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  • 東庄町:神話時代に創建と伝わる東大社詣でと、雲井岬つつじ公園見物に。

    投稿日 2022年07月03日

    雲井岬つつじ公園 香取・佐原

    総合評価:4.0

    ≪東庄町:神話時代に創建と伝わる東大社(とうだいしゃ)詣でと、雲井岬(クモイガサキ)つつじ公園見物。≫

    (2022.05.12.)


    東庄町(とうのしょうまち)という町名は昔この地域が東氏(とうし)の荘園であったことが由来である。この町は利根川に沿って、東の香取市(小江戸と云われる佐原を含む)と西の銚子市の中間にある。だからあまり、訪ねる事も無く、通過してしまう事が多い。
    だが、この小さい町は面白かった。

    この日も思い立って、ツツジの名所に行ってみようと、見つけたのが東庄町(とうのしょうまち)の雲井岬(クモイガサキ)つつじ公園でした。ちょっと、花の盛んな時期を外してしまったようで、公園には私共の他に1組の同年輩のご夫婦だけが見て回っていた。

    現在はつつじ公園として、「おおむらさき」「やまつつじ」「琉球」など2,000本を超えるつつじが植えられており、見頃は4月中旬~5月上旬で、品種によって開花の時期が多少違っている。

    <東大社(とうだいしゃ)>
    〒289-0614  千葉県香取郡東庄町宮本434 0478-86-4405

    アクセスは東関東自動車道を佐原香取ICで降り、利根川沿いの国道356号線で銚子方面へ直進40分走り、下総橘より県道267号で5分ぐらいにある。
    雲井岬(クモイガサキ)つつじ公園は東大社(とうだいしゃ)の神苑として開かれた自然公園である。

    敷地4977坪の境内には本殿、幣殿、拝殿、社務所、神楽殿、文庫が建ち並ぶ。
    神話時代(古墳時代)・第12代景行(けいこう)天皇は即位53年から54年にかけて、皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)の御東征の事績を確認するため東国巡幸した。その折、当地に一社を営み、玉依姫命(たまよりひめ:神武天皇=初代天皇の母)を祀られたとされている。

    源頼朝の合戦に力を発揮した*千葉常胤(ちば つねたね)の六男、胤頼(たねより)がこの地の領主となったことから、神官はそれまで名乗っていた東(とう)氏を差し出し、君主の飯田郷の飯田(いいだ)を名乗るようになった。

    *千葉常胤は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。千葉氏を豪族から御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖と云われる。

            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    東大社の大スギ

    東大社のケヤキの大木

    野見宿祢(のみのすくねのみこと)の石像と力石


    東大社で珍しいものをいろいろと拝見した。
    生憎、空模様がさらに怪しくなり、予報通り雨がぽつぽつ落ちてきたので、来春の再訪を思いつつ帰路についた。

    (2022年5月25日東大社社伝、Wiki・HP参考、編集・追記)

    旅行時期
    2022年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    4.0

  • 旭市防災資料館で先年の震災を学んでから眺めの良い刑部岬へ

    投稿日 2017年12月10日

    刑部岬 九十九里

    総合評価:4.0

    日本の小旅行?:匝瑳・飯高檀林・松山庭園美術館、旭・刑部岬・防災資料館
    (2017年11月26日?11月27日)

    日の落ちるまで時間があると、旭市の防災資料館に向かった。国道126号線は少々混んでいたが、浜辺に立つ資料館に着いてみると、誰も見かけない。駐車場はいいおか潮騒ホテルと兼用している様子で、広いものの駐車中のものはホテル客の車ばかりだった。
    資料館の窓から中を見ると、電気もついている。ドアを開けていると、責任者の方が招じ入れてくれた。

    <旭市防災資料館>
    旭市萩園1437(いいおか潮騒ホテル東側 隣接)・月曜休館
    http://www.city.asahi.lg.jp/kanko/002_11.html

    2011年3月11日に発生した東日本大震災(地震)と、それに伴って発生した津波は東日本各地に甚大な被害を与えた。
    この日、千葉県九十九里の沿岸も地震発生の3時間後、三度にわたり津波が押し寄せて、旭市一帯に大きな被害を出していた。資料館の展示によれば、震度5強、死者14名、行方不明者2名、住宅被害3827世帯という甚大な被害である。
    資料館の写真でも、海抜高さ7.6mの大津波が旭・飯岡地区に襲いかかり建物や車を次々と破壊してしまった様子が見られた。陸上への浸水が地上2.1mに達し、住宅・店舗・工場・役所などに大きな被害をもたらしたとある。

    旭市防災資料館は旭市に甚大な被害をもたらした東日本大震災の記憶を後世へと伝えるべく、また、悲劇を繰り返さぬよう防災の知識を学習する為、2014年7月19日に開館したそうである。
    ここの展示室の写真やDVD「被災地あさひ ―被災から復旧、そして復興へ 2011.3.11の記録(21分の上映時間)」も大いに参考となるものだった。他市の子供たちも校外学習に訪れると云うから、大事な役目を果たしているようだ。

    資料館の屋上は津波緊急避難施設でもあり、緊急時には外階段から屋上に避難することができるとか。地上約11mの高さで、約600名を収容できる。
    ・・・・・

    11月27日(月)はゆっくり12時まで「かんぽの宿 旭」で過ごした。
    今日の予定は宿から遠望した刑部岬です。

    <刑部岬(ぎょうぶみさき)>

    刑部岬は千葉県旭市上永井にある岬で、眺望がすこぶる良いと聞く。
    岬には飯岡灯台が設置されて、写真好きには絶好の場所のようだ。
    この岬は銚子市の犬岩からずっと切り立った断崖を形成している屏風ヶ浦の南端になる。その断崖はさすがにここからは見られないが、ともあれ岬の高さは65ⅿ、ここから見える一帯は大津波の来襲で傷みつけられた飯岡漁港やその先に見える旭市防災資料館、かんぽの宿 旭、そして九十九里浜が弓状に連なり、太東崎まで66kmの砂浜が続いているのである。

    岬の周辺は上永井公園と称する。飯岡灯台や「飯岡刑部岬展望館〜光と風〜(平成13年3月オープン)」があり、展望館に上がってみた。上々の天気ながら、風は強い。それでも寒さを感じるほどではなかった。
    前述したごとく眺望がすこぶる良い。望遠鏡で覗いてみると、驚くほど近くに見え、丁度漁を終えて帰港する数隻の漁船が港内に入ってくるのが見えた。よく見ると魚釣りの客船のようだ。

    展望館の傍に漁港を望んで「あしたのジョー」の石像があった。防災資料館の傍にも同じものがあったが、作者のちばてつやが飯岡に在住していた時期があったそうだ。その先の北総台地には風力発電の大きなプロペラが回っているのが見える。
    ・・・・・

    旅行時期
    2017年11月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    4.0
    景観:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.0

  • 大津波に襲われたかんぽの宿 旭:ベランダからの海の眺めは只々海が見える

    投稿日 2017年12月08日

    亀の井ホテル 九十九里 九十九里

    総合評価:3.5

    日本の小旅行⑤:匝瑳・飯高檀林・松山庭園美術館、旭・刑部岬・防災資料館
    (2017年11月26日~11月27日)

    11月26日(日)は「かんぽの宿 旭」に一泊した。
    <かんぽの宿 旭> 0479-63-2161

    和室43+洋室18室=全51室がオーシャンビューという事でした。
    6階和室8畳からの海の眺めは只々海が見え、左手遠くに刑部岬、右に九十九里の浜が長々と見える。Web直前予約であったが、行ってみると、満室というから驚きだ。
    私共は別に風呂目当てではないが、10Fに展望風呂、1Fには大浴場があり、風呂好きの同年配の老人夫婦も多く、かんぽの宿らしい。
    海風は強く、車のドアの開閉にも気を使ったものだ。

