金城和信先生胸像
名所・史跡
3.30
クチコミ・評判
1~5件(全5件中)
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深い悲しみが少しでも癒されますように
- 3.5
- 旅行時期:2024/07(約1年前)
- 2
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米須霊域/魂魄の塔近くにあります
- 4.5
- 旅行時期:2022/11(約3年前)
- 0
今般の沖縄慰霊の旅で、
初めて米須霊域に寄りました。
魂魄の塔近くにある
当時、真和志村村長であった金城和信さん... 続きを読むが
米軍と折衝を重ね、遺骨収集の許可を貰い魂魄の塔を建てられた方です。
平和祈念公園/摩文仁の丘を含め、
沖縄で像を見掛けたことはありません。
その当時を生きていないものですから、憶測と推測の域ではありますが、
それほどの方なのかと思います。
戦後沖縄の混乱期において、
ご自身も娘さんお2人を亡くされ、
戦没者と、そのご遺族の為に人生を捧げられた…
このような方が現在にもいるのかいないのか…
きっと、いることを信じる、我が国です。
詳細はコチラに…
https://ameblo.jp/kamizoh/entry-12774194848.html 閉じる投稿日:2022/11/17
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魂魄之塔を建立
- 3.5
- 旅行時期:2021/04(約5年前)
- 0
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正しく偉人
- 5.0
- 旅行時期:2016/09(約9年前)
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魂魄の塔の脇に胸像があることを、今まで気づきませんでした。
住民発露の遺骨収集、納骨堂・慰霊碑建立という背景は知っていま... 続きを読むしたが、発起人で自ら奔走した人物が、この胸像のモデルである金城和信氏です。
米須地区に放置された遺骨を、敵味方・軍民分け隔てなく収集し、慰霊碑(魂魄の塔)を建立しただけでなく、娘二人を学徒隊で失っていることから「ひめゆりの塔」建立にも尽力、さらに「健児の塔」建立にも尽力された人物です。
終戦直後の非常に厳しい状況下(米軍の監視下)でのこと。これは驚異的な「偉業」と言っても良いでしょう。
胸像の隣には東大名誉教授の、氏の功績を讃える碑がありますが、もっと評価されてしかるべきだと思います。 閉じる投稿日:2016/10/10
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魂魄之塔・ひめゆりの塔・健児之塔を建立された真和志村長です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/06(約10年前)
- 9
沖縄戦が終結し捕虜収容所に集められた住民は、食糧増産を図るため、米須原へと移されました。その際真和志村長をされていたのが金... 続きを読む城和信先生です。
戦前より国民学校の校長を務めるなどの教育者でしたが、米須原の遺骨が野ざらしになっている窮状を見て、住民達とともに米軍に遺骨収集を依頼します。しかしそのことが皇民化主義に繋がると考えられ許可はされませんでしたが、農地を開墾するにあたり、限りなく出てくる多くの遺骨が妨げになると判断し、やっと許可が下ります。住民達とともに遺骨収集を行い、集めた数は35,000注にも登りました。物資がない中で米軍払い下げのセメントなどを用いて、昭和21(1946)年2月に魂魄之塔が完成します。
また金城ご夫妻は愛娘ふたりをひめゆり学徒看護隊として失っており、その足跡を探す過程で伊原の第三外科壕を発見し、昭和21(1946)4月に初代の?ひめゆり之塔?を建立します。また同時期に行われた沖縄師範学校男子部の?鉄血勤皇隊?終焉の壕に於ける遺骨収集に於いて、初代の?健児之塔?を建立されました。
晩年は遺骨収集に尽くされた金城和信先生の功績は計り知れないものがあり、そのことを後世に伝えるべく魂魄之塔横に胸像が建立されました。
戦後の混乱期、自分達が生きていくのに精一杯だった時代に敵味方軍民問わず遺骨収集をされた金城和信先生の精神は、今なお生き続けています。胸像と対面し、興味本位で知識をつけてきた自分が恥ずかしく思えて仕方がありませんでした。
閉じる投稿日:2016/07/15
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基本情報(地図・住所)
- 施設名
- 金城和信先生胸像
- 住所
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- 沖縄県糸満市米須 米須霊域内
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