たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(61ページ)全1,843件
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投稿日 2016年07月20日
総合評価:5.0
南風原町3つの字にまたがる黄金森。ここに沖縄戦末期に沖縄守備第32軍直轄である南風原陸軍病院壕が作られました。那覇市街に置かれていた沖縄陸軍病院は、昭和19(1944)年10月10日の十・十空襲で焼け出され、南風原国民学校(現:南風原小学校)に移動してきました。その後米軍の上陸前に黄金森一帯に30とも40ともいわれる病院壕を掘り、そこへと入ることとなります。院長の広池文吉軍医中佐以下軍医・看護婦・衛生兵など300余名の体制でしたが、その後昭和20)(1945)年3月23日に沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒から構成された?ひめゆり学徒隊?が加わります。
しかし戦況の悪化により、5月下旬には沖縄守備第32軍司令部が南部へと撤退を決定し、それに同行する形で陸軍病院も南部へと撤退命令が出されます。その際学徒や兵士(主には防衛隊員)に肩を借りて移動するも重症患者で移動が困難だった兵士は取り残され、処置という名目で薬物注射や手榴弾によって自決を遂げるなどしたそうです。なかには隊の後を追うように、這いつくばって追いかけた者もいたようですが、砲弾の嵐の中泥にまみれてそのままこと切れたものがほとんどだったようです。
約2ヶ月の南風原陸軍病院壕としての機能でしたが、沖縄島中部戦線に於ける負傷者が日々運ばれ、寝る間もなく治療にあたったひめゆり学徒の話は知る人も多いと思います。しかしその中陸軍病院内で戦死した兵士他医療スタッフ2,200余名のことが語られることはあまりないようです。その犠牲者を慰霊するために昭和41(1966)年3月に建立された?悲風の丘?の碑、元内閣総理大臣佐藤栄作氏の揮毫によるものですがプロバガンダ的な解釈をされる方も多いと聞きます。
思想論は抜きにして?悲風の丘?建立50年が経ち、付近一帯の様子が目まぐるしく変わっている事実があります。陸軍南風原病院第2外科壕第20号の一般開放、付近一帯の整地等運動公園の開設も含めて利用者向けの便宜的なものは、正直その戦跡そのものの保存とは少し意図が違うもののように思えてなりません。悲風の丘の碑の脇に建立されている沖縄陸軍病院壕址の碑に関しても、建立当時は病院壕の解放がされておらず、付近一帯の戦跡だという意味で建立されたもののように思えます。
一昔前黄金森一帯の陸軍病院壕址他飯上げの道を含め、?けもの道?と評されているものが多いのですが、現在ではそれ程ひどいものには思えない事実があります。確かに飯上げの道は地道であり、降雨の後は足場が悪くなるため迂回する遊歩道を利用して下さいとの注意書きがありました。そのような現実的な背景を考えると、現地点に病院壕址の碑や悲風の丘の碑を据え置く必要もないようにも思えます。付近一帯で多くの戦死者が出たのは事実ですが、その多くは病院壕の中で亡くなっていることは間違いのないことであり、ならば壕の近くに建立するのが理に適っているのではないか…そう思えてなりません。
一般開放された第2外科壕第20号は開放から9年が経ち経年劣化が進んでいます。同時期に開放された24号は土砂の流入で3年間で閉鎖されており、20号もいつまで開放できるのかわからないと聞きました。砂岩質の壕内は決して頑丈というものではなく、表面から剥離して行く特徴があります。そのため一般開放をすることによって人の出入りが激しくなり、従来の湿気が高すぎるという印象も減りつつあるようです。ウレタンで補強されたりして痛々しい姿を目にすることにはなりますが、将来的に閉鎖の可能性があるのであれば、その遺構に新たに作るのではなく現存の慰霊碑を移設することが必要ではないかと思います。
通路が変わったこともあるのか建立地の位置がずれており、南風原文化センター近くの建立地は、飯上げの道付近となっているようです。年々変わる黄金森一帯、その経過を自分の目で見て行きたいと改めて思います。- 旅行時期
- 2016年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 南風原文化センターより徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- どなたにも会いませんでした。。
- バリアフリー:
- 3.0
- 結構急な階段があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 素直に戦死者の方々へご冥福が祈れます。
-
投稿日 2016年07月19日
総合評価:5.0
南風原文化センター、沖縄戦の際に熾烈な地上戦が行われたこの街には沖縄陸軍病院壕が置かれていました。大小30余もあったとされる病院壕は、米軍の爆撃を受け多くが崩れてしまっています。
その壕を発掘し、遺骨や遺物を収集する作業が行われましたが、あまりにも多い数に壕内で管理することができずに、?資料館?として遺物の管理をしつつ展示しているのが南風原文化センターとなります。
展示室は四つに区分され、沖縄戦に於いてをはじめとした南風原や沖縄のその後を見せているものではあるのですが、沖縄戦に於ける展示は住民や学徒を巻き込んだ地上戦の悲惨さを良く言い表しているようには思えるものの、その後戦後を迎えた沖縄の復興と移民についてとなるとあまりにも内容が大きくなり過ぎてしまい、正直何が言いたいかがわかり辛いものとなっています。
公的な戦争史料館施設には良く見られることではあれど、多くを語ろうとするがあまり?焦点?がボヤけてしまっているところを感じます。戦争の悲惨さは多くの施設に於いて表現されているものの、肝心な?0からの復興?について核心を突いたものが少ないのは残念に思えてなりません。
