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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのトラベラーページ

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(64ページ)全1,843件

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  • 基本情報
  • 徳島ご出身の戦没者を祀っています。

    投稿日 2016年06月09日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘慰霊碑群のひとつ徳島の塔は、徳島県ご出身で沖縄戦941名、南方諸地域656名の戦没者を合祀し昭和40(1965)年12月5日に建立されました。主碑には徳島県名西郡神山町産出の8tもの青石を使用し、碑を建立した時の知事の直筆で「徳島の塔」と刻まれており、主塔の周囲は県下各市町村名の入った飾り石で囲んでいます。

    特徴的なものはないものの入口に置かれた公募により決められた詩が刻まれており、?たたかひに散りたる御魂やすかれと ふるさと阿波の青石を立つ?と慰霊塔と祀られた戦没者との関係を明確にされているものからは、建立に至る徳島県民の思いも込められていてわかりやすいものとなっています。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅

  • 慰霊碑の上にプロペラが乗っていて目を引く慰霊塔です。

    投稿日 2016年06月09日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘のかなり上の方に?航空関係戦没者慰霊碑?と書かれた碑があり、そこには?空華之塔入口?と書かれています。日本軍関係の慰霊碑も多くあるこの沖縄の地でも数少ない?航空関係戦没者?を祀る慰霊碑のひとつが?空華之塔(くうげのとう)?になります。

    航空関係戦没者というと特別攻撃隊を最初に思い出すのかも知れませんが、こちらに祀られているのは戦闘機の搭乗員ではなく、広範囲な戦場に於いて航空輸送を担った?丸腰の軍属?になります。

    昭和17(1942)年7月に勅命により編成された?南方航空輸送部?は、隊員のほとんどが民間航空関係者が徴用されました。戦争を続けることに航空輸送が不可欠だったことは、どれだけの広範囲が戦場となったかという事実に他なりません。しかし戦闘機には搭乗しなかったパイロットであっても、戦争協力者として連合国の攻撃対象となり、多くが攻撃を受け帰らぬ人となりました。

    戦後色々なバックボーンの中慰霊塔がこの激戦地沖縄に建立されていく中で、やはり忘れられたようになってしまった?南方航空輸送部戦没者?ではありましたが、南方航空輸送部生存者有志の方々の手によって昭和63(1988)年 4月 8日にやっと建立となりました。

    プロペラが乗っかっている慰霊塔というだけで、軍関係と?毛嫌い?する傾向があるのは今さら言うことでもありません。しかし本当はどうなのでしょうか?勿論由来書きにすべての答えが書いてあるわけではありませんが、十把一からげに思っていた慰霊塔の謂れは実は全く違った…という答えに行き着いたことがしばしばありました。先入観だけで判断するのではなく、実際に訪れてみて自分の感性で感じることは間違いなく必要なことだと私は思います。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩35分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    誰もおられませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    芝生敷きです。
    見ごたえ:
    5.0
    やはりプロペラが目を引きます。

  • 福岡所縁の沖縄戦戦没者を祀っています。

    投稿日 2016年06月09日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    岩手の塔隣にある福岡の塔?霊?は、沖縄戦に於ける福岡所縁の戦没者4,015名を祀っている都道府県別慰霊塔のひとつです。昭和41(1966)年12月10日に建立された都道府県別慰霊塔の中でも比較的新しいもののひとつです。

    この福岡の塔?霊?でおや?と思ったことがひとつあります。建立碑文に書かれていたことなのですが、沖縄戦戦没者のみ合祀、その数4,015名という数字のことでした。一般に沖縄戦での将兵戦没者の多さは、沖縄戦を戦った主力部隊の担当師管区によるものが多いと聞いていました。それに名前の挙がらない福岡県で何故だろう…と思ったのですが、なにも陸戦だけには限っていないことというのが理由のようです。つまり特別攻撃隊を含めた航空戦や海戦も含めた沖縄戦に於ける戦没者だということは、一般的に言われている沖縄地上戦での戦没者にプラスされるということになります。

    決して特別な形状をした慰霊塔ではないものの、その建立の謂れに刻まれた一文にまだ終わっていない戦争の傷跡を感じました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩30分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    誰にも会いませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    石畳になっていました。
    見ごたえ:
    5.0
    建立の謂れは一読の価値ありです。

