たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(48ページ)全1,843件
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投稿日 2017年05月30日
総合評価:5.0
〝赤ん坊を胸に抱えこんで 母は 護ろうとする 降ってくるあらゆる災禍から わが身で包んで護ろうとする 母は哭かず〟との願いのもと、〝嵐の中の母子像〟は昭和35(1960)年8月5日に広島市婦人会連合会の手によって平和記念公園噴水前に建立されました。元々前年昭和34(1959)年の第5回原水爆禁止世界大会広島大会を記念して、作者である本郷新氏から石膏(せっこう)像が広島市に日本原水協を通して寄贈されたことに端を発し、それを多くの母親達が〝ブロンズ像〟化を願って募金活動を行って浄財を集め、それを元手に建立されたものとなっています。
この〝嵐の中の母子像〟について作者である本郷新氏のコメントとして挙げられている言葉がありました。
この作品のモチーフは広島の惨害です。胸に乳飲み子を抱きかかえ、背にもう一人子どもを背負って、立ち上がろうとする母子の必死の姿は、まさに突進の形です。普通母子像は、暖かい愛情を表現するものですが、『嵐の中の母子像』は、いつ離れ離れになるかも知れぬという不安と、非常な事態の中での愛情の危機、もしくは極限の状態です。このとことんまで生きようとする母子の像を通じて人間の生命の尊厳を象徴づけたつもりです。だから単なる母子像というより、母子二代にわたる悲しみ、二つの世代に横たわる悲劇の記念碑というわけです。
というものが〝嵐の中の母子像〟そのものとなって現在に伝わっており、この像を知る人ならばその作成意図を知らなくてもわかるものとされています。原爆が齎した〝物凄い嵐〟の中で多くの母子が取らざるを得なかった姿勢であったものの、それでも母子の絆を断つことはできないとの〝訴えかけ〟と〝逃げられただろうか?〟という願望に近い思いが交錯している様子がすごく伝わってきます。母が子を護ろうとしないといわれる現代に於いて、この像から訴えかけられる〝重圧〟に潰されるような気持になってしまいました。- 旅行時期
- 2017年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和大橋から歩いてすぐです。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 夜だったので誰にも会いませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 足元は舗装されています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 噴水に浮かんでいるようにも見えました。
-
戦争を通じて亡くなったすべての戦没者を祀って慰霊しています。
投稿日 2017年05月29日
総合評価:5.0
〝正しい戦争だと信じたから 命令の通り銃をとり 命令の通り銃後を守った。
いまは 世界の隅ずみに 平凡な家庭と平和がありますように。〟という願いのもと、〝祈りの像(平和祈念慰霊国民大会記念祈りの像)〟は昭和35(1960)年8月15日に〝平和祈念慰霊国民大祭実行委員会〟の手によって建立されました。
慰霊対象は被爆者・軍人・軍属・官公吏・警察官・警防団員・動員教師・動員学徒・派遣看護婦・助産婦・抑留同胞死没者・戦犯処刑者・殉死者・自決者・在外同胞非業死没者・その他一般犠牲者となっており、広島の地にあって原爆被爆者の犠牲者に限定せず、すべての戦没者を慰霊していることは、他の広島平和記念公園に建立されている慰霊碑とは異なっています。
彫刻家の横江嘉純(よこえよしずみ)氏の作品である〝子どもを抱いた若い夫婦の像〟と、その隣には広島出身の詩人である大木敦夫(おおきあつお)氏の長詩が刻まれている〝詩碑〟のふたつから構成されています。元々その対象とした〝戦没者〟の範疇が伝わっていないのか、そこまで気にしていなかったのかはわかりませんが、近年になって〝戦犯処刑者〟〝殉死者〟〝自決者〟という表現に戦争を起こした〝軍人〟までも慰霊するのか?といった意見が多く見受けられるようになっています。その〝対象者〟が刻まれた〝碑〟は、既にすり減って判読不可能となっているようです。確かに8月15日という終戦記念日の建立からは〝YASUKINI〟に纏わる話があるようにも思うものの、別にそれは被爆犠牲者を蔑ろにしたものでもなく、終戦記念日に黙祷を捧げる〝意図〟から建立された〝慰霊像〟という解釈はできないものでしょうか。
確かに慰霊碑の建立意図が思想によって七転八倒し、その結果破壊行為に至っている〝悲しい現実〟があるのは事実です。あくまで広島平和記念公園に建立されている〝慰霊碑〟とはいえど、建立者の意図はそれぞれあるということ。それに対して例外を作らないことが、すべての戦没者慰霊に繋がること、すなわち『過ちを繰り返さない』という〝自らの部分の反省〟に繋がるように、改めてこの〝祈りの像〟を見て思います。- 旅行時期
- 2017年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 広島平和記念資料館から徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 日が暮れていたので誰もいませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足元は地道です。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 碑を見るだけでは〝傷痍軍人〟の碑かと思いました。
