たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(60ページ)全1,843件
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- 基本情報
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投稿日 2016年08月17日
総合評価:5.0
波照間島の中央部、普通に陸の部分に立つ波照間灯台は、日本の有人島に於ける最南端の灯台です。元々は戦時統治下の昭和34(1959)年5月5日に琉球政府によって建てられ、沖縄の日本復帰と共に日本最南端の灯台でしたが、平成19(2007)年3月16日に沖ノ鳥島灯台の運用が開始されその座を譲りました。
灯台にしては海岸には建てられてはいません。それは八重山の鳩間島の鳩間灯台と同じですが、最も標高の高いところに建てることによって、灯台としての役目を果たしているようです。
中に入れるわけではありませんが、波照間島にいればどこからでも見える場所として、迷子になった時の?目印?とされることは、船舶だけではなく人も安全に誘導しているようでなにか面白さを感じます。- 旅行時期
- 2016年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 港からだと結構距離があります。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時間帯によりけりだとは思いますが誰とも出会ってはいません。
- バリアフリー:
- 3.0
- 灯台付近は舗装はされていません。
- 見ごたえ:
- 4.0
- あまり近い位置からだとわかり辛いと思います。
-
遠弥計赤蜂(オヤケアカハチ)と戦った長田大主(なあたうふしゅ)、彼の生まれた場所と伝わっています。
投稿日 2016年08月13日
総合評価:5.0
14世紀後半に於ける八重山の豪族とされるオヤケアカハチと長田大主は、同じ波照間島出身の幼馴染だとされています。石垣島に於いて琉球王府につくか否かで争いとなったこの二人ですが、結局は宮古島の豪族仲宗根豊見親を通じて琉球王府に伝わったことは?オヤケアカハチの乱?の首謀者であり逆賊とされてしまいます。
最も王府の軍勢が来るまでは住民を纏めていたアカハチ軍の勢いはあったとされるものが多いものの、約1,500名とされる反乱軍の武器と言えば鍬や鎌といったものしかありませんでした。石垣の地形を利用して王府の軍勢を一時的に凌いだものの、所詮多勢に無勢でありアカハチは打ち取られます。このアカハチの乱鎮圧の功労者として石垣島の初代八重山頭職に任ぜられたのが長田大主でした。
オヤケアカハチの乱以降急速に進んで行った琉球王国の八重山支配、それに必ず出てくるものが?人頭税?になると思います。乱の首謀者として逆賊になってしまったオヤケアカハチ、幼馴染でありながら兄弟を殺された長田大主にも同情の気持ちはあれど、長い歴史の中で八重山諸島が置かれた複雑な立場を表しているようにも思えます。
南集落にある長田御嶽、長田大主の生まれた場所として今なおその伝承が伝わっています。そして歩いてすぐの所にあるオヤケアカハチ生誕の地、この場所の近さが最後に大きな違いをうむことになる史実に、なにか複雑なものを感じました。- 旅行時期
- 2016年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 波照間港から車で15分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- どなたもおられませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足場は悪いです。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 石碑が残るのみです。
-
投稿日 2016年08月13日
総合評価:5.0
江戸時代初期、薩摩の指揮下に入っていた琉球王国が薩摩藩の要請を受けて作ったとされる物見台で、先島諸島では?火番盛(ひばんむい)?と呼ばれています。大陸に近い場所は昨今問わず交通の要所であり、特に中国への進貢船の航海状況や異国船の到来を監視し、その様子を火番盛伝いに番所や蔵元に通報し、琉球王府へ知らせたものだそうです。
珊瑚の岩を積み重ねたものは歴史を感じるものではあれど再建されたものであり、往時を知るものではありません。数年前に八重山諸島の火番盛で上げられた?狼煙?を確認すべく竹富町主催で?のろしリレー?が行われましたが、雨天だったこともありコート盛と鳩間中森の狼煙は確認できなかったもののその他は確認できたとの記録が残っています。
