bluejaysさんのクチコミ(16ページ)全1,027件
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投稿日 2015年07月12日
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投稿日 2015年07月12日
総合評価:4.0
壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は御裳川で引き上げられ、赤間関に埋葬された。そして源頼朝が壇ノ浦の戦いの翌年、安徳天皇の怨霊を鎮めるため阿弥陀寺を建てた。1191年、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させたのが赤間神宮の始まりである。建礼門院が、安徳天皇や二位尼が竜宮城にいる夢を見たことにちなみ、竜宮城を再現した竜宮造りとなっている。
明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。1875年赤間宮と改称し、官幣中社に列格した。1940年には官幣大社に昇格し、赤間神宮と改称した。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 1.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年07月12日
総合評価:4.5
壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は御裳川で引き上げられ、赤間関に埋葬された。そして源頼朝が壇ノ浦の戦いの翌年、安徳天皇の怨霊を鎮めるため阿弥陀寺を建てた。
明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。また歴代天皇陵の治定が進むなか、安徳天皇陵も多くの伝承地の中から、この境内のものが阿弥陀寺陵として公式に治定された。
江戸時代までは「安徳天皇御影堂」と称し、仏式で祀られていた。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- バリアフリー:
- 1.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年07月28日
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投稿日 2015年07月26日
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投稿日 2015年07月26日
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投稿日 2015年07月26日
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投稿日 2015年07月26日
総合評価:5.0
古くは本行寺と称した真言宗の寺院だったが、1294年日像が日蓮宗に改宗した。日勢上人が天文年間に「正悦山 妙行寺」と改め再興した。1610年、加藤清正が名古屋城築城の際に余った資材を用い、妙行寺を自分の生誕地に移築した。
加藤清正は1562年、刀鍛冶加藤清忠の子として生まれた。母は豊臣秀吉の母大政所の従姉妹だったと言われている。父は清正の幼いときに死去したため、母とともに津島で暮らした。1573年、長浜城主となった秀吉に小姓として仕え、後に熊本藩主となった。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月26日
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投稿日 2015年07月23日
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投稿日 2015年07月23日
総合評価:4.0
この辺りはかつて平安京大内裏で、この地には大嘗祭に使用される品物を保管する蘭林坊があった。ところが火災のため内裏は別の地に移転し、この地は「内野」と呼ばれるようになり、建物を建てることは憚られ、荒野になった。
安土桃山時代になって、豊臣秀吉が天下人であることを意識し、1587年あえて京都の中心であるこの地に聚楽第を建設した。
この地には、秀吉の甥で養子になった豊臣秀勝の邸宅があったと考えられている。秀勝は妻の江とともにこの地で暮らし、娘完子を生んだ。だが秀勝は1592年朝鮮で急死し、江は1595年に徳川秀忠と再婚するが、完子は豊臣家の娘として母について行くことを許されなかたため、その姉の茶茶のもとで養育された。彼女は1604年に九条忠栄に嫁ぎ、その子孫は大正天皇后となり、現在の皇室に続いている。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年07月23日
平清盛終焉推定地 高倉天皇誕生地 (平盛国邸跡推定地) 京都駅周辺
総合評価:4.5
平盛国は平盛康の子で、清盛の側近であった。
平安末期には八条通に平家の邸宅が建ち並んでおり、盛国邸は「師元朝臣記」によると、八条河原口にあった。清盛は1181年、盛国邸で死亡した。
壇ノ浦の戦いで平家が敗れると、盛国は捕虜となって鎌倉に送られた。盛国は飲食を絶ち、1186年に餓死した。
高倉天皇は、清盛の妻の妹滋子と後白河法皇の子として、この付近で生まれたとされる。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年07月23日
総合評価:3.5
坂本龍馬の妻お龍は、楢崎将作の長女として1841年、京都の富小路六角に生まれた。将作はその後ここ柳馬場三条で開業医となったが、勤皇の志士たちと交流したため安政の大獄で捕えられ獄死した。
