たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(65ページ)全1,843件
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真栄平集落の住民が集めた身元不明の遺骨数千体を祀った真栄平納骨堂に始まります。
投稿日 2016年05月30日
総合評価:5.0
山雨の塔を出発し僅かしか離れていない南北之塔に迷い迷って到着しました。
沖縄県南部糸満市真栄平は、沖縄戦末期に史上稀に見る地上戦が行われた戦場として多くの犠牲者を出しました。真栄平集落でも900名のうち600名の住民が犠牲となりました。戦後収容所から集落に戻ってきた真栄平の住民は、直ちに屋敷内や道路・田畑・山野に散らばっていた遺骨の収集をはじめました。中南部からの避難民、軍人等数千柱の身元不明者の遺骨を集めながら現在の南北之塔後方に位置するアバタガマに収め、昭和21(1946)年?真栄平納骨堂?を建立したことが最初になります。その後昭和41(1966)年には真栄平遺族会や篤志家のご芳志を受けて改築を行い、現在の南北之塔が完成したそうです。毎年6月23日に慰霊祭が行われており、平和の尊さを子々孫々に伝える行事として慰霊祭が行われていると真栄平自治会が建立した南北之塔由来分には書かれています。
なぜ南北之塔なのか…。これは知る人ぞしることになっているのかも知れませんが、この真栄平は沖縄戦終焉の地のひとつとも言われる激戦地帯であり、住民や学徒隊も多くの犠牲者を出しています。また沖縄戦に投入された将兵は日本全国で徴兵され、この沖縄へとやってきて、多くは故郷から遠く離れたこの沖縄の地で命を落としました。
沖縄に於ける住民の手による遺骨収集がされ、その後慰霊碑が建立されたものの特徴として?所属を問わない?という考えがあります。沖縄県民は勿論、戦闘を行った日本軍と米軍兵士を問わずその遺骨を収集し収めたもの。同様なものは多々ありますが、この南北之塔もそのひとつです。当初は真栄平納骨堂となっていましたが、恒久平和を祈念し永続に残す慰霊碑として?南北之塔?が建立、命名されました。南北問わずこの地で犠牲となった遺骨全てを慰霊するため、?南から北まで?という意味でつけられたそうです。
終戦直後に建立された慰霊塔に収められたご遺骨の多くは、現在国の事業として国立沖縄戦没者墓苑に転骨し祀られており、元来の慰霊塔には分骨という形で残されているものが多い現実があります。しかしその反面住民によって収骨された慰霊碑の多くは、住民の遺骨を多く集めており、自分のお墓には入れられないものの何らかの形でそのまま残したいという気持ちが込められています。南北之塔の場合現在約300柱の遺骨が納骨されており、その中には一家全滅を含む?無縁仏?ではあるものの、生前同じ集落の住民として家族同様に付き合っていた?知り合い?のものに他なりません。そのため永続的に同じ場所で供養したいという気持ちがあり、国の政策だからと言って首を縦に振らなかった事実もあるようです。しかし多くの慰霊碑に納められた遺骨が同様な扱いを受ける中、本来の意図とは違う取られ方をしてしまうこともあり、南北之塔でも建立時の不明瞭な扱いの部分を取り沙汰されてしまい、真栄里集落で激戦を戦って命を落とした第24師団歩兵第89連隊の部隊に所属していた北海道出身の兵士のうち?アイヌの兵士?を祀る慰霊碑として、噂だけが独り歩きしてしまった事実もあります。?キムンウタリ?アイヌ語で?山の仲間(同胞)?という意味ですが、塔の改修を行ったときに寄付を受けたアイヌ民族の元兵士の方が刻んだその一文によりヒートアップしてしまったというのがその経緯だったそうです。数年に一度?イチャルパ(アイヌ民族の先祖供養の儀式のこと)?がこの地で行われるときに、賛否両論者の小競り合いがあるそうです。ことの真実は該当者が既に亡くなっているためわからない…ゆえに揉め事も収まらないという状態のようです。
確かに?山の仲間?という意味には重みを感じるところはあります。第24師団司令部終焉の地に建立された?山部隊??雨宮司令官?から?山雨の塔?という事実も確認はできていることなので…。しかし思想論でこのような争いをするのはできれば辞めていただきたいように思えてなりません。戦争によって命を落とした人々が、せっかく静寂の地と場所を得たにも拘らずそれをぶち壊すことは…。慰霊という意味もこめて…そう思いました。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- ひめゆりの塔から車で15分位で行くことができますが、道がわかり辛いため注意が必要です。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- どなたもおられませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 凸凹はかなりあります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 塔建立の経緯を十分見聞できました。
