bluejaysさんのクチコミ(21ページ)全1,027件
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投稿日 2015年06月24日
総合評価:5.0
上和田の城主宇都宮泰藤が眠っているとき、大蛇が来たので、彼の犬が吠えたが、彼は眠りを妨げられたので怒り、刀で犬の首を刎ねた。すると犬の首は舞い上がり大蛇を噛み殺したので、彼は後悔して犬の霊を慰めるため犬頭神社を作ったのだと言われる。
ところが実際は、京都で晒された新田義貞の首を宇都宮泰藤が奪い、この神社の池に埋め、首塚を築いたことを隠蔽するため、犬頭伝説を流布させたともいう。犬頭神社の池には、今も新田義貞のものと伝えられる首塚がある。
この地はまた、本多作左衛門重次の生誕地でもある。1563年の三河一向一揆の際には、当初門徒側についたが改宗して家康方に寝返り、上和田の塞投の地に知行を与えられた。1565年には天野康景・高力清長とともに「三河三奉行」に任ぜられるが、彼は公正かつ法に厳格で、主君家康にすら諫言した。戦場では勇猛果敢に戦い、片目・片足と何本かの指を失い「鬼作左」と言われた。
1586年、秀吉が家康を上洛させる代償として母大政所を人質に差し出したとき、重次は彼女を粗略に扱い、屋敷の周辺に薪を積みあげて、家康の身に何かあればただちに焼き殺す姿勢を見せた。また秀吉が小田原征伐からの帰り道に岡崎城に立ち寄った際、城将の重次は三度も使者を遣わされたが迎えに現れず、秀吉の怒りをかい、上総古井戸3000石にて蟄居を命じられた。
だが家康は重次の功を忘れず、天下人となったとき彼の子本多成重を丸岡城主にした。
長篠の合戦のおり、陣中から妻あてに書いた「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」は、簡潔明瞭な手紙として知られる。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 岡崎駅から1.2キロ
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月24日
総合評価:4.5
大林氏は奥平氏の分家筋で、父の代から大林氏を名乗ったという。
貞次は牛窪城主牧野成勝の家老で、子がなかったため縁のある山本貞幸の四男源助(後の勘助)を養子にした。ところが、勘助が諸国を放浪している間に実子が誕生したため、勘助を廃嫡したという。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 牛久保駅から徒歩5分
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年06月24日
総合評価:4.0
1535年、丹羽長政の次男として生まれる。丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は1550年から織田信長に仕えた。斎藤征伐・六角征伐・高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆征伐などで武功を挙げ、また軍事面だけではなく安土城の普請奉行としても評価された。
1571年、佐和山城を陥落させてその城主となり、さらに若狭一国を与えられる。1581年の京都御馬揃えにおいても、一番に入場するという栄誉にあずかり、柴田勝家に続く二番家老の席次を認められた。いわゆる「織田四天王」の一人である。
本能寺の変の後は、秀吉に同調するようになり、実質的に家臣と見られていたようだ。1583年の賤ヶ岳の戦いでも秀吉に味方し、若狭に加え越前と加賀二郡を与えられ、123万石の大大名となった。
1585年、胃癌のため死去したとされる。一説によると、織田家をないがしろにする秀吉に抗議して、切腹し内臓を秀吉に送りつけたともいわれる。
息子長重は関ヶ原の戦いで西軍に加担し改易されたが、後に江戸崎藩主、棚倉藩主、白河藩主として返り咲いた。長重の息子光重は二本松藩主となり、明治まで続いた。織田四天王のうち、明治まで大名家として残ったのは丹羽家だけである。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年06月22日
総合評価:4.0
緑町公園一帯が江川太郎左衛門英龍の屋敷跡であり、彼が没した地でもある。
帰国したジョン万次郎は江川の配下となり、彼の邸内にある長屋で暮らし、彼の塾で英語や航海術を教えた。万次郎は、この地で妻との祝言を挙げている。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年06月22日
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投稿日 2015年06月22日
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投稿日 2015年06月22日
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投稿日 2015年06月22日
総合評価:4.5
1936年2月26日、野中四郎大尉に率いられた陸軍兵士1500名が決起し、首相官邸や要人私邸を襲って斎藤実内大臣・高橋是清大蔵大臣・渡辺錠太郎教育総監らを殺害した後、首相官邸・陸軍省・警視庁などを占領した。
反乱部隊は29日までに原隊に帰り、首謀者の野中大尉・河野大尉は自決した。青年将校17名と、その精神的指導者とされた北一輝と西田税は、この地にあった東京陸軍刑務所で銃殺された。
1965年に建立された慰霊碑は、刑死した19人と自決した大尉2人のほか、警察官など二・二六事件の犠牲者と合わせて、この地で刑死した永田事件の犯人相沢三郎中佐の霊を慰めるものである。
現在は渋谷合同庁舎。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年06月21日