波照間の街中から港へと向かう道中にありますが波照間で最も高い標高がある場所ゆえ、夕陽を眺める場所としても有名です。一人旅の私には縁のないことですが、なにやらカップルで来ると…なんて噂もあるようです。訪れた時にちょうど2台の自転車が停まっており、石碑だけカメラに収めて港まで往復してまた戻ってくると…どうやらboys二人と判明。ちょっと唖然としましたがここは南国波照間島、それも良いだろう(笑)と思って翌日に訪れることにしました。
歴史ある火番盛は恋の聖地でもある…。なんか不思議な想いを持ってしまったコート盛りでした♪- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 波照間港から車で10分位。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 一組のカップル(?)がいました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 考えられてはいません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 標高があるので眺めは良かったです。
-
投稿日 2016年06月25日
総合評価:5.0
奥武山公園すぐそばにあるビジネスホテルです。少し古めなのは抜きにして、那覇市内で無料の駐車場を持つ宿泊施設ということで今回お世話になりました。
県道7号線沿いにあるものの少し駐車場が奥まった場所にあるためわかりづらいかも知れません。3階の喫煙シングルルームはビジネスホテルそのものの作りではありますが、朝食バイキングと駐車場が付いていてこの値段ならば十分過ぎる内容でした。
少し歩かないとコンビニがない場所ではあるものの、ボリュームがあり美味しい朝食バイキングは味わう価値ありです。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 1人1泊予算
- 5,000円未満
- アクセス:
- 5.0
- 奥武山公園からすぐ。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 駐車場と朝食バイキング付きならば安いです。
- 客室:
- 5.0
- 新しさはありませんがキレイなお部屋です。
- 接客対応:
- 5.0
- 良い感じでした。
- 風呂:
- 5.0
- 快適に利用できました。
- 食事・ドリンク:
- 5.0
- ボリュームも味もGOODです。
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープとエレベーターがあります。
-
投稿日 2016年08月06日
総合評価:5.0
波照間島。日本最南端の有人島として有名な場所ですが、南十字星を見ることができる展望台があることをご存じでない方もおられるようです。
波照間島星空観測タワー。旧波照間空港と高那崎日本最南端之碑の中間付近にあります。原則月曜日が休館となっており、その日一泊の宿泊予約を入れる際には大抵の宿泊施設はそのことを知らせてくれます。
レンタカーの保有台数が観光者数に比べ圧倒的に少ない波照間島では、夜に行われる星空観測ツアーに自力で行くことをお勧めはせず、宿泊施設その他が斡旋するものに便乗することを勧められます(道が真っ暗なので)。送迎は往復1,000円、但し宿泊者には無料で提供されているところもあります。
4月下旬から6月中旬までならば、天気が波照間島星空観測タワーの営業時間中に観測できるようですので、詳細は波照間島星空観測タワーにHPにて確認されることをお勧めします。尚付近には野生の?ヒージャー(ヤギ)?が多く生息しているため、落とし物も多く足元には注意が必要です。
やはり何度行っても飽きない場所ゆえ、できるならば月曜日を避けての宿泊をお勧めします。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 波照間島中心部から車で10分。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 結構夜は込んでいます。
- バリアフリー:
- 3.0
- 階段があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- プラネタリウムでも十分素晴らしい。
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投稿日 2016年08月06日
総合評価:5.0
昭和20(1945)年4月、沖縄本島では日米両軍の熾烈な地上戦が始まった頃、石垣に駐屯していた独立混成第45旅団司令部(旅団長:宮嵜武之少将)からの軍命で、波照間島民は西表島南風見の浜に強制疎開を余儀なくされました。
