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bluejaysさんのクチコミ(18ページ)全1,027件

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  • 亀岡が生んだ謀叛人、明智光秀と出口王仁三郎

    投稿日 2015年06月30日

    亀山城跡 亀岡

    総合評価:5.0

    1578年、明智光秀によって丹波統治の拠点として築城された。1582年の本能寺の変の際、光秀はここから出陣している。
    明智家滅亡の後は、天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝・豊臣秀勝・小早川秀秋・前田玄以などが入った。
    1609年には岡部長盛が丹波亀山藩主として入封すし、近世城郭として大修築した。1748年以降は、形原松平氏が居城し明治まで続いた。
    大正時代に大本教が購入し、神殿を築いたが政府により爆破・破却され、土地も売却された(大本事件)。戦後大本教に返還され、今日に至っている。司馬遼太郎は、亀岡は明智光秀と出口王仁三郎という2人の謀叛人を出したと評した。

    旅行時期
    2014年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    1.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 首のない「光秀首塚」

    投稿日 2015年06月30日

    明智光秀の塚 東山・祇園・北白川

    総合評価:4.5

    小栗栖の村人が藪の中で光秀の首を見つけ、秀吉に届けた。秀吉はそれを、粟田口の刑場にさらした。
    光秀の首はその後、明智軍のほかの首とともに埋められ、塚が築かれた。1771年、光秀の子孫を名のる明田利右衛門が、石塔を白川の自宅に移し、光秀の木像と位牌を祀った祠を建て、菩提を弔ったという。以来首塚は、首から上の病気にご利益があるとして地元民の信仰の対象とされてきた。明治に入り、首塚は少し西の現在地に移された。
    「長存寺殿明窓玄智大禅定門」の光秀の戒名が刻まれた石碑は、明治36年に光秀を演じた歌舞伎役者の市川団蔵によって建立されたものである。
    かつて祠の中に光秀の遺骨が納められていたという伝承は、事実ではないし、「光秀首塚」の下に光秀の首はないことになる。

    旅行時期
    2014年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    4.5

  • 織田信忠、二条御新造で死す

    投稿日 2015年06月30日

    二条殿址 二条・烏丸・河原町

    総合評価:5.0

    織田信長は1576年4月に上洛した際、妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊した。寺の東隣には二条家の邸宅があったが、「洛中洛外図屏風」に描かれるほどの庭の眺望を気に入り、二条家に別の屋敷を提供したうえで、二条邸を譲り受けた。信長は村井貞勝に二条邸を改修させ、その後2年間はここを京の宿所とした。1579年以降は、皇太子誠仁親王を住まわせた。
    本能寺の変を知ったとき、織田信忠は妙覚寺に滞在していた。彼は本能寺に救援に向かおうとしたが、すでに炎上しており、逃走するよう側近に諭された。しかし信忠は、明智光秀ほどの者が包囲検問を怠るはずはなく、また父の仇を討つこともなく逃走すれば後世に恥を残すと考え、防備の弱い妙覚寺を出て、村井貞勝らとともに二条御新造に移った。だが実際には光秀は、本能寺は完全に包囲していたものの、京都の封鎖は完全ではなく、織田長益などは巧妙に脱出していた。
    信忠は、誠仁親王が退去するまで攻撃しないよう光秀に申し入れ、親王を脱出させると、少人数ながら頑強に抵抗した。やがて近くに滞在していた織田家家臣も次々と加勢して、明智軍を三度も退却させた。明智軍は最後の手段として、隣接する近衛前久邸の屋根から銃矢を放ち、側近のほとんどを倒した。自ら刀を持ち奮闘する信忠の姿は、かつての足利義輝を髣髴とさせる。しかし衆寡敵せず、最期は鎌田新介の介錯で自害した。

    旅行時期
    2014年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    5.0

  • 義経が修行したという

    投稿日 2015年06月30日

    鞍馬寺 八瀬・大原・貴船・鞍馬

    総合評価:4.0

    鞍馬山に生えている樹木が、堅い岩盤に阻まれ、根を地表に露出させている。木の根は生きているので、その上は踏まない方がいいそうだ。実際には非常に堅くつるつるしてすべりやすいので、根は避けて歩いた方が歩きやすい。

    旅行時期
    2014年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    2.0
    バリアフリー:
    1.0
    非常な悪路、スニーカー推奨

