観音像の前には旧西国街道が走っていました。
- 5.0
- 旅行時期:2017/08(約9年前)
-
-
by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
広島市 クチコミ:49件
元安橋と本川橋を繋ぐ平和記念公園内の道は旧西国街道です。毛利輝元による広島城築城時に現在の平和記念公園北半分の場所である元安川と本川の間のデルタ地帯が『中島』と名付けられたことに端を発した歴史ある街でした。
広島の市制が敷かれる前から商業や文化の中心地として発展し、西国街道沿いには商店や映画館などが立ち並び、中島本町商店街と呼ばれる程に栄えていました。大正時代には市内電車の開通により本通・紙屋町・八丁堀が歓楽街の中心になるも、依然中島本町は映画や洋食などモダンな文化を発信する街としてはなお健在であり、古い歴史を持つ広島有数の盛り場として栄えていました。加えて戦前期広島の繁華街を象徴する『すずらん灯』は中島本通にも設置され、夜の街並みを彩っていました。
街の北部の通称『慈仙寺鼻』と呼ばれていた部分には、昭和9(1934)に市内電車併用橋として架け替えられた相生橋が延伸されています。当時から上空からも確認できる『T字型』をした橋として、戦前の絵ハガキなどに描かれていました。しかしその特異的な形状が災いし、昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、米軍爆撃機B-29『エノラ・ゲイ』が『世界最初の核兵器』である『リトル・ボーイ』を目視確認で相生橋を照準点として投下し、現島内科医院上空680mで炸裂しました。
爆心半径500mの同心円内にほぼ全部の町内が入っていた中島本町は、爆風・熱線により瞬時にして街も住民も消滅しました。加えて建物疎開に動員されていた県立二中・市立高女・市立造船工業学校の学徒、そして近郊地区からの義勇隊員もそのほとんどが全滅しています。
疎開等でたまたま被爆を免れた町民たちが、消滅した街にバラックを建てて住み始めて戦後が始まりました。そして平和記念公園建設の話が持ち上がった際に、被爆土壌に『盛り土』をすることになり、多くの住人が立ち退きを余儀なくされました。
平和記念公園の開園後は、往時を知るものとして原爆に耐え焼け残ったレストハウス(旧「大正屋呉服店」)以外には、公園内の街路として残された中島本通や、慈仙寺の跡地に残る『被爆した墓石』位のものだったそうです。そこへ昭和31(1956)年には『平和乃観音像(中島本町町民慰霊碑)』が『中島本町被爆復元地図』とともに建立され、原爆の犠牲となった458名の御霊を慰めつつ現在に至っています。
平和記念公園の構想に於いて、特定の宗教に纏わる慰霊碑の建立は認められないとされていました。その中でやはり『平和乃観音像』も例には洩れなかったようですが、像を作った彫刻家の荒井秀山氏の『芸術作品』として、建立が認められています。
平和記念公園には『盛り土』がされていることや、旧街道が未だ『貫いている』ことはあまり知られていないことだと聞きました。確かにそれをすぐに『わからせる表示板』がないこともあるのかも知れません。単純に街の原爆犠牲者の慰霊だけではなく、住んでいた街に対する住人の『想いの深さ』も感じて欲しい…そんな風に思います。
- 施設の満足度
-
5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 相生橋からすぐ。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 陽が暮れていたので訪れている方もおられません。
- バリアフリー:
- 4.0
- 像の周りは舗装されていません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 建立の意図が伝わってきます。
クチコミ投稿日:2017/09/21
いいね!:9票
利用規約に違反している投稿は、報告することができます。 問題のある投稿を連絡する