地上戦が行われた沖縄本島とは違い、八重山では主に船舶からの艦砲射撃と単発的な空爆があったとされてはいるものの、居住地が戦場になる確率が低い中で何故強制疎開が行われたのか?これが八重山地区に於ける戦争被害につながっています。
昭和20(1945)年波照間島に一人の青年学校教師が来島しました。沖縄県知事島田叡氏が発行した辞令を持ったこの青年は?山下虎雄?と名乗り、島の生活に馴染んで行ったとされています。しかし旅団命令が出た4月を機に豹変した彼は、実は陸軍中野学校の軍曹(諜報員)であり、離島残置要員特務兵であることを口にし、マラリアの罹患地である西表島への疎開を拒む島民を脅しに掛かります。この目的は波照間島に豊富にあったとされる島の牛・豚・山羊・馬、そして水を米軍の手に渡らないようにすることも理由にしたそうですが、結果として島民を疎開させた後日本軍兵士の食料にしたという記録が残っています。
しかし南風見に疎開せざるを得なかった島民を引率した一人である波照間国民学校校長であった識名信升先生は、逆境でありながらも南風見の地で入学式を執り行い、波照間の住民を勇気づけようとします。しかしマラリアの罹患地として知られていたこの西表島南風見田の地で恐れていることが5月に起こってしまいます。マラリアの罹患、その中でも?熱帯性マラリア?と呼ばれる?ハマダラカ?がマラリア原虫を媒介することによって引き起こされる病気に国民学校生徒が罹患し亡くなります。その後島民にマラリアに罹患する者が多発し、沖縄戦終結後の昭和20(1945)年8月に識名校長自らが石垣の独立混成第45旅団司令部に乗り込んで帰島の許可を得るまでの期間に島民の3割強にあたる552名がマラリアにて亡くなりました。そのうち66名が波照間国民学校の児童でした。
西表から波照間への帰島の際、識名校長が入学式を執り行った南風見田の?ヌギリヌパ?の砂岩の巨石に、?忘勿石 ハテルマ シキナ?と刻んだものが、戦後昭和28(1953)年に偶然発見されました。この場所で勉強した生徒から死者が出たことに対する追悼と、強制疎開により死者が出たという事実を決して忘れてはならないという思いから、?波照間住民よ、この石を忘れるなかれ?という意味を込め刻んだものだと後に答えたそうです。
そして当の波照間島に於いては昭和59(1984)年7月に、西表島にてマラリアに罹患し亡くなった子供達を慰霊するため、波照間小学校創立90周年を機に忘勿石と向かい合う位置に学童慰霊碑が建立され現在に至っています。
コート盛近くに建立されたものではあるものの、訪れるものも少なく寂しい場所となってはいます。また学童慰霊碑に向かい合う?忘勿石?は、保存という名目のもとでとんでもない改悪が行われました。史実を伝承することは確かに必要なことではあるものの、その残し方には賛否両論あることは間違いありません。私自身も一時は?なんでもかんでも残す?意見に賛成だったこともあります。しかし本末転倒な保存の仕方をすることが果たして正しいものなのかどうかは正直疑いたいことがたくさんあるのが現実だということに気付きました。
4tra琉球熱さんが仰るように波照間小の?星になった子供達?の歌詞、そして?学童慰霊碑?、?忘勿石?は、それぞれ別のものではあるものの、言っていることは同じであることは理解できます。しかしその保存を巡った論議にはあまりにも幼稚な?駆け引き?がされていることに対し残念に思う以外なにものでもありません。今後どのような展開がなされるのかは?知りたい欲望?はあるものの、なんとなくしっくりくるようなこともないように思えて仕方がありません。受け身的な観点で戦跡を見続けるということの限界が見えてきているように思えてならない今回の学童慰霊碑の訪問でした。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 波照間港から自転車で7分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- どなたもいらっしゃいませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 慰霊塔下までは行くことができます。
- 見ごたえ:
- 5.0
- やはり文面の重さを感じました。
-
投稿日 2016年08月06日
総合評価:5.0
波照間島公民館近くにある名石共同売店、宿泊施設や波照間島一日観光のバス停があるこの場所は島民の方はもとより観光客の利用も多い?波照間島一人の出入りの多いお店?です。そのため他の共同売店が取っている?昼休み?もなく、7:00〜21:00迄終日営業をされています。
取り扱う品物の数も多いため、波照間島滞在の折に利用することも多いかと思います。とはいえあくまでも島民の方々の生活物資を提供するために?集落単位?で営業されているため、不要な買い物を控えることは心掛けたいものでもあります。特に悪天候で航路が止まってしまった時には当然物資の入荷も止まってしまうため、宿泊先にお願いすることがベストではないかと思います。