  • 昭和20(1945)年6月23日黎明の刻。

    投稿日 2016年06月08日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    沖縄守備第32軍牛島満司令官と長勇参謀長がこの壕で自決され、ここに沖縄戦に於ける日本軍の組織抵抗が終わりました。摩文仁の丘頂上部にある黎明之塔の下方に位置する第三十二軍司令部終焉之地があり、この場所に於いて午前4時30分頃牛島司令官と長参謀長が自決されました。

    摩文仁の丘から沖縄師範健児之塔へと向かう階段の途中にありますが、入口は鍵が掛けられており入ることはできません。過去に調査されたときの写真を見る限りかなり大きな縦穴があるようですが、それほど頑丈な造りでもないのか遺骨収集も進んではいないようです。

    ちなみに現在の?沖縄慰霊の日?は、この牛島司令官が自決した6月23日を根拠に定められていますが、一説には6月22日だというものもあり、復帰前の沖縄では6月22日を慰霊の日としていたこともありました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.5
    平和祈念公園駐車場から徒歩60分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    ほとんど人に会うことはありません。
    バリアフリー:
    3.0
    階段があります。
    見ごたえ:
    5.0
    司令部も追い込まれていたことがわかります。

  • 以前は別の場所にありました。

    投稿日 2016年06月08日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘を登り切り、黎明之塔の手前にある?勇魂の碑?は、第32軍司令部の将兵軍属約600名戦没者を祀っています。昭和42(1967)年6月23日に遺族戦友会によって建立されたものになりますが、記銘碑のトップは牛島満司令官と長勇参謀長になっていました。最初に建てられた勇魂の碑は、もっと海側だったという話を聞きました。しかし落盤などがあったようで現在は入ることができず、移設されたようです。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    3.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩45分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    夕方は誰もおられません。
    バリアフリー:
    4.0
    舗装はされていますがすごく急です。
    見ごたえ:
    5.0
    立派なものでした。

  • 周辺の慰霊塔とは異なる目的で建立されたダバオ之塔。

    投稿日 2016年06月08日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    想い出はダバオの丘に
    アゴンの響きアポに木魂し
    バゴボの踊る収穫(ミノリ)の宴(ウタ)げ
    アバカ干す手に熱風通う
    想い出は胸に痛みて
    砲火に消えし友の名呼べど
    逝きしに人の御霊答えず
    夕日は沈むタモガンの流れに・・・(元ダバオ移民小宮山蕃雨作詩,「ダバオに想う」)

    昭和47(1972)年3月28日、2ヶ月後に日本への返還を迎える沖縄の摩文仁の丘にてダバオの塔が建立されました。太平洋戦争中に戦いの舞台となったフィリピン南部ミンダナオ島ダバオ。戦没者慰霊碑が立ち並ぶこの摩文仁の丘では、誰もがダバオの塔=ダバオの戦死者を祀ると思うのではないでしょうか。

    実はダバオの塔建立者はダバオ会という戦前フィリピン・ダバオに移住し、戦後引揚げてきた元移民の遺族とその関係者約 2,343 名からの寄付によって建立された慰霊碑であると書かれています。これは摩文仁の丘に林立する各都道府県・軍関係官庁の慰霊碑とは異なり、元移民によって建立されたという点で非常に珍しい慰霊碑になります。戦前のアメリカ植民統治下にあったフィリピンには 53,115 人の移民が渡航し、ミンダナオ島ダバオには東南アジア最大の日本人社会が形成されました。しかいダバオ移民は,土地所有の制限や入国者数の制限など一連の排日措置になどに直面しながらも、その反面麻農園を建設するため未開のジャングルを開墾し,麻栽培を基盤とした地元経済の発展に貢献した実績も作り、このまま順調に発展するかのように思われたダバオの日本人社会でしたが、昭和16(1941)年12月8日未明のハワイ真珠湾攻撃の後、フィリピンが日本軍の空爆攻撃の対象となったため、日米開戦直後から米比軍によって収容所に集められるものの、その後日本軍の上陸により解放され,終戦まで日本軍と運命をともにすることになりました。結果として戦時中から引揚げ後までの死亡者を合算すると、ダバオ地区における戦争犠牲者数は約9,200 名にのぼるとされています。

    この数字は昭和18(1943) 年 1月の時点でのダバオ在留日本人数 19,089 名の 48.2%にあたり、実に半数近くの移民が戦時中および収容時に命を落としたことになります。戦後引き上げが開始されるも、日本へ送還されたのは約9,100名の引揚組。その多くは日本人同士の純血二世だったとされています。それに対し残留組は日本人の父とフィリピン人の母の混血二世で、父親だけが日本へと送還されたことによるものだったようです。しかし多くを占めていた沖縄出身者は、直接故郷には帰ることができず、一旦本土に一時在留したのちに沖縄へと帰郷されたそうです。

