bluejaysさんのクチコミ(19ページ)全1,027件
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投稿日 2015年06月27日
総合評価:5.0
八月十八日の政変で失脚した長州は、巻き返しの機会をうかがっていた。新選組は長州と親しい古高俊太郎を捕らえ拷問の末、祇園祭の前に御所に火を放ち、その混乱に乗じて一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ拉致する計画を自白させた。そして古高逮捕により長州・土佐・肥後の尊攘派が、計画を実行すべきかについての協議を京都のいずこかの旅館で行うことを突き止めた。
池田屋の尊攘派二十数名に対し、踏み込んだ隊士は近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名だった。沖田は戦闘中に倒れ、藤堂は額を斬られ戦線離脱し、一時は2名での戦闘となったが、援軍の到着により9名を討ち取り4名を捕縛する新選組の圧勝となった。
池田屋の会合については、尊攘派側には放火や天皇拉致などの記録がなく、その証拠は拷問を受けた者の自白のみであり、その当人も早々に処刑されており、客観的証拠を欠いている。出世の糸口をつかむための、新選組によるプロパガンダの疑いが強い。
現在は「海鮮茶屋池田屋」。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 1.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月27日
総合評価:5.0
1867年3月、伊東甲子太郎ら16名が孝明天皇御陵衛士を拝命し、新選組を脱盟して初め長円寺に、後に高台寺月真院に屯所を置いた。伊東は尊皇の志篤く、佐幕の近藤とは相容れず、薩摩に接近したが、新選組はむろん脱盟者を見逃しはしなかった。
- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月27日
総合評価:5.0
壬生の屯所が手狭になると、新選組は1865年、屯所を西本願寺に移し、北集会所と太鼓楼を接収した。西本願寺は長州藩と深い関わりがあり、西本願寺と長州藩士を結びつけないようにする狙いがあった。
新しい屯所を本願寺に作らせるため、土方は殺生禁止の境内で牡丹鍋を食べたり、門主が剃髪に出るのを見計らって大砲を撃つなどの嫌がらせを行った。新選組が肥後の壮士と揉めたとき、肥後藩が小銃隊に大砲二門を付けて本願寺を囲み、焼き討ちにすると脅すに至って、ついに西本願寺は自費で新選組の新しい屯所を建設することを約束した。- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月27日
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投稿日 2015年06月27日
総合評価:5.0
八木家は壬生郷士筆頭の家柄にふさわしく六百坪の敷地を持ち、屋敷も小藩の京都屋敷程の広さがあった。周囲は壬生菜畑であり、見晴らしが良いので敵を防ぐには都合が良かった。
芹沢鴨はここで暗殺された。そのときの刀傷が残っている。
内部撮影は不可。- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 2.5
- バリアフリー:
- 1.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月27日
総合評価:3.5
往生院は平安時代に創建され、かつては数多くの坊が建ち並んでいたが、その後祇王寺と三宝寺のみが残った。1868年の廃仏毀釈により廃寺となったが、京都府知事北垣国道が別荘の一棟を寄付し、1905年に再興された。
平清盛は白拍子の妓王・妓女の姉妹を寵愛していたが、ある日白拍子の仏御前が訪れ、舞を披露したいと申し出る。清盛は追い払おうとしたが、妓王のとりなしにより仏御前は清盛の御前で舞うことを許された。仏御前は、
「君を初めて見る折は 千代も経ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れ居て遊ぶめれ」
と即興で舞いながら歌い、清盛の寵愛を得た。
妓王・妓女は清盛に疎まれるようになり、ついには仏御前を慰めるため彼女の前で舞を見せよと命じられるに至り、母の刀自とともに髪を剃り、出家して往生院に入った。妓王は去り際に、障子にこう書き残したという。
「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき」
その後、仏御前も出家して往生院に入った。彼女は、自分もまたいずれ捨てられるはかない運命と知り、ひたすらに念仏を唱えることで極楽往生を願ったのである。- 旅行時期
- 2014年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 1.5
- バリアフリー:
- 1.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2015年06月26日
総合評価:4.0
永久年間の頃、白河院が祇園女御の許に行くためこの辺りを通ったとき、鬼のようなものが見えたので、供の平忠盛に討ち取れと命じた。だが忠盛がこれを生け捕りにしたところ、祇園の社僧が油壷と松明とを持ち、灯籠に燈明を献ろうとしていたところだった。雨を防ぐために被っていた蓑が、灯の先を受けて銀の針のように見えたのである。
忠盛の思慮深さに感嘆した白河院は、祇園女御を忠盛に与えた。こうして忠盛の妻になった祇園女御が産んだのが清盛で、人々は「清盛は忠盛の子にあらず、まことに白河院の皇子なり」と噂した。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年06月26日