龍馬との出会いは寺田屋で奉公していたときとも、また妹君江が土佐藩の賄いをしていた縁とも言われる。
龍馬の死後は姉乙女のもとに身を寄せるが、気性の激しい者同士で合わず、1年ほどでそこを去り、東京に上り西郷隆盛らを頼るが、生活は貧しかった。
明治に入り、小説「汗血千里の駒」が出版されると龍馬は時の人となったが、お龍はそれを読むまで龍馬が何をした人か知らなかったという。
その後は名を「ツル」と改め、1875年横須賀の商人西村松兵衛と再婚。妹の息子を養子にとり、母と妹を呼び寄せて暮らしたが、養子と母は他界し、松兵衛と妹が家を出て独り暮らしとなった。俗説ではツルは酒浸りとなり、「私は龍馬の妻だった」が口癖だったと伝わる。
横須賀にある墓には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子墓」(原文ママ)と刻まれている。松兵衛とは別の墓に葬られている。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2015年07月23日
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投稿日 2015年07月23日
総合評価:5.0
鞍馬寺は、源義朝が平治の乱に敗れ、その子牛若丸が預けられ修行した寺で、彼にまつわる遺跡がいくつかある。
東光坊跡は、牛若丸が7歳から17歳まで暮らし、文武の修行に励んだ場所。現在は義経供養塔がある。義経息つぎの水は、牛若丸が僧正ヶ谷に通うとき、この喉を潤したという湧き水。義経背比べ石は、牛若丸が奥州に下るとき別れを惜しんで背を比べた石と言われている。- 旅行時期
- 2014年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 1.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月23日
総合評価:5.0
源義朝は我が子を身ごもった常磐御前のため、上野新兵衛に土地を与え、その屋敷で牛若丸を産ませたという。牛若丸の産湯に使ったという井戸は、今も涸れていない。琵琶湖の竹生島弁財天が勧請され、江戸時代末までは牛若丸産湯弁財天女社が祀られていたという。
この地は明治期に農地になったが、同じ畑にある松の木の根元には、牛若丸の臍の緒を祀ったとされる胞衣塚も残っている。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月23日
総合評価:5.0
平安時代、この地には源義朝の別邸があり、源義経が生まれたときその井戸を産湯に使ったという。安土・桃山時代には大徳寺の末寺・大源庵が創建されたが、1878年廃寺となり、竹林になった。
1925年、紫竹地区の土地改良で井泉が取り壊され、翌年「源義経産湯井ノ遺跡」碑が建立された。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月23日
総合評価:4.5
古高俊太郎は1829年、大津代官所の手代古高周蔵の子として、栗太郡古高村(今の守山市)に生まれた。尊王攘夷派の梅田雲浜に弟子入りし、1861年諸藩御用達の枡屋を継ぎ、枡屋喜右衛門を名乗る。古道具、馬具を商いながら尊王攘夷派と交流し、長州の武器調達にあたった。
1864年新選組の捜索を受け、諸藩浪士の書簡と武器を発見される。壬生の屯所(前川邸の蔵)に連行された彼は逆さ吊りにされ、足の甲から五寸釘を打たれ、それが突き抜けた足の裏に火のついた蝋燭を立てられるという壮絶な拷問を受けた。そして彼が自白した内容は、御所に火を放ち中川宮を幽閉し、松平容保ら佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ拉致するというものだった。池田屋事件はこれを阻止するために起きたものだが、古高の自白には史料的裏づけがなく、拷問により誘導されたか、新選組による捏造の疑いが強い。
古高は六角獄舎に収容されたが、禁門の変で火災が獄舎近くまで迫ったとき、逃亡を恐れた役人により斬首された。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年07月23日
総合評価:5.0
鳥羽・伏見の戦いの古戦場。新選組の井上源三郎は、この辺りで戦死した。
昭和47年、道路拡張工事のため慰霊碑を一時撤去したところ、ダンダラ模様の制服を着た新選組隊士の幽霊が現れたことは、京都新聞の記事にもなった。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月23日
総合評価:4.5
坂本龍馬は、海援隊の伊呂波丸が紀州藩の明光に衝突され沈没した事件で、巨額の賠償金を紀州藩に要求していた。それゆえ土佐藩士たちは、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された事件は紀州藩の三浦休太郎の仕業と考えた。土佐藩士は三浦の暗殺を企図し、三浦は新選組に警護を依頼した。
1868年12月7日、三浦と新選組6名が天満屋2階にいたところを、海援隊・陸援隊士ら16名が襲撃した。まず十津川郷士中井庄五郎が「三浦氏は其許か」と声をかけ、「左様」という返答を聞くやただちに斬りつけた。三浦は頬を斬られ、中井は新選組隊士に片腕を切り落とされた。燈火は消され、暗闇での乱闘となり、やがて「三浦を討ち取ったり」の一言が闇の中に響きわたると、襲撃者たちはいっせいに退散した。しかしその言葉は新選組の機転により発せられたものであり、三浦のものと思われていた首は実は中井庄五郎の首であった。中井の首は無惨にも、仲間によって古井戸に投げ捨てられた。中井の首を刎ねたのは斎藤一だったという。
この事件で襲撃側では中井庄五郎が死亡、新選組は近藤勇の従兄弟宮川信吉と船津釜太郎が死亡した。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.5