    多くの移民が亡くなったダバオの地に本来であれば慰霊碑を建立するのでしょうが、折しも反日感情が渦巻くフィリピンの地で行うことは容易なことではなかったとされています。ならばということでダバオ移民の最も多かった県、そしてフィリピンに最も近い場所である沖縄が候補となり、ダバオの碑の建立に至ったようです。

    物理的な理由の他にダバオ移民の犠牲者には特徴的なものがありました。つまり戦争中の犠牲者だけではなく、戦前の開拓事業に纏わる犠牲者も祀っているという事実です。ジャングルを開拓してマニラ麻畑を作るということは、地元部族が所有する土地を違法に開拓し、その地で麻栽培を独占的に行っていたため、凶刀により殺害された者も約600名程はいたのですが、それを合祀するにはやはり反日感情を持たれた理由のひとつであるためフィリピンではできなかった。しかし戦中には日本軍兵士が同じようなことを沖縄でもフィリピンでも行っていた。つまりヴァナキュラー(土地特有の)な記憶が同じようにある場所、それが沖縄だったということが書かれていました。

    ダバオから帰還し、その後仲間が集まれた場所こそが?ダバオの塔?の建立式典だと聞いています。なぜスペイン語のその言葉が使われたのかは不明ですが、「アミーゴとの出会い」との記述されている建立式典は、戦後辿った政治的背景は全く異なる本土と沖縄。そのふたつを比較するのではなく、ダバオの思い出を楽しく語る場所と化したそうです。

    その後のダバオの塔に触れている文献自体が少ないため、どのような展開になっているのかはわかりません。しかし恨み辛みだけの言い合いではなく「アミーゴとの出会い」といった言葉で表現できる会合ならば、今後建設的な会合を持ちつつ、同じ過ちを繰り返さないように…と四世・五世に繋いでくれるのではないか、そう思えました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩30分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    夕方は誰もおられませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    石畳はひかれています。
    見ごたえ:
    5.0
    建立に対する想いに感動しました。

  • 宮城県ご出身の第二次世界大戦に於ける戦没者を祀っています。

    投稿日 2016年06月08日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘慰霊碑群の南南東に建立されている宮城之塔は、沖縄戦戦没者582名を含む南方諸地域戦没者45,500余名を祀る都道府県別慰霊塔のひとつです。宮城県内を流れる阿武隈川のほとりより運び出し、陸上自衛隊と琉球海運の手によって沖縄へと運ばれたものであり、昭和43(1968)年2月20日に建立され、現在に至っています。

    碑文に書かれている内容は他の都道府県別慰霊碑と同じように、望郷の念にかられながらも遠く戦場の陸・海・空に於いて亡くなられた戦没兵士の御霊を慰めるべく、恒久平和を願いこの?宮城之塔?を建立したと書かれていました。確かに戦地となったすべての場所に慰霊碑を建立するのは物理的にも無理なことであることは容易にわかることだと思います、しかし文面に於いてそのことに触れているものは多くはありません。

    建立時には経済発展を遂げた日本国民の沖縄への渡航が増え、そのことが宮城の塔建立の後押しをした旨が書かれています。その時代は確かにそうだったのかも知れません。しかし現在では観光地化された戦跡はともかく、そうでなければ訪れる方も多くはありません。県民の意向を受け慰霊塔を建立したというのであれば、少なくとも行事予定位は知らせる努力はしてもいいようにも思えます。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩30分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    夕方は誰もおられません。
    バリアフリー:
    4.0
    石畳にはなっています。
    見ごたえ:
    5.0
    摩文仁の海を背にしています。

  • 亀甲型奥津城(きっこうがたおくつき)という沖縄古来の墓形状をしている慰霊碑です。

    投稿日 2016年06月08日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    第二次世界大戦中、現パプアニューギニアのブーゲンビル島を中心とするソロモン群島地域に於いて戦没された沖縄出身の将兵3,800余柱の御霊を祀るため建立されました。熊本県の遺骨収集団に沖縄県遺族会からも二名参加して、20年余りの悲願であった遺骨収集を叶えることができたと書かれていました。そして肉親縁者が待ちわびるこの沖縄、なかでも多くの犠牲者を出した激戦地摩文仁の丘に亀甲型奥津城を建立し、永久に御霊を慰め世界平和を祈りつつ昭和40年9月6日に遺骨を合祀したそうです。

