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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのトラベラーページ

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(45ページ)全1,843件

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  • 本館は改修工事中ですが、その分集中して見学ができました。

    投稿日 2017年09月10日

    広島平和記念資料館 広島市

    総合評価:5.0

    昭和30(1955)年8月に広島平和記念都市建設法によって平和記念公園内に『恒久平和を祈念する施設』のひとつとして開設されたのが広島原爆平和記念資料館です。数回の改修工事を経て現在に至っていますが、本館が来年平成30(2018)年まで改修工事が行われており、入館ができません。

    しかし見学ができないという訳ではなく、本館陳列品の一部は東館の特設展示として見学することが可能です。また袋町の旧日本銀行広島支店内でも平和記念館収蔵品展が行われており、やはり見学が可能となっています。

    いつも考えさせられることが多過ぎる平和記念資料館なのですが、考え過ぎて十分に館内を回る時間が取れなくなってしまうことが多々ありました。その一部を切り取って特設展として取り上げて頂くことにより、見ることが出来るものを集中して見学することができるため、いつもよりも見学後の充実感がありました。

    入場料の200円のことを言う方もおられますが、私自身金額以上の体験ができると思いますし、なにより有料施設を遠ざけるインバウンドの入場者の数の多さがそれを表しています。ただ写真に切り取っただけでそのもの全てが訴え掛けるものを受け取れるものはほとんどありません。写真ではなく展示品『実物』が訴え掛ける『無言の力』を感じ取って初めて訪れた価値があるように改めて思います。

    8月は19:00迄開館しています。

    旅行時期
    2017年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    原爆ドームから徒歩10分程。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    200円円の入場料は安いと思います。
    人混みの少なさ:
    3.0
    たくさんの人がおられました。
    展示内容:
    5.0
    心を打たれるものが多かった・・・。
    バリアフリー:
    5.0
    されています。

  • 4年後のヒロシマ・・・。

    投稿日 2017年09月13日

    平和記念公園 広島市

    総合評価:5.0

    Norman Cousins(ノーマン・カズンズ)氏はアメリカ出身の作家・ジャーナリストです。原爆投下後4年後の昭和24(1949)年に広島を訪れて原子爆弾投下の惨状を視察をしました。その中で出会った広島戦災児育成所の原爆孤児たちに強い衝撃を受けて、帰国後に広島の現地レポとして『4年後のヒロシマ』を発表しました。

    これを契機に広島流川教会牧師の谷本清氏らとともに米国人が被爆孤児育成のために養育費を送るという『精神養子運動』開始に尽力し、400名以上の孤児に対する支援を実施するシステムを構築しました。
    また原爆によってケロイドを負った若い女性たち『原爆乙女』への義援金を募るために、谷本牧師とその家族をエノラゲイ副機長であったロバート・A・ルイスと対面させました。この番組は大いなる反響があり、5万ドルものの寄付金が集まりました。その結果昭和30(1955)年に原爆乙女25名がアメリカにて治療を受けられるようになりました。

    その功績により昭和39(1964)年には広島市特別名誉市民の称号を与えられます。その後核兵器廃絶運動や環境汚染への反対運動などでも活躍されましたが、平成2(1990)年に死去します。

    広島市民の被爆孤児やケロイドを負った乙女たちなどに対する人道的・精神的サポートを行った彼の偉業に対し平成15(2003)年に広島平和記念公園内ノーマンカズンズ記念碑が建立され、現在に至っています。

    著者である『笑いの治癒力』にも書かれていますが、『笑い』で『膠原病』を直してしまった逸話には、正直宗教めいたものを感じ、あまり良くは思えませんでした。しかしその『笑い』がもたらす『精神的余裕』が結果として『良いもの』をもたらして行くという持論は、結果として正しいものであることは疑う余地がありません。描き方によっては見せ物で金を集めたようにもいわれますが、それによって多くの被爆者の『未来』が変わったのは事実です。

    碑を見ながら改めて浅はかな先入観を持っていた自分に気づかされました。

    旅行時期
    2017年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和記念公園内にあります。
    人混みの少なさ:
    5.0
    夜だったので誰にも会いませんでした。
    バリアフリー:
    3.0
    碑の回りは地道です。
    見ごたえ:
    5.0
    功績の大きさが伝わってきます。

  • 最高峰の元ツアーバスでしょう!

    投稿日 2017年08月30日

    高速バス (ウィラートラベル) キタ(大阪駅・梅田)

    総合評価:5.0

    京都~広島の往復を『コモド』シートで利用しました。5月にやはり三列シートで利用していますがバスが変わったようです。その時と比べても格段に座り心地は良くなりましたが、コンビタイプのバスで後方に変わったことで休憩時に人の移動がなくなったことも理由のひとつでしょう。

    ツアーバスには少ないプライベートカーテンが付いており、横の座席や通路との干渉が少なくなりました。ジェイアールバスよりもは少し高めの値段設定ではあれど二人のドライバーさんでの運行は安心ができます。それよりプロの『ドライバー』と『クルー』としての対応はやはり『ピンクのバス』の看板を抱えている『意気込み』を感じました。

    多分他のバスにはもう乗れないと思います(笑)♪

    旅行時期
    2017年08月
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    乗り場へのアクセス:
    5.0

  • 被爆電車に遭遇しました!