  • 牛若丸、京都を発つ

    投稿日 2015年06月30日

    首途八幡宮 今出川・北大路・北野

    総合評価:3.5

    1174年、鞍馬山を抜け出した牛若丸は、この地で金売吉次と落ち合い、屋敷近くの内野八幡宮で奥州への旅の安全を祈願したと言う。その後内野八幡宮は「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。一説には、金売吉次の屋敷跡とも言われる。

    旅行時期
    2014年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 弁慶が大切にしていた石

    投稿日 2015年06月30日

    弁慶石 二条・烏丸・河原町

    総合評価:3.0

    この界隈(今日の弁慶石町)に住んでいた弁慶が大切にしていた石で、弁慶の死亡時には奥州高館にあったが、石が「三条京極に行きたい」と鳴動し、付近に熱病が蔓延したので、人々は1454年、この石を三条京極に移したという。

    旅行時期
    2014年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 佐賀の七賢人

    投稿日 2015年06月29日

    蒼海伯副島種臣誕生地 佐賀市

    総合評価:4.5

    1828年、佐賀藩士枝吉南濠の二男として生まれる。1859年父の死により、副島利忠の養子となる。
    1864年長崎の致遠館で英語を学び、1867年には大隈重信とともに脱藩するが、捕らえられ謹慎処分を受けた。
    1871年に外務卿、1892年に内務大臣となった。

    旅行時期
    2014年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    4.0

  • 650メートル先に矢を命中

    投稿日 2015年06月28日

    本間重氏遠射之趾 神戸

    総合評価:5.0

    湊川の戦いで新田義貞が和田岬に布陣すると、沖に足利尊氏の軍船が現れた。このとき新田軍の本間重氏が、650メートル先にある軍船に向かって遠矢を放ち、命中させて両軍の喝采を浴びたと「太平記」に記されている。

    旅行時期
    2015年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    和田岬駅から徒歩4分
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 真木和泉らが自害

    投稿日 2015年06月28日

    十七烈士の墓 八幡・城陽

    総合評価:3.5

    真木和泉ら17名は蛤御門の変に敗れると、長州藩兵を逃がすため天王山に立て籠もり、しんがりを務めた。
    新選組は、陣取った場所が主戦場の京都御所から離れていたため、活躍することができなかったので、天王山で手柄を立てようと意気揚々だったが、真木和泉らはすでに自害していた。
    幕府は17名の墓を宝積寺に設置したが、明治元年天王山山頂に移された。なお、17名の中に長州藩士はいない。

    旅行時期
    2014年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    2.5
    人混みの少なさ:
    4.5
    バリアフリー:
    1.0
    山道
    見ごたえ:
    3.5

  • 大石内蔵助の妻

    投稿日 2015年06月28日

    大石りく生誕地 豊岡

    総合評価:5.0

    1669年、豊岡藩の筆頭家老石束毎公の長女としてこの地に生まれた。
    1687年、赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助良雄と結婚したが、赤穂藩が改易となると、夫は吉良邸討ち入りを画策し、妻に連座が及ばぬよう離縁したので、子供たちとともに豊岡の石束家で暮らした。吉良邸討ち入りが成功すると、討ち入りに参加した長男良金は切腹、長女くうと次男吉千代は若くして夭折したが、残った子らの名声は高まり、次女るりは広島藩浅野本家の浅野直道と結婚、三男良恭は浅野本家に仕官した。

    旅行時期
    2015年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    豊岡駅から徒歩20分
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 青蓮院塔頭金蔵寺跡

    投稿日 2015年06月28日

    坂本龍馬お龍「結婚式場」跡 東山・祇園・北白川

    総合評価:2.5

    海援隊士安岡金馬の子秀峰が、お龍から聞いた話をまとめた「反魂香」によると、お龍の父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師だった縁で、彼女と坂本龍馬は1864年、青蓮院塔頭金蔵寺で内々の結婚式を挙げたのだという。

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    2.5

  • 長篠の戦いで戦死

    投稿日 2015年06月28日

    馬場信房の墓 新城

    総合評価:2.5

    1575年、長篠の戦いに敗れて退却する武田勝頼を、しんがりとして守り戦死した馬場美濃守信房の首を埋めた地といわれている。
    「長篠合戦余話」によると、馬場信房殿戦忠死の碑と自然石の碑と二基あり、殿戦忠死の碑は1891年に建立されたが、自然石の方はそれ以前からあるのもので、文字が風化しており判読不能となっている。殿戦忠死の碑を建てたとき、墓石の下から数片の骨片と素焼の皿2枚が出土したので、しばらくの参観させていたが、苦情が出たので瓶に納め埋葬したという。

