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bluejaysさんのクチコミ(20ページ)全1,027件

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  • 基本情報
  • 山本八重の夫

    投稿日 2015年06月26日

    川崎尚之助生家跡 出石・但東

    総合評価:4.5

    出石町本町の化粧品店が、川崎尚之助生家跡である。
    1836年、出石藩の医師川崎才兵衛の子として生まれる。長男ではなかったため、江戸に出て洋学を学び、会津藩の山本覚馬と知り合う。覚馬との縁で会津藩に招かれ、藩校日新館の蘭学所において蘭学や鉄砲を指南し、1865年覚馬の妹八重と結婚。
    会津戦争敗戦後は斗南藩に移住したが、米取引に絡む詐欺事件に巻き込まれ、刑事告訴され、未決のまま東京で病死したとされる。

    旅行時期
    2014年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 高山右近、高槻をキリシタンの町に

    投稿日 2015年06月26日

    高槻天主教会堂跡 高槻・島本

    総合評価:4.0

    高槻商工会議所敷地内に碑が建てられているが、厳密にはそこはキリシタン墓地跡で、高槻天主教会堂は道路の向かい側に、野見神社を破却して建設された。
    キリシタン大名高山友照・右近父子は、1573年に高槻城に入ると、家臣や領民へ布教を進め、1574年に高槻天主教会堂を建設して、高槻は京都・堺と並ぶ近畿におけるキリスト教布教の中心となった。
    宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、大きな木造の教会堂と宣教師の宿舎を備え、池のある美しい庭園の一角には大十字架が建てられていたという。

    旅行時期
    2014年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 荒木村重台頭す

    投稿日 2015年06月26日

    白井河原古戦場跡 茨木・摂津

    総合評価:4.0

    織田信長は池田勝正・和田惟政・伊丹親興の「摂津三守護」に摂津支配を認めたが、伊丹親興は足利義昭に従い信長に反旗を翻したため、荒木村重に討たれた。池田勝正は池田知正と荒木村重に追放された。その後の情勢は、和田惟政・茨木重朝連合と荒木村重・中川清秀連合の対立へと変化し、1571年ついに西国街道上の白井河原を挟んで両軍が対峙することとなった。
    和田・茨木連合軍は500騎で、高山友照・右近軍はまだ到着しておらず、荒木・中川連合軍の2500騎に遠く及ばなかった。和田・茨木連合軍は、「主人である茨木重朝・和田惟政は両名とも将軍に呼び出され京に滞在しており、大将が帰還してから戦端を開きたい」と申し出たが、時間稼ぎだと見破られ、荒木・中川連合軍の猛攻を受けた。和田惟政は「多勢に無勢、これでは勝目は無い。大将は強いだけが能ではなく、可をみて進み、不可を見て退き、無事をもって利をはかるべき」と進言されたが、聞き入れずわずか200騎を引き連れて突撃した。このとき村重が「和田惟政の首を取った者には呉羽台を与える」と約束すると、中川清秀がこれを討ち取った。
    中川勢と和田勢が激突している最中、茨木勢は手薄となった荒木本陣に突進して来たが、山陰に隠れていた伏兵2000が茨木勢を包囲し、茨木重朝も戦死する。大将を失った和田・茨木連合軍の兵士たちは「主を討たれてどうして生き残れようか」と言い、玉砕覚悟で討って出てほぼ全滅した。「陰徳太平記」はこの時の様子を「白井河原は名のみにして、唐紅の流となる」と記している。
    勢いに乗る荒木・中川連合軍は、茨木城をも攻め落とした。高山勢は遅参したおかげで戦力を温存できたが、和田惟政の子惟長に疑いの目を向けられ、成敗されそうになる。村重から「和田家と戦うなら支援する」という確約を得た高山親子は、逆に惟長を殺して高槻城をのっとり、以後村重の配下となる。
    白井河原の戦いを境に摂津三守護は衰え、摂津は荒木村重とその配下の中川清秀・高山右近の支配するところとなる。