時折本島のコンビニのように梱包材や箱を欲しがる観光客がいますが、離島でのごみ処分は私たちが想像しているような甘いものではなく、すぐにバラして回収に出すことが多いため、数日分の品物しかストックしない共同売店にはないことがほとんどです。波照間郵便局には?ゆうパック?の袋や箱(有料)があり、梱包材も貸して貰えます。隙間に詰めるものは宿泊先で新聞など貰えることもあるので、なんでもかんでも共同売店に要求することはやめて貰いたいと一観光客は思いました。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 波照間港より自転車で10分程。
- お買い得度:
- 4.0
- 輸送費も込みになっているため仕方がないでしょう。
- サービス:
- 5.0
- 話し込める雰囲気を私個人は気に入っています。
- 品揃え:
- 5.0
- 波照間島にしかないものがあります。
- バリアフリー:
- 4.0
- 段差はありません。
-
投稿日 2016年08月06日
総合評価:5.0
日本最南端の有人島?波照間島?。その中心部に位置する?波照間郵便局?は日本最南端の郵便局です。以前はATMのホリデーサービスが利用できず、予算ギリギリで来島し、高速艇の欠航等で延泊を余儀なくされた場合にフトコロの中身が…ということもありましたが、昨年ホリデーサービスの開始が始まり、土日問わずATMの利用ができるようになり便利にはなりました。
風景印は置いておられますがあくまで窓口扱いのものに限定されるため、平日の9:00〜17:00迄となります。ポストインすると八重山局の消印となるので注意が必要です。日祝日の利用ができるよう担ってからは何かと利用頻度が増えたように思える最南端の郵便局でした。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 波照間港から自転車で10分程
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 休み明けはやはり混雑します。
- バリアフリー:
- 3.0
- 階段があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 普通の郵便局には見えますが・・・。
-
投稿日 2016年08月02日
総合評価:5.0
滋賀県が拠点のスーパー平和堂が中核店となってできたショッピングモールです。しまむらやドラッグユタカが入っており、小規模ながら買い物以外でも楽しむことができます。
夕方には瀬田の唐橋の渋滞の影響がありまして、道が大変混雑します。中核店の平和堂が扱うPB商品もあり、飲みものやお弁当などの品揃えも豊富です。
お土産ものに関してはあまり豊富ではなく、石山寺門前のお土産もの屋さんや川向こうの平和堂石山店を利用するほうが賢明かと思います。
新しいお店だけあって喫煙所が店内に設けられており、タバコを吸う場所には困りません。TPOに分けて石山店と使い分けられている地元の方々が多いことには納得です。- 旅行時期
- 2016年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 石山駅から車で7分。
- お買い得度:
- 5.0
- スーパーなのでお得感はあります。
- サービス:
- 5.0
- マニュアル通りの良い感じです。
- 品揃え:
- 5.0
- 食品に関しては揃っています。
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープと自動ドア完備です。
-
投稿日 2016年07月31日
総合評価:5.0
前回に続き今回もお世話になりました。夏場でエアコンも使いながら走行するならばやはり?燃料満タン不要プラン?。それにワイド補償のコミコミプランはやはり魅力です。
貸出の際に事前登録を済ませていた予約を間違って消してしまい、少々時間を要したもののそれはこちらのミス。お借りした?モコくん?は、年式も新しく快適でした。
こちらのレンタカーにはほとんどUSBケーブルが備え付けてあり、直接結線がされていることからタブレットの充電もできることがメリットです。それにシガライターから引っ張るDCアダプターを持っていくとスマホも充電できます。
走行距離にも左右されますが今回は約300km走った結果、最後の最後で給油ランプが点灯し、エコ運転に徹してなんとか帰り着きました。
返車の時の手際が悪いと書かれているものが多いようですが、どこのレンタカー会社でも返車を飛行機の出発90分前に・・・と言われているため、少々時間をオーバーした挙句にさっさと送れというのは身勝手ではないでしょうか?
