bluejaysさんのクチコミ(14ページ)全1,027件
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投稿日 2015年07月12日
総合評価:5.0
現在「壇ノ浦町」と呼ばれ、「壇ノ浦古戦場」の碑が立てられているところは、関門海峡の最狭部である。江戸時代には「早鞆瀬戸」と呼ばれた難所であり、現代でも操船を誤り座礁する事故がしばしば起きる。
だが「壇ノ浦」は本来は、長府沖である。神功皇后が長府の忌宮神社に、三韓出兵に際して戦勝祈願の祭壇を築いたことに由来している。「吾妻鏡」の記述によれば、平家は合戦に当たり彦島を出て東に向かい、田之浦に陣取ったという。源氏はさらに東の「壇浦奥津」に布陣した。奥津とは、長府沖の満珠島・干珠島の古称である。連敗を重ねて後のない平家軍は、たとえこの戦いで後退することになっても、潮流の複雑な関門海峡に源氏を引き込めば、敵は操船できなくなるだろうと考えたようだ。
午前には東向きだった潮の流れに乗り、当初は平家軍が有利に戦いを進めたが、14時頃に潮流が西向きに変わると、平家軍は後退して行った。
だが関門海峡の九州側は、すでに源範頼軍が占領していた。平家軍が海峡の最狭部にさしかかると、水上からは義経軍の、陸上からは範頼軍の一斉射撃を受けた。平家軍は総崩れとなり、やがて女たちが次々と海へと身を投じ始めた。安徳天皇も平時子に抱かれ、海の藻屑と消えた。
本来の古戦場は、今日「壇ノ浦古戦場」の石碑がある地点ではなく、もっと東である。石碑のある地点は「平家終焉の地」であり、安徳天皇入水の地そのものである。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 景観:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
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投稿日 2015年07月12日
総合評価:5.0
功山寺は1327年、長福寺として創建された。1557年に大内義長が境内で自害すると、寺は衰退したが、1602年毛利秀元によって再興された。1650年には、功山寺に改名された。
1863年の八月十八日の政変で、三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の7人の公家が、京都から追放された。これを「七卿落ち」と言うが、公卿の列にあるのは三条実美と三条西季知だけなので、「二卿五朝臣」と言うこともある。「七卿落ち」の呼称は、源平盛衰記の「七騎落」に由来している。
七卿のうちの5人は、長府の功山寺に滞在した。ところが、第一次長州征伐の結果藩政の実権を握った俗論派は、5人を追放しようと謀った。高杉晋作の奇兵隊クーデターは、これが原因で起こったものである。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月28日
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投稿日 2015年07月28日
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投稿日 2015年07月23日
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投稿日 2015年07月23日
総合評価:5.0
金子みすゞは20歳のとき、母の再婚先であるこの地に移り住み、義父の経営する上山文英堂書店に勤めた。1926年、店の番頭と結婚し一女をもうけるが、夫は放蕩に耽り、みすゞに詩作や詩人仲間との文通を禁じ、そのうえ淋病を感染させる。1930年に別居したものの、法的な離婚が成立せず、娘の親権を奪われそうになると、娘を母に託すことを懇願する遺書を遺しこの地で服毒自殺した。
山口を出ることのなかったみすゞは、文壇に仲間もなく、歴史から忘れられていったが、1980年代に矢崎節夫に遺稿が発見され、死後50年を経て一大ブームを巻き起こした。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月23日
総合評価:5.0
児玉源太郎は1852年、この地に生まれた。源太郎の父半九郎が死去すると、源太郎の姉の婿次郎彦が家を継ぎ、大目付を務めたが、正義派に属していたため、1864年俗論派によってこの地で暗殺された。児玉家は断絶となり屋敷は没収されたが、正義派が政権を握ると、1865年源太郎が家名を相続し、現在児玉神社がある場所に屋敷を構えた。
源太郎は後にこの屋敷跡を買い戻し、1903年に図書館「児玉文庫」を開設した。しかし1945年、徳山空襲で焼失した。
1898年から1906年まで、台湾総督を務める。日露戦争の旅順攻囲戦では、第3軍司令官乃木大将の指揮権に介入し、海岸防衛用の28センチ榴弾砲を転用して、半日で陥落させたと言われる。
だがこのエピソードは、「坂の上の雲」以外の文献には見られず、司馬遼太郎の創作の可能性が指摘されている。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月23日
総合評価:5.0
鋳銭司村の村医の長男として生まれる。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵、のちに益次郎。1842年梅田幽斎に医学と蘭学を学び、翌年彼の勧めで豊後国日田に向かい、広瀬淡窓の咸宜園で漢籍・算術などを学ぶ。1846年には大坂に出て、緒方洪庵の適塾で学ぶ。1850年に帰郷し、村医となって村田良庵と名乗った。
その後宇和島藩に招かれ、西洋兵学や蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。二宮敬作から師シーボルトの娘楠本イネを託され、蘭学を教える。
