たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(43ページ)全1,843件
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投稿日 2017年10月03日
総合評価:5.0
浦上天主堂近くにある『浦上天主堂旧鐘楼』との出会いは、高校の修学旅行の時にバスの車窓からチラリと見たことに始まります。その後訪れることもないまま月日が経ち、やっと今回訪れることができました。
長崎平和公園から浦上天主堂方面へと進み、公園前にその瓦礫化せず形が残った旧鐘楼がありました。浦上天主堂は爆心地から500mという至近距離で爆風と熱線を受け、建物の多くは倒壊し瓦礫と化しました、その中で鐘楼は奇跡的に『形』を残したまま爆風によって飛ばされ、天主堂脇に流れる川に横たわります。
戦後復興の過程に於いて、川を堰き止めていた旧鐘楼を爆破するはずでしたが、GHQから火薬使用の許可が出ず、結果『川の流れを変える』ことによって、旧鐘楼はそのままの姿で残ることとなりました。
平成28(2016)年10月3日、この浦上天主堂旧鐘楼を含む『長崎原爆遺構』が国の史跡に登録されました。
うら若き高校時代(?)には残念ながら近代・現代史に興味はなく、九州一周の旅路の立ち寄り地点として長崎を訪れたに過ぎません。しかしこの旧鐘楼だけはなぜか心に残っており、その気持ちから今回長崎を訪れることになりました。バスでは『大通り』に面していた記憶があったのですが、実際には一本奥の通りにありました。ただちょうど旧鐘楼がある付近は大きな交差点となっており、平和公園駐車場に入るバスが通るときに『必ず』見える場所でもあるようです。
前回は車窓からでしたが今回は自分の目で確認しました。原爆の発する威力を今から語る必要もありませんが、目の前に横たわる旧鐘楼が『宙を舞った』ことはやはり想像を絶するものであったに違いありません。再建された浦上天主堂の敷地内には、旧鐘楼をはじめとした被爆遺構が多々残っています。
それらを見て何か思うことがあれば、天主堂に入って祈りを捧げるとなんとなく気持ちが楽になれるところもありました。天主堂からだと上から、川沿いからだと下から旧鐘楼を見る形になるので、時間に捉われず訪れることができる場所のひとつです。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和公園から徒歩7分位です。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 一組訪れておられる方がいらっしゃいました。
- バリアフリー:
- 4.0
- 天主堂の坂を上るのは結構大変です。川沿いなら車椅子でも大丈夫です。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 高校時代の思い出がフラッシュバックしました。
-
投稿日 2017年10月03日
総合評価:5.0
間際に決めた長崎への旅。そのアプローチを検索した際にスカイマークの『いま得』を見つけて手配しました。
BC148 NGS-UKBは17:25発と決して遅くはありませんが、機内預けの荷物も20kgまで無料となっており、バスより安い5,900円はかなりリーズナブルだと思います。
経営破綻した際の路線縮小によって、OKA-ISG線が廃止されたため、それ以来乗ることがなかったスカイマーク。実に3年ぶりの搭乗となりました。確かに以前のような路線数はなく、搭乗したBC148便はBC448便とのダブルコード便としてNGS-UKB-HNDのフライトを兼ねており、その分時間もかかります。
スカイマークはLCCとよく間違われるようですが、カテゴリーで言えばレギュラーキャリアとLCCの中間の位置づけです。そんな位置づけであるがために大手キャリアのように〝安定した基盤〟もなく、かといってLCCのように〝価格競争〟に専念することもできなかったことにより取り続けざるを得なかった〝中途半端な立場〟が最終的には経営悪化に陥った理由のひとつでもあります。
ただ悪く評価されていることは私自身感じませんでした。長崎空港という小さなターミナルの出発だったこともあるのかdelay情報があったにも関わらず定刻前出発しています。揺れるというアナウスはありながらもそれもなく、神戸には定刻前到着しています。
〝安かろう悪かろう〟というのはレギュラーキャリアと比較しているだけのことであり、削ることができるものは削っているから料金が安くなるだけの話です。それをあまりにも多くの人々が理解できていないのが今の現実です。
サービスに文句があるならレギュラーキャリアを利用すれば良いと思います。私は交通費を極力安くして〝回数の旅〟をしたい派です。少なくとも明らかに〝安全〟に問題があればともかく、無事目的地に着いてくれるなら、荷物の機内預けサービスがあるスカイマークはコスパの高いものだと思います。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 搭乗クラス
- エコノミー
- 航空券の価格
- 20,000円未満
- 直行便
- 直行便
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- バスより安い5,900円♪
- 接客対応:
- 5.0
- フレンドリーで良いですね♪
- 機内食・ドリンク:
- 5.0
- 期間限定キットカットのサービスあり。
- 座席・機内設備:
- 5.0
- レカロシートのホールド感はたまらない♪
- 日本語対応:
- 5.0
- 日・英語のアナウンスがあります。
-
投稿日 2017年10月03日
総合評価:5.0
長崎の空の拠点である長崎空港は、旧海軍大村飛行場に端を発し、長らく海上自衛隊と民間の共用だったものが、昭和50(1975)年5月1日に世界初の海上空港としてオープンしました。
一地方空港である長崎空港は意外にも観光・ビジネスでの需要が高いことで知られており、特に羽田線は利用客が多く、国内線でも上位10位に入っています。滑走路も3,000mあり、以前はB747やDC-10等が、現在ではLCCの就航により小型機運航が主となる中で今なおB777等のワイドボディ機材も導入されています。またコンコルドが飛来した日本国内三空港のうちのひとつでもあります。