    旅行時期
    2014年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    茨木駅からバス「中河原」下車。
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    4.0

  • 山内一豊生誕地か

    投稿日 2015年06月25日

    岩倉城址 岩倉・江南

    総合評価:5.0

    1479年、織田敏広が築いたと伝わる。 織田伊勢守家(岩倉織田氏)は、この城を拠点として尾張上四郡を支配し、清洲城を拠点として尾張下四郡を支配した織田大和守家(清洲織田氏)に対抗した。
    1556年の稲生の戦いで、城主織田信安が織田信長の弟信行に味方したため、信長と対立した。その後1558年の浮野の戦いで、信安の跡を継いだ織田信賢が敗れ、翌年岩倉城は信長の攻撃を受けて落城した。

    山内一豊は1545年、山内盛豊の子として岩倉城で生まれたとされている。岩倉城落城のおり、盛豊は城と運命を共にしたが、一豊は落ちのび、その後流浪の生活に入ることになる。
    現在は生田神社。

    旅行時期
    2015年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    2.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 北条一族の霊を弔う

    投稿日 2015年06月25日

    東勝寺跡 腹切りやぐら 鎌倉

    総合評価:5.0

    執権北条泰時は東勝寺を築き、北条一族の菩提寺とした。この寺は同時に、有事に備えた城塞の意味をもつ寺院であったと推測される。
    「腹切りやぐら」は、1333年北条高時ら鎌倉幕府軍が新田義貞軍に追われ、菩提寺である東勝寺に立て籠もったのち、一族郎党八百七十余名とともに自害した場所とされている。だが、高時が自害したのは東勝寺の室内であって洞窟ではないし、広さから考えてここで870人が自害したとは考えられない。
    1966年、東勝寺跡にあるいくつかの洞窟から大量の生焼けの人骨と五輪塔が発見され、伝承が裏づけられた。これら大小さまざまの「やぐら」は、自害した幕府軍を埋葬した地であって、自害した地ではない。また「北条高時腹切りやぐら」は、北条一族の霊を弔うため昭和になって作られたやぐらである。

    旅行時期
    2015年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    バリアフリー:
    1.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 明智光秀生誕地か

    投稿日 2015年06月25日

    明智城跡 可児

    総合評価:5.0

    土岐明智頼兼が1342年に築城したといわれる。
    1556年、斎藤義龍の攻撃を受け、城代の明智光安(宗宿)は、光秀に明智家再興を託し、自刃したという。 この時、光秀は明智城から逃れたと明智軍記にあるが、証明するものはない。
    美濃国緒旧記には「明智城は可児郡明智庄長山城のことである。明智城は土岐美濃守光衡により五代の嫡流、土岐明智民部大輔頼清の二男、土岐明智二郎下野守頼兼が康永元年三月、美濃国可児郡明智庄長山に始めて明智城を築城し、光秀の代まで居城した」と記されている。

    旅行時期
    2015年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    人はいない
    バリアフリー:
    1.0
    山道
    見ごたえ:
    5.0

  • 「我輩は猫である」の舞台

    投稿日 2015年06月25日

    夏目漱石旧居跡 (猫の家) 御茶ノ水・本郷

    総合評価:3.5

    夏目漱石はこの地に、イギリスから帰国した1903年から3年間暮らした。その間、東京大学英文科・第一高等学校の講師として活躍する一方、処女作「我輩は猫である」を執筆し、この旧居は作品の舞台となった。「倫敦塔」「坊ちゃん」「草枕」等を発表したところでもある。

    旅行時期
    2015年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 正岡子規最期の地

    投稿日 2015年06月25日

    子規庵 上野・御徒町

    総合評価:5.0

    「子規庵」はもとは、旧前田家御家人用二軒長屋だったと言われている。
    正岡子規は1894年にこの地に移り、故郷松山より母八重と妹律を呼び寄せ、闘病生活を続けながら俳句や短歌の創作に勤しんだ。
    子規没後も母と妹が住んでいたが、老朽化のため1925年に解体し、旧材による重修工事を行った。1945年の空襲で焼失したが、1950年に弟子の寒川鼠骨の努力で再建された。

