうだが、残る二つは?ブリュッセルの小便小僧、?シンガポールのマーライオンだと云う。
    “人魚姫の像にはがっかり”と言われているのも、像が思った以上に小さい事や、周辺の景観の悪さからのようだ。写真でもわかるように人魚姫の像の背景に造船所などが見える。
    その他にも幾つか説があり、ドイツのローレライ、ローマの真実の口、シドニーのオペラハウスが三大がっかり名所だという説もあるとか。
    この話は観光客が増えてきてから広まったものだと思うが、1970年代半ばの私は何一つ知らなかったものだ。
    がっかりするかどうかは、人それぞれで、海外初めての私などは、何が何でも見てみたいと思ってやってきたので、感激したものだ。1974年1月当時の人魚姫の像の写真を見ると、観光客も少なく、港の波打ち際で寂しげに立っていた。

    Kastelletカステレットつまり星形要塞は人魚姫像のすぐ傍にあり、現在はその多くが公園に変わっている。1662年にコペンハーゲン港の入口を守るためにつくられた要塞はかつて巨大な星の形をしていた。
    デンマーク王室の居城Amalienborgアマリエンボー宮殿では、その王宮前の広場では伝統的な衛兵の交代式を見た。(毎日正午に実施)
    コペンハーゲン中央駅、コペンハーゲン市庁舎を回って、元のパレスホテル前に戻った。

    その後、まだ時間があり、絵葉書を買って、家内と会社宛てに航空便で送り、赴任先のタバコ好きの為にケント2カートンの土産を購入した。
    昼食を食べたはずだが、何をどこで食べたのかも写真・記録が無い。海外で初めての食事が分からないのは残念だが・・・。

    後で無謀だったかと思ったコペンハーゲンの市内観光も無事に終え、LH-13に搭乗し、コペンハーゲンを15:20に出発、1時間後、デュッセルドルフ空港に16:20到着した。
    空港には赴任先の社長、先輩、引継ぎを受ける前任者などが家族と一緒に出迎えてくれた。

    この日の夜から歓迎会があり、前任者からもドイツ生活の基本といった引継ぎが始まった。

    ・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    1974年01月
    利用した際の同行者
    一人旅
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    3.5

  • ルクセンブルク:40年前にクレルヴォー城を訪ねた

    投稿日 2016年02月12日

    クレルヴォー城 クレルボー

    総合評価:3.0

    ≪ベネルックス三国・ルクセンブルクの旅≫

    1976年4月17日~18日、イースター休みに1泊旅行でベネルックス三国の一つであるルクセンブルク大公国Grossherzogtum Luxemburgに出かけた。

    イースター休みながら4月16日は出勤し、4月17日も半日出たので、午後からの出発と忙しいものだった。
    アーヘンからベルギーに入り、ルクセンブルクに向かって南下する。見渡す限りの牧草地が続き、牛や羊の群れが点在していた。4月半ばを過ぎたが、まだまだ木の芽は萌えだしていない。夕方にルクセンブルクの古城Chateau de Clervauxクレルヴォー城に至る。
    夕日を浴びた古城は堂々たる構えで見事だった。
    この日撮った写真は外観だけ、時間もなくて中まで見ることが出来なかったようだ。

    この旅は年度決算業務もあり、その間をぬって急に決めた所為で、ホテルの予約もしなかった。Chateau de Viandenヴィアンデン城に向かうあたりでホテルも見つかると思っていたら、イースター休みでホテルもキャンプ場もいっぱいだった。慌てて、ヴィアンデンから12km離れたDiekirchディーキルヒのキャンプ場を見つけて、ここで一晩を過ごした。といってもテント持参でもなく、キャンピングカーもないので、夜はまだ寒く、車の中も冷え冷えとしたものだった。幸い親切な管理人さんが毛布を差し入れてくれたので、助かった。(この旅の後、家族4人が使用できるテントを購入した。)

    翌18日、朝日の中に大きな古城、ヴィアンデン城を見た。外観は見事なものだが、大きな塔、崩れそうな城壁、大きな暖炉跡といったもので、印象は城址といった感じであった。
    今、この城を調べてみると、美しく生まれ変わっていた。