大村湾に面した空港は長崎市内から約40km離れており、市内中心部からリムジンバスで小一時間程かかります。
バス便は長崎出島道路を通りノンストップで走るものと、長崎バイパスを経由するものがあり、後者はシーズンになると平和公園付近の混雑により遅れることもしばしばあります。
際立って時間がかかる訳でもなく、またリムジンバスの本数も多いためさほど不便ではないとは思うのですが、都市型空港ではないため、なんとなく『遠い』というイメージを持たれやすいのかも知れません。
プロペラ機で運航されている離島線を除くとボーディングブリッジを利用しての搭乗になるため快適です。またお土産も種類・量とも豊富に売られておりお土産購入には困りませんでした。
とはいえやはり地方空港なのでだだっ広いターミナルではないので迷うこともありません。カードラウンジと展望台も完備しているので、早めに到着しても快適な待ち時間が過ごせます。
バス移動にかかる時間を除けば飛行機に乗るにも遊ぶにも事欠かない施設であることには違いありません。- 旅行時期
- 2017年09月
- アクセス:
- 3.5
- 長崎市内から小一時間かかります。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 時間や時期に左右されます。
- 施設の充実度:
- 5.0
- 時間潰しには困りませんでした。
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投稿日 2017年10月06日
総合評価:5.0
長崎に於ける被爆50周年記念事業の碑という位置付けで平成9(1997)年に建立されました。子を胸に抱く母の像は、解説を入れなくてもその意味がわかるものでしょう。その意図は十分理解できるものの、やはり『被爆50周年記念事業碑』と呼ばれるからには、やはりモニュメントとして捉えることに間違いはありません。
広島とは違い長崎では平和公園敷地内にも多くのモニュメントが建立されており、あまりにも異なるその背景の違いに戸惑いすら覚えます。ただこの母子像は計画の段階では別の場所に建立されるはずでした。黒御影石が張られている『原爆落下中心地』。ここは紛れもない原爆が投下され炸裂した場所になりますが、現在の碑を撤去して、この像を像を建立する予定だったそうです。しかしこれには市民団体をはじめとした反対運動が起こることとなり、結局それによって計画は頓挫し、現在の場所に『被爆50周年記念事業碑』として建立されました。
勿論モニュメントであろうが石票であろうが、場所を知らせることができれば目的は達成するのかも知れません。しかし記念するのと祈念するのとでは意味が全く異なるのではないでしょうか?
原爆投下という史実。それを後世に伝えることにデザインは全く関係がないと思います。粗末な木札一枚に『原爆投下地点』と書かれていれば、それで想いは伝えられるはずだと思えてなりません。立派なものがいつ何時でも必要だというのは明らかに間違っています。モニュメントはあくまで記念碑であり、慰霊碑にとって代わることなど出来る訳ありませんから…。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 夏山町電停から徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 散歩されている方はちょくちょくおられました。
- バリアフリー:
- 5.0
- 舗装はされています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 像の持つ『建立意図』は理解できます。
-
投稿日 2017年10月06日
総合評価:5.0
浦上天主堂遺壁から階段を降りた右手にあります。爆心地公園が整備される折、広島の平和記念公園同様約2mの『盛り土』がなされ、その下部にある被爆当時の地層には100余りの人骨や石に付着した溶けたガラスの破片や気泡だらけの瓦の他炭化した木片が出土し、今なおその当時の遺物が多く残っているそうです。
ガラス張りになった『被爆当時の地層』からは、被爆当時の品々である熱によって熔けたガラスや瓦やレンガなどの瓦礫の姿を見ることができます。
長崎原爆資料館にもその類のものは展示されてはいるものの、やはり集めておかれたものではなく、被爆当時のままを見られる『被爆当時の地層』はリアルさが全く違うように思います。
原爆投下時に水を求めて多くの被爆者が向かったとされる『下の川』。そして当時はその川面の高さが地面とそう変わらなかった事実。その証拠に同じ高さの『被爆当時の地層』はなにの説明がなくても訪れた者に70余年前にこの地であった凄惨な出来事を伝えてくれていることに疑う余地はありません。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 松山町電停から徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 夕暮れには誰にも会いませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 降りるのに階段があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 当たり前のように目の前にある『当時の地層』に言葉を失いました。
-
投稿日 2017年10月26日
総合評価:3.5
長崎平和公園の象徴である平和祈念像。彫刻家の北村西望が五年の月日を費やして作成し、昭和30(1955)年に長崎市に納められました。
垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威、水平に伸ばした左手は平和、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを立てた足は救った命を表しており、軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っているものとされています。10m近い高さがあるため、上に挙げた右手には避雷針が取り付けられています。