    旅行時期
    2015年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 真田幸村戦死の地

    投稿日 2015年06月24日

    安居神社 ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:5.0

    菅原道真が大宰府に流されるとき、風待ちのために休息をとったことからその名がついたといわれている。少彦名神と菅原道真を祀っている。
    大坂夏の陣で真田幸村は、安居神社で休息しているところを西尾宗次に討たれた。

    旅行時期
    2015年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    1.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 大坂の陣の急所

    投稿日 2015年06月24日

    天王寺公園 ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:5.0

    日本書紀に「廃陵」と記載されていることから、古墳と考えられてきたが、近年の発掘調査の結果、人工的な盛土であることは間違いないようだ。大坂冬の陣では徳川家康の本陣、大坂夏の陣では真田幸村の本陣となった。

    旅行時期
    2015年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    2.0
    バリアフリー:
    1.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 蝦夷の指導者

    投稿日 2015年06月24日

    伝 阿弖流為 母禮之塚 寝屋川・枚方・交野

    総合評価:4.5

    蝦夷の指導者阿弖流為と母礼は、侵攻してきた大和朝廷軍を巣伏の戦いで破ったが、捕らえられ802年河内で処刑された。
    牧野公園はかつては片楚神社の社地で、この地に残る塚が阿弖流為と母礼の首塚だと言われている。

    旅行時期
    2014年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    見ごたえ:
    4.5

  • 薩長同盟締結地か

    投稿日 2015年06月24日

    小松帯刀京屋敷跡 (参考地) 今出川・北大路・北野

    総合評価:4.0

    薩長同盟が締結されたのは、近衛家別邸の中にあった小松京屋敷であった。
    「大久保利通伝」に、桂小五郎が薩長同盟のために入京したくだりで「一月京師に入り、先づ西郷の寓所に投宿せしが、数日にして、近衛家の花畑に在りし別荘に移転せり」と記されているが、現在「花畑」がどこにあったかは判然としない。一条堀川にあったとする説があり、石碑が建てられている。

    旅行時期
    2013年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 源義高最期の地に建てた

    投稿日 2015年06月24日

    清水八幡神社 狭山・入間

    総合評価:5.0

    源義高は頼朝の追手についに捕らえられ、入間河原で藤内光澄に討たれた。享年12歳。
    すると許婚の大姫は、心労から病に倒れてしまった。娘を案じた母の北条政子は、藤内光澄を討ち取ってさらし首にし、さらに義高最期の地に清水八幡神社を建て、盛大に供養した。
    その後神社は入間川の洪水で流失してしまい、正確な位置がわからなくなったが、その近くに地元民が神社を再建している。
    大姫はその後心身を患い、後鳥羽天皇との縁談も拒絶し、1197年20歳の若さで世を去った。

    旅行時期
    2015年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    5.0

  • 伝木曽義仲出生地

    投稿日 2015年06月24日

    班渓寺 小川・嵐山

    総合評価:5.0

    この辺りにかつて大蔵館があり、木曽義仲はそこで生まれた。1155年父義賢が甥の源義平に殺されたため、義仲は木曽に逃れ、中原兼遠に養育された。
    義仲の妻山吹姫(葵御前)は後に、頼朝に殺された息子義高の菩提を弔うために班渓寺を創建したと伝わる。

    旅行時期
    2015年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    1.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 源義高を匿った地蔵

    投稿日 2015年06月24日

    影隠地蔵 狭山・入間

    総合評価:5.0

    源氏の棟梁頼朝に従わず独自の動きを見せた義仲に、頼朝は人質を要求した。義仲は11歳の嫡子義高を、頼朝の娘大姫の婿という名目で差し出した。だが京に入り後白河法皇と対立した義仲は、頼朝配下の範頼・義経に討たれた。
    頼朝が義高を謀殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がした。代々ゆかりのある菅谷目指して落ち延びた義高は、途中この地蔵の影に隠れて難を逃れたという。

