bluejaysさんのクチコミ(15ページ)全1,027件
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投稿日 2015年07月19日
総合評価:3.5
来島又兵衛は1817年、喜多村政倫の次男として生まれ、1836年に来島又兵衛政常の婿養子となった。1863年に高杉晋作が奇兵隊を創設すると、又兵衛は遊撃隊を組織し連携した。
八月十八日の政変で長州が失脚すると、又兵衛は京への出兵を強行に主張した。こうして起こった1864年の禁門の変で、又兵衛は風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、蛤御門付近で戦った。だが薩摩の川路利良に狙撃され、助からないと悟ると甥の喜多村武七に介錯を命じ、自害した。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2015年07月19日
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投稿日 2015年07月19日
総合評価:4.0
1867年、新政府軍が倒幕のため挙兵したと聞くと、三田尻の荒瀬ゆり子宅に身を寄せていた野村望東尼は、7日間防府天満宮に参籠し、 断食をして、新政府軍の戦勝を祈願した。しかし老齢の身に7日間の断食は過酷であり、病に倒れ死去した。
望東尼が暮らした荒瀬家の離れは、大楽寺の下に移されて「終焉の宅」として県の史跡に指定された。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年07月19日
総合評価:5.0
伊藤博文は1841年、山口県光市束荷の農家林家に生まれた。幼名は林利助、後に俊輔と名乗った。父十蔵が長州藩の中間水井武兵衛の養子となり、武兵衛が足軽伊藤弥右衛門の養子となったため、十蔵・俊輔父子も足軽となり伊藤姓を称した。
生家の敷地は207坪とかなり広いが、当時はそのほとんどが畑で、母屋は30坪だったという。一家が萩に転居した翌年、暴風雨のため倒壊したが、1919年に復元された。
旧伊藤邸はモルタル2階建ての洋館で、1909年に着工し翌年完成したが、彼はその前年にハルピンで暗殺されたため、完成を見ることはなかった。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月19日
総合評価:5.0
乃木希典は1849年、江戸の長府藩邸で生まれた。10歳のとき父が忌避に触れ、家禄半減・国元での閉門を命じられたため、一家は長府に戻り、この地にあった小さな家に暮らした。部屋は6畳と3畳の2部屋で、2坪の土間があるのみである。
1914年、この地で旧邸が復元され、1920年にはこの周辺が乃木神社となった。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月17日
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投稿日 2015年07月17日
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投稿日 2015年07月17日
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投稿日 2015年07月16日
総合評価:4.0
高畑は壇ノ浦を臨む山の上にあり、平家の落人が落ち延びた集落と言われている。平家塚はその落人の墓と伝えられているもので、古い五輪塔が数基ある。この地は「平家藪」と呼ばれ、かつてはここに入ると祟りがあると言われていた。
旗かけの松は、平家の落武者が赤旗を立てかけたと言われる松で、当時の松は枯れたが、新しい松が植えつがれている。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 1.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年07月16日
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投稿日 2015年07月16日
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投稿日 2015年07月16日
総合評価:5.0
奇兵隊は1863年の下関戦争の後、高杉晋作によって結成された。本拠地は下関の廻船問屋白石正一郎邸に置かれた。
白石正一郎は廻船問屋小倉屋を営むいっぽう、国学者鈴木重開の門下に入り、尊王攘夷論者となった。高杉晋作の奇兵隊結成を援助し、自身も入隊して会計方を務め、その後士分に取り立てられた。
1862年に坂本龍馬が脱藩したとき、4月1日に下関の白石正一郎宅に着いたと「坂本龍馬海援隊始末」には書かれているが、この本は坂崎紫瀾がまとめたもので、「白石正一郎日記」にはその記述はないから、どうやら坂崎の創作らしい。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月16日
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投稿日 2015年07月16日
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投稿日 2015年07月14日
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投稿日 2015年07月13日
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投稿日 2015年07月13日
総合評価:4.5
毛利綱元が元禄年間に、海峡を望む景勝地である前田に御茶屋を造ったが、幕末には撤去され、攘夷のための砲台が築かれた。
長州藩は1863年、フランス軍の攻撃を受けた。前田砲台は当時は低台場だけで、フランス軍は前田に上陸すると砲台を破壊した。
その後、奇兵隊により低台場の補修と高台場の急造が行われた。
1864年には、四国連合艦隊の攻撃を受けた。大砲は持ち去られ、前田集落は焼き払われた。長州の死者は31人だったが、そのうち武士は5人しかいなかった。
馬関戦争に敗れた長州藩は、攘夷が不可能なことを思い知り、攘夷から開国・倒幕へと藩論を大きく転換することになる。
フランス軍に接収された大砲のうち1門は、アンバリット軍事博物館の厚意により、下関市立長府博物館に永久貸与の形で展示されている。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 人はいない
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年07月13日
総合評価:5.0
功山寺は1327年、長福寺として創建された。1557年に大内義長が境内で自害すると、寺は衰退したが、1602年毛利秀元によって再興された。1650年には、功山寺に改名された。
禁門の変により長州藩は朝敵となり、第一次長州征伐の結果三家老が切腹し、藩政の実権は俗論派が握ることとなった。俗論派は、功山寺に潜居していた五卿を追放しようと謀った。
これを聞いた高杉晋作は1865年12月15日、奇兵隊にクーデター決起を促した。彼は赤穂浪士討ち入りの日を決行日にしようとしたが、事情により翌日にずれこんだ。
長州藩正規軍は圧倒的多数であり、当日功山寺に集結したのは、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊のわずか84人であった。だが高杉軍が下関新地会所の占拠に成功すると、奇兵隊の他の部隊や、義勇兵も加わり、高杉軍は長州軍を打ち破り、藩論を倒幕に統一する。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月12日
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投稿日 2015年07月12日
