この平和祈念像のモデルには当時人気のあった力道山の他格闘技の指導者等の諸説はあるもの都市伝説の域を超えはおらず、作者の北村西望も特定の人物には似ることのないように作ったと表現しています。
今となっては顔という表現が相応しいのかも知れませんが、建立当時は被爆者に対する法律による救済措置は取られておらず、像そのものの建立費用は募金によって賄われているものの、台座建立に必要とした2,000万円は長崎市が負担しており、その建立費用の使い方に疑問を抱く被爆者も少なからずいたという記録も残っています。
建立時のことはともかく、この平和祈念像の建立が現在の平和公園に対する少なくない批判の原因になっているように思えてなりません。平和を祈念するモニュメントが乱立している長崎の平和公園。広島の平和記念公園が聖地とされ、特定の宗教やモニュメントを締め出していることと比較すると、その被爆に対する捉え方の違いに戸惑いすら覚えます。爆心地の表示こそ広島はないものの、長崎の立派に見える原爆投下中心碑も、実は取り壊して現在の被爆50周年記念事業碑である『母子像』を建立しようとしていたことには、被爆した事実をどう捉えているのか疑問に思わざるを得ません。
長崎市民からも被爆からの復興が長崎の『被爆に対する態度』といった意見も出ているのが現実です。被爆遺構を残そうとする広島に対し、それをなくそうとする長崎の両極端の立ち位置に、被爆の事実の伝え方の難しさを改めて感じました。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 松山町電停から徒歩5分位です。
- 人混みの少なさ:
- 1.0
- 昼間はすごい人でした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 舗装はされています。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 一度見れば良いかと思います。
-
投稿日 2017年10月25日
総合評価:5.0
グラバー住宅から出口へと進む順路の途中にある長崎伝統芸能館は、長崎のお祭りである『長崎くんち』に奉納される龍踊りの白龍・青龍・各町の奉納踊りを先導する『傘鉾』と呼ばれる豪華な飾りなどが展示されています。370余年の歴史を持つ長崎くんちは、旧暦の9月9日に行われていたことから9日→くにち→くんちと呼ばれるようになったそうです。
10月7・8・9日の3日間に行われ、県内外からの多くの観光客が訪れる『長崎くんち』は長崎の街を祭り一色に染める長崎の秋の大祭でもあります。諏訪神社から諏訪神社で終わる長崎くんち、その奉納される舞踊は、昭和54(1979)年に国の重要無形民俗文化財に指定されています。
この長崎伝統芸能館はグラバー園内の施設となっており、入場料が別途徴収されることはありません。また長崎市民のくんちにかける意気込みというものが、展示を見ていても伝わってきます。訪れたのは9月27日なのでまだ10日程祭りまで日にちはありますが、既に祭り準備として、展示のひとつから出張している傘鉾もあり、時期的にも予想していなかった『長崎くんち』に触れることができました。
建物は二階部分から入場し一階部分から出場するようになっており、その間にくんちの資料を見学できるようになっています。洋館博物館のグラバー園とは結構趣が異なるものではありますが、それはそれで楽しめる場所でした。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 旧グラバー住宅からすぐです。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- グラバー園入場料に含まれています。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- グラバー園の入園客はすべてここを通るため少なくはありませんでした。
- 展示内容:
- 5.0
- くんちに掛ける長崎市民の意気込みを感じることができます。
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープは切ってあります。
-
投稿日 2017年10月25日
総合評価:3.0
旧長崎地方裁判所長官舎、明治16(1883)年3月に長崎控訴裁判所(現在の高等裁判所)の官舎として市内八百屋町1番地(現上町4番21号)に建てられました。木造2階建の寄棟で玄関は破風造りとなっており、原爆で数多くの建物が失われたにもかかわらず、外国人居留地の外側の市街地に建てられた洋風の官庁建築として唯一残る貴重な建物です。
長崎控訴裁判所は明治19(1886)年に長崎控訴院に改称し、その後控訴院は昭和20(1945)年に福岡に移転しています。それに伴いこの建物も控訴院の官舎から長崎地方裁判所長官舎となりました。明治時代の建築物の西欧化を反映した貴重な官庁建築のひとつとして、昭和54(1979)年に現在地のグラバー園敷地内に移築し復元されました。
現在ではレトロ写真館として往時の衣装を着けて園内を散策する『貸衣装屋』として利用されています。グラバー園のひとつの『楽しみ』にも挙げられているその『衣装』ですが、雨の日は園内散策はできません。衣装が汚れることを考えてのようですが、入口部にその衣装の『棄損』に対する注意事項が大々的に書かれています。汚すとクリーニング代金〇〇千円とか…。わからなくもないのですが、それは衣装を『借りる』方に説明すれば良い話であって、すべての観光客に知らせることではないようにも思います。それでなくても何をするにもお金がかかると思われる長崎のアクティビティーゆえ『金儲け主義』の賜物だと思ってしまいます。ここまで現実論に引き戻される出来事にかなり興ざめしました。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- グラバー園入口からそう遠くはありません。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 雨の日だったので外観を楽しむ方のみのようでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- スロープは切ってありましたが、車椅子の方でも楽しめるのでしょうか?