    旅行時期
    2014年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    2.5

  • 新田義貞首塚

    投稿日 2015年06月28日

    滝口寺 嵐山・嵯峨野・太秦・桂

    総合評価:4.5

    往生院は平安時代に創建され、かつては数多くの坊が建ち並んでいたが、その後祇王寺と三宝寺のみが残った。1868年の廃仏毀釈により廃寺となったが、昭和に再興され、滝口入道に因んで国文学者の佐佐木信綱が寺号を「滝口寺」と名付けた。
    越前で戦死した新田義貞の首は京都で晒されたが、妻の勾当内侍が盗み出し、往生院に葬ったという。

    旅行時期
    2014年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    非常に少ない
    バリアフリー:
    1.0
    見ごたえ:
    4.5

  • 足利高氏旗揚げの地

    投稿日 2015年06月28日

    篠村八幡宮 亀岡

    総合評価:5.0

    篠村八幡宮は1071年、応神天皇陵を守護する誉田八幡宮から、源頼義が勧請して創建された。
    1333年足利高氏は、反幕府勢力を討伐するよう命ぜられ鎌倉を発ったが、高氏の祖先八幡太郎義家を祭神に祀る篠村八幡に陣を張ったまま、動かなくなった。
    4月29日になって、すでに後醍醐天皇からの綸旨を受けていた高氏は、ついにこの地で尊王討幕を宣言し、5月7日に六波羅探題を攻め滅ぼした。
    旗立揚は、このとき源氏の白旗を立てた揚で、現在のものは数代目。
    矢塚は、足利高氏が必勝祈願の願文を奉じた後、玉串に代えて鏑矢を奉納したところ、弟の直義以下並居る武将達が次々と、戦勝祈願を込めて鏑矢を奉奠し、これらを納めた場所である。

    旅行時期
    2014年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    5.0

  • 近藤勇遭難の地

    投稿日 2015年06月27日

    料亭旅館清和荘 伏見

    総合評価:4.5

    清和荘の前に「近藤勇遭難の地」碑がある。
    新選組局長近藤勇は1867年12月18日、京都町奉行所若年寄永井玄蕃守との軍議のため二条城に赴き、伏見奉行所に帰る途中、御陵衛士の残党に狙撃された。弾は左肩に命中したが命に別状はなく、そのまま伏見奉行所に駆け込んだものの、その後の指揮は副長の土方歳三が取ることになった。
    狙撃地点は特定されていないものの、伏見街道と墨染通の交差点付近と考えられており、そうだとすれば墨染駅の東側ということになる。

    旅行時期
    2014年10月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5

  • 山本邸および吉田稔麿終焉の地

    投稿日 2015年06月27日

    山本覚馬 八重邸跡 (吉田稔麿終焉の地) 二条・烏丸・河原町

    総合評価:5.0

    京都府顧問となった山本覚馬は、京都府権大参事槙村正直邸の隣に、新門辰五郎の土地を購入して居を構えた。その場所は、八重の回想録に「その頃私達は河原町通りの京都ホテルの前で、大黒屋書店の南隣に居りました」、また「山本覚馬伝」に「河原町御池下ル即ち今の京都ホテルの西南向ひの家に移られた」と記されていることから、河原町通西側に面した現在の御池通路上であったと考えられる。

    またこの碑は、池田屋事件における吉田稔麿終焉の地をも示している。
    いったん池田屋に入った吉田稔麿は、長州藩邸に戻るが、池田屋が新選組に襲撃されたという知らせを聞き、池田屋に向かう途中、加賀藩邸前で会津藩兵に遭遇し討ち死にしたという。
    別の説では、池田屋が襲撃を受けたことを長州藩邸に知らせに走ったが、門が開けられなかったため門前で自刃したともいわれる。

    旅行時期
    2014年05月
    アクセス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 明保野亭事件