    ルクセンブルク大公国は西ヨーロッパに位置するHaus Nassau・Nassau⁻Weilburgナッサウ・ヴァイルブルク家が元首となっている立憲君主制国家で、首都は同名のルクセンブルク市である。南のフランス、西と北のベルギー、東でドイツと隣接している。
    通常、いずれも小国のベルギー、オランダと併せて三国の頭文字をとって、“Beneluxベネルクス”と呼ばれている。

    この国も多くの古城、城塞、城址が残っていて、130以上の数があると云われている。
    その内、比較的世に知られた50の古城、城塞、城址を一覧表に纏めてある。
    50の古城、城塞、城址の代表的なものは:
    ドイツ駐在中に2度ほど訪れたルクセンブルクの古城Chateau de Clervauxクレルヴォー城とChateau de Viandenヴィアンデン城だ。

    <Burg Clervaux (Clervaux castle Chateau de Clervaux)クレルヴォー城>
    L-9710 Clervau 、11, rue Grand-Rue
    http://www.visitluxembourg.com/de/ansicht/castle/schloss-clervaux

    クレルヴォー城はルクセンブルク大公国の北部にある。クレルヴォー城はクレルヴ川(全長48km)に囲まれた人口1900人の村の頭上365mという高々とした断崖絶壁の上に立っている。
    この城の築城は12世紀に遡るが、残念な事に第二次世界大戦中の“バルジの戦い”で、戦火で破壊されてしまった。
    現在、城は完全に再建され、国内の古城を詳細に説明した城博物館、Edward Steichenエドワード・スタイケンの写真の展示場や、アルデンヌの戦いを示した戦争記念館、村の役所として利用されている。

    12世紀からの城の最も古い部分はヴィアンデン伯の兄弟であったSponheimスポンハイムのジェラルド伯によって構築されました。
    1400年頃、塔に囲まれた大きな宮殿をBrandenbourgブランデンブルク伯が居城としていたらしい。1634年には、Claude ・Lannoyランノイのクロードがフランドルのスペイン様式の大きな騎士の広間や、祝典の間を建設した。
    1660年には厩舎、貯蔵室および管理棟が加えられました。
    1944年12月16日〜18日、第二次世界大戦の『バルジ大作戦』(Battle of the Bulgeバルジの戦い)・クレルヴォーの戦いでついに破壊され、廃城となった。
    城は月曜日を除く毎日、午前10時から午後6時までビジターに開放されています。
    但し、1月と2月は休館。

    <Battle of the Bulgeバルジの戦い・クレルヴォーの戦い>
    第二次世界大戦末期(1944年12月~1945年1月)西部戦線・アルデンヌにおけるドイツ軍がアメリカ軍に対し仕掛けた最後の大反撃であった。Bulgeバルジとは「出っ張り」という意味で、ドイツ軍の進撃により戦線の一部が突出したことから米軍がこの名を付けたと云う。ドイツ軍の作戦名は「Unternehmen Wacht am Rheinラインの守り」と称した。
    12月、アルデンヌ戦線は「ゴースト・フロント」と呼ばれていた。ここ2ヶ月あまりも戦闘らしい戦闘が起こっていなかったからである。130kmにも及ぶ曲がりくねった戦線に配置されていた米軍は、わずかに6個師団。これは1個師団当たりの常識的な守備範囲から考えると3倍の広さといえた。この薄い配置に対し独軍は25万の将兵と1900門の重砲、970台の戦車・突撃砲を集結させていた。
    この作戦の成功に必要な条件は、「完全な奇襲と、連合軍の空軍が活躍出来ない天候」であった。秘密は完全に守られ、連合軍の上層部は独軍のこの反撃準備に全く気付いていなかった。そして、天候も希望通りの予報が出されていた。
    12月16日未明、ゴースト・フロントの全戦にわたって砲火の嵐が吹きすさみ、引き続いて独軍の進撃が始まった。
    第1ターン
    独軍第26歩兵師団、米第28歩兵師団を攻撃、これを後退させクレルヴォーを占領。米第9機甲師団はクレルヴォー=>Sankt Vithサン・ビット間に前進独軍の進撃路を封鎖。米第14騎兵グループ、独軍第62、第18歩兵師団の攻撃を撃退するものの続く独軍第3降下猟兵、第12SS装甲師団の攻撃を受けサン・ビット方面へ後退するも包囲される。
    米第106歩兵師団サン・ビット前面で独第116装甲師団を食止める事に成功。
    (1965年製作のアメリカ映画『バルジ大作戦』が知られている。)