- 見ごたえ:
- 4.0
- 建物は素晴らしいですが、中まで見ようとはおもいませんでした。
-
投稿日 2017年10月25日
総合評価:3.0
旧自由亭横にある西洋料理発祥の碑は、仏教の教えの下で殺生が禁じられていた日本に於いて、穀物中心の食生活を送っていた日本人には肉食の習慣はありませんでした。一時戦国時代末期から江戸時代初期にかけて交易のあったオランダやポルトガルの料理をほんの一部が口にすることはあっても一般には皆無でした。そんな中で長崎出島のオランダ人の屋敷でボーイをしていた草野丈吉が、後にオランダの軍艦で料理修行を積んだ後に1863年に市内伊良林(いらばやし)にオープンした『良林亭』が民間の西洋料理店のはじまりとされています。
碑文には西洋料理の歴史として『16世紀中頃ポルトガル船の来航に始まり、西洋料理の味と技 ( わざ ) は鎖国時代、唯一の開港地長崎のオランダ屋敷からもたらされた。1800年代に至り横浜・函館などが開港され、次第に普及し更に東京を中心に国内に大きく輪を広げ、日本人の食生活に融和され現代の隆盛となった。』と書かれていました。検証するまでもなく長崎が西洋料理発祥の地であることは史実を見ても明らかですが、そうあっさりと言ってしまうのではなく、はじめてお店を始めるときの『大変だった』ことを味わうこともまたおかしという風に取るための『記念碑』である、そう捉えました。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- グラバー園入口から近いです。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- ここを訪れる人も少ないでしょう。
- バリアフリー:
- 5.0
- 舗装はしてあります。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 碑と碑文だけです。
-
投稿日 2017年10月25日
総合評価:5.0
東山手9番地にあった旧英国領事館跡地に明治20(1887)年に建立された旧スチイル記念学校は、アメリカ人牧師であるスチイル博士が18歳で亡くなった息子のウィリアム・ヘンリーを記念するために寄贈した資金により開設された学校です。来日したばかりのアメリカ・オランダ改革派教会の来日宣教師であるアルバート・オルトマンスが校長を務めて男子校である『スチイル・アカデミー』神学部を設立し、その後明治24(1891)年に大儀見元一郎が最初で最後日本人院長となりました。それから間もない明治25(1892)年に東山(とうざん)学院となり、神学部と普通部の2部で構成された学院では神学部に進むために普通部で一般教養を学ぶ必要があったそうです。
しかし数年後神学部の生徒が激減したことにより、明治30(1897)年には神学教育が廃止されます。建学以来私立東山学院、私立中学東山学院、明治学院第二中学部東山学院と校名は改称されましたが、一貫して英語教育と特色ある学風で財政難から昭和8(1933)年に閉校するまでの46年もの間長崎の教育史にその名を刻みました。建物自体はスチイル・アカデミー、私立東山学院、私立中学東山学院、明治学院第二中学部東山学院の校舎として利用され、閉校後学生達は諫早の鎮西学院に移っています。
現在の建物は昭和47(1972)年に所有していた海星学園より長崎市が寄付を受けて現在地に移築したものになります。学校という名が残る建物そのものが博物館となっており、明治時代には800棟もの洋館が市内と近郊にあった史実を今に伝えています。昭和の初期に於いても多数の洋館が永らえ旧居留地の町並みを形成して、日本の異国長崎の面影を色濃く留めてはいたものの、明治32(1899)年に長崎は『要塞化』されており、戸外の写真撮影だけでなく風景を描くことさえ制約がありました。そして昭和に入ってその制約は一層厳しくなり、昭和初期以降の洋館の写真は少なくなりわずかに残っていた『絵はがき』等に残ったものから複製されたものが多数展示されています。
現在長崎に残る洋館が70棟余りとされている中では大変貴重な歴史資料がたくさん置かれています。グラバー園のいちばん奥という場所的なものもあり、時間都合などで訪れないまま帰られることも少なくないと聞きました。しかしある意味何をするにもお金がかかる『長崎の街』のアクティビティーの中でこちら程の資料を備えているところも決して多くはありません。特に今回のように天気が悪く、歩きたくない気持ちがあるときには特に訪れて損はない場所だと思いました。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- グラバー園のいちばん奥です。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 雨が降っているにも関わらず多くの観光客が訪れていました。
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープが切られています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 建物は移築ですが、中の展示物は一級です。
-
投稿日 2017年10月18日
総合評価:5.0
江戸時代末期の元治元(1865)年頃にこの地に建立されたイギリス人貿易商ウィリアム・オルトの旧宅になります。後にフレデリック・リンガーの長男であるフレデリック・エラスマス・エドワード・リンがガーが住んだこともあるためにリンガー(兄)住宅とも呼ばれていました。
設計者は不明であるものの英国風の建物から英国人の設計であるとされており、施工は大浦天主堂を施工した天草出身の棟梁小山英之進が請け負ったとされており、小屋組等が話組とされているなど和風の要素が多く取り入れられているといった日本の初期洋風建築の特徴が随所に見られるものとなっています。リンガー住宅同様長崎港を眼下に見下ろす位置に建てられているために、造船の秘密保持の観点から川南造船所が昭和18(1943)年に買収し、戦後になって長崎市の所有となりました。そして昭和47(1972)年5月15日に国の重要文化財に主屋・付属屋・倉庫が指定され現在に至っています。
