わが国初の人体解剖
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- 旅行時期:2014/05(約12年前)
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by bluejaysさん(男性)
二条・烏丸・河原町 クチコミ:18件
1708年の京都大火の後、京都の左獄が六角通りに移転し「六角獄舎」と呼ばれるようになった。当時は懲役・禁錮という発想はなく、獄舎は未決囚の拘置及び死刑囚の処刑を行う場所だった。
1754年、京都所司代の許しを得て、山脇東洋がこの地でわが国初の腑分けを行った。解剖したのは死刑囚の遺体であった。
山脇東洋は、京都府亀山市の医家に生まれた。カワウソの解剖から、漢方医学に伝わる五臓六腑説に疑問を抱き、人体解剖によって蘭書の正確性を確認するとともに、五臓六腑説の誤謬を指摘した。1759年解剖図録「蔵志」を刊行し、杉田玄白らに大きな影響を与えた。
1864年、長州藩が武力で御所突入を図った禁門の変により、京都市中に火災が広がり(どんどん焼け)、六角獄舎にも及ぶ勢いを見せた。火災の際には囚人は解放するのが通例だが、京都町奉行は囚人の中に過激な勤皇派の志士たちがいるのを見て、囚人33人の処刑を断行した。古高俊太郎や生野の変の首謀者平野国臣も処刑されたが、火は堀川で止まり結局六角獄舎には及ばなかった。
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
クチコミ投稿日:2015/06/27
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