    投稿日 2017年09月02日

    広島電鉄 (電車) 広島市

    総合評価:5.0

    旧日銀広島支店から平和記念公園へと向かう際、袋町電停で回送中の650系651番車両に遭遇しました。平日の朝のラッシュ時に運行されていることは聞いていましたが出会うことはなく、たまたま歩いている時に見つけて、慌てて電停へと向かいました。

    昭和20(1945)8月6日午前8時15分中電前電停付近を走行中に爆心地から700mの位置で被爆し、車両は脱線し半焼、逃げ出せた1名を除い乗員乗客80名が亡くなりました。

    広島の惨劇を後世に残し被爆後の街の復興を『走る』ことで元気づけようと復旧作業が行われ、翌昭和21(1946)年3月には運行を再開しています。

    戦後72年が過ぎ昭和17(1942)年生まれの651車両は75歳になりました。高速化と収容キャパの需要に取り残された650系車両は昭和42(1967)年に事故廃車になった655番車両を除いても653・654番車両は定期運行から外されています。しかし残った651・652番車両は今なお現役車両として市民の足となって元気に市内を走っています。

    京都の街から第二の人生を広島に求めてやってきた元京都市電車両共々末永く頑張って貰いたいと改めて思いました。

    旅行時期
    2017年08月
    コストパフォーマンス:
    3.5
    ちょっと値段が上がりました。
    人混みの少なさ:
    3.0
    市民の足ゆえ混雑していることが多いです。
    バリアフリー:
    5.0
    ノンステップ車両も多く走っています。
    乗り場へのアクセス:
    5.0
    バス停のように電停に行きつきます(笑)。
    車窓:
    5.0
    広島市街をのんびりと楽しめます。

  • ヒロシマの恩人顕彰碑です。

    投稿日 2017年09月11日

    平和記念公園 広島市

    総合評価:5.0

    スイス出身の医者であるMarcel Junodは、赤十字国際委員会の派遣員を第二次エチオピア戦争・スペイン内戦・第二次世界大戦の期間に渡って務めた方です。昭和20(1945)年8月9日に来日し、当初は連合国の捕虜収容状況の確認に当たっていました。9月になり原爆が投下された広島の惨劇の報告を聞き、GHQにおよそ15tにも上る医薬品の提供を交渉し、認めさせました。

    ジュネーブ条約に批准していなかったアメリカと日本。捕虜の収容状況の確認も医薬品の提供もお互いが守る必要がなかった中でのジュノー博士の取った行動は、まさに神業的なものでした。自身も広島へと入り、僅かな滞在時間の中で多くの被爆者の前で膝をつきながら治療にあたられたそうです。

    最初でただ一人の外国人医師であるマルセル・ジュノー博士、日本を離れた後も事あるごとに核兵器の廃絶を説いて回られたそうです。そして超法規的な人道的支援を行った彼のことを『ヒロシマの恩人』と呼び、その功績を後世に伝えるべく昭和54(1979)年に広島平和記念公園内に顕彰碑が建立されました。

    ジュノー博士の逸話は着眼点だけを取っても凡人にはできないことです。広島平和記念公園内の慰霊碑の数の多さには明るい気持ちには到底なれませんが、その中のひとつであるジュノー博士顕彰碑にホッとした気持ちになれたのは私だけではないと思います。

    旅行時期
    2017年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    広島平和記念公園入口にあります。
    人混みの少なさ:
    5.0
    夜には誰もいませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    碑の回りは地道です。
    見ごたえ:
    5.0
    平和記念公園で唯一ホッとする碑でした。

  • ここでも回天の訓練が行われていました。

    投稿日 2017年08月30日

    阿多田交流館 柳井・上関

    総合評価:5.0

    山口県熊毛郡平生(ひらお)町。瀬戸内海に面したこの街にも第二次世界大戦末期に人間魚雷『回天』の基地がありました。回天が拠点とした基地には『回天の島』とネーミングされた現周南市の大津島、大分県大神(おおが)の他にも光やここ平生にも置かれていました。

    航跡を残さない『酸素魚雷』を改良し、人間が乗り組み操作することによって敵艦艇を撃沈するという戦況悪化の一途をたどる日本軍としてはまさに起死回生の『兵器』だという考えがありました。しかしその背景には誤った『武士道』によって考えられた『特攻兵器』だったことは、脱出装置がなく一度発射されてしまうと二度と生きては戻れないものであったことからも容易にわかります。脱出装置がないことで永野修身軍令部総長がNGを出したものの軍令部長や最終的には海軍大臣までもが兵器として採用することを決定しました。