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投稿日 2017年05月29日
総合評価:5.0
〝平和祈念像〟というと圧倒的に長崎のものが有名ですが、広島の平和記念公園内にもありました。原爆死没者慰霊碑の北西の場所に位置しており昭和52(1977)年8月2日に広島平和祈念像建設会によって建立された小さな像です。台座は全国の学童の募金や広島商工会議所などの協力によって、銅像は広島出身の文化功労者・文化勲章受章者の彫刻家である圓鍔 勝三(えんつば かつぞう)氏の寄贈となっています。
若い母親に抱かれた子供が〝平和のラッパを吹き鳴らす〟姿に〝三日月〟が添えられている像は〝原爆死没者慰霊碑〟を〝見守る格好〟に作られています。建立像の意図を圓鍔氏は〝親から子供へ・昨日よりも今日へ、そして三日月もやがて満月になる。故に新しい未来を求めて平和のラッパを鳴らしたい〟と語られており、その建立意図に賛同された草野心平氏が〝平和祈念像によせて〟という〝詩〟を寄せられています。
小さな像ではありますがその建立に寄せられた思いは、詩碑を読んだ観光客の心をつかむことは間違いないでしょう。- 旅行時期
- 2017年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 原爆ドーム前電停より徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 夜だったので誰もいませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足元は地道でした。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 像と詩によって心を打たれます。
-
投稿日 2017年05月29日
総合評価:5.0
平和記念公園北側に位置する相生橋は旧太田川と元安川の分岐部に架かる〝相生通り〟と〝広島電鉄本線〟が通る併用橋です。安土桃山・江戸時代には防衛・防犯上の理由により架橋規制が行われていましたが、明治期に入り規制が廃止されて本格的に架橋工事が始まります。
最初は〝く〟の字型をした木橋が架けられ、その2つの橋が相合う様から〝相合橋〟と名がついていました。その後広島鎮台(後の第5師団)と西練兵場とを結ぶ主要道の中の最重要〝橋〟となり、日清戦争が始まった明治27(1894)年には明治天皇が広島に行幸された、臨時の大本営である広島大本営が第5師団が置かれていた広島場内に設置され、軍都広島のスタートとともにそのかけがえのないひとつの〝橋〟としての歴史が始まります。
大正期にはまだ併用橋にはなっておらず、道路橋と電車橋の木橋として独立したものとして存在しました。しかし大規模な洪水によって橋は落橋してしまい、木橋は架け替えられることとなりました。昭和7(1932)年国道2号筋の橋として〝鋼鈑桁の道路・軌道併用橋〟に架け直され、昭和15(1940)年には世界的にも珍しい〝T字型〟をした橋として完成します。
第二次世界大戦に突入し竣工当時の親柱は石製でしたが、欄干や橋上の街燈は鋼製であったため〝金属類回収令〟によりすべて軍事供出を余儀なくされました。そのため欄干は石製か若しくは鉄筋コンクリート製のものに変えられています。
相生橋一帯は広島城を中心に中国軍管区司令部など陸軍施設が密集し、それに加えて日本軍の最重要拠点であった第二総軍総司令部が置かれたことにより、〝軍都広島の中心〟としての役割が強まっていきました。
しかし昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、米軍爆撃機B-29エノラゲイが原子爆弾〝リトルボーイ〟を投下します。その時照準とされたのは特殊な形ゆえ上空からでもはっきりわかる〝相生橋〟でした。〝最も完璧な照準点だ〟といったエノラゲイの機長ポール・ティベッツの言葉通り、〝間違えようのない目標〟に向けて投下された原子爆弾は、若干風に流され多様で約300m離れた島病院(爆心地)上空700mで爆発し、付近は一瞬にして〝無〟と化してしまいます。
至近距離で被爆した相生橋は落橋こそしなかったもののかなりのダメージを受けました。原爆のすさまじい衝撃波により橋桁は変形し、北側の高欄は川に落ち、歩道の一部が持ち上がるほどであったと記録されています。しかし原爆被害復興として相生橋の復旧は急務であり、原爆投下後僅か1ヶ月で広島電鉄本線が八丁堀から己斐間で運転を再開し、その走る電車の姿が被爆者の〝期待と喜び〟に繋がっていたこともあり、電車を通しながらの復旧作業を行っていました。しかしダメージを受けた橋を修復するにあたってやはり〝電車〟の振動は亀裂を増大させることに繋がって危険が増すため、橋全体を一挙に修復するのではなく、歩道と軌道を別として細分化しながら行われました。
また〝原爆と平和〟を象徴する橋として市民から要望されたことに加え〝原爆記念保存物〟として観光利用も期待していたこともあり、欄干や親柱に原爆死没者慰霊碑と同じ花崗岩の〝庵治石〟が採用される等復旧費用がかさみ、事業費は跳ね上がったものの、工事は〝戦災都市復興事業〟として行われたこともあり、昭和24(1949)年修復工事は全面復旧しています。
その後復旧させた橋を修復しながら使用していたものの、老朽化や交通量の増加に伴い広幅員化と高潮対策事業に伴う護岸整備に伴い〝架け替え〟が決定します。昭和53(1978)年に起工し、昭和58(1983)年に竣工した〝新橋〟は幅員が拡幅された他に景観を考慮し、広島電鉄の架線が〝T字型センターポール〟化へと変更されています。3代目の相生橋が現在のものとなっていますが、被爆遺構でもある明治11(1878)年に竣工した〝初代〟、昭和7(1932)年竣工で被爆時の〝二代目〟の〝親柱〟が現存し、初代のものは原爆ドーム付近に、二代目は平和の時計塔付近に置かれており、〝説明版〟によってそれぞれの橋の〝時代背景〟を知ることができるようになっています。