    奥津城というと神道のお墓という注釈が入ります。元来沖縄に神道が持ち込まれたのは明治以降のこととされています。このあたりの話がどのように絡んでいるのかはわかりません。亀甲墓というものは勿論わかるものの、なぜ奥津城の名称が加えられたのかは少し興味のある話ではあります。

    ブーゲンビル島では海軍主計士官の活躍で、下士官や一般兵卒・地域住民と調和を図り食物の増産を含め、良好な人間関係を築いていたことはよく知られている話です。沖縄では語られない話ゆえ、組織ではなく人は人なのだと手を合わせながら物思いに耽ってしまいました。

    旅行時期
    2016年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    4.0
    平和記念公園駐車場から徒歩30分。
    バリアフリー:
    3.0
    地道です。
    見ごたえ:
    4.5
    他の慰霊碑のような派手さはありません。

  • 白梅学徒看護隊が最初に配属された場所です。

    投稿日 2016年06月05日

    白梅学徒看護隊の壕 知念・玉城・八重瀬

    総合評価:5.0

    八重瀬町富盛の八重瀬公園駐車場付近に?白梅学徒看護隊之壕?という石碑がひっそりと建立されています。沖縄での地上戦が始まる少し前に沖縄県立第二高等女学校4年生の生徒から構成された?白梅学徒看護隊?55名が第24師団第一野戦病院第4・5班に配属されました。戦況の悪化で新城分院(ヌヌマチガマ)が開設され、学徒隊5名が転属となりますがその後6月には分院付近が戦場となり、分院は閉鎖を余儀なくされ5名は原隊に戻ります。

    しかし時既に日本軍の敗色が濃厚となっていた時期ゆえ、学徒の原隊復帰後解散命令が出されます。数人組でばらばらと逃げるもののその行くあてはなし。伝え聞いた国吉の壕へと向かう途中8名が、そして何とかたどり着いた国吉の壕で9名の犠牲者を出しています。

    現在?白梅学徒看護隊之壕?の碑が建立されている場所は、?富盛上の壕?と呼ばれる?手術壕?のあった場所となっています。本部壕を含めた第24師団第一野戦病院壕の?下の壕?は落盤により入場できませんが、山道を少し上れば本部壕の入口を確認することができます。

    手術壕の入口には、順番を待つ兵士がズラリと並んで順番を待っていました。その中には順番が待てずそのまま亡くなった方も多いと聞いています。「遺骨は収集されました。しかし血や肉はそのまま地面に染み込んでいます。」との一言で体を持たれ掛けていただろう岩壁近くを歩けなくなりました。勢いで行くことを悪いとは言いません。しかし知らないうちに非礼を行っていることもあるということを知り、事前に下調べは欠かせないと改めて思いました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    車があれば便利です。
    人混みの少なさ:
    5.0
    夕方には誰もおられません。
    バリアフリー:
    3.0
    足元には注意が必要です。
    見ごたえ:
    5.0
    この一帯が聖地のように見えました。

  • 沖縄県で唯一プロ野球ナイターが行える球場です。

    投稿日 2016年06月04日

    沖縄セルラースタジアム那覇 那覇

    総合評価:5.0

    那覇市営奥武山球場、通称沖縄セルラースタジアム那覇は、沖縄県で唯一ナイトゲームが行える球場です。歴史は古く沖縄本土復帰前の昭和35(1960)年11月30日に沖縄初の本格的野球場として竣工。当時は沖縄県が管理していましたが、平成22(2010)年4月4日に現在の球場に改築され、それを機に那覇市に管轄を移管しました。同時に施設命名権を競売して沖縄セルラーが購入、沖縄セルラースタジアム那覇の名称になりました。

    プロ野球のオールスター戦も誘致していますが、まだ実現には到っていません。今年平成28(2016)年6月にはパリーグの公式戦2試合が組まれているものの、その他は高校野球や社会人野球などアマチュア野球の開催が行われている程度になります。

    野球場としてはまだまだ発展途上である那覇市営奥武山球場ではありますが、スタジアムがこの場所奥武山公園という?野球の聖地?にあることが重要なことのように思います。兵庫・沖縄友愛スタジアム、そして昨年建立された島田叡氏顕彰碑は、沖縄戦末期に沖縄県民のために尽力された島田知事の功績は勿論、島田知事が愛してやまなかった野球での島田知事の出身地兵庫と沖縄とのつながりを後世に伝えるべく作られたものゆえ、その聖地での試合をするアマチュアにとっては、まさしく決勝戦に相応しい場所だと言えます。