所要時間は1時間半は最低でも…と書かれていましたが、到着が遅れて1時間程しか取れなくても十分見学することは可能でした。場所柄激戦地であったということもありますが、やはり建物敷地内に置かれている各種慰霊塔や記念碑を単独で置いておくのではなく生かすような展開をして貰いたいように思いました。- 旅行時期
- 2016年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 那覇から車で30分程で到着します。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 300円を安いと取るかは人それぞれです。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 何人かの見学者はおられました。
- 展示内容:
- 5.0
- 沖縄戦については素晴らしいですが後は…。
- バリアフリー:
- 5.0
- 自動ドアとスロープ完備です。
-
投稿日 2016年07月18日
総合評価:5.0
富盛の石彫大獅子、八重瀬公園北西に鎮座しています。昭和49(1974)年12月に沖縄県指定有形文化財に指定された高さ141.2cm、全長175.8cmの結構大きなものです。
琉球第二尚王朝11代?尚貞王?21年(1689年)に火災の多かった富盛村に於いて、?火除け(火返し)?のために尚貞王の命により建立され、フィーザン(火山)といわれる八重瀬嶽に向かって蹲踞しています。火除けのお守りとして長年集落を守り続けてきた石獅子は、今日でも旧暦10月1日(竃のお願)<防災儀礼>の行事にこの獅子を拝んでおり、戦前までは旧暦9月9日(タントゥイ棒)のときに、村の青年達はこの勢理城(ジリグスク)に集まり棒踊りを演じ奉納していました。
沖縄各地にある村落祭祀の目的で作られた獅子の中でも最大最古のものとして民俗資料として貴重なものとされていますが、この石獅子の胴体にはいくつもの?凹み?が残っていることに気付きます。
70余年前の沖縄戦末期にこの富盛の集落は、日米軍の激しい戦闘が行われた戦場と化しました。少しでも標高が高い場所を占領すれば視界が開けると考えられたこともあり、この石獅子を?弾除け?に利用していた米兵の姿が記録に残されています。
今では駐車場が作られ、一部木が生い茂っていて見通しのきかないところが場所がありますが、ほとんどは視界が広がっています。戦時中の写真では石獅子がポツンと置かれているだけのため、それを弾除けにするしかなかったようにも思えます。弾痕の残っているものは沖縄県の各地に残ってはいますが、観光地とされる場所ではあまりないようにも思えます。勢理城跡という謂れすらわからない丘の上に立つ石獅子と、その敷地内から見られる景色は相反するような意味合いも感じられますが、やはりここも戦場となった史実を忘れないようにすることにより、沖縄全土が戦場になったことを肌で感じることになるのではと改めて思います。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 八重瀬公園から車で5分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 誰もおられませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 階段があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 石獅子についている凹みに、沖縄戦の熾烈さを感じます。
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投稿日 2016年07月17日
総合評価:5.0
浄土真宗本願寺(西本願寺)派の聖徳山大典寺。琉球王府時代は浄土真宗は禁教とされていたものの、琉球処分の後明治12(1879)年に宮崎県の大河内正念師が来沖に始まり、翌年明治13(1890)年には鹿児島の亀井慈雲師が来沖し、13年間の開教の準備がなされた後、明治33(1910)年に鹿児島県大島郡徳之島説教所より菅深明師が転任来島、那覇市上之蔵に?浄土真宗那覇説教所?を設置し、布教伝道を始めます。
翌年明治34(1911)には現在地に説教所を移転、寄留商人や官吏を中心に布教を行い漸次地元の沖縄の人々へも教化の手を進めて行きます。大正5(1916)には大正天皇即位の御大典を記念し、本堂及び庫裡を建立し?聖徳山大典寺?と寺号を公称、開基の菅深明師が初代住職となりました。
以降沖縄各地に布教所を開設し、教線を拡げていくと同時に非行少年の更生保護のため沖縄少年感化院(後の球陽学園)を設置します。また子女教育のため沖縄家政女学校(後の積徳高等女学校)を創設して、活発な教化伝道を展開していましたが、沖縄戦によってすべてが焼失することになってしまいます。
南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)の教えのもと浄土真宗を沖縄の地に布教し、その過程に於いて更生所や学校を作るものの沖縄戦によって焼失し、戦後その学校施設が再建されることはありませんでした。
沖縄戦に於いて?ふじ(積徳)学徒看護隊?を結成した積徳高等女学校の生徒は、従軍した第24師団第二野戦病院院長の小池勇助中佐の?命を大切に?との考えのもと、多くの犠牲者を出した少年少女の学徒隊に於いて、3名の犠牲者で済んだ奇跡的な結果を生み出した学徒隊でした。勿論3名の犠牲者は出しているため、無傷とは言えませんがその比率はやはり目を惹く内容だと思います。しかし残念ながら学校は戦火で焼失し、戦後復興されることもなく廃校となりました。