確かにLCCターミナルへは必ず行く訳ではなく、待ち時間ができるのはニーズのことからも仕方がないところはあるように思えます。レンタカー王手の送迎のようにピストン輸送ができるわけではないものの、収納スペースのあるマイクロバスと大型バスでの送迎を行っているのでそれ程待ち時間が長い訳ではありません。旅行会社の商品で選択の余地がなければともかく、個人手配をしても満足度は高いため、次回も利用するつもりでいます。- 旅行時期
- 2016年06月
-
投稿日 2014年11月22日
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投稿日 2016年07月30日
総合評価:5.0
白梅之塔上の壕。白梅之塔下の壕(自決之壕)から距離にして200m程離れた場所に位置します。山形の塔の脇を通り真山之塔向かって左側に小さな石碑が建立されており?白梅之塔上の壕?と刻まれています。
昭和20(1945)6月4日、第32軍司令部の解散命令を受け八重瀬岳中腹にあった第24師団第一野戦病院にて従軍されていた?白梅学徒看護隊?にも解散命令が出され、数人のグループに分かれて南部へと向かいます。その道中に8名が戦死し、残った方々は国吉台の白梅之塔上の壕を自決之壕に分かれて入ることとなり、その後再び看護補助要員として従軍されました。
同年6月17日真栄里にて米軍司令官サイモン・バクナー中将が戦死、そのこともあってか付近の壕やガマに対して米軍は執拗な?馬乗り攻撃?を仕掛けるようになります。その牙は武器を持たない白梅学徒達にも向けられ、6月21日には下の壕で6名が、そして上の壕でも2名が戦死し、1名は大火傷を負って米軍の野戦病院に運ばれたもののその後亡くなられました。
元々上の壕は患者を収容していた訳ではなく、野戦病院の資材庫と学徒達の休憩場所として利用されていました。しかし戦況の悪化とともにこちらにも重症患者が入ることになり、結果として多くの犠牲者を出すことになりました。
上の壕は流土や落盤もあり、内部には入れず?上の壕?の碑が建立されている場所からお参りするようになっています。白梅之塔よりも知名度は低く、参拝者とお会いすることもない場所ではあるものの、確かに白梅学徒隊がこの場所にいたことは紛れもない史実です。そのことを改めて感じたものの学徒犠牲者に手を合わせることしかできない自分に何かもどかしさを感じました。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
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投稿日 2016年07月29日
総合評価:5.0
黄金森の一角で南風原文化センターから沖縄陸軍病院址と悲風の丘を抜けると?飯上げの道?の表示が見えてきます。
陸軍病院南風原壕群が稼働していた数ヶ月の間、学徒看護隊として従軍していた沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒から構成されたひめゆり学徒が、病院壕からこの坂を超えて、集落の井戸まで行って飯を炊き運んでいました。砲弾の飛び交う中でのこの行動は、言うまでもなく命懸けの行為であり、この最中に砲弾に当たり犠牲となった学徒もいたことが記録されています。
そこまでいかなくても足場の悪い梅雨時期の地道であれば、当然足場は悪くただ運ぶだけでもバランスをとるのが難しい場所では、足を滑らせて飯をひっくり返したことも結構あったようです。
時代の流れと一言でいうのもなんですが、この急速に那覇のベットタウン化した南風原の街ゆえ、すべての戦跡を残すことは不可能であると判断されているところがあります。南風原文化センターから井戸につながる道は整地が決まっており、また飯上げの道も足場の悪さゆえ?遊歩道?が整備され天候関係なしに歩くことができるようになっています。
この南風原一帯の戦跡保存は方針が少し変わっており、そのまま残すのではなくその雰囲気を?見せるもの?にして見学して貰おうという意図が見えます。勿論そのことによってより多くの見学者に来て貰えれば、戦跡を知って貰う意図は叶うのかも知れません。しかしその反面今の整地された道を往時のものと錯覚し、内面が見えないままこの場を立ち去るものも多く出てくることを寄寓します。
そのままの姿で残すことが難しければ、少なくとも?整地した旨?を明記し、誤解を招かないようにしなければならないのでは…、そう思ったのは私だけではないのではないでしょうか。- 旅行時期
- 2016年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 南風原文化センターからすぐ。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた時には誰とも会いませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足の不自由な方は遊歩道をご利用下さいと書いてありました。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 今の道でも十分歩き難さを感じました。
-
投稿日 2016年07月28日