特異な形ゆえ原爆投下の標的となった相生橋。建立時には考えもつかなかったことだと思います。今ではキレイで近代的な橋として架け替えられているため、史実を知らずして訪れても通過してしまう観光客が多いそうです。代替わりをしているためストレートには〝被爆時の姿〟を知ることはできませんが、残された親柱に添えられている〝石板〟でその背景を知ることは、広島の原爆被害を知ることに繋がっているのではないか、そう改めて思います。- 旅行時期
- 2017年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 原爆ドームからすぐです。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 夕方だったので歩いている方も少なかったです。
- バリアフリー:
- 5.0
- 歩道に段差はありません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 現橋ができた謂れには心打たれました。
-
投稿日 2017年05月29日
総合評価:5.0
広島平和記念公園内にある〝原爆死没者慰霊碑〟、正式名称は〝広島平和都市記念碑〟といいますが、一般的に〝原爆死没者慰霊碑〟という呼称で知られています。
原爆死没者慰霊碑は昭和24(1949)年に成立した広島平和記念都市建設法に基づき、丹下健三氏の設計により平和記念資料館と原爆ドームを結ぶ直線上に建立されました。原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという趣旨のもと屋根の部分が〝はにわの家型〟をしており、中央の石室には国籍を問わない原爆被爆者すべての氏名を記帳した名簿が納められています。
元々のデザインは丹下氏が推挙したイサム・ノグチ氏のものでしたが、日系アメリカ人ということでそのデザインに対し難色を示すものが多かったため、ノグチ案をベースに丹下氏が再デザインしたものが現在の原爆死没者慰霊碑の形となりました。建立当時は屋根がコンクリート製だったのですが老朽化を理由に昭和60(1985)年に一時撤去され、現在の御影石製となって現在に至っています。
碑文として刻まれている〝安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから〟の言葉は知らぬ人がいない位有名なものではあります。しかしこの言葉の〝主語〟の解釈を巡って論争が絶えず、一部暴挙に走った心ないものによって幾度か破壊行為にあったこともありました。
原爆を投下したのはアメリカだ。にも拘らずアメリカ人の手は清められていない。
〝日本人〟が〝日本人〟に対して〝謝罪〟をしているのはおかしい。
〝繰り返しませぬから〟ではなく〝繰り返させませんから〟だろう。
〝碑文は犠牲者の霊を冒涜している〟
再びヒロシマを繰返すなという悲願は人類のものである。主語は〝世界人類〟であり、碑文は人類全体に対する警告・戒めである〟
などという様々な解釈が叫ばれる中、昭和58(1983)年には碑文の主語として〝トルーマン〟と記された〝札〟が貼られる事件が発生します。アメリカ合衆国第33代大統領ハリー・S・トルーマンのことですが、原爆投下命令書にサインをしたことがその理由だと言われています。それに対しては当時の市長が『日本やアメリカという〝特定〟の国の枠を超えて全ての人間が再び核戦争をしないことを誓うためのものである』という見解を示し、それが公式見解と現在ではなっているそうです。
〝碑文の主語は人類〟だと言われても、碑文に刻まれている〝人類の過ち〟と〝日本人の過ち〟では雲泥の差があるという考え方や、そもそも碑文の解釈に大きな論争が起こるのは〝碑文自体〟に問題があるのではという意見もあり、ひとつの慰霊碑としては今なお収まる気配のない言い争いが続いていることも事実です。
思想信教の自由が保証される日本に於いてその解釈が〝見解〟によって変わってしまい、結果〝破壊行為〟にまで繋がってしまうことは残念という思いしかありません。心に残る〝文章〟ではあれどそれが解釈によって〝捉え方〟が変わってしまい、結果として破壊に繋がってしまうのであれば、いっそうのことその言葉を〝無くしてしまう〟こともひとつの選択肢なのかも知れません。文面はともかく〝原爆死没者慰霊碑〟に祀られている原爆被爆犠牲者の御霊は、安息の場所を騒がすことは望んではいないはず…そんな風に思えてなりませんでした。- 旅行時期
- 2017年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和記念資料館から歩いてすぐ。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 陽が落ちていても人はおられます。
- バリアフリー:
- 5.0
- 足元は舗装されています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 碑の建立時の想いが伝わってきます。
-
投稿日 2017年05月28日
総合評価:5.0
広島平和記念公園の〝平和の鐘〟は、広島の原爆被害を教訓に、全ての核兵器と戦争のない平和共存の世界を達成すべく広島の悲願に立って〝精神文化運動〟のシンボルとして、万人の心と浄財によって昭和39(1964)年9月20日に建立されました。
