bluejaysさんのクチコミ(22ページ)全1,027件
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投稿日 2015年06月18日
総合評価:4.5
元服には烏帽子親が二人必要だったが、牛若にはそれもなかった。そこで鞍馬の毘沙門天と、氏神の八幡神を烏帽子親に仕立て、太刀を毘沙門天、脇差を八幡神に見立てて、この池で自ら前髪を落とし元服式を行ったという。
「平治物語」は、義経元服の様子をこう伝えている。大河ドラマ「義経」放送に当たり、竜王町は幟を立て、元服池の向かいの「道の駅」で「義経元服料理」を売り出した。
ところが「義経記」には、父義朝最期の地である内海で元服したと記されており、大河ドラマもこの筋書きで放送された。肩透かしを食らった竜王の町長は、NHKに抗議したが、無駄であった。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月20日
総合評価:4.5
高槻城は、南北朝期の入江氏の居館に始まる。1569年に和田惟政が城としての基礎を固め、1573年に高山右近が町屋を城内に取り込み、堅固な城郭を築いた。
その後は1615年に内藤信正、1617年に土岐定義、1619年に松平家信、1636年に岡部宣勝、1640年に松平康信が城主となり、1649年には永井直清が入封して、幕末まで続いた。
1871年、廃藩置県により廃城。その後は鉄道敷設用材として石垣などが転用され、遺構はほとんど残っていない。- 旅行時期
- 2015年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年06月20日
総合評価:5.0
鎌倉時代の建久年間に、佐保時綱が築いた砦が始まりとされる。室町時代の応仁年間には六角氏家臣の小川祐忠が在城したが、戦国時代後期には六角氏は衰え、浅井氏家臣の磯野員昌が入った。1571年に落城し、織田氏家臣の丹羽長秀が入った。
1582年、本能寺の変の後に行われた清洲会議の結果、明智討伐に功があった堀秀政が入り、1585年には堀尾吉晴が入城。1590年には石田三成が城主となり、荒廃していた佐和山城を改修して、山頂に五層の天守がそびえ立つ近世城郭を築き「治部少に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」と言われた。
1600年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、三成の本拠地佐和山城を攻撃した。石田軍の主力は関ヶ原に出陣しており、城を守っていたのは父正継以下わずか2800人だった。城兵は少数ながら奮闘したが、戦場から逃亡した三成が到着することなく落城し、石田一族はことごとく自害して果てた。徳川方の兵士は「栄華を極めた三成はさぞ華美を尽くしたのだろう」と思い、我先にと城内に乱入したが、城は何の装飾もない質素な作りであり、石田屋敷には金目の物もなく、秀吉から送られた感謝状だけがあったという。
その後は井伊直政が入城したが、三成の居城を嫌い彦根城を新たに築き、佐和山城は廃城となった。佐和山城跡の用材は、彦根城を築くためあらかた持ち出された。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 2.5
- 登山口へ彦根駅から徒歩13分
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- バリアフリー:
- 1.0
- 山道かつ道幅狭い
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年06月20日
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投稿日 2015年06月20日
総合評価:4.5
黒田家初代の源宗清が、木之本の黒田庄に居館を構え、黒田判官と称したのが黒田氏の始まりと伝わる。宗清の五代後の高政が備前福岡に移り、その三代後が官兵衛孝高とされている。
黒田家館跡は「構屋敷」と呼ばれ、個人の建物を建てないように伝えられてきた。屋敷跡には堀や石垣の跡はあったが、黒田氏と結びつく決定的な証拠はなかった。ところが1973年、工事中に「源宗清」と刻まれた御影石が見つかったことから、黒田家がここを黒田氏発祥の地と認定した。- 旅行時期
- 2014年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 木之元駅から徒歩20分
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年06月20日
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投稿日 2015年06月20日
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投稿日 2015年06月18日
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投稿日 2015年06月18日
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投稿日 2015年06月18日
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投稿日 2015年06月18日
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投稿日 2015年06月18日
総合評価:5.0
平家の総帥平宗盛・清宗父子を壇ノ浦で捕虜にした義経は、鎌倉に向かうが、無断で朝廷より官位を授かったため鎌倉入りを許されなかった。宗盛は頼朝の前で命乞いをしたため物笑いにされ、「平末国と改名せよ」と言い渡された。