総合評価:5.0
桓武天皇の時代に疫病が流行したのは御霊の祟りであるとして、863年神泉苑で早良親王らの怨霊を鎮める御霊会が催されたのが、上御霊神社の創祀である。
山名宗全の陰謀により失脚した管領畠山政長と畠山義就の私闘が1467年、境内の森で行われた。この御霊合戦が応仁の乱の始まりとなった。- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月26日
総合評価:4.0
禁門の変で来島又兵衛は、蛤御門に猛攻をかけた。当時の蛤御門は、現在より100メートルほど内側にあったが、又兵衛は御所の目前まで迫ったところを、清水谷家の前で銃弾に倒れた。
清水谷家の椋が今も残っている。- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 1.0
- 砂利が敷かれている
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年06月26日
総合評価:5.0
近江屋は、石碑が立っている地の南隣で醤油屋を営んでいた。1927年に石碑を建立する際、土地所有者の同意を得られなかったため北隣に立てられた。
当時の河原町通りは今よりずっと狭く、東側歩道が当時の道幅だったようだ。坂本らは近江屋の奥に潜んでいたため、現在石碑が立っている西側歩道辺りの、南隣がちょうど彼らの最期の地に該当する。- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 1.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月26日
総合評価:5.0
横井小楠は熊本に生まれた。私塾「四時軒」で教えていたが、1864年坂本龍馬が訪ねてきたとき、小楠はのちの「船中八策」の原案となる「国是七条」を説いたという。
松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには幕政改革に関わった。小楠は鎖国と幕藩体制を批判し、統一国家の必要性を説いた。
明治新政府の参与となった彼は1868年、御所参内の帰途に十津川郷士らによって暗殺された。その理由は「横井は開国を進め日本をキリスト教化しようとしている」というものだった。- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月26日
総合評価:5.0
管領家の斯波氏は兵衛督・兵衛佐を世襲したため、その唐名である「武衛」を称し、邸宅は「武衛陣」と呼ばれた。だが応仁の乱で「武衛騒動」と呼ばれる家督争いを起こして衰退し、斯波氏は邸宅を将軍家に献上し、領国尾張に下った(その後斯波義統は守護代織田信友に討たれ、信友は分家の織田信長に討たれる)。
三好長慶に京都を追われた将軍足利義輝は、長慶の死後は将軍専制を目指し様々な手を打ち、卓越した政治手腕を見せた。だが長慶の死後に主家を牛耳った松永久秀と三好三人衆は、幕府の実権を掌握するため、義輝を排除し足利義栄を新将軍に擁立しようとした。義輝は久秀暗殺を企むが、それは久秀の知るところとなった。
久秀と三好三人衆は1565年、二条御所の門が修復中との情報を得て、清水寺参詣と偽り1万の軍勢を京に入れ、義輝に「訴訟の儀あり」と称して門を開けさせ、その間に二条御所を包囲した。御所内の兵力はわずか数十人で、義輝は辞世の句を詠むと源氏重代の大鎧を身にまとい、足利家伝来の銘刀の数々を持って来させた。彼は典太光世、鬼丸國綱、大包平、九字兼定、朝嵐勝光、綾小路定利、二つ銘則宗、三日月宗近、粟田口国綱、一文字助宗などの銘刀を抜き銘を確認すると、それらを畳に突き刺し、迎撃態勢を整えた。剣豪塚原朴伝の教えを受けた義輝は、政治力だけでなく剣術も卓越しており、雑兵たちを次々に切り伏せ、超人的な瞬発力で敵の矢をかわした。刀が切れなくなると次々と交換し、全ての刀を使い果たすまで戦い抜く決意であった。
近習たちはことごとく討ち死にし、今や義輝一人が奮闘していた。三好・松永軍は襖を盾に四方から義輝を取り囲み、池田長正の子が背後から薙刀で義輝の足を払い転倒させると、その上に無数の襖と障子をかぶせ、その上から刀と槍で何度も刺してようやく絶命させた(永禄の変)。義輝が最期に手にしていたのは、源頼光が酒呑童子を退治したと言われる童子切安綱だった。
三好長慶は義輝をあやつろうとし、従わなければ京より追放もしたが、決して将軍を手にかけるようなことはなかった。長慶はライバルが台頭すると一変して義輝と和解し、その家臣にさえなっている。だが義輝は、自分の権威が長慶に支えられていることに思いが至らず、将軍専制に固執し、たびたび長慶暗殺を試みた。その長慶がいなくなればどうなるかを、義輝は身をもって知ることとなった。
義輝はそれまでの将軍とは異なり、際立って有能であり、傀儡では満足できなかったことが、結果的に命取りとなった。長慶とは異なり、常人ではできぬことをできる松永久秀の人間性を、甘く見たのだろう。
二条御所跡は、現在は平安女学院となっている。- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2015年06月26日
総合評価:4.5
吉田屋は勤皇の志士たちの密会の場として使用され、薩土盟約はここで締結された。
吉田屋は後に清輝楼と名を改め、1900年に設立された京都法政学校(後の立命館大学)が、この地を仮校舎と定め授業を行っている。
清輝楼は1997年に閉店し、現在は駐車場に「立命館草創の地」記念碑が建てられている。- 旅行時期
- 2013年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年06月26日