    XXX

    旅行時期
    1976年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    展示内容:
    3.0

  • ルクセンブルク:40年前に訪れたヴィアンデン城

    投稿日 2016年02月12日

    ヴィアンデン城  ヴィアンデン

    総合評価:3.5

    ≪ベネルックス三国・ルクセンブルクの旅≫

    1976年4月17日~18日、イースター休みに1泊旅行でベネルックス三国の一つであるルクセンブルク大公国Grossherzogtum Luxemburgに出かけた。

    イースター休みながら4月16日は出勤し、4月17日も半日出たので、午後からの出発と忙しいものだった。
    アーヘンからベルギーに入り、ルクセンブルクに向かって南下する。見渡す限りの牧草地が続き、牛や羊の群れが点在していた。4月半ばを過ぎたが、まだまだ木の芽は萌えだしていない。夕方にルクセンブルクの古城Chateau de Clervauxクレルヴォー城に至る。
    夕日を浴びた古城は堂々たる構えで見事だった。
    この日撮った写真は外観だけ、時間もなくて中まで見ることが出来なかったようだ。

    この旅は年度決算業務もあり、その間をぬって急に決めた所為で、ホテルの予約もしなかった。Chateau de Viandenヴィアンデン城に向かうあたりでホテルも見つかると思っていたら、イースター休みでホテルもキャンプ場もいっぱいだった。慌てて、ヴィアンデンから12km離れたDiekirchディーキルヒのキャンプ場を見つけて、ここで一晩を過ごした。といってもテント持参でもなく、キャンピングカーもないので、夜はまだ寒く、車の中も冷え冷えとしたものだった。幸い親切な管理人さんが毛布を差し入れてくれたので、助かった。(この旅の後、家族4人が使用できるテントを購入した。)

    翌18日、朝日の中に大きな古城、ヴィアンデン城を見た。外観は見事なものだが、大きな塔、崩れそうな城壁、大きな暖炉跡といったもので、印象は城址といった感じであった。
    今、この城を調べてみると、美しく生まれ変わっていた。

    ルクセンブルク大公国は西ヨーロッパに位置するHaus Nassau・Nassau⁻Weilburgナッサウ・ヴァイルブルク家が元首となっている立憲君主制国家で、首都は同名のルクセンブルク市である。南のフランス、西と北のベルギー、東でドイツと隣接している。
    通常、いずれも小国のベルギー、オランダと併せて三国の頭文字をとって、“Beneluxベネルクス”と呼ばれている。

    この国も多くの古城、城塞、城址が残っていて、130以上の数があると云われている。
    その内、比較的世に知られた50の古城、城塞、城址を一覧表に纏めてある。
    50の古城、城塞、城址の代表的なものは:
    ドイツ駐在中に2度ほど訪れたルクセンブルクの古城Chateau de Clervauxクレルヴォー城とChateau de Viandenヴィアンデン城だ。


    <Burg Vianden(Vianden Catsle Chateau de Vianden)ヴィアンデン城>
    B.P.26 L-9401 VIANDEN, LUXEMBOURG
    http://www.castle-vianden.lu/

    ヴィアンデン城はルクセンブルク市から北北東45kmほどのヴィアンデン(人口は1600人程度の村)にある。ドイツとの国境に近く、ラインラント・プファルツ州と接する。
    ルクセンブルクの4大河川の一つOurウール川(全長96km)が流れる渓谷にあり、小高い丘の上にあるヴィアンデン城はルクセンブルク随一の美しい城として知られている。