    戦績で効果は語れませんが、三隻の戦果に対して104名の戦死・殉死者を出しているという説に基づくと、先のある若者の命が軽んじられたことがよくわかると思います。漠然とした『戦争反対論』ではなく、厳しい史実がその原動力となっていることを改めて感じることのできる場所のひとつです。

    旅行時期
    2017年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    バスだと時間取りを考えなければいけません。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    無料です。
    人混みの少なさ:
    5.0
    もうお一方おられました。
    展示内容:
    5.0
    回天記念館とは違う厳か感がありました。
    バリアフリー:
    5.0
    入口にはスロープがあります。

  • 厳島神社を崇拝しました…。

    投稿日 2017年09月09日

    平清盛像 宮島・厳島神社

    総合評価:5.0

    平清盛、平安時代末期に武家である『平氏』の隆盛を極めました。清盛が建立したとされることが多い厳島神社ですが、伝承によると飛鳥時代に作られたものだそうです。有力豪族であった佐伯鞍職(さえきのくらもと)が社殿造営の神託を受け、勅許を得て社殿を創建したことに始まるとされています。そして代々の神主は佐伯氏が世襲することになりました。

    平清盛が安芸守としてこの『厳島神社』を崇拝し、多くの寄進をしています。また当時の神主である佐伯景弘(さえきのかげひろ)は郷司・地頭となって神宮の経営に関与し、平清盛との繋がりを密接にしていきます。源平の戦いに於いては平氏方についた景弘でしたが、平氏滅亡後は源頼朝に従い、神主の立場を守り続けました。

    神宿る島として戦いや平氏の繁栄を願い、厳島神社を大切にした平清盛。その信心深さからか平氏は繁栄を極めますが、清盛の没後は台頭してきた源氏に押されることとなり、壇之浦の戦いで滅亡しました。

    生前の清盛は平氏の隆盛は『永続的』なものと考えていたようです。しかし清盛没後僅か4年で滅亡したことは『おごり』からでた弛みを、神の力をしても守ることはできないという『戒め』のようにも思います。安芸の国広島では平清盛に纏わるものがたくさん作られています。この厳島の像もそのひとつですが、今の景色と平氏の衰退をどう見ているのか聞いてみたいとふと思いました。

    旅行時期
    2017年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    宮島桟橋から歩いてすぐ。
    人混みの少なさ:
    5.0
    タイミングに左右されます。
    バリアフリー:
    5.0
    像近くまでは砂地ですが、少し離れると大丈夫です。
    見ごたえ:
    5.0
    厳島神社と言えば平清盛でしょう。

  • 原子爆弾〝リトルボーイ〟が上空で炸裂しました…。

    投稿日 2017年09月14日

    爆心地 広島市

    総合評価:5.0

    島内科医院、広島で原爆が炸裂した島病院が戦後再建され島外科となり、その後島内科外科医院を経て現在の島内科医院となりました。相生橋を投下目標とした原子爆弾リトルボーイは、この島内科の中庭上空680mの高さで爆発し、3000℃の熱線と350万Paという爆風が一帯を襲います。

    病院は跡形も無く大破・炎上し、80人余りの職員と入院患者は全員が即死でした。たまたま郊外へ出張手術を行うために出かけていた院長と看護師1名が難を逃れるも、軍関係者より広島が壊滅的な被害を受けた旨と救護要請を受け、途中で広島へと戻ったものの激しい炎に遮られるなどして帰着できたのは翌8月7日の午後であったそうです。帰着した2人は瓦礫の下からおびただしい数の白骨化した遺体を発見し、その他焼け残った器具ケースの中にあった手術用具のみが島病院の唯一の痕跡であったとされています。

    その後院長は知人の病院から持ってきたわずかな救急用医療資材を持って8月6日の夜より、商工会議所前の広場で被爆者の救護活動をはじめます。その後救護所となった袋町国民学校(現広島市立袋町小学校)で被爆者の救護活動に従事されています。

    腕の良い外科医としての名声もありましたが、原爆によって全ては失うものの、戦後再建されたモルタル2階建ての粗末な病院を見て、『私の新しい病院は平和と貧しき者、窮乏したる者を世話することに捧げられている』と言葉を残されています。

    島内科医院となった現在、爆心地と書かれたモニュメントがあるだけに過ぎません。また病院周りも駐車場街となっており、高層建物が並ぶエリアで往時を偲ぶものは付近にはありません。ただ偶々難を逃れたドクターが救護活動に奔走されたことには何か運命的なものを感じました。決して自分のためではない、すべての人のための病院だという言葉に心の中が熱くなりました。

    旅行時期
    2017年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    袋町電停下車徒歩5分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    こちらを目的としておられる方には会いませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    舗装はしてあります。
    見ごたえ:
    5.0
    モニュメントが残るだけですが…。