アジアの寺院的な感じを受ける大典寺の境内には、積徳学徒看護隊や学校関係者の戦没犠牲者を祀るべく、慰霊碑が建立されています。寺院敷地内に置かれているため、花が絶えることもなく見る限り慰霊の気持ちを感じることができる場所となっています。内地の寺院とは違って、参拝時間はさほどかからないため、空港へと戻る?最後の目的地?のひとつとして訪れる価値はおおいにあると思います。- 旅行時期
- 2016年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 空港から車で10分位です。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 通常は参拝客もいないようでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 基本足元は舗装されていました。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 内地のお寺さんとは全く建物がちがいます。
-
ふじ(積徳)学徒看護隊学徒と学校関係者が祀られた慰霊碑です。
投稿日 2016年07月17日
総合評価:5.0
那覇市松山、那覇の中心部に位置する浄土真宗聖徳山大典寺。その敷地内に平成12(2000)年に積徳高等女学校関連の戦没者職員5名・同窓生44人・学徒23の合計72名が合祀された積徳高等女学校慰霊之碑が建立されました。
明治時代に布教が始まった浄土真宗、その教えを元に私立家政女学院が大典寺敷地内に開校したのは大正7(1918)年のことになります。以降昭和5(1930)年には四年制の高等女学校となり美栄橋に移転の後、昭和18(1943)年に私立沖縄積徳高等女学校と校名を改めます。
昭和19(1944)年10月10日の十・十空襲で校舎が全焼し、その後ほとんどの授業が停止され、全校あげて垣花・天久・識名などの高射砲陣地構築や国場での戦車壕掘り作業に従事するようになり、昭和20(1945)年2〜3月には4年生55名が看護教育を受けるようになり、東風平国民学校に置かれた第24師団第2野戦病院壕で実習訓練を受けることになります。
昭和20(1945)年3月には沖縄戦の開戦が避けられない状況となり、実習は打ち切られて生徒達は学徒看護隊として豊見城城跡にあった第24師団第二野戦病院本部壕に55人中25名が入隊し、その日から負傷兵の看護に当たることになりました。本来ならば行われるはずの卒業式は戦況により中止となっています。昭和20(1945)年5月27日には戦況の悪化に伴い糸洲の自然壕に移動命令が出され、昭和20(1945)年6月17日には米軍の馬乗り攻撃を受け、壕内の患者に犠牲者が出ました。6月26日第二野戦病院長小池勇助少佐が、野戦病院を解散させますが、その際学徒隊ひとりひとりに労いの言葉をかけられたそうです。昭和20(1945)年7月2日 米軍が掃討作戦終了を宣言し、昭和20(1945)年9月7日 嘉手納基地内での降伏文章への調印によって沖縄戦が正式に終了しました。
しかし戦災で焼けてしまい学校関係者が望んだ積徳高等女学校の学び舎は、遂に戦後復興されることもなく廃校となりました。
従軍した学徒25名のうち、戦没者が3名(1名は戦後自死されます)という一般的に言われている学徒戦死者の割合がたいへん少ないことは知る人ぞ知る史実ではあります。積徳学徒隊が従軍した第24師団第2野戦病院院長の小池勇助中佐の出した戦況を見た?解散命令?、そして最後の訓示として?生きることは恥ではない。死ぬことこそ恥である?と言われたことが学徒として従軍されたものの、戦争を生きながらえられた学徒隊の方々が揃って仰る言葉です。
戦争という背景の中では?死ぬことが当たり前?的な考えが蔓延る中、命を大切にと最後の訓示をした小池隊長。そしてその言葉を守った学徒隊の皆さん…。結果としてその?信頼感?こそが?生きる原動力?となったに違いありません。
残念ながら?生きろ?と訓示した小池隊長は自決を選ばれました。しかし小池隊長を命の恩人と慕う学徒生き残りの方々との交流は戦後も続き、小池隊長の回忌のお墓参りには参加されていたとのことが新聞記事にも載っていました。
戦後70年が経過した平成27(2015)年6月23日、学徒生存者の方々の高齢化を理由に慰霊祭を執り行っていた?ふじ同窓会?が解散を表明され、本年から?自由参拝?とされることを表明されました。人間の老いを止めることは現在の科学をもってしても不可能なことゆえ仕方がないことだとは思います。しかしその趣旨を理解した戦後世代に引き継ぎ、自由参加の中でも主体性を持ったものにはできないか?とも思います。
犠牲となった多くの学徒を祀る慰霊碑は数はあるものの、多くは訪れる方も疎らで?枯れた花?や?色褪せた千羽鶴?がそのままになっているものをよく目にします。その点大典寺境内に建立された慰霊碑ゆえ花が絶えることはありません。多くの犠牲者が出た場所に建立されている慰霊碑ではあるものの、今後は?永代供養?を視点に入れて考えなければいけないのかも…。そのような現実をふと思った今回の?積徳高等女学校慰霊之碑?参拝でした。- 旅行時期
- 2016年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 空港から分位で到着できます。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 平日の午前中はどなたにも会いませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 舗装はしてあります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 多くの花に囲まれている慰霊碑には邪念なしに手を合わせられます。
-
魂魄之塔・ひめゆりの塔・健児之塔を建立された真和志村長です。
投稿日 2016年07月15日
総合評価:5.0