    ローマ時代にすでにこの地に砦が建てられていたと云う。
    その砦跡にヴィアンデン城は11世紀にヴィアンデン伯が建てたもので、ロマネスクとゴシック様式の城塞式の居城である。中世の頃、ヴィアンデン城には24の見張り塔と5つの市門があったと言われているが、その縄張りは既に原型をとどめていない。
    当時、ヴィアンデン伯はルクセンブルク伯に対抗できるほどの勢力を持っていたが、相次ぐ内争によって衰退し、城も荒廃していった。18世紀後半には城は無住になった。
    第二次世界大戦でドイツに占領されたルクセンブルクの中で、1945年、アメリカ軍が最後に解放を果たした町として知られ、最後の戦いの記念碑が城を見下ろす場所に立っている。
    ヴィアンデン城は1977年に国有となるまでアドルフ大公の所有だった。
    この後、大規模な改修工事が行われ、城はかつての栄光を取り戻した。
    かつてドイツ駐在中に2度ほど訪れたが、今のような立派な姿ではなかった。

    尚、1862年、ヴィアンデンを訪れたフランス人作家Victor Hugoビクトル・ユーゴーはこのヴィアンデンの町と城とウール川畔が気に入ったと云う。美しい町の景色を気に入ったが、荒廃しきったヴィアンデン城を残念に思い、その修復を熱心に呼びかけたと云う。
    その後、ヴィアンデン城を救ったとして、ウール川の橋のたもとに彼の胸像が造られた。

    ビクトル・ユーゴー記念館 (Maison de Victor Hugo)
    ここは作家のビクトル・ユーゴーがフランス国外追放中に数か月過ごした家である。

    XXX

    旅行時期
    1976年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    3.0

  • リューベック:ジャガイモ料理が名物の店

    投稿日 2016年02月09日

    カルトフェル ケラー リューベック リューベック

    総合評価:4.5

    “北ドイツ周遊の旅”
    2005年4月21日(木)~5月5日(木)15日間 

    4/23 (土) 快晴 183km 

    1982年から数えて 23年ぶりの北ドイツです。
    夕食は先程覗いて来た聖霊養老院に併設されているHistorischer Weinkeller・Kartoffelkeller;ヒストリッシャーヴァインケラー・カルトッフェルケラーにいく。

    ここは友人のお勧めのレストランです。
    ヴァインケラーは気取らないワインと料理のお店で、もう一つのカルトッフェルケラーはジャガイモ料理が名物、入口は別だが中は一緒になっている。

    ちょっと暗くなってきた道をKlassik Altstadt Hotelから歩いて10分でレストランですが、夜7時にレストランに入ると人気の店らしく、お客で一杯です。予約をしなかったが、幸い二人席に直ぐに案内されて、ホッとする。日本人客は我々だけ。周りの席は年配のカップルが多く、落ち着いた雰囲気である。お客がどんどんやって来て、入口付近の席や、バーカウンターまでも埋まってきた。

    家内は名物のReibkuchen(ライブクーヘン;ジャガイモを摩り下ろし、小麦粉と混ぜて揚げた物)・林檎ジャムつきとバター焼きの鮭料理を、私の方は、鮭、ジャガイモ・ソーセージ入りのTopf(深鍋)、ビーフストロガノフとバターライスを注文。
    ビール0.5+0.3Lと共に、料理を二人で分け合いながら食べた。
    量もあって食べ残したが、勿体ほど美味しい。
    明日の晩も来ても良いかなと思う。

    (Euro50.85、19:00~20:50)

    旅行時期
    2005年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    一人当たり予算
    10,000円未満
    利用形態
    ディナー
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    4.5
    雰囲気:
    5.0
    料理・味:
    4.5

  • ローテンブルク・二重橋から見る“縁なし帽子のとんがり“の景観

    投稿日 2016年02月04日

    ドッペル橋 (二重橋) ローテンブルク

    総合評価:4.5

    ドイツのクリスマス :2009年12月7日(月)〜15日(火)

    12月10日(木);小雨模様の寒い一日、5.5〜7.5℃、162km
    Neckarwestheim  8:45 −>L?・(Ilsfeld)A81・A6・L? 62km 9:50 Waldenburg
    (クリスマス市;9:50〜10:15)10:15 −>L?・B19 19km 10:50 Schwaebisch
    Hall(クリスマス市・観光;10:50〜12:35) 12:35 −>B14・19・A6・L? 20km 
    13:10  Kirchberg a.d.Jagst(クリスマス市・観光;13:10〜13:45)13:45 −>
    L?・A6・A7・L? 61km 14:25 Rothenburg ob der Tauber(クリスマス市・観光
    ;14:30〜16:50)Burg – Hotel