    震災ではすごい写真を旭市防災資料館で見た。当時1階部分が被害にあったそうだが、そんな感じはもう残っていない。ただ、地震の所為か、部屋の一部の畳が凹む場所があった。部屋のフスマの汚れにも気付いてしまった。
    しかも朝食後にチェックアウトをしてから、ホテルのショップでお土産を買おうとすると、チェックアウト後はクレジットカードの使用ができないと店員に言われた。このシステムが理解できないまま、買物はやめてしまった。宿泊客以外の買物も現金だけなのか、今時と思ったが・・・。
    ともあれ、海のかんぽの宿だけあって、お魚料理は美味しかった。

    ・・・・・

    旅行時期
    2017年11月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    12,500円未満
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    3.5
    客室:
    3.0
    接客対応:
    3.0
    風呂:
    3.0
    食事・ドリンク:
    3.5

  • 「猫ですか?紅葉ですか?」と女館長さんに聞かれた松山庭園美術館

    投稿日 2017年12月04日

    松山庭園美術館 九十九里

    総合評価:4.0

    ≪「猫ですか?紅葉ですか?」と女館長さんに聞かれた松山庭園美術館≫
    〒289-2152 千葉県匝瑳市松山630
    金・土・日・祝のみ開館:開館時間 10:00〜17:00、入場券大人800円
    http://matuyamaartmuseum.web.fc2.com/

    匝瑳市(そうさし)は千葉県北東部にある人口38千人の町だが、北部は里山が目立つ農村地帯であり、南部は九十九里海岸に接して、縦長の田園都市である。植木の町としても知られていると云う。

    那須に「那須高原 私の美術館」と称した個性的な美術館があったから、匝瑳の山里にある美術館も以前から興味があった。
    (〒325-0304 栃木県那須郡那須町高久甲6039-4)
    http://watasi-museum.jimdo.com

    2017年11月26日~27日、千葉県旭市の旭のかんぽの宿に泊まる日に、途中日蓮宗の檀林(飯高檀林)を見た後、紅葉でも知られる松山庭園美術館を訪れた。
    少し早く道を曲がった所為か、細い道がクネクネと続き、対向車が来ることに心配した。案内の看板が各所に立っていましたが、ナビを使って、なんとか里山の小高い丘の上にある美術館に至った。
    もう紅葉の季節には遅いか思ったが、遅い季節のせいではなく、今年は10月の2つの台風来襲で、モミジの葉が縮れてしまい紅葉も今一つの様子だった。
    飯高檀林でも山門の石段傍のモミジも、境内の鼓楼前に家康の側室「お万の方」お手植えの楓(かえで)もその影響を感じさせました。

    この庭園美術館は芸術家・此木三紅大(コノキミクオ)氏のアトリエを公開したものです。2千坪の敷地には本館(増設したと思われる住居に接続)を主に、企画展示館があり、庭園に入る際にくぐる長屋門、園内の見晴し亭、茶室などが点在し、苔と紅葉、芝生と松となかなか見栄えの良い庭になっている。

    本館には此木氏御自身の作品、蒐集した名画コレクション(コンスタンブル、ドラクロア、浅井忠、長谷川利行、村山槐多など)、見事な茶道具など(本阿弥光悦、道入(のんこう)、仁清、志野、大井戸、織部などの名碗、乾山の掛け軸、唐物青貝香合ほか)が展示されている。
    展示館には此木氏の鉄の彫刻(ガンダ彫刻:ちなみに、ガンダとは銚子付近の言葉で鉄くずのこと)などが見られた。
    駐車場スペースや庭園内の各所にたいへん面白げな石の彫刻(朝鮮の文官の石像や鬼)や鉄の彫刻も展示されています。中には錆びついてしまった作品までも。

    尚、玄関の左にある眺めの良い小部屋は写真集、美術雑誌、小物が置かれた休憩所で、奥様・紀子館長にコーヒーを飲ませて頂きました。
    (クッキー付きで二人で1,000円だったか)
    「那須高原 私の美術館」については奥様曰く、「来年には閉館してしまうかもしれない」との事でした。

    本館で作品を眺めていると、中学時代のクラスメート・Tちゃんにばったり遭った。40代の娘さんご夫婦と銚子に一泊し、“猫で知られた”松山庭園美術館に立ち寄ったとか。
    猫好きが訪れる美術館は本館や庭園内を何匹かの猫が歩き回り、Tちゃんたちも多くの来館者も猫の写真を撮ってじゃれ合って居た。
    先ほど奥様に「猫ですか?紅葉ですか?」と聞かれたが、美術館もこの季節、来館の目的もいろいろあるようだ。

    駐車場は美術館下の道路際、丘の上の美術館前に十分な駐車場がある。

    ・・・・・・・・・

    (此木氏の経歴)
    1937年東京生まれ。中学1年より油彩画を始める。
    武蔵野美術大学、ローマ・アカデミア美術大学卒業。
    1976年美術団体「青枢会」創立。
    1995年「那須高原私の美術館」開館、常陳される。
    1998年千葉県匝瑳市に「松山庭園美術館」設立。
    絵画にとどまらずガンダ彫刻や石彫や庭園など多彩な才能を発揮。公共施設にも多数の作品を制作設置している。
    近年は、中国上海でも注目され、二つの国立美術館で買上収蔵されている。
    現在、青枢会代表顧問、日本扇面芸術協会代表顧問、日本ガラス絵作家協会会長。

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2017年11月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    3.5
    展示内容:
    4.0

  • 匝瑳(そうさ)の里山に残る全国一の格式を持った飯高檀林(いいだかだんりん:僧侶の学問所)

    投稿日 2017年12月07日

    飯高寺(飯高檀林跡) 九十九里

    総合評価:4.0

    ≪飯高寺(はんこうじ):飯高檀林(いいだかだんりん)≫
    千葉県匝瑳市飯高1789

    今年はドイツの旅に代り、5月から関東近辺の小旅行をしている。
    今日は以前から気になっていた千葉の名所旧跡を訪ねることにした。
    (2017年11月26日~11月27日)

    匝瑳(そうさ)の飯高(いいだか)という里山地域(舌状台地:ぜつじょうだいちは舌を伸ばしたような細長く突き出た台地のこと)に名刹がある。
    日蓮宗の寺院というか、かつての僧侶の学問所である(現在の大学の様な)飯高檀林(いいだかだんりん)=飯高寺(はんこうじ)が、それである。

    広い駐車場(無料)で飯高寺の資料を頂いて裏手の道をたどり、正門である檀林山門の石段にいたる。もう紅葉の季節には遅いようで、山門の石段傍のモミジの葉が縮れていて紅葉も今一つの様子だった。
    後でガイドの方に聞くと、今年は10月の2つの台風来襲で、石段傍のモミジや、境内の鼓楼前に家康の側室「お万の方」お手植えの楓(かえで)が大きな影響を受けたそうだ。
    石段を登り、総門をくぐり、森閑とした参道を行く。
    左右は杉木立も高々とし、苔むす様子が何とも言えない厳粛さがある。

    天正8年(1580)に日生(にっしょう)により開基され、山号は妙雲山法輪寺だが、実際は檀家が存在しない珍しい寺で、お墓もあるが歴代の化主(けしゅ:檀林長のこと)たちの廟が寺域左手にあった。

    飯高檀林は関東で初めて日蓮宗の檀林(僧侶の学問所)となり、その後、天正19年(1591)に徳川家より日蓮宗の根本檀林として寺領30石を寄進され、徳川家康、養珠院(ようじゅいん、お万の方と称した家康の側室。紀州徳川家の家祖頼宣、および水戸徳川家の家祖頼房の母)、頼房、光圀、頼宣などの信仰も厚く、その庇護を受け、格式の高い檀林へ発展した。
    つまり関東8檀林、関西6檀林あわせて14檀林中、最高位の檀林であったと云う。 