グラバー園内にある洋館のうち、数少ない従来から建立されていた3つの建物のうちのひとつであり、特に景色に溶け込んでいる建物のように感じながら見ていました。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- グラバー園内にあります。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 雨が降っていましたが、観光客は多いです。
- バリアフリー:
- 3.0
- 考えられてはいないようです。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 違和感がありません。
-
投稿日 2017年10月01日
総合評価:5.0
長崎駅前にある『中華菜館かたおか』。名前からすると高そうな感じを受けますが、大衆食堂的なお店でリーズナブルです。
夕食は地の物を食べたいが予算が・・・と思っていた時に見つけたお店だったので、メニューと相談しようと考えていたところ『皿うどんセット』670円が目に入り迷わず注文しました。量はさほど多い訳ではなく、男子には少しもの足りないかも知れませんが、少食の私にはどストライクでした♪
味は・・・と尋ねられるとグルメでない私には上手く答えられませんが、悪くはないのは確かです(笑)。ただ喫煙可のお店なので混雑している時だとタバコを吸われない方にはキツイかも知れません。ただサイドメニューとして頼んだコーラ250円は少し高め。かといって下戸の私はアルコールは頼めません。
手軽に地の物を頂くには良いお店だと思います♪- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 利用形態
- ディナー
- アクセス:
- 5.0
- 長崎駅前です。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 670円の夕食ならば歓迎です♪
- サービス:
- 4.0
- 愛想はないかも知れません。
- 雰囲気:
- 4.0
- 高級店って感じでもありません。
- 料理・味:
- 5.0
- 私はハマりました♪
- バリアフリー:
- 4.5
- 入口に少し段差はあれど自動ドアは完備です。
- 観光客向け度:
- 5.0
- 手軽に地の物を味わえます。
-
投稿日 2017年10月22日
総合評価:5.0
路面電車の大浦天主堂下電停より歩いて8分位の場所にあります。元治2(1865)年に建立された現存する日本最古のキリスト教の建築物でもあります。
正式名称は日本二十六聖殉教者堂と言い、慶長元年に豊臣秀吉の命により京都奉行石田三成が京都・大阪のフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス関係者3名の計24名を捕縛し、長崎で処刑することが決められます。約700kmにも渡る道中に於いて世話役として加わったイエズス会員1名とフランシスコ会員1名の計2名も捕縛され、26名が長崎へと到着しました。
この一件の責任者は一行の中に12歳の少年がいることを知り、棄教を条件にするも拒まれます。26人は通常の刑場ではなく、長崎の西坂の丘の上で処刑されることを望み、1597年2月5日に磔に処されました。一説にはキリストが処刑されたゴルゴタの丘に西坂の丘が似ていたこと、そして丘に立つ磔台が十字架に見えることなどから、この場所での処刑を望んだとされています。
江戸時代末期の1862年6月8日にローマ教皇ピウス9世によって列聖され、聖人の列に加えられます。そして刑場となった西坂の方向を向いて1865年2月19日に天主堂が建立されました。同年3月17日には浦上の潜伏信者が当時のプテジャン神父に信者であることを伝えた『信徒発見』と呼ばれる出来事が起こり、そのことが後に教皇ピオ9世に『東洋の奇蹟』と言わせるまでになりました。明治8(1875)年からの4年間で大規模な増改築が行われ、明治24(1891)年にはカトリック長崎司教区(現在のカトリック長崎大司教区)の司教座聖堂となりました。昭和8(1933)年には当時の国宝(現在の重要文化財)に指定されますが、昭和20(1945)年8月9日の原爆投下により破損します。ただ爆心地からの距離が離れていたことが幸いし焼失だけは免れました。
昭和27(1952)年に修理が完了し、翌年昭和28(1953)年には文化財保護法に基づき国宝に指定されます。昭和37(1962)年1月1日にはカトリック長崎大司教区の司教座聖堂が浦上天主堂に変更されるも6月8日には日本二十六聖人列聖記念100年祭のミサが執り行われるなど、二十六聖殉教者に纏わるミサは継続して行われていました。そして昭和40(1965)年3月には信徒発見100周年記念祭が開催され、記念日である『聖母像』の除幕式が挙行されると同時にローマ教皇特使マレラ枢機卿が長崎を訪れ、大浦天主堂で荘厳ミサが執り行われました。
今となっては長崎の観光名所として外せない場所となった大浦天主堂ですが、訪れる観光客の増加によってミサが執り行われている最中に見学に入るなど支障をきたすようになり、信者と観光客双方を配慮すべく隣接地に大浦カトリック教会が建立されて現在に至っています。
普段の祈りの場を分けることにより行事の妨げになることはなくなりましたが、今なお特別なものは大浦天主堂で行われており、全く見学のみになった訳ではありません。しかし運営としては来年平成30(2018)年4月1日に旧羅典神学校を改築したキリシタン博物館が完成し、現在600円の拝観料が1,000円に値上げされます。勿論それだけの価値があれば運営や維持費の観点から見ても致し方ないようには思うものの、そこまでなればひとつの『観光地化』と化してしまうようにも思います。観光客が椅子に座って荘厳さを味わえる大浦天主堂では、信教問わずして心洗われる気持ちになることができます。他の教会ではなかなかそのような体験ができるところはないため、素晴らしいことだとは思うものの、逆にお金を払えば・・・という考えの持ち主が増えてしまうことは本来の教会の持つ目的とはズレてしまうようにも思えてなりません。
浦上天主堂は志で拝観することができます。現在の大浦天主堂に同じことができるのか?とふと思ってしまいました。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 大浦天主堂下電停から徒歩7分位です。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 雨が降っていても観光客は多いです。
