濱口梧陵君紀徳碑
名所・史跡
3.30
濱口梧陵君紀徳碑 クチコミ・アクセス・周辺情報
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銚子:【稲むらの火:TSUNAMI(つなみ)】で知られた 濱口 梧陵(はまぐち ごりょう)翁の紀徳碑を見つけた。
5.0
- 旅行時期 2025/05
- by jijidarumaさん
濱口梧陵君紀徳碑 〒288-0811 千葉県銚子市妙見町461-8 妙見宮・妙福寺を出て来ると、道路を挟んで右手に... 続きを読むヤマサ醤油の本社工場がある。 銚子駅方面から来て、道路を右折し妙福寺に向かって真っすぐ行くと、左手にちょっとした森(ヤマサ醤油の敷地内であろう)があり、その木々の中にこの大きく、立派な紀徳碑(顕彰碑)が立っている。 意外に気付かずに通り過ぎてしまうのだが、偶々帰り道に道路を横切り、森側の歩道を歩いた。それで濱口 梧陵(はまぐち ごりょう)翁の碑に気付いて、こうした写真も撮れたのだが、翁は実業家・社会事業家・政治家といった人物像よりも*<稲むらの火>のエピソードで世界に知られた人だ。 【濱口 梧陵(はまぐち ごりょう)翁の紀徳碑(顕彰碑)】 勝海舟(伯爵 勝安芳 かつ やすよし)が題額を書いている紀徳碑(顕彰碑)の説明版がある。 紀徳碑(顕彰碑)の説明版の最後に簡単に書かれていたのが、*<稲むらの火>であり、ここであらためてWikiから引用・抜粋した。 また、情けないことだが、この事を*小泉八雲が小説化した事も初めて知った。 *小泉八雲「A Living God」 1896年(明治29年)、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、英語によって "A Living God " を著した。西洋と日本との「神」の考え方の違いについて触れた文章であり、この中で人並はずれた偉業を行ったことによって「生き神様」として慕われている紀州有田の農村の長「浜口五兵衛」の物語を紹介した。(Wiki) *稲むらの火 とは: 「稲むら」(稲叢)とは積み重ねられた稲の束のこと。稲は刈り取りのあと天日で干してから脱穀するが、上のように稲架(はさ)に架けられた状態を「稲むら」と呼ぶ。 ただし脱穀後の藁の山も「稲むら」と言うことがあり、史実で燃やされたのは脱穀後の藁である。(Wiki) 安政元年11月5日(1854年12月24日)夜、安政南海地震の津波が紀州有田郡広村(現・広川町)に襲来した後に、梧陵は自身の田にあった藁の山に火をつけて安全な高台にある広八幡神社への避難路を示す明かりとし、速やかに村人を誘導することができた。結果として村人の9割以上を救った(死者30人)。 津波から命を救えるかは、情報の伝達の速さが関わっているという教訓を残した。これをもとに作られた物語が『稲むらの火』として知られている。 この災害の後、梧陵は破損した橋を修理するなど復旧につとめたほか、当時では最大級の堤防・広村堤防を約4年かけて修造した。この大土木工事は、荒廃した被災地からの住民離散を防ぐ意味を持つとともに、将来再び襲来するであろう津波に備えての防災事業であった。広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て梧陵が私財を投じたものであり、のちに小泉八雲は彼を浜口五兵衛の名で小説化し、「生ける神(A Living God)」と賞賛している。 当時としては巨大な堤防の建設の際に「住民百世の安堵を図る」との言葉を残している。堤防完成から88年後の1946年(昭和21年)、広村を昭和南海地震の津波が襲ったが、この堤防のために被害を減らすことができた。 また、梧陵の活躍をたたえ、広村堤防には感恩碑(1933年建立)が建てられている。広川町では毎年11月に「津浪祭」を行い、梧陵の遺徳をしのぶとともに災害の記憶と災害への備えを伝えている。 大規模な津波被害が出た2004年12月のスマトラ島沖地震によって、『稲むらの火』の物語が想起されるとともに、そのモデルとなった史実の濱口梧陵の事績が注目された。 歴史情報番組『その時歴史が動いた』(NHK総合、2005年1月12日)では、「百世の安堵をはかれ 安政大地震・奇跡の復興劇」を放送し、広村堤防築造を中心に梧陵の生涯を紹介した。番組中で解説のゲストとして出演した河田惠昭(京都大学防災研究所教授)は、現代のように災害対策に関心が払われていない時代背景において、災害対策としての目的で、公共事業ではなく一民間人の発案と私財をもって広村堤防建設が実施されたことを、非常に画期的と評価している。 2005年のスマトラ沖地震津波後に開かれたASEAN緊急会議に出席した当時の【首相小泉純一郎は、シンガポール代表から濱口梧陵の功績を尋ねられたが、知識がなく答えることができなかった。】 2015年12月4日、国連総会第2委員会は日本を含む142か国の提案により、この逸話のもととなった11月5日を「世界津波の日」に制定することを全会一致で決めた。 ・・・・・ 濱口 梧陵(はまぐち ごりょう、文政3年6月15日(1820年7月24日)~ - 1885年(明治18年)4月21日)は、日本の実業家・社会事業家・政治家。 紀伊国有田郡広村(現・和歌山県有田郡広川町)出身。 広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て彼の私財で賄われた。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。駅逓頭や初代和歌山県会議長を務めた。 醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語*『稲むらの火』のモデルとしても知られる。 生い立ち: 紀州湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男として生まれる。12歳で本家(濱口儀兵衛家)の養子となって、銚子に移る。 その後、若くして見聞を広め、開国論者となった。海外留学を志願するが、開国直前の江戸幕府の受け容れるところとならず、30歳で帰郷して事業を行った。嘉永5年(1852年)、同業の濱口吉右衛門(東江)・岩崎重次郎(明岳)とともに広村に稽古場「耐久舎(たいきゅうしゃ)」(現在の和歌山県立耐久高等学校)を開設して後進の育成を図った。 嘉永7年(1854年)頃、七代目濱口儀兵衛を相続する。 ・・・・・ 【ヤマサ醤油株式会社(ヤマサしょうゆ)】 ヤマサ醤油株式会社は、千葉県銚子市に本社を置き、醤油・各種調味料の製造・販売を行う企業である。 七代目当主濱口梧陵が医学をはじめ社会貢献事業に尽力し、現在でも医薬品原体(原薬)・医薬中間品・医薬化成品・診断薬などの製造・販売を行っている。 沿革: 1645年(正保2年) 初代当主濱口儀兵衛が醤油発祥の地、紀州由良の隣町である紀州有田郡広村(現・広川町)から銚子に移住し、本場の醤油造りで創業した。 ・・・・・・・・・・・・ 今日は香取市の府馬の大クス、妙見宮・海上山妙福寺の「臥龍(がりゅう)の藤」を見に来た一日だったが、 思いもよらない「なんじゃもんじゃ(一つ葉タゴ)」の木や花の事や、ヤマサ醤油と濱口 梧陵翁の事績を知ったことで、大いに満足した小旅行となった。 (2025年5月3日Wiki・HP参考、編集追記) ・・・・・・・・・・ 尚、住所は記載された妙見町461-8の通りだが、 4Traの場所の表示が間違っている。 銚子市妙見町に印があるが、ここではない。 閉じる
クチコミ・評判
3.3
(2件のクチコミ)- アクセス:
- 4.25
- 人混みの少なさ:
- 5.00
- バリアフリー:
- 0.00
- 見ごたえ:
- 4.00
基本情報(地図・住所)
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