作成は人間国宝の香取正彦氏が手掛け、鐘の表面には〝世界は一つ〟を象徴する国境のない世界地図が浮き彫りにされており、梵鐘の撞座(つきざ)部分(鐘が打たれるところ)には原水爆禁止の思いをこめて〝原子力マーク〟が入っており、その反対側には撞く(突く)人の己の心を映しだす鏡が入れられています。
シンボル化するとなにもかもが抽象化されてしまい、建立意図を知るのに頭をひねらないとわからないものが多々ある中で、平和の鐘は大変わかりやすいものになっています。19:00を過ぎていたため、鐘を突くのは非常識なのでやめておきましたが、機会があれば実際に突いてみて、自分の心と向き合ってみたいと思います。- 旅行時期
- 2017年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 原爆ドーム前電停より徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 誰もいませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 足元は整地されていました。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 謂れに心を打たれました。
-
投稿日 2017年05月22日
総合評価:5.0
広島平和記念公園北端にある〝平和の時計塔〟は、 昭和42(1967)年10月28日に広島鯉城ライオンズクラブが建立しました。
高さが20mある時計塔は、3本の鉄柱がそれぞれ60度ずつひとひねりした塔上に、直径2mの球体型をした時計が乗っかっているものでした。その造りには〝世界人類〟を象徴した直径2mの球体時計を、平和都市ヒロシマの市民の〝深い祈りの手〟と、苦難を超え無限に伸びていく平和への希望を3本の鉄塔で表現しています。
ただビジュアル的には〝モニュメント〟として取られることが多い平和の時計塔であるがため、建立時には平和記念公園を設計した丹下健三東大教授の『平和記念公園は聖地であり、いろんなものを建設することは好ましくない』との発言もあって、一時は建立に待ったが掛かったこともあったものの、関係者の説得によって承諾を得ることができ、建立に至りました。
平成8(1996)年には〝残したい日本の音100選〟に〝平和の鐘〟等と一緒に選定されて現在に至っています。また〝世界で初めて原爆〟が投下された8時15分には、毎日時計塔からのチャイムが鳴り響き〝ノーモアHIROSHIMA〟のメッセージを世界中に流しています。- 旅行時期
- 2017年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 原爆ドーム電停から歩いてすぐ。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時間のこともあり、他に見学者はいませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 時計塔の真下でなければ舗装されています。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 芸術的なものはよくわかりません。
-
投稿日 2017年05月21日
総合評価:5.0
今や広島市の観光地の代名詞とも言われる原爆ドームは、従来の伝統工芸に加え日露戦争以降の軍需産業に於いて地元調達を行ったことから、活況を呈した経済を背景に生産と物流の拠点作りが求められました。
大正4(1915)年に広島県物産陳列館として竣工し、広島県立商品陳列所、広島産業奨励館と呼称こそ変わったものの、当時木造二階建て住宅が密集していたこの界隈で、レンガ造りの建物とその姿が太田川の水面に映る〝絶景〟が噂となり、広島名所のひとつとしてたいそう人気を博したようです。
しかし太平洋戦争の勃発後、次第に形勢不利となるご時世の中、昭和19(1944)年3月31日で館としての業務は廃止され、官公庁や統制組合の事務所として利用されることとなりました。そして昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、米軍のB-29爆撃機〝エノラゲイ〟から投下された原子爆弾〝リトルボーイ〟が爆心地である島病院上空約600mで爆発しました。直線距離で160mの至近距離で被爆した広島産業奨励館は、まず熱線により薄い銅板で作られていた屋根の部分が溶けてしまいました。次いで衝撃波が建物を襲い内部を破壊しました。しかし至近距離での被爆であったことが逆に幸いし、真上からのダウンフォースと地面に反射した衝撃波が建物内部を全壊させるも骨組みを残す結果を惹き起こしました。
当時館内におられた方は全て即死だったとされています。
戦後を迎え目覚ましい復興を遂げる広島の地に於いて、徐々に原爆体験をした建物が取り壊されていく中で、原爆ドームも例に漏れず〝保存〟か〝取り壊し〟の選択が盛んに論議されるようになります。昭和28(1953)年には広島県から広島市に譲与され、原爆遺構のひとつとして歴史が始まるかのように思われました。しかし特に保存するための対策も講じられず、そのうちに付近には雑草が生い茂り、また昭和37(1962)年頃には小規模ではあるものの亀裂や崩落などが見受けられるようになり、危険とされてしまい金網が張られ、付近への立ち入りが禁止されてしまいます。
被爆史跡として保存が叫ばれる中、昭和40(1965)年に広島市は広島大学工学部建築学科に建物の強度測定を依頼し、補強により保存に耐えうるとの結論を得ることとなりました。そして翌昭和41(1966)年には保存工事のための募金運動を開始します。国内外から集まった浄財6,600万円余りを元手に昭和42(1967)年第一回目の保存工事が行われました。