    旅行時期
    2015年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 高師直父子暗殺さる

    投稿日 2015年06月24日

    師直塚 伊丹

    総合評価:5.0

    足利直義を排斥しようと企んだ高師直・師泰父子は、1351年の打出浜の戦いに敗れ、剃髪し恭順の意を示したが、この付近で上杉能憲の家臣三浦八郎左衛門らに暗殺された。実は上杉能憲は、父を師直に暗殺されていた。
    師直塚は高師直の塚だが、その土地を購入した建設会社社長が墓碑を工場正面に移設したところ、家族に災難が降りかかり会社も倒産してしまった。その後は祟りがあるというので誰も手をつけなかったが、国道171号線を拡幅するに当たり、寺の住職が移設の法要を執り行い、現在地に移転させたという逸話がある。

    旅行時期
    2015年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    阪急伊丹駅よりバス「昆陽里北」下車、徒歩1分
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    5.0

  • 戊辰戦争のきっかけとなった焼き討ち

    投稿日 2015年06月24日

    薩摩藩上屋敷跡 三田・田町・芝浦

    総合評価:4.0

    この地にはかつて、薩摩藩上屋敷があった。
    薩摩藩が江戸で騒乱を起こしているのを見かねて、1868年庄内藩・上山藩・鯖江藩・岩槻藩・出羽松山藩が藩邸に討ち入り、放火した。これが戊辰戦争のきっかけとなった。
    現在はNEC本社。

    旅行時期
    2015年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    4.0

  • 新選組の原点

    投稿日 2015年06月24日

    試衛館跡 神楽坂・飯田橋

    総合評価:5.0

    1839年に、天然理心流三代目の近藤周助が市谷柳街に創設した道場で、近藤家の住居も兼ねていた。門弟として土方歳三・沖田総司・井上源三郎・山南敬助、食客として永倉新八・原田左之助・藤堂平助・斎藤一らがいた。

    旅行時期
    2013年09月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 佐賀の役で斬首

    投稿日 2015年06月24日

    江藤新平誕生地 佐賀市

    総合評価:5.0

    江藤新平は1834年、佐賀藩下級藩士の長男として生まれた。16歳で藩校弘道館に入学するが、尊王攘夷を唱えていた枝吉神陽に傾倒し、彼が結成した「義祭同盟」に参加する。しかし時流を見据えた新平はその後、開国通商策に転じ、28歳で脱藩し京都に入り、桂小五郎・伊藤博文・姉小路公知らと接触し、「京都見聞」を著した。帰国後は永蟄居を言い渡されるが、大政奉還を機に赦免された。
    戊辰戦争で江藤は東征大総督府軍監に任命され、佐賀藩のアームストロング砲で彰義隊を撃破した。
    1872年に初代司法卿に就任し、明治政府の司法制度導入に尽力したが、征韓論を契機とする明治六年の政変で参議を辞職することになり、翌年佐賀の役を起こして敗れ、斬首された。

    旅行時期
    2014年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    5.0

  • 鳥居強右衛門墓所

    投稿日 2015年06月24日

    新昌寺 新城

    総合評価:3.0

    鳥居強右衛門勝商は、武田軍が包囲する長篠城を脱出して岡崎城へ赴き、援軍を要請した後再度長篠城に入ろうとして捕まり、「援軍は来ない」と叫べは命は助けると言われたのに「援軍は来る」と叫んだため、有海で磔にされた。
    彼の墓は有海の新昌寺に作られ、第2東名高速道路建設のため、現在地に近年移転した。墓石には「わが君の命に替る玉の緒をなどいといけん武士の道」という辞世の句が刻まれている。

    旅行時期
    2015年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    3.0

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