    年に2回の公式戦を見に行くにはなかなか予定がつかないものの、アマチュア野球の最高峰を決める試合には一度観戦できないかと密かに思っています。

    旅行時期
    2016年04月

  • 石山駅北口、盛越川沿いにひっそりとあります。

    投稿日 2016年06月03日

    今井兼平の墓 石山寺周辺

    総合評価:5.0

    今井四郎兼平、平安時代末期の源平の戦いに於いて木曽義仲の腹心の一人として挙兵から最期を迎えるまで連れ添った武将です。義仲の乳母子として兄弟のように育ち、実の兄弟である樋口兼光・根井行親・楯親忠とともに木曽四天王として、義仲の快進撃を支えてきました。

    寿永2(1183)年倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を駆逐した義仲は、京へ入り朝日将軍の称号を与えられるも、期待された連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を計るのに失敗し、結果として治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化を招き、更に皇位継承への介入などにより次第に後白河法皇と不和となっていきました。そして法住寺合戦に於いて法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となりましたが、僅か数ヶ月で源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により近江の国粟津の戦いで破れ義仲は打ち取られます。

    粟津に来た時には義仲に続くものは僅かに5人程だったようで、兼平は主君義仲に後世への名声のため自害を勧めますが、不運にも矢を顔面に受けて落命します。それを見ていた兼平は「自害の見本を見よ」と言い放ち、太刀を口に含んで馬から落ち、太刀に貫かれて亡くなったとされています。享年33歳。

    主君義仲の亡骸は義仲寺に運ばれて埋葬されますが、続いた兼平の墓は山手の寂しい場所に置かれていたそうです。その後江戸期に入り膳所藩初代城主本多俊次の手によってその墓碑が改築され、次代藩主本多康将が現在地に移転したとされています。二人の藩主を動かしたことは、兼平の武勇と忠臣だったことは言うまでもありません。

    石山駅北口からすぐと言えばすぐですが、駅裏から続く道は大変狭く、対向車の動きには注意が必要です。義仲の墓がある義仲寺と合わせてお参りをしたくなる場所には違いありません。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    石山駅から徒歩3分。
    人混みの少なさ:
    5.0
    平日の夕方は誰もおられません。
    バリアフリー:
    3.0
    足元はあまり良くありません。
    見ごたえ:
    5.0
    壮絶な最期を想像してしまいます。

  • 沖縄戦に於けるすべての戦没者のお名前が刻まれています。

    投稿日 2016年06月03日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    平和の礎(いしじ)、先の大戦に於ける沖縄戦戦没者の全芳名が刻まれており、毎年追加記銘者が増加しています。平和の火を中心に同心円状に広がった黒御影の記銘板は平成7(1995)年に建てられたものです。

    平和の礎そのものも立派なものであり、ひけを取らないものの建立時期が摩文仁の丘に於ける都道府県慰霊塔や軍関係の慰霊塔に比べるとかなり遅かったことが建立当時には論議を醸し出していたそうです。

    身内に戦没者がおられるならば、多分その名前を探して手を合わせるだけで終わってしまうのかも知れません。しかしある程度沖縄戦末期に住民のために奔走された方々のお名前も刻まれています。

    広場にある平和の礎、摩文仁の丘にある慰霊碑群と場所的には離れてはいますが、歴史を知ればその名前を探すことも一興になるかも知れません。この広大な公園内にあるものはすべてが繋がっていることを忘れないで頂きたいと思います。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和祈念公園駐車場から徒歩10分ほど。
    人混みの少なさ:
    4.0
    参拝者以外にも人は大勢います。
    バリアフリー:
    5.0
    礎付近は芝生敷きになっています。
    見ごたえ:
    5.0
    いし規模に圧倒されます。

  • 平和堂が混んでいたので。

    投稿日 2016年06月02日

    宮本むなし JR石山駅前 石山寺周辺

    総合評価:5.0

    所用のために立ち寄った平和堂石山店がまさかの大混雑。そのために久しぶりに昼食を食べに来ました。

    夕方だったので学生さんのグループがいましたが、結構空いていました。程良くお腹が減っていたのでネギトロ丼を注文しました。脂っこいものがあまり得意でないグルメでない私には丁度良い量でした。

    ふと思った時に訪れるため、飽きずに同じメニューを注文できます。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    一人当たり予算
    1,000円未満
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    5.0
    石山駅から徒歩1分。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    許容範囲です。
    サービス:
    5.0
    良いと思います。
    雰囲気:
    5.0
    空いているとゆっくりできます。
    料理・味:
    5.0
    食べ慣れた味です。
    バリアフリー:
    4.0
    自動ドアですがボタン式です。
    観光客向け度:
    3.0
    そういう感じのお店ではありません。

