旅好者さんのクチコミ(30ページ)全6,282件
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投稿日 2022年10月05日
総合評価:5.0
県道8号線を神原渓谷方面に進んでいると、6連の石造アーチ橋がありました。見た目にがっしりとした明正井路一号幹線一号橋です。明正井路は竹田から遠く豊後大野まで引かれた用水路です。1917年(大正6年)に着工し、1924年(大正13年)に完成したものです。(昭和に取水の追加工事がされています)総延長は175kmもあり、起伏が激しいため17基の水路橋が築かれたとのことです。この橋は別名では明正井路第一拱石橋とも呼ばれていますが、大野川水系の緒方川と県道8号線に架かっています。幅員は2.8mで、長さは78mもあり、大分県内では最長です。6連のアーチの上には水路として4段の石壁が積まれていました。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2022年10月05日
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投稿日 2022年10月05日
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投稿日 2022年10月05日
総合評価:3.5
竹田ダムは、県道8号線が大野川を渡る魚住橋から200mくらい上流にありました。1955年(昭和30年)に完成した、九州電力の発電用のダムです。国際的には高さが15m以上あるものをハイダム、満たないものをローダムと定めています。そして、日本の河川法では、ダムとはハイダムのことで、ローダムは堰と分類されています。この竹田ダムは高さ4.15mの本堰の上に可動式の取水用ゲートが設置され、合計しても10.2mとのことなので、正式には竹田調整池堰と呼ぶそうです。
なお、このダムの直下に名瀑といわれた魚住の滝(の跡?)が見えました。竹田ダムはごく最近まで改修工事が行なわれていて下流への流量が増えたので、一時的に魚住の滝が復活したとのことでした。訪れた時は、もう工事が終わってしまい、ほぼ枯れた魚住の滝が見えるだけでした。柱状節理は見られましたが・・・。- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2022年10月05日
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投稿日 2022年10月05日
総合評価:4.0
扇森稲荷神社は、国道57号線から参道が始まっていました。場所は拝田原という地区です。ここには古墳があることから古くから祭祀が行われていて、それが神社としての始まりではないかとみられていますが、稲荷神社としての創祀は1616年(元和2年)とされ、後に、岡藩主から「扇の森」の社号を頂いて、扇森稲荷神社となったとのことです。(創祠400年の記念碑が建っていました)地元では長い社名ではなく、「こうとうさん」と親しく呼ばれているそうです。諸説があるそうですが、もっともよく知られているのは、岡藩の藩士がここに白狐の頭を埋めたことから狐頭原(こうとうばる)と呼ばれるようになり、今では、狐頭様(こうとうさま)と通称されているのだというものです。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
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投稿日 2022年10月05日
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投稿日 2022年10月05日
総合評価:4.0
キリシタン洞窟礼拝堂は、殿町の武家屋敷通りから、右に赤松谷に入って行ったところにありました。中はおよそ3m四方、高さは約3,5mあるとのことです。もともと洞窟があり、この大きさに掘り込んだのでしょうか。正面に祭壇の様な跡がありました。海外でも何回か洞窟礼拝堂を見たことがありますが、それらは、単に、礼拝堂を洞窟に造ったものでした。でも、ここは表に出せないので洞窟に隠したということでしょうね。もっとも、武家屋敷のこんな近くにあることには、何か隠された事情があるのでしょうね。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2022年10月05日
総合評価:3.0
町並みの南東のところに、観光施策の一環として、歴史の道として整備した「武家屋敷通り」がありました。竹田の町は、明治維新に伴って藩主の中川家が東京に移ると、どんな理由があったのか、武士も早々に土地を離れたそうで、すべてが人手に渡ってしまったそうです。これはほかの城下町とはちょっと事情が違う様です。門を覗くと中は駐車場だったり、空き地だったりと、ちょっと寂しい思いがしてしまいます。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2022年10月05日
総合評価:3.0
武家屋敷通りの入口のところに、大きな武家屋敷の門がありました。しかもずいぶんと保存状態の良いものが・・・。それもそのはずで、ここはもともとは確かに中級武士の武家屋敷があったところだそうです。空き家になっていたのを、ふるさと創生資金を使って、多目的施設として復元されたものだそうです。藩主中川家の家紋「中川クルス」の提灯が掛かっていました。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2022年10月05日
総合評価:5.0
旧竹田(ちくでん)荘は、竹田市歴史文化館・由学館からエレベータで上がった左手にありました。ここは田能村竹田(ちくでん)さんの住居兼仕事場だったところです。こんな別荘があったら、さぞ心休まるだろうなと思う様な家でした。田能村竹田さんは、竹田を訪れるまで知らなかったのですが、江戸後期を代表する文人と称されているそうですね。岡藩に代々仕える医師・田能村家に1777年(安永6年)に生まれ、長じてからは医者ではなく藩校で教えていて、書画にも興味を深めた様です。37歳で隠居後は全国を旅し、各地の文人墨客と交わり、さらに磨きを掛けたのでしょう。この建物は1790年(寛政2年)に建てられたものですが、1808年(文化5年)頃からは改修や増築が行われ、竹田が理想とする「文人の住まい」としたのだそうです。多くのお弟子さんを育て、1835年(天保6年)に59歳で亡くなっています。なお、竹田さんやお弟子さんの作品の一部は敷地の一画にある画聖堂で展示されていました。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2022年09月19日
