具志頭城跡
名所・史跡
3.32
具志頭城跡 クチコミ・アクセス・周辺情報
知念・玉城・八重瀬 観光 満足度ランキング 25位
クチコミ・評判
3.32
(29件のクチコミ)- アクセス:
- 3.79
- 平和祈念公園から車で15分程度。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
- 人混みの少なさ:
- 4.44
- 城跡にはだれもおられませんでした。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
- バリアフリー:
- 3.17
- 地道です。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
- 見ごたえ:
- 4.09
- 城跡に作られた展望台から眺める海は最高です。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
1~20件(全29件中)
-
6代にわたる具志頭按司代々の居城
- 3.0
- 旅行時期:2024/07(約1年前)
- 0
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城跡から見渡す景色は素晴らしい
- 3.5
- 旅行時期:2023/03(約3年前)
- 0
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パラグライダーの城跡
- 5.0
- 旅行時期:2023/01(約3年前)
- 0
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-
景色がきれい
- 4.0
- 旅行時期:2021/05(約5年前)
- 0
-
立派な山梨県の戦没者の名簿がありました。
- 4.0
- 旅行時期:2021/02(約5年前)
- 0
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具志頭城跡の園地内にあります
- 3.0
- 旅行時期:2021/02(約5年前)
- 0
-
海がよく見える城跡です
- 4.0
- 旅行時期:2021/02(約5年前)
- 0
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-
具志頭浜のはずが、、、
- 3.0
- 旅行時期:2020/11(約5年前)
- 0
-
断崖上に構えられた見晴らしの良いお城跡
- 4.0
- 旅行時期:2020/10(約5年前)
- 0
-
石垣らしきものは見当たりません。
- 3.0
- 旅行時期:2020/09(約5年前)
- 0
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城跡は見えず・・・
- 4.0
- 旅行時期:2019/01(約7年前)
- 0
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景色しか・・・
- 1.0
- 旅行時期:2018/10(約7年前)
- 0
-
具志頭城跡に祀られています
- 4.0
- 旅行時期:2017/04(約9年前)
- 5
先の大戦において、沖縄で戦没された方々の御霊をお祀りされています。「魄粋之塔」は“具志頭城跡”にあって、糸満市側から行くと... 続きを読む国道331線と国道507号線の交差する点を過ぎて、八重瀬町役場を左に見て400mほど行くと、右手に斜めに入る路地があります、そこから道なりに400mぐらい行くと城址の敷地内駐車場に到達します。
1953(昭和28)年6月に具志頭村によって建立された慰霊碑と納骨堂で、納骨堂には10,150余名の遺骨を収められています。
具志頭城跡は十四世紀に具志頭按司が築城したといわれるお城で、現在は公園としてきれいに整備され、無料駐車場やトイレもあります。公園からは、大海原の絶景を見渡すことができますが、公園内には、土佐之塔や甲斐之塔などの戦没者慰霊碑もあるので、静かに景色を観て回られるのがよいでしょう。
慰霊塔の入り口には、QRコードで、沖縄県平和記念財団から情報を得られるようになっているので、参考にされるとよいでしょう。 閉じる投稿日:2017/04/10
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14世紀に具志頭按司によって築城されたとされています。
- 5.0
- 旅行時期:2016/06(約10年前)
- 8
八重瀬町具志頭、旧具志頭村で慰霊碑が多く建立されたことから〝具志頭霊域〟と呼ばれることもある場所ですが、歴史は14世紀の中... 続きを読む期頃に英組王統第二代大成王第三子具志頭按司が築城したものと伝えられており、その後代々の具志頭按司の居城であった場所とされています。その後南山王によって滅ぼされ歴史を閉じることとなりますが、その規模はおよそ25,700平方メートルあって沖縄の古城跡の中でも大きい古城のひとつであるとされており、自然の断崖上に構えられた山城形式にして連郭式の城であったとされています。