    学僧は年2回(春・秋)それぞれ100日間学んだと云う。8段階の課程に分かれ、各課程の定められた講義を受け進級したそうです。入学してから、36年間の期間をかけて全課程を修了したと云うから、聞くだけで驚いてしまう。
    元禄時代(1700年代)には450~650名の学僧がいたとパンフレットに書かれていた。

    この日、寺の管理者のめったにないご親切で、講堂内の見学ができた。その東西の壁に(柔道の段位の如く)成績順に学僧の名前が架けられていたのが印象的で、面白いことに檀林には卒業という言葉は無く、その代わりに全国の寺院からの求めに応じ、上位者から随時寺院の住職に進んだそうだ。
    世に知られる身延山久遠寺や池上本門寺といった、所謂「出世寺」から住職=指導者の求めがあるという、名実ともに格式があったようだ。講堂中央には天蓋があり、天蓋には三つ葉葵と菊の御紋が刺繍され、格式の背景を感じた。
    飯高檀林は明治の学制発布により廃檀となり、294年間の歴史を閉じるが、その名跡を継いだ立正大学へと形を変えて発展する。
    それを記念した、大きな立正大学発祥之地の碑が寺域右手に建てられている。

    講堂・鐘楼・鼓楼・総門が国指定の重要文化財(昭和55年)、檀林跡としては境内全体(総面積67,667㎡)が千葉県指定の史跡になっている。歴史的建造物を保存するため、平成14年までに「平成の大修理」が行われた。

    頂いた案内書によると、付近の社寺を巡るハイキングコースもあり、水戸光圀公の御手植えと伝えられる黄門桜も見事だとある。
    尚、映画・TVの撮影に適した境内では最近も、映画『忍びの国』の撮影ロケが行われたそうだ。

    地元の方々は皆さん親切で、駐車場管理兼観光案内所の方、ガイドさん、寺の管理者の皆様のおかげで、たいへん満足した見学ができた。

    ・・・・・

    旅行時期
    2017年11月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    4.5

  • 下総・東庄町:天保水滸伝遺品館には天保水滸伝にちなんだ展示が豊富で驚いた。

    投稿日 2022年05月21日

    天保水滸伝遺品館 香取・佐原

    総合評価:4.5

    今年(2017年)はドイツの旅に代り、5月から関東近辺の小旅行をしている。
    今日は以前から気になっていた千葉の名所旧跡を訪ねることにした。

    日本の小旅行⑤:匝瑳・飯高檀林・松山庭園美術館、旭市・刑部岬・防災資料館(2017年11月26日~11月27日)と称して1泊2日の小旅行をした。
    27日、かんぽの宿旭を出て、旭市飯岡の侠客たちの墓や碑を巡った。

    これに続いて、2017年12月1日に下総の侠客たちが争闘を繰り返したという利根川沿いの東庄町(とうのしょうまち)を訪れた。

    <東庄町・天保水滸伝遺品館>
    〒289-0601 千葉県 香取郡東庄町 笹川580-1
    開館:9時~17時  休館日:月曜日 、入場券200円

    浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」は、土地を潤す利根川と共に、昔から語り伝えられてきた東庄(江戸末期の千葉県の東総地域)が舞台になり、地元の笹川の繁蔵と漁師町・飯岡の助五郎、二人の侠客の勢力争いの物語である。

    天保水滸伝遺品館には天保水滸伝にちなんだ文化財50点が保存されている。

    笹川の繁蔵の手配書である高札が最初に目に入った。
    高札は天領・私領の区別なく巡回し、治安の維持や犯罪の取り締まりにあたったほか、風俗取締なども行っていた関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく、俗称で八州取締役)の手配人相書きである。
    現代で言う、指名手配書であり、正式には「警察庁指定被疑者特別指名手配」と称する。

    笹川繁蔵が愛用していたキセル、三度笠、平手造酒愛用の手鎗、徳利、勢力富五郎(せいりきのとみごろう)の短筒など当時の侠客の風俗を物語る遺品や重要文化財として保存されている古文書などが展示されているから面白い。
    展示品は個人所有のもので何人もの人が関わっているそうだ。

    下総の地は関八州(上野・下野・常陸・上総・下総・安房・武蔵・相模一円)の地、博徒とか侠客といった人種が大手を振って活躍?!していた地域ですが、面白いことに天保水滸伝遺品館には「明治23年版と称する・・・近世侠客有名鏡」の展示がありました。
    映画や小説で知っていた、錚々たる名前がそれに掲載されていました。
    大関には関東一の大親分と称された武州・大前田英五郎、関脇に「赤城の山も今宵限りか」の名文句で知られた上州・国定忠治がすわり、勧進元には浅草・新門辰五郎、下谷・幡随院 長兵衛、会津・会津の小鉄、それに名前も知らなかった京橋・金看板甚九郎、浅草・花川戸の助六の名があります。
    下総の笹川(岩瀬)の繁蔵、勢力富五郎と飯岡の助五郎は前頭に、「次郎長三国志」で有名な駿河・清水港の長治郎(清水の次郎長)、甲州・黒駒の勝蔵も前頭です。
    関八州を中心に、東日本(奥州、信州など)の侠客を番付表にしたもので、この地が幕府の直轄領(天領)、直参旗本の領地、寺社領、大名領の飛び地が多く、「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく、俗称で八州取締役・・映画・TVにもなっている)」を必要とする、一種治外法権の地であった様子が伺われます。

    それにしても天保水滸伝関連の映画作品の数々には一寸驚いた。

    前館長で、現在は東庄郷土史研究会の顧問である海上 義治氏のご丁寧なご案内を受けた。

    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2017年12月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0

  • 旭市・幕末の農村指導の先駆者、大原幽学は残念なことに失意のうちに、切腹して果てた。

    投稿日 2022年05月23日

    大原幽学記念館 九十九里

    総合評価:4.5

    <日本の小旅行⑥の3:旭市・世界最初の農業協同組合を組織した大原幽学(おおはらゆうがく)の記念館を訪ねた。>(2017年12月1日)

    今年(2017年)はドイツの旅に代り、5月から関東近辺の小旅行をしている。
    2017年12月1日は以前から気になっていた千葉の名所旧跡を訪ねることにした。

    千葉県下総の侠客たちが争闘を繰り返したという利根川沿いの東庄町(とうのしょうまち)・天保水滸伝遺品館の展示や諏訪神社、境内の相撲の土俵などを拝見し、最後は幕末に旭市を中心に農村指導者として大きな事績を残した人物・大原幽学の記念館を訪れた。

    <大原幽学記念館>
    〒289-0502 千葉県旭市長部345-2 大原幽学遺跡史跡公園内
    定休日:毎週月曜/12月28日~1月4日

    幕末の農村指導の先駆者、大原幽学を中心に展示がある。

    幽学の活動拠点であったこの地は史跡公園として整備され、園内の記念館では幽学の貴重な遺品や著作類が公開されている。
    郷土展示室では、椿海干拓事業など旭のあゆみをたどることができる。
    その他、東総地域を中心とした歴史・民俗をテーマに、展示・保存・調査などの活動が行われている。

    1階郷土展示室:
    旭市を中心とした古代から現代までのあゆみを、資料と映像で展示している。
    江戸時代の新田開発として知られる椿海干拓については、マジックシアター「干潟八万石物語」でその歴史を知ることができる。