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投稿日 2015年06月26日
総合評価:4.0
御所の鬼門である東北に角ができるのを嫌い、築地塀の角を内側に切り込んである。そこに左甚五郎作の、比叡山延暦寺の地主神、日吉大社の使いである猿を置いているが、夜遊びに出かけて行かないよう金網で囲われている。
この猿のいる交差点を猿ヶ辻という。1863年5月、攘夷派の公家姉小路公知がこの付近で暗殺されたのが「猿ヶ辻の変」である。現場に「人斬り新兵衛」の異名をとる薩摩藩士田中新兵衛の鞘が落ちていたため、容疑者として捕縛されたが、田中は鞘を盗まれた不覚を恥じて自害した。
「猿ヶ辻の変」によって、薩摩藩は御所九門の警護役を解任された。- 旅行時期
- 2013年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- バリアフリー:
- 1.0
- 砂利が敷かれている
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年06月26日
総合評価:4.5
豊臣秀吉が伏見に城下町を築いた1596年、遊郭が伏見田町に設けられ、伏見城落城後の1604年には橦木町に移された。京街道と大津街道の分岐点に近く、京都の公家衆も多数訪れ、元禄期には芝居小屋や土産店が軒を連ねたという。大石内蔵助良雄も、隠棲していた山科から片道4キロ近い道のりを、徒歩で足繁く通った。
橦木町は京都で最も小規模な遊郭で、伏見港近くの柳町(現在の中書島)が栄えるようになると衰退するが、忠臣蔵ゆかりの地として知られ、「橦木町での密謀は成就する」とあやかる人も少なくなかった。
1958年の売春防止法施行により、遊廓は廃止されお茶屋9軒となり、1990年代初めまでお茶屋が営業していたが、21世紀までには全て廃業し宅地化された。現在は1918年に建てられた大門の石柱が残るのみで、往年の面影はない。
「仮名手本忠臣蔵」では、大石内蔵助が遊興したのは祇園の「一力茶屋」になっているが、実際は橦木町の「萬屋」であった。「仮名手本忠臣蔵」の作者は、「万」の字を二文字に分けて「一力」としたようだ。現在祇園に「一力茶屋」という店があり、「大石忌」を行っているが、この店は大石とは何のゆかりもないし、当時の祇園に遊廓はなかった。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 伏見駅から徒歩5分
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2015年06月26日
総合評価:4.0
極楽寺には、かつて野田城があり、しばしば合戦の舞台となった。
野田城は1531年、浦上村宗が築いたとされる。1570年、三好三人衆が野田城を増築・籠城し、それに呼応した石山本願寺が織田家打倒の武装蜂起をした。しかし1576年、織田信長によって野田城は落城。野田城と福島城は織田の手に渡り、第一次と第二次の木津川口の戦いでは、織田の重要陣地となっていたようだ。- 旅行時期
- 2014年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年06月26日
総合評価:4.0
1290年、越中守護の名越時有が築いたのが始まりである。彼は1333年、鎌倉幕府に反抗する朝廷方の勢力に城を攻められ、一族郎党79人とともに切腹して果てた。
その後は、守護代の神保氏が放生津に館を構えた。京都の龍安寺に幽閉された足利義材(後に義尹・義稙と改名)が1493年、神保長誠を頼って越中に逃れ、放生津に1498年まで滞在し「越中御所」政権を樹立している。
1520年神保慶宗が長尾為景に討たれ、放生津城は落城した。現在は放生津小学校。- 旅行時期
- 2013年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 万葉線「中新湊」電停下車徒歩5分
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年06月26日
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投稿日 2015年06月26日
総合評価:4.0
1586年、浅野長政が築いた。城主はその後増田長盛、新庄直頼と代わり、1595年には京極高次が6万石で入封した。
関が原の合戦で高次は、西軍の大谷吉継の配下にいた。高次の妻初の姉茶々は、豊臣秀頼の母であった。しかしその妹江の夫は、徳川秀忠であった。吉継が北陸から美濃へと転進すると、高次は突如東軍に寝返り、3000名を率いて大津城に籠城した。
西軍は高次の裏切りへの報復として、毛利元康を大将とし、立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら1万5000人の軍勢で攻撃を開始した。高次は奮戦したが、西軍が近くの長等山に大砲を据え砲撃を加えると、たまらず9月14日に降伏し、開城した。
高次は敗戦を恥じ、剃髪して高野山に登る。立花宗茂ら1万5000の軍勢は、本隊と合流すべく美濃を目指して東進したが、到着する前の翌15日午後、関ヶ原において西軍主力がわずか半日で壊滅してしまった。1万5000の兵を釘付けにして、決戦に参加させなかった功績ははなはだ大きく、降伏したにもかかわらず高次は小浜9万2000石を与えられることになったのである。
大津城は、長等山から砲撃射程に入ることが実証されたため、家康はこれを廃城とし、1601年、膳所城が大津城の用材を用いて築城された。大津城の天守は彦根城に移築されたという。- 旅行時期
- 2013年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 3.5