総合評価:5.0
宮後城は、土岐氏が美濃・尾張を支配した応永年間に安井氏が居城していたが、蜂須賀正勝(小六)の母が安井氏の娘だったため、父の死後蜂須賀城を出て、宮後城に入った。彼はこの地で木曽周辺を支配し、川並衆の長として勢力を拡大し、木下藤吉郎の側近となった。正勝の子で徳島藩開祖の家政は、ここ宮後城で生まれたと考えられている。
宮後城はその後、小牧・長久手の戦いの際に秀吉が城域を拡大し、外堀を築き二重掘としたが、戦いの後に廃城となった。
浅野長政は安井弥兵衛の長男であり、この地で生まれたとする説がある。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月21日
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投稿日 2015年06月21日
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投稿日 2015年06月21日
総合評価:3.5
寺之内通の宝鏡寺門前を「百々の辻」と呼ぶようになったのは平安時代からだが、小川にかかるこの小橋が有名になったのは、戦国時代の合戦以降である。
1467年に発生した応仁の乱で、東軍と西軍が百々橋を挟んで戦った。ここから一条戻り橋付近まで、一帯が焼失した。
それから40年後、細川勝元の子政元の跡嗣をめぐって、養子の澄元と澄之が対立した。1507年澄之は養父政元を殺し、百々橋で澄元と戦った。澄元は近江へ敗走したが、後に京都に戻り、澄之を滅ぼした。
小川は1963年に埋められ、百々橋も消滅したが、礎石はこの地のほか、室町小学校と洛西竹林公園に展示されている。- 旅行時期
- 2014年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2015年06月21日
総合評価:5.0
「五山の送り火」は毎年8月16日に行われ、京都四大行事の一つとされている。
大文字(左京区浄土寺・大文字山。20時00分点火)
妙・法(左京区松ヶ崎・西山および東山。20時10分点火)
舟形(北区西賀茂・船山。20時15分点火)
左大文字(北区大北山・左大文字山。20時15分点火)
鳥居形(右京区嵯峨鳥居本・曼陀羅山。20時20分点火)
送り火の起源は一説によると1489年、足利義政が病死した息子義尚の冥福を祈るために始めたといわれる。このほか弘法大師が始めたという説や、近衛信尹が始めたとする説もある。- 旅行時期
- 2014年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 1.5
- 人混みの少なさ:
- 1.0
- 催し物の規模:
- 4.5
- 雰囲気:
- 5.0
- バリアフリー:
- 1.0
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投稿日 2015年06月21日
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投稿日 2015年06月21日
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投稿日 2015年06月21日
総合評価:4.0
木之本では室町時代から昭和初期まで、北国街道筋の民家を宿として牛馬市が開かれていた。近江をはじめ但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭などから数百頭以上の牛馬が集まったという。山内一豊が妻の機転で名馬を購入したのは、この地であると言われている。
内部非公開。- 旅行時期
- 2014年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年06月20日
総合評価:3.5
福沢諭吉は1835年、大坂堂島の中津藩蔵屋敷で、下級藩士福沢百助の末子として生まれた。幼時は叔父中村術平の養子となり中村姓を名乗っていたが、後に福沢姓に復した。
彼はご存知慶応義塾の創始者で、この地にはかつて慶応義塾大学大阪キャンパスがあった。- 旅行時期
- 2015年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2015年06月20日
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投稿日 2015年06月20日
総合評価:4.5
建武年間に楠木正成が築いたのが始まりとされる。
茨木氏は文安年間より台頭していたと考えられており、茨木重朝は1568年、織田信長の摂津入国の際に臣従し、摂津三守護の一人に任じられた。だが1571年、白井河原の戦いで重朝が戦死し、茨木城も陥落して茨木氏は滅んだ。
茨木城はその後中川清秀が城主となるが、賤ヶ岳の戦いで華々しく戦死し、その子秀政は播磨三木城へ加増のうえ移封される。茨木城はその後秀吉の直轄地となり、秀吉の代官が入っていたが、関ヶ原の合戦の後片桐且元が城主となる。
1614年方広寺鐘銘事件が起き、且元は秀頼の名代として仲裁に奔走するが、徳川に内通しているという疑いをもたれ、大坂城を追放される。さらに豊臣家から攻撃を受けた且元は、ここに至り徳川に寝返ることを決意し、大坂城の内部構造などを詳細に教えた。だが大坂城落城の20日後に、謎の死を遂げる。
江戸幕府の一国一城令により、摂津では高槻城のみが残ることとなり、茨木城は1616年に破却された。
本丸は茨木小学校付近にあったとされ、復元された櫓門が正門となっている。- 旅行時期
- 2015年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年06月18日























