bluejaysさんのクチコミ(17ページ)全1,027件
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投稿日 2015年07月23日
総合評価:5.0
新選組が屯所を西本願寺から不動堂村へ移転したのは、1867年6月であった。屯所の広さは1万平方メートルで、大名屋敷と比べても遜色のない構えだった。
半年後の12月には、屯所を伏見奉行所へ移した。ここは新選組の、京都で最後の屯所である。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月23日
総合評価:5.0
安国寺は993年頃に開創され、もとは光福寺と称していた。1252年勧修寺重房が上杉荘を賜り、「上杉」の苗字を名乗ると、光福寺は上杉氏の氏寺となる。
上杉頼重の娘清子が足利貞氏に嫁ぐと、1305年光福寺門前にあった上杉別邸で尊氏を出産。これにより光福寺は、上杉氏・足利氏の尊崇を受けるようになる。1338年、尊氏は元弘の乱以降に戦死した者の霊を慰めるため、国ごとに安国寺を建立するにあたり、光福寺を丹波の安国寺とした。- 旅行時期
- 2014年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 梅迫駅から徒歩20分
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月23日
総合評価:5.0
この地は尊氏が北朝を支援するために住んだ三条坊門第の跡で、室町幕府発祥の地である。尊氏がこの地で死去すると、足利氏の菩提寺「等持寺」になったが、義満が室町に「花の御所」を造営すると、等持寺は別院であった等持院に合併され消滅した。
- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月22日
総合評価:5.0
両軍は、小泉川を挟んで対峙した。光秀は、天王山と淀川に挟まれた隘路から出て来る敵を、小泉川流域の沼地で足止めし叩くことを企図した。いっぽう秀吉軍は決戦前夜、先鋒の高山右近に山崎集落を占拠させた。ところが中川清秀が右近と先鋒を争うように、天王山の山裾を横切って高山隊の横に陣取ろうと移動すると、これに明智軍右翼の伊勢貞興が襲いかかった。これを見て斎藤利三も高山隊へ猛攻を加えたため、中川・高山隊は圧倒されるが、堀秀政が後詰に付き、かろうじてしのいだ。松田政近・並河易家が中川・高山隊の側面を突くべく天王山中腹を進むと、天王山に布陣していた黒田孝高・羽柴秀長・神子田正治と交戦となり、明智軍右翼では一進一退の攻防が続いた。
秀吉は池田恒興と加藤光泰に、密かに小泉川を渡らせ、明智軍左翼を攻撃させた。すると中川・高山隊も押し返し始めた。圧倒的な兵力を有する秀吉軍は、いずれの戦線でも兵力で優位に立ち、明智軍を包囲する態勢に入った。明智軍全体に動揺が広がり、やがて総崩れとなった。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月22日
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投稿日 2015年07月22日
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投稿日 2015年07月22日
総合評価:4.0
足利義昭は本圀寺を在所としていたが、1569年三好三人衆に襲撃された。そこで織田信長は、堀や天守を備えたより防備の堅い邸宅を、義昭のためにわずか70日で築いた。城の石垣には、京都中から集められた墓石や石仏も使われた。
ところが義昭は1573年、二条城で信長に挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い、二条城を包囲するが、正親町天皇の勅命により和議が成立した。しかし義昭は同年、槇島城で再び挙兵する。このとき二条城には伊勢貞興と三淵藤英がいたが、一戦も交えず降伏した。旧二条城はこのとき織田軍に破壊され、残った天守や門は安土城に転用された。
地下鉄敷設のため1975年から発掘調査が行われた際、旧二条城の石垣に使われた石仏が大量に出土し、洛西竹林公園に設置された。
旧二条城跡の碑は二条御所跡の碑とは目と鼻の先にあり、どちらも現在は平安女学院の敷地である。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年07月10日
総合評価:5.0
長州藩は1863年、亀山八幡宮に設置した亀山砲台から、アメリカ商船ペンブローク号に砲撃を加えた。この攻撃は、久坂玄瑞の光明寺党が中心であった。
長州はその後フランス軍艦キャンシャン号、オランダ艦メジューサ号を撃退したが、アメリカ軍艦ワイオミングとの交戦では、3隻の軍艦を失った。さらに前田砲台が艦砲射撃を受け、フランス軍の上陸を許し、前田集落が放火され長州軍は大敗を喫した。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 1.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月10日
総合評価:5.0
山崎の戦いに敗れた明智光秀は、いったん勝竜寺城に入ったものの、大軍を収容できない平城であったため、兵の脱走が相次ぎ兵力はわずか700人にまで減っていた。光秀は暗夜にまぎれ、十数騎で勝竜寺城を密かに脱出し、坂本城を目指した。だが小栗栖にさしかかったとき、落ち武者狩りの土民中村長兵衛の竹槍にかかり深手を負った。竹中重門の「豊鑑」は、このときの状況をやけに詳細に記録している。
「里の中道の細きを出て行くに、垣ごしにつきつける槍、明智光秀の脇にあたりぬ。されど、さらぬ体にてかけ通りて、三町ばかり行き、里のはずれにて、馬よりころび落ちけり。」
溝尾庄兵衛は、光秀を介錯し自害を遂げさせると、その首を藪の中に隠して坂本に逃走した。だが彼の首は掘り出され、秀吉によって粟田口の刑場にさらされた。
その後、この地に赤い竹が多く生えてきたり、光秀の内臓が飛び出した地(通称「ワタ出」)には草が生えないなどの怪現象が起こった。地元民は光秀最期の地を「明智藪」と呼び、後世に伝えて来たが、竹薮は本経寺の土地であり、近年になって藪を刈り砂防工事を行ったことから、本来の明智藪は消滅した。現在は、本来の場所より手前の地にライオンズクラブによる石碑が建てられているが、そこには光秀を襲撃した者たちを信長の近臣飯田一族と明記している。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月09日
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投稿日 2015年07月07日
総合評価:5.0
1788年に発生した天明の大火で御所が炎上したとき、滅多に開くことのなかった新在家御門が開いたため、蛤が火にあぶられ開くことになぞらえ「蛤御門」と呼ばれるようになった。