    <ローテンブルク観光より抜粋>

    Spitalbasteiシュピタール稜堡; 14:25
    最も町が防御に力を入れた南口には、シュピタール稜堡(17世紀、2つのZwinger城塔、7つの門)がある。ここから左手に九十九折りに坂道を下って行くと、視界が開けてくる。

    Doppelbruecke二重橋; 14:30〜35
    タウバー川の清流にかかる二重橋は14世紀のもの。川沿いに教会、村落がたいへん絵になる形で、立っているのが、橋の上から見る事が出来る。
    この西の谷となるタウバー川から80m上の町を見上げると、城塞都市の違った風景が見える。遠く、帝国城塞(Burggarten)のBurgブルク門や、城壁下の斜面にはブドウ畑が見える。
    この景観をドイツ人は“縁なし帽子のとんがり“と呼ぶと言うが、なんとなくわかる気がする。

    Topplerschlosschenトップラー別荘;14:36〜40
    1388年に町の実力者トップラー市長の夏の別邸として作られた、小城とも称される6階建ての奇妙な建物である。
    春には帝国城塞(Burggarten)の公園テラスから見下ろしたが、今回は狭い道際に車を停め、塀から覗き込んでみた。
    小雨模様になって、誰も見かけないので、博物館らしい中には入らずに旧市街に向かった。

    XXX

    旅行時期
    2009年12月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.5

  • イスタンブ−ル:「ローマの城」という意味のルメリ・ヒサル要塞

    投稿日 2016年02月03日

    ルメリ ヒサル イスタンブール

    総合評価:3.5

    1974年12月28日〜1975年1月6日 
    ≪年末年始:ギリシャ(アテネとその近郊)・トルコ(イスタンブ−ル)の旅≫

    1975年1月2日:

    新年を迎え欧亜の境にあるBosphorusボスポラス海峡を船で巡った。
    ヨーロッパ側の旧市街のMarmara Seaマルマラ海に近い船着場から船に乗り、Black Sea黒海の入口近辺まで航海した。
    ボスポラス海峡に面したオルタキョイ桟橋広場にある“ボスフォラスの真珠”と称されるOrtakoey Mosqueオルタキョイ・モスク(1853年)やDolmabahce Palaceドルマバフチェ宮殿(1856年)・・・ドルマバフチェとは「埋め立てられた庭」と言う意味で、ヨーロッパから取り入れたバロック様式と伝統のオスマン様式を折衷した豪華な宮殿である。・・・、豪華な建物が続く街並みを見ながら船は進んだ。

    船を下りたのはRumel Hisarルメリ・ヒサル要塞でした。要塞見学後、ここからバスでホテルに戻った。

    ルメリ・ヒサル要塞(1452年)はオスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープル(現在のイスタンブ−ル)郊外に造営したもので、「ローマの城」という意味である。
    東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープル攻略の拠点とする為、4ヶ月の短期間に完成させたと云う。ボスフォラス海峡の最狭部(幅660mほど)のヨーロッパ・サイドに位置する場所に城塞を建てたものだ。
    当時のコンスタンティノープルはマルマラ海と金角湾にはさまれた半島の一帯に中心部(現在の旧市街)があり、海と古代ローマ帝国以来の堅固な城壁に守られた難攻不落の城塞都市となっていたそうだ。良港であった金角湾の入り口には東ローマ帝国によって鉄製の太い鎖が張られ、オスマン艦隊の進入を阻止していたが、メフメト2世は艦隊を陸上から丘越えで金角湾に移動させるという奇策に出てコンスタンティノープルを陥落させた。

    31千?の広大なルメリ・ヒサル要塞には3つの大きな塔が立ち、13の小さな見張り塔がある。それらは城壁で連結され、最も大きな北の塔は高さ28m、直径23m、幅7mの厚い壁を持つという。ボスフォラス海峡に面した要塞は高々とした塔、長々とした城壁が今も残り、海峡を睥睨している。