- バリアフリー:
- 3.0
- 対応していないと思います。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 国宝だけあり立派です。
-
投稿日 2017年10月17日
総合評価:5.0
大浦天主堂下電停は長崎電気軌道5号系統が走る区間にある駅で、長崎を代表する観光地である『大浦天主堂』と『グラバー園』の最寄り駅でもあります。大浦支線の石橋~大浦海岸通電停の間は単線区間となっており、大浦天主堂下電停もその類になります。しかし乗降客が時期と時間によってはかなり多くなることもあってかホームは2面設けてあり、石橋方面と築町方面とでホームは異なります。
最寄り駅とは言えど坂の多い長崎の街ゆえ、ゆっくり歩くとそれなりの時間はかかります。加えて訪れた時は雨が降っており、正直大した距離ではないもののえらい遠いような気持になりました。
単線区間ということもあり、他の長崎電気軌道の駅とはまた違った雰囲気を醸し出していますが、それがまた長崎の『違う顔』みたいな感じを受け目新しく思えました。- 旅行時期
- 2017年09月
- 施設の快適度:
- 5.0
- ホームとしての機能は確かです。
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープが切ってあります。
-
投稿日 2017年10月19日
総合評価:5.0
昭和20(1945)8月9日午前11時2分、現在の原子爆弾落下中心地上空でプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下され、14万人もの人命が失われました。そして昭和24(1949)年8月9日に長崎国際文化都市建設法が交付・施行され、被爆犠牲者の追悼と恒久平和を祈念して、昭和25(1950)年8月1日に長崎市立公園として松山町に国際平和公園が開設されました。
昭和30(1955)年4月1日には現在の長崎原爆資料館の元となる長崎国際文化会館が完成し、同年8月8日には平和祈念像の除幕式が行われました。
その後幾多の変遷の後に、昭和58(1983)年に長崎市に『平和公園聖域化検討委員会』が設立され、昭和60(1985)年に平和公園内での花見や飲酒が禁止されます。平成5(1993)年には平和公園再整備計画が出され、原爆資料館として手狭になっていた国際文化会館の建て直し工事も始まります。翌平成6(1994)年から平成9(1997)年にかけて平和公園の再整備工事がなされ、その過程の中で原爆殉難者名奉安所を原爆落下中心碑前に移設し名簿のマイクロフィルム化を実施し、名簿原本は国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館内の追悼空間(原爆死没者名簿棚)に設置することになります。また平成8(1996)年4月には現在の長崎原爆資料館が完成し、現在の平和公園のアウトラインが完成しました。
平成20(2008)年には平和公園が文化財保護法の規定により登録記念物として登録され、平成23(2011)年~平成25(2013)年には平和公園階段横に『平和の歩道』と呼ばれるエスカレーターが開設され、朝7:00~夜22:00迄利用できるようになり、平和公園参拝者の足となって現在に至っています。
総面積18.6haの平和公園は3つのゾーンに分けられており、平和祈念像付近の願いのゾーン、原爆落下中心碑付近の祈りのゾーン、そして長崎原爆資料館付近の学びのゾーンから構成されています。
同じ被爆地として広島と比較すると諸施設の建立の新しさに気づきます。平和公園を構成する3つのゾーンが定められたのは平成になってからのことだということもなにかしっくりいかないことでもありました。慰霊碑というよりも祈念碑と感じるものが多いのは長崎の特徴であり、平和公園の聖地化にしても広島とはだいぶ趣が異なっており、モニュメントが乱立している公園のような印象を受けました。
広島の場合原爆ドームをはじめとする被爆遺構は、その時その場所にあったまま、景観を損ねないように建立物を規制するバッファーゾーンがしっかり設けられているのに対し、長崎の場合は被爆遺構を敢えて移築し、集めているように思えてなりません。怒りの広島・祈りの長崎と原爆に対する考え方も違うのかも知れませんが、祈りのゾーンに移築された浦上天主堂の被爆遺構はほとんどのアングルから撮影した写真にラブホテルが写り込んでしまうというありさまなのは有名処のひとつでしよう。
うまく表現ができないのですが、広島は被爆遺構を確認してから平和記念公園を建設したのに対し、長崎ではそれがどこまで行われたのか?正直疑問に思えるところが多々あります。祈りのゾーンには被爆時の地層をガラス越しに見ることができます。これには解釈も要らず大変わかりやすいものであると思います。しかしその反面平和の歩道建設時に発見された『防空壕跡』は、聞き取り調査をした段階でわかりそうなもののように思えてなりません。
広島では被爆時の地面は『被爆した墓石』付近の不自然に掘り下げられているものに注釈がつけられて初めてわかるものになっています。どちらが良いのかは人それぞれの想いもあり、すぐに答えが出せないようには思えるものの、今現在に於ける被爆遺構をはじめとする往時の建立物の残し方に、後世にどのように伝わるのか一抹の不安を覚えました。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 松山町電停から徒歩5分位です。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 晴れた昼間は無茶苦茶人が多いです。
- バリアフリー:
- 5.0
- エスカレーターが完備されていました。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 建立意図はわからなくもありません。
-
投稿日 2017年10月18日
総合評価:3.5
グラバー園内にあり、その中核となっている旧グラバー住宅は、若くしてイギリスから幕末の日本にやって来たトーマス・ブレーク・グラバーが建立したもので、世界遺産に登録されています。若くして幕末の日本へと渡ったイギリス商人ではあるものの、炭坑や製鉄業で財を成しました。旧グラバー住宅脇にある『トーマス・ブレーク・グラバー之像』は事業に成功した後も日本を愛し続け、日本で家族を作り日本でその生涯を終えた男の勇姿を象った見事な銅像そのものを表しています。文久3(1863)年に建立された日本最古の洋風木造建築として昭和36(1961)年には国の重要文化財に指定された後、平成27(2015)年7月5日には『九州・山口の近代化産業遺産群』の構成資産の一つとして世界遺産への登録が決定しています。