沖縄戦が終結し捕虜収容所に集められた住民は、食糧増産を図るため、米須原へと移されました。その際真和志村長をされていたのが金城和信先生です。
戦前より国民学校の校長を務めるなどの教育者でしたが、米須原の遺骨が野ざらしになっている窮状を見て、住民達とともに米軍に遺骨収集を依頼します。しかしそのことが皇民化主義に繋がると考えられ許可はされませんでしたが、農地を開墾するにあたり、限りなく出てくる多くの遺骨が妨げになると判断し、やっと許可が下ります。住民達とともに遺骨収集を行い、集めた数は35,000注にも登りました。物資がない中で米軍払い下げのセメントなどを用いて、昭和21(1946)年2月に魂魄之塔が完成します。
また金城ご夫妻は愛娘ふたりをひめゆり学徒看護隊として失っており、その足跡を探す過程で伊原の第三外科壕を発見し、昭和21(1946)4月に初代の?ひめゆり之塔?を建立します。また同時期に行われた沖縄師範学校男子部の?鉄血勤皇隊?終焉の壕に於ける遺骨収集に於いて、初代の?健児之塔?を建立されました。
晩年は遺骨収集に尽くされた金城和信先生の功績は計り知れないものがあり、そのことを後世に伝えるべく魂魄之塔横に胸像が建立されました。
戦後の混乱期、自分達が生きていくのに精一杯だった時代に敵味方軍民問わず遺骨収集をされた金城和信先生の精神は、今なお生き続けています。胸像と対面し、興味本位で知識をつけてきた自分が恥ずかしく思えて仕方がありませんでした。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- ひめゆりの塔から車で5分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 魂魄之塔には数人の参拝者がおられました。
- バリアフリー:
- 5.0
- 敷石は敷かれていました。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 金城和信先生の功績を知っていたら感無量でした。
-
新垣で玉砕を遂げた歩兵第八十九連隊沖縄戦戦没者を慰霊顕彰するために建立されました。
投稿日 2016年07月16日
総合評価:5.0
糸満市潮平の浄土寺境内に平成10(1998)年4月8日に建立された歩兵第八十九連隊沖縄戦戦没者慰霊顕彰の碑は、沖縄戦末期新垣で玉砕を遂げた第八十九連隊の沖縄戦戦没者2,600余名を顕彰する目的で建てられました。
沖縄戦を戦った主力部隊のひとつであった第二十四師団歩兵第八十九連隊は、満州で編成された後旭川連隊区が徴兵・出征を担当した北海道ご出身の兵士が多くおられた部隊です。精鋭揃いだった連隊将兵も、圧倒的な兵力・火力に勝る米軍の前では劣勢に立たされ、遂に昭和20年6月には連隊長金山均大佐以下連隊本部将兵が自決、或いは戦死により玉砕を遂げました。
戦後米軍統治下の沖縄では軍関係の慰霊塔建立は難しいものだったとされており、なかなか建立が進まなかったそうでした。そして昭和47(1972)年5月15日の沖縄県として日本に復帰したのをきっかけに慰霊碑建立に拍車がかかり昭和47(1972)年には連隊慰霊顕彰を目的とする遺族戦友からなる八九会が発足し、組織亭慰霊顕彰活動が始まります。
昭和56(1981)年には激戦地西原町(当時は村)の西原の塔敷地内に?独立歩兵第八十九連隊顕彰碑?と連隊本部終焉之地糸満市荒垣に?歩兵八十九連隊玉砕終焉之地碑?が建立され?軍旗奉焼之地碑?の移設が行われ、連隊の足跡が広くわかるようにされました。更に昭和63(1988)年には永代供養を行う菩提寺が設定され、この浄土寺が定められました。
戦後70余年経ち遺族の高齢化など、慰霊碑の管理運営には多くの問題が山積みされていると聞いています。それを察知して菩提寺を決め、墓参法要の拠点と考えられたことは、やはり組織的に行ってこられたゆえの結論だと思います。しかし残念ながら現状その第八十九連隊関係の慰霊顕彰碑には、誤った解釈をされている情報が公的なものを含めて少なからず存在します。
どこになにがあるのか?という情報を元に訪ねて行く方々も多い中で、そのような誤った情報を放置することは、結果的に誤解を生むことになり興味を削いでしまう結果に行き着いてしまうところを危惧します。足跡を辿るのには正確な場所を知ることは不可欠であり、情報管理の必要性があるのではと痛感した今回の?歩兵第八十九連隊沖縄戦戦没者慰霊顕彰碑?の訪問でした。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 空港から車で20分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- どなたとも会いませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 段差はありませんでした。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 新しい顕彰碑であれど言葉の重みを感じました。
-
投稿日 2016年07月16日
総合評価:5.0
糸満市潮平、沖縄戦に於いて激戦が広げられたこの地に浄土寺が建立されたのは昭和59(1984)年のことだそうです。隣接の袋中園園長であった山本有綱師が同園での子供達の指導にあたる中で、常に子供達の傍に仏様の教えに触れさせることが大切だという思いから隣接する土地を購入し、それに加えて日本各地の有縁の篤信者、宗内僧侶有志がその建設資金を寄せあった結果完成したもののようです。
浄土宗の教えが色濃く取り入れられており、?二河白道?という建物の形、そして本尊様をはじめとした脇士、善導大師・法然上人両像は岡山県総社市の門満寺から贈られた由緒ある仏像だそうです。
浄土寺として歩み始めたころの昭和63(1988)年、沖縄戦を戦った第八十九連隊の沖縄戦戦没者慰霊顕彰碑の建立と、その戦没者兵士の永年供養をする話が持ち上がり、平成10(1998)年には慰霊顕彰碑が建立され、菩提寺として現在に至っています。