    旅行時期
    1975年01月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    3.5

  • シドニー;ブルー・マウンテンズ:三人姉妹の伝説が残る奇岩を中心に見事な景観が望める。

    投稿日 2016年01月17日

    スリーシスターズ&エコーポイント ブルーマウンテンズ周辺

    総合評価:4.0

    2004年6月7日―6月13日 :シドニーの旅

    6月12日(土)快晴  
          
    一昨日とは様変わりで、朝から快晴の気持ちよい天気だ。
    昨日は疲れがたまったせいか、歯肉が腫れて、
    痛くなっていたので、すこしゆっくりした起床となった。
    10時に大学運動部の後輩M君の迎えがくるまで、朝食をロビー横
    のレストランで頂く。
    豪州流の朝食は始めてで、まごつく。やはり、朝食にしては多い。

    時間通りの迎えで、本日も車で恐縮だが、フルアテンドとなる。
    今日はブルー・マウンテンズへ案内してもらう。
    ブルー・マウンテンズ国立公園はリトル・グランドキャニオン
    とも称されて、シドニーの西約100kmの所----車で約一時間半
    ---にある。
    かつては海底で、地殻変動や火山活動で現在のような山脈が
    形成されたそうだ。
    海抜1000m前後で、見た感じは丘陵だ。
    ユーカリの木が一帯に繁茂し、木から発散するオイル分に
    よって、山全体が青く霞んで見えることから、
    ブルー・マウンテンズと呼ばれている。

    リリアンフェルズ・ブルーマウンテンズ (Lilianfels,Blue Mountains)
    ホテルから歩いて数分の所に、エコー・ポイントがある。
    ここから、魔王の手から逃れる為、岩になった、三人姉妹の伝説が残る、
    スリー・シスターズの奇岩が一望のもとだ。色々な場所から眺望を
    楽しむ為、移動する。何処から見ても、見事な景観である。


    XXX

    旅行時期
    2004年06月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • シドニー;ブルー・マウンテンズ:ヨーロッパ風のカントリー・ハウスのホテル

    投稿日 2016年01月17日

    リリアンフェルズ ブルー マウンテン リゾート アンド スパ ブルーマウンテンズ周辺

    総合評価:4.0

    2004年6月7日―6月13日 :シドニーの旅

    6月12日(土)快晴  
          
    一昨日とは様変わりで、朝から快晴の気持ちよい天気だ。
    昨日は疲れがたまったせいか、歯肉が腫れて、
    痛くなっていたので、すこしゆっくりした起床となった。
    10時に大学運動部の後輩M君の迎えがくるまで、朝食をロビー横
    のレストランで頂く。
    豪州流の朝食は始めてで、まごつく。やはり、朝食にしては多い。

    時間通りの迎えで、本日も車で恐縮だが、フルアテンドとなる。
    今日はブルー・マウンテンズへ案内してもらう。
    ブルー・マウンテンズ国立公園はリトル・グランドキャニオン
    とも称されて、シドニーの西約100kmの所----車で約一時間半
    ---にある。
    かつては海底で、地殻変動や火山活動で現在のような山脈が
    形成されたそうだ。
    海抜1000m前後で、見た感じは丘陵だ。
    ユーカリの木が一帯に繁茂し、木から発散するオイル分に
    よって、山全体が青く霞んで見えることから、
    ブルー・マウンテンズと呼ばれている。

    カトゥーンバの町に入って、昼食ということに。携帯でシドニー
    の友人に教えていただいた5つ星リゾートホテルの
    リリアンフェルズ・ブルーマウンテンズ
    (Lilianfels,Blue Mountains)が、たまたま目に入って
    行ってみる。

    オリエント・エクスプレス・グループの大変高級な趣のホテルで、
    暖炉のある素晴らしいラウンジにて、軽く赤ワインを飲みながら、
    手応えのある美味しいサンドイッチを食べる。
    ホテルの部屋からは、ブルー・マウンテンズの一番の見所である、
    スリー・シスターズも見えるのでは?!
    次回は是非、泊まってみたいホテルである。