-
投稿日 2016年05月30日
総合評価:5.0
摩文仁の丘慰霊塔群の中核的存在、それが国によって建立された国立沖縄戦没者墓苑ではないでしょうか。昭和54(1979)年2月25日に当時の厚生省によって建立され、現在では18万人余りのご遺骨を祀っています。沖縄戦に於ける中心的慰霊塔であるため、規模も大きく敷地面積8,528平方メートルは米須霊域に建立された東京之塔の敷地面積8,000平方メートルを凌いでいます。
建立から37年が経ち施設の老朽化が進んだことによって、墓苑の参拝所と献花台を担う東屋が老朽化し、改築準備中とのことで現在立ち入りが出来なくなっています。平成28年度中には建て替え工事が終わるとのことですが、現在は納骨堂前にて参拝や献花は行えるようになっています。
確かに戦争という?国家?の問題に於いて亡くなられた将兵・軍属・住民を祀るということは、国家事業なのかも知れません。しかし史上稀に見る激戦が行われた沖縄の地では、景色が変わり戦前の写真からは全く想像もできないほど景観が変わってしまいました。そこで立ち上がったのは、戦争を生き残った住民の方々でした。戦争によって住む場所を焼かれた上に戦後の米軍統治下の貧しい時代、払い下げのセメントなどを用いてあたり一面に散在していた遺骨を収集し、埋葬したのも他ならぬ沖縄県民の方々の手によるものでした。物資がない中で建立された慰霊碑は、決して豪華なものではありませんでした。しかし心の籠ったものとして数万単位での戦没者のご遺骨が祀られている他に類を見ないものだったに違いありません。確かに遺骨収集活動が進むに従って集められた遺骨の数は増加の一途を辿り、既存の慰霊碑では賄い切れない現実に直面します。そこで昭和32(1957)年、日本国政府が当時の琉球政府に委託し那覇市識名に戦没者中央納骨所を建設して、個々の慰霊碑に分かれていた遺骨をまとめて納骨することになったものの、次第に収骨数が多くなるに連れ中央納骨所も手狭になってきました。その後昭和47(1972)年5月15日に日本国復帰を果たした沖縄県に対し、昭和54(1979)年に国立沖縄戦没者墓苑が創建され、戦没者中央納骨所に収められていた遺骨を転骨されたことにその歴史は始まったとのことでした。
この経緯について?国難に準じた戦没者の遺骨を永遠におまつりするのにふさわしい墓苑を新たに造るべきである?との要望が沖縄県をはじめ関係遺族等から寄せられたとの理由が記載されてはいるものの、それを盾にして納骨されている慰霊塔から半ば強制的に転骨が行われたとの話も事実として残されています。お骨を納めていた多くの場所が壕やガマといった?聖なる場所?であった事実は加味するも、戦争を彷彿させる場所を閉鎖する意見もあったことには間違いはありません。納骨されていた場所に建立された慰霊碑が廃棄されたことは、その役目を終えたことによる?理由?に他なりません。
慰霊碑が建て替えられて新たに納骨堂を持つ慰霊碑の記述に?分骨を納めています?との記述があるのは、やはり国が一方的に国策としたことに対する?最大限の抵抗?のように読み取れるのは、私だけではないことのように思えます。
分骨の考えには賛否両論あり、現在でも様々な理由で行われているものではあれどひとつとして万人を納得させるものではないように思います。戦場に斃れ野晒しになった期間を経て集められた遺骨の魂には、一度得た?安らぎの場所?を追われることを良しとするものはないように思えてなりません。
確かに戦没者遺族の一個人が言ったとて変わるものではないことでしょう。しかしこの国立沖縄戦没者墓苑に収められている18万余柱の遺骨の数からは、沖縄戦に於ける戦没者の数とは若干の開きがあることに気付きます。この場所に収められていれている遺骨数は沖縄戦戦没者の約90%と言われており、逆に言えば遺族の手元に戻ったご遺骨は10%程にしかならないという事実です。
数十年前祖母の納骨の時に初めて祖父のことを知りました。骨壺なのかそのままなのかは聞いてはなかったものの、?沖縄の石ころひとつ?だったことに衝撃を受けた記憶があります。唯一の直血だった母親もなくなり、血筋の問題でこの話を聞くこともできなくなりました。その現実を考えれば唯一顔を知らない祖父に会えるのはこの国立沖縄戦没者墓苑だけということになります。
