六角獄舎跡 (三条新地牢屋敷)
名所・史跡
3.31
クチコミ・評判
1~12件(全12件中)
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あまり気持ちのいいものではありません
- 3.5
- 旅行時期:2023/06(約3年前)
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死刑囚を使い 日本初の解剖実験
- 3.0
- 旅行時期:2022/11(約3年前)
- 1
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日本初の人体解剖がここで!
- 3.5
- 旅行時期:2022/09(約3年前)
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沢山の石碑が建っています
- 4.0
- 旅行時期:2022/09(約3年前)
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三条商店街から南へ下がったところにある武信稲荷神社のすぐ近く(マンションの入り口付近)には数々の石碑が建っています。六角獄... 続きを読む舎は正式には三条新地牢屋敷といい、場所を転々とし、宝永5年(1708年)の大火により六角通りに移転されてから六角獄舎と呼ばれるようになりました。宝暦4年(1754年)には、医学者山脇東洋による日本発の人体解剖が行われた。また、元治元年(1864)、「禁門の変」に端を発した大火が獄舎へと迫り、火の手が回って囚人たちが脱走することを恐れた幕史たちは、収監していた囚人33名を殺害した。ひとつひとつ石碑の意味を理解するのに時間がかかりました。
閉じる投稿日:2022/10/07
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今は静かな地にあります
- 3.5
- 旅行時期:2022/09(約3年前)
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三条会商店街に行った時、近くの武信稲荷神社と六角獄舎跡を訪ねました。六角獄舎跡はマンションの敷地内に他の碑や説明板とともに... 続きを読むありました。六角獄舎は平安時代にできた京都の牢獄で、移転を繰り返して宝永5年の京都大火以降にこの地に移転したそうです。自然石でできた勤王志士忠霊塔の横には、近代的な「日本近代医学発祥之地 山脇東洋顕彰」碑が並んでいます。囚人を用いて日本初の人体解剖が行われた場所でもあります。禁門の変の頃は国事犯や尊王攘夷派の志士たちも収監され、平野国臣や33名が処刑されました。歴史的な場所なんだなと想像しました。今は静かなところです。 閉じる
投稿日:2022/09/01
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住宅街の一角に
- 3.0
- 旅行時期:2022/01(約4年前)
- 0
石碑があるのみだが、いろいろと思いをはせることができる場所だ。まずは六角獄舎跡。平安時代に創設された京都の牢獄で、江戸時... 続きを読む代の京都大火でこの地に移転してから通りの名を取って「六角獄舎」と呼ばれるようになった。現地には医師の山脇東洋が江戸時代に国内初の人体解剖を実施したことを讃える碑と、勤王の志士が惨殺された史実を伝える二つのモニュメントがある。禁門の変で発生した大火(京都どんど焼け)の折、囚人を放って治安が乱れることを恐れた役人が、生野の変の首謀者である平野国臣ら多数の志士を処刑した悲劇を伝える。京都三条会商店街を少し南下した住宅があり、観光地とは言い難い。が、マンションの一角にある石碑は江戸期の日本の様子を生々しく伝えているような気がする。 閉じる
投稿日:2022/03/30
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数多くの石碑が並び建っています
- 3.0
- 旅行時期:2021/10(約4年前)
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京都の牢獄があった場所
- 3.0
- 旅行時期:2021/01(約5年前)
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説明をよく読んで下さい
- 4.0
- 旅行時期:2020/06(約6年前)
- 0
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京都歴史探訪
- 3.5
- 旅行時期:2020/03(約6年前)
- 1
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牢獄跡と日本初の遺体解剖の地
- 3.5
- 旅行時期:2015/05(約11年前)
- 2
「六角獄舎跡」は、阪急電車の大宮駅から北へ歩いて10分足らず、武信稲荷神社の南側の財団法人盟親(更生保護施設)の正門付近に... 続きを読むその石碑があります。一見、マンションの入り口の様で、わかりにくいですが、施設入り口の外側の左手に「勤王志士平野國臣外十数名終焉之地」と、「日本近代医学発祥之地」の小さな石碑が立ち、正門を入って直ぐ左手に「殉難勤王志士忠霊塔」と「山脇東洋観臓之地」の大きな石碑が二つ並んでいるので、よく見たら判ると思います。
六角獄舎は平安時代に建設された左獄・右獄を前身とする京都の牢獄のことで、獄舎が元治元年(1864年)蛤御門の変で火勢に見舞われた祭に、獄舎に囚われていた志士・平野國臣らが幕吏に殺害されたことを示す石碑が立っています。
また、ここは宝永4年(1707年)年に、医師・山脇東洋によって死刑囚を使った日本初の遺体解剖が行われたところで、石碑には東洋の行った解剖の意義などが記されています。
石碑があるだけの地味なところですが、奥深い京都の歴史を一つ知るいい機会になりました。すぐ近くに鎮座される武信稲荷神社もあわせて観て周られればよいでしょう。
閉じる投稿日:2015/07/08
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わが国初の人体解剖
- 5.0
- 旅行時期:2014/05(約12年前)
- 1
1708年の京都大火の後、京都の左獄が六角通りに移転し「六角獄舎」と呼ばれるようになった。当時は懲役・禁錮という発想はなく... 続きを読む、獄舎は未決囚の拘置及び死刑囚の処刑を行う場所だった。
1754年、京都所司代の許しを得て、山脇東洋がこの地でわが国初の腑分けを行った。解剖したのは死刑囚の遺体であった。
山脇東洋は、京都府亀山市の医家に生まれた。カワウソの解剖から、漢方医学に伝わる五臓六腑説に疑問を抱き、人体解剖によって蘭書の正確性を確認するとともに、五臓六腑説の誤謬を指摘した。1759年解剖図録「蔵志」を刊行し、杉田玄白らに大きな影響を与えた。
1864年、長州藩が武力で御所突入を図った禁門の変により、京都市中に火災が広がり(どんどん焼け)、六角獄舎にも及ぶ勢いを見せた。火災の際には囚人は解放するのが通例だが、京都町奉行は囚人の中に過激な勤皇派の志士たちがいるのを見て、囚人33人の処刑を断行した。古高俊太郎や生野の変の首謀者平野国臣も処刑されたが、火は堀川で止まり結局六角獄舎には及ばなかった。 閉じる投稿日:2015/06/27
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