    ホテルは19世紀、N.S.Wの裁判長であった、Sir. Frederick Darley 
    の屋敷---2エーカーの英国風の庭園に囲まれた---を85部屋の
    ヨーロッパ風のカントリー・ハウスに変えたもの。

    XXX

    旅行時期
    2004年06月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    コストパフォーマンス:
    3.5
    サービス:
    4.0
    ロケーション:
    4.5

  • トスカーナ・古塔が林立するサンジミニャーノ:パノラマ自慢のホテル

    投稿日 2016年01月11日

    ホテル ラ チステルナ サンジミニャーノ

    総合評価:4.0

    ≪はじめてのイタリア旅行≫

    1977年8月6日~20日の15日の夏の休暇旅行で、6日デュッセルドルフの自宅を6時半にスタートし、途中6月に訪問し1泊したばかりのニュルンベルクのドイツ人一家を2時間ほど訪ね、613kmの距離にあるミュンヘンに宿泊(1泊)しました。

    更に翌日インスブリュック見物の後、車で怖い高さのヨーロッパ橋を渡り、ブレナー峠を越え、ヴェニスに至る400kmを走り、イタリアに旅した事があります。
    峠は長い下り坂の道で、途中土砂降りの雨にあったことを今も思い出します。

    イタリアは7日ヴェニス(1泊)、8~9日フィレンツェ(2泊)、アッシジ、10~13日ローマ(4泊)、ここをベースに市内観光、ポンペイ、ナポリを巡り、そしてドイツに向けて戻ります。
    帰途はシェナ、14日サンジミニャーノ(1泊)、ピサ、ジェノバ、15~16日ミラノ(2泊)と見物し、
    アオスタ経由280kmの山越をして、スイスの湖水地帯に入り、レマン湖畔のモントルー(17~18日・2泊)、ローザンヌ、19日ベルン(1泊)、バーゼル、フランスのアルザス、シュトラースブルクを経由して、20日にデュッセルドルフに戻りました。

    道路の先に見える丘の上に迫力ある姿をみせたアッシジのフランチェスカ教会や町、
    ヴェニスではスキアヴォーニ河岸沿いに位置するHotel Gabrielli Sandwirthホテル・ガブリエーリ・サンドワースに泊まった事が有ります。中庭で食事ができるような場になっていました。
    http://www.hotelgabrielli.it/en
    ムラノグラスのワイングラス(6客)を買ってきましたが、今も現役です。
    天気の良かったポンペイ、そして貝の形の広場を持つ美しいシェナも印象に残りました。

    トスカーナの葡萄畑に囲まれた丘の上の、たくさんの塔が立つ町San Gimignanoサンジミニャーノでは中央広場近くのHotel La Cisternaホテル・ラ・システルナに泊まりました。
    ホテルは1200年代、サルヴェスリーニ家のものであったそうだ。
    レストランから見るパノラマの素晴らしい景観は特筆もので、また夕食がたいへん美味しかった記憶があります。今も現役のホテルだという事が再確認できたのは嬉しいことです。
    http://www.hotelcisterna.it/

    総走行距離は4,400kmでした。
    (私の車はOpel Rekord L 2000CC Automatikでした。)

    XXX

    旅行時期
    1977年08月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    家族旅行
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.0
    バスルーム:
    4.0
    ロケーション:
    4.0
    客室:
    4.0

  • アルザス:標高755m山上の切り立った岩壁を掘って作った要塞 オー・クニグスブール城

    投稿日 2016年01月09日

    オー クニクスブール城 その他の都市

    総合評価:4.0

    ≪Chateau du Haut-Koenigsbourg オー・クニグスブール城≫ 
    この旅11番目の城

    F-67600 Orschwiller
    http://www.haut-koenigsbourg.fr/de/
    開館:毎日9時15分~18時、ガイドなしで自由に参観も可。
    入場料:Euro9x2=18(2,506円)、見学におよそ1時間11:00~12:00かかった。

    ヴォージュ山脈にはかつて 150 もの城塞が点在していた。中でも山上の巨大なオー・クニグスブール城はコルマールの北26kmにある。
    この城の存在目的は、北に向かってはワインと麦、西から東に向かっては銀と塩の交易ルートを見張ることにあり、南北の通商路と、東西の通商路の十字路に立つオー・クニグスブール城は戦略上、重要な地点にあったのだ。