琉球石灰岩であるトラバーチン1,000個を積み上げられて琉球王家の墓を模した古来の技法で作られた大変立派なこの国立沖縄戦没者墓苑納骨堂。そしてそのカタカナの?コの字?型に作られていることは、祖国の平和の礎となられた同胞を温かく抱擁していることを意味していますと立派なことが記されていました。そして納骨堂に抱きかかえられるように安置されている石棺は、福島県産の黒御影石でどっしりとした万成御影石の台座にのっており、その石棺の中には沖縄の各戦場の象徴遺骨が白木の箱に分骨して納められているそうです。
この定義は何によるものなのかはわかりません。しかしたまたま同じ時に国立沖縄戦没者墓苑に晴明祭(シーミー:沖縄の先祖供養の行事)で訪れておられたご夫婦にお会いしました。ご主人のお父さんが沖縄戦で亡くなられたそうですが、若い(?)内地からの訪問者はどうやら珍しい様子でした。一世代違うと年齢もだいぶ変わるということのようでした。
思うところは多々あり複雑な由来があるこの国立沖縄戦没者墓苑したが、現在ではやはり沖縄戦戦没者の御霊が納められている聖なる場所になっているのに違いありません。過去の問題点を含めても?慰霊の気持ち?だけはどんなことがあっても忘れてはいけない場所には違いありません。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 沖縄県営平和記念公園駐車場から徒歩15分位、園内周遊バス利用が便利。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 一組のご夫婦がいらっしゃいました。
- バリアフリー:
- 5.0
- 段差はありません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 参拝所の東屋が工事中ですが、厳か感は伝わってきます。
-
投稿日 2016年05月30日
総合評価:5.0
摩文仁の丘慰霊塔群の中腹にある?立山の塔?は都道府県別慰霊塔で富山県のものとして昭和40(1965)年11月5日に建立されました。立山の塔には、沖縄戦戦没者876名と南方諸地域戦没者13,996名が合祀されています。
都道府県別というよりは摩文仁の丘に建立されている慰霊塔の中で目を引く存在となって入ることは高さ約10mの斜塔、つまり真っ直ぐではなく斜めに建っている塔のデザインかと思います。先の尖った五角形の斜塔には、故郷や肉親のことを思いつつ南海で散華した将兵の悲しみを表していると書かれています。
立山の塔前面には富山県の銘石である常願寺川の油石と万成石がはめ込まれており、その他の資材もすべて郷土産の石材が使用されて作られているそうです。県内産の石材を用いて建立されていることは他の都道府県別慰霊塔と同じ考えで建立されているものの、この?斜塔?という他に類を見ないもので建立されたのは、建立に携わった方々の想いがあるものの、多分一般の人間にはわからないことかと思います。経緯はともかく公募で募った富山県の秀峰である立山の名を被せたのは、やはり富山というと立山という概念的なものによるもののように思います。建立の碑文に刻まれている?立山の言葉に県民の強靱、不屈の精神と御霊の悲痛な心情を表現し、全県民の哀悼と平和希求の一念が込められている。?との言葉にはなかなか理解に苦しむところはあるものの、それはやはり富山県民の考えに基づいた理由であることには間違いありません。
形状で目を引く立山の碑、その視覚的特徴を体験するために尋ねる価値は大いにあるように思います。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和記念公園駐車場から徒歩20分、園内周遊バスの利用が便利です。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 平日の夕方はどなたもいませんでした。
- バリアフリー:
- 4.0
- 塔に上がる以外は段差はありません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 斜塔は絶対に目を惹きます。
-
投稿日 2016年05月30日
総合評価:5.0
摩文仁の丘慰霊塔群の中腹に位置する静岡の塔は、静岡県ご出身の沖縄戦戦没者1,607名と南方諸地域戦没者38,802名の計40,409名を合祀し、昭和41(1966)年4月30日に建立された慰霊塔です。
建立の経緯には他の慰霊塔ではあまり書かれていないことが刻まれており、元々県の方針としては沖縄県護国神社の復元費用の分担を考えており、慰霊碑の建立は当面見合わせるとの意見があったようです。しかし都道府県慰霊碑の建立が進む中やはり静岡県だけは…という遺族や県民の意見にはならず、静岡県戦没者沖縄慰霊塔建立奉賛会の発足とともに慰霊塔建立の話が進み、実現に至りました。