    (椿海の干拓 - 干潟八万石物語、鉄牛和尚、辻内刑部左衛門)
    http://nagarebosi39.maiougi.com/higata2..htm


    2階幽学展示室:
    幽学関係の歴史資料は、平成3年に国の重要文化財の指定を受けた。
    著作、日記、書簡、書画や着物、刀など、幽学ゆかりの遺品類を公開し、その生涯と業績を紹介している。

    大原幽学は、幕末に旭市を中心に農村指導者として大きな事績を残した人物で、道徳と経済の調和を基本とした独自の学問を説き、飢饉などで疲弊した村の復興に尽力した。
    なかでも、世界最初の農業協同組合といわれる「先祖株組合」は、先駆的な手法として高く評価されている。 また、その多岐にわたる仕法は農業のみならず、生活や教育の分野にも及んだ。

    <幽学の生涯と業績>

    大原幽学は天保、嘉永、安政にかけての混乱した世相の中、長部村(ながべむら:現千葉県旭市)を中心に房総の各地をはじめ信州上田などで、農民の教化と農村改革運動を指導し大きな事績を残した人物です。
    道徳と経済の調和を基本とした性学(せいがく)を説き、農民や医師、商家の経営を実践指導しました。

    前半生は各地を遍歴していたらしいのですが、その経歴は明らかではありません。天保13年(1842年)には香取郡長部村に定住しています。天保4年頃から独自の実践道徳である性学の教説活動を始め、弟子として入門する者が次第に増えていき、研修施設や教導所が作られ会合や講義が行われました。

    門人達は道友(どうゆう)と呼ばれ、長部村に腰を落ち着けた幽学は、性学道友の農民を指導し農村の復興を図り、「農業協同組合である先祖株組合(せんぞかぶくみあい)」をはじめとして農民が協力しあって自活できるように各種の実践仕法を行って成果をあげました。

    しかし急激な性学運動の発展と農民が村を越えて労働と学習を共にしたことが幕府の怪しむところとなり、幽学は*幕府の取り調べをうけた末、有罪となり、失意のうちに安政5年(1858年)3月8日、自刃により62歳の生涯をとじたのです。

    *幕府・勘定奉行配下の関東取締出役の取り調べにより、安政4年(1857年)に幽学の押込百日と教導所である改心楼の棄却、先祖株組合の解散を言い渡される。
    5年に及ぶ取り調べの疲労と、性学を学び、教え導いてきた村の荒廃を嘆き、失意のうちに翌年、村内の共同墓地で切腹して果てた。

    ・・・・・

    東庄町・天保水滸伝遺品館の展示では「天保水滸伝」の映画も多い。
    中でも大原幽学を主人公に、笹川繁蔵、平手造酒、飯岡助五郎など浪曲でお馴じみの「天保水滸伝」をからませて、その時代に生きた人間群像を描いた映画がある。
    太刀を持った大原幽学が助五郎と繁蔵の開帳する賭場へ単身、なぐり込んだといった場面は興味深い。

    天保水滸伝:
    1976年11月13日公開、147分、大映・全国農村映画協会

    ・・・・・

    大原幽学という人物については、30代半ばから千葉県人になった所為か、今までほとんど知らないままできてしまった。

    旅行時期
    2017年12月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0

  • 青梅:珍しい名前である“井中居”(いちゅうきょ)は古屋敷・蔵を改造した趣あるレストランである。ここで球友と旧交を温めた。

    投稿日 2015年11月19日

    井中居 青梅

    総合評価:4.5

    【2010年5月1日  青梅の“井中居”(いちゅうきょ)にて】
    11:30~14:30 会費5千円

    この年はGWを機に一気に夏日の続く毎日になりました。
    前日から墓参りを兼ねて、久し振りに故郷を訪れ、この日、旧友(=球友)と会って、お勧めのレストランで懐石料理を頂いた。 
     
    高校野球部時代の友人Tさんの御勧め、アレンジにて、当日は3夫婦が参集し、青梅の藤橋という近郊にある古屋敷・蔵を改造した、趣あるレストランで旧交を温めた。
    Tさんがお勧めされただけに、大変美味しく、素晴らしい懐石料理を楽しむ事が出来ました。

    さて、「井中居」は「いちゅうきょ」と読む。
    明治時代の古民家を改装したもので、器や家具などを展示するギャラリー兼懐石料理店「井中居」は周囲を竹林に囲まれた良い雰囲気のレストランだ。

    “井中居”(いちゅうきょ)のHPや冊子には説明書きがある。

    ・・・

    井中覗星(せいちゅうけんせい)・・・井戸の中の蛙は大海を知らない。しかし、そこから見える小さな空の深さを、星々の輝きの美しさを知っている。
    来てくださるお客様に、ときには世間という大海から離れた静かな井戸の中の様な空間で、旬の味を愉しみつつゆったりと過ごしていただきたい。
    そんな願いから井中居は生まれました。

    ・・・

    圏央道青梅ICから車で約5分。
    JR青梅線・河辺駅北口より3.6km、小作駅東口より3.5kmあり、タクシー利用がよさそうだ・ 

    東京都下青梅市の長閑な場所に井中居があり、明治時代初期に建てられた古民家を改装した、懐石料理とギャラリーのお店。

    住所:東京都青梅市藤橋2-32  
    Tel:0428-30-1661
    78席、半個室あり。駐車場有:25台 。

    営業時間:
    11:00~15:00
    17:00~21:00(受付は19:00迄)
    定休日:月曜日夜、火曜日(祝日の場合は営業)
    ※夜営業を行っていない日もあるので、HPで参照要。

    カード可:(VISA、Master、JCB、AMEX、Diners)

    XXX

    故郷・青梅に“井中居”なる立派なお店がある事は今まで知らなかったのですが、
    最近、各地に古民家再生でこの種のものができて、“井中居”は比較的早い時期のもののようだ。
    また、是非、訪れたいものです。

    尚、ここの姉妹店には同じように古屋敷を利用した
    あきる野市の「燈燈庵(とうとうあん」、「黒茶屋(くろちゃや)」があります。

    (2022年4月26日改定)

    旅行時期
    2010年05月
    利用した際の同行者
    友人
    一人当たり予算
    5,000円未満
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.5
    雰囲気:
    5.0
    料理・味:
    4.5
    バリアフリー:
    3.5
    観光客向け度:
    4.0

  • オランダの古都デルフトは、「デルフト焼Delfter Blau」の陶器で知られた観光地である。

    投稿日 2022年04月07日

    ロイヤルデルフト デルフト

    総合評価:5.0

    *1978年5月26日(金)~28日(日)、
    4ヶ月ぶりにロッテルダムのUさんを訪問した。
    4月、5月は多忙を極めたから、久しぶりの休日なのだ。

    27日(土)、今まで訪れていなかったDelftデルフトの町(人口10万人)を訪ねた。

    デルフトはオランダの古都で、デルフト陶器で知られた観光地であり、
    デルフト工科大学がある学生の町でもある。近年、有名画家となった
    Johannes Vermeerヨハネス・フェルメールはデルフト出身だ。

    デルフト焼きの工房をUさん夫妻と一緒に見学し、細かい柄を肉筆で
    描く見事さに感心し、ついデルフト焼きの飾り皿を購入した。
    テーブルマットや紙ナプキンの色合いも家内も気に入って、
    どれにしようかと迷っていた。
    いずれも良いお土産になって、今も我が家にある。

    <Delfter Blauデルフト陶器(オランダ語はDelfts blauw)>
    デルフト陶器はオランダのデルフトおよびその近辺で、16世紀から生産されている陶器。白色の釉薬を下地にして、スズ釉薬を用いて彩色、絵付けされる陶器で、日本では「デルフト焼」とよばれている。
    現在の職人の手による青色の絵付けを基調としたデルフト陶器は、デルフトブルーと呼ばれるブランド名で、鑑定書つきで取引されるコレクターズアイテムとなっている。白地に青色の装飾絵付けなど、はるかに高額な製品となっている。
    18世紀以前のデルフト陶器を模しているが、現在のデルフト陶器には当時使われていたスズ釉薬はほとんど使用されていない。