1863年に起きた八月十八日の政変で、長州藩は京を追放されたが、翌年帝に赦免を嘆願するという名目で兵を率いて上洛した。だが孝明天皇の長州排除の意志は堅く、一橋・会津・桑名・薩摩らが御所を固めて進入を阻止しようとしたため、長州と交戦になった(蛤御門の変/禁門の変)。来島又兵衛は銃弾を受け自刃、久坂玄瑞と寺島忠三郎は嘆願が容れられず鷹司邸で自刃、入江九一は鷹司邸脱出時に越前藩士に槍で突かれ戦死した。真木和泉ら17名は、天王山で自決した。
長州勢は落ち延びる際に藩邸に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士が隠れていそうな中立売御門付近の家屋を攻撃し、この二個所から上がった炎が大火に発展し京都市街は焼け野原となった(どんどん焼け)。蛤御門には、禁門の変のときの弾痕が今も残っている。
なお現在の蛤御門は明治になって移設されたもので、それ以前は現在よりも30メートルほど内側に南を向いて建てられていた。- 旅行時期
- 2015年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月01日
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投稿日 2015年06月30日
総合評価:4.0
如意ヶ岳は、五山の送り火で最初に点火される山。私は山科の毘沙門堂脇から登り、左京区の哲学の道に抜けるルートを取った。
大文字の部分は林が三角に伐採され開けており、見晴らしがいい。冬は雪化粧された大文字が、趣がある。- 旅行時期
- 2014年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.0
- 景観:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- バリアフリー:
- 1.0
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投稿日 2015年06月30日
総合評価:5.0
山崎合戦において、秀吉が天王山中腹の松の樹上に千成瓢箪の旗印を掲げさせたところ、全軍の士気が上がり、勝利を収めることができたと言われる。現在の松は7代目。
なお、山崎の合戦は古くは「天王山の戦い」と呼ばれたが、天王山の攻防はさほど重要だったわけではない。天王山は見通しが良く、淀川にせり出して隘路を作っている要衝であるため、「太閤記」ではあたかも天王山の争奪が戦局を決定づけたかのように記された。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 景観:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- バリアフリー:
- 1.0
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投稿日 2015年06月30日
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投稿日 2015年06月30日
総合評価:5.0
豊臣秀吉の居城として1587年に完成した。1588年と1591年には、「行幸」と称し後陽成天皇の身柄を預かっている。
1591年、秀吉が関白職を甥の秀次に譲ると、聚楽第も秀次のものとなり、秀吉は新しい居城として伏見城を築くが、1595年に秀次を切腹させると、聚楽第は徹底的に破壊された。
聚楽第内の建造物の多くは伏見城へ移築されたが、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の唐門、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関などは聚楽第から移築されたと伝えられている。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月30日
総合評価:4.0
松永久秀が1560年、眉間寺山と呼ばれていた山に築いた。城には多聞天が祀られていたため多聞山城と呼ばれ、山は多聞山と呼ばれるようになった。
四重天守は天守の先駆けで、その様子はルイス・フロイスによってヨーロッパにも伝えられた。松浦静山の「甲子夜話」では、天守の始まりを多聞山城としている。塁上には長屋形状の櫓が築かれ、これが多聞櫓の始まりとされる。
久秀は1573年、織田信長に反旗を翻したが降伏し、多聞山城を譲渡した。城にはその後明智光秀、次いで柴田勝家が入った。
1576年、信長は筒井順慶を大和の守護に任じ、多聞山城の破却を命じた。石材の多くは初め筒井城に用いられ、後に郡山城にも移された。
現在は若草中学校。- 旅行時期
- 2013年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年06月30日
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投稿日 2015年06月30日
総合評価:4.5
宮城道雄は、三宮居留地にあったこの地に生まれた。生後200日で眼病を患い、8歳で失明。生田流箏曲の菊仲検校ついで中島検校に師事し、22歳の若さで最高位である大検校となる。
その後は演奏家にとどまらず、作曲家としても頭角を表し、西洋音楽の要素を邦楽に導入する独自の境地を開拓した。フランスのバイオリニスト、ルネ・シュメーと合奏した「春の海」は、日・米・仏でレコードが発売され世界的な名声を得た。
また十七絃・八十絃・短琴・大胡弓と新しい和楽器も考案している。
1956年、夜行列車から転落して死亡した。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 三宮・花時計前駅から徒歩4分
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年06月30日
総合評価:4.5
十五世紀後半に別所則治によって築かれた。
1578年、織田信長の家臣羽柴秀吉の軍に包囲され、1年8か月に及ぶ兵糧攻めに遭い、1580年別所長治は領民の命を救うため自刃した。
本丸跡に、本丸跡の「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」という辞世の歌碑が建てられている。
その後は秀吉家臣の杉原氏・中川氏などが城主となり、1616年小笠原忠真の明石藩に編入され、翌年の一国一城令により廃城となった。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 三木上の丸駅から徒歩3分
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 1.0
- 見ごたえ:
- 4.5