  • 被爆を耐え抜いた樹木です。

    投稿日 2017年09月15日

    平和記念公園 広島市

    総合評価:5.0

    昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、爆心地上空680mの高さで原子爆弾リトルボーイが爆発し、一瞬にして広島の街は廃墟と化しました。爆心地から1.3km離れた広島逓信局の中庭に4本のアオギリの木がありました。被爆した際には建物の影にならなかったため、爆心地方向より原爆に起因する熱線と爆風をまともに浴びることになりました。1本は焼失したものの、残り3本は奇跡的に助かり、翌年の春には花芽が確認されています。

    昭和48(1973)年に植えられていた中国郵政局が建て替えとなった際に平和記念公園内に移植されています。その後暫くは3本とも生育していたもののうち1本が平成8(1996)年に枯れてしまいます。また残ったものも『落書き』の被害や、平成16(2004)年の台風第18号で倒壊したりしているものの、広島市により復旧保全されています。その後残る2本の種等から育ったアオギリ二世もあり、落種から育ったものである自生している『アオギリ二世』もあれば、広島市の平和活動の一環として『人間の手』によって育てられた『アオギリ二世』もあり、後者の方は日本国内のみならず世界中に配布されて植えられており、被爆二世として『核爆弾の恐ろしさ』を語る伝道師の役目を果たしています。

    落葉樹なので冬に来れば、落葉してその勢いはわからないかも知れません。しかし夏場に訪れると、被爆したアオギリ・アオギリ二世とも枝いっぱいに葉をつけており、その区別すらできない程の勢いを見ることができました。夜に訪れると平和祈念資料館の北にあり、照明はあるにしても薄暗いので少し怖いところもありますが、被爆体験の『生き証人』として後世にその惨劇を伝えて欲しいと願います。

    旅行時期
    2017年07月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和記念資料館からすぐ。
    人混みの少なさ:
    5.0
    夜は誰にも会いませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    足元は舗装されていないところもありました。
    見ごたえ:
    5.0
    息吹を感じました。

  • 強固な骨組みと開口部の方向が明暗をわけました。

    投稿日 2017年09月15日

    平和記念公園 広島市

    総合評価:5.0

    昭和4(1929)年3月に建てられた『大正屋呉服店』が対岸の細工町から新築移転したもので、当時としてはめずらしい鉄筋コンクリートのモダンな建物として完成しています。1~3階はショーウィンドウのある売場で土足で回ることができ、屋上からは市内が一望できまたという一昔前の『デパート』のようなお店でした。しかし昭和18(1943)年12月に繊維統制令により呉服店は閉鎖、被爆当時は他の耐火建物と同じく国策の統制会社である広島県燃料配給統制組合が建物を取得して使用していました。そして昭和20(1945)年8月6日の原爆投下時には、爆心地から170mという至近距離で被爆し、熱線によって地下室を除いて全焼し、爆風によって屋根が押しつぶされ建物内部もめちゃくちゃに壊れました。しかし建物の開口部が爆心地の方向にはほとんどなかったこともあり、建物外と内部による気圧の差が生じなかった、あるいは小さかったため基本的形態は破壊を免れて残存しました。その際に建物内で働いていた従業員のうち28名は即死、8名は傷付きながらも脱出しましたがその後亡くなられました。そして戦後は早い時期での補修工事が進み、引き続き燃料会館として使用されていました。

    平和記念公園の建設に伴い『取り壊し』が議論されますが、昭和32(1957)年に広島市が買収し、東部復興事務所として使用しました。その後拐取を含めた大規模な補修工事が行われた後に、昭和57(1982)年からは平和記念公園レストハウスとして使用され現在に至っています。込み合った時間帯だったので、そのままとされる地下室の件は次の機会のお楽しみにしました。

    旅行時期
    2017年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    原爆ドームからすぐです。
    人混みの少なさ:
    3.0
    時間帯によると思います。
    バリアフリー:
    5.0
    考えられています。
    見ごたえ:
    5.0
    長年の重みが感じられます。

  • 1300羽の折り鶴…。

    投稿日 2017年09月16日

    平和記念公園 広島市

    総合評価:5.0

    佐々木偵子さん、広島に投下された原子爆弾リトルボーイによって2歳で被爆し、黒い雨にもうたれました。しかし被爆症状は現れず不調を訴える母とは異なり、元気に育って行きました。しかし昭和29(1954)11月頃から首周りにしこりが現れ、年が明けると顔が腫れ上がるようになったため原爆傷害調査委員会で検査を受けたところ、原爆による〝亜急性白血病〟の診断を受け広島赤十字病院に入院します。

    入院中に贈られた折り鶴に影響され、入院患者の多くがそれに続き、1000羽折ると病気が治ると信じて折り続けて夏頃には1000羽を折り切り、もう千羽と言っていたそうです。当時高価だった折り紙ではなく、薬包のセロファン等を利用して折り続けました。しかしその願いも叶わず、昭和30(1955)年10月25日朝、家族に看取られて12歳の短い生涯を終えました。