  • 人がうじゃうじゃ(驚)

    投稿日 2016年06月02日

    平和堂石山 石山寺周辺

    総合評価:5.0

    ケータイを代えようと来ました。特別ご招待会中とはわかってきたものの、えっ?と思うような光景が広がっていました。とにかく人がうじゃうじゃいます。このような混雑は久しく見たことがありません。ジュース一本買うのも長蛇の列に並ばなければなりませんでした。ただ消耗品の類はかなり安くなっていました。

    ブラッドオランジーナが68円は見たことがありません。ただケータイコーナーは暇のようで用事はすぐに終わりました。

    明日もやっているのでよろしく~とのことでした。

    旅行時期
    2016年06月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    石山駅から徒歩3分。
    お買い得度:
    5.0
    特に今日は色々ありました。
    サービス:
    5.0
    いい感じです。
    品揃え:
    5.0
    豊富です。
    バリアフリー:
    5.0
    スロープ・エレベーター・自動ドア完備です。

  • 少しくたびれたアルプラザです。

    投稿日 2016年05月31日

    アル プラザ瀬田 大津

    総合評価:5.0

    国道1号線沿いにあるアルプラザ瀬田店、滋賀県民ならば誰もが知っている平和堂グループのお店です。以前はケータイコーナーもあり、店舗独自の施策などもありちょくちょく利用していましたが、一昨年に閉鎖されてからはご無沙汰していました。近くまで行ったので立ち寄りましたが、だいぶくたびれた感がありました。

    しかし大きなTSUTAYAが入ったりと結構盛り返しているところもあり、楽しみなところもあります。ちなみに6月7日には特別ご招待会をされるとのこと。なかなか割引されない消耗品などが安くなるため、仕事が終わってから行くことにします。という訳で今日はなにも買わず帰ります(笑)。

    旅行時期
    2016年05月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    JR瀬田駅から徒歩10分。
    お買い得度:
    5.0
    スーパーなので結構お買い得感があります。
    サービス:
    5.0
    いい感じです。
    品揃え:
    5.0
    小さなサイズが多く重宝しています。
    バリアフリー:
    5.0
    エレベーターと自動ドア完備です。

  • 閉店時間に注意が必要です。

    投稿日 2016年05月31日

    沖縄アウトレットモールあしびなー 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    夕食をとるためにやってきました。とにかく広大な敷地内にたくさんのお店が立ち並ぶのは、アウトレットモールの特徴です。土曜日の夕方だったため特に人が多く、ほとんどの食べ物屋さんは混雑していました。たまたま空いていたびっくりドンキーに入りましたが、ゆっくりと食べていると時間が経つにつれてお客さんが増えてきました。本当にたまたまその時間だったようです。ゆっくりもできなくなり、一息ついて店を出てモールの方へと進むとまさかの閉店20:00との放送。

    今まで訪れたアウトレットモールが結構遅くまでやっていたことを過信していたようです。お土産物を扱うお店を除くとそれ程代わり映えがないようにも思いますが、やはりひとつの場所で用を足せることはありがたいと思います。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    那覇空港から車で20分位。
    お買い得度:
    4.0
    モノによってはそうでした。
    サービス:
    5.0
    良いと思います。
    品揃え:
    5.0
    豊富です。
    バリアフリー:
    5.0
    考えられています。

  • 戦時中には海軍の司令部壕が置かれた丘陵です。

    投稿日 2016年05月31日

    海軍壕公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    沖縄戦時中に海軍沖縄方面根拠地隊司令部が置かれた旧海軍司令部壕を取り巻くように作られた地区公園です。今では複合巨大遊具があったりと子連れでも楽しめる公園となっています。

    意外に知られていないことだそうですが、旧海軍司令部壕は入場料がかかりますが、その手前にあるビジターセンター内にある資料館は無料で入れます。旧海軍司令部壕は保存状態の良い数少ない戦跡のひとつとして是非とも訪れて頂きたい場所ではあるものの時間の都合やその他で時間が取れない方も、資料館だけでも十分見る価値はあります。