この静岡の塔ですが、都道府県別慰霊碑の中では具体的にわかる内容が目につき、塔前面に刻まれている?静岡県章?と秀峰富士山だとほぼわかる?山のかたち?をモチーフにしたレリーフがあります。戦没者の御霊をモチーフにそれを守るという象徴的なつくりではないものの、一見して静岡だとわかるように作られていることには、戦争により故郷を遠く離れて亡くなられた戦没者の御霊を?ここだ!?と知らせているように感じました。千差万別色々な考えのもと建立された都道府県別慰霊塔、そのひとつひとつに込められた願いを感じるべく回って行くことも興味深いことでした。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和記念公園駐車場から徒歩15分、園内周遊バス利用が便利。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れたときは誰もおられませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 塔へは段差はあります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 一見するだけでわかります。
-
投稿日 2016年05月30日
総合評価:5.0
摩文仁の丘慰霊碑群が立ち並ぶ中間あたりに群馬の塔は建立されています。先の大戦に於ける群馬県ご出身の沖縄戦戦没者847名と南方諸地域戦没者29,942名の30,771名を合祀し、昭和38年2月1日に建立されました。
一見するだけでは岩山に石板を合わせたように見えますが、この岩山は沖縄戦戦没者のご遺族から送られた故郷の石を散りばめて造られているものであり、上部の石板は故郷の群馬に向けて手を合わせている姿をモチーフとして建てられたもののようです。
現在まで4回の改修工事を行っており、最も新しい改修工事碑には、違和感を感じる参拝者に対するお礼の言葉が書かれていました。これも確かに時代背景によって変わってきたもののようには思いますが、元々群馬の塔の建立碑文には特徴的なものがあり、知る人ぞ知るもので有名でした。?大東亜戦争における沖縄での戦いは、当時、日本軍と全沖縄県民が一体となってあたり、その激戦の様相は、非常に凄絶なものがあった。この戦場となった現地に沖縄と南方諸地域などで戦死した群馬県出身の戦没者を慰霊し、併せて世界平和を祈念するため、「群馬の塔」が建立された。?つまり沖縄戦に於いて沖縄県民のことに触れているというものですが、これは当初群馬県と京都府のものだけであったそうです。もっとも群馬の塔の碑文には、軍と沖縄県民の一体感が強調されているのに対し、京都の塔では沖縄県民の被害について共感と友好を強調しているといった対称的な立場で書かれているものであり、全く同じという訳ではありません。
摩文仁の丘慰霊碑群は、建立者が違うだけで同じものという言い方をされることもあります。しかしその碑文には色々と特徴的なものがあるため、それを知っているといないのとでは大きな開きが出てくるように思います。散歩がてら歩いて慰霊碑群を回ると興味深いことが新たにわかるかも知れません。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園駐車場から徒歩15分、園内巡回バス利用が便利。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 参拝者は誰もおられません。
- バリアフリー:
- 4.0
- 塔には段差があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 碑文に見入っていました。
-
本来ならば後方任務に就くはずだった風部隊の戦没者を祀っています。
投稿日 2016年05月29日
総合評価:5.0
風部隊とは、戦況気象情報・基地通信・整備・燃料補給・整備といった後方任務に当たっていた部隊でした。昭和19年(1944年)10月10日の十・十空襲以降第32軍の指揮下に入りました。
米軍の上陸以降、壊滅的な被害を受けた軍の通信網に代わり大本営や関係部隊に対し戦況を報告するなどの通信関係業務を行っていましたが、戦況の悪化に伴い軍司令部や主力部隊とともに南部へと撤退し、結果最前線にいたことになり多くの将兵が帰らぬ人となりました。
沖縄戦に於いて多くの民間人が犠牲となったことは周知の事実ではあるものの、通常ならば前線に立つことがないだろう後方部隊には、同じ軍の中でも差別意識があり、戦闘訓練や武器の所持すらままならなかったのも事実です。軍人という括りで十把一絡げにしてしまいがちですが、対抗手段を持たずして最前線に置かれることは、想像を絶する恐怖感を持っていたのではないでしょうか?