1869年京都の旅館で襲撃され、大坂の病院で死去。なおここで楠本イネが、益次郎の最期を看取っている。
長州征伐と戊辰戦争では長州藩を指揮した。兵部省の初代大輔を務め、日本陸軍の創始者と見なされている。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月23日
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投稿日 2015年07月23日
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投稿日 2015年07月22日
総合評価:3.5
フランシスコ・ザビエルは1550年、フェルナンデス修道士と日本人の信者を伴い、鹿児島から海路と陸路を辿り下関に上陸した。彼は「西の京都」と呼ばれた山口の大名大内義隆と会見し、後に布教を許され、日本初のキリスト教会を設置した。
- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2015年07月22日
総合評価:5.0
三吉慎蔵は1831年、小坂土佐九郎の次男として生まれ、1857年三吉十蔵の養子となった。
1866年、長府藩士印藤肇の仲介で坂本龍馬と知り合う。そして長府藩より京の情勢を探るよう命じられ、龍馬とともに京に向かった。
その年寺田屋に投宿していたとき、伏見奉行所の捕り方に踏み込まれたが、慎蔵は槍を振るって応戦し、寺田屋を奇跡的に脱出。負傷した龍馬を材木小屋に隠し、薩摩藩邸まで走って救援を要請した。
第二次長州征伐では、長府藩の報國隊軍監として幕府軍と戦った。
坂本龍馬は1867年、長崎から土佐にむかう途中で下関に寄港した。彼は伊藤邸にお龍を残し、自分に万一のことがあったら後事を頼むと、慎蔵に託した。慎蔵は亡き龍馬との約束を守り、お龍と君枝の姉妹を長府の自宅にいったん引き取り、3か月間面倒を見た。1868年には、お龍を高知の坂本家に送り届けている。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月22日
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投稿日 2015年07月22日
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投稿日 2015年07月22日
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投稿日 2015年07月22日
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投稿日 2015年07月19日
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投稿日 2015年07月19日
総合評価:4.0
フランシスコ・サビエルは1551年山口に来て、大内義隆に会い布教の許可を求めた。彼はもともと京都に入り、全国布教の許可を天皇か将軍から得ようとしていたが、戦乱の世で朝廷も幕府も機能していなかった。そこで彼は、天皇や将軍に献上するはずだった望遠鏡・時計・洋琴・書籍などを義隆に贈った。そして廃寺となっていた大道寺を与えられ、そこを布教の拠点とした。大道寺こそは、日本最初のキリスト教会である。
大内氏滅亡後、大道寺はどこにあったのかわからなくなっていたが、ビリオン神父が山口の旧家の襖の下張りになっていた古地図を発見し、大道寺の位置をこの地と想定した。現在は聖ザビエル記念公園となっているが、大道寺の跡をこの地に比定したのは今では誤りだったと考えられている。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年07月19日
総合評価:5.0
大内氏の勢力が拡大すると、大内氏館が手狭となったため、大内教弘が15世紀中頃に別邸として築山館を築いた。その後は大内氏歴代当主の居館となり、迎賓館としての役割も担っていた。
陶晴賢が謀反を起こしたとき、大内館とともに焼失した。江戸時代末期になって、敷地内に八坂神社と築山神社が築かれた。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年07月19日
総合評価:5.0
大内氏は、弘世の代に周防・長門・石見の守護職となり、山口を本拠地として館を築いたのが大内館の始まりといわれている。
大内政弘は、応仁の乱で西軍の総大将を務めるほどであったが、都での戦いに明け暮れ、山口を留守にする間に山陰の尼子氏が勢力を拡大し、やがて中国地方は大内と尼子の二大勢力の角逐となる。
政弘は、応仁の乱で都から避難した多くの文化人を受け容れ、山口は西の京と言われる隆盛を誇った。政弘の子義興の代に最盛期を迎えたが、その子義隆は1542年、尼子氏との戦いに大敗し、以後政務を省みなくなった。
義隆はその後学問・芸術にのめりこみ、フランシスコ・ザビエルにも布教の許可を与えた。このような義隆の姿勢は、武断派の陶晴賢の反発を招き、晴賢は1551年ついに挙兵する。山口を追われた義隆は、豊後の大友氏のもとに逃れようとしたが、悪天候のためかなわず、長門の大寧寺で自刃し、大内氏は事実上滅亡した。
その後陶晴賢は、大友家から養子にとった大内義長を当主としたが、毛利元就に滅ぼされた。元就が1556年に山口に侵攻すると、義長は山口を放棄して逃亡した。毛利隆元は翌年、大内館の跡地に義隆の菩提寺として、龍福寺を建立した。- 旅行時期
- 2014年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0