    いにしえのヒバンムイ(火番盛)であった丘陵は、頂上には展望台が設けられ、天気が良いと東シナ海、那覇市街、首里城が展望できる位置にあります。

    とにかく今平和であるありがたみを痛感する場所のひとつであることには間違いありません。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    空港から車で20分位。
    人混みの少なさ:
    4.0
    無料なこともありぱらぱらと観光客の姿も見られます。
    バリアフリー:
    4.5
    考えられてはいますが、一部段差もありました。
    見ごたえ:
    5.0
    資料館は勿論、展望台も素晴らしい風景です。

  • 沖縄戦を戦った日本軍の主力部隊の戦没者慰霊碑です。

    投稿日 2016年05月31日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    第62師団、昭和18(1943)年6月に大陸で独立混成第4旅団と独立混成第6旅団の主力によって北満にて編成され、翌昭和19(1944)年8月に沖縄へと転戦し、隷下に歩兵第63旅団と歩兵64旅団の2個旅団、そして各旅団には独立歩兵4大隊(連隊)を持つ約6万の兵力を持っていたそうです。初代師団長の本郷義夫中将は体調を崩し、沖縄にて藤岡武雄中将と交代され沖縄島中部の防衛に従事しますが、その後第9師団の台湾抽出などもあり配置換えが続き、将兵の士気の低下に悩まされた時期もあったそうです。

    昭和20(1945)年4月1日、米軍が読谷・北谷の海岸に上陸。第32軍司令部は水際作戦を避け一個大隊に遅滞作戦を命令し、4月7日頃からの嘉数の戦いに始まる?熾烈な戦い?を迎え撃ちます。圧倒的兵力火力に勝る米軍を互角以上にまで攻め立てたときもあったものの次第に押されることとなり、徐々に第32軍司令部のある首里へと後退せざるを得なくなります。

    5月末にはほとんど主力部隊が残っていない中で首里司令部が南部摩文仁へと後退、それに同行するように師団司令部他残存部隊も南下します。6月に入ると既に横の繋がりが通信網の途絶によりほとんど不明の状態で戦わなくてはいけなくなり、どの部隊が残存しているかすらわからない状態だったようです。そのような状態の中藤岡師団長と中島旅団長がこの?第62師団慰霊碑?の地で、有川旅団長も米須にて自決。翌6月23日未明には牛島司令官と長参謀長が自決し、日本軍の組織的抵抗は終焉を迎えました。

    この第62師団隷下の部隊には京都と福井(敦賀)の将兵で構成されていたとの記述がされているものが多く存在します。京都3個大隊、敦賀5個大隊がその謂れを指していますが、時期的なこともあり、この敦賀連隊区が一部滋賀県の徴兵を担当していたこともあり、それ故滋賀県ご出身の沖縄戦で戦没された将兵数が多いとされています。勿論多くは…という記述であるがため、沖縄で徴用された防衛隊の方々約10,000人も犠牲者の中に含まれています。その他補充部隊として後々投入された大隊の中には?富山丸事件?によって犠牲となった上に、残存兵士も南部戦線に送られて玉砕された事実も残っています。

    この第62師団慰霊碑は、建立者が石部隊生存者とあるように、元軍人の方々の手によるものであるため、近隣の都道府県別慰霊碑とは趣が異なるように思えるところがあります。しかしそのご遺族からの願いのもと、師団長藤岡武雄中将のご令室豊子夫人の尽力もあり、昭和39(1964)年6月22日に藤岡師団長の命日に建立されたものが?第62師団慰霊碑?になります。

    摩文仁の丘慰霊碑群には、建立者や祀っている戦没者によって色々と趣が異なっているものが並んでいたりすることがあります。見る観点によっては不愉快感を持たれることもあるとは聞いていますが、あくまで犠牲となった戦没者の御霊を祀っていることに違いはありません。先入観で行く行かないを決めるよりは、実際に訪れてみて自分の目で見て、体で感じてからその価値を考えれば良いのではないか…、そう思いました。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和記念公園駐車場から徒歩15分、園内周遊バス利用が便利。
    人混みの少なさ:
    5.0
    平日の午後はどなたもいらっしゃいませんでした。
    バリアフリー:
    5.0
    通路は石がひいてあります。
    見ごたえ:
    5.0
    多くの碑があり、その建立背景を知ることができます。

  • 三重県ご出身の戦没者を祀っています。

    投稿日 2016年05月31日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘慰霊碑群の中腹部にある?三重の塔?は、三重県ご出身の沖縄戦戦没者2,600名と南方諸地域戦没者31,300名、その他地域戦没者19,100名の53,000余名を合祀する都道府県別慰霊塔のひとつとして昭和40(1965)年6月26日に建立されました。