やはり長崎造船所を見下ろす位置に建てられていたこともあり昭和14(1939)年に三菱重工業長崎造船所が当住宅を買収しており、その後太平洋戦争終結後はGHQに一時接収されて進駐軍の宿舎となったこともあるりました。
そして昭和32(1957)年に創業100周年を記念して当時の三菱造船から長崎市に寄付され、昭和42年(1967)年に復元修理が完了して明治20年代の姿になって現在に至っています。
世界遺産の登録資産としては勿論のこと、現在の場所に建立されてから150年が経つ文字通りグラバー園を代表する建物ではありますが、幕末の動乱期に薩長をはじめとする志士に武器を流していたことが知られています。勿論それが日本を外国に導き、明治維新の立役者になったことは認めるものの、やはりその武器によって人間の血が流れたことに間違いはありません。
武器の近代化によって時代の流れは変わったかも知れませんが、現在でもミサイルを作って儲けている会社があり、そのことを懸念しながら生きていかねばならない国民がいるという事実と照らし合わせると、私自身は手放しで素晴らしいとは言えないという思いが消えませんでした。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- グラバー園内にあります。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 雨にもかかわらず観光客は多いです。
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープは切ってありました。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 日本最古の洋風木造建築はわかります。
-
投稿日 2017年10月11日
総合評価:3.0
広島の原爆の子の像に備えられている折り鶴は、建立者である広島平和をきずく児童・生徒の会の意図も加わり広島市が管理しています。
同じようなものとして平和祈念像の左右を固めている折り鶴の塔ですが、長崎北ライオンズクラブの15周年記念事業として建立されたものになります。
建立の意図としては原子爆弾犠牲者の霊を慰めるとともに、二度とこの地球上に原爆の惨禍を招くことがないよう、世界恒久平和を祈って寄せられた折鶴を塔に掲げ、その意を伝えるためとされていますが、あくまでも記念事業として建立されたものであれば、モニュメントでしかありません。平和を願うために収められた千羽鶴であることには違いなくとも、モニュメントに収めることと、慰霊塔に供えることでは全く意味が異なります。また管理者が明記されていないことから、折り鶴の行方も気になります。
残念ではありますが、広島の原爆の子の像に供えられた千羽鶴は100%リサイクルはがきになっている訳ではないようです。しかしその中の一部とは言え試みとして再利用されていることは事実です。これは広島市が発表していることですが、残念ながら長崎の折り鶴に関しては市を含めどこの施設にも記述がありません。
慰霊の気持ちを茶化すつもりは毛頭ありませんが、修学旅行等の慣習として千羽鶴を収めているのであれば、やはり行っている学校や施設も知る必要があるのではないのでしょうか?
義務感で行われるてい形だけの慰霊など誰も望まず、またなにも知らずに気持ちを込めて折り鶴を折った子供達の気持ちを踏みにじることにことになるのではないでしょうか?- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念像の隣です。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 折り鶴の塔に限定すると多くはありません。
- バリアフリー:
- 5.0
- 足元は石だたみとなっています。
- 見ごたえ:
- 1.0
- 謂れを知ると・・・。
-
投稿日 2017年10月11日
総合評価:5.0
旧リンガー住宅を建立したフレデリック・リンガーは中国茶の熟練検査官でしたが、グラバー商会に招かれたことをきっかけに慶応元(1865)年頃に来日しています。数年前グラバー商会勤めた後、明治元(1868)年11月に退職し、英国人のホームとともに『ホーム・リンガー商会』を設立しました。
リンガーは製茶業を手始めに石油備蓄や発電などの事業等幅広い活動を行った他に明治・大正・昭和初期を通じてウラジオストクをはじめとする海外各港との貿易事業や各国商社代理業務に携わりました。
?また居留地の英字新聞である『ナガサキプレス』を刊行した他、捕鯨業やグラバーの息子である倉場富三郎とともに日本初のトロール漁業、そして長崎市の上水道敷設等長崎の殖産興業にも尽力しています。そしてベルギー・スウェーデン・ノルウェー・デンマークと言った国々の名誉領事にも就任して長崎の国際交流にも力を注ぎました。
フレデリック・リンガーは明治40(1907)年にイングランドに一時帰国した際に亡くなりますが、その後邸宅に一緒に住んでいた次男のシドニー・アーサー・リンガーが明治42(1909)年に長崎に戻り邸宅住まいを再開させました。
日本国籍を取得したとされるシドニーですが、二人の息子がスパイ容疑で逮捕されたコックス事件に連座させられて昭和15(1940)年にホーム・リンガー商会の長崎本社の閉鎖を命じられ、昭和17(1942)年には上海への亡命を余儀なくされますが、結局日本軍の捕虜収容施設に収容されることになりました。戦後長崎に戻ってはきたものの資産を徐々に売却していき、最後に邸宅を昭和40(1965)年に長崎市に売却し、イングランドへと戻っています。
フレデリック・リンガーが来日して間もない頃の明治元(1868)年頃に建てたとされる旧リンガー住宅は木骨石造建ての平屋建ベランダ付で寄棟造桟瓦葺という日本には例の少ない石造りの洋風住宅であり、重厚な中に優美さが漂っている特徴があります。それが明治初期の居留地建築の代表的な姿だと言っても過言ではないでしょう。そういった特徴から昭和41(1966)年6月11日には国の重要文化財に指定されています。またなぜ(弟)が付くのかはシドニーの兄であるフレッドが一時期旧リンガー住宅の隣の旧オルト住宅に住んでいたために便宜的に呼ばれるようになったそうです。