477名の戦没者を祀る一方、運良く助かった生存者からなる航風会が建立し守ってきた風部隊之碑ですが、将来的に必ず起こる会員数の減少による碑の運営問題や無縁化を防ぐべく平成24(2012)年1月に?碑の処分に関する覚え書き?を沖縄県平和記念財団と交わされています。戦後70余年が経ち、人間の命には限りがある現実を目の当たりにしたように感じました。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 健児之塔駐車場より徒歩5分くらい。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 人通りはありますが、参拝者はおられませんでした。
- バリアフリー:
- 4.0
- 塔へは坂を上って行く必要があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 人の人生には限りがある現実にはもの悲しさすら感じました。
-
投稿日 2016年05月29日
総合評価:5.0
摩文仁の丘都道府県別慰霊塔のひとつ茨城の塔は、沖縄戦戦没者610名と南方諸地域戦没者38,200余名を合祀し、昭和39(1964)年11月22日に建立されました。
少し他の都道府県別慰霊塔とは異なる作りがされており、茨城の塔と刻まれた?塔身?の上に?平和?をモチーフとした球が置かれています。塔身はくり抜かれており、銅板で作られたふたつの箱が収められています。中には戦没者名簿や遺品、塔建立時に遺族や県民から寄せられた香華料の封筒などが密封し保存されています。
作りからすると、戦没者の御霊によって現在未来の平和が支えられていることになるため、製作意図は他の都道府県別慰霊塔とは少し異なるように思います。しかし多くの犠牲者によって平和が保たれているとの考えは、やはり共通したものでしょう。
製作意図によって表現される形が変わることはやはり興味深いことだと思います。そんなことを考えながら立ち寄りたい場所であるように感じました。- 旅行時期
- 2016年04月
-
投稿日 2016年05月28日
総合評価:5.0
逓魂之塔は、沖縄戦に於いて戦没された郵便・通信関係者428名の慰霊塔として昭和40(1965)年6月23日に建立されました。
昨今の分割民営化の代表的な職種であり、敷地内に植えられた植樹も郵政大臣・総務大臣・電電公社・NTT・日本郵政など様々な代表者の名前が見受けられます。
戦前・戦中・戦後と目まぐるしく管轄が変わった職種なれど、やはり戦時下という環境下ではなくてはならなかった仕事には違いありません。
戦没者の慰霊は勿論、その複雑な社名変更も伺い知ることができる・・・そんな不思議な場所のように感じました。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
-
投稿日 2016年05月28日
総合評価:5.0
摩文仁の丘中腹部、都道府県別慰霊塔のひとつであるのじぎくの塔は、先の大戦に於ける兵庫県ご出身将兵他3,073名を祀っています。慰霊塔の名前であるのじぎくは、公募で兵庫県県花がのじぎくであるために名付けられました。
昭和39(1964)年6月13日に建立され、公募によって名付けられました。一般的な塔とは趣が異なるとされていますが、塔基壇に置かれている主碑である球状のみたま石は戦没者を、またみたま石を挟み込む2枚の石板?合掌石?が遺族や県民の手を象徴するものあり、戦没者の芳名が刻まれている背部の石板とともにみたま石、すなわち戦没者を自然の厳しさから守るように建立されている背景は、やはり故郷を遠く離れて亡くなられた御霊を慰霊する他府県の慰霊塔と同じものを感じます。
最終的な想いは古今東西変わりません。その表現形を知る意味でも訪れてほしい場所です。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
-
投稿日 2016年05月28日
総合評価:5.0
摩文仁の丘への登り口途中にある都道府県別慰霊塔のひとつ房総之塔は、先の大戦に於ける沖縄並びに南方諸地域での戦没者35,693名を祀っています。うち沖縄戦の戦没者は1,608名で、昭和40(1965)12月3日に建立されました。
塔中心部の玉魂には建立当初は戦没者の遺品の陶器を散りばめたものでしたが、平成5(1993)9月の台風で破損し、同年12月3日県花の菜の花と千葉県を表現した波をモチーフとした現在の玉魂に改修されました。また旧玉魂は現在では見ることができないものの、塔後方部に埋納されています。
玉魂という戦没者の魂を両手で包むように守り安らかに眠って頂こうという気持ちと、現世の平和と子孫の繁栄を祈念する願いは、多くの慰霊塔に共通するものです。しかしその表現の方法は個々の慰霊塔ごとに異なっており、その建立背景を含めた経緯を知ることによって一層興味深いものになるように思います。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園駐車場から徒歩10分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 平日の午後には誰もおられませんでした。