    偵子さんの死後、そのニュースを知った同級生の呼び掛けにより、原爆の犠牲となった子供達の慰霊の碑を作る提案がなされ、広島市はもちろん他府県、外国から予想以上の募金が集まって昭和33(1958)年5月5日に慰霊碑〝原爆の子の像〟が完成します。

    偵子さんが病気が治ると信じて折り続けた千羽鶴、碑に祀られている子供たちの供養の意味で世界各国から届く折り鶴ですが、平成15(2003)年8月1日に〝折り鶴放火事件〟に遭遇します。ひとりの大学生による身勝手な自己満足の結果、14万羽の折り鶴が焼失しました。

    子供達の願いが込められた〝原爆の子の像〟ゆえ、聖地的な考えもあったのかも知れません。しかし〝折り鶴置き場〟の設置ではやはり対策と言える程のものではないように思います。またこの折り鶴は後々どうなるのか…と思っていたところ、平和記念資料館の入場時に〝千羽鶴再生はがき〟として配布されていました。これならば贈った方々も受け取った子供達も満足の行くものだと思います。

    ただ漠然とした〝慰霊碑〟というと、面白半分にいたずらをしたりする輩は残念ながらいるのが現実です。しかしその活動を啓発することで、理解できる者は尚更理解を深めてくれると信じています。犠牲者が安らかに眠る場所で騒動は起こしたくはありません。

    旅行時期
    2017年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和記念資料館からすぐです。
    人混みの少なさ:
    5.0
    陽が暮れていたことも理由です。
    バリアフリー:
    5.0
    塔の付近も舗装されています。
    見ごたえ:
    5.0
    いつ来ても重みを感じます。

  • 値段で利用しましたがなかなかでした♪

    投稿日 2017年09月18日

    フジレンタカー (那覇営業所) 那覇

    総合評価:5.0

    沖縄でのレンタカー手配は大抵値段で選んでいます。条件としては①満タン返し不要、②免責補償+ワイド補償、③できるだけ排気量の小さい車の3つです。手配した際に最も安かったフジレンタカーさんを今回利用しましたが、正解でした。

    まずワイド補償を付けると傷チェックがありません。貸出時の燃料のチェックだけで出発です。他社さんだどワイド補償つけても対象外になるものを説明されますが、ひとこと『それはないので』で終わりました。逆に適用できないものが、レンタル中の給油とキーの紛失だけと言われると本当に安心します。

    そこまでガッツリと補償つけなくても・・・と言われる方には敢えておすすめしませんが、レンタカーによくある『あて逃げ』は被害者であっても気付かずに返車した場合には原則保険適用にはなりません。事故届けを出していないのがその理由であり、大抵はNOCの支払いまで求められます。

    インバウンドを取り扱っているレンタカー会社で返却時に時間が掛かるのはそのような理由がほとんどです。しかしフジレンタカーの場合は那覇空港から到着して10分、営業所に返車して10分で全てが終わります。沖縄に着いて車を借り、目一杯遊んでさっさと帰る。こんな気楽なレンタカー会社は他には見たことがありません。値段次第ではありますが、多分次回も利用するでしょう!

    旅行時期
    2017年06月
    コストパフォーマンス:
    5.0
    ホントのフルサポです!
    人混みの少なさ:
    5.0
    結構多いですが、私はスピーディに出発できました。
    バリアフリー:
    4.0
    バス車内はステップがあります。
    乗り場へのアクセス:
    5.0
    空港まで10分位です。
    車窓:
    5.0
    ハンドルを握らなくて済む至極のひと時です♪

  • なぜ?どうして・・・?。

    投稿日 2017年09月22日

    平和記念公園 広島市

    総合評価:5.0

    第二次世界大戦中に労働力不足を補うために多くの学生が動員されました。全国で三百数十万人とも言われる動員学徒のうち戦禍に斃れた一万余名を御霊を慰めるために昭和42(1967)年に『動員学徒慰霊碑』が建立されました。

    広島で学徒動員され被爆死した学徒数は6,000名を超えているそうです。

    全国の学徒動員による犠牲者を祀るために建立されたものですが、改めて訪れると『おや?』っと感じることがありました。実はこの動員学徒慰霊碑、平和記念公園内にはありません。いわゆる『周辺緑地帯』と呼ばれる場所にあるのですが、なぜ聖地である平和記念公園内にないのかと不思議に思います。学校跡地という広島高女の慰霊碑の建立はともかく、広島二中や広島市商・造船工業学校慰霊碑もやはり周辺緑地帯にあり、勤労奉仕に参加中での被爆犠牲者の扱いにいささか疑問を感じます。

    公園外にあった韓国人原爆犠牲者慰霊碑は明確な建立意図があったにも関わらず、差別だとして平和記念公園内に移設されています。では学徒の慰霊碑はどうなるのでしょうか?まるで建立者からの異議申し立てがなければそのままにされてしまうような判断には憤りを感じずには入られません。今で言うならば小学校高学年から中学生位の子供達がお国のために動員され、まだ見ぬ将来に心を馳せながら志半ばで斃れた史実を『正確』に後世に伝えなければならないのでは・・・、そう私は思います。