    デルフトの街中を歩き、デルフト名物の尖塔の景観や、自転車と掘割
    (運河で子供たちがカヌー遊びをしていた)の多いのに改めて感心した。

    XXXXX

    旅行時期
    1978年05月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.5

  • オランダの有名な締め切り大堤防(アフスリュイド堤防:高さ 海抜7.25m)を見に行く。

    投稿日 2022年04月04日

    アフシュライトダイク(締め切り大堤防) その他の観光地

    総合評価:4.0

    1975年11月28日(金)~30日(日)、
    ロッテルダム支店のU駐在員(私の東京時代の後輩)の夫人にロッテルダム帯同の許可が出て、28日JAL403便で羽田を発ち、29日(土)午前7時50分アムステルダム空港に到着した。
    私共家族も出迎えるべく、前夜はHotel Schipholホテル スキポールに泊まり、29日朝早い到着便に合わせた。

    愛犬タン子ちゃんの引き取りに時間がかかり、その引き取り後、ホテル オークラ・アムステルダム(5星、Ferdinand Bolstraat 333)で昼食をとった。

    午後2時、愛車のBMWに乗るUさん夫妻を見送った後、オランダの有名な大堤防つまりアフスリュイド堤防という締め切り堤防(高さ 海抜7.25m)を見に行く。

    途中の美しい運河や両岸の可愛らしい家々が目を楽しませてくれる。
    全長 32 km、幅 90mと長く広い大堤防上を車で走るのだが、往来する車が少ないのが意外だった。それでも締め切られて出来た内海(ワッデン海・・・ゾイデル海の外洋(北)側部分であったが、1932年に完成した*締め切り大堤防によって内陸(南)側のアイセル湖と分断、アイセル湖・・・広さは約1,250平方 kmで深さは5~6 mと浅く、水面の標高は海面下6 m)には驚いたものだ。
    大堤防は途中の半分で疲れを感じて、Uターンした。

    尚、二度目の駐在で、1983年5月1日、メーデーの休みを利用して、前日からオランダ小旅行をした。マルケン島、フォレンダム、ハーレム、コイケンコフそして締め切り大堤防見物に行き、この時はしっかり走った)

    *オランダにおける堤防は、その国土の特性からたいへん重要なもので、陸地の多くが海面より低く、至るところに堤防が築かれている。

    そのこともあって、世界でも知られた逸話が残る。

    <オランダの堤防の決壊を防いだハンス・ブリンカー少年の逸話>
    ある日、ハンス・ブリンカー少年(8歳)が堤防の傍を通りかかったとき、堤防から少しずつ水が漏れているのに気づきました。このまま放っておけば、水漏れの穴が大きくなり、水がどんどん流れ出てしまい、穴が拡大して堤防が切れると、見る間に村々や人々が濁流にのまれてしまうのだ。
    少年は水が漏れている堤防の穴に自分の指、その後、穴が大きくなり出すと、思い切って自分の右腕を上着で包み、腕まで突っ込んで塞いだ。
    一晩中、大声で助けを呼んでも誰も来ない。

    あくる朝、空が明るみ始めたころ、村人が通りかかって、疲れて眠っているハンス少年を見つけました。かけよって抱き起こそうとした村人は、ハッとしました。堤防の穴に入れられたままのハンス少年の小さな腕に気づいたからです。
    村人はすぐに人を呼びに全力で走り出しました・・・。
    ハンス少年は堤防の水漏れ、堤防の決壊を防いだのだ。
    この後、勇敢なハンス・ブリンカー少年を称える銅像がオランダ国内に建てられたそうだ。

    ・・・

    この物語は、オランダ系アメリカ人の女流作家Mary Mapes Dodgeメアリー・メイプス ・ドッジ(1831 ~1905年)によって書かれた創作「銀のスケートぐつ」(1865年創刊)の中の「ハールレムの英雄」という挿話によるもので、実在の話ではないと云う。

    ・・・

    旅行時期
    1975年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間

  • アムステルダム:1975年当時の「アンネの家」はほとんど観光客がいない場所だった。

    投稿日 2022年04月03日

    アンネ フランクの家 アムステルダム

    総合評価:2.5

    今日の新聞で、「アンネ・フランクの日記」が初版発行(1947年)
    されてから、今年で75周年を迎えるとあった。
    ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺(ホロコースト)の犠牲者となった
    アンネの日記については、日本でもよく知られているが、それに因んだ
    「ホロコースト記念館(広島県福山市)が平成7年に設立されている。

    ・・・・・

    1975年11月28日(金)~30日(日)、
    ロッテルダム支店のU駐在員(私の東京時代の後輩)の夫人に
    ロッテルダム帯同の許可が出て、28日JAL403便で羽田を発ち、
    29日(土)午前7時50分アムステルダム空港に到着した。
    私共家族も出迎えるべく、前夜はHotel Schipholホテル 
    スキポールに泊まり、29日朝早い到着便に合わせた。

    愛犬タン子ちゃんの引き取りに時間がかかり、その引き取り後、
    ホテル オークラ・アムステルダム(5星、Ferdinand Bolstraat 333)
    で昼食をとった。
    午後2時、愛車のBMWに乗るUさん夫妻を見送った。

    この夜はホテル オークラに宿泊し、
    翌日の30日(日)、アムステルダム市内観光に出かけた。

    まずアンネの家に行く。
    入館者がほとんどいないのには驚いた。
    当時の一般的な認識度はこんなものだったようだ。
    (現在の口コミに見る観光客の長蛇の列には驚く)

    子供たちも興味もまだないだろうと、私共の見学中は、アンネの家の
    前にあった駐車場に停めた車の中で二人はおしゃべりしていた。

    ・・・・・

    旅行時期
    1975年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    2.5

  • 青梅・櫛かんざし美術館:江戸から昭和までの櫛(くし)とかんざしを中心に、その数は4000点程が展示されている。

    投稿日 2022年04月02日

    澤乃井櫛かんざし美術館 青梅

    総合評価:4.0

    私共は平成24年(2012年)の今年、満69歳になり、昔風に数えで古稀の歳を迎えた。
    古稀は中国・唐の詩人、杜甫(とほ)が詩「曲江」で「人生七十古来稀なり」と表したことで、世に広まったとされています。
    その稀な歳に私共も到達したわけです。

    さて、古稀の祝いは11月23日(金)~24日の三連休中に故郷の青梅市・御岳の”ゆずの里・勝仙閣”で一泊し、翌日はあきる野市小中野の母方の実家そばにある“黒茶屋”で昼食を頂くといった楽しい集いになりました。

    11月24日(土)
    御岳渓谷遊歩道と多摩川の川原で遊んだあと、「御岳・櫛かんざし美術館」を皆で訪れた。

    ①【御岳・櫛かんざし美術館】
    10:30~11:30
    青梅市柚木町3‐764‐1  0428-77-7051
    http://www.sawanoi-sake.com/kushi/

    ”ゆずの里・勝仙閣”から、対岸にある“櫛かんざし美術館”を訪ねた。
    この美術館では江戸から昭和までの櫛(くし)とかんざしを中心に、紅板、はこせこ、かつら、矢立等に及び、その数は4000点程が展示されている。
    私共は何度か立ち寄って見ているが、初めての娘家族には面白かったようだ。

    中でも江戸時代(寛政年間)に登場した未婚女性向けの簪(かんざし)の「びらびらかんざし」は、よく時代劇で出てくるお姫様がしているが、名前が面白い。
    館内のビデオ映像で“髪の結い方”を見る事が出来、孫たちも興味深く見ていた。