総合評価:5.0
爆弾低気圧が本州にあり、その影響で石垣島でも最低・最高気温がそれぞれ13℃と15℃という?まさかの天気?に遭遇。海に近づけば波に蹴散らされるし、バンナ公園まで言った後そのままバンナハイウェーをカッ飛んでついた先が?エメラルドの海が見える丘展望台?でした。
それなりの標高があるため、景色は広がっているのですがなんせ離島ターミナルが靄にかかっている状態。海すらも見えません。灰色一色の八重山ブルーはど・こ・だ〜と言っても天気が相手だと仕方がありません。
仕方がないので戻ろうか…と思った私の体を風がひゅっと押し出し、危うく階段から落ちそうになってしまいました。
このような時期だと大抵は誰にも会わないのですが、さすがにこの天気ゆえ行く場所がなかったカップルがいたりと珍しいことになりましたが、車から降りずに去って行かれました。
こんな時にくることもまずないか…と良いように考えてホテルへと向かいました。- 旅行時期
- 2015年12月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
-
投稿日 2016年07月28日
総合評価:5.0
現在では平和祈念公園に含まれる霊域として多くの慰霊碑が並ぶ摩文仁の丘ですが、実は以外にガイドブックには載っていないものでした。
この摩文仁の丘△89高地は、第32軍牛島満司令官と長勇参謀長の昭和20(1945)年6月23日黎明の刻(未明)とされる自決によって日本軍の組織的抵抗が終わったとされる場所であり、また沖縄戦の日本軍主力部隊であった隷下の第62師団藤岡武雄師団長と歩兵第63旅団中島徳太郎旅団長が自決した場所でもあります。
日本軍の組織的抵抗の終了ということは、兵士は勿論、それに巻き込まれた住民の多くが犠牲となった場所であり、その熾烈な戦いを繰り広げた場所であるという証拠が、摩文仁の丘に建立されている多くの慰霊碑ではないかと思います。
確かに慰霊碑の建立にあたっては色々と問題があったようで、摩文仁の丘頂上に建立された牛島司令官と長参謀長の慰霊碑?黎明之塔?が昭和27年という早い時期に建立され、なおかつその場所が…ということも未だ多く書かれていることではあります。しかし多くの犠牲者を出した場所であるにもかかわらず、ガイドブックに書かれていないから知らなかったという意見が多いのはちょっとびっくりしました。
沖縄の戦跡はネームバリューによって来訪者数が大きく変わると聞いたことがあります。それは取り上げる方の数の問題であり、それに興味を示す人の数の兼ね合いによって決まるという説を説いている方もおられます。反論はしたいのですが、残念なことにこれは事実です。しかし関連性が非常に高い平和祈念公園と摩文仁の丘に知名度の大きな開きがあることは正直びっくりしました。
確かに沖縄で戦争をした日本軍将兵の慰霊の意味が強い場所と言われればそうかも知れませんが、事実を知らずに行っていないという理由にはならないのではないでしょうか。
平和祈念公園では反戦運動は良く行われます。しかし摩文仁の丘で行われないのは人がいないから…という理由だけならば、意義すら疑わしくなります。沖縄には多くの慰霊塔があります。それを全て回るのは困難でしょうが、その存在する意味ぐらいは分かって欲しい…そう思えてなりせん。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 歩くと結構堪えるので体力に自信がなければ園内周遊バスの利用が賢明かと思います。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 慰霊の日はさすがに混雑していました。
- バリアフリー:
- 4.0
- ここの慰霊塔では考えられているものの全体的には…。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 景色は壮大なものがあります。
-
投稿日 2016年07月28日
総合評価:5.0
大津駅前に君臨していた平和堂グループのアルプラザ大津、閉店という噂がずっとあったものの営業を続けていましたが、平成28(2016)6月20日をもって閉店になったようです。まだ看板等はついたままではありますが、すでに解体工事に入っているため、隣接する大津駅も工事をしており、今まで改札内にあったトイレが改札外に設けられたりしています。
大津駅前でお土産も購入できる数少ないお店のひとつとして重宝していたので、残念ではあるものの、数年後フレンドマート(平和堂の食品スーパー)として生まれ変わるようなので期待したいと思います。- 旅行時期
- 2016年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
-
この大砲を知っていることはマニアと言われるのかも知れません。
投稿日 2016年07月26日
総合評価:5.0