    旅行時期
    2017年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    原爆ドームからすぐです。
    人混みの少なさ:
    5.0
    参拝に来ている方はおられませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    塔の周りも舗装されています。
    見ごたえ:
    5.0
    建立意図が凄くよく伝わってきます。

  • 記念と祈念・・・。

    投稿日 2017年09月21日

    平和記念公園 広島市

    総合評価:3.0

    広島平和記念公園の北端で、戦前の中島本町の北慈仙寺鼻に昭和42(1967)年に広島鯉城ライオンズクラブが建立した高さ20mの時計塔です。毎日8時15分に鳴るチャイムは、世界初の核兵器が投下された時刻を風化させないようにしています。

    付近の平和の鐘共々平成8(1996)年に残したい日本の音100選に選ばれていますが、建立時に『平和記念公園という聖地にモニュメントを作ること』が問題視されました。最終的には関係者の説得により認められたとはありますが、社会奉仕団体としてのライオンズクラブの事業としては、少し行き過ぎているところもあるように思います。恒久平和を願う気持ちはあったとしても、やはり一団体として『平和を願う象徴』としては、大げさな建物に見えて仕方がありません。

    被爆の痕跡を残す『被爆した墓石』が人知れずポツンと残る中で、視覚的に平和記念公園北半分の中心となってしまっている事実は残念に思う以外にありません。

    広島平和記念公園を設計した丹下教授の『聖地になんでもかんでも作るものではない』との言葉の重みが2回目の訪問でようやくわかったように思います。

    旅行時期
    2017年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    相生橋からすぐです。
    人混みの少なさ:
    5.0
    夜だったので誰にも会いませんでした。
    バリアフリー:
    3.0
    時計塔近くは舗装されていません。
    見ごたえ:
    5.0
    いい意味でも悪い意味でも目立ちます。

  • 観音像の前には旧西国街道が走っていました。

    投稿日 2017年09月21日

    平和記念公園 広島市

    総合評価:5.0

    元安橋と本川橋を繋ぐ平和記念公園内の道は旧西国街道です。毛利輝元による広島城築城時に現在の平和記念公園北半分の場所である元安川と本川の間のデルタ地帯が『中島』と名付けられたことに端を発した歴史ある街でした。

    広島の市制が敷かれる前から商業や文化の中心地として発展し、西国街道沿いには商店や映画館などが立ち並び、中島本町商店街と呼ばれる程に栄えていました。大正時代には市内電車の開通により本通・紙屋町・八丁堀が歓楽街の中心になるも、依然中島本町は映画や洋食などモダンな文化を発信する街としてはなお健在であり、古い歴史を持つ広島有数の盛り場として栄えていました。加えて戦前期広島の繁華街を象徴する『すずらん灯』は中島本通にも設置され、夜の街並みを彩っていました。

    街の北部の通称『慈仙寺鼻』と呼ばれていた部分には、昭和9(1934)に市内電車併用橋として架け替えられた相生橋が延伸されています。当時から上空からも確認できる『T字型』をした橋として、戦前の絵ハガキなどに描かれていました。しかしその特異的な形状が災いし、昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、米軍爆撃機B-29『エノラ・ゲイ』が『世界最初の核兵器』である『リトル・ボーイ』を目視確認で相生橋を照準点として投下し、現島内科医院上空680mで炸裂しました。

    爆心半径500mの同心円内にほぼ全部の町内が入っていた中島本町は、爆風・熱線により瞬時にして街も住民も消滅しました。加えて建物疎開に動員されていた県立二中・市立高女・市立造船工業学校の学徒、そして近郊地区からの義勇隊員もそのほとんどが全滅しています。

    疎開等でたまたま被爆を免れた町民たちが、消滅した街にバラックを建てて住み始めて戦後が始まりました。そして平和記念公園建設の話が持ち上がった際に、被爆土壌に『盛り土』をすることになり、多くの住人が立ち退きを余儀なくされました。

    平和記念公園の開園後は、往時を知るものとして原爆に耐え焼け残ったレストハウス(旧「大正屋呉服店」)以外には、公園内の街路として残された中島本通や、慈仙寺の跡地に残る『被爆した墓石』位のものだったそうです。そこへ昭和31(1956)年には『平和乃観音像(中島本町町民慰霊碑)』が『中島本町被爆復元地図』とともに建立され、原爆の犠牲となった458名の御霊を慰めつつ現在に至っています。

    平和記念公園の構想に於いて、特定の宗教に纏わる慰霊碑の建立は認められないとされていました。その中でやはり『平和乃観音像』も例には洩れなかったようですが、像を作った彫刻家の荒井秀山氏の『芸術作品』として、建立が認められています。

    平和記念公園には『盛り土』がされていることや、旧街道が未だ『貫いている』ことはあまり知られていないことだと聞きました。確かにそれをすぐに『わからせる表示板』がないこともあるのかも知れません。単純に街の原爆犠牲者の慰霊だけではなく、住んでいた街に対する住人の『想いの深さ』も感じて欲しい…そんな風に思います。