    美術館からは多摩川の御岳渓谷を散策することも出来、館内からの眺めは絶景でした。

    御岳から青梅(9km17分)に向い、皆が好物の酒まんじゅうを取りに行った。

    ・・・・・

    旅行時期
    2012年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • ロッテルダム港内遊覧船Spidoスピドーに乗った。

    投稿日 2022年03月30日

    港巡り (スピドー) ロッテルダム

    総合評価:4.0

    ドイツのデュッセルドルフとオランダのロッテルダム間の距離は距離表によると177 kmである。(出張で何度も往復したデュッセルドルフとフランクフルト間の距離もほぼ同じ183 kmを示している)

    Europortユーロポートはオランダのロッテルダム付近にある欧州共同市場の国際港として発展していた。
    この為、各商社はロッテルダムに支店(現地法人ではなく)などを設けて対応していた。
    当社のロッテルダム支店には、駐在員として派遣されていた2年後輩のUさんが家族と共に住んでいた。ロッテルダムとデュッセルドルフ間はアウトバーンで走れば近いこともあって、何度か双方が行き来していた。

    *1976年9月10日(金)~12日(日)、

    今度も仕事を終わらせた10日の夜20時45分にデュッセルドルフを出発し、ロッテルダム23時30分着でUさん夫妻を訪問した。
    11日は市内観光、
    12日はロッテルダム港内遊覧船に乗った。・・・Rotterdam・Spidoスピドー(所要時間75分)、子供たちは楽しかったようだ。

    U夫人はこの12月にも出産の予定だが、相変わらず元気で明るい。
    一日遊んで、19時10分ロッテルダムを出発し、デュッセルドルフの自宅に21時30分に帰宅した。

    ・・・・・

    旅行時期
    1976年09月
    利用目的
    その他

  • あきる野市広徳寺:東京都天然記念物に指定されたタラヨウは”葉書“の語源になった。

    投稿日 2022年03月28日

    広徳寺のタラヨウ あきる野・秋川渓谷

    総合評価:4.0

    亡くなった母の一番下の弟・叔父の49日法要は2010年4月29日に
    広徳寺で行われた。

    <広徳寺(こうとくじ)のタラヨウは”葉書“の語源>  
    あきる野市小和田234 

    広徳寺は臨済宗建長寺派、龍角山。秋川南岸の秋川丘陵の小高い麓にある、
    鎌倉五山建長寺の末寺である。
    寺伝によると、明徳年中(1390~94)というから室町時代のはじめ、正応長者と
    いう人の妻(法名龍応智雲尼)が開基し、応永10年 (1403)前建長寺住職が
    開山したという。
    そして天文年間(1532~55)小田原北条氏の氏康が寺領を寄進して再興した。
    客殿に北条早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直の各位牌を安置する。
    江戸時代には40石の朱印地が与えられ、約1万2千坪の境内を保有していた。

    山門は江戸時代の建築の特長をよく表わし,重厚な造りで見る者を圧倒する。

    古刹として堂々たる風格を漂わせる広徳寺には山門の奥にある大銀杏は
    あまりの大きさに更に驚く、紅葉シーズンには黄金色の大銀杏は
    実に見応えがあるものだ。
    寺内の裏手には、東京都指定天然記念物になっている都下最大級の「カヤ(24.5m)」、
    と「タラヨウ(19.1m)」があるのが知られている。
    タラヨウの葉の裏に傷を入れて文字を書くことが出来るそうです。
    それで”葉書“の語源とも言われている。

    ・・・・・

    旅行時期
    2010年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    2.5
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    バリアフリー:
    1.0

  • あきる野市広徳寺:東京都天然記念物に指定されたカヤ

    投稿日 2022年03月28日

    広徳寺のカヤ あきる野・秋川渓谷

    総合評価:4.0

    亡くなった母の一番下の弟・叔父の49日法要は2010年4月29日に
    広徳寺で行われた。

    <広徳寺(こうとくじ)のカヤ>  
    あきる野市小和田234 

    広徳寺は臨済宗建長寺派、龍角山。秋川南岸の秋川丘陵の小高い麓にある、
    鎌倉五山建長寺の末寺である。
    寺伝によると、明徳年中(1390~94)というから室町時代のはじめ、正応長者と
    いう人の妻(法名龍応智雲尼)が開基し、応永10年 (1403)前建長寺住職が
    開山したという。
    そして天文年間(1532~55)小田原北条氏の氏康が寺領を寄進して再興した。
    客殿に北条早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直の各位牌を安置する。
    江戸時代には40石の朱印地が与えられ、約1万2千坪の境内を保有していた。

    山門は江戸時代の建築の特長をよく表わし,重厚な造りで見る者を圧倒する。

    古刹として堂々たる風格を漂わせる広徳寺には都指定天然記念物に
    なっている都下最大級の「カヤ(24.5m)」、「タラヨウ(19.1m)」があり、
    紅葉シーズンには、黄金色の大銀杏も見応えがある。

    ・・・・・

    旅行時期
    2010年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)

  • 秋川渓谷・紅葉も美しい、味も美味い黒茶屋

    投稿日 2015年11月22日

    黒茶屋 あきる野・秋川渓谷

    総合評価:5.0

    私共は平成24年(2012年)の今年、満69歳になり、昔風に数えで古稀の歳を迎えました。

    さて、古稀の祝いは11月23日(金)~24日の三連休中に故郷の青梅市・御岳の”ゆずの里・勝仙閣”で一泊し、翌日はあきる野市・小中野の母方の実家そばにある“黒茶屋”で昼食を頂くといった楽しい集いになりました。

    古稀の祝いには娘2家族9人と私共の総勢11人と、“還暦の祝い”よりも倍の数になりました。元気に家族一同が参集し、古稀を祝って頂き、こんな嬉しい事はありません。家族の充実、その繁栄を感じて、とても幸せな時間を感じています。

    今回は場所も故郷の青梅市・三慶病院に入院中のお祖母ちゃんの見舞いや、私共の実家の二つの墓参りも家族全員で訪れることが出来たので、母も御先祖様も喜んでくれている事でしょう。しかも何年か前に泊った事がある、御岳渓谷の”ゆずの里・勝仙閣”で最初の祝いをして頂き、また、一度は食事をしてみたかった、あきる野市(旧五日市)の“黒茶屋”での昼食でも祝ってもらいました。どちらも十分に満足するものでした。

    昼食)黒茶屋  東京都 あきる野市 小中野 167   042-596-0129
    http://www.kurochaya.net/  
    個室:椅子・テーブル席  
    時間:2012.11.24  12:15~15:00

    一度は食事をしてみたかった“黒茶屋”での昼食をアレンジして頂き、たいへん嬉しい一時になった。予約時間を少々過ぎて着いた黒茶屋は駐車場もいっぱいに埋まるほどに来客が訪れていた。この日は連休もあって、予約が無いと食事ができない様子でした。
    古民家を食事処にした魅力的なお店で、待合室も立派で、豪壮な古民家に驚いた。

    昼食:「じじ&ばばの古稀お祝い会・第二弾」 
    お料理は、大人:朴葉焼と山里料理(和牛)、子ども:ほおずき(季節のお弁当・果物・おやき)が個室のテーブル上に出てきました。出てきた料理のどれも美味しい味で、食べきれないほどの量の盛り沢山料理には驚き、皆さん、お腹がいっぱいになったようだ。
    「黒茶屋」はとても雰囲気が良く、お料理も美味しくて大満足でした。

    旅行時期
    2012年11月
    利用した際の同行者
    乳幼児連れ家族旅行
    一人当たり予算
    7,500円未満
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    5.0
    雰囲気:
    5.0
    料理・味:
    5.0
    バリアフリー:
    4.0
    観光客向け度:
    4.5