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープが完備しています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 目を惹く作りです。
-
投稿日 2016年05月27日
総合評価:5.0
沖縄料理のチェーン店のひとつなび家イオンモール南風原店は、2階のフードコートにあります。券売機で代金を支払うファーストフード店のひとつではあるものの、なかなか本格的な料理が出てくるので期待は裏切らないお店でした。
ゆいレール首里駅からのシャトルバスも運行されており、また豊見城道路南風原北インターチェンジからすぐの抜群のロケーションにあるため、夕食時には少し遅いかなという時間でしたが、子連れの家族で結構混み合っていました。
今回はトーフチャンプールを注文しましたが、味も薄すぎず濃すぎずでちょうどいい塩梅でした。いつもは宿泊に二食をつけるためあまり?食べ物屋?には立ち寄りませんが、値段も含めこんな店もあるんだなぁと改めて思いました。今後も機会があれば立ち寄りたいお店です。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 利用形態
- ディナー
- アクセス:
- 5.0
- シャトルバスもあり、南風原北インターからすぐです。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- この内容では安いです。
- サービス:
- 5.0
- 普通ですが悪くはありません。
- 雰囲気:
- 5.0
- 広いフードコートなので圧迫感はありません。
- 料理・味:
- 5.0
- なかなかクセになるお味でした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 段差はありません。
- 観光客向け度:
- 5.0
- 手軽な金額で沖縄料理が堪能できます。
-
愛媛県のご出身で沖縄戦で戦没された将兵2,039名を祀っています。
投稿日 2016年05月27日
総合評価:5.0
房総の塔向かいにある愛媛之塔は、愛媛県ご出身の沖縄戦戦没者を祀る都道府県別慰霊塔です。建立当初は2,077名を祀っていましたが、後に2,039名に訂正されています。沖縄戦の戦没者が多いのは沖縄戦を戦った主力部隊第24師団隷下の部隊第22連隊が?伊予の肉弾連隊?と呼ばれた愛媛県で結成された精鋭部隊が昭和20(1945)年6月17日に米軍の馬乗り攻撃を受け、真栄里に於いて連隊司令部が玉砕しています。
その地には栄里の塔が戦後建立され、戦闘に巻き込まれて犠牲となった住民を含めた遺骨12,000余柱が祀られています。連隊旗は後を託された将兵の手によって第24師団司令部壕に運ばれ、やはり玉砕した第89連隊旗とともに奉焼されました。
戦争の是非論を今更語るのではなく、理由なく慰霊塔が作られたのではないという事実です。現在では風光明媚な場所を背景に建てられてはいるものの、70余年前にはどんな景色が広がっていたかを考え、それを踏まえた上でどうすれはいいのかを考える時期にさしかかっているのではないでしょうか。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和祈念公園駐車場から徒歩10分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 平日午後は誰もいませんでした。
- バリアフリー:
- 4.0
- 塔に上がるには段差があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 風光明媚な場所が背景なだけに往時を考えさせられます。
-
投稿日 2016年05月26日
総合評価:5.0
那覇市奥武山公園隣にある沖縄県護国神社は、私が訪れたことのある他の護国神社とは少し違うものを感じました。日清・日露戦争以降の戦死者を合祀したことに始まりがあるのは同じですが、その後国難に殉じた…という点が違います。通常ならば都道府県別の太平洋戦争の戦没者とそれ以降の警察や自衛隊、消防等危険と隣り合わせの仕事に就いていて殉死された方を合祀されていますが、沖縄県の場合、本土ご出身も含めた沖縄戦の戦没者並びに戦争に巻き込まれて亡くなられた一般住民、遭難学童及び文官関係の戦歿者までも合祀されているという特徴があります。その数約178,000名、沖縄の地がいかに激戦地であったかを物語る数字に他なりません。
合祀の内容にしてはわかりませんが、戦場となった場所ゆえ存在感を感じる比較的新しい?傷痍軍人夫婦の像?になにか言葉にできない?訴えかけ?を感じたのは、知識がなくともこのような光景が事実であったと想像できることに他なりません。
社務所を残して焼失した沖縄県護国神社も戦跡のひとつとして思想信教問わず立ち寄り地として頂きたく思います。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 奥武山公園内にあります。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 夕方には誰もいませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 階段はあります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 護国神社も沖縄ならではと感じました。