    旅行時期
    2017年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    相生橋からすぐ。
    人混みの少なさ:
    5.0
    陽が暮れていたので訪れている方もおられません。
    バリアフリー:
    4.0
    像の周りは舗装されていません。
    見ごたえ:
    5.0
    建立の意図が伝わってきます。

  • 被爆の生き証人です。

    投稿日 2017年09月23日

    被爆した墓石 (慈仙寺跡の墓石) 広島市

    総合評価:5.0

    平和乃観音像近くに土地が一段下がった場所に置かれている石がありました。『被爆した墓石』と呼ばれているものですが、戦前この場所に『慈仙寺』という浄土宗のお寺がありました。その境内の墓地にあった広島藩浅野家家臣の岡本宮内の墓石なのですが、昭和20(1945)年8月6日に投下された原子爆弾によって惹き起こされた爆風と熱線によって全ての建物が焼失し、住職をはじめとした寺関係者もすべて亡くなられました。そして重量のある墓石も爆風によって飾り部分は崩れ、台座部分も持ち上がりました。

    その墓石が持ち上がった瞬間に爆風によって飛ばされてきた石が、その隙間に入り台座は傾いたまま現在に至っています。原爆による爆風の凄まじさを今に伝える数少ないもののひとつでもあるのですが、なぜこの場所だけ低くなっているかというと、広島平和記念公園を作った際に『盛り土』がされたという事です。被爆土壌に対し盛り土をすることで平らにすることと被爆土壌を覆ったという理由ですが、この高さが盛り土の高さを示していることに他なりません。

    一見すると石が転がっているようにしか見えず、素通りする人も少なくないと聞きました。しかし72年前の惨劇を今に伝える数少ない原爆被害の『生き証人』であることは間違いありません。標識は立っているもののやはり目立たないものなので、貴重なものゆえ誰にでもわかるようにしてもらえないかとふと思いました。

    旅行時期
    2017年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和乃観音像の隣にあります。
    人混みの少なさ:
    5.0
    夜だったので訪れる方もおられませんでした。
    バリアフリー:
    3.5
    墓石まわりは砂地です。
    見ごたえ:
    5.0
    爆風の凄まじさを改めて認識しました。

  • 被爆になんとか耐えました…。

    投稿日 2017年09月23日

    本川橋 広島市

    総合評価:5.0

    平和記念公園の中央西に掛かる本川橋は、元安橋から連なる旧西国街道が渡る交通の要所でした。歴史は古く毛利氏の広島城下町建設の折に作られたことに歴史が始まります。しかし橋の下を流れる本川は、主流の太田川水系に対し何度も治水工事を行っているにも拘らず度々氾濫し幾度か落橋しています。

    明治時代になってトラス橋に架け替えられるも、その後太平洋戦争による金属類回収令に基づいて鋼部材が取り外されています。

    昭和20(1945)年8月6日に被爆し、落橋は免れたものの爆風によって一部の桁が橋台から外れてなんとか片方だけが乗っかっているような状態となり、通行はできなくなります。しかし被爆者救援のために軍などの手によって木を渡して応急修理がなされます。しかしその後広島に上陸した2つの台風によって完全に落橋してしまいました。

    戦後物資の不足により暫くは木を渡しただけの橋になっていましたが、交通の要所という事で優先的に再建されることが決まり、昭和24(1949)年に残った橋脚を利用して新橋が架けられました。その際に空襲で壊滅的被害を受けた光海軍工廠の廃材を使ったそうです。その後幾度かの補修工事を経て現在に至っています。

    現在では国道183号線の相生橋と平和大通りの西平和大橋に挟まれたこじんまりとした端にしか見えません。しかし戦後間もない物資のない時期に、交通の要所として優先的に架け替えられたという『史実』があります。戦前の絵葉書にも書かれた小さな橋を見ていると、古の人通りが目に浮かんでくるように感じました。

    旅行時期
    2017年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和記念公園そばです。
    人混みの少なさ:
    4.0
    人や車はそこそこ通ります。
    バリアフリー:
    5.0
    舗装されています。
    見ごたえ:
    5.0
    前知識があると興味深いところがありました。

  • そごう広島店の三階と地下一階です。

    投稿日 2017年09月24日

    にしき堂 そごう広島店 広島市

    総合評価:5.0

    広島バスセンターが3階あるそごう広島店の地下一階にあります。夜行バスで帰る場合、バス停に行く時間では開いているお店がなく、2回続けて『土産なし』となってしまいました。日が暮れてからも平和記念公園にいましたがその時ふと思い出した『土産』のこと。慌ててスマホで検索し、そこでそごう広島店が近いことを知りました。徒歩で約5分位の距離にあり、20:00閉店の4分前の入店でしたが無事『もみじ饅頭』を購入することができました。