    投稿日 2015年06月27日

    明保野亭 東山・祇園・北白川

    総合評価:4.0

    幕府から池田屋事件の残党の捜索を命じられた新選組は、明保野亭に長州系浪士が潜伏しているとの情報を得た。そこで新選組隊士と会津藩士が明保野亭に踏み込むと、座敷にいた武士が逃げようとしたため、会津藩士の柴司が背後から槍で突いた(明保野亭事件)。
    だが傷を負ったのは、長州藩士ではなく土佐藩士の麻田時太郎だった。土佐藩は山内容堂が公武合体を支持しており、会津藩との対立を避け穏便に解決しようとして、麻田が逃走を図り武士として恥ずべき後ろ傷を受けたことを咎め、切腹させる。
    だが土佐勤王党などの倒幕勢力は、これを不公平な処理とみなして反発し、報復を主張し始めたので、土佐藩と会津藩の武力衝突に発展しかねない事態となった。
    会津藩も京都守護職という立場上、他藩と抗争するわけにはいかず、さりとて幕府の職務で行ったことを罰することもできず、対応に窮した。そこで柴は藩の苦境を救うため、自主的に切腹した。

    旅行時期
    2014年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    雰囲気:
    4.5
    バリアフリー:
    1.0
    階段多い
    観光客向け度:
    5.0

  • 佐久間象山は路上、大村益次郎は向かいの宿で遭難

    投稿日 2015年06月27日

    佐久間象山 大村益次郎遭難の碑 二条・烏丸・河原町

    総合評価:5.0

    向かって右が佐久間象山遭難地碑、左が大村益次郎遭難地碑。
    徳川慶喜に開国を説くため上洛していた佐久間象山は、普段から洋装して西洋式の鞍にまたがり都大路を闊歩していたため、攘夷派の標的にされた。彼は1864年7月11日、この付近で河上彦斎らに襲われ、死亡した。象山の首は翌日、三条河原に晒された。
    記念碑は広誠院の敷地南端に設置されているが、象山が襲われたのは高瀬川対岸の木屋町通りの路上である。文献では「三条木屋町」とあるが、今日の街路では「木屋町通り御池上ル」である。日の出新聞の記事では「吉冨前」とあり、おおむね記念碑の対岸に該当する。

    大村益次郎は1869年9月4日、木屋町の旅宿で刺客に襲われ重傷を負い、高瀬川から舟に乗って大阪の病院に収容され、そこで死亡した。
    記念碑の対岸の路上に「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」という石碑があり、そこが旅宿の跡を示しているが、彼が死亡したのはこの地ではない。

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    5.0

  • もとは長州藩控屋敷

    投稿日 2015年06月27日

    桂小五郎・幾松寓居跡 二条・烏丸・河原町

    総合評価:5.0

    もとは長州藩控屋敷で、鴨川へ通じる抜け道や吊り天井が今も残っている。後に木戸孝允の別邸となり、幾松とともに暮らした。幾松の間にはかつて、天井に大きな石が仕掛けられていた。現在は旅館幾松。
    なおここは長州藩控屋敷だったので、幾松が芸妓として勤めていたのは三本木の吉田屋である。

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    見ごたえ:
    5.0

  • わが国初の人体解剖

    投稿日 2015年06月27日

    六角獄舎跡 (三条新地牢屋敷) 二条・烏丸・河原町

    総合評価:5.0

    1708年の京都大火の後、京都の左獄が六角通りに移転し「六角獄舎」と呼ばれるようになった。当時は懲役・禁錮という発想はなく、獄舎は未決囚の拘置及び死刑囚の処刑を行う場所だった。

    1754年、京都所司代の許しを得て、山脇東洋がこの地でわが国初の腑分けを行った。解剖したのは死刑囚の遺体であった。
    山脇東洋は、京都府亀山市の医家に生まれた。カワウソの解剖から、漢方医学に伝わる五臓六腑説に疑問を抱き、人体解剖によって蘭書の正確性を確認するとともに、五臓六腑説の誤謬を指摘した。1759年解剖図録「蔵志」を刊行し、杉田玄白らに大きな影響を与えた。

    1864年、長州藩が武力で御所突入を図った禁門の変により、京都市中に火災が広がり(どんどん焼け)、六角獄舎にも及ぶ勢いを見せた。火災の際には囚人は解放するのが通例だが、京都町奉行は囚人の中に過激な勤皇派の志士たちがいるのを見て、囚人33人の処刑を断行した。古高俊太郎や生野の変の首謀者平野国臣も処刑されたが、火は堀川で止まり結局六角獄舎には及ばなかった。

    旅行時期
    2014年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    5.0

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