その後25年の歳月が過ぎた平成4(1992)年、原爆ドームを世界遺産に登録しようとする意見が出てくるものの、政府は文化財保護法によって保護されていないことを理由に、世界遺産登録への推薦を拒んでいました。しかし世界遺産登録を目的とした市民団体が、国会請願に必要な署名運動が展開されました。集まった署名数165万余名、その署名数は国会の重い腰を上げさせることとなり、平成6(1994)年には衆参議院で採択され、翌平成7(1995)年には史跡の指定基準が見直すこととなり、原爆ドームを史跡指定した後、世界遺産委員会へと推薦することになりました。そして1年半が経過した平成8(1996)年12月、原爆ドームは〝人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を如実に伝え、時代を超えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑〟として世界遺産登録がなされました。
竣工から1世紀を超えている建物ならば、経年劣化だけを考えてもかなりヘタリが出てきて当然のように思います。まして原子爆弾の凄まじいエネルギーを至近距離で被爆しているならば、かなりのダメージではなかったかと素人目には思えてなりません。もしただ〝保存〟が目的であるならば、屋根をつけた施設内に移築するのがベストでしょう。しかし多くの方が言われるように、原子ドームは現在地にあるから価値があるとのこと。以前はよくわかりませんでしたが、爆心地から実際に歩いてみて体感する距離、僅か160mの地点で被爆することが想像を超えていること位は私でもわかります。
諸々の理由から積極的な保存工事は行われていないと聞いています。未来に原爆ドームが今の場所にあるかどうかは誰にもわからないことかも知れません。しかし今現在なら間違いなく見ることは可能です。置かれている背景が変わると、受ける印象も変わってくることを考えれば〝今を知り〟、そこで〝どのように感じたか〟を知ることは、過ちを繰り返さないためにも必要不可欠なものに違いありません。- 旅行時期
- 2017年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 原爆ドーム前電停下車すぐ。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 夕方でもかなりの人が訪れていました。
- バリアフリー:
- 4.0
- 近くまで行こうとすると舗装はされていません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 言葉を失います。
-
投稿日 2017年05月20日
総合評価:5.0
上空からも確認可能な〝T字型〟をした相生橋。その特徴が世界最初の核兵器のターゲットとなりました。
8月6日未明にテニアンを出発したB-29エノラゲイ。約7時間の飛行の末たどり着いた先は広島。機内に搭載されたウラン型原爆リトルボーイを目標である相生橋を目視確認し、高度9,600mから投下させます。やや風に流された〝世界初の原子爆弾〟は現島内科病院の上空約600mで爆発。重厚なレンガ造りだった島病院も跡形なく消え去りました。爆発によって起こった火球の表面温度は6,000℃といわれており、その熱線による〝瞬間火傷〟によって多くの人の命が奪われました。そしてわずかなタイムラグで起こった〝衝撃波〟。地上に反射したものも合わり、暴風がガラス窓等を破壊し、その破片はマッハを超える凶器となり犠牲者を増やすことになります。
また熱線で溶けてしまった銅板の屋根ではあるものの、スレート部分は溶けずに残りました。しかし次に襲った衝撃波は、残った骨組みをかい潜って建物内部を破壊し外壁だけが残りました。
爆心地の碑が建てられている島内科病院では、当時建物内にいた職員と患者全てが犠牲となりました。たまたま出張診療をしていた院長は難を逃れ、可能な限り早く戻ってその惨状を目にし、ケガ人の救護に当たられるも、そのことを話すことはなかったようです。
原子爆弾という一次的被害だけではなく、放射線被害という二次的被害が未来に渡り惹き起こされる〝大量破壊兵器〟
が使われたことは、人道的に許されるものではありません。原爆投下が戦争を終わらせた発言には、どうしても任務遂行に成功したという〝自己満足〟と〝顕示欲〟が見え隠れしているように思えてなりません。
今更原爆の使用を論議するまでもありません。しかし70数年前この場所の上空で〝原子爆弾〟が炸裂し、人もものも一瞬にして消え去った〝史実〟の存在を、平和ボケして〝起こり得ない〟と安心するのではなく、〝起こりうるリスク〟について考えてみる・・・。そんなリスク管理を訴えているように感じました。- 旅行時期
- 2017年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 原爆ドームから徒歩3分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 夕方だったこともあり、他に人はおられませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 段差は特にありませんでした。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 碑が建つのみですが、心を打たれるものを感じました。
-
The first destination of Hiroshima Peace Park.
