3つのゾーンから成り立っています。
- 5.0
- 旅行時期:2017/09(約8年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
長崎市 クチコミ:57件
昭和20(1945)8月9日午前11時2分、現在の原子爆弾落下中心地上空でプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下され、14万人もの人命が失われました。そして昭和24(1949)年8月9日に長崎国際文化都市建設法が交付・施行され、被爆犠牲者の追悼と恒久平和を祈念して、昭和25(1950)年8月1日に長崎市立公園として松山町に国際平和公園が開設されました。
昭和30(1955)年4月1日には現在の長崎原爆資料館の元となる長崎国際文化会館が完成し、同年8月8日には平和祈念像の除幕式が行われました。
その後幾多の変遷の後に、昭和58(1983)年に長崎市に『平和公園聖域化検討委員会』が設立され、昭和60(1985)年に平和公園内での花見や飲酒が禁止されます。平成5(1993)年には平和公園再整備計画が出され、原爆資料館として手狭になっていた国際文化会館の建て直し工事も始まります。翌平成6(1994)年から平成9(1997)年にかけて平和公園の再整備工事がなされ、その過程の中で原爆殉難者名奉安所を原爆落下中心碑前に移設し名簿のマイクロフィルム化を実施し、名簿原本は国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館内の追悼空間(原爆死没者名簿棚)に設置することになります。また平成8(1996)年4月には現在の長崎原爆資料館が完成し、現在の平和公園のアウトラインが完成しました。
平成20(2008)年には平和公園が文化財保護法の規定により登録記念物として登録され、平成23(2011)年~平成25(2013)年には平和公園階段横に『平和の歩道』と呼ばれるエスカレーターが開設され、朝7:00~夜22:00迄利用できるようになり、平和公園参拝者の足となって現在に至っています。
総面積18.6haの平和公園は3つのゾーンに分けられており、平和祈念像付近の願いのゾーン、原爆落下中心碑付近の祈りのゾーン、そして長崎原爆資料館付近の学びのゾーンから構成されています。
同じ被爆地として広島と比較すると諸施設の建立の新しさに気づきます。平和公園を構成する3つのゾーンが定められたのは平成になってからのことだということもなにかしっくりいかないことでもありました。慰霊碑というよりも祈念碑と感じるものが多いのは長崎の特徴であり、平和公園の聖地化にしても広島とはだいぶ趣が異なっており、モニュメントが乱立している公園のような印象を受けました。
広島の場合原爆ドームをはじめとする被爆遺構は、その時その場所にあったまま、景観を損ねないように建立物を規制するバッファーゾーンがしっかり設けられているのに対し、長崎の場合は被爆遺構を敢えて移築し、集めているように思えてなりません。怒りの広島・祈りの長崎と原爆に対する考え方も違うのかも知れませんが、祈りのゾーンに移築された浦上天主堂の被爆遺構はほとんどのアングルから撮影した写真にラブホテルが写り込んでしまうというありさまなのは有名処のひとつでしよう。
うまく表現ができないのですが、広島は被爆遺構を確認してから平和記念公園を建設したのに対し、長崎ではそれがどこまで行われたのか?正直疑問に思えるところが多々あります。祈りのゾーンには被爆時の地層をガラス越しに見ることができます。これには解釈も要らず大変わかりやすいものであると思います。しかしその反面平和の歩道建設時に発見された『防空壕跡』は、聞き取り調査をした段階でわかりそうなもののように思えてなりません。
広島では被爆時の地面は『被爆した墓石』付近の不自然に掘り下げられているものに注釈がつけられて初めてわかるものになっています。どちらが良いのかは人それぞれの想いもあり、すぐに答えが出せないようには思えるものの、今現在に於ける被爆遺構をはじめとする往時の建立物の残し方に、後世にどのように伝わるのか一抹の不安を覚えました。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 松山町電停から徒歩5分位です。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 晴れた昼間は無茶苦茶人が多いです。
- バリアフリー:
- 5.0
- エスカレーターが完備されていました。
- 見ごたえ:
- 3.0
- 建立意図はわからなくもありません。
クチコミ投稿日:2017/10/19
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