観光地化されているわけではないので多くの人が訪れる場所ではありませんが、お寺の境内にある慰霊顕彰碑はいつもきれいに保たれており、祀られている兵士の御霊もさぞ落ち着いて時の流れを見ておられるように思います。戦跡ではありませんがぜひ一度お参りして頂きたいお寺のひとつです。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 空港から車で20分程で到着します。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた時はどなたもおられませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 石畳ですが段差はありません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 小さなお寺ですが、そこに建つ慰霊顕彰碑の大きさに圧倒されます。
-
投稿日 2016年07月16日
-
投稿日 2016年07月02日
総合評価:5.0
道を間違えて迷い込んだ場所でした。
那覇空港を離陸する航空機を望むことができる場所?瀬長島?。名前は良く聞くもの訪れる機会には恵まれませんでした。たまたまナビの案内を聞き違えて辿り着いたことが理由です。
もしかすると界隈の道路は下地島空港同様駐車禁止となっているのかも知れませんが、離陸した航空機の轟音を聞いて車を止め、空港を眺めると離陸体制に入った航空機が目に入り、しばし眺めていました。
頭上を飛んでいく大きな機体は、沖縄の思い出を乗せて故郷への空の旅を正しく開始した感じを受け、夕焼け空の彼方へと飛んでいく姿はまさに幻想的にも見えました。
多くの方がベストポジションに挙げられている場所は、まさに飛行機の聖地に他なりません。- 旅行時期
- 2016年06月
-
投稿日 2016年07月08日
総合評価:5.0
西原町にあるサンエースーパーが中核となっている複合店舗です。9:00〜23:00の営業時間は、なにかと生活必需品の購入には使い勝手の良いお店です。
品揃えか大変充実しているため、通常のお土産品はもちろん、家族などへの飾る必要のないお土産の購入にはうってつけのお店であり、ひとつのお店で全て揃えることが可能です。月間割引商品も多々あり、6月はちょうど?さんぴん茶?が特価になっており、かなり安く購入できました。
LCCの利用などで手荷物を預けると費用が発生する場合ならば、店内から発送や近くの西原郵便局から差し出すこともできるため、荷物を増やさずに済むようにもできます。
使い方は人次第ではあるものの、滞在場所によっては色々と使えるお店です。ちなみに袋は有料のため、発送品の購入には先にダンボール箱を用意しておくと便利です。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 那覇空港から30分くらい。
- お買い得度:
- 5.0
- スーパーなのでお得感があります。
- サービス:
- 5.0
- チェーン店の統一された感が良い感じです。
- 品揃え:
- 5.0
- 豊富です。
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープと自動ドア完備です。
-
投稿日 2016年07月11日
総合評価:5.0
具志頭按司の居城であった具志頭城跡にあるクラシンウジョウは、沖縄戦の最中第9師団工兵隊によって構築された人工の壕だとされていますが、詳細はわかっていません。第9師団は沖縄での地上戦が始まる前に台湾へと移動になり、代わりに第24師団が後の任務に就くこととなりました。
当初日本軍は米軍の上陸地点を南部の海岸だと読んでいたこともあり、港川を向いた往時の銃眼が残っています。
昨年平成27(2015)年8月に施設管理を巡ってトラブルがあり、今後の入壕管理を行うNPO団体が効率良く収益を上げるように個人客の入壕を不可とする方針を打ち出したため、またそのことで一悶着あったようです。
今では入口に入壕に関する注意事項を張り出しているものの、連絡が取れないこともあり、入壕者が大きく減ったことが言われています。
元々この場所に来るには大型バスで集落内の狭い道を通らないといけないため、居住者からのクレームが多々出ていました。管理団体が変わることによって解決されると思いきや、そのままの状態で今日に至っています。
実際のところクラシンウジョウの?拝所?の利用は除くとは書かれているため、壕内に立ち入らなければ良いのかという解釈が罷り通っているようです。
私もその解釈に基づき通路から見学をさせて頂きました。そのことが良いのか悪いのかは今後の解釈によるとは思いますが、この団体が管理するもうひとつの壕がヌヌマチガマということであれば、使用目的が違うふたつのガマをひとつの括りで追体験をすることでは全く意味が異なるように思えます。漠然とした入壕としていて問題にならないことがある意味問題なのかも知れません。
公的機関が手続きの手間を省くために指定管理者を定めることは理解できないことではないにしても、結局展開が変わらなければ意味がないように思えます。施設と入壕管理をしてはじめて意味をなす・・・そう思えてなりません。戦場となり犠牲者も出しているこのクラシンウジョウ、後世に正しく伝えることができなければ壕は勿論のこと亡くなられた戦没者の御霊も浮かばれません。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園から車で15分くらい。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- どなたもおられませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 階段の他は地道です。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 壕内に残る銃眼は、終わらない戦争を彷彿させます。