投稿日 2017年05月02日
総合評価:5.0
平和大橋を渡って平和記念公園へと向かう途中にある五角錐のモニュメントです。〝平和の塔〟は1辺・高さとも4mの五角錐をしています。この5つの平面は五大州を表し、〝戦争なき1つの世界〟を希求しているそうです。
〝夏のある日 風が白いリボンとなって 碑を廻るときがある 倒れたひとたちの祈りが 宙に昇るときがある〟と添えられた言葉が心に染み渡ります。
昭和49(1974)年10月30日に世界連邦広島県・広島市宣言記念塔建設委員会と広島市が世界連邦都市宣言をしたのを記念して建立されました。設計者は(故)川村雅美氏元広島ディスプレイ協会理事長、川島氏の最初のデザインだったそうです。
広島ディスプレイ協会の先輩である川村氏の込めた平和への想いを引き継ぎ、広島にある企業として、平和への思いを守り続けるためにも〝平和の塔〟はシンボル的な位置づけを持っており、協会員の協力のもと〝平和の塔〟を保守することに換え塔の維持(清掃)活動を平成25(2013)年より行って現在に至っているそうです。- 旅行時期
- 2017年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 中電前バス停から徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 夕方だったので誰にも会いませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 塔の付近は舗装はされていません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 塔に添えられている言葉に打たれます。
-
素晴らしい景色は広がっていますが、原爆が落とされた事実を忘れてはいけません。
投稿日 2017年05月02日
総合評価:5.0
太田川の支流である元安川、夕暮れ時には素晴らしい景色が広がることで有名な場所のひとつに挙げられていることが多い場所でもあります。昭和20(1945)年8月6日8:15、夏の天気が広がる広島の街に米軍B-29エノラ・ゲイが来襲し、投下された原子爆弾リトルボーイが島病院上空600mの上空で爆発、そして多くの犠牲者を出しました。
夕暮れにこの元安川を撮影すると、ライトアップされた原爆ドームが絶妙のバランスで映り込み、それがなんら違和感ないように思えてなりません。なにかにつけて観光化という言葉がくっつくご時世ですが、その一枚の写真とその風景が訴えかける〝祈り〟を感じずにはいられませんでした。- 旅行時期
- 2017年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 景観:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- バリアフリー:
- 5.0
-
投稿日 2017年05月02日
総合評価:5.0
平和記念公園と原爆ドームを結んでおり、元安川に架かる元安橋は広島の歴史ある橋のひとつであり、毛利輝元が広島を治めていた安土桃山時代に架橋されたことに始まりました。江戸期には西国街道を城下に引っ張り込んだ福島正則の藩政の時代に於いて、交通の要所となっていました。江戸期には水害による落橋がたびたびあったものの、その後明治時代にはたもとに繁華街を持った国道として栄えました。
大正8(1909)年の水害により当時の木橋は落橋しますが、翌年に鋼製の橋脚として架け替えられました。大正15(1926)年に再び架け替えが行われますが、基本的には旧橋脚を引き継いだ大きさや形の物であったとされています。
戦時中には〝金属類回収令〟によって鋼製欄干や添架されていたガスや水道管も戦時供出させられることとなり、その部分はすべて石に交換されることになりました。そして昭和20(1945)年8月6日朝8:15、エノラゲイによって原子爆弾〝リトルボーイ〟が上方の相生橋を目印に投下され、島病院上空を爆心地として爆発します。そのため元安橋は、爆心地から最も近い距離にあった橋となるものの、爆風に耐えて落橋を免れます。
落橋に耐えた元安橋は、特徴的だった親柱上の笠石は左右逆方向にずれ、また欄干も橋の両側にそれぞれ落ちたことによって、爆心地が〝橋の延長線上に位置する〟と推定されることに繋がりました。
戦後補修をしながら長く供用されていた元安橋は、昭和22(1947)年原爆十景に、また翌昭和23(1948)年には原爆記念保存物に指定され、被爆後40年もの間〝橋〟として利用されてきましたが、高潮対策事業に伴う護岸整備および橋の老朽化に伴って架け替えられることになりました。旧橋の被爆した親柱4基・中柱4基を利用し、大正時代竣工当時を再現したデザインとすることも決定しました。平成元(1989)年に着工された〝元安橋〟架け替え工事には、鋳物の電灯が用いられた他、橋脚を1基減らし1つとし、橋長は長くなり幅員も拡幅されたものとなって、平成4(1992)年に再開通して現在に至っています。
平和記念公園中央部にある元安橋は、近くの〝ひろしまリバークルーズ〟の元安桟橋を利用する観光客が多いにも拘らず、知られていないところだと聞きました。東側には被爆した〝旧橋の中柱2基〟が保存されています。紛れもない〝広島原爆投下〟の生き証人のこの元安橋、平和記念資料館とはまた違った思いが募ります。- 旅行時期
- 2017年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 原爆ドーム前電停から徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 夕方だったのでそれ程多くはなかったです。
- バリアフリー:
- 5.0
- 橋上に段差はありません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 歴史の生き証人だと改めて思いました。
-
グランベーコンチーズバーガーを頂きました。
投稿日 2017年04月22日
総合評価:5.0
広島駅南口の駅ビル内にあるマクドナルドJR広島駅店。ロケーションの良さからかガラガラということはまずありません。
弾丸旅行の最終イベントとして〝広島焼き〟を堪能しようと考えていましたが、ちょうどプロ野球の試合が終わった時刻と被ってしまい、さっと入れそうなお店が見当たらなかったこともひとつ理由です。
内装は新しく、雰囲気はいい感じのお店ですが、不思議なことに長時間居座る客が少ないため、テーブルの回転良さはなかなかでした。
久しぶりのマクドナルド利用だったこともあり、目新しいメニューをチョイスし、グランベーコンチーズバーガーを注文しました。確かにベーコンレタスバーガーとなにが違うと言われれば答えには困りますが、やはり手軽に楽しめて飽きのこない味は、ハズレがなくて無難です。