周辺には出城として北側にはミドリ城が、南側には高ヤックヮと呼ばれる見張ヤグラの石垣遺構が残されており、周辺の城主からの攻撃に対する見張りのために構築されたとされています。
代々の具志頭按司は盛んに海外貿易を行い、その貿易港は城下を流れている白水川の下流に広がる内海であったと伝えられています。
繁栄を極めた具志頭城ではありましたが南山王に攻め滅ぼされ、その後沖縄戦に於いてクラシンジョウをはじめとした軍の陣地が構築されたことによって、米軍の執拗な攻撃の対象となり城跡の多くは破壊されました。そして戦後も慰霊碑の建立によって土地の整地がなされたことも加わって、現在では僅かばかりの石垣が残されているに過ぎません。
城跡というよりは霊域としての役割を担っている具志頭城跡ではありますが、その敷地内に建立された慰霊碑から眺める景色は最高のものです。慰霊碑への参拝を兼ねて訪れ、景色を眺めながらゆっくりするにはうってつけの場所のように思います。 閉じる投稿日:2016/07/18
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戦後建立されたものでした。
- 5.0
- 旅行時期:2016/06(約10年前)
- 7
八重瀬町具志頭、具志頭城跡にある忠魂碑は、昭和37(1962)年に旧具志頭村によって建立されました。日清・日露戦争以降の出... 続きを読む征者の戦没者を祀っている
忠魂碑は、第二次世界大戦前にはあちらこちらで見ることができましたが、戦後GHQの皇民化主義を彷彿させるものとして、取り壊されたものもありました。特に史上稀に見る地上戦が行われた沖縄では住民感情もあり、壊されなくても傷つけられたものもありました。
その中で具志頭の忠魂碑は戦後市町村により建立された珍しいものではあります。謂れは書かれてはいないものの、旧具志頭村から出征し、戦没された方を祀るものとしての考えから建立されたもののようです。
同じ沖縄でも恩納村の忠魂碑は、傷つけられ無残な姿をしている事実もあります。背景には日本軍の関与が言われるチビチリガマの問題も関係しているのかも知れませんが、やはり負の遺産として残せるものは残した方が良いようには思えます。
ふたつの忠魂碑を見比べると一目瞭然であることになにか違和感も感じる忠魂碑でした。 閉じる投稿日:2016/07/14
-
具志頭城跡に建立された具志頭村民の犠牲者を祀っています。
- 5.0
- 旅行時期:2016/06(約10年前)
- 7
-
山梨所縁の第二次世界大戦戦没者を祀る慰霊塔です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/06(約10年前)
- 8
島尻郡八重瀬町具志頭の具志頭城跡に聳え立つ?甲斐之塔?は、先の大戦に於ける戦没者22,051名を祀っています。沖縄戦戦没者... 続きを読む550名と南方諸地域戦没者21,501名を祀るべく昭和28(1953)年6月15日に当時沖縄で仕事をされていた山梨ご出身の方が、山梨県の戦没者所縁の地であるこの具志頭に私費を投じて慰霊碑を建立されたことに始まり、その後昭和41(1966)年11月8日に現在の甲斐之塔が建立されて現在に至っています。
碑が向かう方向には故郷甲斐の国があり、故郷を遠く離れたこの地で亡くなられた戦没者の御霊を慰めるとの建設意図は都道府県別慰霊碑と共通したところを感じます。しかし塔の建立の場所がなんとなく不自然に思えるようなところがあり、元々同時期に建立された他の碑と被るように建立されたことにはなにか理由があるのかとも思います。ひとつは城跡公園下にあるクラシンウジョウとの兼ね合いなのか…などと思って調べてみましたが、それでもないようです。
色々な理由によって今の状態で建立されたことに理由をつけることもないのかも知れません。碑から見渡すように広がる海…、そこで眠る御霊のを慰めたいということは不変の事実だと思います。 閉じる投稿日:2016/07/12
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高知県所縁の戦没者を祀る慰霊塔として有志の手によって建立されたものが最初です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/06(約10年前)
- 7
八重瀬町具志頭、具志頭城跡に建立された?土佐之塔?は、昭和31(1956)年に有志の手によって建立された?高知県戦没者慰霊... 続きを読む塔?に始まります。旧具志頭村村有地に建立されましたが、維持管理が不十分だったことあり全面改修の話が持ち上がりました。そして 昭和41(1966)年11月22日に現在の?土佐之塔?が建立され、現在に至っています。祀られているのは18,545名でうち沖縄戦戦没者832名と南方諸地域戦没者17,713名となっています。
都道府県別慰霊碑の多くは摩文仁の丘に建立されていますが、それ以外の場所に建立されたもののひとつです。なぜこの場所に建立されたのかは、初代の慰霊碑を建立した場所の隣という謂れしか書かれていないためわからないものの、南部の海岸一帯は沖縄戦末期の激戦地となり多くの人々が犠牲となった場所には違いがないため、そのような理由で建立されたものと推測します。