  • 「シュヴァーベンの海」・ボーデン湖畔にある古城ホテル ヴァッサーブルグ城

    投稿日 2022年01月27日

    観光案内所(リンダウ) リンダウ

    総合評価:4.0

    Wasserburg am Bodenseeに向かう県道では、怖い目にあった。
    【危険な追い越し】をしたのだ。ゆっくり走るトラックをついつい抜いてしまったのだが、前方からのトラックのスピードを見誤ったわけで、こちらのVWの速さに対して意外に早いスピードで正面から突っ込んでくるトラックには肝を冷やした。

    L?/B31/L?をちょっと遠回りした感じがあったが、Lindauリンダウの街中を抜けて西に5kmを走るとヴァッサーブルグに16:30に到着した。

    訪ねた観光所には誰もいない。裏手の駐車場に停まって地図を眺めていると小母さんが通りかかり、これ幸いと古城への道を聞く。
    小母さんは観光所の人だったらしく、事務所から大量のパンフレットを持参して、繰り返し城への道を説明してくれた。今日もまた感謝です!!

    <お茶:Schlosshotel Wasserburg古城ホテル・ヴァッサーブルグのテラスで>
    スケジュール通りに、城内のテラスでお茶を頂く。
    パラソルの立った、テラスレストランには大勢のお客がいて、
    珍しい日本人に好奇の目を向けてくる。
    残念な事に城の周辺は湖水が干し上がっていて、
    流木などがちょっと見苦しかった。

    二人とも珍しく、大き目のカップにたっぷりと注がれたココアを頼み、
    甘そうなチョコレートのデコレーションケーキの一切れを楽しんだ。
     (16:30~17:10 Euro 9)

    <Schlosshotel Wasserburg古城ホテル ヴァッサーブルグ城>
    D-88142 Wasserburg/Bodensee 、Halbinselstrasse 78
    http://www.schloss-hotel-wasserburg.de/

    3星・全15室。2007年4月27日にお茶に寄った。

    ボーデン湖に突き出た半島に築城された水城である。
    最初に城が築かれたのは、当時まだ小島であった784年の春であると云う。
    以来凡そ1200年の歴史を持っている。
    1280年、Schellenbergシェーレンベルクの領主がここを教会の支配から奪い取り、以後何百年もの間、貴族の一門によって支配された。
    この古城ホテルは部屋数15室の小ぶりのホテルで、立派な庭園、水浴場、ボーデン湖に臨むテラスがあり、対岸のスイスの山並みが遠く望まれる、素晴らしい場所にある。

    今回はチャンスがなかったが泊まってみたいホテルである。レストランはボーデン湖の魚を主とした郷土料理が得意だと言う。

    ・・・・・

    「ボーデン湖」という名はカロリング王家の館ボードマンに由来していると云う。英語、仏語ではコンスタンツ湖と呼ばれ、ドイツ文学的には“Schwaebisches Meerシュヴァーベンの海”とも云われている。
    もっとも最近はこの詩的な、或いは洒落て「シュヴァーベンの海」と書くのもその昔、帝政期ローマの政治家、歴史家であったCornelius Tacitusコルネリウス・タキトゥス(西暦55年頃~120年頃)が表現語として使用したと云われている。

    ヴァッサーブルグの観光局で頂いたパンフレットの表紙には次の言葉が書かれている。「休暇に海が必要ですか?!」とある。何もかも揃った保養地・ボーデン湖で過ごす事ができれば、なにもわざわざ、海に出かける必要など無いと言いたげに・・・・・。

    ボーデン湖周辺は誠に“海”を必要としない。この広い湖の周辺には、太陽とワインとそして、素晴らしい景色がある。  遠くで、雷が鳴り始めた。

    ・・・・・

    尚、Wasserburg/Bodenseeの町は、Landkreis Lindauリンダウ地区に属する約4千人の町でボーデン湖畔の保養地である。リンダウの観光案内所を利用して、口コミを投稿した。 

    旅行時期
    2007年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • デュッセルドルフ:RheinturmラインタワーとMedienHafenメディエンハーフェンの違和感!

    投稿日 2022年01月09日

    メディエンハーフェン デュッセルドルフ

    総合評価:2.0

    ≪違和感を持ったRheinturmラインタワーとMedienHafenメディエンハーフェン≫

    デュッセルドルフのRheinturmラインタワーは1979年から1982年にかけて建てられた電波塔(高さは240.5m、172.5mのレストラン、その下に展望台、バーラウンジM168)である。丁度第一回の駐在が終わった年に建設が始まり、再度駐在となった年に完成した。
    だから、この塔を初めて見た時、最初から違和感があったものだ。

    デュッセルドルフの好ましい旧市街に、大観覧車に加えて、ライン川畔にラインタワーがニョッキと立っているのが気に入らないのだが、今はもうこの町の風景になってしまった。
    それでもかつての写真を見ると、旧市街の中心から右(オーバーカッセル側から見て向かって右、方向は西にあたる)の端っこだから、見ないでも済むのだが・・・。

    そのタワーの南側一帯は19世紀終わり頃からライン川の水上交易港として栄えたデュッセルドルフ港を新たに再開発した地区で、「MedienHafenメディエンハーフェン」と呼ばれている。何ともモダンな建物がならび、不思議な雰囲気を醸し出している。
    メディエンハーフェンが有名になったのは、世界的有名な建築家Frank O Gehryフランク・O・ゲーリー設計の3つのビル「ノイアー・ツォルホーフ」が建ってからだ。

    曰く、デュッセルドルフの新観光地だそうだ。

    ・・・・・

    (2022年1月9日Wiki参照、編集追記)

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    景観:
    2.0
    人混みの少なさ:
    3.5

  • 1983年のクリスマスをケルン近郊の古城ホテルで過ごし、翌日は祭りの後の静かなボンを訪れた。

    投稿日 2022年01月05日

    ミュンスター広場 ボン

    総合評価:4.0

    ≪1983年のクリスマスをケルン近郊の古城ホテルで過ごし、翌日は祭りの後の静かなボンを訪れた。≫

    クリスマスやSilvesterジルヴェスタ―(12月31日、大晦日=年越し)にデュッセルドルフを離れて、フランスやドイツなどの古城ホテルで過ごした事がある。
    我が家は娘二人(13歳と11歳の)がいて、ことのほか、この旅を楽しんでいた。

    1983年12月24日~26日(2泊3日)のクリスマス時期に宿泊した時は驚いたことに、ホテルの宿泊客は私共家族4人だけだった。
    クリスマスの料理を楽しみ、貸し切り状態の古城ホテルで過ごした。

    第三日:12月26日(月)雨

    3)アウエル城=>ボンの行程33分、27km
    Schloss Auel=>Honrathホンラート L288=>L84・B484・A3・Lohmarローマル B484=>B56 ・A560=>Bonn-Vilichヴィリッヒ A59・B56 =>Bonn 

    クリスマスの翌日はボン見物にした。
    あいにくの雨のボンは久しぶりだが、さすがに祭りの後は静かなもので、町全体が休んでいた。
    ミュンスター広場の郵便局、ベートーベンの像を子供たちと共に撮り、街中で見つけた可愛い木組みの家もクリスマスバージョンが美しい。

    マルクト広場には文化都市らしい、品の良い旧市庁舎が大きな樅ノ木のクリスマスツリーを従えて立ち、ベートーベンの誕生地だけにベートーベンの家、コンサート用のベートーベンホール、ミュンスター教会、ボン大学と狭い地域に主要な建物がある。