現グラバー園内にある建物の多くは移設復元されたものですが、世界遺産登録の構成資産である旧グラバー住宅、そして旧オルト住宅とこの旧リンガー住宅は元々この地にあったものになります。それがなぜ世界遺産登録が旧グラバー住宅だけになったのかは疑問に思うところもあります。修復が入ってるいることが理由なのかも知れませんがよくわかりません。
確かにグラバー園内に建立されている多くの建物自体が元々は長崎市街にあった歴史ある建造物を移築して作られたものであるため、手が加えられたテーマパークという扱いなのかも知れません。しかし移設復元されていないものはそれはそれで評価をするべきではないか?そう思う節も確かにあります。
国と国同士の駆け引き論がある世界遺産登録だからかも知れませんが、建物を見ながらその違いがわからないから凡人なのかとふと思ってしまいました。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- グラバー園内にあります。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 雨天でも観光客は多いです。
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープは切られていました。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 当時の建築様式を今に伝えてくれています。
-
投稿日 2017年10月07日
総合評価:5.0
長崎平和公園の中心部にある『平和の泉』、平和公園の定番写真がこの泉の噴水の隙間から平和記念像を望むものですが、多客期には学生団体が群れを成して写真を撮るどころではありません。
昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、長崎市松山町上空500mの地点で爆発した原子爆弾『ファットマン』の放出した爆風・熱線・放射線によって長崎の市民はバタバタと斃れて行きました。体内まで焼け爛れた被爆者は『水』を求めて呻き、そして亡くなりました。その痛ましい姿で亡くなった被爆犠牲者の霊に水を捧げて冥福を祈り、恒久平和を祈念するために長崎市と核兵器禁止世界平和建設国民会議が全国から集まった浄財を元にしてこの『平和の泉』を昭和44(1969)年に建立しました。
時間によって刻々と変化する噴水は『平和の鳩の羽ばたき』を形どり、つるの港といわれる『長崎港の鶴』を象徴しているそうです。その噴水の間からは平和記念像が望め、長崎平和記念公園の象徴ともされている風景です。しかしその平和記念像を望む『平和の泉』の『謂れ』が刻まれた碑に目をやる人は少ないようです。
のどが渇いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
―あの日のある少女の手記から―
と刻まれていますが被爆当時9歳の少女のものだそうです。水を飲ませてはいけない…。でも喉が渇いて仕方がない…。でもきれいな水は当然ない…。3つの『ない』の極限の状況に於いて、少女は水を飲むことを選びました…。
水は何かにつけて『平和』に結び付けられていますが、果たして平和の泉もそうだったのでしょうか…。勿論水が飲めないまま亡くなった被爆者の慰霊の意は汲み取れるものの、なにか他にないものかと思うところがありました。その時のその惨状を表すなにかを…そんな違和感を感じました。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 松山町電停から徒歩8分程です。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 時期と時間によりけりです。
- バリアフリー:
- 5.0
- 石畳になっています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 想いはわかります。
-
投稿日 2017年10月07日
総合評価:5.0
長崎平和公園内に昭和52(1977)年7月20日に建立された『長崎平和の鐘』。天主堂の瓦礫の中から出てきたものだという都市伝説があるようですが、戦後に作られたものです。『長崎の鐘』というネーミングは、永井隆博士が執筆した随筆の名前であり、出版後作詞サトウハチロー・作曲古関裕而・歌藤山一郎で書き上げられた『歌謡曲』となり、その翌年に松竹で映画化されています。
この平和公園に建立された『長崎の鐘』は原爆投下後33回忌を迎えるにあたり、動員学徒や女子挺身隊、その他徴用工や一般市民の原爆殉難者の冥福を祈り、あのようなむごい原子爆弾が再びこの地球で炸裂しないためにも、この鐘を鳴らし続けることによって恒久平和の確立を世界の人々に訴えるため建立したものとされています。建立費用は遺族や被爆者の他およそ21,000世帯の拠出金による浄財が集められてそれを元に建立されました。
長崎県被爆者手帳友の会・長崎県動員学徒犠牲者の会の手によって建立され、鐘の後方には動員学徒・女子挺身隊・徴用工・一般市民の原爆殉難者之碑が合わせて置かれています。慰霊碑とモニュメントを兼ねた要素を持っているため、聖地に置くに相応しいかどうかは何とも言えないところがあるものの、永井博士の遺徳を後世に伝えるべく付けたネーミングであれば、史料価値としては高いものがあると捉えるしかないようにも思いました。- 旅行時期
- 2017年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 松山町電停から徒歩10分程です。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 夜には誰もいませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 舗装はされています。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 慰霊碑として捉えたいと思います。


































