    城の標高755m、塔の上から望むパノラマはヴォージュ山脈と平原に点在する村々の素晴らしい風景を存分に楽しむことが出来る。
    城塞の立つ平場は260mの長さ、1.5ヘクタールの広さがあると云う。特筆すべきは石材を運んで造ったのではなく、山上の切り立った岩壁を掘った要塞であるという点にある。
    また、城壁の周りは急斜面になっており、攻城側が城外に大砲を据えて攻め込むのは不可能だったと云う。

    <城内見学>
    現在、フランスで最も観光客の多い(年間50万人)名所の一つになっていると云う。
    この日も様々な国から来た観光客でチケット売り場付近も入口前も混雑している。
    城内は入口から落とし格子を見上げて入る。階段を上ると、62mの深さの井戸、貯蔵庫、内庭、台所、多角形の階段から更に主塔に登る。
    3階の北側住居、西側住居、皇帝の間には鷲の紋章、壁画の美しい祝典の間、寄贈された家具のあるロレーヌの間、南側住居、礼拝堂、大きな黄色の陶器製暖炉、螺旋階段で2階に降りる。武器の間、緑の陶器制暖炉、狩りの間を順繰りに回る。

    堀を渡って、庭に行き、大砲からの攻撃を補強した分厚い壁を持つ大城砦、アルザスの平原を見下ろすパノラマの景観、どっしりと大きな砲座を見る。
    さらに下がって、北側の広場に至る。バラ色の砂岩の岩壁と云うべきか、城壁が切り立っている。壁面にトイレか台所の排水路が見える。ごつごつした岩壁上に立つ主塔を見上げて、出口に向かって見学は終わりとなる。
    中身の展示はそれほどのものではないが、やはりどっしりした古城らしさが良い。

    <オー・クニグスブール城の歴史>
    アルザスはフランク王国、その流れの神聖ローマ帝国の時代と長くゲルマン・ドイツ系により支配された地域である。
    この城が最初に文献に登場するのは 1147 年の事で、神聖ローマ帝国のHohenstaufenホーエンシュタウフェン家の居城となったのである。その後、城は荒廃と再改修を経て、Kaiser Friedrich III.皇帝フリードリヒ3世によって、1479年、Grafen Oswald von Thierstein オズバルト・ティエルシュタイン伯に領地として与えられた。1517年にティエルシュタイン伯が死去すると、再び、この城はハプスブルグ家のKaiser Maximilian I.皇帝マクシミリアン1世の手に戻った。

    三十年戦争の最中の1633 年、オー・クニグスブール城に籠城した旧教派は新教派のスウェーデン軍に52日間攻められたうえ、火を放たれ、敗退した。そして城は廃墟となった。

    それから2 世紀半が経ち、普仏戦争の結果、アルザス地方は1871年からドイツ領に編入され、ドイツ皇帝ヴィルヘルム 2 世の命で1900~1908 年にかけてオー・クニグスブール城の大がかりな修復工事が行われた。
    それはまた、ドイツ帝国にとって、アルザス地方がドイツ領土に回復した象徴でもあった。
    修復にあたり、可能なかぎり資料を参考にして、15~16 世紀の城塞を忠実に再現されたと云う。城内に配された調度品や武器は中世から三十年戦争当時のもので、タイル造りの暖房器具には、修復前の調査で発掘されたタイルの複製が使われている。

    1919年、第一次大戦によるドイツの敗退と共に、アルザスはフランスのものになり、同時にオー・クニグスブール城もフランスの支配下に置かれた。

    XXX

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    3.5
    展示内容:
    3.5

jijidarumaさん

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33国・地域渡航

12都道府県訪問

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

最近はアジアの香港・マカオ、台湾も時に昔を思い出しつつ、また、日本の小旅行と称した旅も
最近投稿しています。
(2025.06.11.)


プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、さらにロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、戦時体制の欧州の旅は見送り続けて、2025年を迎えている。

(2025.06.11.)

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