二条殿址
名所・史跡
3.30
クチコミ・評判
1~11件(全11件中)
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信長の屋敷跡
- 3.0
- 旅行時期:2023/03(約3年前)
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二条殿址
- 3.0
- 旅行時期:2022/09(約3年前)
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歴史の重要場面に立ち会った建物の遺構
- 3.5
- 旅行時期:2020/12(約5年前)
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碑のみ
- 3.0
- 旅行時期:2020/11(約5年前)
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石碑が残るだけです
- 3.5
- 旅行時期:2020/07(約5年前)
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二条良基の邸宅
- 3.0
- 旅行時期:2020/07(約5年前)
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ここにも京都の歴史が!
- 3.5
- 旅行時期:2020/05(約6年前)
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織田信忠自害の地
- 2.5
- 旅行時期:2019/08(約6年前)
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本能寺の変の際に織田信忠が自害した二条御所
- 3.5
- 旅行時期:2017/07(約8年前)
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二条殿の邸宅跡を示す石標
- 2.0
- 旅行時期:2015/04(約11年前)
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織田信忠、二条御新造で死す
- 5.0
- 旅行時期:2014/05(約12年前)
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織田信長は1576年4月に上洛した際、妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊した。寺の東隣には二条家の邸宅があったが、「洛中洛外... 続きを読む図屏風」に描かれるほどの庭の眺望を気に入り、二条家に別の屋敷を提供したうえで、二条邸を譲り受けた。信長は村井貞勝に二条邸を改修させ、その後2年間はここを京の宿所とした。1579年以降は、皇太子誠仁親王を住まわせた。
本能寺の変を知ったとき、織田信忠は妙覚寺に滞在していた。彼は本能寺に救援に向かおうとしたが、すでに炎上しており、逃走するよう側近に諭された。しかし信忠は、明智光秀ほどの者が包囲検問を怠るはずはなく、また父の仇を討つこともなく逃走すれば後世に恥を残すと考え、防備の弱い妙覚寺を出て、村井貞勝らとともに二条御新造に移った。だが実際には光秀は、本能寺は完全に包囲していたものの、京都の封鎖は完全ではなく、織田長益などは巧妙に脱出していた。
信忠は、誠仁親王が退去するまで攻撃しないよう光秀に申し入れ、親王を脱出させると、少人数ながら頑強に抵抗した。やがて近くに滞在していた織田家家臣も次々と加勢して、明智軍を三度も退却させた。明智軍は最後の手段として、隣接する近衛前久邸の屋根から銃矢を放ち、側近のほとんどを倒した。自ら刀を持ち奮闘する信忠の姿は、かつての足利義輝を髣髴とさせる。しかし衆寡敵せず、最期は鎌田新介の介錯で自害した。 閉じる投稿日:2015/06/30
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