陸軍の秘密兵器として開発された八九式十五糎加農砲(はちきゅうしきじゅうごせんちかのんほう)、大陸ではかなりの数が導入されましたが、沖縄戦に於いては二門が活躍しました。射程距離18kmととんでもない兵器ではあったものの、一発撃てば何百何千倍の攻撃を受けだという記録が残っています。その結果平川壕で埋まってしまい、一門は掘り出され真栄里まで部隊と行動をともにし、戦後米軍に接収されたものの、自衛隊基地などに展示されたことを経て、現在では靖国神社に奉納されています。しかしもう一門はその後も放置され、約60年もの間土の中に埋まっていました。結局壕を潰してまで掘り出された加農砲でしたが、平川壕のあった大里村役場(現南条市役所大里庁舎)前に一緒に出土したジャッキ等とともに展示されたのは平成15(2003)年のことでした。そして13年の月日が経ち、秘密兵器は野ざらしのままサビの塊と化し、役場の職員すら存在を知らない現実。確かに負の遺産ではあるものの、史跡となりうる壕を破壊してまで掘り出したものの扱いにはあまりにもお粗末ではないかと思います。
何かマニアックな物を探しているという顔が未だに頭から離れずにいるのは、私の被害妄想なのでしょうか?- 旅行時期
- 2016年02月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 南条市役所大里庁舎からすぐ。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた時は誰もいませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 舗装はしてあります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 大きさに圧倒されました。
-
投稿日 2016年07月20日
総合評価:5.0
第一次世界大戦後日本の委託統治下にあったサイパンには、多くの人々がサトウキビ栽培や製糖業などに従事するため海を渡りました。そして昭和16(1941)年の太平洋戦争勃発。サイパン・テニアン・マリアナ諸島は日本軍の?絶対的国防圏?の要所とされていたものの、昭和19(1944)年7月にはサイパン守備隊が玉砕し、住民を含めた残りの兵士たちは?万歳突撃?を敢行しさらに犠牲者を増やすことになりました。
一方スーサードクリフやバンザイクリフといった海岸から、飛び降りる自決を選ぶものも多く、1ヶ月の戦いの中で民間人の戦死者は10,000人にも達しました。移民としてサイパンに渡った方々も戦闘に巻き込まれ、砲撃から逃げ惑う中での戦死や自決を遂げた者も多かったことに繋がります。
サイパン移民の多くは沖縄からだったとされています。その移民の歴史の中で開拓を始めた黎明期に始まり、戦場となり軍人・軍属として戦い玉砕したまでの期間に於ける沖縄県民の戦没者12,826名を祀るために昭和38年(1963)年12月に識名霊園に建立された?南洋群島沖縄県人戦没者並開拓殉難者慰霊碑?となります。同じように沖縄を出てサイパンへと向かい、戦闘に巻き込まれて九死に一生を得た生存して帰還した方々の浄財によって建立されました。
戦後の南米も含め、沖縄県民の移民には多くの方が参加され、そのまま帰国することもなかった事実があります。理由は様々ありますが、やはり大きな理由は?しなければならない?背景だったことが挙げられます。それを煽ることも問題ですが、やはり全体的な貧困問題があったことも事実です。
沖縄県民の南洋群島沖縄県人戦没者並開拓殉難者慰霊碑というと、戦没者慰霊碑とはまた趣旨が異なり、沖縄戦に於ける慰霊碑ともまた異なるもののように思えます。しかし生還された方がいるにしても、第二次世界大戦開戦時には60,000人もの沖縄出身者がいたことは事実です。
一般的な慰霊碑とは異なり、普段は施錠されているこの?南洋群島沖縄県人戦没者並開拓殉難者慰霊碑?。複雑な沖縄の背景を垣間見るとともに、今さかんに言われる沖縄を取り巻く環境に繋がっているのではと思いつつ、手を合わせるしかできなかった私でした。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 識名霊園管理事務所近く。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 慰霊の日の準備がされていました。
- バリアフリー:
- 5.0
- 砂地ですが段差はありません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 沖縄戦とは違う戦争を垣間見ることができました。
-
戦後最初に建立された慰霊塔は?沖縄之塔?と言っても過言ではないでしょう。
投稿日 2016年07月14日
総合評価:5.0
米須霊域中心部にある魂魄之塔は、昭和21(1946)年2月27日当時の真和志村村長である金城和信氏を中心とした真和志村民の手によって建立された沖縄戦に於ける?最初の慰霊塔?です。戦争の終結により九死に一生を得た真和志村民は、米軍の命令によって真和志村の収容所に集められた後、食料確保の農作業を行うためここ米須原に集結します。
付近一帯は沖縄戦末期の激戦が繰り広げられた場所であり、皮膚や髪の毛が付着したままのご遺骨が散乱している状況でした。そのため遺骨収集を米軍に要請するも反米主義や皇民化主義に繋がることを危惧され、当初は許可がありませんでした。しかし土を掘っては遺骨が出てくる状況では農作業は一向に進まず、結果米軍も遺骨収集を認めざるを得なくなります。
