≪ベネルックス三国・ルクセンブルクの旅≫
1976年4月17日~18日、イースター休みに1泊旅行でベネルックス三国の...
続きを読む一つであるルクセンブルク大公国Grossherzogtum Luxemburgに出かけた。
イースター休みながら4月16日は出勤し、4月17日も半日出たので、午後からの出発と忙しいものだった。
アーヘンからベルギーに入り、ルクセンブルクに向かって南下する。見渡す限りの牧草地が続き、牛や羊の群れが点在していた。4月半ばを過ぎたが、まだまだ木の芽は萌えだしていない。夕方にルクセンブルクの古城Chateau de Clervauxクレルヴォー城に至る。
夕日を浴びた古城は堂々たる構えで見事だった。
この日撮った写真は外観だけ、時間もなくて中まで見ることが出来なかったようだ。
この旅は年度決算業務もあり、その間をぬって急に決めた所為で、ホテルの予約もしなかった。Chateau de Viandenヴィアンデン城に向かうあたりでホテルも見つかると思っていたら、イースター休みでホテルもキャンプ場もいっぱいだった。慌てて、ヴィアンデンから12km離れたDiekirchディーキルヒのキャンプ場を見つけて、ここで一晩を過ごした。といってもテント持参でもなく、キャンピングカーもないので、夜はまだ寒く、車の中も冷え冷えとしたものだった。幸い親切な管理人さんが毛布を差し入れてくれたので、助かった。(この旅の後、家族4人が使用できるテントを購入した。)
翌18日、朝日の中に大きな古城、ヴィアンデン城を見た。外観は見事なものだが、大きな塔、崩れそうな城壁、大きな暖炉跡といったもので、印象は城址といった感じであった。
今、この城を調べてみると、美しく生まれ変わっていた。
ルクセンブルク大公国は西ヨーロッパに位置するHaus Nassau・Nassau⁻Weilburgナッサウ・ヴァイルブルク家が元首となっている立憲君主制国家で、首都は同名のルクセンブルク市である。南のフランス、西と北のベルギー、東でドイツと隣接している。
通常、いずれも小国のベルギー、オランダと併せて三国の頭文字をとって、“Beneluxベネルクス”と呼ばれている。
この国も多くの古城、城塞、城址が残っていて、130以上の数があると云われている。
その内、比較的世に知られた50の古城、城塞、城址を一覧表に纏めてある。
50の古城、城塞、城址の代表的なものは:
ドイツ駐在中に2度ほど訪れたルクセンブルクの古城Chateau de Clervauxクレルヴォー城とChateau de Viandenヴィアンデン城だ。
<Burg Clervaux (Clervaux castle Chateau de Clervaux)クレルヴォー城>
L-9710 Clervau 、11, rue Grand-Rue
http://www.visitluxembourg.com/de/ansicht/castle/schloss-clervaux
クレルヴォー城はルクセンブルク大公国の北部にある。クレルヴォー城はクレルヴ川(全長48km)に囲まれた人口1900人の村の頭上365mという高々とした断崖絶壁の上に立っている。
この城の築城は12世紀に遡るが、残念な事に第二次世界大戦中の“バルジの戦い”で、戦火で破壊されてしまった。
現在、城は完全に再建され、国内の古城を詳細に説明した城博物館、Edward Steichenエドワード・スタイケンの写真の展示場や、アルデンヌの戦いを示した戦争記念館、村の役所として利用されている。
12世紀からの城の最も古い部分はヴィアンデン伯の兄弟であったSponheimスポンハイムのジェラルド伯によって構築されました。
1400年頃、塔に囲まれた大きな宮殿をBrandenbourgブランデンブルク伯が居城としていたらしい。1634年には、Claude ・Lannoyランノイのクロードがフランドルのスペイン様式の大きな騎士の広間や、祝典の間を建設した。
1660年には厩舎、貯蔵室および管理棟が加えられました。
1944年12月16日〜18日、第二次世界大戦の『バルジ大作戦』(Battle of the Bulgeバルジの戦い)・クレルヴォーの戦いでついに破壊され、廃城となった。
城は月曜日を除く毎日、午前10時から午後6時までビジターに開放されています。
但し、1月と2月は休館。
<Battle of the Bulgeバルジの戦い・クレルヴォーの戦い>
第二次世界大戦末期(1944年12月~1945年1月)西部戦線・アルデンヌにおけるドイツ軍がアメリカ軍に対し仕掛けた最後の大反撃であった。Bulgeバルジとは「出っ張り」という意味で、ドイツ軍の進撃により戦線の一部が突出したことから米軍がこの名を付けたと云う。ドイツ軍の作戦名は「Unternehmen Wacht am Rheinラインの守り」と称した。
12月、アルデンヌ戦線は「ゴースト・フロント」と呼ばれていた。ここ2ヶ月あまりも戦闘らしい戦闘が起こっていなかったからである。130kmにも及ぶ曲がりくねった戦線に配置されていた米軍は、わずかに6個師団。これは1個師団当たりの常識的な守備範囲から考えると3倍の広さといえた。この薄い配置に対し独軍は25万の将兵と1900門の重砲、970台の戦車・突撃砲を集結させていた。
この作戦の成功に必要な条件は、「完全な奇襲と、連合軍の空軍が活躍出来ない天候」であった。秘密は完全に守られ、連合軍の上層部は独軍のこの反撃準備に全く気付いていなかった。そして、天候も希望通りの予報が出されていた。
12月16日未明、ゴースト・フロントの全戦にわたって砲火の嵐が吹きすさみ、引き続いて独軍の進撃が始まった。
第1ターン
独軍第26歩兵師団、米第28歩兵師団を攻撃、これを後退させクレルヴォーを占領。米第9機甲師団はクレルヴォー=>Sankt Vithサン・ビット間に前進独軍の進撃路を封鎖。米第14騎兵グループ、独軍第62、第18歩兵師団の攻撃を撃退するものの続く独軍第3降下猟兵、第12SS装甲師団の攻撃を受けサン・ビット方面へ後退するも包囲される。
米第106歩兵師団サン・ビット前面で独第116装甲師団を食止める事に成功。
(1965年製作のアメリカ映画『バルジ大作戦』が知られている。)
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投稿日:2016/02/12