-
投稿日 2016年07月12日
総合評価:5.0
魄粋之塔(はくすいのとう)は、昭和28(1953)年6月に旧具志頭村によって建立された慰霊碑と納骨堂です。納骨堂には10,150余名の遺骨を収めましたが、その後多くは国立沖縄戦没者墓苑へと移されています。
沖縄戦での地上戦が始まる寸前、台湾へと抽出された第9師団の後任としてこの地にやってきたのは第24師団隷下の歩兵第89連隊。そのうち具志頭の警備にあたっていたのは第2大隊第5中隊でした。
米軍上陸地点を港川と読み間違っていたこともあり、地上戦初期にはそれ程激しい戦闘もなかったようです。しかし戦況の悪化と首里にあった第32軍司令部の南下撤退に伴い、主戦場は沖縄島中部から南部へと移ることとなり、この魄粋之塔が建立されている52.5mの琉球石灰岩の岩山が△53高地と命名され、島尻東部に於ける激戦が行われた場所でもあります。
結果として軍民問わず多くの犠牲者を出したこの地区で、やはり住民の方々主導によってそして塔の後方には戦争で亡くなられた具志頭村出身の芳名が刻まれています。魄粋之塔自体は集落単位で建立された慰霊碑と大差はないと思うのですが、この敷地内には?忠魂碑?が建立されています。建立時期は定かではないものの戦没者を含む公務中に亡くなられた方々を祀る塔であるため、違和感を感じました。
恩納村にある忠魂碑は破損が激しく、戦後に軍関係の慰霊塔を感情的に破壊したことは知られている事実です。しかしこの具志頭で見た忠魂碑はあまりにもきれい過ぎるように思えました。あり得るのかどうかもわかりませんが、戦後に再建立されたものもあるようなことも言われています。
魄粋之塔にはお弁当を持って参拝に来られた年配のご夫婦がおられました。その姿はやはり沖縄戦に於いて多くの地元の方々が亡くなったことを表しているように思いました。建立目的の違うふたつの塔が並ぶこの場所は、戦中戦後の複雑な沖縄県事情を示しているのではないか…改めてそう思いました。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園から車で15分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 一組のご夫婦が見えておられました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 段差はあります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 建立が住民主体のものとしてまた違うような感じも受けました。
-
高知県所縁の戦没者を祀る慰霊塔として有志の手によって建立されたものが最初です。
投稿日 2016年07月12日
総合評価:5.0
八重瀬町具志頭、具志頭城跡に建立された?土佐之塔?は、昭和31(1956)年に有志の手によって建立された?高知県戦没者慰霊塔?に始まります。旧具志頭村村有地に建立されましたが、維持管理が不十分だったことあり全面改修の話が持ち上がりました。そして 昭和41(1966)年11月22日に現在の?土佐之塔?が建立され、現在に至っています。祀られているのは18,545名でうち沖縄戦戦没者832名と南方諸地域戦没者17,713名となっています。
都道府県別慰霊碑の多くは摩文仁の丘に建立されていますが、それ以外の場所に建立されたもののひとつです。なぜこの場所に建立されたのかは、初代の慰霊碑を建立した場所の隣という謂れしか書かれていないためわからないものの、南部の海岸一帯は沖縄戦末期の激戦地となり多くの人々が犠牲となった場所には違いがないため、そのような理由で建立されたものと推測します。
塔敷地内から見える海は平和そのものの風景を醸し出しているように思います。しかし僅か70余年前にはどのような光景が広がっていたのでしょうか…。勿論タイムスリップでもしない限り見ることはできないものの、背景と一体化している土佐之塔の前に立ち、戦中に思いを馳せることも大切なように思いました。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園から車で15分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 誰もおられませんでした。
- バリアフリー:
- 4.0
- 塔に登るには階段があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 土佐之塔と一体化している海の景色には圧倒されました。
-
投稿日 2016年07月12日
総合評価:5.0
島尻郡八重瀬町具志頭の具志頭城跡に聳え立つ?甲斐之塔?は、先の大戦に於ける戦没者22,051名を祀っています。沖縄戦戦没者550名と南方諸地域戦没者21,501名を祀るべく昭和28(1953)年6月15日に当時沖縄で仕事をされていた山梨ご出身の方が、山梨県の戦没者所縁の地であるこの具志頭に私費を投じて慰霊碑を建立されたことに始まり、その後昭和41(1966)年11月8日に現在の甲斐之塔が建立されて現在に至っています。
碑が向かう方向には故郷甲斐の国があり、故郷を遠く離れたこの地で亡くなられた戦没者の御霊を慰めるとの建設意図は都道府県別慰霊碑と共通したところを感じます。しかし塔の建立の場所がなんとなく不自然に思えるようなところがあり、元々同時期に建立された他の碑と被るように建立されたことにはなにか理由があるのかとも思います。ひとつは城跡公園下にあるクラシンウジョウとの兼ね合いなのか…などと思って調べてみましたが、それでもないようです。