-
投稿日 2016年05月26日
総合評価:5.0
知念郵便局斜め向かいにある?がんじゅう駅・南城?、以前は斎場御嶽近くまで車で行くことができましたが、現在ではこちらの駐車場に止めて歩いて向かいます。平日午前中だったこともあり団体客が入っておらず比較的空いていました。
斎場御嶽の入場券の半券には、お土産物を買うとポストカードが貰える特典がついていました。ここから斎場御嶽まで徒歩15分ほど、そして見学には約1時間程度は必要なので2時間位は時間を見ておいた方が良いと思います。また海側へと進むと知念岬公園などもあり、時間があれば沖縄の?場所によって違う海?を堪能できます。
敷地内にある?幸せの架け橋?は、ガイドブックやタウン誌等で?パワースポット近く?ということが取り上げられてから訪問者が急増したそうで、施設全体ではそれ程混雑していなくてもなぜかここだけは人がいる不思議な現象が見られます(笑)。皆さん良縁があると良いですね〜(爆)。
ちなみにこちらではライターは売っておられません(泣)。途中で石が飛んでしまったので探していると「置いていないんです…」とつれない言葉を頂きました。ライターは事前に調達しましょう。
レンタサイクルも扱っておられるので時間が許せば、海沿いの道をチャリで疾走するのは気持ちがいいと思います♪あと琉装体験も安くで体験できるようでした。- 旅行時期
- 2016年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 空港から約1時間。
- お買い得度:
- 4.0
- 観光地のお土産物屋よりもは安かったと思います。
- サービス:
- 5.0
- 素朴な感じで良かったです。
- 品揃え:
- 4.0
- 普通でした。でもライターはありません(笑)。
- バリアフリー:
- 4.0
- 段差はありませんが通路は広くありません。
-
投稿日 2016年05月25日
総合評価:5.0
奥武山公園の一角にある沖宮(おきのぐう)は、創建は不明ではあるものの琉球王朝尚金福王の時代である1451年との記録があります。一説には源為朝が琉球に逃れてきた頃とも言われていますが、300余年のズレは違和感を感じます。那覇の港より発見されたといわれる古木を祀り、中国往来の進貢船や薩摩往来の貢船、そして離島航路などに関わる航海安全の神として国王以下一般の尊祟を集めていたそうです。
創建当時は那覇埠頭付近にありましたが、築港工事の際に同じく琉球八社のひとつである安里八幡宮の境内隣接地に遷座され、昭和13(1933)年には本殿が国宝に指定されますが、沖縄戦により焼失し、戦後昭和36(1961)年に通堂町へ仮遷座した後、昭和50(1975年)年に奥武山公園内へと遷座し現在に至ります。
沖縄の神社というのはやはり特殊な感じを受けることがある…その言葉には何となく頷いてしまうところもあります。本土の神社が景色に馴染んでいることを考えると、沖縄では少し浮いているように思えてなりません。しかし結局は沖縄戦で焼失した国宝が鎮座していたことには違いなく、それが戦争という破壊行為によってなくなってしまった事実は消えるものではありません。思想信教でとやかくいうのは簡単でも、最終的に今と変わらぬ姿を続けて行く…そういう思いは皆さま同じなのではとあらためて思いました。
その気持ちが沖縄へ来たら沖宮に立ち寄ると楽しいものになるという伝説に繋がっていて欲しいものです。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 奥武山公園から歩いてすぐ。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 平日の夕方は空いていました。
- バリアフリー:
- 4.0
- スロープは作られているものの勾配は急です。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 荘厳な建物です。
-
投稿日 2016年05月25日
総合評価:5.0
那覇空港南ウイング28番ゲート入口付近にあります。最初は何か軽く食べようかと思っていましたが、まさかのアクシデント発生でその余裕もなく、飲み物だけを購入して搭乗ゲートへと急ぎました。JAL系キャリアの利用であれば勿論の、JetStar利用の際も28番ゲートからバス搭乗だと最後のお店になるので、機内消費分を購入するには最適なロケーションかと思います。ただ団体利用があったりすると界隈のお店も含めて大変混雑するため、その点は注意が必要です。
- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 500円未満
- 利用形態
- その他
- アクセス:
- 5.0
- 南ウイング28番ゲート手前。
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- それなりにはします。