    4)ボン=>デュッセルドルフの行程53分、73km
    Bonn =>B56 ・A59・A560・B484 Lohmarローマル・B507=>Roesrathレスラート A3・A44・A52 D’dorf‐Nord =>D-Unterrath

    ボン見物後、途中のSiegburgジークブルク(1000年以上の歴史を持ったベネデイクト僧院で知られた町)経由でデュッセルドルフに帰った。

    静かなクリスマスを満喫した3日間でした。

    ・・・・・

    旅行時期
    1983年12月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0

  • ドイツ一の名城エルツ城Burg Eltzはドイツで“行って見たい観光地10選”に選ばれている。

    投稿日 2017年04月09日

    エルツ城 コブレンツ

    総合評価:5.0

    *古い写真を見つけたので更新した。
    (1977.03.08.スイスZugから後輩のM君来訪、03.12.~13.MoselのSchlosshotel Zellに泊まり、Schloss Cochemコッヘム城とBurg Elzエルツ城見物。この時は家族4人でモーゼル川畔から北の山中に少し進んだ所にあった駐車場に車を停め、そこからエルツ川の谷間沿いに歩いた。木陰からエルツ城の格好良い姿が見えた)

    2006.5.:“ドイツ ライン・モーゼル周遊の旅”
    期間:2006年5月5日(金)~5月19日(金)15日間

    05.13(土)曇り 20℃ 昨夜猛烈に雨が降ったので、一日涼しい。
    Karden B416->11km、Hatzenport、L113->5km、Muenstermaifeld、K37->7km、Wierschem、K38->2km Antoniuskapelle、9:40駐車場、下り坂を800m、20分程の距離。ドイツ一の名城Burg Eltzエルツ城が見える。城には10:00に着く。ガイドツアーは約40分。宝物館。Antoniuskapelle K38->2km Wierschem、K37-> L118 10km Pllig K27->2km、12:00、Burg Pyrmont (bei Roes)ピルモント城内見学。

    寒いぐらい(13.5℃しかなく)の森の中を歩き、さらに下り坂を800m、20分程の距離を歩いてゆく。途中から、谷間の視界が開けて、ドイツ一の名城Burg Eltzエルツ城が見えてくる。城には10:00に着く。

    ≪Burg Eltzエルツ城≫
    エルツ城はドイツで“行って見たい観光地10選”に選ばれていて、名城として名高い。モーゼル川から少し北に入ったエルツ川の谷間に、モミの木の鬱蒼と繁った山中にある。1151年シュタウフェン王朝のコンラート三世はCochemの城を手にすると、その帝国領内に城塞の構築を進め、その一環として、家臣のEliasエリアス(Kleveの白鳥の騎士と同じ名前)により、Eltz城も建設された。
    1356年にはカール四世から、トリアーの大司教に与えられたが、その後も、山城は増築を重ね、一度も陥落した事がない難攻の城という。
    Eliasはエルツ家を名乗り、その家系は城主として、中世から現代にいたる800年以上も連綿と続いているそうである。

    エルツ城ガイドツアーは約40分、日本語の説明書を借りて、集まりだした大勢の観光客と共に、城内へ。城内には
    ①下の広間---1450年、樫の木の天井は堅牢なもの。ここは居間にあたる。1537年アイフェル製の暖炉、16世紀のクラナッファの絵“マドンナとキリストと葡萄”が架けられている。
    ②寝室---①の上層階、16世紀、後ゴシック様式の壁絵、15世紀の鉛製窓のあるカペレ。独特の1520年天蓋付きベッド(暖房の面から、階段を上がった所にベッド)。中世後半から用いたと言う、部屋の隅の城郭から突出した部分に設けられた、水洗式トイレ!!(屋根に溜めた雨水の利用)が見られた。
    ③騎士の間---樫の木の天井、城一番の広さ、17世紀のゴブラン織り(太陽神と月の女神の会食)が壁に架けられ、最後の騎士と謳われた皇帝マキシミリアンの甲冑(1520年代製、27kgの重量)がある。
    ④Fahnensaal旗の間---1881年南独製オーブンがあり、エルツ一族の紋章がタイル張りされている。後ゴシック様式のガラス絵(騎士階級の守護神、聖Georgのドラゴン退治の図)も見ることができる。
    ⑤Komtessenzimmer伯爵令嬢若しくは貴婦人の間---居間に掲げられた、いくつもの絵から、そう呼ばれたという。Brautbett花嫁のベッド(1520年製、2.05x1.45mの大きさ。この時代は、座って眠るスタイルの小さなベッドが主流で、これは珍しい大きさである。)や、16~19世紀の陶磁器コレクションが。

    その他に⑥台所⑦狩りの間など、中世の色合い濃い、興味深い部屋部屋を見る。40分はあっという間である。(12Euro)。

    昔は無かった、出口側の地下に宝物館(5Euro)もあって、一族の貴重な品々を1981年から公開し、12~19世紀の宝飾品等500もの品々を展示している。代表的なものは
    ①狩りの女神ダイアナが鹿に跨った姿---1600年、アウグスブルグの銀製品。
    ②騎士の乗馬像---スウエーデンの王G・Adolf、1650年銀に金メッキをした見事な像である。
    ③Der Dukantenscheisser金貨(糞)をひり出す男---デュッセルドルフの旧市街でも見たものと同じで、ユーモラスな格好をしている。1650年アムステルダム製の高価な象牙品。④弓、銃器等の武器⑤ヘキスト、ウィーン等の陶磁器がある。

    外は雨がぱらつく天候になってきた。城門から出て、右に行く道から城を眺める。形の良い城である。眼下に小さなエルツ川が城に沿って、流れている。
    以前にここを訪れた時は、モーゼルから少し入った駐車場に車を置き、エルツ川沿いに山中をハイキングしながら、登った。今日もその道をたどって、エルツ川に架かる橋を渡っている人々が遠くに見える。

    ドイツ一の名城と称されるが、モーゼルからは直線で数キロの距離の谷間に城を作る軍事的な意味合いがどれほどのものか?理解し難い場所だが。ともあれ、こうした古城らしい立派な城が残ったのは素晴らしい事だ。

    ・・・

    Antoniuskapelle K38->2km Wierschem、K37-> L118 10km Pllig K27->2km、12時、Burg Pyrmont (bei Roes)ピルモント城に到着。

    <Burg Pyrmont (bei Roes)ピルモント城>
    ピルモント城は“Die Perle der Eifelアイフェルの真珠”と呼ばれている。エルツ城ほど有名ではないが、やはりエルツ川に沿った山上に、25mの塔を中心に堅固な城壁を持った城である。塔からのアイフェル、モーゼル、フンスリュック地方の眺望は素晴らしいとある。観光客の一団が塔の上から、なにやら叫んでいる。
    ここでは騎士の扮装をして、【騎士とお姫様ごっこ】ができるサービスもあって、面白そうだ。
    ピルモント城は953年頃から、砦のようなものが建てられ、1225年に初めて歴史に城の名が出てくると云う。その後の変遷を経て、城は1963年に再建され、1990年から一般に公開されるようになった。城への橋を渡り、案内のビデオを鑑賞してから、城内を見て廻る。騎士の間、広い食堂、城主の間、カペレ、テラス、地下室、庭園など小さい規模ながら、興味深いものがある。(8Euro)

    XXX

    旅行時期
    2006年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    5.0

jijidarumaさん

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33国・地域渡航

12都道府県訪問

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

最近はアジアの香港・マカオ、台湾も時に昔を思い出しつつ、また、日本の小旅行と称した旅も
最近投稿しています。
(2025.06.11.)


プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、さらにロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、戦時体制の欧州の旅は見送り続けて、2025年を迎えている。

(2025.06.11.)

行ってみたい場所

ドイツ

現在33の国と地域に訪問しています

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現在12都道府県に訪問しています