色々な理由によって今の状態で建立されたことに理由をつけることもないのかも知れません。碑から見渡すように広がる海…、そこで眠る御霊のを慰めたいということは不変の事実だと思います。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園から車で15分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 誰もおられませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 段差はありました。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 塔から見える海は絶景です。
-
投稿日 2016年07月12日
総合評価:5.0
やがて始まる沖縄戦に対し陸軍沖縄守備第32軍が創設され、首里に司令部が置かれることになります。太平洋戦争開戦後次第に悪くなる日本軍の戦況に対し、防衛線が敷かれることとなり、ここ西原村(当時)は第二防衛線が敷かれ、西原国民学校等に1,200余名の兵士が駐屯していました。沖縄戦が不可避の状況となった昭和19(1944)年6月頃、西原村役場でも地元住民から人夫を雇って役場壕を掘り、戸籍簿、土地台帳などの重要書類や、公金、公印、出納簿、戦時債券などを重さ1トンほどもある壕内の金庫に収納していました。
役場の事務仕事は米軍が沖縄に上陸する寸前まで行われており、毎朝出勤すると役場壕から書類を持ち出して事務を行い、夕方再び書類を壕内に運んで保管していました。避難壕ではあったものの、戦後そのまま放置されていました。
その後話題にのぼることのなかった役場壕でしたが、壕前面に整地をした際に主壕の壁を業者が誤って道路に面した部分を取り崩してしまったことによって開口してしまい、その後保存が言われるようになりました。戦争の歴史的教訓が年々風化するなかで太平洋戦争の悲惨さを物語る西原町の数少ない戦争遺跡のひとつとなって現在に至っています。
現在大きく開口している壕には鉄格子が取り付けられており、無断では入ることができなくなっています。またその部分に?旧西原村役場壕?の石碑が建立されているため、この部分が入口だと思われがちですが、実はこの場所は元々開口していなかった場所であり、道路建設時に誤って壁を壊してしまったとこから開口した部分です。入口は向かって右方向にふたつあり、風通しも考えられた造りとなっています。
役場へと鍵を借りに行けば中の見学もできるようですが、その時間も今回はなかったため壕内の写真を撮るだけにしました。見た限り丁寧に掘られたように見えることは、ある程度の余裕が壕の構築時にはあったことを示しているように思います。役場壕の保全に関して、町制施行20周年を迎えた平成11(1999)年に行われ、現在のような様式となったようです。
現在でも高速道路等があり交通の要所となっている西原町ですが、沖縄戦に於いても軍事上の拠点として歴史に残る熾烈な戦いが繰り広げられた場所でもあり、西原村の住民の5,016名、実に47%が犠牲となり、一家全滅世帯数476という多大な犠牲を払っています。
戦後生き残った住民の手によって軍民問わず収集された遺骨は、近くの西原の塔に祀られました。そして戦後70余年余り経過した西原の街は、那覇のベットタウン化して人口も増え続けています。過疎の街にはならなかった西原町ですが、沖縄戦の激戦地として必ず名前が挙がるところでもあります。
この旧西原村役場壕、道路に向かってぽっかり穴をあけた人工壕ではあるもののそこには熾烈な戦いを目の当たりにしてきた史実があります。なかなか目的なくて行く場所ではないかとは思うものの立ち寄る価値はおおいにあるように思います。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 那覇から車で30分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見学者は誰もいませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 入壕は無理です。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 立派な造りに感動しました。
-
投稿日 2016年07月13日
総合評価:5.0
南城市玉城字奥武、太平洋に浮かぶ海岸周径1.7kmの小さな小島である奥武島(おうじま)。その中で2番目に新しくできた宿泊施設である?ゲストハウスりゅうかく?に泊まりました。
今年平成28(2016)年2月28日にも宿泊し2回目となります。本島から約100m程離れ奥武島へと入るとすぐに到着しますが、今回は同宿者がおりレンタカーが停まっていたので、前回と同様敷地前に車を停めて歩いて行きます。そしてまず最初に迎えてくれるのは看板犬銀ちゃん。吠えられなかったことで安心し、こんばんは〜の挨拶と共にお邪魔します。
今夜は前回と違いツインルームを利用させて頂きます。ベットがふたつ置かれていることが違うだけで中の設備はほぼ同じ。勝手がわかるだけに落ち着きます。飾り気のないおじぃとおばぁはホントに癒し系のお人柄。杓子定規の応対をされるなら、宿泊台帳も空白のまま出されることがほとんどですが、前回のものをコピーして、変わっていたら書いてくださいとのこと。ん〜こういう対応私は好きです。
毎度のことながら到着が遅いので朝食の時間だけを聞かれた後は、適度にお話しタイムを取った後、23:00にはお開きになります。付かず離れずではありますが、ゆっくり休んで旅を楽しんでもらおうという意図がはっきりしているので好感が持てます。