所領を没収された義経は、あてもなく京に向かった。宗盛父子を連れ歩くことは負担でしかなく、処刑するより途はないが、義経はなぜかこれをためらい、京を目前にした鏡の里まで父子を生かしていた。だが平家の総帥を生きたまま京に入れるわけにはいかず、義経はここに至ってついに処刑を決意した。
鏡の里は、竜王町の野洲との境界近くにあるが、義経は元服の地を血で汚すことを忌避したのか、鏡の里をわずかにはずれた野洲市篠原で、宗盛の斬首を断行した。彼の最期の言葉は「右衛門督(清宗)もすでにか」と、最後まで息子を気にかけていた。
義経の情けで、首のない父子の胴体は同じ場所に葬られた。胴塚の先には、宗盛の首を洗った「首洗いの池」がある。近年になって埋め立てられたため縮小したが、当時は胴塚のすぐ前まであったという。
処刑した橘公長は、かつては平氏の家人で、平氏が衰退すると源氏に寝返った。彼は嫌な役を押し付けられたうえ、かつての主人を斬ったことで非難された。- 旅行時期
- 2013年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 1.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- バリアフリー:
- 1.0
- 山道
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月17日
総合評価:4.0
1185年、平家追討の命を受けた源義経は渡辺津に軍を進めた。そこに大きな松の木があり、その下で軍議を行ったという。
梶原景時は「船首だけでなく船尾にも櫓(逆櫓)をつけ、自在に前進・後退できるようにすべきだ」と進言したが、義経は「はじめから退却することを考えるのは縁起が悪い」と景時の意見を批判したため、景時は「進むべき時・引くべき時をわきまえてこそ良い大将である」と言って義経を「猪武者」とやり返し、激しく言い争ったという。
暴風雨のなか景時は出航を見合わせようとしたが、義経はわずか5艘150騎で出航し、急襲攻撃で屋島の戦いを完勝した。しかし景時は義経を「大将の器にあらず」と讒言し、義経は戦後罪に問われることになる。
逆櫓乃松は実は江戸時代の1739年、源平合戦を題材にして大当たりした浄瑠璃「ひらがな盛衰記」に登場するのだが、この界隈に実在した樹齢1000年近い大松にこじつけた創作であり、義経軍の軍議はこの松とは何の関係もない。この松は江戸時代に枯れ、明治初期には根だけになっており、大正15年に逆櫓乃松址の碑が建てられたが、昭和20年の大阪大空襲で根は消失し、石碑も行方不明となった。昭和33年、ある運送会社が地ならしをしていたところ石碑が出土したので、その会社前に石碑を再建したが、昭和49年地元有志によって現在地に移された。- 旅行時期
- 2015年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年06月17日
総合評価:5.0
将門塚は伝承によると、京で晒された将門の首が宙を飛び、この地に落ちたという。1307年に最初の将門塚が建立されたが、関東大震災で倒壊。その地に大蔵省を建設しようとしたが、関係者に怪異現象が立て続けに起こったという。その後も、将門塚の撤去を試みる者に災難が絶えないため、オフィスビルの立ち並ぶ大手町の一角に、今日も将門塚は残っている。
江戸時代にはこの地に酒井忠清大老邸があり、伊達騒動の当事者である原田甲斐宗輔が伊達安芸に斬りつけ、柴田外記朝意に斬られ、3人とも死亡している。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月17日
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投稿日 2015年06月17日
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投稿日 2015年06月17日
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投稿日 2015年06月17日
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投稿日 2015年06月17日
総合評価:3.0
木村家は武田家家臣だった飯尾家がルーツで、武田氏滅亡ののち木村姓に改め、竹田で酒造りを始めた。
旧木村家は2013年、ホテル・レストラン・ワークショップ・売店などのある複合商業施設に生まれ変わった。味噌や醤油造りを体験できる。- 旅行時期
- 2015年05月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 食事・ドリンク:
- 2.0
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投稿日 2015年06月17日
総合評価:3.5
源義朝・鎌田政清・織田信孝・池善尼の墓がある。
鎌田政清墓(愛知県美浜町、大御堂寺〔野間大坊〕)。
鎌田政清は源義朝の乳兄弟として、最も信頼された。保元の乱の後、義朝の父為義を涙ながらに斬るという務めを果たしている。平治の乱では義朝が討死しようとするのを引き止め、共に東国を目指して落ちた。京を落ちる際、義朝の姫を殺すよう命じられ、涙ながらに刺し殺している。野間の長田邸で、妻の兄弟長田景致に討たれた。
池禅尼は平清盛の継母で、後に崇徳天皇の皇子重仁親王の乳母となった。平治の乱で敗れた源頼朝が処刑されそうになったとき、亡き我が子家盛によく似ているということから助命を嘆願した。清盛は拒絶したが、池禅尼が断食を始めたため断れなくなり、死罪を免じて伊豆への流罪とした。頼朝は池禅尼の恩を忘れず、彼女の息子である平頼盛の家系だけは存続を許した。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 1.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5






