総合評価:3.0
竹田荘公園は本町通りの先から長い石段を上がって行ったところにありますが、今回は横着をしました。竹田市歴史文化館・由学館は本館の建物と別館?となる旧竹田荘の移動を助けるエレベータが設置されています。エレベータで上がって、左が旧竹田荘ですが、右に進むと竹田荘公園でした。四阿のあるところの広場から町並みが見えるかと期待しましたがダメでした。もう1段上の展望台に上がれば見通しが良くなるかと思いましたが、イノシシ注意!の掲示がありましたから断念しました。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2022年09月19日
総合評価:3.0
本館の建物は隈研吾さんのデザインとのことです。白壁や孟宗竹に竹田のイメージが織り込まれているのかなと思いました。中の展示はほぼ「岡城ガイダンスセンター」でした。ここを見てから岡城跡の観光に行くことが前提の様ですが、その思惑通りにはなっていない様に思いました。岡城跡の観覧券発売所辺りに造る施設だと思います。また、岡城のジオラマが置いてありましたが、素人が作った様な見応えのないもので、残念でした。この本館はサンチャゴの鐘を見るだけでスルーして、エレベータで旧竹田荘へ行く方がよいと思いました。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 3.0
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投稿日 2022年09月19日
総合評価:3.5
廉太郎トンネルは、瀧廉太郎記念館の近くの路地の奥にありました。幅は2.5mで、長さは15mほどです。正式名は溝川隧道といい、1879年(明治12年)に完成したもので、その元は江戸時代に酒蔵として掘られた岩窟だったそうです。当然、元は素掘りで、1987年(昭和62年)に観光用に改修したそうです。廉太郎トンネルの命名は瀧廉太郎記念館のオープンに合わせたとのことですから、1992年(平成4年)のことだったのでしょう。廉太郎が竹田に来たのは1891年(明治24年)ですから、その当時にはすでにあった溝川隧道は何度も通ったことでしょうね。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2022年09月17日
総合評価:5.0
古墳はどのくらいの数が残っているのか知りませんが、多くは盛り上がった小山に木々が生えているだけというところが多いと思います。しかし、ここは亀塚古墳公園は築造当時の姿に復元されていますから、築造した当時の土木技術や工芸技術などを間近に体感することが出来ます。古代の大きな墳墓は権力者の象徴で、万国共通なのが面白いところです。併設されている海部古墳資料館で、当時の知識を得てから古墳へ廻ると、より楽しめると思いました。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
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投稿日 2022年09月16日
総合評価:4.0
長崎鼻リゾートキャンプ場には、いろいろなタイプのコテージやキャビンなどがありましたが、中でもサンセットキャビンはテレワークの施設として魅力を感じました。定員は2名と小振りなものですが、中にはダブルベッド、デスク&チェア、冷蔵庫、電子レンジなどがあり、外には、バルコニーにガーデンテーブル、建物横にはタープ、バーベキュー台、テーブル、チェアが装備されていました。正に、理想的なテレワークが出来そうです。ロングステイを実践したいと思いました。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 施設の快適度:
- 4.0
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投稿日 2022年09月14日
総合評価:4.0
胎蔵寺のすぐ近くに、歴史のある岐部神社がありました。一緒にお参りすることをお勧めです。この神社は3つの宮が集合して出来たところです。ここは江戸時代の正徳年間(1711年~1716年)に、別々の場所に祀られていた天大将軍宮、牛頭宮、住吉宮の3つを集めて祀っているとのことです。創建時期が分っている天大将軍宮は1158年(保元3年)の創建とのことです。遷宮後は3宮はそれぞれ草葦屋根の小さな社だったそうですが、1866年(慶応2年)に現在の社へと大改修したのだそうです。なお、この神社の裏には、天満宮があり、並んで、殿地と思われるところがありました。神社の由緒の中に住吉宮の遷宮が書かれていないので、住吉宮の殿地でしょうか。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2022年09月14日
総合評価:4.0
瀧廉太郎記念館は、愛染堂や円通閣などがある八幡山の東側の山裾にありました。この記念館は1992年(平成4年)にオープンしたものですが、12歳の廉太郎が父の転勤に伴い1891年(明治24年)12月に竹田に転居してから、2年半ほど過ごしたところです。元々は岡藩家臣の岩瀬家の屋敷で、敷地が300坪もある大きな侍屋敷だったそうで、現在まで、その一部が残ったということです。館内に尺八を吹く廉太郎少年像がありました。朝倉文夫さん作の廉太郎像は多く見掛けますが、これは初めて見ました。尺八は廉太郎が竹田で初めて手にしたものの1つで、後の作曲(音律)に影響を与えているそうです。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 4.0
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投稿日 2022年09月14日
総合評価:5.0
豊音(ほうおん)寺は、愛染堂や円通閣などがある八幡山の東側の山裾にありました。瀧廉太郎記念館から北方向を見ると山門があります。反対方向のぽっくり地蔵前からは細~い散歩道?が通じていました。創建は寛永年間(1624年~1644年)だそうです。山門の二重門は見応えがありました。竹田では最大クラスの大きさだと思います。天井には龍が描かれています。1850年(嘉永3年)の建立です。本堂は比較的新しい築造と思われますが、大きな建物でした。なお、山号は清涼山で、曹洞宗のお寺さんです。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2022年09月14日



















