金城村長自身ふたりの愛娘が戦死しており、今は敵も味方もないという信念から日米軍民問わず2万余柱の遺骨を集めて納骨堂に収め、墨書で?魂魄?と書かれたものにはじまります。その後収容した遺骨は合計35,000余柱にものぼり、沖縄で最初で且つ最大の鎮魂碑となりました。昭和54年2月に国立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨の多くはそちらに移され、分骨という形で魂魄之塔に残されています。
沖縄県には46都道府県の慰霊塔が建立されましたが、地元沖縄之塔はありません。戦後間もない物資のない時期に米軍から払い下げられたセメント等を用いて建立された魂魄之塔は、大理石や巨石を用いて建立された都道府県別慰霊碑と比較すると、一見するとかなり見劣りがするのは確かです。しかし食料増産のために集められたこの米須霊域の地で沖縄県民の手により集められた遺骨を納めるべく作られた魂魄之塔が、戦後70余年経った現在でも県民の心の拠り所になっている事実は間違いないことでしょう。
沖縄之塔が作られなかった一番の理由は、沖縄県のほとんどが戦場となり、多くの犠牲者を出しているため?場所が絞れなかった?という説もあります。集落や市町村単位で建立された慰霊塔の中心的存在というのが魂魄之塔の意味合いであり、慰霊の日や晴明祭等の故人を偲ぶときには多くの参拝者が訪れることからも想像がつきます。
都道府県別慰霊塔がセンスがないと岡本太郎氏は断言しました。そこまでは思わなくても、決して?見せる?目的で作られてはおらず、とにかく雨ざらしになっていたたくさんの遺骨に対し?慰霊の場所?として作られた魂魄之塔には、訪れる度に違う印象付けをしてくれる。新しいものにはまず見られない、そんな魅力をいつも感じます。- 旅行時期
- 2016年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- ひめゆりの塔から車で5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- パラパラとはいらっしゃいました。
- バリアフリー:
- 5.0
- 献花は可能です。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 素朴ながら力強いもののように見えます。
-
投稿日 2016年07月20日
総合評価:5.0
豊見城グスク、三山時代の1400年頃に後に南山王となる汪応祖(わんおうそ)が漫湖を望む見晴らしの良い高台に築いたことが発祥とされていますが、その後三山統一の戦いに於いて中山王の尚巴志に攻められて1429年に落城し南山は滅びます。
落城の際にどの程度の遺構が残っていたのかは定かではないものの、18・19世紀の冊封副使やペリー艦隊一行の記録には三重の郭から構成され五つの城門があったと記述されています。しかし沖縄戦や戦後の城跡公園の建設時にほとんどの遺構は破壊され、現在では見ることができません。
その城跡にのこる豊見瀬御嶽、歴史自体は定かではないところもあれ水や雨を司る龍記録されているそうです。そして豊見城城主汪応祖が中国で龍船による競漕を見て感動し、漫湖に浮かべて遊覧した際にこれを見た那覇・泊・久米の3村の人々が船を造って豊見城城下の漫湖で競漕を始めたのが、ハーリーの起源とされており、豊見瀬御嶽敷地内にはハーリー発祥の地の石碑が建立されています。
競漕の際には、ハーリー舟をチーヤ(津屋:漫湖にある小さな浮き島)に漕ぎ入れ、豊見城城内の豊見瀬御嶽に拝礼し、ユガフー(世果報:豊年、豊作)を祈願したといいます。 3村の拝礼は明治の廃藩置県後に一時途絶えていたものの、平成15(2003)年に?豊見城ハーリー由来まつり?として神事が復活し、毎年5月に豊見瀬御嶽で拝礼の儀式が行われており、平成20(2008)年からは?豊見城ハーリー大会?が開催されています。
御嶽という沖縄に於ける聖地であると同時に、現在閉鎖されている旧豊見城城跡公園敷地内にあるため、いつでも訪れることができるかどうかは確認できていないところもあります。慰霊の日には拝所参拝者はこのルートで可能と入口付近に書かれていたため行ってきました。それに加え年に一度神事の?ハーリー由来祭り?が開催されるときも入れるようです。
現在旧城跡公園が再開発中であるため、同じ状況が続くということではないので、もし行かれるならば問い合わせされてからの方が良いかも知れません。人通りがなくなった城跡公園ですが芝は刈られており、御嶽敷地からも漫湖やとよみ大橋等を望む絶景が楽しめました。- 旅行時期
- 2016年06月
- アクセス:
- 5.0
- 城跡公園内ですが立ち入れる日は決まっているようです。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- どなたもおられません。
- バリアフリー:
- 4.0
- 芝生敷きですが段差はありません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 他の御嶽と違って芝生敷きは目新しさを感じました。








































