旅先でなぜにファーストフードと言われそうですが、グルメでない私には背伸びしなくて楽しめる場所であることは普遍の事実です(笑)。- 旅行時期
- 2017年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 利用形態
- ディナー
- アクセス:
- 5.0
- 広島駅南口にあります。
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- まあそれなりです。
- サービス:
- 5.0
- マニュアル通りの良い感じです。
- 雰囲気:
- 5.0
- 悪くはないと思います。
- 料理・味:
- 5.0
- 背伸びをしなくても味わえる手軽さです。
- バリアフリー:
- 5.0
- 段差はありません。
- 観光客向け度:
- 3.0
- そのようなお店ではありません。
-
はなまるうどんと吉野家が一緒になっています。
投稿日 2017年05月31日
総合評価:5.0
吉野家2号線岩国店は、はなまるうどんと吉野家が一緒になっている珍しいお店です。呉から徳山に移動する途中にその変わったお店の看板を見つけて立ち寄りました。
一応カウンターは分かれているようで手前が吉野家、奥がはなまるうどんとはなっているものの、吉野家の店員がはなまるうどんのレジに入っていたりしていました。
オーダーはいつも通りの〝牛丼大盛+味噌汁〟ですが、味はいつもの食べやすい味でした。トラックの運転手御用達のお店の雰囲気ではあれど、さすがに彼らの〝牛丼+うどん〟のようなボリューミーな量は私には食べ切れません。しかしお腹の空き具合によって、メニューを変えることができるメリットは、なかなか他の店ではできないことでしょう。
付近を走るまたの機会があったら、改めて立ち寄りたいお店のひとつです♪- 旅行時期
- 2017年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 利用形態
- ディナー
- アクセス:
- 5.0
- 国道2号線沿いです。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 他店と同じで手頃です。
- サービス:
- 5.0
- セルフサービスでした。
- 雰囲気:
- 5.0
- 広々としていてゆっくりできました。
- 料理・味:
- 5.0
- マニュアル通りのいいお味です。
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープは切ってありました。
- 観光客向け度:
- 3.0
- そういう雰囲気のお店ではありません。
-
投稿日 2017年04月28日
総合評価:3.0
ツアーバスには乗らないつもりでしたが値段に惹かれて広島からの帰り道に数年ぶりに利用しました。車両は前方3列と後方4列の〝コンビシート〟タイプのもので、3列ゆったりシートを利用したこともあり、ほとんど他社の3列シート車両との違いは感じませんでした。シートは幅・全席とのピッチともゆったりしており、加えてコンセントもついているため快適にバスの旅ができます。
ただ細かいところで気になるところがあり、センダー(地上係員)の若い子は、通常ならば受付や荷物預け等を手伝ったりする筈ですが要領を得ていないようでなにもせず、〝呼び込み〟に専念していたことは正直苦笑してしまいました。そしてシートに備え付けの毛布は、明らかにクリーニングすらされていないヨレヨレのものが備え付けられており、とても利用する気にはなりませんでした。
今回乗務されていたドライバー氏に文句を言うつもりはありませんが、まず走行中に〝出発連絡〟を入れていること。その内容に〝センダー君〟の酷さを会社に伝えておけという一言。それに理由はわかりませんがインターチェンジでETCを使わず(使えず?)窓口でごちゃごちゃ話しておられることが前方席だとまる聞こえです。
こじつけのように聞こえるかも知れませんが、バスの事故もありました。旅行会社が倒産しました。安かろう悪かろうで〝なにも思わない〟お客さんの方が多くなっているのかも知れません。3列シート+web割りで3,500円という値段を目当てに…。
格安で乗ることができるバスに多くを望むつもりはありませんが、昔に比べてなにが変わったのだろう…とは思いました。改善されたとの情報が入って来た時にまた利用を考えたいと思います。- 旅行時期
- 2017年04月
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 値段は安いです。広島~大阪間3,500円は。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 4列は満席でしたが3列は6人しか乗っていませんでした。
- 乗り場へのアクセス:
- 5.0
- 広島は駅前セブンイレブン前出発です。
- 車窓:
- 3.0
- 遮光カーテンが閉まっています。
-
投稿日 2017年04月26日
総合評価:5.0
JR山陽本線姫路駅下りホームにある〝えきそば姫路駅店〟。明治22(1889)年に日本で最初に〝幕の内弁当〟を販売したといわれる〝まねき食品〟が運営されています。時は流れ戦後の物資がない中で、姫路駅に於いて〝立ち食いうどん〟の販売を手掛けようとしましたが、うどんは時間が経つとのびてしまい美味しくなくなることと、腐敗するのも早いというデメリットがあり、それを試行錯誤の結果〝かんすい〟を混ぜた〝中華麺〟を参考にして作られた独自の〝黄色い麺〟と〝和風だし〟という敢えて〝ミスマッチ〟させたものを考案し、昭和24(1949)年に〝えきそば〟と銘を打って販売が始まり、現在に至ります。
確かに見ただけでは色合いにも〝見慣れない感〟があふれ出ているものの、それは一口食べるだけで納得してしまいました。また14:00~17:00まではサービスタイムで、てんぷらorきつねそばが320円で食べられます。私は事前にこのお店は知らなかったのですが、ガイドブックやグルメ情報には必ず出てくる有名なお店のひとつだそうです。
美味しく頂けるのは勿論のことですが、ネタ作りのためにも一度は行っておく価値は大いにあると思いました♪- 旅行時期
- 2017年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 500円未満
- 利用形態
- ランチ
- アクセス:
- 5.0
- 姫路駅上下線ホームにあります。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- タイムサービス中は特に!!