塔敷地内から見える海は平和そのものの風景を醸し出しているように思います。しかし僅か70余年前にはどのような光景が広がっていたのでしょうか…。勿論タイムスリップでもしない限り見ることはできないものの、背景と一体化している土佐之塔の前に立ち、戦中に思いを馳せることも大切なように思いました。 閉じる投稿日:2016/07/12
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△53高地に建つ慰霊塔です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/06(約10年前)
- 7
魄粋之塔(はくすいのとう)は、昭和28(1953)年6月に旧具志頭村によって建立された慰霊碑と納骨堂です。納骨堂には10,... 続きを読む150余名の遺骨を収めましたが、その後多くは国立沖縄戦没者墓苑へと移されています。
沖縄戦での地上戦が始まる寸前、台湾へと抽出された第9師団の後任としてこの地にやってきたのは第24師団隷下の歩兵第89連隊。そのうち具志頭の警備にあたっていたのは第2大隊第5中隊でした。
米軍上陸地点を港川と読み間違っていたこともあり、地上戦初期にはそれ程激しい戦闘もなかったようです。しかし戦況の悪化と首里にあった第32軍司令部の南下撤退に伴い、主戦場は沖縄島中部から南部へと移ることとなり、この魄粋之塔が建立されている52.5mの琉球石灰岩の岩山が△53高地と命名され、島尻東部に於ける激戦が行われた場所でもあります。
結果として軍民問わず多くの犠牲者を出したこの地区で、やはり住民の方々主導によってそして塔の後方には戦争で亡くなられた具志頭村出身の芳名が刻まれています。魄粋之塔自体は集落単位で建立された慰霊碑と大差はないと思うのですが、この敷地内には?忠魂碑?が建立されています。建立時期は定かではないものの戦没者を含む公務中に亡くなられた方々を祀る塔であるため、違和感を感じました。
恩納村にある忠魂碑は破損が激しく、戦後に軍関係の慰霊塔を感情的に破壊したことは知られている事実です。しかしこの具志頭で見た忠魂碑はあまりにもきれい過ぎるように思えました。あり得るのかどうかもわかりませんが、戦後に再建立されたものもあるようなことも言われています。
魄粋之塔にはお弁当を持って参拝に来られた年配のご夫婦がおられました。その姿はやはり沖縄戦に於いて多くの地元の方々が亡くなったことを表しているように思いました。建立目的の違うふたつの塔が並ぶこの場所は、戦中戦後の複雑な沖縄県事情を示しているのではないか…改めてそう思いました。 閉じる投稿日:2016/07/12
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具志頭城跡に残る壕です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/06(約10年前)
- 11
具志頭按司の居城であった具志頭城跡にあるクラシンウジョウは、沖縄戦の最中第9師団工兵隊によって構築された人工の壕だとされて... 続きを読むいますが、詳細はわかっていません。第9師団は沖縄での地上戦が始まる前に台湾へと移動になり、代わりに第24師団が後の任務に就くこととなりました。
当初日本軍は米軍の上陸地点を南部の海岸だと読んでいたこともあり、港川を向いた往時の銃眼が残っています。
昨年平成27(2015)年8月に施設管理を巡ってトラブルがあり、今後の入壕管理を行うNPO団体が効率良く収益を上げるように個人客の入壕を不可とする方針を打ち出したため、またそのことで一悶着あったようです。
今では入口に入壕に関する注意事項を張り出しているものの、連絡が取れないこともあり、入壕者が大きく減ったことが言われています。
元々この場所に来るには大型バスで集落内の狭い道を通らないといけないため、居住者からのクレームが多々出ていました。管理団体が変わることによって解決されると思いきや、そのままの状態で今日に至っています。
実際のところクラシンウジョウの?拝所?の利用は除くとは書かれているため、壕内に立ち入らなければ良いのかという解釈が罷り通っているようです。
私もその解釈に基づき通路から見学をさせて頂きました。そのことが良いのか悪いのかは今後の解釈によるとは思いますが、この団体が管理するもうひとつの壕がヌヌマチガマということであれば、使用目的が違うふたつのガマをひとつの括りで追体験をすることでは全く意味が異なるように思えます。漠然とした入壕としていて問題にならないことがある意味問題なのかも知れません。
公的機関が手続きの手間を省くために指定管理者を定めることは理解できないことではないにしても、結局展開が変わらなければ意味がないように思えます。施設と入壕管理をしてはじめて意味をなす・・・そう思えてなりません。戦場となり犠牲者も出しているこのクラシンウジョウ、後世に正しく伝えることができなければ壕は勿論のこと亡くなられた戦没者の御霊も浮かばれません。 閉じる投稿日:2016/07/11
1件目~20件目を表示(全29件中)
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