- サービス:
- 5.0
- 空いていれば普通だと思います。
- 雰囲気:
- 5.0
- 最後に沖縄を味わえるお店です。
- バリアフリー:
- 3.0
- 通路はあまり広くはありません。
- 観光客向け度:
- 5.0
- 最後に沖縄を味わえるお店です。
-
日本最南端の吉野家です。
投稿日 2016年05月25日
総合評価:5.0
糸満市潮平国道331号線沿いにある吉野家331号線糸満店は、何気に見た感じでは普通の吉野家店舗と変わらないものの、実は日本最南端の吉野家のお店だそうです。入口手前に?日本最南端の吉野家?の?顔出し?が用意されており、特別な場所の店舗のように思いました。
朝食をとろうと向かったのですが、駐車場が少しわかり辛く行くまでに少し時間を要しました。朝食メニューは全国共通だと思っているとなんと?豆腐ぶっかけ飯?なるメニューが存在、思わず頼んでしまいました。塩味の効いた?ゆし豆腐?をベースに作られているため、あっさり主義の私も美味しく頂くことができました。素泊まり手配の時は今後も利用したいと思います。- 旅行時期
- 2016年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 利用形態
- 朝食
- アクセス:
- 5.0
- 国道331号線沿いです。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 値段的には満足です。
- サービス:
- 5.0
- てきぱきとした対応はいい感じです。
- 雰囲気:
- 5.0
- 混雑していなかったのでゆっくりできました。
- 料理・味:
- 5.0
- あっさりとしたお味でした。
- バリアフリー:
- 5.0
- 自動ドア完備です。
- 観光客向け度:
- 5.0
- 沖縄オリジナルメニューを楽しむのもありかと思います。
-
投稿日 2016年04月20日
総合評価:5.0
自転車で15分の距離にあるはずの宿から車で1時間以上かけて到着した轟の壕は、なんと国道331号線から少し入った場所にありました。
沖縄戦末期に最後の官選沖縄知事である島田叡氏と沖縄県警本部長荒井退造氏が最後の地方行政の本部として使われたものであり、県庁としての業務を終わらせ、職員に解散を指示してふたりは摩文仁の丘にある壕へと移ります。
その後は軍民混在の壕として数多くの犠牲者も出しましたが、敗走して轟の壕へと入り先に捕虜となった海軍准士官とハワイに居住経験のある女性が米軍との交渉に入り、結果として多くの人命が救われた場所でもあります。
団体での利用もされることも多いため、通路は整備されており、他の壕に比べると格段に歩きやすいものにはなっています。しかし壕での生活体験にも多々書かれているように?水?に関しては困ることのなかった場所ゆえ、天候によっては取り巻く環境が大きく変化するため、個人での入壕には細心の注意が必要です。
道路からは階段を上って行かなければならないため、すぐにわかるものではないものの、壕の入口が大きく開いていることから、当時でもかなりわかりやすかったことが伺い知ることができます。奥まで入り込もうとすればできなくはないものの、決して足場が良いわけでもなく、勿論真っ暗闇であることには違いないため、ここまでで止めるという勇気が必要かと思います。
鍾乳洞のようですがあくまで拝所のある聖地であり、多くの方々の命が失われたお墓の場所には違いありません。軽はずみな気持ちで訪れる場所ではないことを理解し、訪れなければいけないように改めて感じました。- 旅行時期
- 2016年04月
-
投稿日 2016年04月19日
総合評価:5.0
No Plan 沖縄の旅2・3泊目に利用しました。3回目となりますが人とお食事、そしてお部屋の素晴らしいは知っているものの、今回は改めて?地の利?を発見しました。小波蔵からは?伊原第ニ外科壕跡?や?轟の壕?が徒歩や自転車で行くことができる距離に位置し、車を停める煩わしさを考えずに向かえます。この話を今回教えて頂き大変助かりました。
すぐ近くにはこの時期の糸満の風物詩?電照菊?栽培の幻想的な景色も楽しめます。何度来ても新たな発見があるこのペンション喫茶南の楽園ですが、4回目にはどの様な新しいことを体験できるのかワクワクします♪- 旅行時期
- 2016年04月
-
投稿日 2016年04月27日
総合評価:5.0
沖縄の旅with No Planの旅の締めくくりは、やはり糸満市大度のみん宿ヤポネシアでした。当日昼頃に予約を入れてくる輩はほとんどいないようで、電話に出た奥さんもちょっとびっくりされておられるようでした。
到着がいつものごとく遅くなり、お疲れモードのおチビさん達。2ヶ月前を覚えていないかな(笑)。
奥さんお手製のお食事も頂き、ウダウダの旅もなんとか形作れたのは、やはり泊まり慣れたヤポネシアで締めくくれたからだと思います。
さあさあ次は6月22日の一泊を帰りがけに予約を入れさせて頂きました。4回目となる次回も楽しみです!- 旅行時期
- 2016年04月











































