- サービス:
- 5.0
- 良い感じでした。
- 雰囲気:
- 3.0
- 立ち食いそば屋ですから…。
- 料理・味:
- 5.0
- 一回食べると忘れません。
- バリアフリー:
- 3.0
- 店内通路は狭いです。
- 観光客向け度:
- 5.0
- ネタ作りもできます。
-
投稿日 2017年04月20日
総合評価:4.0
安さに負けて利用した広島からの夜行バス。広島を出てから東福山駅を経て、休憩のために利用しました。
0:13の到着という中途半端な時間は、車内にトイレがないために設けられているようですが、降りた瞬間目が点になりました。トイレと自動販売機以外に施設がありません。夜行バスの休憩には必要以上のものがない場所は多々ありますが、パーキングエリア名すらない(見つけられなかった?)場所ははじめてでした。
そういう場所なので余計に目を引く〝喫煙所〟をしっかりと利用し、さっさとバスに乗り込むしかなかったことはある意味インパクトはありました(笑)。
多客期に休む場所として利用するには穴場のようにも思いました。- 旅行時期
- 2017年04月
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープは切ってありました。
- トイレの快適度:
- 5.0
- 自動ドア完備で清掃は行き届いており、快適に利用できます。
-
投稿日 2017年04月18日
総合評価:5.0
山陽本線糸崎駅、だだっ広い駅構内にたくさんの引込み線が見られる主要駅にも思えますが、特に駅周辺になにかあるわけでもない田舎の駅です。
しかし駅ができた時には三原の中心部に最も近い駅として〝三原駅〟を名乗った時期もある歴史ある駅のひとつでもあります。
一ローカル駅ではあれど今なお交通の要所にはなっており、朝晩1時間に一本の直通列車以外は東(岡山方面)から、西(広島)方面からとも乗り換えが必要となっています。
旅の余興に関西から在来線の乗り継ぎをしながら広島へと向かう途中に立ち寄りました。次の三原で乗り換えるとの乗り換え案内でしたが、昭和の匂いがぷんぷんする糸崎駅は、一度訪れる価値はあります♪- 旅行時期
- 2017年04月
- 施設の快適度:
- 5.0
- 喫煙所もありました♪
- バリアフリー:
- 3.0
- 階段がある跨線橋があります。
-
投稿日 2017年04月17日
総合評価:5.0
松江城参道の脇に鎮座する松江神社は、明治10(1877)年に旧松江藩主の有志達によって建立された楽山神社に端を発します。
江戸初期に松江藩の祖堀尾忠晴公が創建した東照宮を後に合祀し、明治32(1899)年に現在地である松江城二ノ丸エリアに遷座し、現在に至っています。その後松江の繁栄の功労者として七代藩主松平治郷公と初代藩主とも言える堀尾忠晴公が合祀されています。
人通りの多い松江城へと向かう参道であれど、立ち寄る人はまずいません。お城から眺める松江の景色を堪能してそのまま帰えられる姿には、わからなくもないようには思うものの、その松江城建立に纏わる神社の存在に気づかないのはもったいなく思います。
参拝に時間はかかりませんので、是非とも立ち寄って頂きたい場所のひとつのように思います。- 旅行時期
- 2017年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 5.0
-
投稿日 2017年04月12日
総合評価:5.0
出雲大社第二の鳥居、別名勢溜の鳥居前から稲佐の浜前の島根県道29号線との分岐点に至る国道431号線のことを〝阿国の道〟というようです。旧街道である〝神迎の道〟は軒先が迫り出している家々の間をぬって走るような道であるのに対し、阿国の道は〝神迎の道バイパス〟かのように走りやすいまっすぐな道になります。
風情は確かにありませんが、その名の通り〝出雲阿国〟にまつわる史跡が道路脇に繋がる〝阿国の道〟は、旧暦10月10日の〝神迎の神事〟が行われる際に通行止にして神事を優先することから、〝新神迎の道〟もしくは〝神迎の道バイパス〟と言っても過言ではありません。
出雲大社連絡所バス停から稲佐の浜まで2km程の道のりですが歩きやすい道なので、必ず遅れるバスをあてにするより歩いた方が絶対にオススメです。- 旅行時期
- 2017年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 出雲大社前バス停すぐ。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時間や時期によりけりです。
- バリアフリー:
- 5.0
- 舗装はされています。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 風情はあまりありません。













