    数が多くクレジット支払いをするならば地下一階に20:00迄に行かなければいけませんが、単品で『自分用』の場合、現金購入のみとなりますが3階広島バスセンターのチケットブース隣にも『にしき堂』があり、こちらでは20:30迄購入することができます。

    場所的にもなかなか使い勝手の良いお店です。

    旅行時期
    2017年08月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    広島バスセンターからすぐです。
    コストパフォーマンス:
    3.5
    それなりの値段はします。
    サービス:
    5.0
    良い感じでした。
    雰囲気:
    5.0
    デパートなので感じは良いです。
    料理・味:
    5.0
    癖になります。
    バリアフリー:
    5.0
    対応済です。
    観光客向け度:
    5.0
    言うまでもありません。

  • ぼったくり・・・。

    投稿日 2017年09月29日

    軍艦島ツアー 長崎市

    総合評価:1.0

    勘違いをされている方が多いようなので訂正すると、『軍艦島ツアー』というのは株式会社シーマン商会が催行している『軍艦島上陸ツアー』のことであり、他社にはそれぞれの名称があります。

    今回は値段とガイド、そして『石炭』のプレゼントで選びましたが大はずれでした。

    まず大雨洪水警報が出ている中でのツアー催行。おまけにガイドは島在住経験のある『軍艦島を世界遺産に登録する会』の理事長ではなく『会員』でした。HPにはいかにも理事長のガイドのようになっていますが、実はそうではありません。

    軍艦島上陸は年間1/3程度と言われています。にも関わらずツアーの催行率ははるかに高いことからも、上陸できないことを承知で出航していることがわかります。案の定当日もそうで、外洋にある『端島(軍艦島)』に向かう航路は揺れに見舞われて、かなりの人数がエチケット袋を片手に・・・。

    私は○○と煙なので良いのですが、免疫のない方にはさぞかし辛かっただろうと思います。結局は固定桟橋である『ドルフィン桟橋』に近付くこともできず、一部の希望者だけ船上のデッキから撮影が認められるだけの始末。

    私のように波照間や鳩間航路という八重山の外洋航路が大丈夫であればともかく、免疫がなければ苦痛でしかありません。乗客の中からも不安視する声もあり、ツアー催行の判断基準も如何なものかと思います。

    海を知る船長が命の危険がある海に好んで出航するとは思えませんが、上陸できなくても3,900円(300円の割引クーポン適用前)は徴収されることを踏まえれば『儲けに走っている』と取るのが普通でしょう。

    世界遺産に登録され『超人気』の軍艦島上陸ツアー。予約が取れないと言われるバックグラウンドもあれど、いきなり日が近くなると『空き』が出ることもあります。

    弾丸ツアーでの組み込みには無理があるかも知れませんが、長崎での滞在日に余裕があれば、天気予報とにらめっこして決められた方が確かです。また安いツアーも良いですが、大きな船舶を利用した方が揺れません。軍艦島に上陸できなかった際は高島に立ち寄りますが、滞在時間も僅かでただ『石炭資料館』の立ち寄りだけです。高島にも炭鉱はあったので、それを見学したければツアー船舶ではなく長崎汽船の高速艇ならば2,040円で往復でき、鷹巣という双胴船も運航されています。

    なにより場当たり的に行くことが不経済であり、後悔する結果を生むことに間違いはありません。

    旅行時期
    2017年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    雨の日に常盤2号桟橋まで行くのは結構大変です。
    人混みの少なさ:
    1.0
    団体込みで満員でした。
    バリアフリー:
    1.0
    対応していないと書いてあります。
    見ごたえ:
    5.0
    軍艦島に上陸できたとして。

  • まさかの閉店時間繰り上げ。

    投稿日 2017年09月17日

    平和堂石山 石山寺周辺

    総合評価:5.0

    iPhone8の予約に来ました。台風接近でお客さんは勿論少ないのでそれを期待して来ましたが、昼過ぎで既に18:30閉店が告知されていました。店員さんにも早く帰れと言われたのでおとなしく帰ります(笑)。

    旅行時期
    2017年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    JR石山駅徒歩5分。
    お買い得度:
    5.0
    今日は見切りが早かったです。
    サービス:
    5.0
    いつもながらです。
    品揃え:
    5.0
    石山では一番でしょう。
    バリアフリー:
    5.0
    一階に多目的トイレ、その他スロープ・エレベーター完備です。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん 写真

5国・地域渡航

41都道府県訪問

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんにとって旅行とは

非日常生活の出来事を体験できて、日頃の鬱憤を晴らせる場。

自分を客観的にみた第一印象

能ある鷹は爪を隠す♪

大好きな場所

夏は風鈴、冬はイルミネーション。そして6月は沖縄。

大好きな理由

触れ合う人々がすべて暖かく接してくれ、大自然を満喫できる場所に思えるので。

行ってみたい場所

波照間島・与那国島・竹富島・石垣島・宮古島・多良間島・大神島・池間島・来間島・伊江島・奄美大島・喜界島・冬の北海道

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