室内のシャワーを浴びた後ツインベットのひとつを使って爆睡し、あっという間に朝がやってきます。食事にはかなりのこだわりがあるりゅうかくの朝食、それを目当てにやってくる外国人観光客もいることは前回に知ってはいましたが、フルーツを中心としたものは、あまり沖縄では出てこない類のものなのでいつも目新しさがあります。そしてあっという間に出発の時刻。おじぃおばぁ、そして銀ちゃんにもお礼を言った後、今回の旅の最後のセリフ?いつ来るかは言えないけれど、さよならも言わないよ?と言って出発します。
ブログを見て泊まりに来る人がぽつぽつといたよ〜って言って貰って嬉しいこと半分、泊まりたいときに泊まれないこと半分の複雑な気持ちでしたが、看板に掲げられた?本日満室?のたすきになんとなくほほが緩んでしまった私でした。
2月にはカエルの声が聞こえ、6月には磯の香りが漂う奥武島の宿。時期を変えての再訪は間違いないことでしょう♪- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 1人1泊予算
- 7,500円未満
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園から車で15分。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 朝食付きで5,940円はお得です。
- 客室:
- 5.0
- キレイで広く快適です。
- 接客対応:
- 5.0
- 付かず離れずいい感じです。
- 風呂:
- 5.0
- シャワーのみですがやはり快適です。
- 食事・ドリンク:
- 5.0
- フルーツ主体の朝食は沖縄では目新しくて美味しく頂けます。
- バリアフリー:
- 4.0
- 客室は2階なので階段があります。
-
投稿日 2016年07月14日
総合評価:5.0
具志頭城跡頂上の左側、甲斐之塔隣にある慰霊顕彰の碑は平成5(1993)年6月に旧具志頭村遺族会の手によって建立された比較的新しい慰霊塔のひとつです。沖縄戦に於ける具志頭村の犠牲者は約2,300名にのぼり、その半数が昭和20(1945)年6月に亡くなられたそうです。
具志頭村ではこの具志頭城跡は霊域とされており、土佐・甲斐之塔といった都道府県別慰霊碑の他、旧具志頭村によって建立された慰霊碑が建立されています。大海原を望む慰霊碑に、多くの人々の犠牲者の追悼の気持ちと平和への願いが込められている…そう思えました。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園から車で15分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 一組のご夫婦がいらっしゃいました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 芝生敷きですが購買はあります
- 見ごたえ:
- 4.0
- まわりに合わせたのか少し派手なように見えます。
-
投稿日 2016年07月14日
総合評価:5.0
八重瀬町具志頭、具志頭城跡にある忠魂碑は、昭和37(1962)年に旧具志頭村によって建立されました。日清・日露戦争以降の出征者の戦没者を祀っている
忠魂碑は、第二次世界大戦前にはあちらこちらで見ることができましたが、戦後GHQの皇民化主義を彷彿させるものとして、取り壊されたものもありました。特に史上稀に見る地上戦が行われた沖縄では住民感情もあり、壊されなくても傷つけられたものもありました。
その中で具志頭の忠魂碑は戦後市町村により建立された珍しいものではあります。謂れは書かれてはいないものの、旧具志頭村から出征し、戦没された方を祀るものとしての考えから建立されたもののようです。
同じ沖縄でも恩納村の忠魂碑は、傷つけられ無残な姿をしている事実もあります。背景には日本軍の関与が言われるチビチリガマの問題も関係しているのかも知れませんが、やはり負の遺産として残せるものは残した方が良いようには思えます。
ふたつの忠魂碑を見比べると一目瞭然であることになにか違和感も感じる忠魂碑でした。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園から車で15分くらい。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 一組のご夫婦がおられました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 芝生敷きです。
- 見ごたえ:
- 5.0
- きれいなままの状態に少し違和感も感じました。
-
投稿日 2016年07月14日
総合評価:5.0
国道329号線から少し入った場所にある西原郵便局は、郵便の配達のみを扱っている普通局です。以前は集配局でしたが、現在では浦添郵便局がその業務を行っています。預貯金は窓口は9:00〜16:00迄と特定局と同じではありますが、ATMのホリデーサービス実施店であり、土日祝日でも20:00迄利用することができます。
近くに?サンエー西崎シティ店?があるため、お土産を購入しそのまま送ることができるため便利かと思います。ただ荷物を送る際直接那覇中央局へと向かうわけではなく、浦添郵便局経由になるため郵便窓口が開いていてもその日の〆時間迄にに那覇に到着しないことがあるので注意が必要です。
しかし風景印もあり何かと使い勝手はある郵便局のようには思えます。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- サンエー西原シティ店から車で3分。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 時間にもよりけりです。
- バリアフリー:
- 5.0
- 自動ドアは完備しています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 大きな郵便局です。


































