    最近伊勢志摩サミットのニュースなどで三重県が紹介されているので、見る人が見ればすぐに「あっ三重県だ!」とわかる位県の歴史に基づいた造りをされています。伊勢神宮やその周辺をモチーフにした三重の塔敷地、そこに敢えて浮かないように?磨き上げられていない石?の重厚感をあてて全体が纏められています。通常塔の他に付属するものを作れば作る程当初は纏まっていたものがだんだんとまとまり感を失ってくる。それが良しと思って行った改修を行えば行う程にバラバラになってくるように思えます。しかし三重県の場合、次の展開が素人目にもわかるような感じを受け、結果誰が見ても?三重の塔?という印象を受けます。勿論これは伊勢という歴史ある場所を持つ最大のメリットのように思えます。

    そして三重県の場合慰霊塔を管理する三重県遺族会の活動がこまめに報告されており、私と同じ戦没者遺族の孫の世代が遺族会代表に選出されたことなどが書かれていました。故郷を遠く離れて戦没した郷土出身の兵士の御霊を慰霊するため、激戦が行われた沖縄の地に挙って慰霊塔を建てたものの、年月には人間は勝てないという自然の摂理にぶつかり、将来的な慰霊碑の存亡が危惧されているのは確かな話です。そのような中で遺族会の会員不足にならないような活動をしていることは、やはり他の都道府県でも必要となってきているのではないでしょうか。

    しかし活発な活動をされていても、それが逆に目立ってしまい疑問に思うことも出てきます。三重の塔に於ける合祀者数は、他の都道府県別慰霊塔合祀者数に比較するとかなり多いことに気付きます。これを三重県が発表したデータに照らし合わせると、内地戦没者2,194名と外地戦没者44,189名となっています。このデータの違いが何を示しているのかは、その他地域には銃後の市民が含まれていることなどが挙げられます。勿論戦没者慰霊塔である以上戦争によって亡くなられたすべての方々の慰霊をする場所であることには変わらないのですが、やはり例外的な記述をすると正しく書いているのに誇大解釈をされてしまうことはあるように思いました。

    数字の問題はともかく、やはり一見するだけで○○県がわかる慰霊塔には、一度訪ねて同じ体験をして貰いたいと思います。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和記念公園駐車場から徒歩15分。園内周遊バス利用が便利。
    人混みの少なさ:
    5.0
    平日午後はどなたもいらっしゃいませんでした。
    バリアフリー:
    3.0
    凹凸はかなりあります。
    見ごたえ:
    5.0
    「あっ!三重県だ!!」が体験できます。

  • 岐阜県のご出身で戦没された方々を祀っています。

    投稿日 2016年05月30日

    沖縄県営平和祈念公園 糸満・ひめゆり

    総合評価:5.0

    摩文仁の丘慰霊碑群の中腹にある都道府県別慰霊碑である?岐阜県の塔?は、沖縄戦戦没者907名、南方諸地域戦没者25,924名の26,831名を合祀しています。

    塔のつくりは非常にわかりやすい合掌をモチーフとしています。形としては根だつものではありませんが、なぜ合掌の姿を取り入れたかを塔の建立由来分に刻まれており大変良くわかるものでした。

    合掌は、人が祈るときのもっとも敬虔な姿であり、
      
      第一に ご英霊の冥福を祈り
      
      第二に 遺芳がいつまでも語り伝えられることを祈り
      
      第三に ご遺族の幸福を祈り
      
      第四に 沖縄との一体化を祈り
      
      第五に 世界の平和を祈る

    という願いが込められている。と書かれていました。

    合掌する姿が?祈り?を表すことは誰にでもわかることですが、それを細分化して説明されるとなにかこう新しい発見をしたような気持になりました。なにか心を洗われた気がする岐阜県の塔でした。

    旅行時期
    2016年04月
    利用した際の同行者
    一人旅
    アクセス:
    5.0
    平和記念公園駐車場から徒歩20分、園内周遊バス利用が便利。
    人混みの少なさ:
    5.0
    平日の午後にはどなたもおられませんでした。
    バリアフリー:
    4.0
    塔に上るには段差があります。
    見ごたえ:
    5.0
    碑文を読んで下さい!

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

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5国・地域渡航

41都道府県訪問

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんにとって旅行とは

非日常生活の出来事を体験できて、日頃の鬱憤を晴らせる場。

自分を客観的にみた第一印象

能ある鷹は爪を隠す♪

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夏は風鈴、冬はイルミネーション。そして6月は沖縄。

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